カテゴリー「江戸時代」の48件の記事

小説『菜の花の沖』

 『菜の花の沖』は故司馬遼太郎氏の著作で、単行本で全6巻にもおよぶ長編小説である。
 菜の花の沖の主人公は江戸後期に活躍した廻船業者の高田屋嘉兵衛、ゴローニン事件に関係した人物として多くの日本人に知られている。
 司馬氏はこの高田屋嘉兵衛を
「英知と良心と勇気という尺度から、江戸時代で誰が一番偉いかといえば、私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。それも二番目がいないほど偉い人です」
と高く評価している(ホームページ『旅』より)
 その高田屋嘉兵衛という人物はどのような生い立ちを経て日本一の廻船業者となったのであろうか。小説『菜の花の沖』を読んだ私なりにまとめてみたい。

 淡路の極貧農家に生まれた菊弥少年(のちの高田屋嘉兵衛)は、貧しい家の食い扶持を減らすために隣町(新在家)へ丁稚奉公に出た。
 嘉兵衛は奉公先の新在家で、網屋の娘おふさと恋仲になるのだが、それが当時の若衆間ではタブーであったため、逃げるように兵庫へと渡り、その兵庫で廻船問屋『堺屋』を営む親類のサトニラさんを頼り、水主(かこ)の一員となり海の男としての生活を始めた。
 強靭な肉体と柔軟な思考で数々の実績を積む嘉兵衛の存在は、兵庫一の大廻船問屋である北風荘右衛門の目に留まるようになり、その荘右衛門の計らいで持舟船頭になる。
 ここまでが前半のストーリー展開である。ここまで(第2巻まで)読んで私は『菜の花の沖』というタイトルはおそらく淡路島が菜種油の産地であるので、その淡路の沖に出て名を挙げた男(高田屋嘉兵衛)に由来しているのかもしれないと感じた。
 
 3巻の途中から4巻までは、司馬氏得意の鳥瞰的手法で嘉兵衛以外の人物が多く登場し、簡単に言えば高田屋嘉兵衛を中心とした『蝦夷地』に想いを馳せる男たちの物語へと移ってゆく。
 余談として商いの話になるが、『菜の花の沖』を読み、司馬氏が記した江戸商業社会から感じ取ったこととして、商売というのはいつの時代においても『需要と供給』の上に成り立ち、かつそれに付加価値が加わることで購買意欲が増すということである。
 樽廻船が幕末まで隆盛を極め、江戸において関西で醸造された酒(灘の酒)が『ブランド』として重宝されたことがそれを十分に物語っている。
 どの時代でもそうであるが、商いで成功する人たちは購買層が何を求めているのかをよく把握し、かつ『需要と供給』のバランス保つことで巨利を築いてゆく。ブランドと供給調整が江戸の商業社会を支えたといっても過言ではない。
 
 嘉兵衛に話を戻す。
 彼の凄いところはその利益のほとんどを設備投資にまわし、可能な限り利益を社会に還元したところだ。多くの船を持つことで、大量輸送を可能にし、庶民の需要を最大限に満たす。それは嘉兵衛は商いに中に『公益性』を取り入れることを惜しまなかったことの裏付けでもあるのだろう。
 小説は第3巻の途中から舞台を蝦夷地へと移す。
 嘉兵衛は元々士族層を下層の人々から『収奪』をして営みを送る連中と忌み嫌っていたのだが、1500石積の辰悦丸を建造して蝦夷地に渡ってからはその考えが一変する。
 嘉兵衛の出会う武士たち(高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら幕臣)がそれまで嘉兵衛が忌み嫌っていた有閑な搾取階層とは違い、冒険心に富んだ誇り高き武士たちであったため、彼らに触発されるかたちで、高田屋の廻船業を弟の金兵衛に任せ、自らは幕府御用として蝦夷地開発へのめり込んでゆく。
 そして嘉兵衛は彼らに劣らないほどの功績を挙げる。その功績とはクナシリ航路の発見だ。
 クナシリ島とエトロフ島の間に流れる海流の影響でエトロフへの航海が困難を極めていた当時、嘉兵衛は島の間を流れる海流が3本であることに気づいた。海流にのみこまれないためにエトロフを一旦北上し、ある程度北上したら今度は海流に乗って南下する。それによって今までより容易に渡航できるはずだと考えたのである。
 その嘉兵衛の考えは的中し、難破することなく悠々とエトロフに辿り着いた。これが嘉兵衛によるエトロフ航路発見である。

 この作品では松前藩がアイヌ(蝦夷人)に対し収奪や拷問を繰り返していたことを司馬氏は強調している。彼ら(アイヌ)が文明社会での営みに不慣れであることをいいことに、松前藩および渡来してきた和人たちがアイヌを極端に差別し、そして騙し、時には生命さえも奪った。
 嘉兵衛が信頼を寄せる幕臣たちもこれを憂い、かつ南下するロシアに対抗するためにアイヌたちへの待遇を改善しようと努力する。もちろん嘉兵衛もその考え方に共感し、アイヌの能力を頼りにした。
 クナシリ航路を発見した嘉兵衛は、幕命によってクナシリ島の運営に乗り出す。それまでほぼ未開であったクナシリの運営を嘉兵衛はアイヌの人々と共におこない、15万石の成果を挙げた。

 19世紀の初め、ピョートル大帝以来、不凍港を求めて南下してきたロシア帝国が、カムチャッカ半島から千島列島に南下を始めたために、日本はロシアとの接触が避けられない状況になっていた。
 嘉兵衛がクナシリの運営をしている時期と時を同じくして、ロシア皇帝の使節レザノフが長崎に通商を求めてやってきた。しかし鎖国が国是である幕府はレザノフを長期間長崎に抑留した挙句、ロシアとは通商はできないと退けてしまった。
 この幕府の態度に憤ったレザノフは、部下であるフヴォストフら軍人に対して、日本遠征命令を下す。私怨による暴挙とでもいうのであろうか、フヴォストフらはレザノフの命令を実行し、蝦夷地にある日本の関連施設を襲撃した。
 この日本(幕府)に対する無謀な襲撃事件が、後のゴローニン事件へと繋がってゆく。

 ところで、『菜の花の沖』で司馬氏は、ロシア事情について第5巻一冊丸々割いて説明している。
 ロシアが南下し、日本との接触に至る経緯や、その根源となっている歴史についてもよく調べている。その内容には感嘆してしまう。さすがは司馬遼太郎といったところだ。

 フヴォストフによる襲撃事件の後、幕府は異国船(ロシア船)に対し、神経過敏になっていた。その時期、ロシア軍艦ディアナ号は千島列島の測量をおこなっていた。このディアナ号の艦長こそ有名なゴローニンである。
 ディアナ号は食料や水、薪を補給してもらうためにクナシリ島の日本陣屋にその意思を伝えた。日本側は使節をよこして応える素振りを見せながら、ゴローニンが油断したところを突いて召し取ってしまう。日本(幕府)側からすればフヴォストフ事件の報復であろうが、ディアナ号からすればだまし討ちである。
 不幸にもゴローニンが捕らえられてしまい、ディアナ号の副艦長リコルドは艦長が生存しているかを確認するために日本船舶を捕らえることを画策する。こうした経緯で、エトロフ島運営に携わっていた高田屋嘉兵衛は、航海の途中リコルドによって捕縛されてしまうのであった。

 嘉兵衛および高田屋で操船技術を学んだ紀州出身の文治を含む6人はカムチャッカ半島にあるペテロハブロフスクへと連行された。
 そこで日本との環境の違いや、栄養不足により、文治を含む3人が病で死に、カムチャッカの冬を越すことができなかった。そうした悲しい現実を目の当たりにしつつも、嘉兵衛とディアナ号副艦長のリコルドは互いの人間性を認め合い、そしてゴローニン解放に向けて意識を共有することになる。

 最終巻ではディアナ号による捕縛からカムチャッカでの苦難、そしてゴローニン解放までのストーリーが展開されてゆくが、何といっても嘉兵衛とリコルドという血の通った人間同士が、ある時は激しく口論し、またある時は共感しながらも、ゴローニン解放という目標に向かって進む姿は人種の壁を越えた『友情』の大きさを感じ取ることができる。
 また、人間が相手に気持ちを伝える時に、言葉以上に『信じる気持ち』が重要であることも私の胸に深く刻まれた。ゴローニン解放は、嘉兵衛とリコルドの信じあう気持ちが成就させたのだ。

 小説の最後に高田屋嘉兵衛が
「嘉兵衛さん、蝦夷地でなにをしたのぞ」
と郷土淡路の人に訊ねられたとき
「この菜の花だ」(嘉兵衛は晩年を淡路の菜の花に囲まれた屋敷で送った。)
と答えるのだが、その答えこそ、高田屋嘉兵衛の人生そのものを物語っているのであろう。
 『菜の花の沖』は本当、素晴らしい作品であった。

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 『菜の花の沖』最終巻の最後に、司馬氏は高田屋嘉兵衛に菜の花について
 「実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者に売られ、そこで油になり、諸国に船で運ばれる。たとえば遠くエトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の編み繕いの手もとをも照らしている。その網で獲れた魚が、肥料になってこの都志の畑に戻ってくる。わしはそういう廻り舞台の奈落にいたのだ、それだけだ。」
と語らしている。この言葉こそ小説『菜の花の沖』本質であるような気がしてならない。

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安藤昌益の思想

今回も司馬遼太郎氏の作品から随想風に記してゆきたい。
 『街道をゆく』の第三巻より。
 司馬さんは街道をゆくの取材で八戸を巡り、そこで安藤昌益の思想に触れるのだが、その思想を著書で司馬史観的に変電(かみくだいて伝えること)している。
 
 安藤昌益の思想は『直耕(ちょくこう)』と呼ばれる。そこから説明してゆきたい。
 
 直耕について。
 
 

地上で生成された最初の存在は米であり、米から人や鳥獣虫魚が分化する。
 人の生産活動も「直耕」である。万物は、男と女、水と火というように対をなしており、男の本性は女、女の本性は男と、相互に対立するものの性質を自己の本性にしている。このような関係を「互性(ごせい)」という。
 「直耕」を行い「互性」を保つ限り、自然や社会、身体は矛盾なく調和している。このような時代を「自然の世」という。
 しかし、中国の聖人やインドの釈迦(しゃか)などが現れ、支配し収奪するものと支配され生産に従うものとの絶対的対立関係「二別」をつくりだす。「二別」に基づく諸制度を「私法」、「私法」の行われる時代を「法世」という。「法世」は「直耕」と「互性」が否定される反自然的状態なので、災害や闘争や病気が絶えない。
Yahoo!百科事典 より引用

 
 というものである。

 おそろしいほどの原始ノスタルジーとでもいうべきであろうか、もしくは人類史上最も根源への回帰を目指した思想家なのであろうか、よくもまあ江戸時代にこのような発想をしたものだ。
 『法世』と『自然の世』を対比させ、法世による収奪社会を否定する思想は無垢といっても過言ではない。
 
 司馬さんは安藤昌益が秩序そのものを嘘と定義したことや、その根拠(前述したもの)となっている思想を『煌びやかな幼稚さ』と称している。
  『煌びやかな幼稚さ』というものを漠然と表現する方法として司馬さんは『近親相姦』に例えて次のように説明している。

 

たとえばただの恋愛よりも近親相姦のほうがはるかに思想的だという立場成り立つとすれば、安藤昌益の思想はその煌びやかさに似ている。
 兄が手近である女の妹を犯す。妹と他の女とでは生理的に異なるところは一つもない。であれば恋愛という手間と金のかかる仕事はむしろ余計事で、恋愛という現象からおこる刃傷沙汰などもない。恋愛こそ人倫の邪道であり、兄妹姦こそが人倫の王道である。と説けば堂々とした思想になりうる。
『街道をゆく3』より引用

 なるほど。秩序というものは搾取階層の作り上げた虚構であり、根拠さえ崩せば秩序が安藤昌益のいうところの『互性』こそ正論であるとなびく可能性だってある。

 こうやって安藤昌益の思想一つを取り上げても、司馬史観というものは実に面白い。

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菜の花の沖 -蝦夷地に命を懸けた男たち-

 今回の記事は多少随筆風で。
 
 今、私は司馬遼太郎氏の作品『菜の花の沖』を読んでおり、現在第4巻(全6巻)の途中まで読み進めています。
 淡路の極貧農家に生まれた菊弥少年(のちの高田屋嘉兵衛)は、貧しい家の食い扶持を減らすために隣町(新在家)へ丁稚奉公に出ます。嘉兵衛は奉公先の新在家で、網屋の娘おふさと恋仲になるのですが、それが当時の若衆間ではタブーであったため、逃げるように兵庫へと渡るのです。
 兵庫では廻船問屋『堺屋』を営む親類のサトニラさんを頼り、水主(かこ)の一員となり生活を始めます。強靭な肉体と柔軟な思考で数々の実績を積む嘉兵衛の存在は兵庫の大廻船問屋である北風荘右衛門の目にも留まるようになり、その荘右衛門の計らいで持舟船頭になるまでが前半のストーリー展開です。
 
 『菜の花の沖』というタイトルはおそらく淡路島が菜種油の産地であるので、その淡路の沖に出て名を挙げた男(高田屋嘉兵衛)に由来しているのかもしれません。多分。
 3巻以降は司馬氏得意の鳥瞰的手法で嘉兵衛以外の人物が多く登場し、簡単に言えば高田屋嘉兵衛を中心とした『蝦夷地』に想いを馳せる男たちの物語へと移ってゆくのです。

 4巻まで読んだ感想ですが、まず商売というのはいつの時代も『需要と供給』の上に成り立ち、かつそれに付加価値が加わることで購買意欲が増すということに気づかされました。樽廻船が幕末まで隆盛を極めたのは、江戸において関西で醸造された酒(灘の酒)が『ブランド』として重宝され、その需要が衰えなかったことが理由の一つに挙げられます。
 どの時代でもそうですが、商いで成功する人たちは購買層が何を求めているのかをよく把握し、かつ『需要と供給』のバランス保つことで巨利を築いてゆくのです。ブランドと供給調整が江戸の商業社会を支えたといっても過言ではありません。
 嘉兵衛に話を移すと、彼の凄いところはその利益のほとんどを設備投資にまわし、利益を可能な限り社会に還元したところです。多くの船を持つことで大量輸送を可能にし、庶民の需要を満たす。ケチケチしていては出来ないことです。

 第3巻の途中から物語の舞台は蝦夷地へと移ってゆきます。
 嘉兵衛は元々士族層を下層の人々から『収奪』をして営みを送る連中と忌み嫌っていたのですが、1500石積の辰悦丸を建造して蝦夷地に渡ってからはその考えが一変します。嘉兵衛の出会う武士たち(高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら)が前述の有閑な連中とは違い、冒険心に富んだ誇り高き武士たちであったため、嘉兵衛は廻船業を弟の金兵衛に任せて自らは幕府御用として蝦夷地開発へのめり込んでゆくのです。そして嘉兵衛は彼らに劣らないほどの功績を挙げるのですが、功績とは次のようなものです。
 クナシリ島とエトロフ島の間に流れる海流の影響でエトロフへの航海が困難を極めていた当時、嘉兵衛は島の間を流れる海流が3本であることに気づきます。海流にのみこまれないためにエトロフを一旦北上し、ある程度北上したら今度は海流に乗って南下する。それによって今までより容易に渡航できるはずだと考えたのです。
 その嘉兵衛の考えは的中し、難破することなく悠々とエトロフに辿り着いたのです。これが嘉兵衛によるエトロフ航路の発見でした。

 話変わって、この作品では松前藩がアイヌ(蝦夷人)に対し収奪や拷問を繰り返していたことを司馬氏は強調しています。彼ら(アイヌ)が文明社会での営みに不慣れであることをいいことに、松前藩および渡来してきた和人たちがアイヌを極端に差別し、そして騙し、時には生命さえも奪ったというのです。
 高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら幕臣はこれら憂い、かつ南下するロシアに対抗するためにアイヌたちへの待遇を改善しようと努力します。もちろん嘉兵衛もその考え方に共感し、アイヌの能力を頼りにします。

 殴り書きならぬ殴り入力という感じの記事でしたが、実際ここまでしか読んでいないので、全6巻を読破したらウェブページの方へあらためて記事をアップしようと思っています。
 この『菜の花の沖』も司馬氏の名作と呼ぶにふさわしい作品です。

 最後に、北方領土問題でこの領土問題を知らない日本人が多いそうです。さらにロシアによるの4島不法占拠が60年以上続き、この問題を我々の世代(30~40歳台)が生きている間に解決すべく、この『菜の花の沖』を多くの方に読んで頂き、北方領土の開発に命を懸けた先人とアイヌの功績を知ってほしい。私はそう願っています。

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江戸幕府中興の宰相 田沼意次

 以前から私は田沼意次を『改革者』として賞賛し、彼が幕政で成し得た功績を当ブログでも紹介してきた。
 田沼意次に対し『賄賂政治家』のレッテルを貼り、改易せしめたのは『寛政の改革』で知られる松平定信である。定信は御三卿の一つ田安家の次男として生まれたにも関わらず意次の計略によって将軍になれなかった私怨があり、その恨みが意次のすべてを否定する思考に結びついたのかもしれない。
 発想を変えれば寛政の改革は定信の恨みが幕政として現れた結果なのかもしれない。田沼政治の否定が寛政の改革なのだからそう考えても不自然ではないであろう。

