カテゴリー「幕末期」の31件の記事

2009/11/16

小説『世に棲む日日(一)~(二)』

 狂。
 平和な世の中に生きる私たちがこの一字を目にするとき、恐ろしい、もしくは不快なイメージでとらえるだろう。常軌を逸した何かがその一字には秘められている。
 しかし、動乱の時代においては、狂という気運が時代を一変させる力となることを私たちは歴史の中で無意識に知っている。それは平将門の戦乱しかり、織田信長の天下布武しかりだ。そして何と言っても極めつけは幕末の尊皇攘夷という思想ではないだろうか。
 司馬遼太郎は、小説『世に棲む日日』において、この狂に目覚め狂に殉じた人物を描いている。
 吉田松陰と高杉晋作、彼らは『狂』という情念を加熱させて明治維新への原動力に変化させた。この二人の生きざまを描いたのが『世に棲む日日』である。

 司馬さんは、思想というものと吉田松陰の関係について作品の中でこのように述べている。

 思想とは本来、人間が考えだした最大の虚構ー大うそーであろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはじき出すように日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を理論化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。これをほどの思想家は、日本歴史の中で二人といない。

 江戸時代末期、吉田松陰が唱える尊王や国家論は狂気そのものであった。江戸幕藩体制が250年近く続き、松陰の思想がこの国の既成概念から逸脱したものにとらえられた。
 しかしその狂気の思想がペリー来航以降、厳然たる国家観としてとらえられ、それが尊皇攘夷という倒幕運動のエネルギーにまで醸成されてゆく。そして高杉晋作が、松陰の虚構を体現してゆく実践者となる。

 『世に棲む日日』の1巻と2巻では、吉田松陰の思想家への道程と、さらには高杉晋作がその思想の実践者になる前の葛藤を描いている。平和な時代に生まれていたら狂人と呼ばれさげすまれていたであろう松陰と、同じく上士高杉家の御曹司として藩の良吏として一生を終えたはずの晋作。2人の人物像を、幕末の時代背景とさらには彼らの交友関係を織り交ぜながら見事に描き出している。

 3巻以降は、晋作が長州藩における尊皇攘夷の牽引者としての活躍を描いているのだが、それについては読了してからあらためて記事にしたい。
 その時に、尊皇攘夷という狂気の思想が、維新への原動力と醸成されてゆく過程を、この作品(司馬史観)を通じて考えてみたいと思う。

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2009/10/14

吉田松陰という人

 私が公僕であった時代の同僚が、このブログを読んで『ジャジーさ、疲れてるみたいだな。』とありがたいような、迷惑なようなメールを送ってきた。
 この同僚、実は職場で優秀な男であるにもかかわらず、その稀有な性格からか公僕らしからぬ言動が多い。おそらくは余程の天才か、余程の変人か、どちらかなのだろう。
 この同僚と同じような性質の人物が幕末の日本に存在した。吉田松陰である。
 私は現在、司馬遼太郎さんの¨世に棲む日々¨を読んでいる途中なのだが、この作品(1巻)の主人公が吉田松陰だ。
 作中の松陰は、平素君子人であるのだが、ある事象を目のあたりにすると行動が飛躍する。飛躍するというか彼が育った環境を鑑みれば辻褄(つじつま)が合う。
彼の師は玉木文之進、司馬さんの幾つかの作品に登場する長州の教育者である。
 文之進の教育は
『私より公をまず考えて行動しろ。』
というものである。また多分に陽明学の影響が強いので、言行一致を旨としているのであろう。その教育姿勢は、吉田松陰や乃木希典に受け継がれ、日本人的精神の基礎となった、と言えば大袈裟かもしれないが、今に至っても彼の思想や倫理観を美的なものと捉える人は多いはずだ。
 そんな訳で世に棲む日々を読んで、吉田松陰という人に迫ろうとしているジャジーです。
 内容はいずれまた記事をアップしたい。

