カテゴリー「近代」の28件の記事

戦艦三笠

 昨日、横須賀にある三笠公園に行ってきた。
 スペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』が11月29日から放送が始まるのだが、その前に保存されている三笠へ一度行ってみたいたと思っていた。実は、原作の『坂の上の雲』を読み終えるまでは、戦艦三笠などにはまったく興味のなかったというのが正直なところである。
 三笠公園に着くと、眼前に三笠が見えてきた。

 この三笠は、復元されたものである。
 日露戦争後、原因不明の火災によって沈没したのだが、引き上げて修復したという。そして現在まで保存され、この三笠公園で一般に公開されるようになった。

 三笠の艦内に入り、甲板に立つと有名なZ旗が掲げられていることに気づく。

 Z旗とは、四色の信号旗である。信号旗ということはその旗に当然意味が込められているのだが、その意味については多くの方が存じ上げていることであろう。それが以下の有名な一文である。
 「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。」
 ロシアバルチック艦隊が目の前に現れると、兵士の士気を高めるために、この旗が掲げられたという。それにしても実に見事な一文だ。小説『坂の上の雲』の中でも司馬遼太郎さんはこの一文を起草した秋山真之を激賞している。

 次の画像は、『坂の上の雲』でも登場するドイツのツァイス社製双眼鏡である。この双眼鏡は、東郷平八郎自身が実際に使用していたもので、その価格は当時の一般庶民の年収を上回るものであったというから、相当高価は代物だ。このレンズの向こうには、バルチック艦隊の艦影が映し出されていたのだろう。

 戦艦三笠の詳細については、日露戦争関連の各サイトで詳しく述べられているの、今回の記事では省略させてもらった。
 日露戦争に興味のある方は、ぜひこの三笠公園に足を運ばれることをオススメする。

 参考サイト:『Z旗』さま

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ドラマ『坂の上の雲』キャスト

 今秋から放送予定のスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』の配役がほぼ決まった。
 配役は以下のとおり。

秋山真之 本木雅弘

秋山好古 阿部 寛

正岡子規 香川照之

正岡 律 菅野美穂

夏目漱石 小澤征悦

秋山久敬 伊東四朗

秋山 貞 竹下景子

秋山多美 松たか子

伊藤博文 加藤 剛

広瀬武夫 藤本隆宏

東郷平八郎 渡 哲也

高橋是清 西田敏行

児玉源太郎 高橋英樹

長岡外史 的場浩司

井口省吾 堤大二郎

藤井茂太 宮内敦士

陸 羯南 佐野史郎

正岡八重 原田美枝子

秋山季子 石原さとみ

山本権兵衛 石坂浩二

八代六郎 片岡鶴太郎

乃木希典 柄本明

乃木静子 真野響子

伊地知幸介 村田雄浩

 私が思うハマリ役は何といっても正岡子規の香川照之さん。
 映画『剱岳<天と記>』では、案内人の宇治長次郎役を見事に演じきった。また、演技派女優として応援している菅野美穂さんの妹リツ役も期待大だ。
 小説では天才として評価されている児玉源太郎は、高橋英樹さんが演じる。児玉にしてはカッコ良すぎる気もしなくもないが。私は映画『203高地』を観ているので、どうしても児玉=丹波哲郎さんのイメージが強い。
 小村寿太郎の竹中直人さんはハマリ役だろう。

 さて、乃木大将の配役である。先日、柄本明に決定した。小説では徹底的に愚物として描かれた乃木大将、それを誰が演じるのか期待して待っていたのだが、柄本さんとは意外である。前述した203高地でのイメージが強く残っている私は、乃木=仲代達也さんのイメージであるため、ドラマにおいても重厚感のある役者さんが演じると思っていた。
 柄本さんが決して重厚感がないとは言わない。ただ、どうしても『功名が辻』での秀吉のイメージが強いので、この配役を聞いたときは「えっ」と思ってしまった。しかし、評価はドラマを見てからにしたい。
 あとは無能参謀伊地知を村田雄浩さんが演じる。村田さんといえば、私が楽しんで見ていた『スチュワーデス刑事』で財前さんの夫役を公演した俳優であり、個人的には好きな俳優さんである。無能伊地知を村田さんがどう演じるのか注目したい。
 スペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』、今から楽しみだ。

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日露開戦を考える

 マイケル・ジャクソンが死んだ。死因は薬物の多量摂取と伝えられている。
 私は彼を見るたびに、コンプレックスという言葉が頭を過ぎる。特に人種というコンプレックスをだ。
 アメリカは多くの人種が存在する国であるのはいうまでもない。しかし、十数年前までは白人優位の社会であり、黒人の大統領が誕生するなど考えられなかった国であった。
 アメリカに暮らすマイケルは、私たちが考えるよりも濃厚に人種の壁というものを痛感していたに違いない。彼がスターダムに伸し上がれば上がるほど、その考えは強くなったであろう。それを彼の変化する外見が物語っている。
 白人は、有色人種に対して自制心が働かない。おそらくはマイケルに対してもそうであり、私たち日本人に対してもそうだ。

