カテゴリー「近代」の27件の記事

ドラマ『坂の上の雲』キャスト

 今秋から放送予定のスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』の配役がほぼ決まった。
 配役は以下のとおり。

秋山真之 本木雅弘

秋山好古 阿部 寛

正岡子規 香川照之

正岡 律 菅野美穂

夏目漱石 小澤征悦

秋山久敬 伊東四朗

秋山 貞 竹下景子

秋山多美 松たか子

伊藤博文 加藤 剛

広瀬武夫 藤本隆宏

東郷平八郎 渡 哲也

高橋是清 西田敏行

児玉源太郎 高橋英樹

長岡外史 的場浩司

井口省吾 堤大二郎

藤井茂太 宮内敦士

陸 羯南 佐野史郎

正岡八重 原田美枝子

秋山季子 石原さとみ

山本権兵衛 石坂浩二

八代六郎 片岡鶴太郎

乃木希典 柄本明

乃木静子 真野響子

伊地知幸介 村田雄浩

 私が思うハマリ役は何といっても正岡子規の香川照之さん。
 映画『剱岳<天と記>』では、案内人の宇治長次郎役を見事に演じきった。また、演技派女優として応援している菅野美穂さんの妹リツ役も期待大だ。
 小説では天才として評価されている児玉源太郎は、高橋英樹さんが演じる。児玉にしてはカッコ良すぎる気もしなくもないが。私は映画『203高地』を観ているので、どうしても児玉=丹波哲郎さんのイメージが強い。
 小村寿太郎の竹中直人さんはハマリ役だろう。

 さて、乃木大将の配役である。先日、柄本明に決定した。小説では徹底的に愚物として描かれた乃木大将、それを誰が演じるのか期待して待っていたのだが、柄本さんとは意外である。前述した203高地でのイメージが強く残っている私は、乃木=仲代達也さんのイメージであるため、ドラマにおいても重厚感のある役者さんが演じると思っていた。
 柄本さんが決して重厚感がないとは言わない。ただ、どうしても『功名が辻』での秀吉のイメージが強いので、この配役を聞いたときは「えっ」と思ってしまった。しかし、評価はドラマを見てからにしたい。
 あとは無能参謀伊地知を村田雄浩さんが演じる。村田さんといえば、私が楽しんで見ていた『スチュワーデス刑事』で財前さんの夫役を公演した俳優であり、個人的には好きな俳優さんである。無能伊地知を村田さんがどう演じるのか注目したい。
 スペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』、今から楽しみだ。

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日露開戦を考える

 マイケル・ジャクソンが死んだ。死因は薬物の多量摂取と伝えられている。
 私は彼を見るたびに、コンプレックスという言葉が頭を過ぎる。特に人種というコンプレックスをだ。
 アメリカは多くの人種が存在する国であるのはいうまでもない。しかし、十数年前までは白人優位の社会であり、黒人の大統領が誕生するなど考えられなかった国であった。
 アメリカに暮らすマイケルは、私たちが考えるよりも濃厚に人種の壁というものを痛感していたに違いない。彼がスターダムに伸し上がれば上がるほど、その考えは強くなったであろう。それを彼の変化する外見が物語っている。
 白人は、有色人種に対して自制心が働かない。おそらくはマイケルに対してもそうであり、私たち日本人に対してもそうだ。

 話を1853年に移す。この年、アメリカのペリーが来航し日本は西洋を肌で感じるようになった。当初はそれが忌まわしく映り、やがて攘夷というエネルギーに変化する。
 攘夷が無謀であることを知った日本は、明治維新を経て文明開化の道を歩む。文明は西洋から齎され、文明の進化は帝国主義への道を進むことであった。また、その道を歩まなければ、極東の小国である日本は西洋列強に侵食されていただろう。
 帝国主義による膨張は、日本が生存するための手段であり、そこに悪意は存在しなかった。しかし、西洋列強はそれを成り上がりと見た。西洋列強にとって日本の成り上がりは悪であり、それが観念として固定されていった。
 日清戦争により中国での利権を得た日本へ、ロシアを中心とする列強は躊躇うことなく容喙した。前述した彼らの固定観念がそれを正義としたのだ。
 ロシアは彼らの正義である南下運動を推進すべく、日本への軍事的抑圧を強める。それは日本にとって存続の危機であった。この南下運動を抑えるにはロシアと戦うしかない。日本は帝国主義を推し進めるためではなく、国を守るためにロシアと戦った。

 と、今まで記したことはマイケルの思考と無関係ではない。マイケルと日露戦争時の日本を同一視するのは少々無理があるとは思うが、当時の日本人の思考は西洋列強の観念に抵抗するものであり、それは極端とは言い難いほどに無垢で正しい抵抗であった。
 故司馬遼太郎氏は、小説『坂の上の雲』にこう記している。

 

 それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英知と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本ではなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交政略はたとえおなじでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたげてきた黄色人種たちの小僧憎さというものは、白人国家の側からみなければわからないものである。
 1945年8月6日、広島に原爆が投下された。もし日本と同じ条件の国がヨーロッパにあったとして、そして原爆投下がアメリカの戦略にとって必要であったとしてもなお、ヨーロッパの白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう。
 国家間における人種問題的課題は、平時ではさほどに露出しない。しかし戦時というぎりぎりの政治心理の場になると、アジアに対してならやってもいいのではないかという、そういう自制心がゆるむということにおいて顔を出している。
 1945年8月8日、ソ連は日本との不可侵条約をふみにじって満州へ大軍を殺到させた。条約履行という点においてソ連はロシア的体質とでもいいたくなるほどに平然とやぶる。しかしかといってここまで容赦会釈ないやぶり方というものは、やはり相手がアジア人の国であるということにおいて倫理的良心をわずかしか感じずにすむというところがあるのではないか。

 司馬氏がこう記したように、日本がおかれた立場を考えると、日露開戦は回避することは不可能であり、日本にとっては選択の余地がなかったであろう。
 戦後史観によって日露戦争は侵略戦争であると定義されているが、白色人種による人種差別的思考が日本を追い込んだことを、私たちは知るべきである。

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小説『殉死』

 著者の司馬遼太郎氏は、自身が太平洋戦争に出征し、陸軍戦車連隊に所属していた経験からか、日露戦争後から終戦に至るまでの期間を”忌まわしい時期”というような感覚でとらえている。そして、その忌まわしい時期の思想的シンボルを乃木式の軍人精神に求めた感もある。いや、乃木の殉死そのものを忌まわしい時期の出発点として考えていたのかもしれない。
 ゆえに司馬氏が描く乃木希典像というものは、必然的に『愚』なるものとして結ばれている。それをダイレクトに受け入れることは、客観性を失い、偏った視点を持つにいたるだけであろう。そうした理由から、小説『殉死』を読み進めるにあたり、出来るだけ客観性を保とうと心掛けた。

 さて、小説『殉死』の話に移る。
 この小説は、陸軍大将乃木希典の一生を描いた作品である。冒頭に司馬氏は小説というよりも随想として読んでほしいようなことを記している。
 確かに内容は司馬氏の随想である
 司馬氏は乃木の軍事的才覚の乏しさを指摘し、世間一般での評価は作り上げられたものだと断じている。私自身も、西南戦争や日露戦争における乃木の軍略、戦術の類を見ると、司馬氏同様の考えに至る。しかし、一人間として乃木を考えた場合、司馬氏のいうような『愚』の存在ではなかったと思う。
 乃木は指揮官としての才能は乏しかったし、現に旅順でそれを露見してしまった。では人間としての乃木はどうであろうか。私からすれば軍人が持つべき規範(忠実さ、無私、身のこなし等々)は抜群であったと思うし、また、激動の時代に生まれていなければ、有能であったと評価されていただろう。おそらく、江戸期の思想家や歌人として乃木が生まれていたならば、司馬氏も彼を高く評価したに違いない。

 さらに私が乃木を素晴らしいと思うところは、ドイツ留学から帰国した後に自身のスタイルを一変させたことだ。
 私もそうだが、人間というのはある部分で自身を卑下し、それを変えたいという変身願望がある。しかし、欲求や本来持つ性格などから、それを遂げることは難しい。乃木は1年の留学中に思うところがあったのか、自己を変革を決意し、実際に実行する。それには強靭な精神力が必要であろう。乃木はその精神力を持っていた。
 それに、欲求という部分でも、常に無私を心掛けた。司馬氏はそのような乃木の姿を単なる”自己満足”としてとらえたのかもしれないが、その一言で片付けてしまうことは乃木に失礼であるし、実際に現代人である私たちが乃木の生き方や自己変革を実践してみろと言われれば、相当困難であるはずだ。

 乃木希典、軍隊の指揮官としては凡庸であったかもしれないが、生き方やその思想(司馬氏曰く陽明学の影響を色濃く受けた思想)は人間として一流であり、そこには『美』をも感じる。
 乃木に関しては、もっと多角的な視点で評価すべきであると私は思う。

 最後に『小説『坂之上の雲』で無能司令長官と描かれた乃木希典は本当に無能だと思いますか』のアンケートにご協力くださった方、ありがとうございました。

 結果は『無能極まりない』が、それ以外を6票上回り、やはり乃木=無能という考え方が多いことに気づかされました。
 無能と評価された方も、それ以外の評価をされた方も、それぞれ思うところがあったのでしょう。乃木さんのように評価の分かれる人は、歴史上そう多くないはずです。そういった意味でも乃木希典という人物は、歴史を語る上で重要な人物であることは確かなようです。

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小説『劒岳<点の記>』

 6月に映画『劒岳<点の記>』が公開されるが、それに先立ち、新田次郎氏の原作本を読んだので、今回の記事ではその感想とストーリーを少々紹介したい。
 小説を読み進めるにあたり、作中で語られる日本史に関することについては、まがりなりにも『通』を自任しているので、日本軍軍人の独特の考え方や、奈良朝以降に盛んになる修験道についてなど理解しやすい部分であった。
 反面、それが測量や登山の話になると知識が皆無であるために難渋したが、インターネットのこのサイトを発見し、専門知識に関してお世話になったことで、知識ゼロの私でも少しは理解しながら読み進めることが出来たのだと思う。

 この本に登場する人物のほとんどは実在する人物であり、著者の新田次郎氏は編集者の方が集めた多くの資料を基にしつつ、自ら独自の視点によってこの小説を書き上げていったようだ。
 物語は日露戦争直後の明治39年から始まる。明治維新から40年、陸軍の測地測量部のメンバーは、正確な地図を作成するために日本中のあらゆる場所で測量を手掛け、三角点とよばれる標石を埋設してゆく。日頃私たちが日本中を何気なく歩いていると、ふと目にしたことがあるはずの三角点は、明治以降に測地測量部の手によって埋設されたものである。
 明治39年、未だ三角点が埋設されていない日本地図最後の空白地点があった。そこに三等三角点埋設の計画がなされる。その場所は、前人未到の劔岳山頂。埋設のために現地へ向かうのが物語の主人公柴崎芳太郎であった。
 劔岳登頂が計画された当時、民間人の手により設立されたばかりの山岳会(現日本山岳会)が、柴崎らと時を同じくして、前人未到といわれる劒岳への登頂を目論んでいた。

『陸軍測地測量部が民間の山岳会ごときに遅れをとってはならない』

と柴崎は上官である少将や大尉からプレッシャーをかけられる。測量と登頂、この2つを同時におこなわなければならない柴崎の重圧と疲労は想像を絶するものだったであろう。

 翌年、劔岳山頂を目指し、測量偵察が一段落すると、劔岳への登頂に挑むことになった。早月尾根、別山尾根からの登頂を試みるも失敗。この四方絶壁に囲まれた頂に立つことは無理なのかと思われたが、明治40年7月12日に以前から柴崎と案内人の長次郎が企図していた劔岳東側大雪渓からの登頂を敢行、急勾配の雪渓と断崖絶壁を攀じ登り、ついにの劔岳登頂に成功した。

Turugi
 柴崎ら測量隊が登攀した劒岳雪渓。この勾配を一気に1000mも登り、さらに頂上へゆくために絶壁を攀じ登った。(画像はサイト『山のページ』さまより拝借いたしました。)


大きな地図で見る
 この時、彼等が通ったルートは、Googleマップの剣岳右にある剣沢雪渓から現在長次郎谷と呼ばれている急勾配の大雪渓を一路登攀し、絶壁の剣岳を攀じ登って山頂に達したルートである。現在の一般登山ルートは前劒から『カニのタテバイ』を登攀するルートになっている。

 話を小説に戻す。
 ところが、前人未到であったはずの頂上に、何と古びた錫杖の頭と剣の先が置かれていたのだ。
 ※発見されたそれらの画像はこちらからご覧になれます。
 奈良朝時代(700年代後半)の立山信仰では江戸期のような「劒岳は地獄の針の山、決して登ってはならない」という概念はなく、剣岳も神の権現として修験者の信仰の対象であった。この時の山頂での発見がそれを証明したことになる。
 念願であった劒岳の登頂は成功した。それは信仰目的以外での登頂としては史上初であった。しかし、柴崎は不本意であった。予定の三等三角点も登攀が困難を極めたために資材の運搬ができず、正式記録が残らない四等三角点で設置せざろえなかったためだ。(点の記は三等三角点を埋設することで残るのです)
 また、初登頂であることを期待していた軍部も、それが信仰登山といえども既に達せられていたことで、今までのイケイケムードから一転、実に冷ややかな態度で柴崎に接した。
 しかし、日本山岳会の小島鳥水から送られた
『初登頂おめでとうございます。』
という電報が、その虚しさを埋めてくれる数少ないものであったと新田氏は記している。
 山の道を極める壮絶さを真に理解してくれていたのは山岳会であったのかもしれない。

 内容的には専門用語が頻出して、やや難しい内容になっていますが、6月に公開される映画を観に行かれる予定の方には、この小説を読んでおくことをオススメします。

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東京大空襲

 64年前の今頃、東京の下町に空襲警報が出た。
 東京上空に襲来したB-29は房総半島方面に消え、空襲警報も解除された。しかし米軍はこの隙を狙い、3月10日の0時7分から焼夷弾を投下した。これが下町の一般市民を『無差別殺戮』した東京大空襲である。

 4年前、あるテレビ番組で映画監督の山本晋也氏が次のような話をされていた。
 『昭和20年3月10日深夜、小田原に疎開していた私は激しい轟音により目を覚まし、その轟音の方向に目を向けました。すると空が昼間のような明るくなっており、東京で激しい空襲が始まったことに気づいたのです。戦後、私の通っていた小学校の先生が私たち生徒にこう言われました。「いいか、東京を火の海にしたヤツの名はカーチス・ルメイというアメリカの軍人だ。この名前を一生忘れるな。」その言葉は今でも忘れられません。』
 4年前は東京大空襲から60年目の年で、テレビでも多くの特番が組まれていた。その中でも山本監督のこの言葉が今でも忘れられない。
 
 国家間で戦争状態になると多くの犠牲が出て、尊い命が失われてゆく。私たちが命を奪う側にもなるし、また奪われる側にもなる。残酷であるがこの地球上に生まれた人間の運命である。
 しかし、太平洋戦争末期のアメリカ軍は、どう考えても日本人を使い開発した兵器の実験をしていたとしか思えない。『リメンバー・パールハーバー』という感情を差し引いても東京大空襲や原爆投下は行き過ぎた軍事行動だ。これらの行為は日本に生まれた私にとって屈辱であるし、この蛮行に及んだ当時のアメリカ軍の連中を許すことは出来ない。

