明治10年3月19日、高島鞆之助少将率いる別働第二旅団は、八代の背後に上陸し、薩摩軍を攻撃して八代を占領した。この上陸作戦によって熊本城を包囲していた薩摩軍は南へ退くこととなる。
熊本で敗退した薩摩軍であったが、士気はまだ旺盛であり、事実上の総司令官桐野利秋は人吉へ撤退すると次のような戦略を考えつく。薩摩軍によって三州(薩摩国・大隅国・日向国)を盤踞し、人吉をその根拠地とするというのである。当初から挙兵上京という抽象的な意図をして進軍していた薩摩軍がここにきてやっと戦略らしい戦略を立案するのであった。
しかし緻密な計画ではないために、その後政府軍の攻撃によって人吉からも退くこととなり、薩摩軍は日向にのがれた。
日向では西郷が兎狩り、桐野は遊郭に出入りするなど戦場の指揮官とは思えない行動をしていた。西郷は挙兵直後から体を差し出した訳であり、桐野は戦うこと以外に生きがいを感じない。よってこうした行動に罪悪の念は感じないのであろう。また、物資や弾薬の不足を補うために不換紙幣の『西郷札』なるものを発行し、それを占領下で流通させようともした。
日向で戦略らしい戦略を持ち戦っていたのは、私学校が暴発する直前に神戸で情報収集をおこなっていた野村忍介であった。彼は熊本で戦死した慎重派の永山弥一郎を兄事していたためか、桐野の無策ともいうべき進軍に憤りを感じながら従軍していた。しかしここ日向に至ってついに桐野の意向を無視し自らの大隊を率い政府軍と交戦し、その上勝利を収めている。
このように薩摩軍は強い。日向では野村や他の士族兵も奮戦し、局地的な勝利は収めるが、あくまでも局地戦だけでの強さであり、山県の戦略によって動く政府軍に次第に追い込まれてゆく。そして延岡において政府軍6個旅団に完全包囲されてしまった。
8月16日延岡の北に位置する和田峠の戦いで、西南戦争開戦以来始めて西郷が前線に立ち指揮をした。西郷はおそらくここで死のうと思ったのであろうか。しかし桐野や村田新八らが西郷を前線から退かせたので、ここで死ぬことはなかった。
この和田峠で薩摩軍は敗れた。誰もがこれで戦争の敗北は決定的だと思っていただろう。しかし口には出さなかった。西郷が生きている限り戦いを終わらないことを兵士、特に薩摩出身の連中はそう意識していたからだ。
政府軍の包囲が狭まる中、西郷はついに解軍の令を出す。薩摩軍には薩摩士族以外にも九州の他藩出身の士族も含まれていた。その彼らを西郷としてはこれ以上従軍させて死なせてはならないと思ったのであろう。
我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。 (翔ぶが如く十巻より)
以上が西郷が発した解軍の令である。
『西郷がこの地で死を覚悟したのか』と兵士たちから思われたに違いない。これにより政府軍に降伏する者と、このまま薩摩軍に従う者とがここで別れたのである。
どうせ死ぬなら郷土薩摩で死にたいという気分が薩摩軍の全体を支配していたのか、完全に包囲されている情況を打破しようと『可愛岳(えのだけ)』と呼ばれる難所を彼らは越える決意をした。ここを越えて遠路鹿児島へ向かおうというのだ。
この可愛岳を越えるだけでも凄まじい精神力が要求されるのに、何と薩摩軍は行軍の途中、守備が手薄であった政府軍の一部を見つけるとそれに攻め込み、食料・弾薬・砲門一門を奪取した。恐ろしいほどの体力と精神力である。
薩摩軍は可愛岳を越えると道なき道を進み、さらには断崖を登り、渓流をつたって、ついに鹿児島に戻ってきた。
山県は薩摩軍が再び熊本城下に出現するのではないかと思い熊本の守備を固めていた。実際薩摩軍の中にも再び熊本へと西郷に進言する者いたが、西郷はそれを却下し鹿児島へ向かった。
鹿児島に到達した薩摩軍は政府軍の守る私学校を襲撃し占領に成功する。また、鹿児島の住民も西郷率いる薩摩軍に協力的であり、さらには熊本の戦いで負傷し帰郷していた薩摩兵も合流するに至り、薩摩軍は鹿児島をほぼ占領した。
薩摩軍は城山に陣を構えて政府軍との戦いに備えた。薩摩軍は一時は優勢であったが、時間の経過とともに物量に勝る政府軍に包囲されてゆき、9月6日には政府軍によって城山を完全に包囲された。
城山に残る薩摩軍は約370名、対する政府軍は5万名とも6万名とも言われている。この状況を司馬氏は『戦争ではなく虐殺だ。』と作中で記している。しかしこの政府軍の数が示していることはそれだけ薩摩軍の武威を恐れている証拠なのかもしれない。
城山に籠る薩摩軍において、西郷の助命を願い出ようとするものがあった。その者たちは徹底主戦派の桐野に悟られることないよう注意を払いながら村田新八ら幹部の許可を受けて政府軍の少将で薩摩人の川村純義の下に西郷助命を願い出た。