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2009/08/01

幕末雄藩”@nifty投票”の結果

 日本史が好きな方の多くは『”~時代”に興味がある』というものがあるはずだ。私自身のその時代は江戸時代と幕末(大局的にみれば幕末も江戸時代なのだが)である。
 特に政治史は好きで、ブログでも多くの江戸政治家を取り上げてきた。
 そして幕末、時代の激動と共に駆け抜けた志士たちの活躍を小説やドラマで見てはその都度胸を躍らせている。もちろん彼らだけでなく、その活躍を支えた藩という組織にも関心を持っている。今回はその幕末雄藩についてブログをご覧の皆さんに投票してもらった”@nifty投票”の結果から随想風に記してゆこうと思う。

@nifty 投票「幕末の雄藩でその活躍が好きなのはどの藩ですか?」の結果は以下のとおり。

薩摩藩:23票 (29%)
会津藩または新撰組等の幕府関連組織:15票 (19%)
長州藩:13票 (16%)
宇和島藩:13票 (16%)
土佐藩:8票 (10%)
佐賀(肥前)藩:6票 (7%)

 結果は薩摩藩がトップであった。やはり幕末三傑のうち2人を擁する薩摩藩に多くの方が魅力を感じたのであろう。西郷、大久保といえば「尊敬する歴史上の人物」という問いで常に上位にランキングされる人物であり、賢君徳川慶喜にして「幕府に西郷、大久保ごときの器をもった人物がおるか。」と言わしめたほどである。
 特に西郷隆盛は人間としての器もケタ外れであろう。本来であればその才覚を駆使してたやすく権力を掌中に収めることできるにもかかわらず、自身を”愚鈍”であると観じきってしまい、配下の人々に仕事をしやすくする。しかもその責任は西郷自身が取る。まさに究極の将帥の姿であろう。
 今の時代にこれほどの器を持った政治家が日本にいるだろうか?狷介固陋な小泉純一郎氏や、曖昧な抽象論ばかり口にする野党幹部たち。もっと西郷のごとく大きく構えて、堂々と国民に向き合うべきではないだろうか。
 現代の政治の話はやめておく。
 西郷や大久保は自身の役割を心得ていた。そして薩摩藩全体を彼らの向かう方向へと舵を切らせた。西郷という巨大戦艦に有能な志士を乗せ、舵は大久保が取る。燃料の供給者は島津久光。ゆえに向かう方向が同じ時には歯車が見事にかみ合い、驚異的なスピードで推進する。しかし、その方向性が違ってくると、あまりに個性が強すぎるために互いを傷つけあってしまうことになる。それが幕末薩摩藩の長所と短所といえるだろう。少なくとも私にはそう映る。

 佐幕的立場の藩に投票される方が薩摩の次に多かった。日本人の伝統的性格である”判官贔屓”をこれにみることができる。佐幕的な藩や組織といえば、会津、桑名、長岡などの徳川親藩や新撰組、京都見廻組といった治安組織が思い浮かぶ。特に新撰組は司馬遼太郎氏の作品「燃えよ剣」や三谷幸喜氏のドラマ「新撰組!」などの影響で人気は高い。私が4年前に壬生寺を訪れた際にも、多くの歴女が隊士たちへの想いを訪問ノートに記していた。
 少々語弊があるかもしれないが、新撰組という組織は治安維持を名目にした単なる”人斬り集団”を、後世の時代小説家たちが義士にまつり上げた感がある。志士としての器量や才覚は土方はズバ抜けているが、他の隊士にはそれが乏しかった。乏しかったと言い切ってしまうこともないが、土方と他の隊士の終わり方を見るとそれは歴然である。

 意外にも長州藩が人気がない。実際は私もこの藩が好きってことはないのだが、明治の元勲伊藤博文のような才覚ある政治家を生み出した藩風は高く評価したい。
 司馬遼太郎氏の作品「花神」の主人公である大村益次郎にしたって、この藩領で生まれていなければ単なる田舎医者として終生過ごしていたはずだ。長州というナショナリズムが強い地域と藩風があったからこそ軍略家大村益次郎になりえたのである。
 また、この藩が幕長戦争に勝利していなければ、倒幕という流れが生まれることなく、さらに日本が文明開化に目覚めることもなかっただろう。そう考えると長州藩の果たした役割は、ある意味薩摩藩のそれより大きかったのかもしれない。

