カテゴリー「日本史連載記事」の10件の記事

2007/09/02

藤原氏VS非藤原勢力

長屋王の怨念であったかは定かでないが、当時猛威を振るった天然痘にかかって死んでしまった藤原四兄弟亡き後に権力を掌握したのが橘諸兄であった。
諸兄は、藤原四兄弟存命中の地位はさして高位であったとは言えなかったが、前述した天然痘により藤原四兄弟をはじめ、当時の権力中枢にいた大半の人物は死に至ってしまったことで、その時に天然痘の被害を受けずにいた諸兄が、右大臣に就任することになった。非藤原勢力にとっては不幸中の幸いとでも言うのだろうか、こうして橘諸兄を中心とする非藤原政権が誕生するのである。

当時の天皇はあの有名な聖武天皇である。聖武天皇は深く仏教に帰依し、多くの仏教政策を実施(奈良の大仏の建立や、全国に国分寺・国分尼寺を建設)したが、政治は他人任せで何度も遷都を繰り返すなどの気まぐれ天皇であった。自らが在位していた時代に天然痘や反乱などが発生したことで精神を病んでしまったことがこうした行動に駆り立てたとも言われているが事に真相は如何に。

さて、その聖武天皇を悩ました反乱だが、ある人物が抱いた不満から起ったものだった。
藤原四兄弟・宇合(式家)の長男である藤原広嗣は、橘諸兄政権になると都から大宰府へ赴任を命じられた。このことが左遷だと憤慨した広嗣は現地九州で兵を集め挙兵し、朝廷が派遣した兵と戦った。これが世に言う藤原広嗣の乱である。開戦当初は優位に戦いを進めた広嗣だが、次第に劣勢となり、結局この戦いに敗れてしまった。
広嗣は逃亡するも捕らえられ斬首、それに連座させる形で式家の人間も処罰された。
数年前までは光明子を擁して隆盛を極めていた藤原家の一部が、今や賊に成り下がってしまったのである。

鎮護国家を標榜し、政権中枢に玄昉らの僧を用いるなどして藤原氏とは一線を画した聖武天皇であったが、749年娘の阿倍内親王に譲位してし、756年崩御した。当初は四兄弟を重用したが、彼らの死を境に藤原氏を次第に遠ざけていった天皇の死は政権中央において新たな火種を生む。
聖武天皇から譲位された阿倍内親王は、孝謙天皇となり、やがて父と同じく僧を重用して政治を混乱させるのであった。

孝謙天皇は即位すると藤原武智麻呂(南家)の息子である藤原仲麻呂(後の恵美押勝)を重用するようになった。
政権中枢で権力を保っていた橘諸兄であったが、聖武天皇の後ろ盾を失うと急速に力を失い、756年酒宴の席において朝廷を誹謗した疑いで失意のうちに失脚する。おそらくは仲麻呂一派による謀略であろう。
こうして諸兄失脚後は孝謙天皇の信任の下、仲麻呂が絶大な権力を振るうのであった。四兄弟の死以来約20年ぶりに藤原氏が政権を奪取したのである。

ところが絶頂を迎えた仲麻呂政権に反旗を翻す人物が現れた。橘諸兄の息子橘奈良麻呂である。奈良麻呂は、仲麻呂政権に不満を持つ者達を懐柔して反乱を起こそうと画策するが、孝謙天皇が
「謀反を起こそうとしている者がいるようだが、そのような計画には荷担せず、朝廷に従うように。」
との詔勅を出し、事態の収拾を図った。
このことで奈良麻呂の計画から離反する者が続出し、反乱は未遂に終わった。そして乱の計画に荷担した多くの者達は次々と処罰され、奈良麻呂も獄死したと言われている。
これで仲麻呂の政敵はほぼ粛清されたと思われたが、思惑通りには事は運ばなかった。

藤原仲麻呂は恵美押勝の名を自ら推して即位させた淳仁天皇から賜り、まさに絶頂期を迎えていた。また自分の息子達を朝廷の要職に就けることで、その地位を磐石な物にしていった。
その頃、譲位して上皇となっていた孝謙上皇が病の床に伏せっていたのだが、その時、上皇を看病して信任を得ていた僧がいた。その僧こそが後に仲麻呂の政敵となる道鏡である。
道鏡と孝謙上皇は次第に恋仲となり、それが仲麻呂の知るところとなった。仲麻呂は淳仁天皇を介して上皇を諌めたが、逆にその事が上皇のご機嫌を損ね「再び自分が政務を執る」と宣言し、道鏡に少僧都と言う位を与え権力奪還を図った。その一方で仲麻呂への憎悪は増してゆくことになる。

仲麻呂は思わぬ政敵の出現に動揺し、都に兵を集めて反乱を計画するが、露見してしてまい、都を脱出した。
脱出した仲麻呂を朝廷の軍勢が攻め、仲麻呂は捕らえられてしまう。そして最高権力者に登りつめた人物としては屈辱とも言える斬首に処せられたのであった。
仲麻呂が推して天皇に即位した淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位させられ、都から追放された。そして孝謙上皇は再び即位して称徳天皇と名乗り、道鏡に法王の位を与え、さらに皇位まで譲ろうと画策するのである。
その後の話は宇佐八幡宮神託事件として多くの文献で紹介されている通りである。