 実はこの日本史探求を始める前、ココログで別のブログを開設していた。そのブログにおいて東京大空襲60年目の記事を作成している時に
『この記事のように歴史の真実を取り上げてゆくブログを始めてみよう。』
と思ったことが、日本史探求を始めるきっかけとなった。それは私たち日本人が真に学ぶべき歴史をブログというツールを使って広げ、日本人としてこの国を愛せるように自らがなるという志を持った瞬間でもあった。
 東京大空襲は私たち日本国民にとって忘れてならない悲劇であり、屈辱であることを最後に記しておく。

 東京大空襲詳細 Yahoo!百科事典より

 

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。米軍機の日本空襲は開戦翌年の1942年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。日本軍の連勝中に、太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう/チョーチヤン)省の基地におりたこの奇襲は、被害こそ少なかったが、日本軍部に大衝撃を与えた。

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。

 アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。

 東京大空襲に関連した動画がyou-tubeにアップされていたので、ここに貼っておきます。爆撃を指揮したルメイの映像もあり、そのルメイが日本で手にした旭日勲一等の勲章の映像も収められています。日本人を殺戮した人物に勲章を与えた事実は国辱としか言いようがありません。


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坂の上にたなびく一筋の雲

 坂の上の雲は昭和43年から昭和47年にかけて産経新聞夕刊に連載された作品で、文庫本では全8巻におよぶ長編小説です。
 物語は四国松山に生まれた正岡子規と秋山好古・真之兄弟の成長過程と、明治新政府の国家建設をリンクさせるように話が進んでゆきますが、3巻の前半で正岡子規が没すると、物語の主人公は『明治日本』になってゆき、そして南下政策で日本を脅かす大国ロシアとの戦いに焦点が中てられてゆきます。
 この理由について司馬遼太郎氏はあとがきで次のように述べています。
 
 

『真之は海軍という一種の人格性をもった組織の中に入ってしまってからは小さな粒子にすぎなくなる。陸軍にいる好古においても同じ情景である。その粒子になりはてた者たちをえがくには、むしろかれらそのものをとらえるよりも彼等の属した組織を人格的な部分でとらえざるをえず、さらにはかれらを埋没させたその組織がもっとも人格的な側面も過熱させたのはロシアとの対決であった。結局は同心円をえがいているつもりであっても、その円の中に日露戦争が入りざるをえなくなった。』

 この言葉のとおり明治維新から三十余年を経た若い近代日本が、ピョートル大帝以来輝ける武勲を誇る大国ロシアに挑む過程を克明に描いてゆくのです。

 坂の上の雲のレビューで多々拝見するのが『正岡子規の死後からストーリーが面白くなってゆく。』というものですが、私はその正岡子規のストーリーも含めて大変読み応えのある作品だと思います。おそらくは私が『俳句』の世界に関してまったくの無知であることが、その世界の話に新鮮さを覚えたからかもしれません。
 元々官僚を目指して東大予備門に進む子規ですが、やがて俳句の世界に没頭し、その俳句に『写生』を求めるようになります。子規曰く与謝蕪村のような俳人こそが自身の求める姿であるといい、有名な
『柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
などの俳句を生み出してゆきます。
 また、自らの死期が近いことを悟ると一瞬々々の写生に対しても美を見出し、彼の晩年の短歌では
 『松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く』
といった一瞬の描写にもこだわりを見せています。

 1902年、正岡子規が亡くなりいよいよ物語は日露戦争へと進んでゆきます。戦争の経過や各戦場の司馬氏の描き方についてはファンサイトの『春や昔』さまが詳細に記しているので、坂の上の雲を現在読んでいる方はこちらを参考されることをオススメいたします。

 日露戦争といえば『旅順攻略』と『日本海海戦』が非常に有名ですが、その方面での司令長官を務めた第三軍司令長官乃木希典と連合艦隊司令長官東郷平八郎についてはほとんどの日本人が知っている偉人であり、坂の上の雲でも詳細に描かれています。ところが、乃木について記述は辛辣極まりなく、旅順要塞への白兵突撃などは『人災』とまで言い切り、そして乃木式の軍人精神がやがて政略や戦略に基づかない無謀な戦いへ突き進む原因となるとも論じています。私個人としてはそこまで乃木を攻撃するのは酷のような気もしますが、太平洋戦争中に陸軍戦車連隊として従軍した司馬氏の感情に対しても一定の理解を示したくもなります。要は複雑な心境です。
 東郷に対しては彼の代名詞でもある『寡黙』について丁寧に描き、その所以を同郷の西郷隆盛・従道兄弟に求めたりしているところはさすが司馬遼太郎といったところです。

 生産力でも軍事力でもロシアに劣る日本が際どい勝利を手にした理由を司馬氏はロシア帝国における専制君主制の制度疲労に起因していると述べています。陸軍の司令長官クロパトキンや、バルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキーなどはニコライ2世の寵臣であるがために、戦いにおいても『保身』を第一に考えていたことを彼等の戦術や言動から解き明かしています。

 結局は、19世紀半ばに誕生した日本という新興国が、極東へ南下してきた帝政ロシアから自国を防衛するための戦い、それが『日露戦争』だった訳です。ゆえに国民戦争の意識が強い日本と、侵略戦争の意識が強いロシアとでは戦意においては日本の方が勝っていたのは事実で、些細なことで兵士の気持ちが厭戦気分になるロシアは負けるべくして負けたというのが司馬氏の結論であったのでしょう。
 しかし、日本はギリギリのところで勝利を得たことを隠蔽したがために日比谷焼き打ち事件などが発生し、その隠蔽体質がやがて自らの首を絞めることになるのです。

 この作品を通じて司馬氏は『自己認識』と大切さを読者に訴えたかったのかもしれません。日露戦争は日本国が自己認識して際どい勝利を収めた防衛戦争であったことを我々は今も認識しなければならないでしょう。

坂の上の雲アンケート協力ありがとうございました。
結果は以下のとおりです。

既に読まれた方が一番多かったのには驚きました。
今後読んでみたいという方も13名いらっしゃいますが、ぜひ読んでください。オススメです。
また、乃木大将に関して新たにアンケートを実施したのでご協力お願いいたします。

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平成20年 大晦日

 日本史探求をご覧下さっている皆様こんばんわ。今日は大晦日ですね。皆様にとって今年はどんな一年でした?私にとって平成20年はつくづく『運気』がなかった一年でした。運も実力のうちという言葉をこの身で痛感した一年だと表現したくなります。ただ陰鬱になっていても仕方ないので、運がなかったことを糧にするぐらいの気概で来年はパワフルに駆けてゆこうと思います。

 ところで12月中旬から司馬遼太郎氏の作品『坂の上の雲』を読んでいまして、現在は第7巻まで読み進めています。司馬氏の俯瞰的な視点で日露戦争を著しているのですが、明治末の日本国が体力的にギリギリのところで大国ロシアに対抗し、ついに戦艦性能的には世界最強とも言えるバルチック艦隊を迎え撃つところに至って最終8巻に入るといった感じです。
 当初は秋山好古・真之兄弟と正岡子規の成長過程を中心に描かれていたのですが、3巻の途中から日露戦争に関わる多くの人物を取り上げる展開になり、坂の上の雲の主役が『明治日本』に移ってゆくようなストーリー展開になります。
 旅順要塞の攻防では、第三軍司令長官乃木大将や参謀長の伊地知幸介の無能ぶりを痛烈に批判し、旅順の戦死者を人災による被害者であると言い切っています。
 乃木希典は確かに旅順要塞攻略に苦戦しましたが、日本人が実戦で初めて目にした近代要塞を前に適切な策を講じることは乃木でなくても難しかったはずだと私としては乃木に同情します。逆に司馬氏は全軍の参謀児玉源太郎については天才と評価しています。この坂の上の雲でも『翔ぶが如く』でも児玉は戦略の天才と評価されており、実際天才であったのでしょう。しかし司馬氏自身が太平洋戦争において戦車連隊に所属した経緯から、昭和期の軍部、特に陸軍を『愚』の対象としている前提が『児玉=天才』『乃木=無能』という思考が前面に現れていることを考えると、この司馬氏の論調に対して冷静に判断する必要があるのかもしれません。
 
 作品ではこれ以外にも黄海海戦や奉天会戦などについても詳細に記しているのですが、やはり旅順要塞攻略の一部始終が作品へのめり込むようなリアルさを表現していて、その詳細な描写を記した司馬氏の才能に驚かされた次第です。
 坂の上の雲もあと第8巻を読むだけになりましたが、読み終わりましたらあらためて感想記事をアップしようと思います。
 
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翔ぶが如くを読み終えて

 翔ぶが如くは昭和47年1月から昭和50年9月まで毎日新聞朝刊に掲載され、文庫本は全10巻におよぶ長編小説です。
 歴史小説は基本的に長編小説が多いのですが、翔ぶが如くの全10巻はその中でも殊更長編であり、かつある程度予備知識がないと理解するのが難しい内容だと思います。この本を読もうと思うのであれば明治初頭の政治体制や士族の動向など教科書的な学習で構わないのでしておくことをおススメします。

 翔ぶが如くを読み続けてゆく中で、私は西郷隆盛とは何者かを知ろうと思い、登場人物の行動などから対西郷を読み解いてみました。不思議なことに征韓論から私学校の暴走に至るまで西郷は鹿児島で猟師のような生活をしていて、決して表には出てきません。しかし事あるごとに『鹿児島の西郷は』と作中に登場します。時代の歪の中で、不平士族にも太政官にも畏敬される存在だったのです。
 その畏敬は決して西郷が島津斉彬のような奇抜かつ聡明な人物だからではなく、明治維新の『功』なる部分の代名詞としての虚像が形成されていたからです。その虚像は西郷が好む好まざるとも時勢が作り上げたものでした。その虚像に期待する者、畏怖する者、挑む者、それらが西南戦争に帰結して争いを始めた訳です。

 単なる歴史好きが西郷を理解するのは無理だと思います。西郷を理解するには多少俯瞰するようではありますが、取り巻く人物や時代を大局的に見渡す必要があるのです。
西郷隆盛『個』だけを眺めていては西郷は見えないと断言出来ます。

 堅苦しい西郷への論評になってしまいましたが、西南戦争を知るには翔ぶが如くを読むことをあらためておススメします。
 翔ぶが如く、この作品を読むことが出来たことを日本に生きる人間として幸せに思う今日この頃です。

Photo
上野公園に佇む西郷隆盛像。西南戦争で『賊』として散った西郷の名誉は明治の終わりに回復し、政府は日本で一番人の集まる公園の入り口にこの像を設置した。この西郷像は明治維新成功の記念碑なのかもしれない。

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西郷死す (翔ぶが如く十巻)

 明治10年3月19日、高島鞆之助少将率いる別働第二旅団は、八代の背後に上陸し、薩摩軍を攻撃して八代を占領した。この上陸作戦によって熊本城を包囲していた薩摩軍は南へ退くこととなる。
 熊本で敗退した薩摩軍であったが、士気はまだ旺盛であり、事実上の総司令官桐野利秋は人吉へ撤退すると次のような戦略を考えつく。薩摩軍によって三州(薩摩国・大隅国・日向国)を盤踞し、人吉をその根拠地とするというのである。当初から挙兵上京という抽象的な意図をして進軍していた薩摩軍がここにきてやっと戦略らしい戦略を立案するのであった。
 しかし緻密な計画ではないために、その後政府軍の攻撃によって人吉からも退くこととなり、薩摩軍は日向にのがれた。
 
 日向では西郷が兎狩り、桐野は遊郭に出入りするなど戦場の指揮官とは思えない行動をしていた。西郷は挙兵直後から体を差し出した訳であり、桐野は戦うこと以外に生きがいを感じない。よってこうした行動に罪悪の念は感じないのであろう。また、物資や弾薬の不足を補うために不換紙幣の『西郷札』なるものを発行し、それを占領下で流通させようともした。
 日向で戦略らしい戦略を持ち戦っていたのは、私学校が暴発する直前に神戸で情報収集をおこなっていた野村忍介であった。彼は熊本で戦死した慎重派の永山弥一郎を兄事していたためか、桐野の無策ともいうべき進軍に憤りを感じながら従軍していた。しかしここ日向に至ってついに桐野の意向を無視し自らの大隊を率い政府軍と交戦し、その上勝利を収めている。
 このように薩摩軍は強い。日向では野村や他の士族兵も奮戦し、局地的な勝利は収めるが、あくまでも局地戦だけでの強さであり、山県の戦略によって動く政府軍に次第に追い込まれてゆく。そして延岡において政府軍6個旅団に完全包囲されてしまった。
 
 8月16日延岡の北に位置する和田峠の戦いで、西南戦争開戦以来始めて西郷が前線に立ち指揮をした。西郷はおそらくここで死のうと思ったのであろうか。しかし桐野や村田新八らが西郷を前線から退かせたので、ここで死ぬことはなかった。
 この和田峠で薩摩軍は敗れた。誰もがこれで戦争の敗北は決定的だと思っていただろう。しかし口には出さなかった。西郷が生きている限り戦いを終わらないことを兵士、特に薩摩出身の連中はそう意識していたからだ。
 政府軍の包囲が狭まる中、西郷はついに解軍の令を出す。薩摩軍には薩摩士族以外にも九州の他藩出身の士族も含まれていた。その彼らを西郷としてはこれ以上従軍させて死なせてはならないと思ったのであろう。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。 (翔ぶが如く十巻より)

 以上が西郷が発した解軍の令である。
 『西郷がこの地で死を覚悟したのか』と兵士たちから思われたに違いない。これにより政府軍に降伏する者と、このまま薩摩軍に従う者とがここで別れたのである。

 どうせ死ぬなら郷土薩摩で死にたいという気分が薩摩軍の全体を支配していたのか、完全に包囲されている情況を打破しようと『可愛岳(えのだけ)』と呼ばれる難所を彼らは越える決意をした。ここを越えて遠路鹿児島へ向かおうというのだ。
 この可愛岳を越えるだけでも凄まじい精神力が要求されるのに、何と薩摩軍は行軍の途中、守備が手薄であった政府軍の一部を見つけるとそれに攻め込み、食料・弾薬・砲門一門を奪取した。恐ろしいほどの体力と精神力である。
 薩摩軍は可愛岳を越えると道なき道を進み、さらには断崖を登り、渓流をつたって、ついに鹿児島に戻ってきた。

 山県は薩摩軍が再び熊本城下に出現するのではないかと思い熊本の守備を固めていた。実際薩摩軍の中にも再び熊本へと西郷に進言する者いたが、西郷はそれを却下し鹿児島へ向かった。
 鹿児島に到達した薩摩軍は政府軍の守る私学校を襲撃し占領に成功する。また、鹿児島の住民も西郷率いる薩摩軍に協力的であり、さらには熊本の戦いで負傷し帰郷していた薩摩兵も合流するに至り、薩摩軍は鹿児島をほぼ占領した。
 薩摩軍は城山に陣を構えて政府軍との戦いに備えた。薩摩軍は一時は優勢であったが、時間の経過とともに物量に勝る政府軍に包囲されてゆき、9月6日には政府軍によって城山を完全に包囲された。

