小説『菜の花の沖』
『菜の花の沖』は故司馬遼太郎氏の著作で、単行本で全6巻にもおよぶ長編小説である。
菜の花の沖の主人公は江戸後期に活躍した廻船業者の高田屋嘉兵衛、ゴローニン事件に関係した人物として多くの日本人に知られている。
司馬氏はこの高田屋嘉兵衛を
「英知と良心と勇気という尺度から、江戸時代で誰が一番偉いかといえば、私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。それも二番目がいないほど偉い人です」
と高く評価している(ホームページ『旅』より)
その高田屋嘉兵衛という人物はどのような生い立ちを経て日本一の廻船業者となったのであろうか。小説『菜の花の沖』を読んだ私なりにまとめてみたい。
淡路の極貧農家に生まれた菊弥少年(のちの高田屋嘉兵衛)は、貧しい家の食い扶持を減らすために隣町(新在家)へ丁稚奉公に出た。
嘉兵衛は奉公先の新在家で、網屋の娘おふさと恋仲になるのだが、それが当時の若衆間ではタブーであったため、逃げるように兵庫へと渡り、その兵庫で廻船問屋『堺屋』を営む親類のサトニラさんを頼り、水主(かこ)の一員となり海の男としての生活を始めた。
強靭な肉体と柔軟な思考で数々の実績を積む嘉兵衛の存在は、兵庫一の大廻船問屋である北風荘右衛門の目に留まるようになり、その荘右衛門の計らいで持舟船頭になる。
ここまでが前半のストーリー展開である。ここまで(第2巻まで)読んで私は『菜の花の沖』というタイトルはおそらく淡路島が菜種油の産地であるので、その淡路の沖に出て名を挙げた男(高田屋嘉兵衛)に由来しているのかもしれないと感じた。
3巻の途中から4巻までは、司馬氏得意の鳥瞰的手法で嘉兵衛以外の人物が多く登場し、簡単に言えば高田屋嘉兵衛を中心とした『蝦夷地』に想いを馳せる男たちの物語へと移ってゆく。
余談として商いの話になるが、『菜の花の沖』を読み、司馬氏が記した江戸商業社会から感じ取ったこととして、商売というのはいつの時代においても『需要と供給』の上に成り立ち、かつそれに付加価値が加わることで購買意欲が増すということである。
樽廻船が幕末まで隆盛を極め、江戸において関西で醸造された酒(灘の酒)が『ブランド』として重宝されたことがそれを十分に物語っている。
どの時代でもそうであるが、商いで成功する人たちは購買層が何を求めているのかをよく把握し、かつ『需要と供給』のバランス保つことで巨利を築いてゆく。ブランドと供給調整が江戸の商業社会を支えたといっても過言ではない。
嘉兵衛に話を戻す。
彼の凄いところはその利益のほとんどを設備投資にまわし、可能な限り利益を社会に還元したところだ。多くの船を持つことで、大量輸送を可能にし、庶民の需要を最大限に満たす。それは嘉兵衛は商いに中に『公益性』を取り入れることを惜しまなかったことの裏付けでもあるのだろう。
小説は第3巻の途中から舞台を蝦夷地へと移す。
嘉兵衛は元々士族層を下層の人々から『収奪』をして営みを送る連中と忌み嫌っていたのだが、1500石積の辰悦丸を建造して蝦夷地に渡ってからはその考えが一変する。
嘉兵衛の出会う武士たち(高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら幕臣)がそれまで嘉兵衛が忌み嫌っていた有閑な搾取階層とは違い、冒険心に富んだ誇り高き武士たちであったため、彼らに触発されるかたちで、高田屋の廻船業を弟の金兵衛に任せ、自らは幕府御用として蝦夷地開発へのめり込んでゆく。
そして嘉兵衛は彼らに劣らないほどの功績を挙げる。その功績とはクナシリ航路の発見だ。
クナシリ島とエトロフ島の間に流れる海流の影響でエトロフへの航海が困難を極めていた当時、嘉兵衛は島の間を流れる海流が3本であることに気づいた。海流にのみこまれないためにエトロフを一旦北上し、ある程度北上したら今度は海流に乗って南下する。それによって今までより容易に渡航できるはずだと考えたのである。
その嘉兵衛の考えは的中し、難破することなく悠々とエトロフに辿り着いた。これが嘉兵衛によるエトロフ航路発見である。
この作品では松前藩がアイヌ(蝦夷人)に対し収奪や拷問を繰り返していたことを司馬氏は強調している。彼ら(アイヌ)が文明社会での営みに不慣れであることをいいことに、松前藩および渡来してきた和人たちがアイヌを極端に差別し、そして騙し、時には生命さえも奪った。