このように奈良時代における藤原氏は、その時々の天皇の気分によって、時には権力者として絶頂を極め、また時には賊として討伐もしくは冷遇されるなるなど、権力基盤が決して安定していなかったことがうかがい知れる。
奈良時代はまさに「藤原氏VS非藤原勢力」の時代と言っても過言ではない。

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奈良東大寺の大仏さまとして有名な「盧舎那仏像」は聖武天皇の発願によって752年開眼された。これまで何度も補修工事がおこなわれ現在の大仏の姿に至っている。
橘奈良麻呂は反乱を計画した理由を
「東大寺を造営し人民が苦るしんでいる。そうした無策な政治を変えるために反乱を企てた」
と藤原永手の取調べに対して答えたと言う。聖武天皇が標榜した鎮護国家は、仏教寺院の建設に伴う多くの支出によって人民を苦しめただけに過ぎなかったのかもしれない。
画像は無料壁紙さまから頂戴いたしました。

次回は桓武天皇の治世について取り上げてゆこうと思う。
勝手ながら、連載はここまでにしたいと思います。2008年11月5日 Mr.Misaki
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2007/08/29

藤原不比等と4人の息子達

乙巳の変で蘇我氏を謀殺し、権力を掌握した中大兄皇子だが、彼に蘇我氏打倒の知恵を授けクーデター計画立案に深く関わったのが朝廷の祭事を掌る家柄出身で、蘇我氏の台頭により冷飯食いに成り下がっていた中臣鎌足であった。
鎌足はクーデターの後、権力を掌握した中大兄皇子の片腕として活躍し、死に際しては天智天皇(中大兄皇子)から内大臣の位と藤原姓を賜った。

時代は下り、前回取り上げた壬申の乱において、中臣鎌足の親族たちは大友皇子に荷担したため処分を受けた。鎌足の次男であった不比等は当時13歳であったために乱に関与することはなく、処罰も免れた。しかし天武天皇による皇親政治が影響して皇族ではない不比等(一説には天智天皇のご落胤とも伝えられているが)は下級官吏として朝廷に仕えることになる。

こうした苦難の時代を過ごしてきた不比等だが、突如として軽皇子(のちの文武天皇)の後見人として政治の表舞台へ登場した。詳しい経緯はわからないが、軽皇子擁立に多大な貢献あったからではないかと伝えられている。
その後不比等は文武天皇に自らの娘を嫁がせ聖武天皇を産ませた。のちに隆盛を極める摂関政治の原型をおこなったのである。

こうして政権中枢で着々と力をつけていった不比等は仕上げに中国唐に倣った律令制度導入に着手する。そして大宝律令を完成させ、さらには養老律令の編纂にも取り掛かるが、志半ばで亡くなってしまうであった。

不比等の権力は四人の息子たちが受け継ぐことになった。世に言う藤原四家の祖たちであり、それぞれ北家(房前)・南家(武智麻呂)・式家(宇合)・京家(麻呂)と呼ばれている。平安時代に隆盛を極めた藤原道長は北家の流れを組む人物である。
この四家には最大にして最強の政敵がいた。天武天皇の第一皇子である高市皇子の子長屋王である。
長屋王は朝廷内の実力者であり、不比等亡き後は左大臣に就任し、実権を掌握していた。長屋王は百万町歩開墾計画や三世一身法を実施し国内の生産力を高めようとした有能な政治家であった。さらに自らの巨大な邸に多くの取り巻きを呼び宴を開いてその求心力の維持を図っていた。
このままでは不比等が築いた藤原家の権威は蔑ろにされてしまう、と焦りを感じた四兄弟はどうにかして長屋王を排除しようと画策する。
さらに長屋王は、藤原不比等の娘で聖武天皇に嫁いだ光明子を皇后にしようとする藤原四兄弟の思惑に真っ向から反対した。天皇への即位の可能性がある皇后の地位になるためには皇族の出身でなければならないと言うのがその理由だ。こうなってしまっては四兄弟にとって八方塞である。

ところが729年2月、長屋王の邸を藤原四兄弟の三男宇合が指揮する軍勢が包囲した。その理由は、長屋王が呪術で聖武天皇を呪ったというものであった。
長屋王にとっては寝耳に水であろうが、天皇が派遣した軍隊が実際自らの邸を包囲してしまってはどうしようもなく、包囲から2日後に自害して果てた。
おそらくは藤原四兄弟の陰謀であり、それを天皇が信じてしまった結果だと思われる。

その年の8月、遂に光明子が皇后に即位し、藤原氏絶頂の時代を迎えるのだが、それからしばらくした737年、都に天然痘が流行し、藤原四子が全員死亡。人々は長屋王の怨念と噂したそうである。

四兄弟はこうして亡くなったのだが、その後の藤原氏は、他家との政争に勝ち抜き、やがて藤原四家同士が権力闘争を繰り広げることとなるのであった。

次回は藤原氏と非藤原勢力の争いを取り上げてゆきたい。
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2007/08/28