 城山に残る薩摩軍は約370名、対する政府軍は5万名とも6万名とも言われている。この状況を司馬氏は『戦争ではなく虐殺だ。』と作中で記している。しかしこの政府軍の数が示していることはそれだけ薩摩軍の武威を恐れている証拠なのかもしれない。
 城山に籠る薩摩軍において、西郷の助命を願い出ようとするものがあった。その者たちは徹底主戦派の桐野に悟られることないよう注意を払いながら村田新八ら幹部の許可を受けて政府軍の少将で薩摩人の川村純義の下に西郷助命を願い出た。
 使者は河野主一郎と山野田一輔である。河野主一郎は薩摩軍の幹部であり、ここまで勇敢に戦ってきた。しかしここにきて西郷の命だけは救いたい気持ちが強くなったのであろう。川村もその意を察して『西郷をここに呼べばどうにかする。』ような旨を伝えた。さらに山県から降伏勧告を突きつけられた。降伏勧告とは言っても山県はかつて自身の汚職事件の際に西郷に助けられた経緯があるため、極めて丁寧な文章で降伏を勧めた。(しかし山県は暗に西郷に自決せよとも伝えている)
 これら政府軍の意思を携えて山野田一輔一人が薩摩軍の本営に戻った。皮肉にもここまで勇猛果敢に戦ってきた河野主一郎は捕らわれの身となり、西南戦争後も生き続けることになる。

 山野田が本営に戻り、西郷に川村からの伝言と山県からの書簡を手渡すのだが、西郷はそれらを無視し最後の戦いを決意する。
 戦いは始まった。西郷らは本営としていた洞窟を出て整列し目の前の岩崎口へ進軍した。岩崎口を攻める第四旅団 の司令長官曾我祐準陸軍少将は薩摩人ではない。曾我をここ配したのは西郷を兄事し、尊敬する薩摩人では戦いに躊躇することを山県が危惧したからではないだろうか。

 岩崎口では西郷以下挙兵以来付き従ってきた桐野や村田も奮戦した。そして負傷して歩行することすら儘ならない別府晋介も駕籠に乗って従軍していた。別府は西郷から最期の時には介錯してほしいと命じられていた。西郷を心から慕う別府にとっては最高の誉れであったことは間違いない。
 西郷とともに殉じようとする幹部たちであったが、意外な人物が政府軍の降伏した。野村忍介である。
 野村は戦いの当初から桐野のやり方が気に入らず、日向では桐野を無視して自ら隊を率いて独断で戦った経歴の男だ。野村は『桐野がやった戦でおめおめ死ぬよりは、法廷で義挙の趣旨を明らかにして刑死しよう。』としたのだ。桐野の従兄弟である別府九郎もこれに従った。戦後、野村は10年の刑に処せられた。

 桐野は幕末に『人斬り半次郎』として恐れられたいた中村半次郎である。西郷はこの男を凶器のように使った。そして半次郎も凶器であることに徹していた。しかし明治維新がこの凶器に思考を与えてしまった。
 司馬氏は半次郎をこう考察する。
『この凶器(半次郎)は西郷によって陸軍少将となり、日本の軍事権の一部を掌握した。凶器は栄誉と権限を得たために自立したために凶器自身が思想と判断で動くようになり、ついには飼い主であった西郷を自分の思惑へと引きずり込んでしまった。』
 実に的を得ている。しかし桐野だけが悪いのかと言えばそうではなく、時勢という悍馬が西郷を欲したことがすべての始まりだったのではないだろうか。いや時勢そのものが西郷に憑依したのかもしれない。

 城山の戦いが始まってしばらく、銃弾の雨が西郷らを襲った。そして肥満である西郷の体には銃弾が打ち込まれ、自らの最期を悟った。
『シンドン(別府晋介)、モウ、ココデヨカロウ。』
西郷は別府の介錯によって波乱の人生に幕を閉じた。
 西郷に続いて村田新八も腹を掻っ捌いて死んだ。次々に死んでゆく薩摩兵の中で、桐野だけは堡塁に登り一人銃を構えて政府軍に対抗していた。半次郎時代の瞬発力は衰えておらず、向かってくる兵士を次々に狙撃して倒した。しかし、至近距離から狙撃され堡塁の中に落ちた。別府は落ちてきた桐野を見たが頭を撃ち抜かれて即死だった。

 政府軍の攻撃は終わった。戦場には裸の屍骸が散乱していた。酷いことに裸にされた上に局部を口に突っ込められた死体もあった。(薩摩人以外の)政府軍兵士、特に賊軍とされた藩出身の兵士にとっては哀れみも何もない。憎しみだけが士気を高めていた。
 これが戦争なのである。

 西郷の首は後日発見され、死亡した幹部たちは江藤のように曝し首にされることなく丁重に葬られた。維新最大の功労者と太政官薩摩閥への配慮であろう。そして薩摩人を刺激しないようにと意図もあったのかもしれない。

 西郷の死から1年もしないうちに彼の盟友であり、敵であった大久保利通が紀尾井坂で暗殺された。西郷挙兵により第二の維新を目指していた石川藩士島田一郎の犯行であった。
 西南戦争の導火線に火をつけた川路利良も明治12年病死する。大久保の死後、陰鬱な表情に変わり、かつての生気は感じられなかったという。

 時勢という大きな波に呑み込まれた幕末維新の英傑たちが去り、波が引いた後に残された人々が新たな時勢に立ち向かおうとしていた。世界を相手に・・・。

 終わり。 

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開戦(熊本城・高瀬・吉次峠・田原坂) 翔ぶが如く(八巻から九巻)

 私学校本堂における評定において西郷が
『自分は、何もいうことはない。一同がその気であればよいのである。自分はこの体を差し上げますから、あとはよいようにして下され。』
と発したことでついに挙兵上京が決まり、私学校党を含む多くの鹿児島(旧)士族が馳せ参じ、約1万以上の軍勢となった。
 鹿児島の人々へは以下のような布告文が高札などに書かれ掲示された。
『今般、陸軍大将西郷隆盛ほか二名、政府へ尋問の筋これあり、旧兵隊などが随行し、日ならず上京の段、届出があった。これについては朝廷へも届け出、また各府県庁ならびに各鎮台に通知した。ついてはこの節に際し(県では)人民保護に一層注意して事を運ぶから(人民たちは)あつくその意を承知し、ますます安堵するよう、この旨を布達する』(以上翔ぶが如く八巻本文より)
 『政府へ尋問の筋これあり』とはおそらくは川路の密偵中原らが企てていた西郷暗殺計画についてであろう。私学校党らの暴発おいて一番の要因はこれに起因するところが大である。
 こうして集まった薩摩士族らは2月17日、雪の降りしきる鹿児島を発ち北上を開始した。

 兵力は7大隊約12000人にものぼり、この軍勢を見ると政府への尋問というよりは、対政府戦を想定していたとしか言いようがない。しかし想定と言葉を使ったが、実際には軍略も政略もなく、今まで鬱積された薩摩士族の外征気分を発散するがの如くの挙兵であったと考えられる。それを暴走と表現するのは正しくないかもしれないが、暴走する薩摩士族という悍馬に西郷は乗せられてしまったのだろう。
 話が下るのだが、各地での戦いおいて指揮の主導権を握っているは桐野である。西郷は陣頭指揮を採ったり、評定で作戦を練るようなことはしていない。西郷はあくまで従軍している兵士の『玉』にすぎなかったのだ。

 熊本城には政府軍の『鎮台』が置かれている。熊本鎮台の司令長官は土佐出身の少将谷干城であった。その谷率いる熊本鎮台へ陸軍大将西郷隆盛から一通の書簡が送られた。ただし文章は西郷の起草・直筆ではなく、鹿児島県令大山綱良が県官の今藤宏に書かせたものである。内容は以下のとおりである。
『自分(西郷)はこのたび政府に尋問するところがあって明後十七日に鹿児島県を発する。ついては陸軍少将桐野利秋、篠原国幹および旧兵隊の者が随行するので、貴鎮台のそばを通過するときは、貴官は鎮台兵を整列させ、私の指揮を受けられるべく、この段、通知する。』(以上翔ぶが如く八巻本文より)
 谷自身は鹿児島の私学校党が陸軍の弾薬庫を襲撃した時から戦いを決意していた。しかし熊本鎮台には参謀長の樺山資紀をはじめ薩摩人が多く、彼らが薩摩軍に内応するのではないかと危惧していた。しかし薩摩からの鎮台へ届けられた書簡を読んだ樺山が『先生(西郷)は非職の私人ではないか』と激昂したことで谷の懸念は幾分か払拭されたのである。そして北上してくる薩摩軍に熊本城に籠城して交戦しようと決意を固めた。

 薩摩軍と交戦する2日前の2月19日、熊本城の天守閣を含む多くの施設が炎上した。この火災で籠城戦に備えて集めていた兵糧も燃え尽きた。そして城下も約9割が焼失した。ちなみに戦国時代から戦の前には城下を焼き払うことが倣いであった。それゆえに城下の焼失は鎮台兵による付け火であったとも伝えられている。熊本城火災の原因は現在に至っても判明していない。
 熊本城の炎上により鎮台で備蓄していた兵糧を失ったことは籠城戦を前に大きな打撃であった。そこで熊本鎮台は急ぎ兵糧調達して籠城に備えた。

 熊本に進軍した薩摩軍大隊長別府晋介は焼け野原の城下を目にし、『町を焼いたということは熊本鎮台があくまで戦うと決意したことだ。』と他の者に語った。この別府の言葉が西南戦争の緒戦とも言える熊本城攻防戦につながってゆく。別府の率いる独立大隊(6~7番大隊)が熊本城下南部に位置する川尻に到着した時、鎮台から派遣されていた軍勢が別府の率いる軍勢へ発砲し、戦いが始まった。
 薩摩軍の本来の目的であるならば、熊本城は素通りして一路北上すべきである。しかし彼ら(主に篠原や桐野といった評定での主戦派)は熊本城を攻めた。この事実一つを見ても挙兵そのものが軍略も政略もないことが分かる。さらに先の神風連の乱において鎮台が予想以上に弱いことを薩摩軍は知っていたためにいとも簡単に落城させることが可能だと思っていたに違いない。

 熊本城攻防戦は鎮台側による銃砲攻撃の雨に薩摩軍は苦戦を強いられた。接近戦では徴集された鎮台兵は薩摩軍に及ぶはずもないが、火力を用いた戦いならば兵器の優れる鎮台軍でも勝負になる。銃弾・大砲を繰り出す熊本鎮台と薩摩軍との戦いは一進一退を極めた。籠城する鎮台の攻撃に薩摩軍も予想外といったところで、全軍を挙げての城攻めから、南下してくる政府軍に対しても兵を分散して迎え撃つ作戦へと変更した。
 ちなみに、小倉第14連隊を率いて熊本城へ入城するはずだった連隊長の乃木希典少佐は、途中北上した薩軍との木葉における野戦において連隊旗を奪われる失態を犯している。

 薩摩の挙兵に熊本の旧士族たちも馳せ参じた。藩校時習館出身者で構成される熊本隊、宮崎八郎らルソーの民約論に傾倒してる士族たちで構成される熊本協同隊などだ。
 彼らは地理に詳しいことから自ら道案内役を買って薩摩軍に従軍した。
 
 熊本城下から北上した薩摩軍の一部は熊本北部の高瀬において博多から南下してきた政府軍(第1、第2旅団)と三度の会戦を繰り広げた。兵器の能力に劣る薩摩軍であったが、菊池川を挟んでの攻防戦は優位に進めた。政府軍も徴集兵以外に元士族である近衛兵も参戦し、奮戦した。
 薩摩軍はその高い士気で政府軍を押し返したが、どうゆう訳だかこれだけの戦いを繰り広げたにもかかわらず高瀬(熊本城下西北に位置する町)占領することなく退くのである。ここにも薩摩軍が軍略を用いず、単に武威を示すだけに終始したことが分かる。そして高瀬は薩摩軍からの攻撃を受けることなく、政府軍が占領に成功した。

 政府軍が位置する高瀬と、薩摩軍の主力が展開する植木との間にあるのが吉次峠と有名な田原坂である。政府軍がここを突破すれば熊本城に入城することができる。それゆえに薩摩軍にとってはここは死守しなければならない拠点であった。
 ここでの薩摩軍の勢いを凄まじいものであった。兵器の性能で劣る分を接近戦の白刃攻撃によって補おうと時には正面から、時には背後から近づき政府軍の兵士を次々に蹴散らしていった。『占領される』という意識が希薄なためか常に『攻め』の姿勢の薩摩軍、ゆえに司令官級の人物までが最前線で戦闘に参加し、兵士たちを鼓舞しているのである。吉次峠の戦いでは第1大隊隊長篠原国幹が敵の狙撃兵によって銃撃され死亡した。篠原は隊の先陣の中にあったために、かつて近衛軍時代に面識のあった敵兵によって狙撃の的にされたのであった。
 篠原たちの奮戦が政府軍の吉次峠を断念させ、田原坂に向かわせた。

 田原坂は薩摩軍の要塞と化していた。翔ぶが如くの著者司馬遼太郎氏は自らの著書『街道をゆく』の中において次のように記している。
『坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。』
 この田原坂を突破しなくては熊本城下に進むことができない。しかし田原坂は薩摩軍の驚異的な士気と白刃攻撃により政府軍、とりわけ徴集された百姓兵などは無残に殺されていった。

 大警視川路利良は大阪にいた。川路は臨時に陸軍少将の地位に就き政府軍の兵站基地である大阪で戦争の形勢を見ていたのである。
 前線では士族あがりの巡査を従軍させて薩摩軍に対抗させてみてはどうかと言う意見が出ていた。現在田原坂方面で戦っている兵士は近衛兵などを除けば大半は百姓兵であり、猿の甲高い鳴き声のような奇声を発して切り込んでくる薩摩武士に恐れおののいて士気が低下している。そのため武士には武士をと警視庁の巡査連中に助けを乞うてきたのである。川路自身は巡査の参戦に賛成であり、警視庁から選りすぐりの猛者を九州に送り込んだ。
 今回の戦いの事実上最高司令長官である山県有朋は、当初巡査の参戦に懐疑的な姿勢であったが田原坂を含む各方面での劣勢を打開するためには仕方ないと思ったのであろう、巡査の参戦を認め彼らの部隊を『抜刀隊』と名づけた。

 警視庁の士族あがりで組織された抜刀隊は3月14日、田原坂に陣取る薩摩軍に対して奇襲を仕掛けることに決まった。ところで抜刀隊の中には会津士族が多くいたと伝えられている。彼らが参戦を前に川路に『会津の戦いでの復讐を肥後で遂げよ』のような言葉を掛けられたのではないかと著者の司馬氏は作中に記している。
それは川路が私学校へ密偵を送った時の郷士連中を煽る姿と同様であったのであろう。あくまでも司馬氏の憶測ではあるが、実際もそのような声掛けがあっても不思議ではない。
 西南戦争には福地桜痴や犬養毅ら新聞社の記者たちも政府軍に随行していた。ここで会津士族が戊辰戦争での遺恨を晴らすことできたならば判官贔屓の日本人にとっては痛快であり、これが報道されることで会津の汚名をそそぐことが出来ると会津出身の巡査連中の士気も上がったに違いない。