 さて、あらためて田沼政治を振り返ってみる。
 1745年、吉宗の嫡子家重が第9代将軍に就任すると意次も家重とともに江戸城本丸に移り、2年後には小姓組番頭格、さらに翌年には同組番頭、そして1751年に側衆側用取次(側用人)と破格のスピード出世を遂げた。これは将軍家重の覚えがめでたいだけではなく、周囲の幕閣らから意次の政治手腕を高く評価されていたことが裏付けられた結果であろう。
 また、意次が父から受け継いだ知行地はわずか600石、それをわずか数年のスピード出世により1万石の大名に列せられる訳だから当時の身分制度を考えると異例中の異例である。
 これから述べることはあくまでも私の憶測であるので確証はまったくないのだが、意次の政治手腕はその後の政策を見てもらっても分かるように非常に卓越したである。しかし、この出世は能力そのものを評価されての結果オンリーではなく、幕府の官吏に対する『賄賂』攻勢があったこともなきにしもあらずではないだろうか。わずか600石の貧乏旗本が将軍の側近くに仕えることなど江戸封建社会においては難しいところ、それを身に沁みて分かっている意次だからこそ『賄賂』という戦略を用いた可能性も否定できない。
 出世(ダーティーな手法)を重ねる上で、意次自身に商業資本よる財政再建の思想が芽生え、田沼政治と呼ばれる重商主義が発展したとも考えられるが如何に。

その田沼政治であるが、意次は一体どのような政策を実施していったのかを紹介しよう。

①予算制度の確立
 田沼意次が吉宗から政権を引き継いだ(家重・家治は将軍ではあったが幕政には殆ど関与していないので、この表現を使用させてもらった。)時、吉宗による緊縮財政と新田開発の結果、火の車であった幕府財政は何とか黒字へ転換することに成功した。しかし改革で転換した黒字収支も一歩間違えれば再び財政は赤字に戻ってしまう恐れがある。そこで意次が考えついたのは『予算』制度である。
 意次は幕府の主要機関へ予算を割り振り、その額で賄わせることにした。もちろん大奥の予算も大幅に削減している。
 『田沼は大奥のご機嫌を取り政権の維持を図った。』
 と言う通説もこの予算制度の導入を考えるとご機嫌取りをしていたとは考えられず、この事実が意次の財政再建政策実施が本気であったことを示している。
 この手法で重要な機関への予算を増やし、大奥のような浪費の多い機関への予算を減らすことで幕府財政の安定を計った。

②税制改革
 江戸時代、税制の根本は農民の収穫を一定の割合で年貢として徴収することであった。この制度は現代で言う直接税(所得税・住民税)にあたるもので、仮に不作であった場合でも年貢を納めなければならず、一揆などが発生する原因ともなり政情も不安定になりかねなかった。
 そこで意次は直接税を引き上げない代わりに間接税(現代では消費税等に該当)を導入しようと考えたのである。その名も『流通税』。意次は現代の消費税のように個人に事業者を介して課税することは難しいと考え、取扱商品ごとにグループを作らせ、そこへ課税する方式を導入した。
 ところがそのグループは納税するかわりに流通上の独占権を与えろと主張し始め意次はそれを容認した。それこそ田沼賄賂政治の代名詞とも言われている『株仲間』であった。
 ここまでの説明でも理解していただけたと思うが、意次は賄賂を受けるために株仲間を奨励したのではなく、そこから徴税することで財源を確保したかった思惑があったために株仲間を組織させたのである。
 ただ、その後株仲間が既得権の保護を名目に意次に対して賄賂なるものを贈ったかどうかは定かではない。もしかしたら贈っていた可能性もあるだろう。

③通貨の統一
 『江戸の金遣い・大坂銀遣い』
 江戸時代、東西で流通する貨幣が異なっていたためこのような言葉が使われていた。これが国内経済発展の妨げになっており、意次は早急にこの状況を打開しなければならなかった。

※北朝鮮では自国の通貨ウォンの価値がほとんどないために、観光客にドルを要求することがある。このように流通通貨が違うことで経済成長の妨げになっていることを示している悪い例として多くの人々が知るところであろう。意次はこのような経済成長の妨げとなる障害を取り除こうとした。18世紀に生きた意次が現代に生きるキム・ジョンイルよりも格段に優れた政治家であることが分かる政策である。

 そこで意次は経済発展を推進ために通貨の統一を図るのだが、すでに流通している金銀を回収して新たな通貨を生産することは容易ではない。そこで意次は金銀の交換単位を統一することで通貨の流通を円滑にし、さらに『南鐐二朱判』という金の単位を持った銀価を生産(南鐐とは極上の銀の意味)することで全国の通貨を統一しようと画策した。ところが志半ばで失脚し、南鐐二朱判も松平定信の手により生産中止となってしまう。


 このような意次の経済政策が功を奏し、幕府財政は171万7529両という第5代将軍綱吉以来の備蓄金最高値を記録している。 (ウィキペディアより参考)
 田沼意次は賄賂を受取った汚職政治政治家だったかもしれない。しかし清い流れだけで民衆が幸福になるかといえばそれは違う。緊縮財政という名のもとにある宰相が我が日本を格差社会に追い込んだ事実は多くの方の記憶に新しいはず。そう考えると幕府という権威が先導して積極財政を推進し、経済の活性化を促した田沼政治は『負』だけではない『正』の部分も評価されてしかるべきであるし、また評価していただきたい。
 今、この悩める日本の手本となるのはもしかしたら田沼意次という有能なエコノミストの功績かもしれない。

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日本史探求を振り返る 3

 過去の記事を読んでみると、意外と江戸時代の学者について取り上げてたりする。華岡青洲に伊能忠敬、そして二宮敬作、有名なようで日本人には忘れられている偉人たちだ。でも結局はこの方々がいなかったら江戸期において日本の文明水準は向上することはなかったと言っても大袈裟じゃないかもしれない。今でこそ麻酔の調合・地図作成・語学・医術は当然のように学ぶことができるが、鎖国時代の江戸期にあってはそれこそ試行錯誤の連続であっただろうし、オランダ語の書物だって訳すことが非常に困難であったはずだ。そんな逆境を乗り越えて偉業を達成した彼らこそもっと称えられてしかるべきだと思うが如何に。
 そんな偉人たちの中でも、私が心の底から「すげぇ」と思えるのが伊能忠敬だ。ゆかりの地である佐原では「チュウケイ先生」と呼ばれ今でも親しまれているという。
 つい先日だが、NHKのあるTV番組を見ていたら、この伊能忠敬を取り上げていた。仕事に行く前に少し見た程度なのだが、どうやら中学生向けのような番組であったらしい。私の知的水準は中学生レベルかもしれないので、私にとっては分かりやすい内容に仕上がっていたと思う。
 番組の中で、紹介されていた話だが、明治初期に英国海軍が日本沿岸の測量を実施し、途中まで作業を進めたのだが、その過程で手に入れた伊能図があまりにも完成度が高かったので、途中で測量を止めて伊能図を基に英国版日本地図を作成というのだ。当時の英国海軍は地図の作成において世界一の正確さを誇っていたのに、その彼らを驚嘆させた伊能図の存在は現在でも日本が世界に誇れる名品であることは間違いない。浮世絵や茶器、刀に鎧と日本が世界に誇る名品たちの中でも、伊能図はもっとも輝いていると私は信じている。

Inouzu1
これを五十の手習いで始めたってんだからすごい。

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薩摩兵児の末裔

 来年の大河ドラマ天地人のキャストについて、私個人の意見だが観る気が失せる配役であり残念で仕方がない。
 昨年放送された風林火山は、ゴンゾウの演技が素晴らしく、葵徳川三代以来の名作として高い評価のできる作品であった。今年の篤姫の配役は「?」であるが、放送時間になればチャンネルを合わせる気にさせてくれるので及第点は与えられる。主役の宮崎あおいさん(演出家との確執云々が言われているが・・・)の演技力は評価出来るし、島津斉彬・久光の配役もイメージに合っている。ただ、大久保一蔵と和宮はかなり厳しいと思うのだが、ご覧になられている方はどう思っているか少し聞いてみたいところだ。
 あっそうそう、天地人だが配役が謙信と景勝以外はどうも気に入らない。気に入らないから見ないんだけど、やはり歴史に名を遺した偉人には現代人が持つイメージってのがある訳で、ベストな配役で言えば伊達政宗=渡辺謙とか徳川家康=津川雅彦といった具合である。視聴者の持つイメージも崩さないような配役って重要なはずなんだけど、天地人はそれを無視しているとしか思えない。それとも視聴率的に篤姫以上を目指そうとしているため配役のイメージにこだわってはいられなかったのか?とりあえず配役についてはホームページで確認していただきたい。

 あぁタイトルから思いっきり話が逸れてしまったが、先日近代警察の父と呼ばれる川路利良についてググッていたら、とても興味深いサイトに辿り着いた。asahi.com鹿児島という朝日新聞のサイトなのだが、そこに薩摩のために尽くし偉人として崇められている薩摩兵児の末裔が紹介されていた。前述の川路利良や理不尽な幕命で木曽川の大規模治水工事の指揮を執った平田靱負、薩摩自顕流の使い手で人切り半次郎と京で恐れられた中村半次郎、西郷の懐刀村田新八、言わずと知れた倒幕の立役者大久保利通西郷隆盛などの末裔の方々が先祖に対するそれぞれの想いについて語っている。
 薩摩の偉人といえども、川路利良や大久保利通などは後年薩摩を討つ側に回ったため、つい最近までは鹿児島に銅像を建てることすら躊躇う空気があったようで、銅像は没してから大久保は101年(1979年)川路は120年(1990年)の歳月を経て鹿児島の地に建てられた。こんなごく最近まで建てることができなかったことを知り、逆に鹿児島の人々がどれだけ西郷を慕っているのかが少しだが理解できた気がする。
 このように色々な因縁やしがらみはあると思うが、今を生きる子孫が偉大なる先祖へどのような想いを抱いているのかをご覧になっていただければと思う次第である。

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日本史探求を振り返る 1

 この3年数ヶ月、数多の記事をアップしてきたが、それらの記事を読み返し、再検証等々してゆこうかと思う。
 まずはこの日本史探求で一番最初にアップした記事の主人公・保科正之について、現在の私が思うところ述べてみたい。

 保科正之に関心を持ち始めたのは2000年に放送された「葵徳川三代」の影響によるところが大きい。何せ徳川家光に異母兄弟がいたことすらあのドラマを観るまで知らなかったのだから。
 保科正之については会津史研究の第一人者である中村彰彦氏がタイトルもそのもの「保科正之」という新書(中公新書)を出版していたので、当時早速購入したのだった。
 私は、中村氏が著した保科正之を夢中になって読み、すっかり保科正之教の信者の如くになっていった。彼(保科正之)の将軍後見職としての実績は実に見事であり、武断政治から文治政治への過渡期を柔軟な政治姿勢で切り抜いていった有能な政治家として心から尊敬の念を抱くようになった。
 現在、私のその気持ちは当時ほど熱いものではないが、彼に対して尊敬の気持ちは抱き続けている。

 また以前の記事でも取り上げたが、保科正之を主人公とした大河ドラマを実現させるため、会津と高遠の有志の方々が運動を始めた。織田信長や坂本龍馬といった「画になる漢」は常にドラマ化され日本人の中に英雄像が完成されているが、時代劇でもほとんど登場することのない保科正之が大河ドラマの主役として登場したらどんなに画期的で、どんなに素晴らしいことであろうか。
 メディアは戦国時代や幕末、または忠臣蔵、源平の合戦、太平記という定番ばかりをドラマ化している。そうでなければ視聴率が獲れないのは分からなくもないが、歴史好きな人々にとってはそれでは物足りないはず。なので是非2010年の大河ドラマは保科正之で進めてほしい。

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妖刀 村正

 日本刀のブランドに「村正」なるものがある。私自身、刀コレクターではないので詳しいことはしらないが、戦国時代に伊勢桑名で生産されていたものらしい。
 村正の詳細についてはウィキペディア等でお調べ頂くとして、今回は徳川家と村正との忌まわしい関係について紹介したいと思う。

 徳川家康の父(広忠)・祖父(清康)はご存じのとおり三河の小大名であったため、下剋上の世にあっては求心力が弱く、故に家臣により惨殺されている。家康の若き日が不遇の時代であったといわれているのはこの小大名の家に生まれたためであることは周知の事実である。
 その後、三河を保護国として扱っていた今川義元が桶狭間において戦死したため、家康は三河で再起し、義元を倒した織田信長の盟友として心骨を砕いて働いてきた。
ところが、その盟友信長も、家康の利発な嫡男信康を「武田との内通あり」という嫌疑をかけ、家康に命じて自害させている。

 と、ここまで家康不遇の時代について簡単に述べてきたが、実はこれらの出来事には村正という刀が深くかかわっているという。
 まず、祖父・父が家臣に討たれた際、用いられた刀が実にこの村正であり、また嫡男信康を介錯する際に用いられたのも村正であった。家康、いや徳川家にとって最悪の事態にかかわった村正、何とも忌まわしい刀であったことか。
 その後家康は太閤秀吉の治世を持ち前の「したたかさ」で切り抜け、遂に天下分け目の関ヶ原を経て徳川治世を迎えるのだが、徳川家にとって不吉な出来事に用いられてきた村正を徳川の世に生きる大名や旗本は忌避して帯刀しなくなった。ただ肥前鍋島家だけは家宝とし村正を伝えている。この事実は鍋島家が立藩当初から徳川家を快く思っておらず、それが幕末の肥前における地位を位置づけたのかもしれない。
 また、幕末において討幕を志す志士たちは好んで村正を帯刀したという。しかしこの志士たちの中にも非業の最期を遂げた者が多く、こうした経緯から村正が妖刀と呼ばれることになったのかもしれない。
 ちなみに、徳川の忠臣・本多忠勝の槍は村正であり、一概に徳川家に不吉な出来事をもらたらした訳ではなく、徳川家を天下をもたらした槍は村正であったことも事実である。

 妖刀村正…なんとも怪しげな刀だ。

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今和泉島津家 墓所から謎の木箱発見

 暑い日と肌寒い日が交互に続く今の季節。このブログをご覧になっている方でも体調を崩されている方が少なくはないはず。私も寒暖の差に対応できるよう服装のセレクトはしっかりしゆきたいところだ。

 ところで私は今、夜の仕事をしているので、昼間に放送している番組をちょくちょく観ているのだが、先日の午後NHKの「お元気ですか日本列島」と言う番組を観ていたところ、鹿児島県指宿市にある今和泉島津家(篤姫の実家)の墓所の調査で、意外な発見があったと伝えていた。
 その意外な発見とは、今まで二代目当主の墓と言われていた墓の中から木箱発見され、九州国立博物館にあるX線CTスキャンで内部を調べてみたところ、その中には女性の髪の毛が収められていた。二代当主の墓から女性の髪の毛??さらに詳しく調べてみたところ、どうやらこの墓は二代当主の奥方様の墓であったのだ。では二代当主の墓はどこにあるのだろうか?これも程なくして判明した。
 それは当主以外の人物(幼くして亡くなったと伝わる人物)のものだと伝わる墓から同じように発見された木箱に記されていた成人を示す「居士」の文字により、そこが二代目当主の墓であったのである。
 このように、墓所を調査するだけで今までの概念を覆す発見がある訳で、陵墓参考地の調査が全面解禁される日が早く訪れることを願うばかりである。

※今和泉島津家についてはこちらのサイトで詳細が記されています。
Samurai World-薩摩紀行

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二宮敬作 ―シーボルトに学んだ町医―

ここ2、3日やっと12月らしく冷え込んできて、夜になれば吐く息も白くなる。ただ原油価格が高騰しているのでヒーターを使いすぎないよう注意している。
原油高もそうだが、ここのところ物価が高くなってきて、無駄な買い物など出来やしない。物価高になると市民の怒りの矛先が時の政治権力へ向く傾向にある日本だが、来年あたりその不満がどういう形で意思表示されるのか非常に気になるところである。

さて、話を歴史に移すとしたい。
最近私が夢中で読んでいる故司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズだが、氏が宇和島を旅した時の話(街道をゆく14 南伊予・西土佐の道)に出できた人物に私は興味を抱いた。その人物の名は二宮敬作という。二宮と言えば金次郎こと二宮尊徳を連想される方が多いだろうが(現に私もそうであるが)実はこの二宮敬作は江戸末期に長崎において蘭学を学び、その後宇和島(正確には卯之町だが)で町医師として活躍した庶民の味方と呼べる人物なのである。さらにあの有名なシーボルトの娘イネにオランダ語を教え、イネが日本初の女医となる基礎を授けた人物でもあるのだ。
今回はこの二宮敬作について取り上げてみようと思う。

話が明治時代にまで下るが、地理学者の志賀重昴(しがしげたか)がライプチヒ版の「ドイツ人名辞典」を読み、日本人の名前が掲載されているか探してみた。しかしその数の少なさを嘆いていたのだが、どういう訳だかこの二宮敬作の名を人名辞典で見つけることが出来た。それを見た志賀は
「二宮尊徳あるを知って、二宮敬作あるを知らず」(街道をゆく14 南伊予・西土佐の道より)
と述べたと言われている。
明治時代の日本で、しかも知識人である志賀でさえも知ることなかった二宮敬作と言う人物とは一体どのような経歴を辿ったのであろうか?