大海人皇子の皇位奪取

不定期更新だが連載を再開。
今回のテーマは、天智天皇の弟で、自らを初めて天皇と名乗った大海人皇子(のちの天武天皇)の皇位奪取について取り上げてゆきたい。
天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・大海人皇子が権力の座をかけて戦った内乱が壬申の乱だと言うのはあまりにも有名な話で、その勝敗についても今さら述べる必要もないだろう。
しかしこの戦いがどのような原因で起こってしまったのか?それについてこれから話を進めてゆく。

現代の天皇家は、天皇の第一皇子が後継であり、順調にゆけばその皇子が皇位を継ぐ。(間違っていたらすいません・・・。)しかし今から1300年以上前の皇位継承はそれとは違っていて、天智天皇の後を継ぐ順位の筆頭にいたのは、天皇の弟・大海人皇子であった。
当時の慣例では兄弟相続は当然であり、周囲の誰もが大海人皇子が次期天皇(大王)であると疑わずにいた。
しかし天智天皇は、我が子可愛さから采女(うねめ)との間に産まれた大友皇子を後継に指名する。もちろんこれはルール違反であり、大海人もそれに抵抗すると思われた。
ところが、大海人は抵抗することなく、天皇に
「私は皇位を望むことはせず、剃髪して吉野の地に移ります。」
と告げ去って行った。この時代は天智天皇による独裁政権下であり、刃向かえば命がないことぐらい大海人には察しがついていたのだろう。
天智天皇は大海人の言葉を信じた。しかし朝廷内では
「大海人は野心家だから機が熟したら必ず蜂起する。天皇は虎に羽を付けて逃がしたようなものだ。」
と噂されていた。

671年、大化の改新で絶対的権力を手に入れた天智天皇が崩御する。天皇の独裁で弱い立場にあった豪族達の不満は一気に爆発し、大友皇子も対応に苦慮していた。
そしてこの機を逃してはならぬと大海人皇子が遂に挙兵したのであった。
ただ、大友皇子も大海人皇子が挙兵することぐらいは予測しており、いつでも吉野に兵を進められる準備はしていた。この時点では大友の方が優位であったはず。しかし、兄・天智天皇と苦難を乗り越えてきた大海人の方が上手だった。

大海人皇子は挙兵後、大友皇子への東国からの援軍を遮断すため、伊勢にある鈴鹿関を塞いだ。さらに大海人は自らを支援してくれる尾張や美濃の地方豪族らを率いて美濃にある不破関へ集結、そこから都のある大津宮へ攻め上ぼった。
戦いは一ヵ月続き、追い詰められた大友は自害、大海人の大勝利で内乱は終わった。

この戦いは大海人皇子が統治しやすい環境を作ったと言える。もし、天智天皇から皇位を譲られていたならば政敵となっていただろう大友皇子を倒し、さらに大友に荷担した古くから続く中央豪族まで倒したのだから、権力は大海人の思いのままな訳だ。
こうして絶対的な権力を手中に治めた大海人皇子は、即位し天武天皇と名乗った(初めて天皇と名乗る)
また自らの権力を強固な物とするために、親族を中心とした皇親政治をおこなった。
これは天智天皇の目指した中央集権による独裁政権を、天智天皇から後継に指名されなかった大海人皇子が実現したことになる。

何とも皮肉な話だ…。

次回は藤原氏勃興について取り上げてゆこうと思う。

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2007/04/30

乙巳の変

今まで、私の頭の中では「大化の改新」「乙巳の変」は同義語として存在しており、なぜクーデターなのに改新なんて言うんだよ。と少し不満に思っていたのだが、実は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷邸宅を攻めたクーデターを「乙巳の変」と呼び、そのクーデターの後に発せられた新たな施政方針を「大化の改新」と言うらしい。そうか、そうだったのかと変に納得してしまったが、こんな事も知らないようでは日本史ブログの管理人は失格ですかね?
ところで改新の詔(施政方針)が、乙巳の変の翌年に発せられているが、今までの政治体制を一新して天皇中心の中央集権国家に変えていく大事業の指針をわずか数ヶ月で完成出来るのか些か疑問である。おそらく、記紀によって事実は書き換えられているだろう。もちろん、クーデターを正当化するために。所詮、乙巳の変ってのは政権抗争に他ならないし、だまし討ちによって権力者を倒した天皇家の歴史的には忌まわしい過去である訳だ。
そうそう、その乙巳の変について簡単ではあるが、話を進めていこうと思う。
蘇我氏全盛の時代、冷や飯を食わされていた中大兄皇子は「自分は天皇の皇子。なのになぜ冷遇されなきゃなんないんだ!」と蘇我氏の絶頂が面白くない。そんな中大兄には蹴鞠の相手として朝廷内で祭祀を掌る氏族中臣鎌足がいた。鎌足の中臣家は蘇我一族の仏教普及政策のせいで、古来からの神事を掌っていた一族として冷遇されていた。ただ、この鎌足は遣隋使の南淵請安の門下生であり、同じ門下生の入鹿とともに優秀であったと伝えれ、実際は入鹿と意気の合う仲間だったのではないかと考えたりもする。しかし二人は同期であるのに、かたや権力者で、かたや冷や飯食いの神官な訳だから同期と言えども鎌足がそれを妬んでいても不思議ではない。仲が良いと言うことは、それだけ恨みも増幅する訳だ。
そして乙巳の変を語る上で大変重要な人物がもう一人いる。蘇我石川麻呂だ。石川麻呂は蘇我家の支族の子供として生まれた。それゆえに朝廷内で冷遇されている。当時は入鹿絶頂の時代、入鹿の権威は大王さえもしのぐと言われ、たとえ同じ蘇我一族と言えども朝廷内では入鹿が幅を利かせていたので下流に甘んじなければならなかったのだ。「生まれた家が本流か支流か違うだけでなぜこんなにも冷遇されなければならないのだ!」と石川麻呂の心中では自分の境遇を呪い、かつ同族の入鹿に対しては相当な憎悪の念が膨らんでいったと思われる。そんな石川麻呂のところにクーデターの話が舞い込んできた。そしてこのクーデターは石川麻呂にとって権力の中枢に登りつめる絶好のチャンスであった。なぜなら、石川麻呂の娘である遠智娘は中大兄皇子の妃であり、仮にクーデターが成功して中大兄皇子が天皇となった場合には「天皇の外戚」となれる可能性が出てきたのだ。石川麻呂は今まで本家から冷遇された恨みと、自らの権力欲のために当然の如くクーデターへ参加するのであった。