 話を1853年に移す。この年、アメリカのペリーが来航し日本は西洋を肌で感じるようになった。当初はそれが忌まわしく映り、やがて攘夷というエネルギーに変化する。
 攘夷が無謀であることを知った日本は、明治維新を経て文明開化の道を歩む。文明は西洋から齎され、文明の進化は帝国主義への道を進むことであった。また、その道を歩まなければ、極東の小国である日本は西洋列強に侵食されていただろう。
 帝国主義による膨張は、日本が生存するための手段であり、そこに悪意は存在しなかった。しかし、西洋列強はそれを成り上がりと見た。西洋列強にとって日本の成り上がりは悪であり、それが観念として固定されていった。
 日清戦争により中国での利権を得た日本へ、ロシアを中心とする列強は躊躇うことなく容喙した。前述した彼らの固定観念がそれを正義としたのだ。
 ロシアは彼らの正義である南下運動を推進すべく、日本への軍事的抑圧を強める。それは日本にとって存続の危機であった。この南下運動を抑えるにはロシアと戦うしかない。日本は帝国主義を推し進めるためではなく、国を守るためにロシアと戦った。

 と、今まで記したことはマイケルの思考と無関係ではない。マイケルと日露戦争時の日本を同一視するのは少々無理があるとは思うが、当時の日本人の思考は西洋列強の観念に抵抗するものであり、それは極端とは言い難いほどに無垢で正しい抵抗であった。
 故司馬遼太郎氏は、小説『坂の上の雲』にこう記している。

 

 それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英知と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本ではなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交政略はたとえおなじでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたげてきた黄色人種たちの小僧憎さというものは、白人国家の側からみなければわからないものである。
 1945年8月6日、広島に原爆が投下された。もし日本と同じ条件の国がヨーロッパにあったとして、そして原爆投下がアメリカの戦略にとって必要であったとしてもなお、ヨーロッパの白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう。
 国家間における人種問題的課題は、平時ではさほどに露出しない。しかし戦時というぎりぎりの政治心理の場になると、アジアに対してならやってもいいのではないかという、そういう自制心がゆるむということにおいて顔を出している。
 1945年8月8日、ソ連は日本との不可侵条約をふみにじって満州へ大軍を殺到させた。条約履行という点においてソ連はロシア的体質とでもいいたくなるほどに平然とやぶる。しかしかといってここまで容赦会釈ないやぶり方というものは、やはり相手がアジア人の国であるということにおいて倫理的良心をわずかしか感じずにすむというところがあるのではないか。

 司馬氏がこう記したように、日本がおかれた立場を考えると、日露開戦は回避することは不可能であり、日本にとっては選択の余地がなかったであろう。
 戦後史観によって日露戦争は侵略戦争であると定義されているが、白色人種による人種差別的思考が日本を追い込んだことを、私たちは知るべきである。

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小説『殉死』

 著者の司馬遼太郎氏は、自身が太平洋戦争に出征し、陸軍戦車連隊に所属していた経験からか、日露戦争後から終戦に至るまでの期間を”忌まわしい時期”というような感覚でとらえている。そして、その忌まわしい時期の思想的シンボルを乃木式の軍人精神に求めた感もある。いや、乃木の殉死そのものを忌まわしい時期の出発点として考えていたのかもしれない。
 ゆえに司馬氏が描く乃木希典像というものは、必然的に『愚』なるものとして結ばれている。それをダイレクトに受け入れることは、客観性を失い、偏った視点を持つにいたるだけであろう。そうした理由から、小説『殉死』を読み進めるにあたり、出来るだけ客観性を保とうと心掛けた。

 さて、小説『殉死』の話に移る。
 この小説は、陸軍大将乃木希典の一生を描いた作品である。冒頭に司馬氏は小説というよりも随想として読んでほしいようなことを記している。
 確かに内容は司馬氏の随想である
 司馬氏は乃木の軍事的才覚の乏しさを指摘し、世間一般での評価は作り上げられたものだと断じている。私自身も、西南戦争や日露戦争における乃木の軍略、戦術の類を見ると、司馬氏同様の考えに至る。しかし、一人間として乃木を考えた場合、司馬氏のいうような『愚』の存在ではなかったと思う。
 乃木は指揮官としての才能は乏しかったし、現に旅順でそれを露見してしまった。では人間としての乃木はどうであろうか。私からすれば軍人が持つべき規範(忠実さ、無私、身のこなし等々)は抜群であったと思うし、また、激動の時代に生まれていなければ、有能であったと評価されていただろう。おそらく、江戸期の思想家や歌人として乃木が生まれていたならば、司馬氏も彼を高く評価したに違いない。