 その他、宇和島藩が高い得票を得ていることに驚く。日本史に詳しくない方には幕末宇和島藩が果たした役割など知ることはないであろう。私自身も司馬氏の「街道をゆく」を読むまでは宇和島藩など”伊達家の枝”程度にしか考えていなかった。しかし、この藩は知れば知るほど面白い。
 藩公の伊達宗城は好奇心の塊のような人で、開明的な人物を身分関係無く重用した。蒸気船の建造に関しては前述の大村益次郎(この時期は村田蔵六と称す)や堤燈張りの嘉蔵、医学に関してはシーボルトの娘イネや、同じくシーボルトの弟子二宮敬作などを重用し、藩を上げての技術革新を成し遂げようとした。
 こうした事実を顧みると、”通(つう)”の人には宇和島藩が魅力的に映るのが分る。

 その他、坂本龍馬や板垣退助を輩出した土佐藩、宇和島藩と同様に名君の鍋島閑叟によって技術革新を進めた肥前藩など、幕末の藩を調べてゆくことは本当に面白い。 

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2009/05/27

幕末関連アンケート

 選択肢が少なくて申し訳ないのですが、以下のようなアンケートを作成しました。
 幕末という激動の時代に活躍した藩で、特に『この藩の活躍が好き』と持っているものを以下の選択肢から選んで下さい。
 会津のような佐幕的な藩、長州のような急進的な藩、佐賀・土佐のような有能な逸材を輩出した藩、宇和島藩のような開明的な藩、自身が『これだ』と思うものを選んで下さい。
 ご協力お願い申し上げます。

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2009/05/21

小説『花神(下巻)』

 長州が幕府軍に勝った。
 兵力の差はおよそ20倍、その軍勢に長州は勝った。
 数字の上で考えれば、大軍を率いて攻め込んできた幕府軍が明らかに優位である。しかしメンタルという部分で幕府軍は長州に劣っていた。
 幕府軍の構成は諸藩から集めた軍勢で、要は烏合の衆である。烏合の衆では戦いの目的意識を共有することは実に難しい。一方、長州の軍勢は『郷土防衛』という共通の認識を持ち戦っている。そこが幕長の差であったのだが、そこだけの差では戦争には勝てない。勝つためには戦術や戦略といった高等技術も必要となってくる。その部分を担ったのが村田蔵六であった。
 維新後、桂小五郎改め、木戸孝允はこんなことを語っている。
 「維新は癸丑(ペリー来航の嘉永六年)以来、無数の有志の屍の上に出できたった。しかし最後に出てきた大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就は難しかったに違いない。」
 まったくの正論である。
 私たちは、幕末期を振り返るときに、思想や政略といった華々しい部分に焦点を充ててしまう。実際私もそうである。しかし、その影には技術的な部分を補完するための知識で維新という革命を支えた人物がいたことを忘れてはならない。
 『花神(下巻)』では、司馬氏独特の史観によって、幕末維新の『軍事技術』という部分をクローズアップし、その代名詞ともいえる村田蔵六を中心に、幕末の軍事技術がどのようなものであったのかを描き出している。

 幕末に活躍した志士たちに共通する熱気というか、その心意気というか、それぞれの『気』が一つの塊を成し、維新に向かって邁進したことは多くの人たちがしるところである。しかし、その熱気は『狂気』と表裏一体であり、それを不用意に刺激すると暴走してしまう危険も孕んでいる。
 狂気とは、戦いの場所において加熱するものだと思う。少なくとも私はこの作品を読んでそう感じた。その中に技術的思考ともいうべき『理性』が過分に入り込んでしまうと、中和させるのではなく、灰神楽が立つことが如く手のつけられない状態になる。その情景を司馬氏は、上野戦争における蔵六と薩摩藩士・海江田信義との関係で描き出している。見事に描き出しているが、ここに記すのが面倒なので、興味のある方はこの小説を読んで頂きたい。
 この上野戦争における経緯で、最終的に蔵六は命を落とすのだが、私は蔵六の落命により維新後の新たな闘争が始まったような気がした。その戦いは西南戦争で結実するのだが、その西南戦争でさえも蔵六は予言していたのだから、何と表現してよいのか、実に奇異な人物だと不思議な気分になった。