嘉兵衛が信頼を寄せる幕臣たちもこれを憂い、かつ南下するロシアに対抗するためにアイヌたちへの待遇を改善しようと努力する。もちろん嘉兵衛もその考え方に共感し、アイヌの能力を頼りにした。
クナシリ航路を発見した嘉兵衛は、幕命によってクナシリ島の運営に乗り出す。それまでほぼ未開であったクナシリの運営を嘉兵衛はアイヌの人々と共におこない、15万石の成果を挙げた。
19世紀の初め、ピョートル大帝以来、不凍港を求めて南下してきたロシア帝国が、カムチャッカ半島から千島列島に南下を始めたために、日本はロシアとの接触が避けられない状況になっていた。
嘉兵衛がクナシリの運営をしている時期と時を同じくして、ロシア皇帝の使節レザノフが長崎に通商を求めてやってきた。しかし鎖国が国是である幕府はレザノフを長期間長崎に抑留した挙句、ロシアとは通商はできないと退けてしまった。
この幕府の態度に憤ったレザノフは、部下であるフヴォストフら軍人に対して、日本遠征命令を下す。私怨による暴挙とでもいうのであろうか、フヴォストフらはレザノフの命令を実行し、蝦夷地にある日本の関連施設を襲撃した。
この日本(幕府)に対する無謀な襲撃事件が、後のゴローニン事件へと繋がってゆく。
ところで、『菜の花の沖』で司馬氏は、ロシア事情について第5巻一冊丸々割いて説明している。
ロシアが南下し、日本との接触に至る経緯や、その根源となっている歴史についてもよく調べている。その内容には感嘆してしまう。さすがは司馬遼太郎といったところだ。
フヴォストフによる襲撃事件の後、幕府は異国船(ロシア船)に対し、神経過敏になっていた。その時期、ロシア軍艦ディアナ号は千島列島の測量をおこなっていた。このディアナ号の艦長こそ有名なゴローニンである。
ディアナ号は食料や水、薪を補給してもらうためにクナシリ島の日本陣屋にその意思を伝えた。日本側は使節をよこして応える素振りを見せながら、ゴローニンが油断したところを突いて召し取ってしまう。日本(幕府)側からすればフヴォストフ事件の報復であろうが、ディアナ号からすればだまし討ちである。
不幸にもゴローニンが捕らえられてしまい、ディアナ号の副艦長リコルドは艦長が生存しているかを確認するために日本船舶を捕らえることを画策する。こうした経緯で、エトロフ島運営に携わっていた高田屋嘉兵衛は、航海の途中リコルドによって捕縛されてしまうのであった。
嘉兵衛および高田屋で操船技術を学んだ紀州出身の文治を含む6人はカムチャッカ半島にあるペテロハブロフスクへと連行された。
そこで日本との環境の違いや、栄養不足により、文治を含む3人が病で死に、カムチャッカの冬を越すことができなかった。そうした悲しい現実を目の当たりにしつつも、嘉兵衛とディアナ号副艦長のリコルドは互いの人間性を認め合い、そしてゴローニン解放に向けて意識を共有することになる。
最終巻ではディアナ号による捕縛からカムチャッカでの苦難、そしてゴローニン解放までのストーリーが展開されてゆくが、何といっても嘉兵衛とリコルドという血の通った人間同士が、ある時は激しく口論し、またある時は共感しながらも、ゴローニン解放という目標に向かって進む姿は人種の壁を越えた『友情』の大きさを感じ取ることができる。
また、人間が相手に気持ちを伝える時に、言葉以上に『信じる気持ち』が重要であることも私の胸に深く刻まれた。ゴローニン解放は、嘉兵衛とリコルドの信じあう気持ちが成就させたのだ。
小説の最後に高田屋嘉兵衛が
「嘉兵衛さん、蝦夷地でなにをしたのぞ」
と郷土淡路の人に訊ねられたとき
「この菜の花だ」(嘉兵衛は晩年を淡路の菜の花に囲まれた屋敷で送った。)
と答えるのだが、その答えこそ、高田屋嘉兵衛の人生そのものを物語っているのであろう。
『菜の花の沖』は本当、素晴らしい作品であった。

『菜の花の沖』最終巻の最後に、司馬氏は高田屋嘉兵衛に菜の花について
「実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者に売られ、そこで油になり、諸国に船で運ばれる。たとえば遠くエトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の編み繕いの手もとをも照らしている。その網で獲れた魚が、肥料になってこの都志の畑に戻ってくる。わしはそういう廻り舞台の奈落にいたのだ、それだけだ。」
と語らしている。この言葉こそ小説『菜の花の沖』本質であるような気がしてならない。
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