二宮敬作は1804年に宇和島藩の保内郷磯崎浦で生まれた。生家は半農半商の身分であり、農業のかたわら酒の小売などもしていたと言う。
敬作は16歳の時に
「長崎へ出て蘭学を学びたい。」
と両親に告げ、磯崎から長崎へ向かった。
当初長崎では通詞などからオランダ語を学んでいたが、途中シーボルトが来日したので彼の教えを受けることになる。これが敬作とシーボルトとの関係の始まりであった。
敬作は植物学に興味を持ち、シーボルトも
「熱心な植物学者」
だと評価している。また、敬作が採ってきた高山植物に「ケイサキー」と言う学名をつけたあたりからも、シーボルトが敬作に対して学者として高い評価をしていたことを物語っている。このことが、後に「ドイツ人名辞典」に名が載るきっかけとなるのかもしれない。

1828年、伊能忠敬により作成された日本地図をシーボルトがオランダへ持ち出そうとする事件が発生する。俗にいうシーボルト事件である。敬作はこれに連座し、長崎を追放されてしまうのである。
長崎を追われた敬作は、故郷磯崎に戻り、さらに3年後には宇和島藩卯之町で町医を開業するのであった。
司馬遼太郎氏は敬作が卯之町で開業したことを

侍の町である宇和島よりも町人の町である卯之町を選んだのは、あるいは敬作の生涯を特徴づける反骨とは無縁でないかもしれない。

と街道をゆくの中で評している。利益よりも医師としての信念を貫き診察に応じた敬作を町民たちは「医聖」と評して慕っていたという。

二宮敬作は、蛮社の獄で国事犯として捕らえられ、江戸の火事に紛れて脱獄してきた高野長英を卯之町の自宅に滞留させている。(敬作と長英はシーボルト門の同窓である)
長崎を追われた敬作の開業を認め、脱獄者である高野長英を藩に招いて蘭学を教授させた宇和島藩藩主・伊達宗城(だてむねなり)のしたたかさは先祖である伊達政宗のDNAをしっかり受け継いでいるようだ。

その後、敬作はおイネさんを始め多くの後進に医術指導をしながら晩年を過ごしたが、幕末動乱期の1862年その生涯を閉じた。
敬作は開国主義者であったと言う。ゆえに攘夷論者を
「攘夷など馬鹿なことを言いおって」
とののしった。
そんな敬作を司馬遼太郎氏は
幸い、攘夷テロリストの全盛時代というべき文久2年(1862年)に病死したからよかったが、さもなければ流行の天誅ということで殺されていたかもしれない。

と述べている。
そう考えると、幕末(特に長州が京都で大暴れしていた時期)と言う時代は、時代遅れの思想が流行の最先端であり、開明的な思想の持ち主が保守派と呼ばれた時代であったのかもしれない。

参考書籍 街道をゆく14 南伊予・西土佐の道

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熊本城(築城から西南戦争までの歴史)

徳川幕府が開府されて間もない頃、各地に多くの城が造られていった。
そのうち戦国武将としても名を馳せ、城造りの名手と言われる加藤清正と藤堂高虎が普請した城(名古屋・大坂・熊本)を現在も「天下の三大名城」と呼んでいる。
今回はその三大名城のうち、加藤清正が築城し、細川家が守り続けた熊本城と江戸期の熊本に歴史について取り上げていこうと思う。

天下分け目の「関が原の合戦」における戦功により、肥後54万石に加増された加藤清正。清正は肥後54万石に相応しい大規模な城郭を建設する。それが熊本城である。
豊臣恩顧の大名でもある清正が、この城を築いたのには大きな意味があったようだ。豊臣家に対して臣従を強要する家康を牽制するため、いざと言う時は徳川相手に一戦交える覚悟での、築城であったとも伝えられているのだ。それを裏付けるかのように、豊臣家の不測の事態に対応するため、城内には秀頼を匿うための部屋も存在していたと言う。

ところが、大坂冬の陣が開戦する4年前の慶長16(1611)年、加藤清正は突如亡くなってしまう。一説には大坂攻めを想定していた家康が、間違いなく豊臣方に加担するであろう猛将清正を毒殺してのではないかとも伝えられているが如何に。

清正の世嗣である忠広は、その後肥後54万石を継いだのだが、清正以来の遺恨を恐れた幕府の手により
「江戸で生まれた母子を無断で国元へ送った。」
と何とも理不尽な理由で改易、出羽庄内1万石へ減封されてしまった。
当時、秀忠から家光に続くラインが武断政治を断行し、豊臣恩顧の大名を次々と改易していた時代である。
その中でも豊臣恩顧最有力の大名である加藤家は、生贄として改易されたと言っても過言ではないだろう。
こうした政策は、保科正之による文治政治へシフトチェンジするまで続くのである。

加藤家の次に、肥後54万石へ入封されたのは、細川護煕元総理の先祖でもある細川忠利だった。この細川家が幕末の廃藩置県まで肥後を統治することになる。
細川家が肥後を統治していた時代について、世間では多くの事は知られていないが、江戸中期には名藩主が存在していた。細川家第6代当主重賢である。中興の祖と呼ばれる重賢は多くの藩政改革(宝暦の改革)を実行してゆく。例えば藩校時習館を設立し、藩で活躍できる有能な人材の育成目指したり、また身分の高くない藩士でも有能な人材(堀平太佐衛門など)であれば登用し藩政へ参加させるなど、当時としては斬新的な改革を断行したのである。

こうして肥後54万石の歴史とともに歩んできた熊本城だが、明治10年の西南戦争において政府軍の拠点となったため、宇土櫓と石垣以外は焼失してしまうのである。
そして現在、築城400年を記念事業して、多くの有志の寄付により城の復元工事が施され、細川家統治時代の城郭が再現されつつある。

Skiyomasa
加藤清正像。賤ヶ岳の七本槍の一人として武勇を馳せ、秀吉の朝鮮出兵では中心的役割を果たした。関ヶ原の戦いで東軍につき、戦功として肥後54万石を賜った。その後慶長12(1607)年熊本城を築城する。

参考書籍
熊本歴史散歩―城下町の変遷 / 荒木 精之

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素晴らしきリサイクル社会(江戸循環型社会の話)

環境保護活動家で、2004年にノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんが発言して有名になった言葉
「MOTTAINAI(もったいない)」

マータイさんは日本に来日した際、日本人が昔持っていた「もったいない」の考え方が今世界にもっと必要な考え方だと語ったと言う。
その発言を受け、日本においても「MOTTAINAI」は国家プロジェクトとなった。
ルー大柴さんが「MOTTAINAI」と歌っているのも、おそらくこの運動の一環であろう。

しかし、今の日本人にはもったいないと言う意識が希薄になっていると思う。
私が以前コンビニでアルバイトをしていたとき、賞味期限切れで廃棄する食品の多さに驚いた。その賞味期限にしたって、私や店長が廃棄する前に食すこともある訳で、何を根拠に賞味期限を設けているのかわからない。
また、粗大ゴミ置き場などに行くと、まだ全然使用できそうな物が多く捨てられており、非常に驚く。
私の友人などはそうした粗大ゴミを見て「あーもったいねぇー。」と言いながら、使えそうな物を自宅に持ち帰り、修復してオシャレなインテリアとして再利用している。偉い。

ところでマータイさんが賞賛し、かつて日本では当然のごとく存在していた循環型社会。特に江戸時代はあらゆる物のリサイクルを繰り返してきたと言う。そこで今回は少し江戸の循環型社会について説明していこう。

そもそも江戸時代はもったいないからリサイクルしようと言う発想ではなく、儲けになるからリサイクルしていたようだ。そのため江戸の市中には多くの回収専門業者が存在し、商売として成立していた。当然商売として成り立つと言う事は、需要と供給のバランスが存在していたことが考えられる。
江戸時代は鎖国の時代であったから、外から物が輸入されることが殆どなく、必然的に自給自足の生活が基本となっていた。そうすると物が少ない分、出来るだけ再利用しようと言う発想が生まれ、それが江戸循環型社会が生まれるきっかけになったのである。

このように、江戸循環型社会が生まれたのは、もったいない意識と言うよりも、生活の知恵が生み出した産物であった訳だ。しかしどんな形であれ、物を大切にし、リサイクルを繰り返すと言うことは素晴らしいことである。
人間が少ない資源で生きてゆくためには、このような節約プラス循環が必要な訳で、私たち現代人も江戸循環型社会を見習わなければならない。

ちなみに江戸時代の各リサイクル方法について話すと長くなるので「環境goo」と言うサイトをリンクしておくのでご覧頂きたい。

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上杉鷹山(大統領も尊敬した藩主)※加筆修正し再掲

yozan1960年代初め、アメリカのケネディ大統領へある日本人記者が「最も尊敬している日本人は?」と質問したところ「ヨウザン・ウエスギ」と答えたそうだ。
当時日本国民の間でも知名度の低い人物を、どうしてケネディは知っていたのかは定かではないが、この大統領の発言で日本国内でも上杉鷹山は多くの人に知られることとなる。
今回はこの上杉鷹山について話を進めていこうと思う。

上杉鷹山は1751年に、九州の日向高鍋藩の藩主秋月種美の次男として江戸邸で生まれた。幼名を松三郎と言い、母親は上杉家第9代藩主重定の従姉である。鷹山は上杉家と血縁関係にはあるものの他家に育った訳だ。しかし鷹山10歳の時に、母の出身である米沢藩の藩主上杉綱勝の養子に迎えられた。

江戸時代、上杉家は謙信以来の名門であったが、関ヶ原の敗戦により石高を120万石から30万石へと減封され、更に4代将軍家綱の時代には、藩主綱勝が世継ぎのないまま急死したため、世嗣断絶による改易お家取り潰しの大ピンチに見舞われた。
しかし、当時将軍後見人であった会津藩主保科正之の助けにより、忠臣蔵で有名な吉良上野介の息子三郎(後の上杉綱憲)を世嗣にする事で改易は免れたのである。
ところがそのお咎めとして30万石であった石高を15万石へ半減されてしまい、更に石高が減った上杉家に対して保科正之は家臣浪人化防止のため「家臣を解雇してはならない。」と命じたので、財政は苦しくなる一方であった。

その後の上杉家は、藩主の実家吉良家に対する援助や、藩主綱憲の浪費などで慢性的な赤字が続き、1763年には町人からの借り入れ金の利子すら払えず、時の藩主重定は米沢の封土を幕府に返上しようと考えるのであった。
版籍(領地と領民)返上の相談を受けた尾張藩主徳川宗勝は上杉家家老竹俣当綱へ「更正の努力をするように。」と命じたが、藩財政の赤字体質脱却はうまくいかずにいた。そんな状況の中で、養子として上杉家に入っていた松三郎(鷹山)が17歳にしてついに藩主になる。

藩主となった松三郎は名を治憲に改め、江戸在府のまま藩政改革に着手、手始めに家臣たちへ「倹約十二カ条」を示しその実行を命じた。
当初は守旧派の反発に遭いうまくいかなかったのだが、藩家老竹俣当綱や莅戸善政(のぞきどよしまさ)ら重臣が治憲の藩政改革へ全面協力し、江戸藩邸の経費を当初1500両であったものを200両への削減に成功するなど目に見える形で改革の成果が現れてきた。

次々と改革を実行していた治憲が1773年に米沢へお国入りした際、ある事件が発生する。国元の重臣たち7人が連名で改革反対の意見書を突きつけたのである。これに対して治憲は訴状の内容は誤りであると判断し、前藩主重定の後ろ盾を受け、訴状が出されてから3日後、7人へ処罰を下すのだった。
判決は治憲が直接下し、7人のうち2人は切腹、その他5人は隠居閉門、知行の半分取り上げと言う厳しいものとなった。これはのちに「七家騒動」と呼ばれる事件で、藩主に就いて間もない上杉治憲に対しての守旧派の抵抗運動であった。
この厳しい処断の背景には、治憲の財政改革に取り組む本気の姿勢を意思表示する意味も込められていたと考えられる。

話変わって治憲には学問の師がいた。名を細井平洲と言い、藩主となって改革を実行する治憲の相談役になった人物であった。彼は治憲に「君徳」の教えを説くのである。その教えを基に治憲は数々の善政を実施してゆくのであった。
その具体的内容は
農民に対して苛酷な取立てをせずに働く意欲を持たせる。そして離村した者を呼び戻し、新田開発を進め、農業以外の副業を奨励すると言うものであった。
治憲が領民に奨励した副業は財政再建の目玉にしたものであった。米沢藩の特産物は楮(こうぞ)、漆、蝋などであったが、農村の荒廃により生産力はガタ落ちの状態であった。そこで治憲は各地から職人を招いて技術力の向上を図り、特に養蚕を普及に力を入れた。結果、米沢ではさまざまな織物が産出され、藩の重要な財源となっていった。

治憲の目標は生産高を30万石にすることであったが、その目標は次第に実を結んでゆく。そしてある程度改革の成功を確認すると、わずか35歳で先代上杉重定の四男上杉治広に家督を譲り隠居するも、治広の後見人として政治改革は継続推進させた。
ちなみに世に知られる鷹山の名は、52歳の時に総髪して号した名である。

鷹山は藩財政の黒字への転換を見届けると1822年に72歳で死去。米沢藩財政再建に掛けた人生であった。
そして鷹山死去の翌年に、米沢藩が抱えていた莫大な借財はほぼ返済し終えた。鷹山の執念が結実した瞬間であろう。

ところで、ケネディ大統領はどうして上杉鷹山をしったのか、今もって謎である。(個人的な謎)

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伊能忠敬(測量に懸けた余生)※加筆修正し再掲

keicyu2003年12月、東京国立博物館においての特別展示「伊能忠敬と日本図展」で彼の日本地図(現物)を初めて目にした。感想は一言で言うと「まさに芸術品」である。19世紀始めの測量技術で、あそこまで正確にかつ美しい日本地図を作成する伊能忠敬を私は前例のない偉業を成し遂げた一流の人物と呼んでも過言ではないと確信した。

そうした偉業を遂げた忠敬だが、元々は商人であったと言うから驚きである。忠敬は佐原村(現在の香取市佐原)の商家である伊能家に婿入りし、しばらくは商いの仕事に専念していたと言う。この時期に忠敬は後の偉業へ費やす資金を確保したと思われる。

忠敬が日本全図を作成するために測量をはじめたのは隠居した50歳からだと言われている。当時は人生50年と言われた時代で、この歳になってから測量を始めようと言うのだから、相当な覚悟を持って測量に臨んだものと思われる。
忠敬は当時の幕府天文方の高橋至時(シーボルト事件で獄死するあの高橋景保の父親)に師事し天文学を習得、寛政12年(1800年)に奥州道中と蝦夷地東南沿岸の測量に成功するのである。この測量に際し、忠敬の歩く歩幅がとても重要だったと聞いたことがある。その歩幅は70cmでほぼ一定しており、この歩幅が正確な距離を測るのに役立ったのは言うまでもない。

当初は私財を投じて測量を行っていた忠敬だが、その事業が当時にしてみたら国家的事業であったため、幕府も日本全図制作に対して資金援助してゆくことを決めた。忠敬の志が国をも動かしたのだ。
以後文化11年(1814年)まで沿岸中心に全国を測量し、かつてないほど精巧な各地の地図が作成されていった。そして日本全図完成が直前に迫った文政元年(1818年)に悲願達成目前にして亡くなってしまう。享年73だった。
そして忠敬没後の文政4年(1821年)大日本沿海輿地全図として完成する。この地図の総仕上げを担当したのは、忠敬の師である高橋至時の息子高橋景保であった。

千葉県香取市の「伊能忠敬記念館」には、彼に関する様々な史料が展示されている。興味のある方はぜひ足を運んでいただきたい。また「現存する伊能図」というサイトで彼が測量、作成した地図を見ることができる。

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名宰相 保科正之(会津藩家訓)※加筆修正し再掲

1862年(文久2年)会津藩第九代藩主松平容保はある職に就くようにと幕府から要請されていた。それは尊皇攘夷運動で治安が極端に悪化していた京都において、藩の軍隊を率いて治安維持活動をおこなう「京都守護職」への就任である。
この要請を頑なに拒否していた容保に対し、幕府の政事総裁職にあった松平春嶽は
「徳川氏の信不信、公武合体の有無は貴兄の決断如何(いかん)である!もし土津公(正之)がご存命であれば京都守護職を受けられたであろう!」
と藩祖正之の幕府への忠義を引き合いに出し、強く就任を迫った。
容保も藩祖である正之の名を出されては言い返すことも出来ず、守護職への就任を受諾したのである。また会津藩の家訓には幕府への忠義が厳しく記されており、これを守れない藩主は藩主の座に留まることが出来ないと定められていた。この家訓も容保が受諾する大きな要因となったことであろう。
こうして一橋慶喜と同様に策略家で知られる春嶽は、正之の話を持ち出せば容保は絶対に断りきれないことを見越して、容保に京都守護職就任を迫ったのだった。
また、この時容保が就任を拒否していたらあの「新撰組」は間違いなく誕生していなかった。そう考えると正之の存在が間接的に新撰組の誕生に一役買っていたとも言えなくもない。

