カテゴリー「江戸時代」の48件の記事

2009/04/12

小説『菜の花の沖』

 『菜の花の沖』は故司馬遼太郎氏の著作で、単行本で全6巻にもおよぶ長編小説である。
 菜の花の沖の主人公は江戸後期に活躍した廻船業者の高田屋嘉兵衛、ゴローニン事件に関係した人物として多くの日本人に知られている。
 司馬氏はこの高田屋嘉兵衛を
「英知と良心と勇気という尺度から、江戸時代で誰が一番偉いかといえば、私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。それも二番目がいないほど偉い人です」
と高く評価している(ホームページ『旅』より)
 その高田屋嘉兵衛という人物はどのような生い立ちを経て日本一の廻船業者となったのであろうか。小説『菜の花の沖』を読んだ私なりにまとめてみたい。

 淡路の極貧農家に生まれた菊弥少年(のちの高田屋嘉兵衛)は、貧しい家の食い扶持を減らすために隣町(新在家)へ丁稚奉公に出た。
 嘉兵衛は奉公先の新在家で、網屋の娘おふさと恋仲になるのだが、それが当時の若衆間ではタブーであったため、逃げるように兵庫へと渡り、その兵庫で廻船問屋『堺屋』を営む親類のサトニラさんを頼り、水主(かこ)の一員となり海の男としての生活を始めた。
 強靭な肉体と柔軟な思考で数々の実績を積む嘉兵衛の存在は、兵庫一の大廻船問屋である北風荘右衛門の目に留まるようになり、その荘右衛門の計らいで持舟船頭になる。
 ここまでが前半のストーリー展開である。ここまで(第2巻まで)読んで私は『菜の花の沖』というタイトルはおそらく淡路島が菜種油の産地であるので、その淡路の沖に出て名を挙げた男(高田屋嘉兵衛)に由来しているのかもしれないと感じた。
 
 3巻の途中から4巻までは、司馬氏得意の鳥瞰的手法で嘉兵衛以外の人物が多く登場し、簡単に言えば高田屋嘉兵衛を中心とした『蝦夷地』に想いを馳せる男たちの物語へと移ってゆく。
 余談として商いの話になるが、『菜の花の沖』を読み、司馬氏が記した江戸商業社会から感じ取ったこととして、商売というのはいつの時代においても『需要と供給』の上に成り立ち、かつそれに付加価値が加わることで購買意欲が増すということである。
 樽廻船が幕末まで隆盛を極め、江戸において関西で醸造された酒(灘の酒)が『ブランド』として重宝されたことがそれを十分に物語っている。
 どの時代でもそうであるが、商いで成功する人たちは購買層が何を求めているのかをよく把握し、かつ『需要と供給』のバランス保つことで巨利を築いてゆく。ブランドと供給調整が江戸の商業社会を支えたといっても過言ではない。
 
 嘉兵衛に話を戻す。
 彼の凄いところはその利益のほとんどを設備投資にまわし、可能な限り利益を社会に還元したところだ。多くの船を持つことで、大量輸送を可能にし、庶民の需要を最大限に満たす。それは嘉兵衛は商いに中に『公益性』を取り入れることを惜しまなかったことの裏付けでもあるのだろう。
 小説は第3巻の途中から舞台を蝦夷地へと移す。
 嘉兵衛は元々士族層を下層の人々から『収奪』をして営みを送る連中と忌み嫌っていたのだが、1500石積の辰悦丸を建造して蝦夷地に渡ってからはその考えが一変する。
 嘉兵衛の出会う武士たち(高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら幕臣)がそれまで嘉兵衛が忌み嫌っていた有閑な搾取階層とは違い、冒険心に富んだ誇り高き武士たちであったため、彼らに触発されるかたちで、高田屋の廻船業を弟の金兵衛に任せ、自らは幕府御用として蝦夷地開発へのめり込んでゆく。
 そして嘉兵衛は彼らに劣らないほどの功績を挙げる。その功績とはクナシリ航路の発見だ。
 クナシリ島とエトロフ島の間に流れる海流の影響でエトロフへの航海が困難を極めていた当時、嘉兵衛は島の間を流れる海流が3本であることに気づいた。海流にのみこまれないためにエトロフを一旦北上し、ある程度北上したら今度は海流に乗って南下する。それによって今までより容易に渡航できるはずだと考えたのである。
 その嘉兵衛の考えは的中し、難破することなく悠々とエトロフに辿り着いた。これが嘉兵衛によるエトロフ航路発見である。