使者は河野主一郎と山野田一輔である。河野主一郎は薩摩軍の幹部であり、ここまで勇敢に戦ってきた。しかしここにきて西郷の命だけは救いたい気持ちが強くなったのであろう。川村もその意を察して『西郷をここに呼べばどうにかする。』ような旨を伝えた。さらに山県から降伏勧告を突きつけられた。降伏勧告とは言っても山県はかつて自身の汚職事件の際に西郷に助けられた経緯があるため、極めて丁寧な文章で降伏を勧めた。(しかし山県は暗に西郷に自決せよとも伝えている)
これら政府軍の意思を携えて山野田一輔一人が薩摩軍の本営に戻った。皮肉にもここまで勇猛果敢に戦ってきた河野主一郎は捕らわれの身となり、西南戦争後も生き続けることになる。
山野田が本営に戻り、西郷に川村からの伝言と山県からの書簡を手渡すのだが、西郷はそれらを無視し最後の戦いを決意する。
戦いは始まった。西郷らは本営としていた洞窟を出て整列し目の前の岩崎口へ進軍した。岩崎口を攻める第四旅団 の司令長官曾我祐準陸軍少将は薩摩人ではない。曾我をここ配したのは西郷を兄事し、尊敬する薩摩人では戦いに躊躇することを山県が危惧したからではないだろうか。
岩崎口では西郷以下挙兵以来付き従ってきた桐野や村田も奮戦した。そして負傷して歩行することすら儘ならない別府晋介も駕籠に乗って従軍していた。別府は西郷から最期の時には介錯してほしいと命じられていた。西郷を心から慕う別府にとっては最高の誉れであったことは間違いない。
西郷とともに殉じようとする幹部たちであったが、意外な人物が政府軍の降伏した。野村忍介である。
野村は戦いの当初から桐野のやり方が気に入らず、日向では桐野を無視して自ら隊を率いて独断で戦った経歴の男だ。野村は『桐野がやった戦でおめおめ死ぬよりは、法廷で義挙の趣旨を明らかにして刑死しよう。』としたのだ。桐野の従兄弟である別府九郎もこれに従った。戦後、野村は10年の刑に処せられた。
桐野は幕末に『人斬り半次郎』として恐れられたいた中村半次郎である。西郷はこの男を凶器のように使った。そして半次郎も凶器であることに徹していた。しかし明治維新がこの凶器に思考を与えてしまった。
司馬氏は半次郎をこう考察する。
『この凶器(半次郎)は西郷によって陸軍少将となり、日本の軍事権の一部を掌握した。凶器は栄誉と権限を得たために自立したために凶器自身が思想と判断で動くようになり、ついには飼い主であった西郷を自分の思惑へと引きずり込んでしまった。』
実に的を得ている。しかし桐野だけが悪いのかと言えばそうではなく、時勢という悍馬が西郷を欲したことがすべての始まりだったのではないだろうか。いや時勢そのものが西郷に憑依したのかもしれない。
城山の戦いが始まってしばらく、銃弾の雨が西郷らを襲った。そして肥満である西郷の体には銃弾が打ち込まれ、自らの最期を悟った。
『シンドン(別府晋介)、モウ、ココデヨカロウ。』
西郷は別府の介錯によって波乱の人生に幕を閉じた。
西郷に続いて村田新八も腹を掻っ捌いて死んだ。次々に死んでゆく薩摩兵の中で、桐野だけは堡塁に登り一人銃を構えて政府軍に対抗していた。半次郎時代の瞬発力は衰えておらず、向かってくる兵士を次々に狙撃して倒した。しかし、至近距離から狙撃され堡塁の中に落ちた。別府は落ちてきた桐野を見たが頭を撃ち抜かれて即死だった。
政府軍の攻撃は終わった。戦場には裸の屍骸が散乱していた。酷いことに裸にされた上に局部を口に突っ込められた死体もあった。(薩摩人以外の)政府軍兵士、特に賊軍とされた藩出身の兵士にとっては哀れみも何もない。憎しみだけが士気を高めていた。
これが戦争なのである。
西郷の首は後日発見され、死亡した幹部たちは江藤のように曝し首にされることなく丁重に葬られた。維新最大の功労者と太政官薩摩閥への配慮であろう。そして薩摩人を刺激しないようにと意図もあったのかもしれない。
西郷の死から1年もしないうちに彼の盟友であり、敵であった大久保利通が紀尾井坂で暗殺された。西郷挙兵により第二の維新を目指していた石川藩士島田一郎の犯行であった。
西南戦争の導火線に火をつけた川路利良も明治12年病死する。大久保の死後、陰鬱な表情に変わり、かつての生気は感じられなかったという。
時勢という大きな波に呑み込まれた幕末維新の英傑たちが去り、波が引いた後に残された人々が新たな時勢に立ち向かおうとしていた。世界を相手に・・・。
終わり。
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