こうして冷遇されてきた連中の利害は一致し、時は645年、入鹿打倒のクーデターが実行されるのである。宮中大極殿において、偽の儀式(確か朝鮮のある国からの使節を迎える云々)が執り行われ、入鹿も騙されて参加してしまった。石川麻呂が声を震わせながら「三韓の上表文」を読み上げ、それが終了すると躊躇っていた中大兄の手下を尻目に中大兄本人が入鹿に斬りかかり暗殺。クーデターは成功した。しかし、これだけの話であればただ冷遇3人衆の常軌を逸した殺人事件な訳で、実は実行前から用意周到な根回しがあったことはその後の政治体制の確立過程で容易に察しがつく。あぁ入鹿哀れなり・・・。翌日入鹿の父蝦夷も邸宅を攻められ自害。ここに隆盛を極めた蘇我本家は滅亡するのであった。

次回は天武天皇と持統天皇(蘇我石川麻呂の孫)の時代について取り上げていこうと思う。(9月以降の予定)
※今後、個人的に忙しくなってくるため更新が疎かになると思われますがご了承下さい。歴史ニュースなどは出来るだけ取り上げていこうと思います。

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不意打ちを食らって首を刎ねられた入鹿。気の毒極まりない。この後、中大兄皇子と鎌足は自らに権力を集中させるため、多くの政敵を粛清していく。蘇我石川麻呂もその一人。

2007/04/14

聖徳太子にまつわる話

聖徳太子と言えば、産まれた直後に「南無阿弥陀仏」と唱えたとか、何人もの話を同時に聞けたとか、超人的な人物として後世に伝えられているが、これは聖徳太子を神格化するために太子信仰を紡ぎだした8世紀以降に創作されたものだと言われており、また実際そんな事実はなかったであろう。
ただ誇張された逸話は抜きにしても聖徳太子が、当時の権力者の中では蘇我馬子と並んでも遜色無いほどの政治手腕の持ち主であったことは冠位十二階や十七条憲法の実績を見て分かるし、身分にとらわれない人事登用をするなど(さすがの厩戸も蘇我氏だけは別格扱いしているが)人身掌握術に長けていたことも容易に察しがつく。
ちなみに聖徳太子とは後に付された敬称であり、当時は厩戸皇子と呼ばれていたことは周知の事実である。
ところでなぜ厩戸皇子と名付けられたのかと言うと、これも逸話だが、厩戸の母である穴穂部間人皇女が厩の前で産気づいて厩戸が産まれたことからこの名前が名付けられたと伝えられているようだ。
しかし産まれた直後に南無阿弥陀仏と唱えたり、母が厩で産気づいたりと、他国の宗教家たちの逸話と被る伝説の多い人物であるが、それは後世の太子信仰を興した人々が厩戸皇子が熱心な仏教信者であったことを勘案して、ブッタとイメージをダブらせることでこのような逸話を創作したのだと思う。また、厩の逸話も明治時代の歴史学者久米邦武博士によれば当時中国で流行していた景行(キリスト教ネストリウス派)の影響を多大に受けたことで生まれたものであったと分析している。
さて、厩戸が歴史の舞台に登場するのは、蘇我氏対物部氏の戦いに参加した時だ。厩戸皇子御歳14歳、若くて有能な厩戸の登場としては最高のスチュエーションではないだろうか。この戦いの相手である物部氏は大和朝廷において軍事を掌どる氏族、いくら馬子が戦略家と言えども苦戦を強いられるのは必定であった。その戦いで厩戸は、霊木で四天王像を彫り、自らの束髪の上に乗せ全軍を鼓舞し進撃したと伝えられている。怪しい話ではあるが、このように厩戸の仏教信仰が強いのは、父用明天皇が仏教を厚く保護したことに起因していると歴史学者は分析している。
こうして厩戸が奮戦した結果蘇我氏が勝利したのだが、実際のところこの戦いでの勝利は蘇我馬子の手際良い策略によるところが大きかったと思う。しかし大化の改新後蘇我氏は朝敵扱いされているため、この事実は隠蔽されてしまったのであろう。
この戦いで権力を我が物にした蘇我氏の血族である厩戸は政治の中枢への上って行くことになる。そして蘇我氏による幾多の政争を政治的バランスの良さからくぐり抜けた厩戸は、推古天皇の摂政に就任するのであった。
摂政としての厩戸皇子の活躍はここで述べるまでもないが、彼がおこなった遣隋使において、作家黒岩重吾氏の著書に記述されていたちょっと人間臭い厩戸を垣間見れる逸話があるので紹介したいと思う。
厩戸皇子は隋へ小野妹子を派遣し有名な「日出る国云々」の国書を皇帝煬帝へ差し出し、逆鱗に触れるのだが、それに対して煬帝が返書した国書を小野妹子は朝鮮を渡っている途中で紛失してしまったと伝えられている。しかし黒岩氏はこれを偽りと推測し、妹子が機転を利かせ馬子にこの返書を読まれないようにとそのような偽りの事情を語り、実は厩戸へこっそりそれを手渡したと言うのだ。
これを読んだ厩戸はかなり狼狽したのか、妹子とともに日本に渡ってきた返礼使の裴世清に
「わたしは夷人であり、海隅に僻在して礼儀知らずであった。」
と平謝りに徹したと言われている。返書の内容を知っていなければ平謝りすることもなかったであろうが、裴世清にこう謝罪していると言うことは、黒岩氏の推測は大方間違いないのであろう。
私は神々しい聖徳太子より、このような人間臭い厩戸皇子の方が好きだ。
その後も厩戸は摂政としての職務を遂行していくが、蘇我氏に不満を持つ豪族たちの矢面に立たされたことが災いしたのか、49歳でこの世を去ってしまう。死因は不明だが、自殺したとの説もある。
厩戸は、小豪族から牛馬扱いされていた奴卑たちに至るまで徳をもって接してきたので、彼の死に際しては万人が嘆き悲しんだと伝えられている。
厩戸の死後、朝廷内の権力は蘇我馬子の子息、蝦夷・入鹿親子がほぼ掌握し、蘇我氏全盛の時代を迎えるのであった。