 この作品では松前藩がアイヌ(蝦夷人)に対し収奪や拷問を繰り返していたことを司馬氏は強調している。彼ら(アイヌ)が文明社会での営みに不慣れであることをいいことに、松前藩および渡来してきた和人たちがアイヌを極端に差別し、そして騙し、時には生命さえも奪った。
 嘉兵衛が信頼を寄せる幕臣たちもこれを憂い、かつ南下するロシアに対抗するためにアイヌたちへの待遇を改善しようと努力する。もちろん嘉兵衛もその考え方に共感し、アイヌの能力を頼りにした。
 クナシリ航路を発見した嘉兵衛は、幕命によってクナシリ島の運営に乗り出す。それまでほぼ未開であったクナシリの運営を嘉兵衛はアイヌの人々と共におこない、15万石の成果を挙げた。

 19世紀の初め、ピョートル大帝以来、不凍港を求めて南下してきたロシア帝国が、カムチャッカ半島から千島列島に南下を始めたために、日本はロシアとの接触が避けられない状況になっていた。
 嘉兵衛がクナシリの運営をしている時期と時を同じくして、ロシア皇帝の使節レザノフが長崎に通商を求めてやってきた。しかし鎖国が国是である幕府はレザノフを長期間長崎に抑留した挙句、ロシアとは通商はできないと退けてしまった。
 この幕府の態度に憤ったレザノフは、部下であるフヴォストフら軍人に対して、日本遠征命令を下す。私怨による暴挙とでもいうのであろうか、フヴォストフらはレザノフの命令を実行し、蝦夷地にある日本の関連施設を襲撃した。
 この日本(幕府)に対する無謀な襲撃事件が、後のゴローニン事件へと繋がってゆく。

 ところで、『菜の花の沖』で司馬氏は、ロシア事情について第5巻一冊丸々割いて説明している。
 ロシアが南下し、日本との接触に至る経緯や、その根源となっている歴史についてもよく調べている。その内容には感嘆してしまう。さすがは司馬遼太郎といったところだ。

 フヴォストフによる襲撃事件の後、幕府は異国船(ロシア船)に対し、神経過敏になっていた。その時期、ロシア軍艦ディアナ号は千島列島の測量をおこなっていた。このディアナ号の艦長こそ有名なゴローニンである。
 ディアナ号は食料や水、薪を補給してもらうためにクナシリ島の日本陣屋にその意思を伝えた。日本側は使節をよこして応える素振りを見せながら、ゴローニンが油断したところを突いて召し取ってしまう。日本(幕府)側からすればフヴォストフ事件の報復であろうが、ディアナ号からすればだまし討ちである。
 不幸にもゴローニンが捕らえられてしまい、ディアナ号の副艦長リコルドは艦長が生存しているかを確認するために日本船舶を捕らえることを画策する。こうした経緯で、エトロフ島運営に携わっていた高田屋嘉兵衛は、航海の途中リコルドによって捕縛されてしまうのであった。

 嘉兵衛および高田屋で操船技術を学んだ紀州出身の文治を含む6人はカムチャッカ半島にあるペテロハブロフスクへと連行された。
 そこで日本との環境の違いや、栄養不足により、文治を含む3人が病で死に、カムチャッカの冬を越すことができなかった。そうした悲しい現実を目の当たりにしつつも、嘉兵衛とディアナ号副艦長のリコルドは互いの人間性を認め合い、そしてゴローニン解放に向けて意識を共有することになる。

 最終巻ではディアナ号による捕縛からカムチャッカでの苦難、そしてゴローニン解放までのストーリーが展開されてゆくが、何といっても嘉兵衛とリコルドという血の通った人間同士が、ある時は激しく口論し、またある時は共感しながらも、ゴローニン解放という目標に向かって進む姿は人種の壁を越えた『友情』の大きさを感じ取ることができる。
 また、人間が相手に気持ちを伝える時に、言葉以上に『信じる気持ち』が重要であることも私の胸に深く刻まれた。ゴローニン解放は、嘉兵衛とリコルドの信じあう気持ちが成就させたのだ。

 小説の最後に高田屋嘉兵衛が
「嘉兵衛さん、蝦夷地でなにをしたのぞ」
と郷土淡路の人に訊ねられたとき
「この菜の花だ」(嘉兵衛は晩年を淡路の菜の花に囲まれた屋敷で送った。)
と答えるのだが、その答えこそ、高田屋嘉兵衛の人生そのものを物語っているのであろう。
 『菜の花の沖』は本当、素晴らしい作品であった。