 さらに私が乃木を素晴らしいと思うところは、ドイツ留学から帰国した後に自身のスタイルを一変させたことだ。
 私もそうだが、人間というのはある部分で自身を卑下し、それを変えたいという変身願望がある。しかし、欲求や本来持つ性格などから、それを遂げることは難しい。乃木は1年の留学中に思うところがあったのか、自己を変革を決意し、実際に実行する。それには強靭な精神力が必要であろう。乃木はその精神力を持っていた。
 それに、欲求という部分でも、常に無私を心掛けた。司馬氏はそのような乃木の姿を単なる”自己満足”としてとらえたのかもしれないが、その一言で片付けてしまうことは乃木に失礼であるし、実際に現代人である私たちが乃木の生き方や自己変革を実践してみろと言われれば、相当困難であるはずだ。

 乃木希典、軍隊の指揮官としては凡庸であったかもしれないが、生き方やその思想(司馬氏曰く陽明学の影響を色濃く受けた思想)は人間として一流であり、そこには『美』をも感じる。
 乃木に関しては、もっと多角的な視点で評価すべきであると私は思う。

 最後に『小説『坂之上の雲』で無能司令長官と描かれた乃木希典は本当に無能だと思いますか』のアンケートにご協力くださった方、ありがとうございました。

 結果は『無能極まりない』が、それ以外を6票上回り、やはり乃木=無能という考え方が多いことに気づかされました。
 無能と評価された方も、それ以外の評価をされた方も、それぞれ思うところがあったのでしょう。乃木さんのように評価の分かれる人は、歴史上そう多くないはずです。そういった意味でも乃木希典という人物は、歴史を語る上で重要な人物であることは確かなようです。

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小説『劒岳<点の記>』

 6月に映画『劒岳<点の記>』が公開されるが、それに先立ち、新田次郎氏の原作本を読んだので、今回の記事ではその感想とストーリーを少々紹介したい。
 小説を読み進めるにあたり、作中で語られる日本史に関することについては、まがりなりにも『通』を自任しているので、日本軍軍人の独特の考え方や、奈良朝以降に盛んになる修験道についてなど理解しやすい部分であった。
 反面、それが測量や登山の話になると知識が皆無であるために難渋したが、インターネットのこのサイトを発見し、専門知識に関してお世話になったことで、知識ゼロの私でも少しは理解しながら読み進めることが出来たのだと思う。

 この本に登場する人物のほとんどは実在する人物であり、著者の新田次郎氏は編集者の方が集めた多くの資料を基にしつつ、自ら独自の視点によってこの小説を書き上げていったようだ。
 物語は日露戦争直後の明治39年から始まる。明治維新から40年、陸軍の測地測量部のメンバーは、正確な地図を作成するために日本中のあらゆる場所で測量を手掛け、三角点とよばれる標石を埋設してゆく。日頃私たちが日本中を何気なく歩いていると、ふと目にしたことがあるはずの三角点は、明治以降に測地測量部の手によって埋設されたものである。
 明治39年、未だ三角点が埋設されていない日本地図最後の空白地点があった。そこに三等三角点埋設の計画がなされる。その場所は、前人未到の劔岳山頂。埋設のために現地へ向かうのが物語の主人公柴崎芳太郎であった。
 劔岳登頂が計画された当時、民間人の手により設立されたばかりの山岳会(現日本山岳会)が、柴崎らと時を同じくして、前人未到といわれる劒岳への登頂を目論んでいた。

『陸軍測地測量部が民間の山岳会ごときに遅れをとってはならない』

と柴崎は上官である少将や大尉からプレッシャーをかけられる。測量と登頂、この2つを同時におこなわなければならない柴崎の重圧と疲労は想像を絶するものだったであろう。

 翌年、劔岳山頂を目指し、測量偵察が一段落すると、劔岳への登頂に挑むことになった。早月尾根、別山尾根からの登頂を試みるも失敗。この四方絶壁に囲まれた頂に立つことは無理なのかと思われたが、明治40年7月12日に以前から柴崎と案内人の長次郎が企図していた劔岳東側大雪渓からの登頂を敢行、急勾配の雪渓と断崖絶壁を攀じ登り、ついにの劔岳登頂に成功した。

Turugi
 柴崎ら測量隊が登攀した劒岳雪渓。この勾配を一気に1000mも登り、さらに頂上へゆくために絶壁を攀じ登った。(画像はサイト『山のページ』さまより拝借いたしました。)


大きな地図で見る
 この時、彼等が通ったルートは、Googleマップの剣岳右にある剣沢雪渓から現在長次郎谷と呼ばれている急勾配の大雪渓を一路登攀し、絶壁の剣岳を攀じ登って山頂に達したルートである。現在の一般登山ルートは前劒から『カニのタテバイ』を登攀するルートになっている。