 この小説を読んで、私は蔵六に好意を持つには至らなかったが、彼が果たした役割、そしてその重要性については高く評価したい。

 最後に、司馬遼太郎氏は小説家であって、歴史学者ではない。ゆえにその主張の拠所は作家として別の場所から歴史を俯瞰することができる客観性であろう。ということは、司馬氏だけの主張を歴史の真実と受け止めることは、少々危険のような気もする。歴史をたのしむのであれば、司馬史観に依存するのも悪くはないが、学問として探求するのであれば、司馬史観以外にも視野を広くすることが重要でないかと、ふと思った。

 長々と理屈っぽい評論になってしまったが・・・この作品、面白かった♪

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2009/05/17

小説『花神(中巻)』

 上巻の最後で、ナショナリズムという意識により長州藩雇士となり、郷土へ戻った蔵六だが、蔵六が郷土に戻った時期(文久年間以降)というのは、長州藩が激動の幕末の主役へ躍り出たことは今更説明するまでもない。そのような時期と同じくして帰郷したということは、蔵六自身が意識していなくとも、激動の時代に必要とされた存在であったといっても過言ではないだろう。

 さてこの中巻だが、攘夷というエネルギーによって驀進する長州藩の動きにスポットをあてながら、そこに属する蔵六を描き出すような展開になっている。また、おなじみの鳥瞰的手法が多々用いられ、蔵六の話以外にも幕末長州そして幕末日本の動静を司馬氏独特の史観から考察しており、歴史好きには満足のゆく構成となっている。幕末という時代が好きな私にとって、興味深く読める内容に仕上がっている。

 蔵六は攘夷論者であった。しかし『夷敵を神州(日本)から追い払う』という抽象的な攘夷論ではなく、作中の文章を借りれば
『日本中に攘夷という大発熱をおこさせることで、日本の体質を変える』
と考えている攘夷論者であった。また、攘夷を実行する上では、夷(西洋文明)の技術を吸収し、それを用いて攘夷を実行しようと考えているあたりは、蔵六が志士と呼ばれる連中が唱える攘夷とは一線を画していることがうかがえる。

 後半ではついに幕府と長州の戦い(幕長戦争)の戦端が開かれる。蔵六(この時期に桂小五郎の推薦により、上士身分となり、大村益次郎と名乗る)は総司令長官として、この戦いの戦略を担うことになった。
 得意のオランダ語によって、西洋の軍式を隅の隅まで理解していた蔵六は、百姓町人を『戦いの一員(兵士)』に組み込み、その連中に新式銃であるミニェー銃を携えさせ旧式装備の幕軍と対峙させる。これが後に 『階級社会の崩壊』につながり、武士の特権を奪うことにつながってゆく。

 この中巻で人間・村田蔵六を垣間見ることができるシーンは、シーボルトの娘イネと、妻のお琴との会話の場面だけかもしれない。 蔵六に限らず、人間というのは恋や夫婦生活において人間らしさをかもし出すことが多い。小説の世界ではあるが、作中で機械のように冷たい蔵六が、血の通った人間の姿を見せるのはこの二人にだけである。

 最後に、くどいようだが、この作品は司馬氏が得意とする鳥瞰的手法により、時代そのものが主人公となり、そこから人物を照らし出す作風となっている。閑話休題しても一級品の作品を仕上げる司馬氏の才能は、さすがの一言である。

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2009/05/10

小説『花神(上巻)』

 『花神(かしん)』とは中国において花咲爺という意味である。(小説『花神』解説より)
 花咲爺というタイトルを付したのだから当然、作品の内容と密接に関係しているのは間違いない。 そのことに関連し、著者の司馬遼太郎氏が『革命』というものについて以下のように記している。

 