ところで、藩主ですら忠実に従わなければならない会津藩家訓とは一体どのようなものであったのか?会津藩家訓について話を進めてみたい。
寛文8年(1668年)正之は朱子学の師、山崎闇斎の協力も得て「会津藩家訓十五条」を完成させた。家訓は十五条あるが、会津藩を存在を示した条文は第一条に集約されている。
その第一条とは

一、大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず
(訳)将軍家に対しては、一心に忠義に励むべき。また、他の藩と同等の忠義で満足することはないように。もし、将軍家に逆意を抱くような藩主が現れたら、それは我が子孫ではないので、決して従ってはならない。

会津藩では、これを毎年正月に儒臣に命じて読ませ、君臣座を下りて拝聴した。それだけ藩主・家臣にとって絶対に守らなければならなかった。

参考書籍「保科正之(中公新書 中村彰彦著)

katamori藩祖保科正之の制定した家訓を忠実に守り、最後まで薩長軍と戦い抜いた会津藩九代藩主松平容保。もし藩祖が保科正之でなかったならば、幕末の会津藩は存在していなかったであろう。

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名宰相 保科正之(幼君の後見人)※加筆修正し再掲

慶安4年(1651年)第三代将軍徳川家光は病に臥し、臨終の時が迫っていた。死期が間近に迫った家光は弟正之を枕元に呼び、遺子の家綱のことを託した。これが後世に伝わる「託孤(たっこ)の遺命」だ。
もちろん家光が託孤の遺命を正之に伝えたのには理由がある。
正之は家綱が元服の折、烏帽子親を務めた人物であった。また、その立場を利用して幼君家綱を操り権力を自らに集中させるような野心のない人物だと言うことも家光は兄として十分理解していた。そうしたことからも家光は家綱を補佐するのは正之において他にいないと判断したに違いない。

こうして幼君家綱の後見人に指名された正之であったが、徳川幕府宰相として難しい舵取りが待ち受けていたのである。そして正之が後見人となって数年後、最大の試練が訪れた。明暦3年(1657年)に起こった「明暦の大火」(「振り袖火事」とも言う)だ。
この大火により、江戸の街は3分の2を焼失、死者は10万人以上にも上った。大火の被害は江戸城も例外ではなく、天守閣・本丸、二の丸、三の丸を焼失する事態となった。あまりの被害に江戸市中の復興は困難を極めた。ひとまず大火の2年半後に本丸は再建されたが、天守閣については再建するかどうか、幕閣の間でも議論となった。多くの幕閣たちは幕府の権威の象徴である天守閣の再建を早急におこなうべきだと主張したのだが、正之は
「天守が城の守りの役に立ったためしはなく、ただ遠くを望み見るだけのもので、そのような物にお金を使うことよりも、江戸復興に使うべきだ」という独自の主張を展開。その主張は将軍家綱にも承認され、天守閣再建はしないと言う決定がなされたのである。こうした事実からも徳を重んじ、それを治世に反映させる正之の政治信条を垣間見る事ができる。
現在皇居に天守閣がないのは、この時以降再建されなかったからためである。

大火の際の対応から話が変わるが、正之は将軍後見人として文治政治の実現を目指し三大美事と言われる改革を遂行してゆく。それをここで紹介したい。

1.末期養子禁止の緩和
それまでは大名が跡継ぎを決めていないで急死すると改易になっていたのを緩和し、養子を容認した。改易によるお家取り潰しで急増していた浪人の数を抑制するための規制緩和政策である。

2.殉死の禁止
殉死してしまう有能な家臣(家光死去の際に有能な老中堀田正盛などが殉死している)がいたため、無駄死にを防ぎ、人材を確保するために実施された。

3.大名人質制の廃止
幕府は外様大名などの妻子を人質として江戸に住まわせていたが、それを廃止することで、武断政治時代の悪しき風習を払拭していくことを目的に実施された。

こうして将軍後見人の正之は兄から託された幼君の補佐を見事に遂行し、戦のない時代を統治していくために、数々の改革を実施したのであった。

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名宰相 保科正之(会津藩主)※加筆修正し再掲

幕閣であった正之は江戸に滞在する期間が長く、お国入りする機会は少なかった。そのような状況でも、国許の家臣たちへ数々の政策を指示し、数多くの善政を実施している。そうした政策の中でも、正之が実施した会津藩独自の政策「社倉」を今回は紹介する。
「社倉」とは飢饉の時に貧民を救うため、米を備蓄しておく米倉の事を言う。社倉の発祥は中国の「隋」の時代まで遡る。正之はこの社倉を朱子学を学ぶ過程の中で知ったようだ。

承応4年(1655年)、正之は会津の藩内に「社倉法」を制定した。飢饉や凶作により懸念される生産力の低下や餓死者を最低限に抑えるために正之の設置したのがこの社倉法である。飢饉や凶作を非常に恐れている農民たちはこの社倉法を歓迎し、このような危機管理能力に長けた領主に対し農民たちは尊敬と感謝の念を持ったに違いないはずだ。
この制度、名目上は「貸し出し」と言う形を取っていたが、借りた際につく2割の利子については支払い可能な時期まで猶予してもらえる制度なのでまさに「農民救済法」と呼んでも過言ではないはずだ。この社倉に代表される正之の善政が、会津藩の生産力を高め、幕末にその存在を世に知らしめる原動力となったと私は考えている。

正之の祖父徳川家康は「農民は生かさず、殺さず。」と言っていたようだが、優れた見識を持つ為政者保科正之は「農民は生かして大事に扱え。」と考えていたに違いない。

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名宰相 保科正之(将軍の側近)※加筆修正し再掲

兄家光の覚えめでたく、山形20万石へ転封した正之は、幕政においても家光の側近に抜擢される。
当時、幕府には大老や老中と言った役職があり、その面々の合議に基づいて政策を決定していた。しかし正之は幕閣に列せられたのに、その役職には就かなかった。当時は大老・老中は譜代大名から選ばれるため、将軍の弟である正之は別格だと家光は幕閣たちに認識させたい意図がこの背景にはあったものと思われる。これは父からは認知されなかった正之が、兄家光からは弟として認知されたことも意味している。こうして、正之は家光の懐刀的役割を担うこととなった。

幕閣のメンバーに加えられた正之は「島原の乱」への対策や幕府行政において兄家光を献身的にサポートした。島原の乱に際しては、江戸の留守を率先して預かっている。
こうして家光の信頼を得た正之は将軍の「遊猟の地」へ放鷹することを許されるのである。当時の将軍の家臣にとって、遊猟の地への放鷹は最高の誉れと言われていた。正之は遠慮することなく兄の遊猟の地へ放鷹するのである。

その遊猟地で正之が鷹狩をした時の話だが、その日の狩りは満足するほどの収穫(雁二羽)はなく、狩りを終えた正之はそれを献上すべく家光のもとへ登城した。その時応接した大老の酒井忠勝が「肥後守殿(正之)、今日の鷹狩は上様遊猟の地でなされたそうですな。さぞ獲物の多かったでございましょう。」と尋ねたところ正之は「いいえ、先ほど献上いたした二羽のみでございます。」と正直に答えた。これを聞いた家光は不機嫌な顔をし、程なくして席を立ってしまう。それを見た忠勝は正之の傍に近づき耳元で「肥後殿!上様の前では『お蔭様で大猟でございました。』と言うものですぞ!こんな時まで正直とはいかがなものかと・・・。」と忠告をしたのだ。これに対して正之は「事小なりと言えども、上様を欺くのは大罪です。だから私は正直に申したのです。」と返答した。この発言に忠勝は感動し、正之の将軍への忠誠心を再認識したと言われている。

月日は経ち、寛永20年(1643年)会津藩主であった賤ヶ岳の七本槍加藤嘉明の子加藤明成がお家騒動により封土を返上した。その代わりに正之が会津へ転封することになった。
実は正之が会津へ転封する裏には将軍家光の思惑があったと言われている。家光は当初、正之には御三家に次ぐ規模の家を創設し、将軍のNO2としての役割を果たしてもらおうと20万石の山形へ転封させるが、すでに幕閣の中心メンバーにまで登りつめた正之に対し、今より厚遇を与えることで、権威を高める必要性を感じたのだった。そこで加藤家が去っていった会津23万石(幕府より預り高5万石)を正之に加増転封させることにしたのだ。名目上は23万石だが、預り高5万石を加えたことで、御三家の水戸藩を凌ぐ規模の藩となる。これにより正之は名実共に幕府宰相(当時は宰相と言う地位はないが、実質幕府の政務を将軍とともに取り仕切っていたのであえて宰相と表現する)の地位を手にしたのである。
ここに正之が藩祖であり、幕末戊辰の戦いにおいて最後まで義を貫いた「会津藩」が誕生したのだった。

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名宰相 保科正之(将軍の弟)※加筆修正し再掲

第三代将軍徳川家光には2人の弟がいた。一人は異母弟の保科正之で、もう一人は駿河大納言と呼ばれ、一時は母お江の寵愛を一身に受けたことで家光を廃嫡して次期将軍に就任するとも言われた徳川忠長である。
この忠長は幼き日より家光を次期将軍として敬うことはせず、兄に対して悉く反発を繰り返していた。また、その発言や奇行も目に余るものがあり、父秀忠に「自分に大阪城をくれ。」と言ったり、殺生禁断の駿河浅間神社において神社に棲む猿(当時は神獣とされていた)を猿狩りにおいて1200匹をも捕殺したりとやりたい放題の人物だった。
大御所秀忠の死後、名実ともに最高権力者となった家光は、数々の奇行の罪ですでに高崎へ幽閉されていた忠長を期が熟したと判断し自害させた。

実弟を死に追いやった家光は残された数少ない身内で、誠実かつ聡明な異母弟保科正之を重用するようになる。もちろん正之は兄に媚びることはせず、3万石の藩主として畏敬の念を持って兄家光に接していた。

実は家光、若い頃は正之の存在を知らずにいたのだが、大御所徳川秀忠の死期が迫っていた寛永8年(1631年)12月頃、忠長以外に自分の弟のいることにに気づいたらしく、その頃より正之の品定めを始めたと思われる。そして翌年の寛永9年(1632年)に正之は家光より日光東照宮参拝を命じられ、さらに官位が従五位下から従四位下へ昇進したのである。こうした事実は、家光が聡明な弟正之が信頼に値する人物だと評価したことを物語っている。

高遠3万石藩主である正之は、いくら将軍の弟と言えども江戸城へ登城した際、控える場所は末座に位置していた。正之はその事に対して何一つ不満を漏らさず、粛々と小藩主としての責務を果たすのだが、家光はこうした正之の姿に益々惚れ込み、また不憫に思ったのか加増転封を検討するのであった。
ところが、徳川家には将軍家のほかに、尾張・紀伊・水戸の通称「御三家」があり、権威ある親藩大名として君臨していた。もちろんこの御三家以上の石高を正之に与えてはパワーバランスが崩れ、不満がくすぶる可能性もある。また御三家は家光の最も敬愛する祖父家康が創設した家であったので、正之に御三家同等の規模の家を創設させること躊躇ったとも考えられる。
そこで家光は御三家に次ぐ規模の家を創設させることで御三家の面目を保ちつつも、正之には幕政において将軍のNO2としての役割を果たしてもらおうと考えるのである。
そして寛永13年(1636年)家光はついに正之を高遠3万石から山形20万石へ加増転封させたのである。

正之は高遠を離れる際、保科家の嫡流から外れていた養父保科正光の弟保科正貞に保科家に伝わる家宝を譲り、家光に対して保科正貞を立藩させてほしいと願い出た。家光は信頼する弟の願いを快く聞き入れ、正貞は上総飯野に7千石を立藩するのである。これにより、保科家の嫡流は存続したのである。この事実からも、高遠藩を継がせてくれた養父に対して恩義を忘れない正之の誠実さをうかがい知る事が出来る。
ここに正之は御三家に次ぐ地位を手にし、更に将軍のNO2として幕政において存分に手腕を発揮することになる。

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名宰相 保科正之(保科家へ)※加筆修正し再掲

慶長16年(1611年)5月7日夜亥の刻(22時)、お静は無事に将軍秀忠の子を出産。そして、その夜のうちに町奉行を通じ、時の老中土井利勝にも出産の知らせが届く。利勝はお静の出産を秀忠に伝えるべく、直ちに江戸城へ登城した。
利勝は秀忠にこの事を伝えると「覚えがある」と答え、そして秀忠は葵紋付の小袖を利勝に手渡し、「幸松と名づけよ」と利勝に命じた。ただ恐妻家秀忠は妻のお江にはばかってこの場では幸松を公式に認知することはしなかった。

将軍の子として生まれながらも、認知をされていない幸松は武田信玄の娘、見性院の庇護の下で育てられることとなった。秀忠の妻お江は幸松の存在に気づきながらも、むやみに手を出すことはしなかったようだ。それは、見性院が武田家再興を願い、当初幸松に武田の姓を名乗らせた事実からもわかるように、見性院の武田家再興の執念がお江の嫉妬に勝っていたからかもしれない。

元和3年(1617年)幸松は7歳になる。当初は武田家再興を夢見た見性院だったが、今後の幸松の事を考えるとお家再興よりも、しかるべき家に養子入りする方が幸松のためだと考えるようになり、信玄の代に「槍弾正」の異名をとり武田家に仕えた保科正俊の孫で高遠2万5千石の藩主保科正光の元へ養子に出すことを決めた。その知らせを受けた実父秀忠は保科家に対して養育料として5千石を加増するのである。

こうして幸松は、将軍の実子でありながら保科家と言う3万石の小藩の世嗣としての道を歩むことになった。しかし小藩とは言え、見性院の尽力がなければ大名家の世嗣にすらなれなかったのだから、正之にとって見性院は大変な恩人である。事実、正之は生涯見性院に対して感謝の気持ちを忘れなかったと言う。

時は流れ寛永8年(1631年)養父保科正光の死去に伴い、幸松は保科家3万石を相続する。この時幸松は元服し、名を「保科正之」と改めた。
正之が高遠藩藩主となった翌年、実父で二代将軍の秀忠死去。ついに正式な対面が実現しないまま父と死別したのである。しかし秀忠の死が、正之にとって政権の表舞台に立つきっかけとなるとは、この時知る由もなかった。

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名宰相 保科正之(出生秘話)※加筆修正し再掲

masayuki-hoshina保科正之公と言えば三代将軍家光の異母弟として産まれ、後に家光の死に際し、息子で四代将軍家綱の後見人を託された人物として有名な方である。しかし、その功績についてはあまり知られてはいない。そこで、今回記念すべき「江戸歴史物語」最初の記事は、名宰相として名高い正之公の出生から晩年まで取り上げていくことにする。最初は正之の出生秘話について。

保科正之の母親は「お静」と言い、小田原後北条家の家臣であった神尾伊与の娘と伝えられている。神尾家は後北条家が豊臣秀吉の手によって滅ぼされた後に江戸へ出て徳川家へ仕官を願い出るのだが、仕官がうまくいかなかず、その状況を打開するために、娘のお静を「大姥(おおうば)」と呼ばれる徳川秀忠の乳母の元へ奉公させることにした。
奉公に出たお静だったが、その先で秀忠に見初められ、間もなく秀忠のお手つきになる。

話は変わるが、秀忠の妻「お江」は織田信長の妹「お市」の娘で、伯父信長譲りの気性の激しさを持っていたと伝えられている。そのような妻を持つ秀忠は大変な恐妻家で、過去に家康が差し向けた女性を丁重にお返ししたほどの男であった。そのため、お静が現れるまでは浮気などしたことはなかったのだが、そんな恐妻家がお手つきにするとはお静は相当秀忠の好みであったのかもしれない。

やがてお静に懐妊の兆候が現れる。しかしこの事実をお江に知られる事を恐れた秀忠は大姥と相談し、お静を神尾家に宿下がりさせる事にしたのだ。そしてこの懐妊が神尾家にとって害が及ぶと恐れた神尾一族は、お静のお腹の子を中絶さてしまう。

このような不幸な出来事があったにもかかわらず、時代は封建社会、その後も秀忠は宿下がりしたお静を忘れられず、大姥を介して「大奥へ帰って来い」と催促をする。お静は断りきれず再度大奥に上がり、再び秀忠との関係を持つことなった。そして気の毒にもまた懐妊してしまい、再び宿下がりさせられるのである。