 3月14日、抜刀隊による奇襲攻撃が開始された。突然の斬り込みに薩摩の兵士たちも驚き、退却する兵が続出した。
 ところが薩摩軍は士族兵である。やられっ放しの訳がない。形勢を立て直し再び政府軍に攻め掛かった。前日とは比にならない政府軍の強さではあったが、この日は結局田原坂を突破することは出来なかったのである。
 田原坂での攻防は3月20日まで及び、薩摩軍は退却することになるのだが、この時点ではまだ薩摩軍強しのイメージを政府軍に与えたままであった。

 司馬氏は薩摩の兵士は勇敢に戦うが、逃げることに負い目を感じないと作中で記している。『特攻』精神というのは明治の後半から培われた歪な倫理観であり、武士の時代には逃れることは戦術の一つであった。
 そうした理由かは分からないが、薩摩軍は防衛線である植木・木留の戦いでも敗れ、南へ敗走することになった。
 負け戦続きの薩摩軍であるが負けてなお強しといった感じで、各地で新政府軍を苦しめていた。熊本城もまだ包囲した状態であり、鎮台は籠城が長引いていることから極度の食料不足に陥っていた。
 勇敢に戦っていた薩摩軍であってが、戦線が熊本を中心としていたために南部方面は手薄になっていた。そこに目をつけた男がいた。陸軍大佐の高島鞆之助である。
 軍勢の手薄の八代あたりから旅団を上陸させて北部前線に送り込めば植木の旅団と挟み撃ちに出来るではないかと考えたのだ。この戦略を思い付いた高島は有能であるが、逆に前線で指揮をしていた抜け目ない性格の山県がこの点に気づかなかったことは実に意外である。
 こうして政府の衝背軍が上陸し、戦況は一気に政府側に傾いた。

 戦況が悪化し、熊本の西郷も移動しなければならなかった。この西南戦争における西郷は囚われ人のようであり、戦争の指揮は桐野利秋をはじめとする隊長クラスに委ねられたいた。特に桐野は戦略全般を指揮する立場にいた。かつて陸軍少将であった桐野に反発する人はほとんどおらず、西郷とともに死すると決めていた村田新八も桐野を諌めることはしなかった。
 西郷はこの後、人吉に滞在し、そこにも軍勢が迫ると日向方面に移る。このように薩摩軍の『玉』として何を指揮する訳でもない西郷はついに故郷鹿児島で追い詰められるのであった。

 十巻に続く。

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薩摩決起へ 翔ぶが如く(七巻)

 明治9年秋、熊本の神風連、萩の前原党、秋月の旧士族らが一斉に決起した。太政官政府はこれらを短期間で制圧したが、必然的に不平士族たちの気分が高揚したのはいうまでもない。もちろん薩摩の私学校連中もその気分でいた。
 警視庁の川路良利は事前に密偵を送り、特に前原一誠に関しては近く蜂起の可能性があることを知り得ていた。
 前原は密偵に多くのことを喋り過ぎた。後にそれを知り神経質になったことはかつての盟友品川弥二郎へ送った手紙を見ても内容の『言い訳がましさ』から窺い知ることが出来る。
 かつて参与であった前原に対して過敏になり過ぎていた政府が、神風連が真っ先に蜂起すると予測していなかった可能性がある。実際熊本では県令安岡良亮や県幹部、そして熊本鎮台が夜襲を受けて甚大な被害を受けた。刀しか持たない相手にである。
 神風連と事前に連絡をしていた前原党や秋月の士族は呼応するように決起したが、政府は短期間で制圧している。
 この事実は士族の不満を全国に形として露見した『負』の部分がある反面、鹿児島の周辺士族を鎮圧し、鹿児島私学校党への協力勢力を抑えたという『正』の成果も得た。

 鹿児島の私学校党はこの情報に興奮した。機が熟したとでも思ったのだろう。しかし詳細については分からない。そこで鹿児島県警の署長を務める野村忍介は情報収集のために大阪へ向かった。(この時、鹿児島県は鎖国同然で一種の独立国の様相を呈していた。)
 野村は大阪府警で騒乱に対し政府から各県警察へどう命令されたかなどを確認し、さらに新聞では薩摩や中央官僚らがどのように報道されているかなどを調べた。
 各紙薩摩に好意的だった。これには野村も気分を良くしたが、神戸から大阪へ鉄道が敷かれ文明開化が進んでいる事実に
『政府は薩摩の田舎でいってるように弱くはない。』
と薩摩にいる永山弥一郎の言葉を思い出した。
 永山弥一郎は西郷下野の際には辞職せず、北海道開拓の官吏として残った。永山が薩摩に戻ったのは千島樺太交換条約に反対したことによる。それだけ現実的な視点で時勢を観察出来る男なのだ。
 野村は上方で得た情報を手に薩摩へ戻った。

 これより少し前、警視庁の川路良利大警視は薩摩の郷士身分を呼び集めある指令を出していた。指令とは薩摩への密偵工作である。
 密偵の人選は殆ど薩摩郷士の者であった。旧薩摩藩は江戸幕府の封建体制をどこの藩と比しても強くしいていた。身分の高い上級士族は郷士たちを蔑み、そして日常的に差別をした。この事は薩摩出身の郷士にとっては屈辱の体験であり、人によっては怨念として記憶に残っている。
 西郷と共に下野した薩摩の近衛兵団の多くは上士出身者である。西郷の側近で陸軍少将の桐野利秋は郷士出身者であるが、それは西郷に気に入られていたために厚遇されただけで、実際には近衛兵は上士から、警察は郷士からという具合で西郷は人選した。よって川路も郷士出身者である。
 川路は密偵を命ずる者に
『かつて受けた屈辱を晴らせ。』
というような事を言い、士気を高めた。その密偵の一人中原尚雄はその一言に並々ならぬ決意をした。
 ところで大警視川路利良だが、現在の身分を与えてくれたのは西郷である。本来ならば薩摩への密偵工作に躊躇しても不思議ではないはずだが、川路はそのような想いは皆無のようだ。余程『公』に資する意識が強いのだろう。
 川路の警察組織を築く上で手本にしたのはフランス視察中に知ったジョセフ・フーシェという人物である。フーシェはフランスでは変節漢で悪名高く、武士道を重んじる日本人ならば軽蔑の対象である。フーシェは自らの保身のためにフランスの警察組織を整備し発展させたのだが、川路はフーシェの『罪』部分よりも警察組織を築いた『功』部分を高く評価した。フーシェは密偵を政府高官のもとに送り秘密を握ってユスリ紛いのことをした。しかし川路はフーシェとは違い密偵を『公』のための必要な工作と位置付け整備した。
 川路とフーシェは警察組織を整備する動機は違ったが、川路がフーシェを模範としたことは政府にとっては最強の武器となる。
 こうして川路は挑発と情報収集のための密偵を放った。

 鹿児島は私学校党らが今こそ挙兵すべしと沸き立っていた。その興奮状態は鹿児島全域を一種の独立国の様相とし、若い私学校の連中は上京して君側の奸(大久保らのこと)を討つべしと鼻息を荒く叫んでいた。
そのような時期に川路の放った密偵は帰郷という名目で鹿児島に潜入した。もちろん一種の鎖国状態である鹿児島においては帰郷した者を猜疑心をもって見た。
 明治9年11月の評論新聞紙面において『流言あり。政府密かに刺客を鹿児島に遣はし、西郷大将を暗殺せんとす。』と掲載された。この情報は鹿児島にももたらされ、私学校党の連中は風説ではなく確報として受け止めた。故にこの時期に帰郷する者に対し、当然の如く疑いの目を向けた。
 密偵中原尚雄も例外ではない。私学校党側は中原が密偵であるかを調べるべく、足軽身分の谷口登太を中原へ接触させた。
 中原の元へ谷口が出向くと中原は谷口を丁重に扱った。そして酒が入ったいたせいか、私学校の連中には政府軍を倒せないと語り出し谷口を懐柔しようと試みた。さらに中原は饒舌となり
『此処に於て秘中の秘策を用ゐ、十分可相崩之事決し居候に付、第一西郷隆盛を暗殺せば必ず学校は瓦解可至…』(自分は西郷と面識があるから面会を得て刺し殺す覚悟がある。すれば私学校は瓦解するだろう…)
と私学校の連中が聞けば驚愕し、大騒乱となることを語ったのだ。
 谷口はそれに私学校側に通報し、中原は捕縛された。
 中原は私学校党からの拷問を受けたがその事実を認めなかった。さら時を下り西南戦争後の裁判においても否定し続けた。
 西郷暗殺が川路から指令であったかは現在でもはっきりしない。ただ密偵がその気分であったことは間違ないだろう。

 時を同じくして鹿児島にある陸軍弾薬庫から政府が弾薬の類を接収し始めた。明らかに挑発行為である。この政府の行動に私学校党は激昂した。時は中原による西郷暗殺が露見したのと同時であり、私学校党はそうした複合的要素によってついに暴走、弾薬庫を襲撃し弾薬を奪取した。
 この報は狩猟に勤しんでいた西郷にも伝えられた。
『シモォタ!』
この報に接した際、西郷がこの言葉を発したと後世に伝えられているが、心境としてはまさにそれであるだろう。
今まで鹿児島の山中にあって世捨人のような生活を送り、私学校党を無言の圧力で抑えてきた西郷にとってはあってはならない事態が起きたのだ。こうして西郷は下山し、私学校本局において臨時の大評定を開いた。
 評定には主だった西郷の側近や私学校幹部らが参加し、決起ついて賛否を求めた。求めたといっても桐野や篠原国幹らは既に挙兵し上京すべしの規定路線をぶち上げている。事ここに至って慎重論を唱えるのは永山弥一郎だけだった。永山は明治7年まで官吏の職にあったので政府の力は薩摩で言われているほど弱くはないと思っている。今回挙兵しても苦戦は必至だと主張したが、場内挙兵の雰囲気が充満しており、永山の主張は黙殺された。
 評定を決したのは西郷の一言だった。
『自分は、何もいうことはない。一同がその気であればよいのである。自分はこの体を差し上げますから、あとはよいようにして下され。』
 幕末、政略と軍略で名を馳せた天下の西郷とは思えない発言であるが、これによって西郷ら薩摩武士一同は挙兵するに至った。
 西南戦争の幕開けである。
 八巻へ続く。

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不平士族 翔ぶが如く(六巻)

 五巻の後半から物語の中心人物となった宮崎八郎だが、肥後でルソーの『民約論』に触れ、民権思想へと傾倒する。宮崎が民約論に触れるのは中江兆民による民約論が出版される以前の時代であるが、フランス留学から帰国した兆民と何らかの方法で通じ、その思想を知るに及んだのではないかと司馬氏は分析している。
 民権思想へと傾倒する宮崎はあることを思い付く。明治7年から8年当時、各県における地域行政は江戸期の名残から庄屋や富農たちが名前を『戸長』と変えて担っていた。宮崎はその戸長の業務は『民会』という民主的な会合によって選出された者によっておこなうべきだと考え、東京・浅草本願寺の地方官(府県知事)会議に出席している白川県(熊本県)令・安岡良亮に談判すべく、単身東京へと向った。
 藩校時習館出身で、先の台湾出兵にも参戦した宮崎のことを安岡は意外にも評価している。そのため植木学校設立の折には躊躇うことなく助成金を支給した。また浅草では宮崎を丁重に迎え、宮崎の『民会開設』なるものを聞いた。安岡は宮崎の話を黙々と聞き、即答を避け宮崎と別れた。しかし実際にはその内容に驚愕し、(安岡としては『民会』は時期尚早であると思ったのであろうか?)熊本へ戻ると真っ先に植木学校への助成金を打ち切った。元々財政の厳しい学校であったたために必然的に廃校となった。安岡良亮は宮崎の急進的な思想に危機感を覚え、その思想が植木学校を通じて培養されるであろうことを恐れ潰したと考えられる。
 東京で不平士族らの情報収集をおこなっている宮崎の元に、熊本の同士が訪ねてきた。植木学校が廃校になった経緯を述べた上で事態打開のために宮崎に熊本へ戻るよう願い出るが、宮崎は東京に止どまるという。東京には薩摩人『海老原穆』という人物がおり、彼の主宰する評論新聞社を通じて薩摩の情報を得ると同士に告げた。

※海老原穆とは薩摩人でありながら、太政官の政策に異を唱える人物であり、どういう訳か、薩摩藩財政再建の功労者・調所広郷の遺した財産を相続してその財産をもって評論新聞社の活動資金としている。

 宮崎曰く、熊本にあっては西郷蜂起の情報が得にくい、故に薩摩との連絡も密である評論新聞社を通じその情報を得ることで自分たちの西郷蜂起に呼応すると言うのだ。
 以上の話でも分かるように、宮崎が民権運動に傾倒したといっても、武力による政権打倒の道は捨てておらず、さらに西郷が蜂起し太政官府を倒したとしても西郷が武断主義者である以上(これは宮崎自身の西郷像であるが)、事が成った後には西郷らも武力で倒し、理想とする民権の政府を立ち上げるという。これらの思考は当時、いや現在でも書生如きの机上の空論としか映らない。しかし宮崎は大真面目にこの構想が現実可能だと信じていた。それだけ維新というものが与えた衝撃と反動は大きく、書生の思考回路を誇大にさせていたのかもしれない。結局は志士あがりの民権活動家とは所詮宮崎のような人物が多かったのでだろう。

 次の話は島津久光の事に移る。
 太政官府は西郷隆盛という大きな重石を征韓論争により失い、不平士族が西郷を戴き、反政府動乱がおこることを恐れた。そのため、西郷下野の直後に復古主義者とも言える旧薩摩藩国父・島津久光に左大臣就任を要請する。
 この左大臣という役職は王政復古から明治7年までの間、太政官府には置かれていなかった。左大臣は時代を遡れば登場するのような役職で、有名なところでは奈良時代の権力者『長屋王』が左大臣であったことは知られている。そのような古の役職を復活させて久光に就かせようとしたのには不平士族の重石としててであろう。また、久光やその一派が西郷と手を握り、さらには全国の不平士族と呼応して反乱がおきないように役職に就けて久光を半ば拘束しようと考えたのかもしれない。
 この久光、極端な復古主義であり、左大臣に就任してからといもの幕藩体制に戻せと主張、ついには太政大臣である三条公にまで弾劾状を奏上するに至るのであった。しかし天皇(新政府)は五箇条の誓文により幕藩体制を否定した訳で、太政官にとっては受け入れ難いものばかりである。当然であるが大久保ら参議はこれらを黙殺した。
 そのような経緯から久光は左大臣の職を辞し、さっさと鹿児島へ帰ってしまう。これにより旧士族の重石となっていた西郷、そして旧体制の代表格久光を失った太政官は、必然的に不平士族との本格的な対立へと向かうのであった。