次回は絶頂の蘇我氏からわずか数日で権力を奪うことに成功したクーデター乙巳の変を取り上げていこうと思う。

2007/04/13

謎多き継体天皇と新興豪族蘇我氏

継体天皇蘇我氏と言えば歴史的には重要な役割を果たしているにもかかわらず、出自に関しては謎が多い人物である。そこで今回はこの謎多き天皇と、飛鳥時代の幕開けとともに実力者としてのし上がってきた蘇我氏について取り上げていこうと思う。
継体天皇が即位する直前の時代を作家黒岩重吾氏は「王権なき時代」と表現している。黒岩氏は、雄略天皇が極端な中央集権化を進める上で後継となる人物を悉く粛清してしまい(兄弟・従兄弟・甥等々)、さらに雄略自らが後継を指名しないまま崩御してしまったので、王権なき時代が到来したと述べている。また雄略の死後、その混乱に乗じて雄略の数少ない子たちも大伴氏や東漢氏ら有力豪族の手により暗殺されたことが王権なき時代に拍車をかけたとも語っている。
ところで、その黒岩氏の著書の中において大変興味深い記述があるので紹介してみよう。
雄略政権以前に絶大な権勢を誇っていた豪族葛城氏が、雄略の手によって滅ぼされたことで、その葛城氏の権勢を引き継ごうする豪族たち(5世紀後半から臣・姓を与えられた豪族)が雄略崩御の混乱に乗じて勢力を伸ばし始めた。また九州では後に反乱を起こす磐井が朝鮮半島の交易や、領土拡大などで力をつけてきた。それに対して危機感を抱いた雄略時代の大連である大伴や物部らは、自らの保身と王権の権威維持のために新たな王を頂く必要に迫られた。そこで彼らが出した切り札が応神天皇の5世孫男大迹王(のちの継体天皇)だった。
と黒岩氏は推測している。
黒岩氏の推測は私のようなマニア的推測よりはるかに的を得ているものであり、研究も相当されている。何だかえらく納得させられてしまうのだが、私自身は継体朝が河内王朝を倒した征服王朝ではないかと言う疑い(越前にあって朝鮮半島との交易をもとに勢力を拡大させた男大迹王が、王権の豪族たちを臣従させ新王朝を樹立させたと言う説)を持っている。素人で学術的裏づけのない私の推測はひとまず措いておくとして、それよりも黒岩氏の推測をまとめてみたい。
当時はすでに中央集権化が進み、有力豪族たちも王権と言う拠所なしに存続し難い統治機構が形成されていたはずだ。もし大王と言う存在を頂かずにいたならば、ヤマト王権は空中分解し、有力豪族だけでなく、新興豪族をも巻き込んでの覇権争いに発展しかねない。それによりヤマト王権内で特権を享受していた有力豪族たちはその権力や土地を失うことも考えられた。そんな思惑から有力豪族たちは継体天皇に立ってもらったと推測できる。
こうして継体天皇が登場し、時代はいよいよヤマト王権から国家としての体をなし始めた「大和朝廷」の時代へと入っていく。この大和朝廷を語る上で欠かすことの出来ない一族は新興豪族の蘇我氏であろう。次はその蘇我氏の台頭について話を進めていく。
大和朝廷を語る上で蘇我氏の存在を抜きにすることは出来ない。蘇我氏は大和朝廷にあっては実力氏族ではあるが、物部氏や大伴氏に比べると新興豪族の部類に入る。前出の黒岩重吾氏は、蘇我氏は百済王である蓋鹵王の弟昆支王がヤマトへ来訪し、飛鳥に住んだ際にともにいた5人の子供のうち一人の末裔が蘇我氏の祖なったのではないかと考えているようだ。確かに百済王族からの渡来の人であれば当時のヤマトとの関係を考えると厚遇を受けていたことは容易に察しがつく。
その蘇我氏の存在が史実においてクローズアップされ出したのは蘇我稲目の代からである。稲目は任那日本府の百済への割譲問題で責を問われた大伴氏の没落により、朝廷内において物部氏と双璧をなす実力者となっていった。そして仏教の受容をめぐって物部氏と対立を深める事となるのである。
稲目の死後、蘇我氏は稲目の子蘇我馬子の政治力を背景に大和朝廷において隆盛を極めていく。馬子は自らの娘たちを大王の妃として送り込み、蘇我氏の血を広げてゆき、その血縁を背景に絶大な権力を手中に治めていく。また、軍事を掌る大連であり仏教受容で対立関係にあった物部氏をその絶対的な権力を背景に滅ぼしたのである。軍事を掌っていた実力者物部氏を滅ぼすと言うことは、その当時蘇我氏に従う豪族や皇族が数多くいたことがわかる。
こうして蘇我氏絶頂の時代を迎えたのであった。
次回は、蘇我氏とも血縁関係にあった聖徳太子について取り上げていきたいと思う。