神尾家一族は前回同様、中絶の処置を取ろうとするが、一族で唯一それに反論する男が現れた。お静の弟の神尾嘉右衛門がその人物である。嘉右衛門は「将軍の子を、二度も堕胎させるとはいずれ一族に天罰が下ることだろう。」と主張し、一族もその意見を受け入れ、今回は出産させる事にした。そして今回はお静にとってありがたい協力者も現れる。お静懐妊を噂で聞き、協力を申し出た人物は「見性院」。見性院は、穴山梅雪の元妻にして武田信玄の二女と言うお江にも引けを取らない女傑である。そして見性院は自分の妹をお静の元へ遣わし、更にお静を安全な場所に匿うこととした。

見性院の助けを得たお静は、慶長16年(1611年)5月7日夜亥の刻(22時)無事男の子を出産する。この男の子こそが後に成長し、徳川幕府の名宰相となる保科正之だ。そして正之の棘の人生がここに始まるのである。

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日本が最も輝いていた時代

世の中ゴールデンウィーク真っ只中で、どこへ行っても混雑している模様。しかも今年は大型連休ではなく、前半と後半に分かれているので、どうやら都内に人が集まっているようだ。そんな訳で出掛けても疲れるだけと引きこもり状態の私である。
引きこもりの話は置いておくとして、今日は夕方にNHKで放送された「華岡青洲の妻」と言う時代劇を観た。華岡青洲と言えば・・・言えばどのような人物であるか即答できる方はかなりの博学である。私もこのドラマ(2005年に放送され、今日は再放送であった)を観るまでは正直この御方についてまったく知らなかった。自称歴史通の私が知らなかったのだから、相当マイナーな人物と思いきや、いやいや大変な偉人で、世界で初めて全身麻酔を使って乳がんの摘出手術に成功された方なのだ。ドラマは華岡青洲がこの偉業にたどり着くまでに、母と妻に支えられ手術を成功させるまでの奇跡を画いた作品で、全6回に亘って放送された。
少しではあるが、ここでドラマの主役華岡青洲の妻が、青洲が成し遂げた偉業にどうかかわってきたのかを紹介する。
華岡青洲は手術に使う麻酔薬を研究し、その結果「曼陀羅華(まんだらげ)」と言う花を主成分として使用すれば効果が得られると気づくのだが、これを実用化するにはどうしても人体実験が必要である。しかし実験すると言っても動物実験で効果があっても、人間に効果があるかは不明である訳で、安易に使用する訳にはいかない。その時点で青洲の麻酔薬開発は頓挫したかに思えたが、青洲の母・於継と妻・加恵が進んで実験台になることを申し出たのだった。
そう、その偉大な妻・加恵こそが、ドラマの主人公「華岡青洲の妻」である。加恵と母がいたからこそ青洲は乳がん摘出と言う偉業を成し遂げられたのである。しかし不幸かな、妻の加恵は実験も結果、失明してしまうのであった。そうした危険を冒しても夫を、そして息子を、支える妻と母を中心に画いたのが「華岡青洲の妻」と言う作品なのだ。
物語はもっと愛憎劇があり、悲劇ありなのだが、話せば長くなるので興味のある方はこれをご覧頂ければと思う。
話が華岡青洲に偏ってしまったが、今回のタイトルである「日本が最も輝いていた時代」それが華岡青洲が生きた文化・文政の時代であると私は思っている。
この時代は俗に「大御所時代」と呼ばれ、オットセイ将軍の愛称で知られる11代将軍家斉の時代であった。政治的には目標なき時代などと言われているが、それと反比例して、独自の文化や技術が形成され発展したのもこの時代である。この大御所時代には青洲が麻酔薬の開発に成功した(1805年)ことや、伊能忠敬が大日本図を作成したこと、そして葛飾北斎や謎の絵師東洲斎写楽と言った稀代の画家たちが、海外の芸術家に引けを取らないほど素晴らしい作品を生み出したことなど、かつてない程のオリジナリティが確立された。
鎖国により海外との交流が限りなく制限されつつも、それにより独自の価値観が生まれたことで、自らが新しい技術や文化を生み出すきっかけとなった訳だ。また鎖国と言いつつも少なからず海外の情報は入ってきており、北斎の作品には、西洋の技法を用いた作品もある。
この文化・文政の時代こそ日本の黄金期と呼ぶにふさわしく、またそれを感じさせる技術や芸術も生まれている。松平定信による弾圧時代が終わり、人々が客観的にそして少し冷めた視点で物事を見ていたので、後の維新につながる思想が生まれたのもこの文化・文政の時代であった。バブル崩壊、そして失われた時代を経て、なんとも言えない虚無感が漂う今、少なからずとも文化・文政の時代をお手本しても良いのではないかと思う次第である。

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世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術を成功させた華岡青洲。彼は出身の紀州藩藩医の話を断り、庶民の診察を続けたと言う。今の日本に失われた「献身」の心を持った偉人である。また、彼の功績は妻の協力なしに語ることは出来ない。

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葛飾北斎作「塩鮭と鼠」。北斎と言えば浮世絵チックな作品を連想されるだろうが、このような写術的な作品も完成させている。またアメリカ「ライフ誌」において、この1000年間で偉大な業績をあげた世界の人物 100人として日本人で唯一選ばれたのが葛飾北斎である。
西洋の後期印象派の画家たちに北斎の作品は影響を与え、ゴッホの作品からもそれを窺い知ることが出来る。

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改革とは呼べない天保の改革

将軍就任と同時に財政の建て直しを迫られていた徳川吉宗。彼はすぐさま武断政治の復活を掲げ改革に着手します。その時彼が用いた手法は別にして、傾きかけた幕府財政を何とか正常に戻したと意味ではその改革は成功した部類に入るでしょう。これが俗に言う享保の改革です。
将軍吉宗の孫として生まれながら権力闘争に敗れ白河藩主となっていた松平定信。彼は田沼意次の台頭によりその存在がないがしろにされてきた御三家や譜代大名の後押しを得て田沼を失脚させることに成功し、自ら老中に就任します。当時は浅間山の大噴火や天明の大飢饉により農村は荒廃、その上田沼政治により重商主義的経済に移行していたこの国を再び田沼政治以前の武断政治・重農主義に戻そうと復古主義的な改革に着手します。それが寛政の改革です。
寛政の改革では130年以上前に会津藩などですでに実施されていた米の備蓄(囲米の制)をあらためて導入したり、物価引下げ目的で株仲間を解散させたりと財政の建て直しを本気で取組むつもりなのかと疑問符が付くような政策を実行していきます。そして何より民衆弾圧や綱紀粛正の名の下に当時洒落本で流行を博していた山東京伝や、その版元の蔦谷重三郎らを拘束、出版を禁止にしてしまいます。
私は寛政の改革は財政の建て直しを目的としたのではなく、田沼政治により緩んだ風紀の引き締めと、幕府の権威向上が本来の目的だったのではと推測しています。
しかし悲しいかな、この寛政の改革が民衆の反感を買い、その上オットセイ将軍家斉の信任をも失い定信は失脚することとなります。
ここまで江戸中期におこなわれた改革を見てきましたが、ここからが本題、世に言う三大改革のうち最も失敗したと言われる天保の改革に話を進めましょう。
松平定信と同じく老中職の水野忠邦は1839年に老中首座に就任して幕政を掌握するのですが、前出の大御所家斉が存命であったため放漫な財政に加えて年貢収入の減少によって幕府が弱体化していく様子を成すすべなく見ているしかありませんでした。しかし1841年に家斉が死去すると、それを待っていたかのように改革に着手します。
しかしこの改革は定信のそれより統制色の強いもので、強権を以ってして幕政の一新を図ろうとしたのです。
それでは彼が取組もうとした改革とその顛末を紹介しましょう。

①大返しの法
これは定信が実施した旧里帰農令を更に強権的にしたもので、江戸に流入している農民を強制的(定信の旧里帰農令は旅費を用意することで農村へ帰ることを奨励した)に農村へ返し、年貢の増収を試みますが、大した効果もなく失敗に終わります。

②株仲間の解散
これも定信の実施したものの二番煎じです。解散させる事で物価の引き下げを狙いますが、これと同時に粗悪な貨幣の鋳造をおこなったため、物価が乱高下し経済は不安定の状態となりました。

③奢侈禁止と風俗粛正
大御所時代は文化文政の時代であり、江戸を中心として多くの文化・風俗が発展していました。ところが、忠邦にとってはこれは大御所時代の負の遺産。風紀の乱れは政治・経済の不安定を招くと判断した彼は、当時流行していた人情本や合巻を発禁とし、作者や版元たちに拘束・弾圧を加えます。
こうしたやり方に庶民たちは反発、忠邦失脚の折には彼の江戸藩邸が襲撃されるなどの事件まで引き起す原因となるのでした。

④上知令
これこそが忠邦失脚の原因となった政策です。これは江戸と大坂10里四方の大名・旗本領を上知させ幕府直轄地とすると言うものです。当時幕府の直轄領は約400万石ではありましたが、全国に分散している上に生産力も高くはありませんでした。そこで忠邦は政治的な要所でもあり、それら地域よりも生産性の高い江戸と大坂10里四方を幕府の直轄地としようとしたのです。しかしこれには御三家をはじめ有力大名から旗本に至るまで大反発し、実現不可能と判断した忠邦は上知令は撤回するのです。

こうした強権政治を展開しようとした忠邦でしたが、大した成果もなく、弱体化した幕府の力を露呈させただけでした。この天保の改革はとても改革と呼べるものではなく、改革と言う名の民衆弾圧であったとしか考えられません。そして1843年、忠邦は改革失敗の責任で老中を罷免させられるのです。
このように政策を実現出来ない基盤の弱さや、政策を撤回せざろ得ない現象は幕府が政権末期に入ったと言う事を物語っていたと私は思います。
そして忠邦失脚から24年後、徳川幕府は朝廷に大政奉還をするのです。

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改革者 田沼意次

tanuma-okitsugu田沼意次。最近でこそエコノミストとして再評価する向きもありますが、以前は田沼=賄賂政治家と言う固定観念が定着しており、彼を評価しようものなら一蹴されてしまうような時代もありました。しかしそのような時代は終わり、今では田沼に対する意見も多様化してきたように思います。そこで今回は私は田沼の側に立って彼を再評価しつつ、彼が着手した幕政・財政改革にスポット当てて行きたいと考えています。ちなみに私は田沼贔屓ですので、表現に多少お見苦しい点がございましてもご容赦ほど願いたいと思います。
田沼意次は足軽田沼意行の子で1719年に江戸の田安屋敷で生まれました。
父意行は8代将軍吉宗から旗本に取り立てられ、その子である意次も吉宗の世嗣家重付きの小姓として16歳の時に江戸城西の丸へ入る事になりました。元足軽の子としては異例の抜擢です。おそらく能力主義を掲げる吉宗の覚えめでたく、こうした破格な待遇を受けたのでしょう。
1745年、家重が将軍に就任すると意次も家重とともに江戸城本丸に移り、1747年には小姓組番頭格、翌年には同組番頭、1751年にはついに側衆側用取次(要は側用人)に就任します。このスピード出世はただ単に将軍の覚えが良いだけではなく、周囲の幕閣らも意次の能力を相当評価していたことを裏付けるものだと私は考えています。しかも意次が父から受け継いだ知行地はわずか600石、それをわずか数年のスピード出世により1万石の大名に列せられるのですから彼の努力は相当なものであったのでしょう。
意次の出世話はここまでにして、次に彼が取組んだ政策を見ていくことにしましょう。

①予算制度の確立
田沼意次が吉宗から政権を引き継いだ(家重・家治は将軍と言えども幕政には殆ど関与していないので、このような表現を使用しました。)時、吉宗の緊縮財政と新田開発の結果、火の車であった幕府財政は何とか黒字へ転換することに成功していました。しかしこの黒字も一歩間違えれば再び火の車に戻ってしまう恐れがあります。ではどうしたら財政を安定することが出来るのか?そこで意次が考えついたのは「予算」です。
意次は幕府の主要機関へ予算を割り振り、その額で賄わせることにしたのです。もちろん大奥の予算も大幅に削減しています。「田沼は大奥のご機嫌を取り政権の維持を図った。」と言う通説もこの予算制度の導入を考えるとご機嫌取りをしていたとは考えられません。
こうして重要な機関への予算を増やし、大奥のような浪費の多い機関への予算を減らすことで幕府財政の安定を計ったのです。

②税制改革
江戸時代、税制の根本は農民の収穫を一定の割合で年貢として徴収することでした。これは周知の事実でしょう。この制度を現代で言う直接税(所得税・住民税)にあたるもので、仮に不作であった場合でも年貢を納めなければならず、一揆などが発生する原因ともなり政情も不安定になりかねません。
そこで意次は直接税を引き上げない代わりに間接税(現代では消費税等に該当)を導入しようと考えたのです。その名も「流通税」。意次は現代の消費税のように個人に事業者を介して課税することは難しいと考え、取扱商品ごとにグループを作らせ、そこへ課税する方式を導入したのです。ところがそのグループは納税するかわりに流通上の独占権を与えろと主張します。それこそ田沼賄賂政治の代名詞とも言われている「株仲間」です。
ここまでの説明でも理解していただけたと思いますが、意次は賄賂を受けるために株仲間を奨励したのではなく、そこから徴税することで財源を確保したかった思惑があったために株仲間を組織させたのです。

③通貨の統一
高校時代に日本史を学んだ方ならよく耳にしたと思いますが「江戸の金遣い・大坂銀遣い」の言葉の通り東西で流通する貨幣が異なっていたため、国内経済発展の妨げになっていました。そこで意次は経済発展を推進ために通貨の統一を図ります。
しかしすでに流通している金銀を回収して新たな通貨を生産することは容易ではありません。そこで意次は金銀の交換単位を統一することで通貨の流通を円滑にするのでした。さらに意次は「南鐐二朱判」と言う金の単位を持った銀価を生産(南鐐とは極上の銀の意味)し、これで全国の通貨を統一しようと画策したのですが、志半ばで失脚し、南鐐二朱判も松平定信の手により生産中止となったのです。

これらの政策以外にも印旛沼の開発や蝦夷地調査など、当時の為政者としては非常に開明的で改革者の名に恥じない実績を残しています。
後世に伝えられている意次の賄賂政治家のイメージは、日本が重農主義の時代に重商主義を推進したがために誇張して伝えられている感は否めません。私は田沼意次が失脚せずにその志を継ぐ者たちが幕府の政治を運営していたならば、ペリー来航を待たずして自ら開国し、大アジア経済圏を形成していたと想像しています。ただ・・・歴史に「たら・れば」はないんですけどね(^_^;)

参考書籍 「将軍と側用人の政治 (大石 慎三郎著)

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享保の改革

yoshimune最近投稿が疎かになっていたので、今日は1日2本立てで行こうと思います!!
2本目に取り上げるネタは暴れん坊将軍こと徳川幕府8代将軍徳川吉宗のおこなった改革についてです。
世間一般の吉宗に対するイメージは多くの有能な人材(大岡越前など)を登用し、目安箱を用いて庶民の声を政治に反映させた庶民派将軍のイメージが強いと思います。しかしそのイメージとは逆に豊作だろうが凶作だろうが関係なく、一定率の年貢を徴収する定免法と言う法律を定め農民から恨みを買った一面も持っており決して庶民派将軍でもなかったのです。要はかなり独裁色の強い政治家であったのでしょう。ただそうした強引さがあったからこそ享保の改革が軌道に乗ったのだと思います。
それはさておき、吉宗が改革を実行していく中でこうした政策よりも更に重要な政策を断行したのですが、それこそ吉宗が別名「米将軍」と呼ばれる所以となった株仲間公認政策です。
当時の経済を簡単に検証してみましょう。幕府や各地の領主は米を売却した資金で自国の運営費を賄っていたのですが、もしその根底となる米価が安定していないと藩の財政が厳しくなり、さらには財政破綻により封建制そのものを維持することが難しくなります。
そうした財政基盤を安定させるためには米価を安定させることが大前提となってくるのです。そこで吉宗は当時天下の台所と呼ばれ全国に供給される米が集まる大阪堂島にある米問屋の改革に着手します。それが「株仲間の公認」です。株仲間=同業者組合ですからその中で米の供給量を調整させ価格を安定させることを吉宗は目指したのです。
またこれらの改革以外にもキリスト教とは関係のない漢訳洋書の輸入を認めたことで西洋の学問、特に医学を中心とした実際に役だつ学問(実学)の普及に努めました。 
吉宗の享保の改革を簡単にまとめてみましたが、良い悪いは別として彼が8代将軍に就任していなければ徳川幕府はもっと早い時期に弱体化していたかもしれません。それを考えれば徳川幕府中興の祖と言われる所以は良くわかります。