 話を小説に戻す。
 ところが、前人未到であったはずの頂上に、何と古びた錫杖の頭と剣の先が置かれていたのだ。
 ※発見されたそれらの画像はこちらからご覧になれます。
 奈良朝時代(700年代後半)の立山信仰では江戸期のような「劒岳は地獄の針の山、決して登ってはならない」という概念はなく、剣岳も神の権現として修験者の信仰の対象であった。この時の山頂での発見がそれを証明したことになる。
 念願であった劒岳の登頂は成功した。それは信仰目的以外での登頂としては史上初であった。しかし、柴崎は不本意であった。予定の三等三角点も登攀が困難を極めたために資材の運搬ができず、正式記録が残らない四等三角点で設置せざろえなかったためだ。(点の記は三等三角点を埋設することで残るのです)
 また、初登頂であることを期待していた軍部も、それが信仰登山といえども既に達せられていたことで、今までのイケイケムードから一転、実に冷ややかな態度で柴崎に接した。
 しかし、日本山岳会の小島鳥水から送られた
『初登頂おめでとうございます。』
という電報が、その虚しさを埋めてくれる数少ないものであったと新田氏は記している。
 山の道を極める壮絶さを真に理解してくれていたのは山岳会であったのかもしれない。

 内容的には専門用語が頻出して、やや難しい内容になっていますが、6月に公開される映画を観に行かれる予定の方には、この小説を読んでおくことをオススメします。

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東京大空襲

 64年前の今頃、東京の下町に空襲警報が出た。
 東京上空に襲来したB-29は房総半島方面に消え、空襲警報も解除された。しかし米軍はこの隙を狙い、3月10日の0時7分から焼夷弾を投下した。これが下町の一般市民を『無差別殺戮』した東京大空襲である。

 4年前、あるテレビ番組で映画監督の山本晋也氏が次のような話をされていた。
 『昭和20年3月10日深夜、小田原に疎開していた私は激しい轟音により目を覚まし、その轟音の方向に目を向けました。すると空が昼間のような明るくなっており、東京で激しい空襲が始まったことに気づいたのです。戦後、私の通っていた小学校の先生が私たち生徒にこう言われました。「いいか、東京を火の海にしたヤツの名はカーチス・ルメイというアメリカの軍人だ。この名前を一生忘れるな。」その言葉は今でも忘れられません。』
 4年前は東京大空襲から60年目の年で、テレビでも多くの特番が組まれていた。その中でも山本監督のこの言葉が今でも忘れられない。
 
 国家間で戦争状態になると多くの犠牲が出て、尊い命が失われてゆく。私たちが命を奪う側にもなるし、また奪われる側にもなる。残酷であるがこの地球上に生まれた人間の運命である。
 しかし、太平洋戦争末期のアメリカ軍は、どう考えても日本人を使い開発した兵器の実験をしていたとしか思えない。『リメンバー・パールハーバー』という感情を差し引いても東京大空襲や原爆投下は行き過ぎた軍事行動だ。これらの行為は日本に生まれた私にとって屈辱であるし、この蛮行に及んだ当時のアメリカ軍の連中を許すことは出来ない。

 実はこの日本史探求を始める前、ココログで別のブログを開設していた。そのブログにおいて東京大空襲60年目の記事を作成している時に
『この記事のように歴史の真実を取り上げてゆくブログを始めてみよう。』
と思ったことが、日本史探求を始めるきっかけとなった。それは私たち日本人が真に学ぶべき歴史をブログというツールを使って広げ、日本人としてこの国を愛せるように自らがなるという志を持った瞬間でもあった。
 東京大空襲は私たち日本国民にとって忘れてならない悲劇であり、屈辱であることを最後に記しておく。

 東京大空襲詳細 Yahoo!百科事典より

 

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。米軍機の日本空襲は開戦翌年の1942年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。日本軍の連勝中に、太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう/チョーチヤン)省の基地におりたこの奇襲は、被害こそ少なかったが、日本軍部に大衝撃を与えた。

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。

 アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。

 東京大空襲に関連した動画がyou-tubeにアップされていたので、ここに貼っておきます。爆撃を指揮したルメイの映像もあり、そのルメイが日本で手にした旭日勲一等の勲章の映像も収められています。日本人を殺戮した人物に勲章を与えた事実は国辱としか言いようがありません。


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坂の上にたなびく一筋の雲

 坂の上の雲は昭和43年から昭和47年にかけて産経新聞夕刊に連載された作品で、文庫本では全8巻におよぶ長編小説です。
 物語は四国松山に生まれた正岡子規と秋山好古・真之兄弟の成長過程と、明治新政府の国家建設をリンクさせるように話が進んでゆきますが、3巻の前半で正岡子規が没すると、物語の主人公は『明治日本』になってゆき、そして南下政策で日本を脅かす大国ロシアとの戦いに焦点が中てられてゆきます。
 この理由について司馬遼太郎氏はあとがきで次のように述べています。
 
