会津藩藩祖 保科正之について

 保科正之という人物を考察するとあることに気づく。個人では歴史的に目立たないポジションに居ながらも、その存在感は後世まで重みがあったということだ。
 正之は将軍の異母弟として生まれたが、成人するまで不遇ともいえる道を歩んできたことを考えると、その後の彼の思想というものが理解しやすい。
 正之は朱子学を重んじ、それを自身の行動指針に置いてきた。朱子学については今さら説明するほどでもないが、『忠君』たる姿を思想の力点に置いている。正之は将軍秀忠の庶子であるがゆえに、高遠3万石という同じ兄弟でも駿河大納言とは比較にもならないような冷遇を受けていた。ただ考え方によっては、その出生の経緯を見ると、高遠3万石でも過分すぎたかもしれない。
 そんな将軍家一族に連なる正之を、高遠藩藩主という閑職から会津藩主そして将軍後見職へと引き上げてくれたのが、兄であり将軍の徳川家光であった。
 朱子学の思想を濃厚に受容している正之にとって、兄のそうした計らいを自ら死の床に就くまで忘れることはなかった。また、その恩に報いるためには朱子学でいうところの『忠君』を実践することであると、正之自身が確信していたはずである。ゆえに晩年、会津藩の家訓で将軍家への忠義を示し、その家訓を無視するような藩主は会津の藩主ではないとまで言い切っている。
 このような会津的イデオロギーが、幕末の会津藩の存在になってゆくのである。

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