 六巻では『萩の乱』を起こした前原一誠についても詳細に記されているが、ここでは省略させてもらい後半物語の中心となる神風連について話を進めたい。ちなみに司馬氏は前原一誠について『萩の乱』の首魁として知られてはいるが、実際は不平士族の気分が名以上の存在に祭り上げたと考えているようだ。
 さて神風連であるが、熊本に存在した過激勤王攘夷の思想集団の俗称であり、本来は『敬神党』と呼ばれている。熊本には敬神党以外にも『学校党(藩校時習館に在籍した志士の党派)』や『実学党(横井小楠の思想を継承している党派。太政官の政策と近い)』があり、この二派閥は政治色が強いが、神風連は政治色よりも思想や宗教色が強い。そもそも神風連とは、彼らが『元寇』の時に吹き荒れた嵐(神風)によって夷人を倒すという思想を持ち合わせていたことでそう呼ばれるようになった。故に神風連は、政治的な思想に拠って行動するよりも宗教的(神道)な精神により行動する集団である。
 その神風連が明治9年10月、廃刀令に反発し反乱を起こした。ただ反乱の原因は廃刀令だけではなく、太政官府がおこなう政策の西洋化や、征韓論や台湾問題において膨張主義に踏み切れない弱腰な姿勢にも起因していた。これらは現代日本における右翼思想の原点とも言える。(司馬氏もそのようなことを述べている。ちなみに後者は秋月の乱をおこした宮崎車之助らが濃厚に主張したものである。)
 また、世の不平士族が西郷の挙兵に期待していたのに比し、神風連は西郷ら薩摩など俗物であるので期待などせずに宇気比(うけひ)<おみくじみたいなもの。彼ら曰く神託>によって行動指針を決めた。恐ろしいほどの信心である。当然この反乱も宇気比により決まった。
 神風連は極端な国粋主義者であるので、反乱には銃器は用いず、刀のみで蜂起した。夜中に熊本県の役人を襲ったことから被害は甚大で、県令の安岡良亮や熊本鎮台司令長官、警察幹部らが殺害された。また襲撃を受けた熊本鎮台でも多くの百姓兵(徴兵された兵士)が逃げ切れずに惨殺された。まったくもって無差別殺人であるのだが、神風連にとっては洋化された卑しい官を成敗する義挙であった。
 当初は夜襲によって神風連は勢いを誇っていたが、思想上の理由から銃器を持たない神風連は次第に劣勢となり結局は後に日露戦争で活躍する若き司令官児玉源太郎が指揮する兵士たちによって鎮圧された。この乱に参加したメンバー約170人のうち約120人が死亡したと言われている。実に凄惨な反乱であった。
 この神風連の乱は結果的には失敗に終わったが、世間には『鎮台兵弱し』のイメージを植えつけることになった。そしてこのイメージが西南戦争で薩摩軍が鎮台兵の守る熊本城に向かうことへつながってゆくのである。

 神風連の蜂起の後に呼応して『萩の乱』や『秋月の乱』が起こるが、果たして太政官はどのように対処するのか?そして西郷はついに動くのであろうか?七巻以降へと続く。

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西南戦争の戦火を免れ、江戸期から現存している『宇土櫓』。築400年以上の宇土櫓において鎮台兵と神風連のメンバーが戦った可能性はある。

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準備なき台湾遠征と巧な大久保の事後処理 翔ぶが如く(五巻)

 琉球民を生蕃(せいばん<概ね台湾を指す>)牡丹社(台湾の地域)の高砂族に虐殺され、その報復という名目で西郷従道は出兵することになった。当時の琉球は日本と清国との両属となっており、旧来であれば『報復』などといった名目は成り立たない。しかしこの出兵は征韓論で下野した士族たちを取り込んだ遠征にするべく、従道にとっては実現させなければならない外征であった。このことに多くの参議は反対したが、大久保や大隈は賛成の立場で従道を支持した。
 従道は長崎へ向かう途中に鹿児島に立ち寄り、兄西郷隆盛と会うのだが、そこで兄に台湾遠征の旨を伝え、その上で薩摩士族を遠征に同行させたいと願い出た。隆盛は従道に対し『郷士の連中を連れてゆけ』と言い、従道は兄の言葉どおり薩摩士族ら旧士族連中を『徴集隊』として遠征に同行させた。
 西南戦争が起こるのが1877年(明治9年)であり、その2年前のこの時期に従道が隆盛を訪ね、薩摩士族を遠征に徴集させた事実は新政府の中でも不平士族への対策が外征にありと考える人々がいたことを物語っている。また、隆盛が下野したとはいっても実際にはその影響力は十分に持ち合わせていたことが分かる。
 数日後、従道は長崎で遠征に備え大久保らと打ち合わせをしていた。大久保と大隈以外の参議はことごとく遠征には反対であり、太政大臣の三条実美は遠征中止の使者を従道へ送った。ところが従道は中止など出来ないと三条の意見を撥除けてさっさと台湾に向けて出発してしまう。本来自己の感情を抑えることが出来ない従道ではない。しかしこの遠征が単なる外征だけの意味を持たないことはこの従道の行動に見ることが出来る。それは不平士族への対策であり、従道の兄西郷隆盛の存在も大きかったのであろう。
 これは新政府にとって初の本格的外征であるが、出発してから準備不足が露見する。食料用の肉は腐り、飲水も不足、さらには熱帯に近づくにつれてマラリアやアミーバ赤痢といった病に倒れる者も続出した。
 台湾に上陸すると牡丹社に対して攻撃はしたものの、実際の被害は日本軍の方が甚大であった。戦死者は12人であるのに対し、前述した病による死者は700人を超え、いかに外征に対して準備不足であったかをうかがい知ることが出来る。この当時の新政府には外征するだけの戦略も軍事力も持ち合わせていなかったのだ。
 
 時を同じくして日本本国では太政官を揺るがす事態が起こっていた。英国からの抗議である。英国は清国に多くの権益を持つ。故に新興国である日本がその聖域(清国領土)に踏み込むことは面白くなく、ただちに兵を引き上げるように容喙してきたのだ。英国から多額の外債を引き受けてもらい頭の上がらない日本にとっては無視できない話であり、参議たちも動揺を隠せない。そこに『私にすべてを一任して清国へ派遣させてくれ』と申し出た男がいた。大久保利通である。
 大久保は台湾からの撤兵を清国との交渉によって解決することを目指した。それは清国から今回の出兵を『仁義の挙』であることを認めさせ、その上要した費用を得ようともするのである。実に狡猾であるが合理的な考えである。しかし台湾が清国の領土であるならば今回の遠征は単なる主権侵害(海賊行為)であり、日本の唱える義は立たない。大久保は清国に台湾は『無主の地』であることを認めさせなければならなかった。

 天津に着いた大久保は米国公使館に滞在した。この天津には清国の外交を担う大物政治家がいた。後に下関会議で清国の全権を務める李鴻章である。本来多くの外国公使たちは交渉の前に彼を訪ねる。またそれが慣例となっている。しかし大久保は李鴻章と会わなかった。なぜなら李鴻章は公使・柳原前光に対して今回の台湾遠征について交渉した際に子供扱いして取り合わなかったからだ。大久保はそのような相手と会う必要はないと考えたのであろう。かつこれを心理戦に利用しようと考えたに違いない。
 この大久保の態度を非礼とみた李鴻章は外交窓口である北京の総理衙門に対し『大久保非礼極まり。交渉に譲歩する必要あらず。』のような指示を下したのは間違いないと思われる。
 結局大久保は李鴻章と会わぬまま北京へと向かった。大久保は今回の外交団の随員に仏人法律家のボアソナードを随行させていた。このボアソナードから『台湾は無主の地』であることを万国公法を根拠として主張できると言われ、大久保もその言葉どおりに交渉に臨んだ。
 大久保と清国外交団の交渉は平行線をたどった。大久保は『生蕃は無主の地であり、日本の軍事行動は琉球民保護の観点から義挙である。』と主張し、清国側は『台湾は清国の領土であり、日本の行為は侵犯行為だ。』と主張した。大久保は『清国の領土である根拠を示せ。』と迫るが清国側は『その必要はない。』と突っぱねる。そして大久保は交渉を終わりにして帰国することを決めるのである。大久保帰国となれば日清開戦の可能性が現実味を帯びてくる。そこに清国に対して利権多く持たないドイツやフランスが日本を担ぐことになれば英国としてはたまったものでない。そこで英国は公使ウェードが総理衙門に赴き自らが日本との間を仲介すると願い出た。
 ウェードの調停案は以下のとおりである。

1.遠征軍は償金と引き換えに撤収する。
2.清国は日本の行為を『民を保つ義挙』と認めて先住民に害された者の遺族に見舞金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設や道路を清国が買い上げるという名目で40万両を支払う。
ここで注目したいのは『民を保つ義挙』の『民』とは琉球民のことで、それを保護する日本の行動を「義挙」というのだから、「琉球は日本領土である」ことを清国が認めたのだと解釈された訳だ。これが後の琉球処分へとつながってゆく。
 大久保は交渉を終え、帰国の途中立ち寄った天津で李鴻章に会う。交渉前には決して会うことをしなかった大久保が帰国直前で会いに行ったのだ。何という巧みでしたたかな性格の持ち主であろうことか。このような大久保の清国との交渉における一連の流れを見て、大久保利通という男の大半を観ることができよう。徹底した合理主義者あり利害関係でのみ人間関係を使い分ける狡猾であるが『公』に徹する人物というのが私の大久保評だ。
 大久保は直接帰国せずに台湾に立ち寄り西郷従道に交渉の結果を直接伝えにゆく。太政官から軍事権を委任されている大久保が自ら撤兵を告げるというのである。これは今回の遠征が終始自らの権威と正当性によって進められたことを見せ付けるための演出であろう。

 この撤兵に対して多くの徴集兵たちは不満であった。義兵とされたが良いが遠征とは名ばかりで大久保の外交戦術に利用された形となったからだ。
 そのような徴集兵の中に肥後出身の宮崎八郎がいた。後に辛亥革命の影の立役者として名を馳せる宮崎滔天(とうてん)の兄である。八郎は世間の不平士族同様、新政府のやり方に憤慨していた。が徴集兵には志願している。この当時の不平士族がやり場のない鬱屈感を外征に求めていた事を八郎の行動を通して司馬氏は伝えたかったのかもしれない。さらにこうした気分の延長線上に太平洋戦争があったとも述べている。
 その宮崎八郎だが、郷士の身分でありながら熊本の藩校時習館で学んだ秀才であった。故に維新後は肥後士族として時勢の流れに乗り遅れてしまった。そのことが八郎が反政府への感情を生んだ。

 物語は台湾遠征から故郷熊本荒尾村へ戻った宮崎八郎がルソーの『民約論』に傾倒し、さらに反政府の教育機関として植木学校を設立する話へと進んでゆくが、その部分については省略させて頂く。
 大久保が帰国した明治7年以降、宮崎のような不平士族は民権運動や反政府暴動を展開することとなるが、その経緯については6巻へと続く。

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江藤蜂起 翔ぶが如く(四巻)

 征韓論に敗れて下野した参議は西郷以下肥前出身の江藤新平、同じく副島種臣、土佐出身の板垣退助であった。
 新政府は征韓論という政争がおこる以前に、徴兵制・地租改正・廃藩置県といった政策を実施し既成の制度を変革することで、中央集権による新しい国家体制を目指していた。廃藩置県では薩摩藩国父・島津久光以外は特段の抵抗はなかったが、徴兵制には旧士族、特に戊辰戦争で官軍として戦った武士たちからの反発を受けた。それに加えて地租改正により税負担が増した百姓たちは各地で一揆を起こしている。もし、この一揆と不平士族が結びついて全国で一斉に武装蜂起でもおこれば基盤の脆い新政府にとって忌々しき事態となることは必定である。
 そんな危惧を抱いていていた矢先に征韓論という政争がおこり、それによって武士のカリスマと崇められていた西郷隆盛が下野したのだ。さらに西郷を慕う薩摩士族は続々と中央での職を辞して後を追うように鹿児島へ帰郷してしまう。この事実は鹿児島の地が不平士族による反政府暴動への導火線となることを意味していた。

 征韓論による西郷下野から間もなく、佐賀では新政府一の切れ者と呼ばれていた江藤新平が不平士族の首魁に奉りあげられて武装蜂起した。俗にいう『佐賀の乱』である。
 なぜ、江藤ほどの才ある人物が反乱をおこしたのか?の疑問に対し翔ぶが如くの作中で司馬氏は
『江藤は今こそが第二の維新をおこすべき時と考えている。維新の時のように(肥前は)乗り遅れてはならない。』
『江藤は西郷が立つ事に期待した。長州人は利口だが薩人は愚鈍だから騙せる。』
と述べている。
 江藤自身が蜂起することが、薩摩の不平士族の蜂起へと繋がると考えたのであろう。
 ところが西郷は動かなかった。
 江藤の目論見は外れてしまった。こうなっては佐賀の局地的武装蜂起では維新どころではない。極めて小規模な反乱になってしまい、その意味すら失ってしまう。
 この佐賀の乱を新政府の基盤強化に繋げようと考えたのが江藤の憎むべき大久保利通であった。大久保は
『反乱は小規模なら起きてくれたほうが政府にとっては好都合である。』
と考えた。反乱を鎮圧することで、新政府が不平士族の反乱に対して断固たる措置をすると見せ付けることが出来るからであろう。そして太政官府の三条や岩倉から現地での司法権、行政権を借用し、反乱軍討伐の責任者として佐賀へ赴いた。
 佐賀の士族は旧幕府時代から教育水準は高いと有名であるが、理屈が多いため戦いの実戦では弱い。そのような理由を裏付けるように、戦いでは防衛線が長すぎたことが災いし兵力を散してしまってその力を発揮できないまま徴兵制で集められた『鎮台兵』相手に敗れてしまった。
 敗北すると江藤は逃亡し、鹿児島で西郷に会い決起を促すのだが理解を得ることは出来ず、その後自ら司法卿時代に築いた警察網に引っかかり捕縛され、大久保の『賊徒巨魁の者は、梟首(きょうしゅ)』の方針のとおり惨い最期を遂げた。
 この江藤に対する惨い処置について司馬氏は作中で
『独立国の様相を呈している薩摩への警告、挑戦であったであろうか。』
と述べている。
おそろなくはこの推論で間違いないとは思うが、私は大久保と江藤の間には表の歴史では知られることのない『私怨』があり、このような結果になってしまったと考えている。

 江藤の蜂起が失敗に終わると、大久保や西郷従道ら政府・軍部幹部は次なる手で薩摩に対してアクションをおこしてゆく。それは『台湾遠征』である。
 この台湾遠征は元々征韓論以前から続いている案件であった。琉球人が清国へ渡る際に漂流してしまい、台湾に漂着した。その漂流民を台湾の原住民が殺害した事件を日本のアメリカ公使たちがそそのかして新政府に出兵を促したことから始まった。
 そもそも琉球は江戸時代から日本と清国の両国から統治されている。よって琉球の民と言えども自国民であることには変わりなく、日本(新政府)はその保護のために出兵すべきだと公使らは言うのである。このアメリカ公使たちは猟官運動で地位を得た胡散臭い役人であり、現実的に考えて新政府に容喙するべきことは僭越であろうが、外交慣行に不慣れな日本政府を利用してアメリカの野心を満たそうとしたのであろう。また、当時の副島種臣外務卿はこんな話に興味を示してしまった。
 この問題はしばらく放置されていたのだが、江藤の蜂起と時を同じくして新政府(特に薩摩閥)の中から台湾へ遠征すべしという意見が太政官で取り上げられ、実行に移されることになった。
 征韓論に敗れ、外征により存在意義を示せなくなった旧武士たちを台湾への外征で鬱積した気分をガス抜きさせようと画策した訳だ。
 果たしてこの台湾遠征はどのように進んでゆくのか、五巻へと続く。