 

『真之は海軍という一種の人格性をもった組織の中に入ってしまってからは小さな粒子にすぎなくなる。陸軍にいる好古においても同じ情景である。その粒子になりはてた者たちをえがくには、むしろかれらそのものをとらえるよりも彼等の属した組織を人格的な部分でとらえざるをえず、さらにはかれらを埋没させたその組織がもっとも人格的な側面も過熱させたのはロシアとの対決であった。結局は同心円をえがいているつもりであっても、その円の中に日露戦争が入りざるをえなくなった。』

 この言葉のとおり明治維新から三十余年を経た若い近代日本が、ピョートル大帝以来輝ける武勲を誇る大国ロシアに挑む過程を克明に描いてゆくのです。

 坂の上の雲のレビューで多々拝見するのが『正岡子規の死後からストーリーが面白くなってゆく。』というものですが、私はその正岡子規のストーリーも含めて大変読み応えのある作品だと思います。おそらくは私が『俳句』の世界に関してまったくの無知であることが、その世界の話に新鮮さを覚えたからかもしれません。
 元々官僚を目指して東大予備門に進む子規ですが、やがて俳句の世界に没頭し、その俳句に『写生』を求めるようになります。子規曰く与謝蕪村のような俳人こそが自身の求める姿であるといい、有名な
『柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
などの俳句を生み出してゆきます。
 また、自らの死期が近いことを悟ると一瞬々々の写生に対しても美を見出し、彼の晩年の短歌では
 『松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く』
といった一瞬の描写にもこだわりを見せています。

 1902年、正岡子規が亡くなりいよいよ物語は日露戦争へと進んでゆきます。戦争の経過や各戦場の司馬氏の描き方についてはファンサイトの『春や昔』さまが詳細に記しているので、坂の上の雲を現在読んでいる方はこちらを参考されることをオススメいたします。

 日露戦争といえば『旅順攻略』と『日本海海戦』が非常に有名ですが、その方面での司令長官を務めた第三軍司令長官乃木希典と連合艦隊司令長官東郷平八郎についてはほとんどの日本人が知っている偉人であり、坂の上の雲でも詳細に描かれています。ところが、乃木について記述は辛辣極まりなく、旅順要塞への白兵突撃などは『人災』とまで言い切り、そして乃木式の軍人精神がやがて政略や戦略に基づかない無謀な戦いへ突き進む原因となるとも論じています。私個人としてはそこまで乃木を攻撃するのは酷のような気もしますが、太平洋戦争中に陸軍戦車連隊として従軍した司馬氏の感情に対しても一定の理解を示したくもなります。要は複雑な心境です。
 東郷に対しては彼の代名詞でもある『寡黙』について丁寧に描き、その所以を同郷の西郷隆盛・従道兄弟に求めたりしているところはさすが司馬遼太郎といったところです。

 生産力でも軍事力でもロシアに劣る日本が際どい勝利を手にした理由を司馬氏はロシア帝国における専制君主制の制度疲労に起因していると述べています。陸軍の司令長官クロパトキンや、バルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキーなどはニコライ2世の寵臣であるがために、戦いにおいても『保身』を第一に考えていたことを彼等の戦術や言動から解き明かしています。

 結局は、19世紀半ばに誕生した日本という新興国が、極東へ南下してきた帝政ロシアから自国を防衛するための戦い、それが『日露戦争』だった訳です。ゆえに国民戦争の意識が強い日本と、侵略戦争の意識が強いロシアとでは戦意においては日本の方が勝っていたのは事実で、些細なことで兵士の気持ちが厭戦気分になるロシアは負けるべくして負けたというのが司馬氏の結論であったのでしょう。
 しかし、日本はギリギリのところで勝利を得たことを隠蔽したがために日比谷焼き打ち事件などが発生し、その隠蔽体質がやがて自らの首を絞めることになるのです。

 この作品を通じて司馬氏は『自己認識』と大切さを読者に訴えたかったのかもしれません。日露戦争は日本国が自己認識して際どい勝利を収めた防衛戦争であったことを我々は今も認識しなければならないでしょう。

坂の上の雲アンケート協力ありがとうございました。
結果は以下のとおりです。

既に読まれた方が一番多かったのには驚きました。
今後読んでみたいという方も13名いらっしゃいますが、ぜひ読んでください。オススメです。
また、乃木大将に関して新たにアンケートを実施したのでご協力お願いいたします。

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平成20年 大晦日

 日本史探求をご覧下さっている皆様こんばんわ。今日は大晦日ですね。皆様にとって今年はどんな一年でした?私にとって平成20年はつくづく『運気』がなかった一年でした。運も実力のうちという言葉をこの身で痛感した一年だと表現したくなります。ただ陰鬱になっていても仕方ないので、運がなかったことを糧にするぐらいの気概で来年はパワフルに駆けてゆこうと思います。