大革命とは、思想家が精神的支柱を作り、策略家が押し進め、技術者が仕上げることである。

 この考え方から読み取れることは、仮に幕末維新を大革命と定義すると
1.思想家が精神的支柱を作り
については、長州藩においては吉田松陰がこれに該当し
2.策略家が押し進め
については、蛤御門の変で壮絶な最期を遂げた久坂玄瑞や、幕長戦争で奇兵隊らを指揮して幕府軍を破った高杉晋作がこれに該当し

そして
3.技術者が仕上げること
については、戊辰戦争において、その優れた軍略を用い、新政府軍に勝利をもたらした『花神』の主人公である村田蔵六が該当する。(新政府で参議として活躍した桂小五郎もここに該当するだろう。)

 吉田松陰が種を蒔き、久坂や高杉が水を与えて木の根を伸ばし、最後に蔵六がその木に花を咲かせる。
 これが長州藩における幕末維新の流れであり、蔵六が担った『花神』としての役目であった。

 小説『花神』とは、激動の幕末に生きた村田蔵六と、蔵六を取り巻く人々を描いた壮大な長編小説なのである。

 話を村田蔵六に移す。
 幕末の蘭学者で、維新政府の軍務を担った人物として有名な村田蔵六であるが、彼が元禄時代に生まれていたとすれば、無愛想な村医者で一生を終えたであろう。しかし、時代が蔵六を必要とした。(そういっても過言ではない。)
 黒船が江戸湾に現れて以来、西洋文明に対する日本人の畏敬の念は、それ以前とは比較にならないほど広がり始めていた。特に西国雄藩の藩主たちは、その文明を受容し、かつ自らもその産業を興そうと躍起になる。
  村田蔵六は、ペリーショック以前から大阪の適塾で蘭学を学び、西洋の文明というものを書物を通じて知り得ていた。その蔵六を時代が必要とした。
 宇和島藩藩主の伊達宗城は、藩の独力により蒸気船を建造しようと試みる。しかし、西洋の技術を導入するためには、西洋の文字を読める技術者が必要であった。そこで白羽の矢に立ったのが村田蔵六であった。
 医学と蘭語の知識しかない蔵六だが、未開の分野である蒸気船設計を宇和島の町人で司馬氏曰く『天才』である嘉蔵(かぞう)と共に見事成功させる.ここでのストーリーは、知識欲旺盛な日本人が、新しい文明に対して試行錯誤しながら、それを自らのモノにしていく過程を垣間見ることができ、とても面白い。
 また、シーボルトの娘イネとの恋や、かつてこのブログでも紹介した二宮敬作との出会いによって、冷たい人間像で描かれている蔵六が、人間らしさをみせるのは、ここ宇和島でのシーンの特徴であろう。

 開国、新しい文明、そして革命とわずか15年の間に激動の時代を走り抜けた日本。その時代に必要とされ、その時代と運命を共にした村田蔵六の人生前半を描いた『花神(上巻)』は、一人の人生でなく、長い眠りから覚めた日本の激動も知ることが出来る名著である。
 幕末の技術革新について興味のある方には、オススメの一冊だ。

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2008/11/11

江戸城無血開城

 大河ドラマ篤姫がついに佳境を迎えようとしている。物語の初回に『江戸の町を戦火から救った一人の女性』と篤姫を紹介していたが、誰もがご存知のように篤姫だけの力で江戸城の無血開城に至った訳ではない。さらに言葉の揚げ足を取るならば、江戸の町を戦火から救ったというのは間違いで、実際旗本衆で組織された『彰義隊』が上野寛永寺に籠って新政府軍の交戦している。あくまでも『江戸城』を戦火から救ったという表現が正しいであろう。
 篤姫自体、当時は大奥で最も権威ある地位にあったので(慶喜が大阪から江戸に戻った際に篤姫に面会を求めていることが、大奥における篤姫の権勢を物語っている。ちなみに和宮は面会を断った。)大奥と江戸城を守るのは義務として抱いていたのであろう。徳川家の姑である以上、争いにより家を断たれることは避けなければならない。
 また新政府軍の主力部隊を率いているのが篤姫と親交のあった西郷隆盛で、慶喜に事後処理を頼まれた勝海舟にとっては篤姫を通じて停戦交渉をおこなうことは極めて合理的だと考えていただろう。なので理屈になってしまうが、江戸城の無血開城を実現させたのは勝海舟とその部下山岡鉄舟の巧みな交渉戦術であり、篤姫は救ったというよりもその交渉に一役買った程度というのが事実である。