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紛糾征韓論 翔ぶが如く(一巻から三巻まで)

 1990年にNHK大河ドラマとして放送された『翔ぶが如く』。この原作は司馬遼太郎の小説で、全十巻にも及ぶ長編作品である。
 当初は翔ぶが如くを読む予定ではなく、同じく司馬遼太郎氏の著書である『坂の上の雲』の2巻以降の続き読みたくて古本屋へ購入しに行った訳だが、どうやら来年のドラマ化が影響しているのかどこの店も在庫がない。ただ最後に行った店ではその日が『1冊100円セール』の日でもあったので、棚に並んでいた翔ぶが如くを購入したことが今これを読むきっかけとなった。
 先日読み終わった同じく司馬氏の作品『最後の将軍』が徳川幕府の側から観た幕末維新であるのに対し、翔ぶが如くは反幕府勢力の筆頭薩摩藩の西郷・大久保からの幕末維新を描いた作品であろうと思い、全十巻という長編小説ではあるももの購入したのだが、第一巻の始まりがいきなり薩摩士族で後の大警視である川路利良の洋行シーンであり、大河ドラマの翔ぶが如くを知る私にとっては肩透かしを食らった感じであった。
 物語は征韓論で太政官府が紛糾する直前から始まり、西郷や大久保の話以外にも多くの政府関係者や旧士族の思惑等々を征韓論を通じて描く形となっている。
 当初は幕末維新の話を期待していたので期待外れ的な感情を抱いていた私であるが、話を読み進めてゆくうちに、当時の新政府役人や薩長土肥出身者の思惑を司馬氏独自の視点で取り上げており、実に面白く興味深い内容である。
 
 現在第四巻を読み進めているところだが、とりあえずは第三巻までの『感想文』的な物をここに記してゆきたい。また、十巻までの間にこのような形で記事を上げてゆきたいとも思っている。しかし、全十巻もある長編小説などは読んだことはなし、かなり根気が必要なのかと思うのだが、日本史、特に江戸期から明治にかけては非常に興味のある時代なので、実際のところ苦にはなっていない。まあこれで苦になるようであれば『日本史探求』などというブログ自体を開設し更新し続けてゆくことはしないであろうけど。

 そもそも各巻話が長く、多くの人物が登場するので、私の印象に残った人物や作中に描かれているやりとりを取り上げてゆきながら感想を述べてゆこうと思う。
 
 翔ぶが如くの作中で、私がもっとも印象に残る人物は川路利良と桐野利秋(中村半次郎)である。
 西郷によって中央政府の官吏に引き立てられた薩摩藩士川路利良と桐野利秋は共に西郷を慕う気持ちを抱いている。しかし2人は征韓論直前の時期にまったく異なる思考をもって行動する。『公』を重んじ『私』を封印する川路。『義』を重んじ、維新の戦いでの栄誉を胸に西郷を絶対的に崇拝する桐野。2人の歩む道は後の西南戦争における各人の果たした役割の原点となってゆくのではないだろうか。そもそも西郷が川路にポリスの役職を与えなければ、西南戦争は違った形に展開したのかもしれない。
 その西郷だが、参議として重責を果たすべく死に場所を求めて朝鮮への遣使に任じてほしいと太政大臣・三条実美に働きかける。征韓論の賛否は別にして、その姿は『静』の西郷というイメージを覆す『動』の西郷を私なりに感じた。また、征韓論という私から言わせてもらえば愚行(当時の日本国の生産力を考慮した際の発想)に西郷や切れ者江藤新平らが提起したのかもこの作品を読むと分かる。
 西郷は純粋に『師匠』である島津斉彬の構想を実現するために征韓論を成し遂げよう(朝鮮を占領しようという発想ではなく、朝鮮を説き彼の国においても維新を達成させ、さらには清王朝も加えた東アジア連合によって列強と対峙すべしという構想)とするのだが、この構想に乗っかるようにして『維新によって冷遇されている不平士族の鬱積を晴らす』ことや『維新に乗り遅れた肥前の権勢を征韓論と共に増す』などといった思惑が重なってゆき、ついには征韓論が政争の道具と化してしまう。
 そして洋行帰りの連中はそれを『愚の骨頂』と罵り、潰しにかかる。特に伊藤博文や大隈重信といった現実主義者(司馬氏曰く二流の人物であるようだが)は征韓論潰しのために東奔西走する。
 私自身、出来るだけ歴史を客観的に捉えようと心掛けているのだが、もし私が当時太政官の参議であって征韓論を目の当たりにしていたならば、おそらくは反征韓論の立場を取っていたであろう。なぜなら西郷の掲げる征韓論は幕末に島津斉彬が西郷に語った東アジア連合という机上の空論を基にしているため、現実的に維新により成立した新政府の台所事情を考えたら、外征などは『愚の骨頂』の何物でもない。
 と、征韓論は太政官の廟議でも当然紛糾し、太政大臣の三条が心労で倒れるに至り、反征韓論者の岩倉具視が代理となることで征韓論を主張する連中は事実上敗れたのである。(征韓論自体は『先送り』という結論だったらしい。)
 敗れた参議たちは一斉に下野するのであるが、下野した連中がどのような行動を取るのかは四巻以降の物語として続くのである。
 
Seikanronzu
太政官の廟議で紛糾する『征韓論』を描いた図。寡黙な西郷が声を荒げたと伝わっており、その執念を垣間見ることができる。

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悍馬のような時勢

 小説「翔ぶが如く」の中で、大警視(後の警視総監)となる川路利良が、旧幕臣で明治政府の官僚となった沼間守一から欧州視察の帰途、船上で日本の時勢について聞かされる場面がある。沼間は幕末から現在(明治初頭)の時勢を「悍馬」に例えて川路に語る。それは著者・司馬遼太郎氏が自ら思い描くこの時期の形容を沼間という人物に語らせたのだろうが、その表現は実に見事であり、納得させられる。
 以下その箇所を小説から引用したので、読んで頂きたい。

 

 「時勢という悍馬には手綱がないのが特徴だ。時勢そのものがくたびれきってしまうまでその暴走をやめない。」

 「英雄ほど悍馬にのせられる。英雄とは時勢の悍馬の騎乗者のことをいう。西郷という人がそうであった。時勢の悍馬に騎り、270年の徳川幕府をあっというまにうち倒してしまった。幕府は時勢という悍馬に蹴散らされてたのであって、西郷その人に負けたのではない。が世間はそうは思わず、倒幕の大功を西郷に帰せしめた。このため維新後、西郷はとほうもなく巨大な像となり、ただ一個の人格をもって明治政府に拮抗できるという、史上類いない存在になった。(中略)悍馬は西郷の尻の下だけに居る。この巨人は役目(倒幕)の終わったはずの悍馬なのに、なおも騎りっぱなしになっているのだ。新政府に不満を持つ連中は、ことごとくその騎乗の西郷を仰いで第二の維新を願望する。」

※小説 翔ぶが如く(第一巻より引用)

 ペリー来航と安政の大獄が悍馬の出現時期とすれば、禁門の変や幕長戦争、戊辰戦争が絶頂期であり、明治初頭の体制変革が迷走期なのかもしれない。迷走する悍馬は安定を求める為政者たちにとっては迷惑至極の存在であるが、新政府の中の反主流派(明治6年の政変で下野した人々)や、不平士族にとっては強い騎乗者を再び戴き、駆け始めれば最強の味方となる。しかしその騎乗者をしても悍馬を操れなければ、味方どころか彼等さえ蹴り殺される危険がある訳だ。
 私の推測だが、西郷は明治初頭に起きた数々の政変や内乱は無謀であると理性では理解していたのだろう。ただ、自ら悍馬へ跨り反主流派や不平士族の首魁とならなければ事態の収拾は不可能という武士としての本能が西南戦争へと続く破滅への道を歩ませたと私は認識している。
 西南戦争で騎乗者を失い、疲れ果てた悍馬はその生命の最期を迎えたのかもしれない。

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プロレタリア(過去と今)

 小林多喜二
 文学に疎い私にとって、彼のことは特高の拷問により死に至った若い文学者程度でしか認識していない。
 その小林多喜二が昭和初期に著した作品「蟹工船」が最近売り上げを伸ばしているという。さらにその影響で日本共産党の党員数が1万人も増えたということなのだが、その新聞記事を紹介しつつ自分なりの考えを稚拙ながらもの述べてゆこうと思う。

                   

共産党 「蟹工船」ブームで1万人新規入党
 
 小林多喜二の「蟹工船」ブームに乗る共産党の地方行脚に従来の支持層を超えて関心が集まっている。格差問題に対する取り組みなどが評価され、昨年9月以降の10カ月間で約1万人が新規に入党。次期衆院選をにらんだ幹部の演説会には1カ所平均約1300人が集まる。接点のなかった業界団体や保守系地方議員との対話も行われ、国政の長期低迷脱却への期待がふくらみ始めている。

 8月28日午後、京都市伏見区にある京都府トラック協会事務所。衆院京都1区から立候補予定の穀田恵二国対委員長が初めて訪ねた。協会は杉本守専務理事が出迎え、燃油高騰に苦しむ業界の現状や環境、行政改革で1時間にわたり意見交換した。協会の陳情先は自民、民主両党が中心で、協会員で構成する政治連盟は両党議員のパーティー券を購入してきた。初めて共産党を迎え入れた理由について杉本氏は「弱者への思いやりを感じる」と率直に話した。

 保守系地方議員との接触も増えた。市田忠義書記局長は7月上旬、奈良県吉野郡などの7市町村の首長・議員と会った。下市町の森本晴男議長は「私は与党議員だが、私たちの気持ちを一番代弁してくれるのは共産党だ」と明言した。

 共産党は志位和夫委員長が就任した00年11月時点で衆院20、参院23だった国会での議席が、現在は衆院9、参院7。国会の党首討論にも参加できない低迷状態にある。旧来の支持層の高齢化も顕著で、新たな支持層の獲得が急務だ。同党は次期衆院選で小選挙区候補擁立を140選挙区程度に絞り込み、比例代表に重点を移した。広範な支持獲得を目指した演説会はすでに47都道府県135カ所を数え、参加者も計約17万人に達した。集会の盛況が選挙結果に結びつくかは微妙だが、穀田氏は「何十年も接触がなかった人たちの視野を広げられた意味は大きい」と手応えを語る。

毎日新聞 2008年8月31日

 この毎日新聞の記事を読むと、タイトルの「共産党 「蟹工船」ブームで1万人新規入党」の経緯がほとんど触れられておらず、それよりも日本共産党の活動報告に終始していて、何とも脈絡のない記事だと呆れてしまう。蟹工船ブームだけで1万人も党員を獲得したのかといえばそれだけではなく、もっと複合的な要素が絡み合って入党者が増えたことを客観的に分析して記事にすべきではなければならないと私は思うのだが、他の方はどう思われるだろうか。
 とりあえず毎日の批判はここまでにして、蟹工船が書き上げれらた時期のプロレタリアと、現代のプロレタリアの定義は大きく違っているのではないだろうか?
 プロレタリアとは「賃金労働者」の意味を指すが、昭和初期のプロレタリアの定義は「反資本主義」であり、現代のプロレタリアは「反貧困」である。それを同一視して共産主義に期待を持つというのは少し無理があるのではないか。しかも蟹工船で描かれている日本はプロレタリアに対して徹底した弾圧を繰り返す封建的制度の国と表現され、ソ連は平等な社会を構築している幸多き国の如く表現されている。これは小林多喜二がソ連に対する無知であった可能性(共産主義=善)が考えられる。このような作品に感化されて日本共産党に入党する人間が本当に多くいるのであれば、それは共産主義を誤って認識しているとしか考えられない。
 とはいっても、私自身「反権力」的思考の持ち主であるので、日本共産党がこうした人気によって議席を増やすことには決して反対ではない。ただ、蟹工船を読み感化されただけで入党する人間が本当にいるなら、それはあまりにも稚拙だと言いたいだけだ。

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多民族国家 日本

 私の学生時代、歴史と言う科目が好きでかつ得意であった理由の一つに社会科を担当してくれた和田先生の影響がある。和田先生は中学2年時において社会科の担当であったが、教科書の内容にはとらわれない授業を進めるので、好奇心旺盛だった私にとっては和田先生の授業「だけ」は本当楽しみだった訳だ。
 おかげで当時の神奈川県内での通知表の評価は10段階評価だったのだが、社会科(歴史)は常に9or10、その他の科目では5以上は国語と、担任が担当していた美術だけだった。要は社会科以外の科目はまったくの劣等生「だった」私、今ではそのことを信じてもらえず、元同級生や社会人になってからの友人たちから「お前が劣等生だなんて、そんな風には見えないよhappy01」と有難い評価をして頂いている。

 あっいつの間にか自慢話になってしまったが、話を和田先生に戻すと、和田先生がある日の授業でこう話されていた。
「日本は単一民族国家などと言われているが、それは大きな間違いだ。日本には琉球民族もいればアイヌ民族もいて、それぞれ独自の文化を育んでいる。そのことは忘れてはならないぞ。」
と。
 私は琉球もアイヌも知っていたが、中学の同級生には沖縄出身のヤツがいたし、アイヌだって木彫り熊などのお土産を作る器用な人たちってイメージで「差別する」なんて概念すら湧いてこなかった。特に沖縄の人はスポーツが強い人が多く、ある意味尊敬すらしていた。<具志堅さん、衣笠さん>など。まあ最近は綺麗なタレント・女優さんは沖縄出身の方が多く、日本のエンターテイメントは琉球民族抜きには語れないと実感している。
 って個人的な話はここまでにして、本日国会でアイヌ民族を「先住民族」として認定する決議が全会一致で採決された。単一民族と言う意識の強い我が国では異例のことのようで、アイヌの方々もこれで一応一区切りつけられたのではないだろうか。それにしても明治後期に制定された「北海道旧土人保護法」と言う差別法を10数年前まで施行していたのだから驚きである。
 でもこうした過去をの歴史を糧に新しい歴史を歩みだそうではないか。アイヌ民族、琉球民族、そして私たち大和民族(って表現でよかったかな?)がガッチリ連携を組み、この「日本」と言う国を世界に誇れる多民族国家に押し上げてゆきましょう。

以下毎日新聞の記事を紹介します。また、フジテレビで放送されたアイヌ民族の方の特集もリンクしておきます。

 LOVE and PEACE
by jazzy-misaki

 

アイヌ民族:「先住民族」初の国会決議、衆参両院で採択

 アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議案が全会一致で可決された参院本会議=国会内で2008年6月6日午前10時18分、藤井太郎撮影 アイヌ民族を先住民族と認定するよう政府に求める初の国会決議が6日の衆参両院本会議で、全会一致で採択された。これを受け町村信孝官房長官は両院本会議で、政府として初めてアイヌを「先住民族」と認識することを表明し、正式な認定に前向きな姿勢を示した。政府は今後、「アイヌ有識者会議」(仮称)を設置し、先住民族と認めた場合の先住権の内容などを検討する方針。アイヌの先住権を認めず北海道開発を優先してきた明治以来のアイヌ政策の転換につながる可能性が出てきた。