2007/04/12

渡来人

渡来人を語る前に、渡来人がなぜ私たちの先祖が住んでいたこの地にやってきたのかを考えてみたい。

4世紀末~5世紀初めにかけて、朝鮮半島では幾つかの勢力が分かれて半島の覇権を巡り争っていた。この戦乱を逃れて日本に渡ってきた人々が渡来人と呼ばれる人々だ。戦乱に乗じてヤマト王権も朝鮮半島に派兵していたことが「高句麗広開土王碑」にも記されている。
彼らは一人で船を漕いで遥々やってくるのではなく(もしかしたら一人でやってきた渡来人もいただろうが)集団で半島から日本列島に移動し、その後はそれら集団でまとまって生活していたと言われている。集団の中には数千人単位のものもあり、憶測ではあるが、その大集団がヤマト王権へ何らかの紛争を仕掛けたこともあったのではないかと妄想する管理人である。ただ当時のヤマト王権は朝鮮半島に出兵し、大仙陵古墳を造営するほどの力を有していたので、河内王朝に争いを仕掛けるだけの渡来勢力は皆無に等しいとも考えられる。もし渡来勢力がヤマト王権の権力中枢に打撃を与え、自ら権力の座もしくは中枢に加わることが可能であるなら、それは初期のヤマト連合国家に対してではないだろうか?初期のヤマト王権なら連合国家であったためにヤマト王権の一部勢力が渡来勢力と共同して権力を手中に治めた可能性も無きにしも非ず。ただこれは一切学術的な裏づけがないので妄想好きな管理人の戯言として聞き流していただきたい。
ところで特に渡来が多かった時期について古事記や日本書紀(記紀)では、4世紀後半であったとことが記されている。この時期は河内王朝初期(もしくは崇神天皇から続くヤマト連合政権後期)にあたり、前に述べた私の戯言とは別に考えても河内王朝誕生と渡来人来朝が密接に関係している可能性もある。河内王朝樹立に渡来勢力が何らかの役割を果たしていたことは記紀の記述を客観的な視点で捉えてみても全て否定することはできない。
このような事情があってかどうかは知らないが、宮内庁が陵墓参考地調査への許可を慎重になっている。それは渡来系勢力が河内王朝成立に深く関わっていたことを万世一系を標榜する一部宮内庁関係者らが隠蔽したいがための判断なのかは私が知る由もない。
話が渡来人河内王朝関与説へと流れてしまったので、渡来人が果たした役割について簡単に説明する。
この時期に渡来した渡来人の中には弓月君(後の秦氏)・東漢氏・王仁などのヤマト王権に先進技術や文字を伝えた人物が含まれいる。

※ちなみに雅楽で有名な東儀秀樹さんは「自分は秦氏の末裔」とおっしゃっているのをTVだか雑誌かで拝見したことがある。

彼らは高度な技術を持ち、弓月君は機織の技術を、王仁は「論語」の教えをもたらした人物と言われ、ヤマト王権内において非常に重要な役割を担っていたようだ。
その後も渡来人をヤマト王権は重用し、彼らに「氏」を与えて政権にも参加させている。弓月君の子孫である秦河勝は聖徳太子にも重用され、広隆寺を建立した人物だ。また大化のクーデターで抹殺された蘇我親子も実は渡来系だったのでないかと一部学者や作家などが説を唱えている。
このように、河内王朝時代に多く渡来した彼らの存在が、ヤマト王権の統一国家としての地位を確立させるに一役買っていたことは容易に察しがつくところだ。