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渡辺崋山

今年はアルバイトや資格取得などスローライフ(便利な言葉ですね)を送ってきた私ですが、そろそろしっかりと働きたいと言う願望が強くなり、秋以降は求職活動をしています。10月末に大手外資系の中途採用に応募したのですが、最終面接で落されてしまい、その後活動が疎かになってしまいました。ところが最近になって就職について色々と調べてみたところ、紹介予定派遣と言う便利なものがあることに気付きました。ご存知の方も多いと思いますが、派遣社員として一定期間働き、その後両者の同意で正社員に登用されるって仕組みのようです。派遣社員と聞くと人材=道具として扱われるイメージもありますが、妥協して勤めていれば多少なりともメリットはありそうでね。検討の余地アリと言ったところでしょうか(^_^)
ところで先日、ある書店で目を引く書籍が置いてありました。童門冬二著の「異才の改革者 渡辺崋山」と言う作品です。渡辺崋山と言うと蛮社の獄で弾圧された蘭学者と言うイメージが強いですが、実際は小藩(田原藩)の財政を建て直した家老であり、有能な政治家であったのです。彼の数々の善政については同書に詳しく書かれているので、興味のある方はご購入してみてはいかがでしょうか?
渡辺崋山は何より絵画が素晴らしいですね。東京国立博物館で観た「鷹見泉石像」は実に素晴らしく、浮世絵全盛の当時においてあのような絵画を描けるとは本当に驚きです。
いつの時代も前衛的な人物は守旧派によって迫害を受けるものですが、渡辺崋山も前衛的な思想が迫害を受ける一因となったのでしょう。残念でなりません。

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伊能忠敬 佐原で自らの技術を試す

keicyu伊能忠敬が、全国の測量に出発する前に故郷である千葉県佐原市を流れる利根川を測量した実測図が、忠敬生誕260年記念で初めて公開されたようです。忠敬の測量図としては最古で、どうやら練習図だったと新聞では報道されています。
長い間慣れ親しんだ故郷において自らの技術を試し、全国へ旅立って行った忠敬が、あれだけの大仕事を成し遂げたのは故郷においての実測練習があったからかもしれないですね。
私の知り合いにも佐原出身で高校時代まで佐原に住んでいた方がいますが、彼の事を「忠敬(ちゅうけい)先生」と親しみを込めて呼んでいます。今でも忠敬は佐原が生んだ偉人なんでしょうね。
以前も紹介しましたが、「現存する伊能図」というサイトで彼が測量・作成した地図を見ることができます。ご自分の故郷を探してみてはいかがでしょうか?(とにかく伊能図は地図と言うより芸術品ですね。)


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忠義の男 保科正之(最終回会津藩家訓)

1862年(文久2年)幕府から、京都守護職就任を要請されていたが、それを頑なに拒否していた会津藩九代藩主松平容保に、幕府の政事総裁職である松平春嶽が「徳川氏の信不信、公武合体の有無は貴兄の決断如何(いかん)である!もし土津公(正之)がご存命であれば京都守護職を受けられたであろう!」と強く言い放ち、就任を迫りました。容保にとって正之以来の家訓は、藩主でさえも守らなければならない絶対的なもので、正之の名を出されてはとても言い返せません。それを見越して春嶽は京都守護職就任を迫ったのです。そして程なく容保は京都守護職に就任します。
ところで、それほど忠実に従わなければならない会津藩家訓とは一体どのような内容だったのでしょうか?最終回はこの「会津藩家訓」にスポットを当ててみます。
寛文8年(1668年)正之は朱子学の師、山崎闇斎の協力も得て「会津藩家訓十五条」を完成させます。家訓は15条ありますが、会津藩を存在を示した条文は第1条に集約されています。
一、大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず将軍家に対しては、一心に忠義に励むべき。また、他の藩と同等の忠義で満足することはないように。もし、将軍家に逆意を抱くような藩主が現れたら、それは我が子孫ではないので、決して従ってはならない。)」
会津藩では、毎年正月に儒臣に命じて家訓を読ませ、君臣座を下りて拝聴したそうです。それだけ藩主・家臣にとって絶対に守らなければならなかった家訓だったのです。また、この家訓には将軍家光・家綱父子に対する感謝と尊敬の念が込められていたはずです。正之が残した家訓が200年後、会津藩が戊辰戦争に敗れる日まで会津藩における精神的支柱として存在していくのでした。
この家訓を制定してから4年後の寛文12年(1671年)12月、三田藩邸で「忠義の男」保科正之は62年の生涯に幕を下ろしました。
正之の死後の元禄9年(1696年)三代藩主・正容に松平姓が与えられ、葵紋の使用が許されます。(正之は家綱から松平姓、葵紋の使用を許されるが辞退)この時、会津藩は親藩として公式に認められたのでした。

最終回終了。
参考書籍「保科正之(中公新書 中村彰彦著)」

katamori藩祖保科正之の制定した家訓を忠実に守り、最後まで薩長軍と戦い抜いた会津藩九代藩主松平容保。もし藩祖が保科正之でなかったならば、幕末の会津藩は存在していなかったであろう。

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忠義の男 保科正之(第6回幼君の後見人となる)

慶安4年(1651年)三代将軍徳川家光は病に臥し、臨終の時が迫っていました。その時期が間近になった家光は正之を呼び、遺子の家綱のことを託します。(「託孤(たっこ)の遺命」)
正之は家綱の烏帽子親を務めており、また野心の少ない人物でしたから、幼少の将軍を補佐する人物としては申し分ないと家光は考えていたのでしょう。
こうして後見人に指名された正之は兄の死後、幼君家綱を補佐し、「託孤の遺命」を守るべく努力します。
ところが正之が後見人となって数年後、試練が訪れます。明暦3年(1657年)に起こった「明暦の大火」(「振り袖火事」とも言う)です。この大火により、江戸の街は3分の2を焼失し、死者は10万人以上にも上りました。江戸城も天守閣・本丸、二の丸、三の丸を焼失、2年半後に本丸が再建されましたが、天守閣は「天守が城の守りの役に立ったためしはなく、ただ遠くを望み見るだけのもので、そのような物にお金を使うことよりも、江戸復興に使うべきだ」という正之の方針で再建されなかったのです。この事実から徳を重んじ、それを治世に反映させた正之の政治姿勢が垣間見る事ができます。また、今も皇居に天守閣がないのは、この時以降再建されなかったからです。
また、文治政治を実現させるために三大美事と言われる改革を遂行していきます。その3つとは①「末期養子禁止の緩和」。それまでは大名が跡継ぎを決めていないで急死すると改易になっていたのを緩和し、取り潰しにより急増していた浪人の数を抑制すれための規制緩和政策です。②「殉死の禁止」。殉死してしまう有能な家臣(堀田正盛など)がいたため、無駄死にを防ぎ、人材を確保するために実施されたものです。③「大名人質制の廃止」。外様大名など妻子は無理に江戸に住まわせていましたが、それを廃止し、武断政治時代の悪しき風習を払拭していくために実施されたものです。
こうして後見人の正之は兄から託された幼君の補佐を見事に遂行し、且つ戦のない時代を統治していくために、数々の改革を実施したのでした。

第6回終了。

ietsuna四代将軍徳川家綱。彼は正之を父のように慕っていた。

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忠義の男 保科正之(第5回会津藩主としての正之)

幕閣であった正之は江戸に滞在する期間が長く、なかなかお国入りする機会はありませんでした。そんな状況でも、国許の家臣たちへ数々の政策を指示し、数多くの善政を実施します。今回は会津藩の善政の中でも代表的政策である「社倉」について取り上げてみたいと思います。
「社倉」とは飢饉の時に貧民を救うための米を備蓄しておく米倉の事を言います。社倉の発祥は中国の「隋」の時代まで遡りますが、正之はこの社倉を朱子学を学ぶ過程の中で知ったようです。
承応4年(1655年)、正之は会津の藩内に「社倉法」を定めます。飢饉や凶作により生産力の低下や餓死者を最低限に抑えるために正之の設置した社倉は、飢饉や凶作を非常に恐れている農民たちにとってありがたいものであったはずです。またこのような危機管理能力に長けた領主に対しても農民たちは信頼を寄せた事でしょう。
この制度、名目上は「貸し出し」と言う形でありましたが、借りた際につく2割の利子については支払い可能な時期まで猶予してもらえる制度なのでまさに「農民救済法」と言えます。このような善政が会津藩の生産力を高め、幕末にその存在を世に知らしめる原動力となったのだと思います。

第5回終了。

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忠義の男 保科正之(第4回家光の側近となる)

兄家光の覚えめでたく、山形20万石へ転封した正之は、幕政においても家光側近として参加するようになります。
当時、幕府には大老や老中と言った役職があり、その面々の合議に基づいて政策を決定していました。しかし正之は将軍の弟であるにもかかわらず、その役職には就任しませんでした。基本的に大老や老中は譜代大名が就任する役職なのですが、一応譜代(正之は将軍の血縁であるから「親藩大名」とも言えるが、父秀忠から認知されず、徳川や松平の姓を名乗っていない事から私的には正之は保科家と言う「譜代大名」だと認識しています。)である正之は将軍の弟と言う事を考慮しても老中あたりに就任してもおかしくありません。ただ正之は別格だと幕閣たちに認識させたい家光が意図的に就任させなかったのでしょう。こうした事実から、正之は家光の懐刀的役割を求められたに違いありません。
こうして幕閣のメンバーに加えられた正之は「島原の乱」への対策や幕府行政において兄家光を良くサポートします。そんな信頼する弟正之へ家光は将軍の「遊猟の地」へ放鷹することを許します。これは将軍の家臣にとっては最高の誉れです。そして正之は遠慮することなく放鷹します。
ある日、正之がその遊猟地で鷹狩をした時の話です。その日の狩りは満足するほどの収穫(雁二羽)はありませんでした。狩りを終えた正之はそれを献上すべく家光のもとへ登城しました。その時応接した大老の酒井忠勝が「肥後守殿(正之)、今日の鷹狩は上様遊猟の地でなされたそうですな。さぞ獲物の多かったでございましょう。」(多分こんな感じ(^-^;))と尋ねたところ「いいえ、先ほど献上いたした二羽のみでございます。」と正直に答えてしまったそうです。これを聞いた家光は不機嫌な顔をし、程なくして席を立ってしまいます。忠勝は正之の傍に近づき耳元で「肥後殿!上様の前では『お蔭様で大猟でございました。』と言うものですぞ!こんな時まで正直とはいかがなものかと・・・。」と忠告します。これに対して正之は「事小なりと言えども、上様を欺くのは大罪です。だから私は正直に申したのです。」と答えました。この発言に忠勝は感動し、正之の将軍への忠誠心を再認識したそうです。
時は流れ寛永20年(1643年)会津藩主であった賤ヶ岳の七本槍加藤嘉明の子加藤明成がお家騒動で封土を返上したため、代わりに正之が会津へ転封することになります。
正之が会津へ転封する事の裏には将軍家光の思惑があります。以前も取り上げましたが、正之には御三家に次ぐ規模の家を創設させ、将軍のNO2としての役割を果たしてもらおうと考え山形へ転封させますが、すでに幕閣の中心メンバーにまで登りつめた正之に対しては更に厚遇する必要があると思ったのです。そこで会津23万石(幕府より預り高5万石)へ加増転封させます。この預り高5万石を加えれば水戸藩を凌ぐ規模の藩となります。
ここに正之が藩祖である伝説の「会津藩」が誕生したのです。

第4回終了。

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忠義の男 保科正之(第3回将軍の弟と認知される)

三代将軍徳川家光には2人の弟がいました。一人は異母弟の保科正之で、もう一人は駿河大納言と呼ばれ、一時は次期将軍の候補にも挙がった徳川忠長です。
この忠長は幼き日より家光を次期将軍として敬うことはせず、兄に対して悉く反発していました。また、父秀忠に大阪城をくれと言ったり、殺生禁断の駿河浅間神社においてそこに棲む猿(当時は神獣とされていた)を猿狩りにおいて1200匹をも捕殺したりとやりたい放題でした。
大御所秀忠の死後、名実ともに最高権力者となった家光は、数々の奇行の罪ですでに高崎へ幽閉されていた忠長を自害させます
実弟を死に追いやった家光でしたが、忠長の死後、誠実であり聡明な異母弟保科正之を重用するようになります。当初家光は正之の存在を知らずにいましたが、大御所徳川秀忠の死期が迫っていた寛永8年(1631年)12月ごろにその存在に気づいたようです。そして翌寛永9年(1632年)に正之は家光より日光東照宮参拝を命じられ、さらに官位が従五位下から従四位下へ上がります。寛永9年は秀忠が死去し、家光が最高権力者となった年です。家光がこのように正之に対して厚遇を与えたことは、この年に正之が将軍の弟として認知されたと考えられるでしょう
高遠3万石藩主である正之は、いくら将軍の弟と言えども江戸城へ登城した際、末座に位置に甘んじていました。がしかし正之はその事に対して何一つ不満を漏らさず、粛々と小藩主としての責務を果たしていました。家光はこの正之の姿にますます惚れ込み、尚且つ不憫に思ったのか加増転封を検討します。
徳川家には将軍家のほかに、尾張・紀伊・水戸の通称「御三家」があり、権威ある親藩大名として君臨してました。御三家は家光の最も敬愛する家康が創設した家であったので、御三家同等の規模の家を創設することを家光は「はばかって」ました。しかし正之にはこの御三家に次ぐ規模の家を創設させ、将軍のNO2としての役割を果たしてもらおうと考えます
そして寛永13年(1636年)正之を高遠3万石から山形20万石へ加増転封させます。またこの時正之は、保科家の嫡流から外れていた養父保科正光の弟保科正貞に保科家に伝わる家宝を譲り、家光に対して保科正貞を立藩させてほしいと願い出ます。家光は信頼する弟の願いを快く聞き入れ、正貞は上総飯野に7千石を立藩します。これにより、保科家の嫡流は存続したのです。この事からも、養父に対して恩義を忘れない正之の誠実さを伺い知る事が出来ます
ここに正之は御三家に次ぐ地位を手にし、将軍のNO2として手腕を振るうこととなるのです。

第3回終了。

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忠義の男 保科正之(第2回保科家へ)

慶長16年(1611年)5月7日夜亥の刻(10時)、お静は無事に将軍秀忠の子を出産しました。そして、その夜のうちに町奉行を通じて、時の老中土井利勝にも出産の知らせが届き、直ちに江戸城へ登城します。
利勝は秀忠にこの事を伝えると「覚えがある」と答え、そして秀忠は葵紋付の小袖を利勝に手渡し、「幸松と名づけよ」と利勝に命じます。ただ恐妻家秀忠は妻のお江にはばかってこの場では幸松を公式に認知しませんでした
将軍の子として生まれながらも、認知をされていない幸松は武田信玄の娘、見性院の庇護の下に育ちます。お江はこの幸松の存在に気づきながらも、むやみに手を出せませんでした。それは、見性院が武田家再興を願い、当初幸松に武田の姓を名乗らせた事実からもわかるように、見性院のお家再興の執念がお江の嫉妬に勝ったからでしょう
元和3年(1617年)幸松は7歳になりました。当初は武田家再興を夢見た見性院でしたが、今後の幸松の事を考えるとお家再興よりも、しかるべき家に養子入りする方が幸松のためだと思い、信玄の代に「槍弾正」の異名をとり武田家に仕えた保科正俊の孫で高遠2万5千石の藩主保科正光の元へ養子に出します。その知らせを受けた実父秀忠は保科家に対して養育料として5千石を加増しました。
こうして幸松は、将軍の実子でありながら保科家と言う3万石の小藩の世嗣になります。しかし小藩とは言え、見性院の尽力がなければ大名家の世嗣にすらなれなかったはずです。こうした事実から正之は生涯見性院に対して感謝の気持ちを忘れなかったと言います
時は流れ寛永8年(1631年)養父保科正光の死去に伴い、幸松は保科家3万石を相続します。この時幸松は元服し、名を「保科正之」と改めるのです。
正之が高遠藩藩主となった翌年、実父秀忠死去、ついに正式な対面が実現しないままでの死去でした。しかし正之は実父の死を期に政権の表舞台に立つ事となるのです。

第2回終了。

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忠義の男 保科正之(第1回出生)

masayuki-hoshina以前から私の最も尊敬する歴史上の人物として紹介してきました保科正之ですが、今回からは数回に分けて、彼の徳川将軍家と家臣領民に捧げた人生を紹介していきたいと思います。第1回目は正之「出生」についてです。

まず保科正之の母親についてです。
正之の母の名は「お静」と言います。フジテレビの「大奥」では女優の雛形あきこさんが、NHK大河の「葵徳川三代」では女優の高橋かおりさんが演じていました。このお静の出自ですが、後北条家の家臣であった神尾伊与の娘と伝えられています。この神尾家は後北条家が豊臣秀吉の手によって滅ぼされた後に江戸へ出て徳川家へ仕官を願い出ます。しかしうまくいかなかったので、娘のお静を「大姥(おおうば)」と呼ばれる徳川秀忠の乳母の元へ奉公させるのです。
奉公に出たお静ですが、そこで今まで浮気などした事がない秀忠に見初められてしまい、間もなく秀忠のお手つきになります。
話は変わりますが、秀忠の妻「お江」は織田信長の妹「お市」の娘で、伯父譲りの気性の激しさを持っていたと伝えられています。そのため秀忠は過去に家康が差し向けた女性を丁重にお返ししたほどの大変な恐妻家で、お静が現れるまでは浮気などしたことはなかったのです。
やがてお静に懐妊の兆候が現れます。しかしこの事実をお江に知られる事を恐れた秀忠は大姥と相談し、お静を神尾家に宿下がりさせる事にしたのです。そしてこの懐妊が神尾家にとって害が及ぶと恐れた一族は、お静のお腹の子を中絶させました。
中絶後間もなく、秀忠は宿下がりしたお静を忘れられなかったのか、大姥を介して「大奥へ帰って来い」と催促します。そしてお静は再度大奥に上がり、秀忠との関係が復活するのです。しかしまた(!)懐妊し、宿下がりさせられます。しかしこうなるとお静もうんざりだった事でしょう・・・。
神尾家一族は前回同様、中絶の処置を取ろうとします。しかし一族で唯一それに反論する男がいました。お静の弟の神尾嘉右衛門です。嘉右衛門は「将軍の子を、二度も堕胎させるとはいずれ一族に天罰が下るぞ!」と主張し、今回は出産させる事にします。またこの時、お静の事を噂で聞きいていた有力な協力者が現れます。名は「見性院」と言い、穴山梅雪の元妻にして武田信玄の第二女と言うお江にも引けを取らない女傑です。そして見性院は自分の妹をお静の元へ派遣し、その上で安全な場所にかくまいました。
そうした協力者の助けを得たお静は、慶長16年(1611年)5月7日夜亥の刻(10時)に男の子を出産します。この男の子こそが後に成長し、会津藩初代藩主保科正之として歴史の舞台に登場するのです。