 決議は昨年9月に国連で「先住民族の権利宣言」が採択されたことにより、具体的な行動が求められていると指摘。「我が国が近代化する過程において多数のアイヌの人々が差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」とし、先住民族としての認定と総合的な施策の確立を政府に求めた。

 これを受け町村長官は「政府としては独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族との認識のもと、国連宣言を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む」と表明。政府はこれまでアイヌ民族について「先住性」は認めてきたが、「先住民族」との認識を示したのは初めて。

 アイヌの法的位置付けをめぐっては、1世紀近くにわたり差別の根源とされた「北海道旧土人保護法」に代わり「アイヌ文化振興法」が97年に制定されたが、先住民族としての認定は避け、アイヌ語の普及や伝統的な歌や踊りの継承を目的とする内容にとどまった。そのためアイヌで作る北海道ウタリ協会は「先住性」を基に独自の文化や生活の保護・再生を進める総合的な施策の拡充を求めていた。

 同協会の加藤忠理事長は参院本会議を傍聴後、「本当に感動した。これまでのアイヌ民族に対する不正義に終止符を打ち、新たな視点でお互いを尊重する社会づくりの一歩にしてほしい」と語った。【千々部一好】

 ◇解説…国連宣言の「外圧」で動く
 アイヌの先住民族認定へ向け、ようやく国会の意思が一つになった。昨年9月に国連で採択された先住民族の権利宣言、7月にアイヌの先住地・北海道で開かれるサミット(主要国首脳会議)という「外圧」が国会を動かしたとも言える。今後は政府がサミットまでに先住民族認定に踏み切るかが焦点となる。

 決議の動きは国連宣言を受けて始まった。自民党の今津寛衆院議員や民主党の鳩山由紀夫幹事長ら北海道選出議員が中心となり、7月の北海道洞爺湖サミットまでに先住民族認定を実現しようと超党派の議員連盟「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」を3月に結成し、政府と水面下で調整しながら決議の文案をまとめた。

 ただ、政府・自民党内には過去のアイヌ政策を否定することへの抵抗感や、先住権として土地などの財産権、国会議席の民族枠などの政治的権利を要求されることへの警戒感が強い。同会が作成した当初の原案にはアイヌの歴史に関し「労働力として拘束、収奪された」「『同化政策』により伝統的な生活が制限、禁止された」などの記述があったが、自民党内の反発で削除された経緯もある。

 国連宣言は土地権や自決権、教育権など、先住民族の権利として46項目を挙げている。政府は今後、有識者会議で具体的な先住権の中身を検討することになるが、国連宣言に賛成しながらアイヌの先住権を認めない「内と外の使い分け」はもう許されない。【千々部一好】

 ◇アイヌ民族
 北海道や千島列島などに住む独自の文化、言語を持つ民族。かつては主に狩猟や山菜の採取に従事し、明治政府の同化政策で人口が急減したと言われている。北海道庁が06年に行った調査では、道内に2万3782人が居住。北海道ウタリ協会は1946年に「北海道アイヌ協会」として発足したが、アイヌ語で「人」を意味する「アイヌ」の呼称は差別された歴史を思い起こすとして、「同胞」を意味する「ウタリ」を使ってきた。拒否感が薄れたことなどから、来年4月から名称を「北海道アイヌ協会」に変更する。

 ◇アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議骨子
 1 政府は「先住民族の権利宣言」を踏まえアイヌを先住民族として認めること

 2 政府は有識者の意見を聞きながら総合的な施策の確立に取り組むこと

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明治政府の国家建設

早いもので「日本史探求」は3月13日で3年を迎える。
ブログと言うツールをどのように使ってゆこうかと模索していた時に、自分が関心を持っている日本史を取り上げることがベストだと考え始めたのだが、まさか3年も続くとは正直予想外だった。やはり
「石の上にも3年」
「好きこそものの上手なれ」
ってことだろう。
さて、今回は「日本史探求」を始めた2005年の4月から5回シリーズで放送された
NHKスペシャル「明治」
の動画を紹介しつつ、私の明治に対する想いを綴ってゆきたい。
まずは動画をご覧いただければと思う。序章から第4章までかなり長い時間だが見ごたえある内容だ。
今回紹介する動画「明治」では日本が近代国家へ成長してゆく過程、そしてその核となった政策を3つのテーマ(教育の重視・文化の独立・人材の活用)に分けて検証している。これを見れば明治日本の近代化への道がよく理解出来るはずだ。

ところで、番組の中で医学博士で評論家の加藤周一氏が
「日露戦争前の日本は膨張主義ではなく、独立を目指していた。」
と語っている。
以前、司馬遼太郎氏についての記事でも取り上げたが、司馬氏は日露戦争(厳密には日比谷焼き打ち事件)以前の日本は
「自己認識していて、現実的にそれを解決しようとしていた。」
と述べている。
両氏とも日露戦争が日本を非現実的な方向へ向かわせたと考えているようだ。
確かに日本が大陸へ目を向けるようになってからと言うもの、自国の生産力以上の力を発揮しようと背伸びしていたことは否めない。ただし日本がそうした幻想を持つようになったのは、わずか50年程度の年月で欧米列強に肩を並べることが出来た自信からではないだろうか?
実際には肩を並べたのではなく、幕末に欧米列強と結ばされた不平等条約によって「独立」が危ぶまれた日本を、真に「独立」させるために明治の政治家・役人が坂の上の雲をつかむが如くに必死に内政や外交そして戦いを展開してきたことが結果として欧米列強と同じ位置に立てた要因だったと私は思う。
以前取り上げた「ノルマントン号事件」や「三国干渉」なども日本が列強として飛躍する原動力となった訳であり、それを喉元過ぎればでいざ国際社会で認知されると自信が過信となり、自己認識出来なくなったのが5・15事件から終戦までの日本であったと考える。
こうした過程でも特に明治日本には「国家建設」の原点を見つけることが出来る。それは自己認識と言うごく自然の姿を。

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サムライのラストバトル ―田原坂の戦い―

私の姉が熊本に住んでいる話は過去に何度かしたが、その姉が熊本に住んで間もない頃に義兄の案内で田原坂に行ったことがある。当時の私はまだ高校生で、今のように日本史について多少の知識があった訳ではなく
「何だか殺風景で特に特別な史跡がある訳でもない退屈な場所だな。」
と言う印象を持ったと記憶している。
その田原坂だが、2年前にNHKで放送された「その時歴史が動いた―さらばサムライ―」と故司馬遼太郎氏の著者「街道をゆく 肥薩のみち」の内容を理解している現時点で訪れることが出来るなら、私は当時と違った視点で田原坂を観て周るだろう。
なぜなら熊本市街北部のこの地で繰り広げられた戦いには新政府軍の最高責任者山縣有朋の思惑と、戊辰戦争で賊の汚名を着せられた武士たちの意地が西郷率いる薩摩軍に向けられたと言う話が存在していたからだ。
そんな訳で今回は私なりにサムライにとって最後の戦いとなった田原坂の戦いについて取り上げてゆきたいと思う。

田原坂の戦いの詳細についてはここで多くは取り上げない。私が取り上げるより、他のサイトを参考にされた方が詳細を把握出来ると思う。なので私は前述した「その時歴史が動いた」と「街道をゆく」の内容をもとに田原坂の戦いについて考えてみたい。
まず田原坂の戦いを一言で言うなら反政府戦争と言うより薩摩武士のプライドを懸けた戦いと言えると思う。そのため薩摩武士たちは命を懸けて戦った訳だ。命を西郷と言うカリスマに預けて…。
田原坂は加藤清正が熊本へ抜ける唯一の道であることに着目し、南下して来る敵軍勢を迎え撃つ地として整備したと言われている。街道をゆくの中で司馬遼太郎氏は

「坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。」

と述べている。
兵器の性能で劣る薩摩軍は250年以上前に清正が整備したこの田原坂を新政府軍を迎え撃つ場所に選んだ。

ところで話が逸れるが、西郷はなぜ海路、大坂あたりに突入して大坂城を拠点に新政府軍に戦いを挑まなかったのか?と言う疑問も残る。一説には薩摩軍が保有する艦隊が不足していたと言う話もあるが、薩摩人にとって熊本と言う地は特別な想いがあり、その想いを西郷が抱いていたので軍勢を熊本に向けたとも考えられるのだ。
薩摩の島津家は、豊臣秀吉が九州を平定した後に島津が再び領土的野心を抱かせないように佐々成政や加藤清正と言った勇将を配し、そのエネルギーに蓋をした。徳川家康も関ヶ原の後に清正に熊本城を築かせ、島津の野心を抑える行動を取った。
こうした時の為政者の行為に薩摩人たちは憤りを感じたに違いない。
司馬遼太郎氏はこうした理由から
「熊本城は中央政権の象徴」
として薩摩人は見ていて、西郷らが熊本城を攻めた理由も理解出来ると述べている。こうした理由から薩摩武士が意地を見せるのに絶好な場所だったのが熊本城であったのだろう。
この歴史的背景が田原坂の戦いにもつながったと言っても過言ではない。

田原坂での薩摩軍は勇猛果敢に戦った。国民皆兵の名の下に集められた農民・商人出身の兵士は、銃を構える時に身をすべて隠し、狙いを定めずに撃つためほとんど的中しない。それに対して薩摩武士は敵の銃弾を恐れずに狙いを定めて撃ってくる。これは「薩摩の立ち撃ち」と呼ばれ、幕末においても薩摩の立ち撃ちは敵から非常に恐れられていたと言う。
さらに新政府軍の兵士には大義名分がない。それに対して薩摩軍には西郷を守ると言う大義が存在していた。
こうした状況下では新政府軍は一向に田原坂を攻略出来ないのである。

新政府軍の最高責任者山縣有朋も焦った。東京の警視庁からは山縣に対して士族出身者を派遣して薩摩軍に対抗しようとの申し出も来ている。
しかし山縣は現状の兵力で戦い抜くつもりでいた。その訳は山縣の生い立ちが関わってくる。
山縣は長州の下級武士の出であり、それゆえ数々の辛酸を舐めてきた。下級武士であった山縣だが、明治新政府になると現在敵として戦っている西郷の推薦で陸軍の責任者に抜擢された。心中は複雑であるが、ここで再び武士の力に頼ってはかつてのような上級武士が軍隊の中枢に担うような事態になってしまう。せっかく士農工商の身分を廃し国民皆兵を実現させつつある現在を逆行する訳にはいかない。そんな想いが山縣の心中に存在していたのだ。

田原坂では薩摩軍優勢が続いていた。士気で勝る薩摩軍を打ち破るには…ついに山縣は決断した。そして警視庁に採用された士族の中で特に剣術に優れた者で組織される抜刀隊を田原坂に派遣することにしたのだ。この時の山縣の心中は如何なるものであっただろうか。

抜刀隊の参戦で日本史史上最後の武士対武士の戦いが始まった。
抜刀隊は薩摩軍を奇襲し、戦果を挙げる。しかし刀しか持たないために多くの死傷者が出た。それでも抜刀隊は果敢に切り込んで行った。それは抜刀隊の中には戊辰戦争で賊の汚名を着せられた藩士たちが参加しており、「戊辰の復讐、戊辰の復讐」(※)と叫び戦った話は多くの人が知るところである。

※西南戦争当時、郵便報知新聞の従軍記者として取材した後の首相・犬養毅は記事で
「もと会津藩某、身を挺して奮闘し、直に賊13人を斬る。その戦うとき、大声、呼ばわっていわく、「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と」
と記している。<その時歴史が動いたHPより>

こうして田原坂の戦いは抜刀隊の活躍もあり新政府軍が辛うじて勝利することが出来た。
田原坂の戦いは
「武士」の強さを見せつけられ
「武士」の強さを畏れたため、
「武士」の力を借た戦い

であったのだ。そして「武士」による最後の戦いでもあった。

この戦い以降<力>の象徴であった「武士」は泡のごとく消えてしまった…、そんな感じを覚える私である。

Photo
上野の西郷隆盛像
西南戦争により賊将の扱いとされていたが、勝海舟や黒田清隆らの働きにより、明治22年(1889年)名誉回復し、従三位が追贈された。

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不平等条約が生んだ屈辱の判決

江戸末期、幕府は異国船打ち払い令などを出し、夷敵の侵入を防ごうと躍起になっていました。しかし1853年に黒船が江戸湾に現れてから欧米列強に対して去勢された犬のごとく弱腰外交に転じ、列強と不平等条約を次々に結んでしまいます。(これは学校で習った重要項目ですから、多くの方が知っていることでしょう。)
この不平等条約は1894年、陸奥宗光外相が英国と交渉でやっとこさ領事裁判権を撤廃するに至るまで約40年もの間、国家の主権を侵害され続けた屈辱的なものだったのです。この不平等条約(領事裁判権)を撤廃させようとする世論が最高潮なるきっかけとなったのが「ノルマントン号事件」と呼ばれるものでした。
ノルマントン号事件とは
1886年、英国船籍のノルマントン号が和歌山沖で座礁沈没した事故のことです。ところがこの事故で問題となったのは英国人船長および乗組員26人は全員がボートで脱出して助かったのに対し、日本人乗客23人全員とインド人水夫らが犠牲になったことでした。しかも船長は神戸のイギリス領事による裁判ではなんと無罪とされたのです。
こうして領事裁判権を認めた弊害を日本国中の人々が知るところとなり、当時の日本の新聞業界も英国人船長らの責任を追及したのです。そして日本中で領事裁判権の撤廃を求める世論が沸きあがってくるのでした。
そんな世論に後押しされるがのように、明治政府も長年の悲願である不平等条約改正を実現させるため、欧米諸国との交渉をこなしていきました。そんな中1888年、当時の外相であった大隈重信が
「裁判権の回復については外国人判事を日本の裁判所へ任用することを約束して、ひとまず関税自主権の回復をなすことを優先すべし。」
との主張を某新聞社(名前忘れました・・・)に報じられ、それに激昂した玄洋社のメンバー来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うと言う悲劇も生んだのです。
こうした紆余曲折がありましたが、眠れる獅子との開戦前夜の1894年英国との間で40年来の悲願であった領事裁判権と撤廃に合意するのです。