 さて、江戸城の無血開城について話を進めてゆきたい。
 鳥羽・伏見での戦いの最中に江戸へ戻ってきた慶喜は、自らが賊軍の首魁という汚名を着せられること恐れてすべてを勝海舟に委ねて、寛永寺に謹慎してしまった。余談ではあるが、司馬遼太郎氏の著書『最後の将軍』では、彼の出自である水戸藩では勤皇思想が強いため、前藩主・斉昭の息子である慶喜自身も強い尊王思想家であった。よって慶喜が『賊』になることは、彼の人生において最も屈辱であったと綴っている。そんな慶喜の心理を考えると『逃げ帰った』と世間では言われているが、錦の御旗が掲げられてしまった以上抵抗することは出来ないという彼なりの倫理が働いた結果だったのであろう。
 こうして謹慎した慶喜に代わり、徳川幕府暫定指導者となった勝は、無益な争いを避けるために親交のある西郷と交渉する戦略を思い付いた。それに勝には薩摩と交渉する上で有利になるものを2つ持っていた。一つは薩摩藩出身の天璋院篤姫、もう一つは自らが江戸でかくまっていた薩摩藩士益満休之助の存在である。
 まず、天璋院には江戸へ進軍してくる西郷へ和睦を促す文を書いてもらった。内容は
 

『今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます』(その時歴史が動いた 2007年4月25日放送分より)

 というもので、徳川家の存続を西郷に対し切に願っている。もちろん篤姫の輿入れの際に責任を担った西郷には心揺れ動くものがあったであろう。
 さらに勝は薩摩藩士益満休之助を案内役にし、信頼できる部下の山岡鉄舟を西郷隆盛の元に送り、駿府において交渉に臨むのであった。ここである事実が西郷の心証を良くした。死んでいると思っていた益満休之助が生きていたことである。これは勝海舟という男が信頼に値すると認識させた瞬間でもあった。
 西郷は鉄舟との交渉で無血開城に際し、次のような条件を付した。
①江戸城を官軍に明け渡すこと。
②江戸城中の者を向島に移すこと。
③幕府所有の軍艦を渡すこと。
④武装解除し兵器を官軍に引き渡すこと。
⑤慶喜を備前藩お預けとすること。

 ところが義を重んじる山岡鉄舟にとっては主君慶喜に対して『備前藩お預けとすること。』されることだけは納得できず、この条項の撤廃を強く西郷に求め、それを認めさせた。
 後日、江戸に赴いた西郷が薩摩藩邸において勝海舟と会談し、江戸城無血開城が決定するのであった。

 徳川家を守るという勝海舟、天璋院、山岡鉄舟の3人のぶれない共同認識が西郷の気持ちを動かし、無血開城につながった。そして江戸が日本の中心東京となったのは、この3人の尽力があったからこそだと思えてならない。