第1回終了。

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保科正之が嘆いた前会津藩の処刑方法

前回の記事で名君「保科正之」が嘆いた領民に対する処刑の話を少ししましたが、今回はそれを詳しく説明するため、正之が入封する前の会津でどのような処刑がされていたのかを紹介します。
これから紹介するのは正之が入封される前の会津太守だった「蒲生氏から加藤氏」統治時代の処刑の内容です。

①「罪人を二頭の牛に跨らせ、タイマツを両牛の間にいれ驚怒させて各左右に開き罪人は裂かれる。」(牛裂の刑)

②「大釜の蓋に穴をあけて罪人を中に入れる。頭、顔、左右の手は蓋から外へ出し、足にゲタをはかせて緩やかに火で煮る。火気が釜の中に充満すると油を注ぎ入れ焼き殺す。」(釜茹での刑)

③「大きな壇をつくり、一本の木を立て、首輪で罪人を木につなぎ両手に油のある竹の輪を持たせて前後左右から火をつける。そのため罪人は踊り狂って死ぬ。」(タイマツアブリの刑)

正之はこの報告を受けて「惨酷極まりなし・・・。」と哀れみ、役人たちに「自分の治世では決してこのような刑を行ってはならない!」と厳命します。そして罪人がたとえ大罪であり処刑にするならナブリ殺しではなく急ぎ絶命させるように命じたのです。当然牛裂の刑や釜茹での刑は廃止されました。そして正之はむやみに処刑を行わないよう連座制も軽減させたのです。
正之は有名な朱子学者「山崎闇斎」と交友があり、彼を賓師として会津に迎えています。そして熱心に朱子学を学んだ正之はその治世でもそれに基づく「将軍への忠義」や「家臣、領民への思いやり」を実践したのでしょう。このように人間的にすばらしい人格を持った正之には惨酷極まりない処刑は耐えられなかったんでしょうね、う~ん。

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南海の龍 徳川頼宣

尾張、紀州、水戸」の各徳川家の称してを「徳川御三家」呼び、この御三家の家格は将軍家に匹敵するものとされ、そのプライドの高さが幾度となく権力闘争まで発展する事態を生んできました。そんな中で「南海の龍」と呼ばれた御三家の一つ紀州徳川家の初代藩主「徳川頼宣」について今回は取り上げてみたいと思います。
徳川頼宣は1602年、家康の10男として生まれ、幼名を長富丸と言いました。その翌年に兄武田信吉が亡くなると、その遺領である常陸水戸20万石の領主となりますが、当然1歳の赤ん坊が藩政に関与することはないので、その後は家康が大御所になり入国した駿府で育ちます。
1609年、頼宣は常陸水戸から駿河および遠江50万石へ加増転封となります。幼くしてこのような厚遇を受けたのは、家康が頼宣を自らの手で厳しく養育したためだと言われています。家康は将来この頼宣が将軍家を支える名太守になる事を期待したのです。
1619年、紀伊浅野家が安芸へ転封になったことにともない、頼宣は紀伊55万5千石へ加増転封されます。これが紀州徳川家の始まりです。
頼宣が紀州藩主に就任した際の話としてこんなエピソードが残っています。紀州へ入国した頼宣は、まず食糧増産のために新田開発を奨励します。そしてその候補地を家臣たちに提出させたのですが、その中に、紀州の名勝地である和歌浦が含まれていたのです。頼宣は名勝の和歌浦を新田開発してしまっては末代まで無知な藩主だったと言われてしまう、だから和歌浦は絶対開発をしてはならないと命じたのです。これは頼宣が文化的遺産を大事にする人物である事を物語っているような話です。
その一方で頼宣は和歌山城の大改修や職にあぶれた浪人を多数召し抱え武備の充実にも力を入れます。しかし時はすでに泰平の世、このような頼宣に対してある嫌疑がかけられます。有名な「慶安の変(由比正雪事件)」です。
2代将軍であり大御所として権力の座にあった秀忠が没し、その後継者となった徳川家光は「天下主たる者我一人なり」と大名歴々の前で宣言します。そして今まで別格として扱われていた御三家に対しても臣下として慴伏(しょうふく)させようするのです。このような家光に対して頼宣の御三家としてのプライドが許さず、内心では「次の将軍は俺が・・・。」と思っていたことでしょう。そのような思いから頼宣は領内の武備の拡充を図ったのではないでしょうか。そして1651年に家光が亡くなると、由比正雪による倒幕の謀反が露見します。正雪は自害して果てますがその書き置きの中に何と紀伊家の名が挙げてあったのです。幕府は頼宣に対して登城してその釈明をするように求めます。それに対し頼宣は「さてさて、めでたいことだ。」と言い放ちます。幕閣らがその真意を問いただすと「御三家である紀伊家の判であるなら心配ないだろう。これがもし外様大名の判に似せた謀書ならば、もしやの疑念が生じ大騒動になるところだった。」と釈明したのです。頼宣のこのしたたかさが父の家康を彷彿とさせ、幕閣たちもこれ以上問いただす事はなかったのです。
しかし頼宣はこの一件以降「南海の龍」の片鱗を発揮する事なく、1667年に嫡男である光貞に家督を譲り隠居し、1671年69歳でこの世を去りました。

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ケネディ大統領が尊敬した藩主

yozan1960年代初め、アメリカのケネディ大統領へある日本人記者が「最も尊敬している日本人は?」と質問したところ「ヨウザン・ウエスギ」と答えたそうです。日本史を習った人でさえ知らないかもしれない人物を、どうしてケネディは知っていたのかは定かではありませんがこの発言で日本でも有名になったのは間違いありません。
地元の米沢では善政をおこなった人物として有名な上杉鷹山、今回はこの鷹山について取り上げていこうと思います。
上杉鷹山は1751年米沢ではなく、九州の日向高鍋藩の藩主秋月種美の次男として江戸邸で生まれます。幼名を松三郎といい、母親は上杉家9代藩主重定の従姉でした。そして10歳の時に上杉綱勝の養子になります。
江戸時代、上杉家は謙信以来の名門でしたが関ヶ原の敗戦により、石高を120万石から30万石へと減封されていました。そして4代将軍家綱の時代になると藩主綱勝が世継ぎのないまま急死し、世嗣断絶による改易のピンチが訪れます。しかし時の名宰相保科正之の計らいにより藩主の妹の子であり吉良上野介の息子三郎(後の上杉綱憲)を世嗣にする事で改易は免れました。ところがそのお咎めとして30万石であった石高を15万石へ半減されてしまいます。その上、石高を半減された上杉家に対して保科正之は「家臣を解雇してはならない。」と命じたので藩は存続したのですが財政は苦しくなります。
その後上杉家は吉良家への援助や綱憲の浪費などで慢性的な赤字が続き、1763年には町人からの借り入れ金の利子すら払えず、時の藩主重定は「この上は封土を幕府に返上しよう・・・。」と考えてしまうのです。
版籍返上の相談を受けた尾張藩主徳川宗勝は上杉家家老竹俣当綱へ「更正の努力をするように。」と命じます。その後、藩主の重定はやる気を取り戻しますが藩財政の赤字体質脱却はうまくいかず、17歳の養子松三郎へ家督を譲るのです。
藩主となった松三郎は名を治憲に改め、江戸在府のまま藩政改革に着手します。まず家臣たちに「倹約十二カ条」を示して実行を命じます。当初は守旧派の反発に遭いうまく行きませんでしたが、家老竹俣当綱や莅戸善政(のぞきど よしまさ)ら重臣の協力もあって江戸藩邸の経費を当初1500両であったものを200両に削減するなど改革は次第に軌道に乗ってきます
1773年、治憲が米沢へお国入りした際にある事件が起きます。国元の重臣たち7人が連名で改革反対の意見書を突きつけたのです。しかし訴状の内容は誤りであると治憲は判断、前藩主重定の後ろ盾もあったので、訴状が出されてから3日後に7人に処罰を下します。判決は治憲が直接下し、7人のうち2人は切腹、その他5人は隠居閉門、知行の半分取り上げなどという厳しいものでした。これはのちに「七家騒動」と呼ばれる事件で初期の上杉治憲政権への抵抗勢力による反体制運動だったのです。
上杉治憲には学問の師がいました。その師の名は細井平洲と言い、藩主となった治憲の相談役になった人物です。彼は治憲に「君徳」の教えを説きます。そして治憲はその教えを元に善政をおこなうのです。
治憲がおこなった政治改革の具体的内容は、農民に対して苛酷な取立てをせず働く意欲を持たせる事です。そして離村した者を呼び戻し、新田開発を進めたり農業以外の副業を奨励します。この副業こそが治憲が財政再建の目玉にしたものでした。米沢藩の特産物は楮(こうぞ)、漆、蝋などでありましたが、農村の荒廃により生産力はガタ落ちしてました。そこで治憲は各地から職人を招いて技術力の向上を図ります。特に養蚕を普及には力を入れ、その結果、米沢ではさまざまな織物が産出されるのです
こうして生産高を30万石にする治憲の目標は実を結びます。そして改革の成功を確認すると35歳で上杉重定の四男上杉治広に家督を譲り隠居します。その後も治広を後見し政治改革をおし進めます。また52歳の時に総髪して鷹山と号するのです。
その鷹山は藩財政の黒字を見届けて1822年に72歳で死去、その翌年に米沢藩の借財はほとんど返済されたそうです。
私の知り合いにも米沢出身の方がいますが、ミーハーで歴史など全然興味ないのにこの上杉鷹山の事は知っていました。米沢の人にとって鷹山は郷土の恩人なんでしょうね。

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徳川宗春

名古屋の結婚式がなぜ豪華なのか?それは江戸時代、尾張藩のある藩主が一生に一度は散財をさせようと定めたため、それが風習となったものらしいです。そのある藩主とは暴れん坊将軍に悉く反抗した異端児徳川宗春・・・彼の事です。
10年前に放映されたNHK大河ドラマ「吉宗」では中井貴一が宗春役を演じました。その影響か今でも中井貴一を見るとどうしても徳川宗春を連想してしまいます。またこのドラマで吉宗と宗春の間に挟まれて対応に苦慮した尾張藩家老成瀬隼人正役の寺田農の好演も見事でした。
今回はこの徳川宗春を取り上げてみたいと思います。
徳川宗春は1696年に徳川綱誠の20男!として生まれます。藩主の長男なら当然家督を相続することできるのですが20男となると養子にならない限り一生部屋住みで終わる可能性が大なのです。ただ幸運にも御三家出身のおかげか部屋住みから大名へ昇進します。宗春は当初通春と名乗っていて幕府より梁川藩3万石を与えられていました。それが兄たちの不可解な死一説では紀州の隠密が家継亡き後、藩主である吉宗を将軍にするために暗殺したとも伝えられている)により1730年に第7代の藩主に就任します。
宗春が兄たちの死を吉宗の仕業と考えていたどうかは定かではありませんが、尾張藩主に就任すると享保の改革を推し進める吉宗に彼は悉く反抗します。まずは就任翌年のお国入りの際、豪華な衣装に身を包み(全て黒ずくめ)、頭には浅葱の頭巾に鼈甲の丸笠を被り、金糸で飾った虎の陣羽織姿で馬にまたがり入城したのです。この姿に名古屋の人々の度肝を抜かれたことでしょう。この行為は質素倹約を掲げる吉宗に対する宗春流の挑戦状とも受け取れます。
お国入りすると宗春は施政方針を版行した「温知政要」の中で示しました。その内容は享保の改革と正反対のもので「庶民を縛る法令はできるだけ少なくすること。自由を望むのは人の常であり、色欲や食欲を抑えるのは好ましくない。華美は天下の助けであり度を過ぎた倹約は経済に逆効果をもたらすだけだ!」と吉宗の政策を真っ向から批判し、自らはそれと違う政策をすると言い切ったのでした。そして宗春は公約どおり名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を実施するのです。
こうした政策を実施したことから城下の町並みは急速に開かれ、人や金が集まり、名古屋は一大消費都市として活況を呈しました。
当初吉宗は尾張家が御三家筆頭と言う立場なので静観していましたが、改める様子がないので痺れを切らせ、ついに使者を遣わして宗春を詰問(世に言う「三か条の詰問」)します。これに対し宗春は明快に反論した上で「家康公の代から将軍家と尾張・紀州両家は同格である!」と最後に紀州出身の吉宗に対して敵対心を露にしています。
ところが次第に支出を続けた尾張藩の財政は逼迫し、当初は活況を帯びていた城下の遊郭や芝居小屋なども縮小され、その上庶民に上納金を求めたため宗春行政の拠り所であった人気も低落します。これを見た重臣たちは宗春の失脚を狙い幕閣と連携し、ついに1739年宗春は吉宗から「国主にふさわしくない。」との理由で隠居謹慎を命じられるのです。その処分は厳しく、外出は一切認められず、父母の墓参りも許されないと言うものだったのです。御三家と言う別格の立場でありながら、このような処分を受けたのは、吉宗の宗春に対する積年の恨みだったのでしょう。宗春は1764年に亡くなりますが、宗春の処分は死後も続き墓石に金網が掛けられたそうです。そして死後75年が経過した1839年、徳川家斉の息子が尾張藩主となる事からその恩赦としてようやく名誉回復が図られるのでした。

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阿部正弘

abe-masahiro「瓢箪で鯰を押えようというような人物。」と水戸藩主徳川斉昭に評された人物、それが幕末動乱期の老中阿部正弘です。斉昭は正弘の相談役に据えられていましたが、正弘は人に尻尾をつかませないような人物だったので斉昭は相当彼に翻弄されたのでしょう。
阿部正弘は1819年、譜代の名門備後福山藩5代藩主阿部正精の6男として江戸藩邸で生まれました。1836年18歳の時に兄の第6代藩主正寧の養子となり、その年に福山10万石の藩主に就任します。1843年には25歳の若さで老中に抜擢、さらに2年後には老中首座となります。老中として江戸城に入った正弘を大奥の女人たちからは「眉目秀麗にして容姿良し。」と評され、大変人気があったようです。
正弘の老中就任から間もなくして幕府はオランダ国王ウィレム2世からの親書を受け取ります。これには数年後に欧米諸国が日本に来ると書かれており、しかも阿片戦争についても触れ、その上で「もうこれ以上鎖国を続けることは不可能だから、開国するべきだ。」とも提言してました。しかし「鎖国は祖法(家光以来の不変の法)なので破ることができない」と返答するのです。この時、阿部たち幕閣が開国の手助けをしてくれると言ってきたオランダの好意を受けていたら歴史はだいぶ変わっていたことでしょう。
そして1853年、ついにアメリカ東インド艦隊のペリー提督が開国を求めて来航、その対応に追われることとなるのです。外交問題を切り抜けるため正弘はまず、国内を一つにまとめて外国と当たろうとし、攘夷派の急先鋒である水戸藩主徳川斉昭に息子慶喜の一橋家への養子入りで恩を売り、攘夷派を抑える事に成功します。このことが功を奏して日米和親条約の調印に至る訳です。また正弘はこの国難を乗り切るため先例にこだわらず、親藩から外様まで多くの大名からの意見を求めました。そして西南の雄藩である薩摩藩の島津斉彬を自らの陣営のものとします。それから身分に関係なく有能な人材も登用します。勝麟太郎(海舟)や江川太郎左衛門といった後世に名を残す人物も正弘が抜擢したのです。しかし紛糾する外交問題や海防問題の対応に追われる正弘を突如病魔が襲い、1857年で病死、39歳の若さでした。