7
ノルマントン号沈没事故の風刺画。英国人の態度が実に横柄である。

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自分の正義を貫いた男 江藤新平

ETO江藤新平に対して私が持っているイメージは、とにかく自分が抱いている「正義」を貫くがゆえに融通が利かず、政治家としての処世術を持ち合わせていなかった頑固な男と言ったところでしょうか。ただ私はその頑固な江藤新平が大好きです。今回はこの江藤新平について取り上げてみたいと思います。
江藤は1834年2月9日肥前佐賀藩の八戸村の下級藩士の家に生まれました。。貧しい家に育った彼は母の理解もあり、学問に熱中する少年時代を送ります。そして国学者の枝吉神陽の影響で勤王思想へ傾倒します。その後肥前藩に出仕した新平は幾つかの役職を歴任しますが、1862年攘夷を実行しない藩主に対して反感を持ち、佐賀藩を脱藩、上京します。
上京した新平は長州藩邸において桂小五郎と会見しましたが、これ以外は特に活動はせずに約1ヵ月の滞在の後に佐賀へ帰藩します。
そして時は明治・・・戊辰戦争の開始される直前の時期、脱藩の罪で蟄居していた新平に対し、佐賀藩は新政府軍との仲介者として上京を命じます。上京後、江戸城総攻撃を計画する薩摩の大久保利通や西郷隆盛に対して反対意見を展開しますが、その発言は西郷の信任を得ることにもなったのです。
1868年の江戸城無血開城を期に明治政府は本格的にスタートします。そこには新平も維新の功臣として出仕します。新平は新政府で多くの役職を歴任し、1872年にはついに司法卿へ就任しました。
司法卿に就任した新平は「司法権の独立」「人権擁護」「法体制の確立」などを提案します。人民のため権利を確立する、これが司法卿江藤新平の政治思想だったのです。
着実に法整備を進める新平でしたが、明治6年の政変で西郷隆盛らとともに下野して政界を去ります。これから憲法制定に着手しようという時期であり、新平にとっては志半ばでの下野だったのです。
その後新平は佐賀に帰ります。この時期の日本は各地で不平士族たちが反乱を企てていて、佐賀においてもその渦中にあり、新平はそれを鎮静するつもりで帰郷したのです。しかしミイラ取りがミイラになり、不平士族の総大将に祭り上げられ、各地の反乱の口火となる「佐賀の乱」を起してしまいます。
乱は政府軍に鎮圧され、新平は逃亡。鹿児島(この時に西郷と会談している)などを経て土佐に逃げますが、政府の警察に捕らえられ、佐賀に送還されます。この警察の近代的制度を作ったのは新平自身でした。その警察に捕まるとは何とも皮肉なことです。
新平を政敵として苦々しく思っていた大久保利通は、新平の裁判に自ら赴き裁きを指示しています。
自分の作り上げた法により裁きを受け、正義を貫こうとしたものの、その判決は「除族の上、斬首さらし首」(身分を剥奪したうえで処刑し、さらし首に処す)という厳しいものだったのです。
新平は独立した司法の場において裁きを受けたいと言う願いも虚しく、独裁者大久保の手により悲運の最期を遂げたのでした。

参考HP 幕末維新の風

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臥薪嘗胆 列強(東アジア諸国)による日本への干渉

最近の日本を取り巻く東アジアでの状況は非常に深刻です。「靖国参拝」や「教科書問題」などに関し、中共や韓国による一種の干渉がおこなわれ、また中国全土では一部跳ね返りによる「サッカーアジア大会における暴動問題」や「反日デモ」などの騒動が発生しました。この状況に日本国民は「臥薪嘗胆」の気持ちで報道を見守っていたのではないでしょうか?そして私もその一人です。(まあサッカーでは決勝で中国を粉砕しましたので少し気持ちがスッキリしました。)
相手は中国や韓国ではありませんが、今から100年以上前に日本国民を「臥薪嘗胆」という気持ちにさせた出来事がありました。それは「三国干渉」です。
1894年の日清戦争で清国に勝利した日本は、1895年に日本の下関で講和条約を結びます。この中の条項に、清国が遼東半島・台湾・澎湖島を割譲するというものがあったのです。しかし南下政策を実施していたロシアは列強のフランス、ドイツとともに、遼東半島を日本が領有することは、清国の都「北京」を危うくし、朝鮮の独立を有名無実なものとするという理由で、日本へ三国で圧力を加え、遼東半島を清国へ返還させました。これが「三国干渉」です。
当時の日本の国力では列強と対峙することは難しく、泣く泣く日本政府は遼東半島を返還するのですが、国内の世論はその気持ちを「臥薪嘗胆」と言う言葉に表したのです。
現在の日本も今、中共や韓国と対峙することは得策ではないと考え、「反省」と「お詫び」に終始してますが、国内の世論が三国干渉の時と同じよう「臥薪嘗胆」であるので、彼らに対し何か行動を起こす日もそう遠くはないはずです。日本政府が「過去の清算」と「国家の威信」どちらが大事か秤にかけたら答えは一つですけどね。

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日本の朝鮮支配

以前の記事で私は「韓国の人たちは自国の歴史に目を向けてほしい。」と述べました。人にお願いするなら私も目を向けなければなりませんよね?と言うことで今回は日韓併合以降の朝鮮支配についてです。
まず日本の朝鮮支配を言葉で表すと「民族の独自性を奪うための支配」が一番妥当ではないのかと思います。(これについては色々な意見もありますがあくまで私の見解です。)
それではその「独自性」を奪うために、どのような政策がとられたのでしょうか?
土地収用令1911年
1910年日韓合併条約の条文「韓国一切の統治権を日本国天皇陛下に譲与」に基づき、朝鮮総督府が土地収用令を制定した。(朝鮮民族の土地は統治権を持つ日本国天皇のものと言う意味なんでしょうか?拡大解釈すれば、朝鮮半島の土地は日本人が好き勝手に出来るってことですよね・・・。これって屈辱かも。)
朝鮮教育令1911年
朝鮮語や漢文による授業を廃止。朝鮮人固有の「言葉」を奪った訳ですね。しかも小学校では「忠良なる臣民の育成」を教育方針に日本語教育が開始されます。(「これじゃ授業わかりずれぇ~よ!」と言いたい気分の小学生のみなさん。しんどいね・・・。)
そして1919年
3.1独立運動勃発!
ソウルのパゴダ公園の集会で、朝鮮の独立と朝鮮民族の自由を求めて「朝鮮独立宣言書」が読み上げられました。そして「独立万歳(マンセー)」と叫び、デモ隊がソウル市内に繰り出しました。ソウルには、元皇帝の高宗の葬儀に参加する人々が集まっていたので、この人々も合流しデモは約10万人近くまでふくれあがったのです。
日本側は警察や軍隊を動員し武力をもって弾圧、武装した民間人も刀剣などでデモ隊に襲いかかり、多くの人々が虐殺されたのでした。(朝鮮人も決して無力ではなかったんですね。ただ併合後では時期が遅すぎですよ。)
日本語常用の強制(日本語常用・朝鮮語の禁止)1938年
自国の言語の使用禁止はひどいなぁ。でも日本から拉致された蓮池さん家族は家庭で朝鮮語しか話せなかったんだからそれと似たような感じなんだろうな。
創氏改名
これにより韓国式の名前を禁じ、日本式の名前を強要しました。しかし一説には日本式の名前を持ちたいという要望に応えるためのもので朝鮮名を変更したい人は願いを提出し、条件が合えば許可したらしいです。これは以前に麻生総務大臣が話されていた事ですが真実はいかに。

こうして見てきましたが、「酷いな・・・。」と思ってしまう気持ち6割。「ほかの民族を支配するのは容易ではない。」と思う気持ち2割。「時代の流れで仕方なかった。」と思う気持ち2割。ですね。ただ率直な気持ちは過去の歴史云々と言う朝鮮の方が多い現状の一方で、新しい時代に戦後の日本人と共に歩もうと考えている朝鮮人もいる事を忘れずに「朝鮮人=過去にうるさい」の固定観念だけは持たないようにしたいと思います。
それと拉致問題が早期に解決することを祈っています。

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李氏朝鮮 権力争いで衰退

昨今、竹島&歴史問題で反日感情に火がついている韓国ですが、彼らが「反日」を叫ぶ前に一度思い出してほしい事があります。それは李氏朝鮮末期に権力争いで国力を衰退させた「閔妃派」対「大院君派」の争いです。1870年代の朝鮮は清の属国として皇帝は清国皇帝から柵封(清国から属国の長として認められること)されていました。そんな朝鮮は隣国日本や清国における欧米列強の進出を他人事のように見過ごし、頑として宗主国の清国以外の国とは門戸を閉ざしていたのです。そして王政復古により近代化を目指す日本が朝鮮に開国を促すため1875年江華島付近に軍艦雲揚号を送り交戦、この戦いに朝鮮は破れ江華島を占領されてしまいます。これは後に江華島事件と呼ばれます。
この江華島事件以前の1873年、朝鮮国内では王妃閔氏一族が皇帝の父大院君を政権から追放し権力を掌握します。閔氏政権では宮殿の造営や、皇帝高宗と閔妃の浪費により財政は悪化の一途をたどり、兵士の俸給の支給にも困窮する事態に陥いります。また官職や科挙の及第を売買するなどの汚職による政治腐敗が進んだのでした
こうして見ると、ペリー来航以来旧体制を憂いて変革を遂げようと維新を目指した日本と、権力争いに躍起となり変革を起こす人物が少なかった朝鮮とではこの時点で国家としての差が歴然としていたのです
1876年日朝間に日朝修好条規(江華島条約)が締結されて朝鮮は開国します。この条約では朝鮮が清国の支配下の国ではなく独立国家として扱われていたので(日本の親日政権樹立という思惑をありましたが)、世界に対して朝鮮の独立を確認した条約だったのです。もしこの時に朝鮮において開明的で求心力のある人物が登場していたら世界に進出できる近代国家に変貌できていた可能性もあったはずです。しかし1000年以上中国の支配下にあった朝鮮に真の「独立」を意識する人物は皆無に等しかったと私は考えます。その後も「閔妃派」対「大院君派」は続き国力を疲弊させるのです。
こうした排他的で世情に疎い朝鮮民族(すべての朝鮮人ではありませんが)独特の感覚がやがて日本による植民地支配を招いたんではないでしょうか?韓国国内においても「日本憎し!」だけを繰り返すのではなく、なぜ植民地にされたのかを検討する方が大事なはずです。歴史を教訓にしなければ同じ過ちを繰り返されるでしょう。他国の教科書に目を向ける時間があるなら、自国の歴史に目を向けた方が良いはずです・・・。

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だるま宰相

私が中学生時代に2.26事件について教えてくれた社会科教師「和田」先生はこんな逸話を話してくれました。「高橋是清は暗殺される前に風呂に入っていた。青年将校たちは裸の是清を見て『大臣、その格好では死に際してあまりに情けなのうございます。私のコートを・・・これ着よ。』数秒間の沈黙後に『・・・嘘です(苦笑)』と一言。はぁ~(-_-#)
これ着よさんこと高橋是清は「だるま宰相」と呼ばれ、戦前日本の財政政策に深く関わった方です。今回はこの「高橋是清」を取り上げてみたいと思います。
高橋是清は1854年に江戸に生まれました。幼少時代に仙台藩士高橋是忠の養子になります。その後、ヘボン塾(現在の明治学院大学)で学び海外へ留学します。実はこの時ある理由から奴隷として売られてしまうのですが、運良く帰国することができたようです。
帰国後、官僚として手腕を発揮し特許局の初代局長に就任、日本の特許制度を整えます。そして一時退官しペルーに渡って実業家の道を歩もうとしますが詐欺まがいのトラブルに遭い鉱山経営に失敗、帰国します。
再び帰国した後には日本銀行副総裁、総裁を務めます。この時期の是清の活躍は目覚しく、日露戦争における戦時外債公募の際にはロンドン留学時の人脈をフルに活用し資金調達に成功します。
1913年には第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任、ここに日本一の大蔵大臣と後世に伝わる高橋是清伝説がはじまります。また大蔵大臣就任に伴い立憲政友会に入党しました。そして日本初の政党内閣(正確には隈板内閣が最初だがここで言う内閣は軍部大臣と外務大臣以外すべて衆議院第一党所属議員による内閣)の原敬内閣に大蔵大臣として入閣、財政政策の手腕を発揮しました。特にシベリア出兵時の金塊事件で分捕った砂金の処理に暗躍したことでも知られています。原が東京駅で暗殺されると、第20代内閣総理大臣に就任します。「だるま宰相」の誕生です。しかし政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解してしまいました。その後高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退します。ところが1927年に発生した金融恐慌(「伊東巳代治」記事参考)の時に首相の田中義一に請われ再び蔵相に就任します。そして高校の教科書に出てくる支払猶予措置(モラトリアム)を発令し、沈静化させることに成功しました。この後も三度蔵相に就任し、日本を襲った世界恐慌からも金輸出再禁止などの政策を実施し脱却させました。
しかし、モラトリアムや金輸出再禁止などにより日本中で貧富の差が激しくなり農村部では欠食児童を出すなどのひどい現状が浮き彫りになります。やがて高橋蔵相や政党政治に対する庶民からの反感が噴出、それを憂いた青年将校らは「昭和維新」の名の下に2.26事件を起こし、彼を「これ着よ!」と暗殺するのでした。

daruma-takahashi「だるま宰相」こと高橋是清。金融恐慌時に彼や井上準之助の財政政策によって貧富差が拡大します。反面で蔵相としての是清の手腕が日本をアジアの大国にする原動力となり、その政策はあくまで国益に沿ったものだったのです。しかし戦後、アメリカ占領政府は日本における貧富の差の拡大の根源となり、是清が見過ごしてきた寄生地主制を改善するため、戦前の政策と全く逆とも言える農地改革に着手するのです。

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伊東巳代治

「伊東巳代治」この名前を聞いて「あ~あの人ね。」と答えられる方は相当歴史通な方です。私もこの人物については三谷幸喜さんの脚本で大津事件(ロシア皇太子暗殺未遂事件)をテーマにした舞台「その場しのぎの男たち」を観てはじめて知りました。実はこの伊東巳代治は日本の近代国家形成の過程に大変寄与された方で明治憲法制定にも深く関わっていてみたいです。今回はこの伊東巳代治について取り上げてみたいと思います。
伊東巳代治はペリー来航4年後の1857年に長崎町年寄の子に生まれます。時は開国か攘夷かの激動の時代です。伊東の少年時代は激動の時代だったと言えるでしょう。その後英語を学んだ伊東は上京し明治政府の工部省に出仕します。この時伊藤博文の目に留まり彼のブレーン官僚として活躍するようになります。そして明治憲法制定前に伊藤博文は渡欧し憲法調査をおこないますが、そこに伊東も随行しています。帰国後に伊東は井上毅や金子堅太郎とともに大日本帝国憲法制定に際しての草案起草にあたります。
明治憲法制定後は貴族院議員を経て枢密顧問官になり「憲法の番人」としてその存在感を示しました。また「東京日日新聞」(現毎日新聞)の社長として政府擁護の論調をとります。
伊東は晩年も枢密院顧問をつづけ自ら主張する(軍事力を背景にした)積極外交を政府に展開させようとします。これは高校の教科書に出てくる話なので知っている方も多いと思いますが1927年、金融恐慌により「鈴木商店」(第一次大戦によってもたらされた大戦景気で急成長を遂げた総合商社)が倒産します。この鈴木商店に多額の貸付をおこない破綻寸前に陥った「台湾銀行」(植民地台湾における中央銀行発券銀行)を救済する目的で当時の若槻礼次郎内閣は緊急勅令により、日銀からの特別融資で台湾銀行を救済しようとしますが伊東巳代治が顧問を務める枢密院に否決され救済に失敗、若槻内閣は責任をとって総辞職します。この話の裏には若槻内閣が進める協調外交(中国に対して武力的対立を避け、内政不干渉の態度をとる外交。幣原喜重郎外相が推進したので幣原外交ともいう。)によって蒋介石の北伐に何ら対策を講じないことに伊東が激怒し、若槻内閣を潰すために勅令を否決した事実があったのです。
こうしてみると、伊東はとても有能な官僚でありましたが、彼が日本軍国主義の下地とも言える憲法を草案し、協調外交を否定して帝国主義を推進したことで明治政府の崩壊を招いたと考えてしまいます。一概には言えないですけどね。

リンクしたサイト「近代日本人の肖像」に伊東巳代治の写真があります。

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