 ところで12月中旬から司馬遼太郎氏の作品『坂の上の雲』を読んでいまして、現在は第7巻まで読み進めています。司馬氏の俯瞰的な視点で日露戦争を著しているのですが、明治末の日本国が体力的にギリギリのところで大国ロシアに対抗し、ついに戦艦性能的には世界最強とも言えるバルチック艦隊を迎え撃つところに至って最終8巻に入るといった感じです。
 当初は秋山好古・真之兄弟と正岡子規の成長過程を中心に描かれていたのですが、3巻の途中から日露戦争に関わる多くの人物を取り上げる展開になり、坂の上の雲の主役が『明治日本』に移ってゆくようなストーリー展開になります。
 旅順要塞の攻防では、第三軍司令長官乃木大将や参謀長の伊地知幸介の無能ぶりを痛烈に批判し、旅順の戦死者を人災による被害者であると言い切っています。
 乃木希典は確かに旅順要塞攻略に苦戦しましたが、日本人が実戦で初めて目にした近代要塞を前に適切な策を講じることは乃木でなくても難しかったはずだと私としては乃木に同情します。逆に司馬氏は全軍の参謀児玉源太郎については天才と評価しています。この坂の上の雲でも『翔ぶが如く』でも児玉は戦略の天才と評価されており、実際天才であったのでしょう。しかし司馬氏自身が太平洋戦争において戦車連隊に所属した経緯から、昭和期の軍部、特に陸軍を『愚』の対象としている前提が『児玉=天才』『乃木=無能』という思考が前面に現れていることを考えると、この司馬氏の論調に対して冷静に判断する必要があるのかもしれません。
 
 作品ではこれ以外にも黄海海戦や奉天会戦などについても詳細に記しているのですが、やはり旅順要塞攻略の一部始終が作品へのめり込むようなリアルさを表現していて、その詳細な描写を記した司馬氏の才能に驚かされた次第です。
 坂の上の雲もあと第8巻を読むだけになりましたが、読み終わりましたらあらためて感想記事をアップしようと思います。
 
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翔ぶが如くを読み終えて

 翔ぶが如くは昭和47年1月から昭和50年9月まで毎日新聞朝刊に掲載され、文庫本は全10巻におよぶ長編小説です。
 歴史小説は基本的に長編小説が多いのですが、翔ぶが如くの全10巻はその中でも殊更長編であり、かつある程度予備知識がないと理解するのが難しい内容だと思います。この本を読もうと思うのであれば明治初頭の政治体制や士族の動向など教科書的な学習で構わないのでしておくことをおススメします。

 翔ぶが如くを読み続けてゆく中で、私は西郷隆盛とは何者かを知ろうと思い、登場人物の行動などから対西郷を読み解いてみました。不思議なことに征韓論から私学校の暴走に至るまで西郷は鹿児島で猟師のような生活をしていて、決して表には出てきません。しかし事あるごとに『鹿児島の西郷は』と作中に登場します。時代の歪の中で、不平士族にも太政官にも畏敬される存在だったのです。
 その畏敬は決して西郷が島津斉彬のような奇抜かつ聡明な人物だからではなく、明治維新の『功』なる部分の代名詞としての虚像が形成されていたからです。その虚像は西郷が好む好まざるとも時勢が作り上げたものでした。その虚像に期待する者、畏怖する者、挑む者、それらが西南戦争に帰結して争いを始めた訳です。

 単なる歴史好きが西郷を理解するのは無理だと思います。西郷を理解するには多少俯瞰するようではありますが、取り巻く人物や時代を大局的に見渡す必要があるのです。
西郷隆盛『個』だけを眺めていては西郷は見えないと断言出来ます。

 堅苦しい西郷への論評になってしまいましたが、西南戦争を知るには翔ぶが如くを読むことをあらためておススメします。
 翔ぶが如く、この作品を読むことが出来たことを日本に生きる人間として幸せに思う今日この頃です。

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上野公園に佇む西郷隆盛像。西南戦争で『賊』として散った西郷の名誉は明治の終わりに回復し、政府は日本で一番人の集まる公園の入り口にこの像を設置した。この西郷像は明治維新成功の記念碑なのかもしれない。

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西郷死す (翔ぶが如く十巻)

 明治10年3月19日、高島鞆之助少将率いる別働第二旅団は、八代の背後に上陸し、薩摩軍を攻撃して八代を占領した。この上陸作戦によって熊本城を包囲していた薩摩軍は南へ退くこととなる。
 熊本で敗退した薩摩軍であったが、士気はまだ旺盛であり、事実上の総司令官桐野利秋は人吉へ撤退すると次のような戦略を考えつく。薩摩軍によって三州(薩摩国・大隅国・日向国)を盤踞し、人吉をその根拠地とするというのである。当初から挙兵上京という抽象的な意図をして進軍していた薩摩軍がここにきてやっと戦略らしい戦略を立案するのであった。
 しかし緻密な計画ではないために、その後政府軍の攻撃によって人吉からも退くこととなり、薩摩軍は日向にのがれた。
 
