藤原氏VS非藤原勢力
長屋王の怨念であったかは定かでないが、当時猛威を振るった天然痘にかかって死んでしまった藤原四兄弟亡き後に権力を掌握したのが橘諸兄であった。
諸兄は、藤原四兄弟存命中の地位はさして高位であったとは言えなかったが、前述した天然痘により藤原四兄弟をはじめ、当時の権力中枢にいた大半の人物は死に至ってしまったことで、その時に天然痘の被害を受けずにいた諸兄が、右大臣に就任することになった。非藤原勢力にとっては不幸中の幸いとでも言うのだろうか、こうして橘諸兄を中心とする非藤原政権が誕生するのである。
当時の天皇はあの有名な聖武天皇である。聖武天皇は深く仏教に帰依し、多くの仏教政策を実施(奈良の大仏の建立や、全国に国分寺・国分尼寺を建設)したが、政治は他人任せで何度も遷都を繰り返すなどの気まぐれ天皇であった。自らが在位していた時代に天然痘や反乱などが発生したことで精神を病んでしまったことがこうした行動に駆り立てたとも言われているが事に真相は如何に。
さて、その聖武天皇を悩ました反乱だが、ある人物が抱いた不満から起ったものだった。
藤原四兄弟・宇合(式家)の長男である藤原広嗣は、橘諸兄政権になると都から大宰府へ赴任を命じられた。このことが左遷だと憤慨した広嗣は現地九州で兵を集め挙兵し、朝廷が派遣した兵と戦った。これが世に言う藤原広嗣の乱である。開戦当初は優位に戦いを進めた広嗣だが、次第に劣勢となり、結局この戦いに敗れてしまった。
広嗣は逃亡するも捕らえられ斬首、それに連座させる形で式家の人間も処罰された。
数年前までは光明子を擁して隆盛を極めていた藤原家の一部が、今や賊に成り下がってしまったのである。
鎮護国家を標榜し、政権中枢に玄昉らの僧を用いるなどして藤原氏とは一線を画した聖武天皇であったが、749年娘の阿倍内親王に譲位してし、756年崩御した。当初は四兄弟を重用したが、彼らの死を境に藤原氏を次第に遠ざけていった天皇の死は政権中央において新たな火種を生む。
聖武天皇から譲位された阿倍内親王は、孝謙天皇となり、やがて父と同じく僧を重用して政治を混乱させるのであった。
孝謙天皇は即位すると藤原武智麻呂(南家)の息子である藤原仲麻呂(後の恵美押勝)を重用するようになった。
政権中枢で権力を保っていた橘諸兄であったが、聖武天皇の後ろ盾を失うと急速に力を失い、756年酒宴の席において朝廷を誹謗した疑いで失意のうちに失脚する。おそらくは仲麻呂一派による謀略であろう。
こうして諸兄失脚後は孝謙天皇の信任の下、仲麻呂が絶大な権力を振るうのであった。四兄弟の死以来約20年ぶりに藤原氏が政権を奪取したのである。
ところが絶頂を迎えた仲麻呂政権に反旗を翻す人物が現れた。橘諸兄の息子橘奈良麻呂である。奈良麻呂は、仲麻呂政権に不満を持つ者達を懐柔して反乱を起こそうと画策するが、孝謙天皇が
「謀反を起こそうとしている者がいるようだが、そのような計画には荷担せず、朝廷に従うように。」
との詔勅を出し、事態の収拾を図った。
このことで奈良麻呂の計画から離反する者が続出し、反乱は未遂に終わった。そして乱の計画に荷担した多くの者達は次々と処罰され、奈良麻呂も獄死したと言われている。
これで仲麻呂の政敵はほぼ粛清されたと思われたが、思惑通りには事は運ばなかった。
藤原仲麻呂は恵美押勝の名を自ら推して即位させた淳仁天皇から賜り、まさに絶頂期を迎えていた。また自分の息子達を朝廷の要職に就けることで、その地位を磐石な物にしていった。
その頃、譲位して上皇となっていた孝謙上皇が病の床に伏せっていたのだが、その時、上皇を看病して信任を得ていた僧がいた。その僧こそが後に仲麻呂の政敵となる道鏡である。
道鏡と孝謙上皇は次第に恋仲となり、それが仲麻呂の知るところとなった。仲麻呂は淳仁天皇を介して上皇を諌めたが、逆にその事が上皇のご機嫌を損ね「再び自分が政務を執る」と宣言し、道鏡に少僧都と言う位を与え権力奪還を図った。その一方で仲麻呂への憎悪は増してゆくことになる。
仲麻呂は思わぬ政敵の出現に動揺し、都に兵を集めて反乱を計画するが、露見してしてまい、都を脱出した。
脱出した仲麻呂を朝廷の軍勢が攻め、仲麻呂は捕らえられてしまう。そして最高権力者に登りつめた人物としては屈辱とも言える斬首に処せられたのであった。
仲麻呂が推して天皇に即位した淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位させられ、都から追放された。そして孝謙上皇は再び即位して称徳天皇と名乗り、道鏡に法王の位を与え、さらに皇位まで譲ろうと画策するのである。
その後の話は宇佐八幡宮神託事件として多くの文献で紹介されている通りである。
このように奈良時代における藤原氏は、その時々の天皇の気分によって、時には権力者として絶頂を極め、また時には賊として討伐もしくは冷遇されるなるなど、権力基盤が決して安定していなかったことがうかがい知れる。
奈良時代はまさに「藤原氏VS非藤原勢力」の時代と言っても過言ではない。
奈良東大寺の大仏さまとして有名な「盧舎那仏像」は聖武天皇の発願によって752年開眼された。これまで何度も補修工事がおこなわれ現在の大仏の姿に至っている。
橘奈良麻呂は反乱を計画した理由を
「東大寺を造営し人民が苦るしんでいる。そうした無策な政治を変えるために反乱を企てた」
と藤原永手の取調べに対して答えたと言う。聖武天皇が標榜した鎮護国家は、仏教寺院の建設に伴う多くの支出によって人民を苦しめただけに過ぎなかったのかもしれない。
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次回は桓武天皇の治世について取り上げてゆこうと思う。
勝手ながら、連載はここまでにしたいと思います。2008年11月5日 Mr.Misaki
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