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 『菜の花の沖』最終巻の最後に、司馬氏は高田屋嘉兵衛に菜の花について
 「実を結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている搾油業者に売られ、そこで油になり、諸国に船で運ばれる。たとえば遠くエトロフ島の番小屋で夜なべ仕事の編み繕いの手もとをも照らしている。その網で獲れた魚が、肥料になってこの都志の畑に戻ってくる。わしはそういう廻り舞台の奈落にいたのだ、それだけだ。」
と語らしている。この言葉こそ小説『菜の花の沖』本質であるような気がしてならない。

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2009/02/14

安藤昌益の思想

今回も司馬遼太郎氏の作品から随想風に記してゆきたい。
 『街道をゆく』の第三巻より。
 司馬さんは街道をゆくの取材で八戸を巡り、そこで安藤昌益の思想に触れるのだが、その思想を著書で司馬史観的に変電(かみくだいて伝えること)している。
 
 安藤昌益の思想は『直耕(ちょくこう)』と呼ばれる。そこから説明してゆきたい。
 
 直耕について。
 
 

地上で生成された最初の存在は米であり、米から人や鳥獣虫魚が分化する。
 人の生産活動も「直耕」である。万物は、男と女、水と火というように対をなしており、男の本性は女、女の本性は男と、相互に対立するものの性質を自己の本性にしている。このような関係を「互性(ごせい)」という。
 「直耕」を行い「互性」を保つ限り、自然や社会、身体は矛盾なく調和している。このような時代を「自然の世」という。
 しかし、中国の聖人やインドの釈迦(しゃか)などが現れ、支配し収奪するものと支配され生産に従うものとの絶対的対立関係「二別」をつくりだす。「二別」に基づく諸制度を「私法」、「私法」の行われる時代を「法世」という。「法世」は「直耕」と「互性」が否定される反自然的状態なので、災害や闘争や病気が絶えない。
Yahoo!百科事典 より引用

 
 というものである。

 おそろしいほどの原始ノスタルジーとでもいうべきであろうか、もしくは人類史上最も根源への回帰を目指した思想家なのであろうか、よくもまあ江戸時代にこのような発想をしたものだ。
 『法世』と『自然の世』を対比させ、法世による収奪社会を否定する思想は無垢といっても過言ではない。
 
 司馬さんは安藤昌益が秩序そのものを嘘と定義したことや、その根拠(前述したもの)となっている思想を『煌びやかな幼稚さ』と称している。
  『煌びやかな幼稚さ』というものを漠然と表現する方法として司馬さんは『近親相姦』に例えて次のように説明している。

 

たとえばただの恋愛よりも近親相姦のほうがはるかに思想的だという立場成り立つとすれば、安藤昌益の思想はその煌びやかさに似ている。
 兄が手近である女の妹を犯す。妹と他の女とでは生理的に異なるところは一つもない。であれば恋愛という手間と金のかかる仕事はむしろ余計事で、恋愛という現象からおこる刃傷沙汰などもない。恋愛こそ人倫の邪道であり、兄妹姦こそが人倫の王道である。と説けば堂々とした思想になりうる。
『街道をゆく3』より引用

 なるほど。秩序というものは搾取階層の作り上げた虚構であり、根拠さえ崩せば秩序が安藤昌益のいうところの『互性』こそ正論であるとなびく可能性だってある。

 こうやって安藤昌益の思想一つを取り上げても、司馬史観というものは実に面白い。

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2009/01/31

菜の花の沖 -蝦夷地に命を懸けた男たち-

 今回の記事は多少随筆風で。
 
 今、私は司馬遼太郎氏の作品『菜の花の沖』を読んでおり、現在第4巻(全6巻)の途中まで読み進めています。
 淡路の極貧農家に生まれた菊弥少年(のちの高田屋嘉兵衛)は、貧しい家の食い扶持を減らすために隣町(新在家)へ丁稚奉公に出ます。嘉兵衛は奉公先の新在家で、網屋の娘おふさと恋仲になるのですが、それが当時の若衆間ではタブーであったため、逃げるように兵庫へと渡るのです。
 兵庫では廻船問屋『堺屋』を営む親類のサトニラさんを頼り、水主(かこ)の一員となり生活を始めます。強靭な肉体と柔軟な思考で数々の実績を積む嘉兵衛の存在は兵庫の大廻船問屋である北風荘右衛門の目にも留まるようになり、その荘右衛門の計らいで持舟船頭になるまでが前半のストーリー展開です。
 