次回は継体天皇即位から蘇我氏台頭までを取り上げていこうと思う。

2007/04/11

ヤマト王権誕生 

私はヤマト王権誕生について考える時、必ず「邪馬台国」との関連性をイメージしてしまう。必ずしもそれがヤマト王権を考えるときに障害となるとは言えないが、それがヤマト王権の本質を探る時に良い意味でも、悪い意味でも先入観として邪魔をしていることは否めない。なので今回は邪馬台国との関連性はあえて触れずに、ヤマト王権がどのように誕生して関東から九州そして朝鮮半島にまで支配を及ぼすに至ったのかを考えてみたいと思う。
ヤマト王権は4世紀はじめ、近畿地方に登場した大王を中心とした豪族との連合国家だと言われている。このヤマト王権の初代天皇は神武天皇だと言われているが、最近の研究によれば第10代天皇の崇神天皇が初代天皇であったと考えられている。

※日本書紀では神武天皇と崇神天皇を共に「ハツクニシラススメラミコト」と称しており、同一視出来るのではないかと言われている。

私の憶測で語らしていただくと、この崇神天皇の時代は王権と言うよりも、連合国家としての形態が強く、極論になるが王位は持ち回りで継承されていたのでは?などと思ったりする。理由はこの時期はまだ出雲や北九州などの豪族が朝鮮半島との交易で鉄資源やそれに伴う技術を輸入していた時代であり、中央集権的な制度と言うよりは、連合国家内部での貢献度または軍事力の高さを基準に序列が決まっていたような気がするが如何に。また当時は王権を世襲を以って継承する概念が少なく、実力者がそれに就いたような気もするのだが、これは素人である私の憶測であるので、聞き流していただきたいところではある。
こうして連合国家として基盤を固めてきたヤマト王権だが、ある時期から大王を権威が増し、中央集権的な統一国家としてのヤマト王権が誕生したのではないかと考える。その根拠となるのが河内王朝の存在だ。
河内王朝は第15代応神天皇からはじまる王朝だと言われている。これも私の推測であるが、これまでは連合国家として集団指導体制を執ってきたヤマト王権も、この時期には各豪族において力の差(交易より得た鉄資源や技術力を背景に軍事力や生産力の増加したことによる)が鮮明になり、その中でも最も力をつけた豪族が王権を強化した王朝を樹立したのではないかと考える。
そしてこの河内王朝には宋書に記された倭の五王が存在し、その五王が宋へ朝貢して冊封されることを請うたことを考えると、初期の連合国家の時に比べて中央集権化がかなり進んでいたものと思われる。現に鉄資源を求めて朝鮮半島へも出兵する国力があった訳で、そこには統制のとれた中央集権国家の姿が浮かんでくるのだ。
そしてヤマト王権を語る上で欠かせないのは古墳の存在であろう。この古墳は近畿地方を中心に、瀬戸内海沿岸そして北九州またその後には南九州や東北南部に至るまで各地造られており、世間一般的に言われているようにヤマト王権に従属した豪族たちが証として古墳文化を受け入れたと考えられる。また以前の記事でも取り上げた銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)などもヤマト王権に従属した証として与えられたものであるのは間違いない。
何だか話が色々な方向へ飛んでしまったが、私のヤマト王権に対する憶測をまとめると

①初期のヤマト王権は豪族たちが支配する連合国家であった。

②朝鮮半島や大陸との交易で力を蓄えたある豪族がその力を背景に河内王朝を樹立した。

③当初の古墳文化は文化の共有的要素が強かったが、王権が力をつけたことにより、これを受け入れることが従属の意味として考えられるようになった。

などである。
学術的な要素はまったくなく、ただ書物から得た知識をもとに憶測で語っている内容であるが、言いたいことが伝われば良いかなと思い今回「ヤマト王権誕生」について書いてみた。
次回はヤマト王権に多くの文化・技術をもたらした渡来人について取り上げてみたいと思う。

nintoku
応神天皇が崩御した後に即位したとされる仁徳天皇(宋書倭国伝に記されている倭の五王讃(さん)または珍(ちん)ではないかと言われている。)の陵墓と伝えられる大仙陵古墳だが、実際誰を埋葬するために造られたものかは判明していない。墳長486mと言うとてつもない規模を誇る。ヤマト王権(河内王朝)はこれだけの陵墓を造り上げる力を5世紀には持っていたことになる。