参考書籍 知れば知るほど徳川十五代

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下馬将軍

ずいぶん前の話ですが、松方弘樹主演の「江戸城大乱」という映画がありました。内容的にはそんなに面白い映画ではなかったのですが、この映画を通じて知ることが出来た人物がいます。それは松方弘樹が演じていた「下馬将軍」こと酒井忠清です。今回はその酒井忠清について取り上げていこうと思います。
忠清は1624年に譜代の名門酒井家の酒井雅楽守忠行の子として生まれます。祖父は秀忠・家光の治世に老中として活躍した雅楽守忠世です。
1637年に家督を継ぎ上野国厩橋10万石の領主となり、1653年には19歳の若さで老中となります。
保科正之や松平信綱といった幕閣の実力者たちが相次いでこの世を去ると大老として、門閥大老政治を現出させます。
「左様に致せ」としか言わなかった将軍家綱は政治判断力に乏しく病弱だったため当初は家光の実弟の保科正之が将軍後見職として補佐していましたが、正之が亡くなると忠清が代わって将軍の補佐役として権勢を奮うのです。その忠清についたあだ名は「下馬将軍」。この「下馬」とは彼の屋敷が大手門下馬札前にあったのでその権勢の強さに皮肉をこめてこう称された訳です。
忠清は戦国時代的な武力支配を終結させ、官僚による文治政治を推進します。この時代に幕府の職制も固まっていきます。
病弱な家綱がやがて世嗣のないまま危篤状態になると彼は皇族から有栖川幸仁親王を迎えて将軍に擁立しようと主張します。これに関しては水戸光圀などから異論が出ますが、真っ向から反対したのが老中の堀田正俊でした。彼は家綱の弟の徳川綱吉を家綱の床に呼び寄せ綱吉を養子にすることを承諾させるのです。
これで忠清の政治生命はTHE END・・・。新将軍から罷免されてしまい、1年後に58歳でこの世を去るのでした。
もし忠清が提案した宮将軍が実現していたら、酒井家による執権政治のようなものがはじまっていたのかもしれませんね。

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オットセイ将軍

ienari「オットセイ将軍」。このあだ名、オットセイの「あれ」を食していた家康のことを呼んだものではありません。では誰のことでしょう?11代将軍徳川家斉。オットセイ将軍というありがたくないあだ名を頂戴していたのはこの家斉で、理由は妾17人の腹からなんと55人!の子供を生ませたからです
今回はこのオットセイ将軍についてとり上げてみようと思います。
1773年、家斉は一橋治済の長男として生まれます。暴れん坊将軍の曾孫です。
1786年、10代将軍徳川家治が急死。世嗣のいない家治の急死により将軍職は御三卿である一橋家から治済の長男一橋家斉が継ぐことになります。家斉15歳の時です。
家斉は将軍に就任すると、前将軍のもとで幕政を牛耳っていた田沼意次を罷免します。代わりに吉宗の孫で白河藩主の松平定信を老中主座に任命し、「寛政の改革」をはじめます。しかしこの一連の流れは若年の家斉の意志ではなく、御三卿や御三家といった守旧派の意志によるものだったのです。
ところがこの定信、守旧派の思惑どおりには動きません。田沼意次が推進した重商主義を重農主義に戻したところまではよかったのですが、あまりの取り締まりの厳しさに幕府内部や大奥から批判が続出します。そしてある問題がおこります。「大御所事件」です。
大御所事件とは家斉が父である一橋治斉を江戸城へ入れて大御所とし、前将軍の同様の待遇を与えたいという家斉の主張を定信が大反対したことをいいます。またこれと時を同じくして朝廷でも尊号一件(時の天皇であった光格天皇は閑院宮典仁親王の子で父よりも位が上になってしまった。そこで実父の典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を送ろうと幕府に通達してきた)がおこり、この両事件に定信が反対の姿勢を貫いたため、ついに定信は失脚させられるのです。
定信が失脚したあとも松平信明を中心とした「寛政の遺老」と呼ばれる人々を中心に改革は受け継がれますが、1818年に信明が病没し、家斉の側用人水野忠成が権勢を揮うと幕府内の綱紀は乱れ、賄賂も横行し、幕政の腐敗が進むのでした。
話は変わって将軍家斉の生活ですが、まあ55人の子供をつくるほどですからとても健康的な生活を送っていたようです。毎朝、庭を散策し、乗馬や打毬といった当時のスポーツで汗を流し、冬でも薄着を心がけました。当然歴代の名将軍と同様、鷹狩や馬術も怠りません。食生活では安房嶺岡で育てた乳牛からとったバターやチーズを食し、お酒も控え目だったと言います。
こうして自らの健康と子作りだけに励み、1837年将軍在位50年の記録を残して世嗣の家慶に将軍職を譲り「大御所」になります。これが彼が権力の頂点にあった時代を「大御所時代」と呼ぶ由来です。大御所となってからも腐敗した側近政治を容認し続けた家斉でしたが、1841年ついに69歳でその生涯に幕を閉じるのでした。
tanuma-okitsuguもし家治とその世嗣家基が急死せず、守旧派の推す家斉が将軍にならなければ、この田沼意次は罷免されずに済んだでしょう。当然先見性に富む意次のことですから通商の重要性を悟り、本来の歴史よりも早い時期に開国がなされていたかもしれません。自らそして世界へ出た日本は不平等な条約を締結されることなく、アジアで最初の産業革命を実現していた可能性だってあったはずです。そう考えるとこの大御所時代は歴史の停滞期と言っても過言ではありません

参考書籍 徳川四百年の内緒話

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暴れん坊将軍の大リストラ

yoshimune「英雄色を好む」という言葉がありますが、極端に色(といっても権力を象徴する色ですが)を嫌った英雄が日本にいます。それは暴れん坊将軍松平健・・ではなく徳川吉宗です。
彼は「享保の改革」で緊縮財政を実施したのは有名な話です。まずはその緊縮財政を実現するために、春日局からつづく江戸城の伏魔殿「大奥」のリストラに着手したのです。
彼は大奥に対して「選り抜きの美女の名を記したものを提出せよ。」と命じました。当然美貌の女性たちは「将軍のお手つき」になり子を産んで権力を手に出来るかもと期待に胸を弾ませます。そして大奥は美女50人の名簿を提出、これを受け取ると彼は「よし!この者たちを解雇せよ。」と命じたのです。理由は先にも述べたように経費削減のためですが、それ以外に「クビになっても美女なら幾らでももらってくれる者はいる。不器量の女はそうはいかない。だから美女を捨てブスを残す。」理由だったのです。
改革者の吉宗としての評価を後世に伝える逸話ですが、実際吉宗は女性を顔の良し悪しで選ぶ方ではなかったのでこのような改革が出来たとも伝えられています。

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精力増強のために家康がしたこと

これは以前紹介した「徳川家四百年の内緒話」に書かれていたものです。徳川家康は多くの側室を侍らせて多くの子供を生ませています。この家康の性欲が徳川260年の基盤となったと言っても過言ではないでしょう。
家康は精力を持続させるのにどうやら松前藩に命じて海狗腎(オットセイのオスの生殖器)を献上させ食したようです(笑)
オットセイは1匹のオスで30頭のメスを従える精豪らしく、そこから中国人が精力増強を連想し漢方としたのです。ただ家康はさすがに「あの」形で食した訳ではなく、乾燥させた「あれ」を粉末にした上で食したそうです。
効果のほどはいかに!

LIFE-dc00075オットセイの精力を家康は自身の精力増強に役立てようとしたらしい。実際に御三家の初代藩主たちは家康晩年の子供たちな訳だからその精力には敬服。

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柳沢吉保

yanagisawaもうすぐ桜の開花の季節ですが、枝垂桜で有名な日本庭園の「六義園」はこの季節になると多くの見物客で賑わいます。そしてこの六義園は五代将軍の徳川綱吉の側用人として有名な柳沢吉保が自ら設計し、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を創り上げたそうです。この柳沢吉保ですが、政治家としての評価が芳しくありません。以前取り上げた田沼意次と一緒で「権力者に媚びて私腹を肥やし、政を意のままにする。」というような評価を受けています。側用人という性質上このイメージはどうしてもつきまとうものですが、吉保はどうだったのでしょう。
吉保は1658年(万治元年)に生まれ、幼少時代から当時館林藩の当主だった綱吉に小姓として仕え、その後綱吉の信頼を得て小姓番頭に進みました。そして綱吉が五代将軍になるとともに幕府へ入るのです。
吉保の幕府での最初の仕事は「御小納戸役」、要は小姓として将軍を世話する役でした。しかし綱吉を将軍へ推挙した堀田正俊が殺害され綱吉はアドバイザー兼後ろ盾を失います。そんな綱吉はやがて英明な吉保を寵愛し、七万二千石を与え大老格とするのです。なぜ綱吉がそれほどに吉保を寵愛したかは、互いに好学心に富む点でも共通していた点や、またかねてより老中政治に不満をいだいていたことが挙げられます。将軍権力の奪還をねらっていた綱吉が、側用人政治をすすめるうえで、吉保を重宝したのは自然の成り行きだったのかもしれません。ところで川越の藩主だった吉保の治政はどうだったのでしょうか?
吉保は上富・中富・下富など三村の開拓を行ない、多福寺・多聞寺などの禅寺を創建しました。三富新田の開拓は、彼のやった代表的な民政ですが、世にいう迎合的な奸臣とは異なる誠実な一面が、これらの治政からうかがわれます。
参考書籍
「日本名城紀行2 南関東・東海」(小学館刊)
将軍と側用人の政治」(講談社現代新書刊)

JPN13-dc00032六義園。吉保はここへ綱吉を招いて幾度となく酒宴を催した。



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伊能忠敬と日本地図

keicyu「いや~よくここまで測量したもんだ・・・。」
これは私が一昨年の冬、東京国立博物館の「伊能忠敬と日本図展」で彼の日本地図を見た時の感想です。
彼が日本地図を作成するために測量をはじめたのは50歳の時、当時は人生50年と言われた時代ですから相当な覚悟ではじめたんだと思います。そして幕府天文方の高橋至時(シーボルト事件で獄死するあの高橋景保の父親)に師事し天文学を修め、寛政12年(1800年)、奥州道中と蝦夷地東南沿岸の測量に成功します。以後文化11年(1814年)まで沿岸中心に全国を測量しましたが実測に基づく日本全図を作図中の文政元年(1818年)に73歳で死去。まさに日本全図に執念をかけた晩年と言えるでしょう。
千葉県佐原市の「伊能忠敬記念館」には、彼に関する様々な史料が展示されているそうです。興味のある方はぜひ足を運んでみてください。また「現存する伊能図」というサイトで彼が測量、作成した地図を見ることができます。

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華岡青洲

seisyu先日、私の彼女が「今、テレビで華岡青洲の妻見てるんだ。」と言うので「華岡青洲?誰?」とつい聞いてしまいました(苦笑)日本で始めて全身麻酔による乳癌摘出手術をされた方なんですね。しかも1805年に!そんな有名な方を自称「歴史好き」の私が知らなかったのは不覚だったので今ここで青洲先生がどのような方だったのか紹介しましょう。

1760年(宝暦10年)10月23日 今の那賀町平山に生まれました。
その後1782年に、京都での3年間の遊学の後、帰郷し父の後をついで開業しました。
当時の外科治療には大きな問題がありました。麻酔がないために、患者は激しい痛みに耐えねばならず、そのために死に至ることも多かったのです。青洲は、患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え麻酔薬の開発を始めました。
研究に研究を重ね長い苦心の末に、青洲は曼陀羅華(まんだらげ)の花を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見しました。
動物を使った実験を重ねることによって、麻酔薬の完成まであと一歩というところまでこぎつけましたが、最後の人体実験を目の前にして行き詰まっていた時、苦悩する青洲に母・於継と妻・加恵が自ら進んで実験台になることを申し出たのです。こうして数回にわたる人体実験の結果、加恵の失明という事態を招いたものの、ついに全身麻酔薬「通仙散」が完成しました。以後、青洲は、没するまでの約30年間に様々な手術を行い、当時不治の病といわれた乳がん手術だけでも153例にも及びました。
また、乳がん手術の成功後、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が、平山に殺到しました。青洲は、門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けて、千人以上の門下生を育てました。
そして1835年(天保6年)10月2日、青洲は76年の生涯を閉じました
那賀町役場HPより

驚いたのは当時の外科手術は麻酔なしおこなわれその痛みのせいで死んでしまう!なんて事があったんだね・・。確かにそのような時代に全身麻酔を開発し、実用化させた実績は現在ならノーベル医学賞受賞間違いなしって話だな。しかもこの青洲先生、紀州の殿様の主治医になってほしいとお願いされても「私は町民を診るのが役目だから主治医になったらそれが出来ない。」とこんなおいしい話を断ってんですよね。使命感の強い方ですな。

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白河の清き?に魚も住みかねて、もとの濁り?の田沼恋しき

tanuma-okitsugu日本の歴史を学んだことがある人は「田沼意次」=「賄賂政治家」と言うイメージを少なからずとも持っているはずです。しかしそのイメージは田沼に対して殺意さえ抱いていたとされる後の老中松平定信とその周辺の保守派によってつくり出された嘘である可能性が高いのです。なぜなら田沼=悪のイメージをつくることで寛政の改革の正当性を誇示したかったからでしょう。また定信の個人的憎しみも影響しているはずです。
田沼意次の行ってきた幕政改革を見てみると徳川幕府260年の歴史で一番斬新であり他に比べても急進的な政策ばかり。彼は賄賂政治家ではなく有能なエコノミストであったのです。彼は旧来の年貢中心の財政に限界を感じ、商品経済に目をつけて重商主義による経済政策へ転換させたのです。その経済政策とは株仲間を奨励し公認料(運上や冥加)を徴収して物価の安定と財源を確保したり、銅や朝鮮人参を専売制とすることで同じく安定した財源を確保し幕府財政の立て直しを図ることでした。また仙台藩の医師、工藤平助が著した「赤蝦夷風説考」に影響を受け、ロシア南下政策に対応するため最上徳内を蝦夷地に派遣し調査を開始させました。
株仲間(同業者組織)や専売などと言うと今の世の中でも談合のようなイメージを持つ人は多いと思いますが田沼意次は賄賂目的ではなく、破綻寸前だった財政を立て直すための手段としてこのような制度をつくったと私は信じています。このような事実から21世紀は田沼意次を賄賂政治家ではなくエコノミストとして再評価する必要があるでしょう。

60a松平定信。田安宗武の7男で徳川吉宗の孫。実兄が早世したため本来なら田安家を相続するはずだったがすでに白河松平家に養子に出されていたためそれは叶わずに終わる。田安家は将軍継承権があり有能な定信を畏れていた同じ御三卿の一橋治済や意次の妨害により定信は相続できなかったとも言われ、その事が後の意次失脚や尊号一件につながる原因となったと伝えられている。

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保科正之

masayuki-hoshina歴史が好きな方でもこの「保科正之」と言う名前を聞いてピンとこられる方は少ないと思います。保科正之は徳川幕府第2代将軍徳川秀忠の四男にあたり、3代将軍徳川家光の異母弟だった人物です。
「日本史もっと知りた~い」(現「日本史探求」)記念すべき第1回目は、この保科正之について取り上げていこうと思います。
兄である3代将軍家光と、同じく兄の駿河大納言忠長が秀忠正室お江与の方の子供であったのに対して、正之はお静という将軍家に出仕していた女中の子供でありました。そんな事から秀忠はお江与に正之の存在を知られるのを畏れ、秘密裏のうちに正之を高遠3万石保科家へと養子に出してしまいます。そんな不遇の少年時代を送った正之が、中央政治の表舞台に現れてくるのは秀忠の死後、家光が3代将軍として権勢揮う時代になってからです。家光の弟忠長はとても野心家で、父に対して大阪城をくれと言ったり、殺生禁断の駿河浅間神社においてそこに棲む猿(当時は神獣とされていた)を猿狩りにおいて1200匹をも捕殺したりと次第に奇行が目立つようになりました。この忠長を将軍家光は改易の上謹慎させ、父秀忠が死ぬと間もなく切腹させます。このように心の許せる親類が周囲いなかった家光ですが、実はもう一人の異母弟保科正之がいる事に気付き、数少ない身内として重用するようになります。忠長のように野心を持たない正之はやがて家光の死の間際に遺子家綱(第4代将軍)の後見職を命じられるのです。
後見職として手腕を振るう正之については中公新書「保科正之言行録 仁心無私の政治家」(中村彰彦著)に詳しく書かれています。
ところで幕末、戊辰戦争において最後まで抵抗を見せたのは将軍家でもなく、徳川御三家でもなく、会津松平家であったのはご存知でしょうか?そしてその会津松平家こそが保科正之を藩祖とする会津藩なのです。戊辰戦争の最後まで抵抗を見せた会津藩のスピリットを知る重要な資料として会津藩家訓があります。その会津松平家家訓第1条には「徳川将軍家については一心に忠義に励むべきで、しかも他の諸藩と同じ忠義で満足していてはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような藩主が現れたならば、そんなのは我が子孫ではないから、決して従ってはならない。」と断じ、幕府(将軍)に対して絶対の忠誠を謳っているのです。この家訓が幕末、会津藩が京都守護職を仰せつかり、戊辰戦争では最後の最後まで板垣退助率いる官軍と戦い抜くだけの精神を維持させたのでしょう。
幕藩政治確立から崩壊のすべての過程でキャスティングボードを握ってきた会津藩。そこには必ず正之の持つ精神が血脈として子々孫々に受け継がれたことを感じさせています。
この保科正之の生涯については追々記事にしていこうと思っています。

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