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2008/09/21

島津久光の凄さ

 半ばホームドラマのような大河ドラマ篤姫であるが、前回放送を観ていて今までの主観を考え直すようなシーンに見入ってしまった。それは島津久光と篤姫との会談のシーン。
 元々西郷に対して敬意を抱いている私にとっての久光とは復古主義者の代表みたいな存在であり、寺田屋事件の経緯などからも冷徹な国父様というイメージが強かった。しかし同郷同族の篤姫に対しても自らの信念を貫き通し、「挙国一致」という思想を兄から継承した気概は称讃に値する。また今まで気付かなかったことがお恥ずかしい話なのだが、精忠組に代表される藩下級武士を積極的に登用し、彼らに権限を与え、幕末の動乱期において大国薩摩藩を操作した政治力は実に見事である。
 土佐の山内容堂が有能な郷士を重用しなかったがために時勢に乗り遅れたのに比して久光は小松帯刀のような家老格から大久保利通のような成り上がりまで身分にこだわることなく登用した器は時代が時代なら一国の統治者に成り得た可能性もあるだろう。
 もし山内容堂が対外交渉は坂本龍馬、藩内郷士の統率を武市瑞山、軍事戦略を板垣退助というように権限を与え、久光のように大局的な視点で幕末の時勢を駆け抜けていたならば、主役は土佐藩であったかもしれない。しかし悲しいことに容堂は徹底した佐幕派であり、土佐冊封時から続く藩内の身分制度に執着したあまり薩長の動きについてゆけなかった。
 こうして久光と容堂を比較しても久光の手腕が秀でていたことが分かる。有馬だろうが篤姫だろうが己の進む道を妨げる奴は容赦せず、かといって能力がある奴には絶大な権限を与える。そんな島津久光には畏敬の念を抱く。
 今後も島津久光については徳川慶喜同様色々と調べてゆきたい。
Hisamitu
お由羅の子として生まれた故に後見人就任当初は斉彬派からの支持がなかった久光。しかし兄の遺志を継ぐことで藩内の志士たちを見事に統制したバランス感覚は素晴らしい。

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2008/09/11

薩摩兵児の末裔

 来年の大河ドラマ天地人のキャストについて、私個人の意見だが観る気が失せる配役であり残念で仕方がない。
 昨年放送された風林火山は、ゴンゾウの演技が素晴らしく、葵徳川三代以来の名作として高い評価のできる作品であった。今年の篤姫の配役は「?」であるが、放送時間になればチャンネルを合わせる気にさせてくれるので及第点は与えられる。主役の宮崎あおいさん(演出家との確執云々が言われているが・・・)の演技力は評価出来るし、島津斉彬・久光の配役もイメージに合っている。ただ、大久保一蔵と和宮はかなり厳しいと思うのだが、ご覧になられている方はどう思っているか少し聞いてみたいところだ。
 あっそうそう、天地人だが配役が謙信と景勝以外はどうも気に入らない。気に入らないから見ないんだけど、やはり歴史に名を遺した偉人には現代人が持つイメージってのがある訳で、ベストな配役で言えば伊達政宗=渡辺謙とか徳川家康=津川雅彦といった具合である。視聴者の持つイメージも崩さないような配役って重要なはずなんだけど、天地人はそれを無視しているとしか思えない。それとも視聴率的に篤姫以上を目指そうとしているため配役のイメージにこだわってはいられなかったのか?とりあえず配役についてはホームページで確認していただきたい。

 あぁタイトルから思いっきり話が逸れてしまったが、先日近代警察の父と呼ばれる川路利良についてググッていたら、とても興味深いサイトに辿り着いた。asahi.com鹿児島という朝日新聞のサイトなのだが、そこに薩摩のために尽くし偉人として崇められている薩摩兵児の末裔が紹介されていた。前述の川路利良や理不尽な幕命で木曽川の大規模治水工事の指揮を執った平田靱負、薩摩自顕流の使い手で人切り半次郎と京で恐れられた中村半次郎、西郷の懐刀村田新八、言わずと知れた倒幕の立役者大久保利通西郷隆盛などの末裔の方々が先祖に対するそれぞれの想いについて語っている。
 薩摩の偉人といえども、川路利良や大久保利通などは後年薩摩を討つ側に回ったため、つい最近までは鹿児島に銅像を建てることすら躊躇う空気があったようで、銅像は没してから大久保は101年(1979年)川路は120年(1990年)の歳月を経て鹿児島の地に建てられた。こんなごく最近まで建てることができなかったことを知り、逆に鹿児島の人々がどれだけ西郷を慕っているのかが少しだが理解できた気がする。
 このように色々な因縁やしがらみはあると思うが、今を生きる子孫が偉大なる先祖へどのような想いを抱いているのかをご覧になっていただければと思う次第である。

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