 『菜の花の沖』というタイトルはおそらく淡路島が菜種油の産地であるので、その淡路の沖に出て名を挙げた男(高田屋嘉兵衛)に由来しているのかもしれません。多分。
 3巻以降は司馬氏得意の鳥瞰的手法で嘉兵衛以外の人物が多く登場し、簡単に言えば高田屋嘉兵衛を中心とした『蝦夷地』に想いを馳せる男たちの物語へと移ってゆくのです。

 4巻まで読んだ感想ですが、まず商売というのはいつの時代も『需要と供給』の上に成り立ち、かつそれに付加価値が加わることで購買意欲が増すということに気づかされました。樽廻船が幕末まで隆盛を極めたのは、江戸において関西で醸造された酒(灘の酒)が『ブランド』として重宝され、その需要が衰えなかったことが理由の一つに挙げられます。
 どの時代でもそうですが、商いで成功する人たちは購買層が何を求めているのかをよく把握し、かつ『需要と供給』のバランス保つことで巨利を築いてゆくのです。ブランドと供給調整が江戸の商業社会を支えたといっても過言ではありません。
 嘉兵衛に話を移すと、彼の凄いところはその利益のほとんどを設備投資にまわし、利益を可能な限り社会に還元したところです。多くの船を持つことで大量輸送を可能にし、庶民の需要を満たす。ケチケチしていては出来ないことです。

 第3巻の途中から物語の舞台は蝦夷地へと移ってゆきます。
 嘉兵衛は元々士族層を下層の人々から『収奪』をして営みを送る連中と忌み嫌っていたのですが、1500石積の辰悦丸を建造して蝦夷地に渡ってからはその考えが一変します。嘉兵衛の出会う武士たち(高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら)が前述の有閑な連中とは違い、冒険心に富んだ誇り高き武士たちであったため、嘉兵衛は廻船業を弟の金兵衛に任せて自らは幕府御用として蝦夷地開発へのめり込んでゆくのです。そして嘉兵衛は彼らに劣らないほどの功績を挙げるのですが、功績とは次のようなものです。
 クナシリ島とエトロフ島の間に流れる海流の影響でエトロフへの航海が困難を極めていた当時、嘉兵衛は島の間を流れる海流が3本であることに気づきます。海流にのみこまれないためにエトロフを一旦北上し、ある程度北上したら今度は海流に乗って南下する。それによって今までより容易に渡航できるはずだと考えたのです。
 その嘉兵衛の考えは的中し、難破することなく悠々とエトロフに辿り着いたのです。これが嘉兵衛によるエトロフ航路の発見でした。

 話変わって、この作品では松前藩がアイヌ(蝦夷人)に対し収奪や拷問を繰り返していたことを司馬氏は強調しています。彼ら(アイヌ)が文明社会での営みに不慣れであることをいいことに、松前藩および渡来してきた和人たちがアイヌを極端に差別し、そして騙し、時には生命さえも奪ったというのです。
 高橋三平、三橋藤右衛門、近藤重蔵、最上徳内ら幕臣はこれら憂い、かつ南下するロシアに対抗するためにアイヌたちへの待遇を改善しようと努力します。もちろん嘉兵衛もその考え方に共感し、アイヌの能力を頼りにします。

 殴り書きならぬ殴り入力という感じの記事でしたが、実際ここまでしか読んでいないので、全6巻を読破したらウェブページの方へあらためて記事をアップしようと思っています。
 この『菜の花の沖』も司馬氏の名作と呼ぶにふさわしい作品です。

 最後に、北方領土問題でこの領土問題を知らない日本人が多いそうです。さらにロシアによるの4島不法占拠が60年以上続き、この問題を我々の世代(30~40歳台)が生きている間に解決すべく、この『菜の花の沖』を多くの方に読んで頂き、北方領土の開発に命を懸けた先人とアイヌの功績を知ってほしい。私はそう願っています。