2007/04/10

倭国大乱から連合国家出現

前回の記事でも述べたように、稲作の伝来により支配階級が生まれ、支配従属関係を明確にすることでクニと呼ばれる一大勢力が誕生していった。
当時の日本には各地でクニが誕生し、クニとクニとが土地や人の支配権を巡って争いを繰り返していた。後漢書に記されていた奴国もそのクニの一つであろう。
クニと呼ばれる集団の戦いはやがて倭国大乱と呼ばれる大きな争いへと拡大していく。
後漢書には倭国大乱を「桓霊の間(後漢の桓帝・霊帝の時代)倭国大乱」と記している。桓帝・霊帝の時代と言えば147〜189年であり、魏志倭人伝に登場する邪馬台国がクニをまとめ連合国家として中国王朝へ朝貢する約70年前の時代である。
倭国大乱で争っていた数々のクニを70年の短期間で連合体としてまとめ上げたのがその邪馬台国だった。有名な魏志倭人伝には女王卑弥呼が西暦239年に魏に朝貢し、魏の皇帝から銅鏡100枚と「親魏倭王」の金印を賜わったと記されている。
所在地はまた別の機会に提議するとして、今回は邪馬台国が数々のクニをまとめて統治するに至ったかについて検証したい。
魏志倭人伝にはその邪馬台国が約30の小国を従えた連合国家であると記されている。なぜ30の国々は卑弥呼と言う人物に従ったのだろうか?簡単に分析すると二つの結論にたどりつく。
神秘性
魏志倭人伝には女王卑弥呼は鬼道(呪術)を用いて政にあたったとあるが、その鬼道には魏から賜わった銅鏡を使用したと考えられる。以前NHKで放送された「その時歴史が動いた」においてサビついていない銅鏡を見たのだが、現代人の私が見てもとても神々しさを感じた訳だから、当時の人々がそれを見たら銅鏡を用いて鬼道を操る卑弥呼に畏敬の念を持って従ったことが容易に察しがつく。
まだアミニズム的な価値観が残る弥生時代に銅鏡の輝きを見せられたら従うのも理解出来る。
軍事力
当時は鉄器を多く手に入れたクニが軍備や農耕において他のクニより優位に立てたはずだ。その鉄を手に入れるためには朝鮮半島や中国大陸との交易が重要となってくる。邪馬台国は3世紀に魏へ朝貢しているのだから、それ以前から交易は盛んだったと考えられる。邪馬台国連合の中軸を担っていたクニが、交易より得た鉄器をもとに軍事力を増強して他の30の国々をまとめ上げたと考えても不思議ではない。

このように邪馬台国が中国王朝へ朝貢し、冊封されるだけの国力を有する事が出来たのかを検証してきたが、当時の資料があまりにも少ないので、結局は憶測の域を出れない事がとてももどかしい。邪馬台国に関する大きな発見(親魏倭王の金印発見など)がされることを願って止まない。
邪馬台国は女王卑弥呼の死後、再び国が乱れたが、卑弥呼の親族で女性の壱与と呼ばれる人物が王になり争いを沈めたとされる。
そして時代はヤマト王権誕生に続くのである。

つづく

Ikegamisone
大阪府で発見された池上曽根遺跡にある大型建築物跡。弥生時代の宮殿と考えられなくものない。私の主観的な主張だが、この池上曽根はもしかしたら「邪馬台国」の中枢を担ったクニの跡では?と考えてしまう。魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの行程ではどう解釈しても九州に辿り着くとは考えられないんだよな・・・。ロマンとしては九州説は魅力的ではあるが。

2007/04/09

稲作伝来そして支配階級の誕生

縄文時代は「原始共産主義」と呼ばれるほど共同生活の中で共助共援の営みを送っていた。三内丸山の集落跡から考えられるように、数百年も争うことなくそこに置かれた施設、そして実った作物を共有していたことも発掘の結果分かってきている。
こうして縄文時代には共助共援により数百人単位で安定した生活を送っていた原始日本人(縄文人)であるが、なぜ身分の差が生まれ争うようになったのか?今回はこの疑問について検証していこうと思う。
縄文時代末期、日本には半島(もしくは東南アジア)からあるものが伝わった。稲作だ。これは有名な話であるので、多くの方がご存知であろう。稲作の伝来を弥生時代の始まりと解釈する人も多い。しかし、先にも述べたように縄文時代末期には既に稲作が行われていた痕跡があり、弥生時代=稲作の始まりと定義する訳にもいかない。
では縄文末期において稲作が行われていたことを示す場所は一体にあるのか?その痕跡が残る遺跡として最古と言われるのが九州福岡で発見された遺跡「板付(いたづけ)遺跡」である。1978年、板付の縄文地層から稲作の跡が発見され「縄文時代末期から稲作は行われていた」と言う説の裏付けとして注目されるようになる。板付は地理的にも朝鮮半島から近く、稲作伝来のルーツを探るにも重要な場所でもあるのだ。
こうして縄文末期から弥生初期(紀元前400年ころ)にかけて稲作が伝来してきたのだが、この稲作こそが、原始共産主義と言われた縄文人の営みから、身分や争いにより集落を支配する時代に変えていったものだと言われている。伝来初期の稲作は直播(じかまき)と言う方法で行われ、湿地帯に種を蒔く形式をとっていた。しかし時代の経過ともに灌漑設備が充実し、農機も進化する(鉄器の伝来なで)とその土地や技術を巡って人々が争いを始め、その争いに勝った者たちが支配者として集落を統治し、また支配地域も拡げていくことになるのだ。
こうして支配階層が誕生し、支配者が肥沃な土地と隷属させる人々を求めて領地拡大のための争いを始めたのだと言われている。そして時代は倭国大乱へと向かうのであった。

つづく

Kinin
漢委奴國王印
西暦57年、後漢の光武帝が奴国の使者へ賜った印として後漢書に記されている。1世紀には中国大陸へ朝貢するだけの一大勢力が日本に存在していたことがわかる。ちなみにこの金印は1784年(天明4年)福岡県志賀島で地元の百姓が、田の耕作中に偶然発見したもの。

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