 日向では西郷が兎狩り、桐野は遊郭に出入りするなど戦場の指揮官とは思えない行動をしていた。西郷は挙兵直後から体を差し出した訳であり、桐野は戦うこと以外に生きがいを感じない。よってこうした行動に罪悪の念は感じないのであろう。また、物資や弾薬の不足を補うために不換紙幣の『西郷札』なるものを発行し、それを占領下で流通させようともした。
 日向で戦略らしい戦略を持ち戦っていたのは、私学校が暴発する直前に神戸で情報収集をおこなっていた野村忍介であった。彼は熊本で戦死した慎重派の永山弥一郎を兄事していたためか、桐野の無策ともいうべき進軍に憤りを感じながら従軍していた。しかしここ日向に至ってついに桐野の意向を無視し自らの大隊を率い政府軍と交戦し、その上勝利を収めている。
 このように薩摩軍は強い。日向では野村や他の士族兵も奮戦し、局地的な勝利は収めるが、あくまでも局地戦だけでの強さであり、山県の戦略によって動く政府軍に次第に追い込まれてゆく。そして延岡において政府軍6個旅団に完全包囲されてしまった。
 
 8月16日延岡の北に位置する和田峠の戦いで、西南戦争開戦以来始めて西郷が前線に立ち指揮をした。西郷はおそらくここで死のうと思ったのであろうか。しかし桐野や村田新八らが西郷を前線から退かせたので、ここで死ぬことはなかった。
 この和田峠で薩摩軍は敗れた。誰もがこれで戦争の敗北は決定的だと思っていただろう。しかし口には出さなかった。西郷が生きている限り戦いを終わらないことを兵士、特に薩摩出身の連中はそう意識していたからだ。
 政府軍の包囲が狭まる中、西郷はついに解軍の令を出す。薩摩軍には薩摩士族以外にも九州の他藩出身の士族も含まれていた。その彼らを西郷としてはこれ以上従軍させて死なせてはならないと思ったのであろう。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。 (翔ぶが如く十巻より)

 以上が西郷が発した解軍の令である。
 『西郷がこの地で死を覚悟したのか』と兵士たちから思われたに違いない。これにより政府軍に降伏する者と、このまま薩摩軍に従う者とがここで別れたのである。

 どうせ死ぬなら郷土薩摩で死にたいという気分が薩摩軍の全体を支配していたのか、完全に包囲されている情況を打破しようと『可愛岳(えのだけ)』と呼ばれる難所を彼らは越える決意をした。ここを越えて遠路鹿児島へ向かおうというのだ。
 この可愛岳を越えるだけでも凄まじい精神力が要求されるのに、何と薩摩軍は行軍の途中、守備が手薄であった政府軍の一部を見つけるとそれに攻め込み、食料・弾薬・砲門一門を奪取した。恐ろしいほどの体力と精神力である。
 薩摩軍は可愛岳を越えると道なき道を進み、さらには断崖を登り、渓流をつたって、ついに鹿児島に戻ってきた。

 山県は薩摩軍が再び熊本城下に出現するのではないかと思い熊本の守備を固めていた。実際薩摩軍の中にも再び熊本へと西郷に進言する者いたが、西郷はそれを却下し鹿児島へ向かった。
 鹿児島に到達した薩摩軍は政府軍の守る私学校を襲撃し占領に成功する。また、鹿児島の住民も西郷率いる薩摩軍に協力的であり、さらには熊本の戦いで負傷し帰郷していた薩摩兵も合流するに至り、薩摩軍は鹿児島をほぼ占領した。
 薩摩軍は城山に陣を構えて政府軍との戦いに備えた。薩摩軍は一時は優勢であったが、時間の経過とともに物量に勝る政府軍に包囲されてゆき、9月6日には政府軍によって城山を完全に包囲された。

 城山に残る薩摩軍は約370名、対する政府軍は5万名とも6万名とも言われている。この状況を司馬氏は『戦争ではなく虐殺だ。』と作中で記している。しかしこの政府軍の数が示していることはそれだけ薩摩軍の武威を恐れている証拠なのかもしれない。
 城山に籠る薩摩軍において、西郷の助命を願い出ようとするものがあった。その者たちは徹底主戦派の桐野に悟られることないよう注意を払いながら村田新八ら幹部の許可を受けて政府軍の少将で薩摩人の川村純義の下に西郷助命を願い出た。
 使者は河野主一郎と山野田一輔である。河野主一郎は薩摩軍の幹部であり、ここまで勇敢に戦ってきた。しかしここにきて西郷の命だけは救いたい気持ちが強くなったのであろう。川村もその意を察して『西郷をここに呼べばどうにかする。』ような旨を伝えた。さらに山県から降伏勧告を突きつけられた。降伏勧告とは言っても山県はかつて自身の汚職事件の際に西郷に助けられた経緯があるため、極めて丁寧な文章で降伏を勧めた。(しかし山県は暗に西郷に自決せよとも伝えている)
 これら政府軍の意思を携えて山野田一輔一人が薩摩軍の本営に戻った。皮肉にもここまで勇猛果敢に戦ってきた河野主一郎は捕らわれの身となり、西南戦争後も生き続けることになる。

 山野田が本営に戻り、西郷に川村からの伝言と山県からの書簡を手渡すのだが、西郷はそれらを無視し最後の戦いを決意する。
 戦いは始まった。西郷らは本営としていた洞窟を出て整列し目の前の岩崎口へ進軍した。岩崎口を攻める第四旅団 の司令長官曾我祐準陸軍少将は薩摩人ではない。曾我をここ配したのは西郷を兄事し、尊敬する薩摩人では戦いに躊躇することを山県が危惧したからではないだろうか。

 岩崎口では西郷以下挙兵以来付き従ってきた桐野や村田も奮戦した。そして負傷して歩行することすら儘ならない別府晋介も駕籠に乗って従軍していた。別府は西郷から最期の時には介錯してほしいと命じられていた。西郷を心から慕う別府にとっては最高の誉れであったことは間違いない。
 西郷とともに殉じようとする幹部たちであったが、意外な人物が政府軍の降伏した。野村忍介である。
 野村は戦いの当初から桐野のやり方が気に入らず、日向では桐野を無視して自ら隊を率いて独断で戦った経歴の男だ。野村は『桐野がやった戦でおめおめ死ぬよりは、法廷で義挙の趣旨を明らかにして刑死しよう。』としたのだ。桐野の従兄弟である別府九郎もこれに従った。戦後、野村は10年の刑に処せられた。

 桐野は幕末に『人斬り半次郎』として恐れられたいた中村半次郎である。西郷はこの男を凶器のように使った。そして半次郎も凶器であることに徹していた。しかし明治維新がこの凶器に思考を与えてしまった。
 司馬氏は半次郎をこう考察する。
『この凶器(半次郎)は西郷によって陸軍少将となり、日本の軍事権の一部を掌握した。凶器は栄誉と権限を得たために自立したために凶器自身が思想と判断で動くようになり、ついには飼い主であった西郷を自分の思惑へと引きずり込んでしまった。』
 実に的を得ている。しかし桐野だけが悪いのかと言えばそうではなく、時勢という悍馬が西郷を欲したことがすべての始まりだったのではないだろうか。いや時勢そのものが西郷に憑依したのかもしれない。

 城山の戦いが始まってしばらく、銃弾の雨が西郷らを襲った。そして肥満である西郷の体には銃弾が打ち込まれ、自らの最期を悟った。
『シンドン(別府晋介)、モウ、ココデヨカロウ。』
西郷は別府の介錯によって波乱の人生に幕を閉じた。
 西郷に続いて村田新八も腹を掻っ捌いて死んだ。次々に死んでゆく薩摩兵の中で、桐野だけは堡塁に登り一人銃を構えて政府軍に対抗していた。半次郎時代の瞬発力は衰えておらず、向かってくる兵士を次々に狙撃して倒した。しかし、至近距離から狙撃され堡塁の中に落ちた。別府は落ちてきた桐野を見たが頭を撃ち抜かれて即死だった。

 政府軍の攻撃は終わった。戦場には裸の屍骸が散乱していた。酷いことに裸にされた上に局部を口に突っ込められた死体もあった。(薩摩人以外の)政府軍兵士、特に賊軍とされた藩出身の兵士にとっては哀れみも何もない。憎しみだけが士気を高めていた。
 これが戦争なのである。

 西郷の首は後日発見され、死亡した幹部たちは江藤のように曝し首にされることなく丁重に葬られた。維新最大の功労者と太政官薩摩閥への配慮であろう。そして薩摩人を刺激しないようにと意図もあったのかもしれない。

 西郷の死から1年もしないうちに彼の盟友であり、敵であった大久保利通が紀尾井坂で暗殺された。西郷挙兵により第二の維新を目指していた石川藩士島田一郎の犯行であった。
 西南戦争の導火線に火をつけた川路利良も明治12年病死する。大久保の死後、陰鬱な表情に変わり、かつての生気は感じられなかったという。

 時勢という大きな波に呑み込まれた幕末維新の英傑たちが去り、波が引いた後に残された人々が新たな時勢に立ち向かおうとしていた。世界を相手に・・・。

 終わり。 

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