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2008/11/14

江戸幕府中興の宰相 田沼意次

 以前から私は田沼意次を『改革者』として賞賛し、彼が幕政で成し得た功績を当ブログでも紹介してきた。
 田沼意次に対し『賄賂政治家』のレッテルを貼り、改易せしめたのは『寛政の改革』で知られる松平定信である。定信は御三卿の一つ田安家の次男として生まれたにも関わらず意次の計略によって将軍になれなかった私怨があり、その恨みが意次のすべてを否定する思考に結びついたのかもしれない。
 発想を変えれば寛政の改革は定信の恨みが幕政として現れた結果なのかもしれない。田沼政治の否定が寛政の改革なのだからそう考えても不自然ではないであろう。

 さて、あらためて田沼政治を振り返ってみる。
 1745年、吉宗の嫡子家重が第9代将軍に就任すると意次も家重とともに江戸城本丸に移り、2年後には小姓組番頭格、さらに翌年には同組番頭、そして1751年に側衆側用取次(側用人)と破格のスピード出世を遂げた。これは将軍家重の覚えがめでたいだけではなく、周囲の幕閣らから意次の政治手腕を高く評価されていたことが裏付けられた結果であろう。
 また、意次が父から受け継いだ知行地はわずか600石、それをわずか数年のスピード出世により1万石の大名に列せられる訳だから当時の身分制度を考えると異例中の異例である。
 これから述べることはあくまでも私の憶測であるので確証はまったくないのだが、意次の政治手腕はその後の政策を見てもらっても分かるように非常に卓越したである。しかし、この出世は能力そのものを評価されての結果オンリーではなく、幕府の官吏に対する『賄賂』攻勢があったこともなきにしもあらずではないだろうか。わずか600石の貧乏旗本が将軍の側近くに仕えることなど江戸封建社会においては難しいところ、それを身に沁みて分かっている意次だからこそ『賄賂』という戦略を用いた可能性も否定できない。
 出世(ダーティーな手法)を重ねる上で、意次自身に商業資本よる財政再建の思想が芽生え、田沼政治と呼ばれる重商主義が発展したとも考えられるが如何に。

その田沼政治であるが、意次は一体どのような政策を実施していったのかを紹介しよう。

①予算制度の確立
 田沼意次が吉宗から政権を引き継いだ(家重・家治は将軍ではあったが幕政には殆ど関与していないので、この表現を使用させてもらった。)時、吉宗による緊縮財政と新田開発の結果、火の車であった幕府財政は何とか黒字へ転換することに成功した。しかし改革で転換した黒字収支も一歩間違えれば再び財政は赤字に戻ってしまう恐れがある。そこで意次が考えついたのは『予算』制度である。
 意次は幕府の主要機関へ予算を割り振り、その額で賄わせることにした。もちろん大奥の予算も大幅に削減している。
 『田沼は大奥のご機嫌を取り政権の維持を図った。』
 と言う通説もこの予算制度の導入を考えるとご機嫌取りをしていたとは考えられず、この事実が意次の財政再建政策実施が本気であったことを示している。
 この手法で重要な機関への予算を増やし、大奥のような浪費の多い機関への予算を減らすことで幕府財政の安定を計った。

②税制改革
 江戸時代、税制の根本は農民の収穫を一定の割合で年貢として徴収することであった。この制度は現代で言う直接税(所得税・住民税)にあたるもので、仮に不作であった場合でも年貢を納めなければならず、一揆などが発生する原因ともなり政情も不安定になりかねなかった。
 そこで意次は直接税を引き上げない代わりに間接税(現代では消費税等に該当)を導入しようと考えたのである。その名も『流通税』。意次は現代の消費税のように個人に事業者を介して課税することは難しいと考え、取扱商品ごとにグループを作らせ、そこへ課税する方式を導入した。
 ところがそのグループは納税するかわりに流通上の独占権を与えろと主張し始め意次はそれを容認した。それこそ田沼賄賂政治の代名詞とも言われている『株仲間』であった。
 ここまでの説明でも理解していただけたと思うが、意次は賄賂を受けるために株仲間を奨励したのではなく、そこから徴税することで財源を確保したかった思惑があったために株仲間を組織させたのである。
 ただ、その後株仲間が既得権の保護を名目に意次に対して賄賂なるものを贈ったかどうかは定かではない。もしかしたら贈っていた可能性もあるだろう。

③通貨の統一
 『江戸の金遣い・大坂銀遣い』
 江戸時代、東西で流通する貨幣が異なっていたためこのような言葉が使われていた。これが国内経済発展の妨げになっており、意次は早急にこの状況を打開しなければならなかった。

※北朝鮮では自国の通貨ウォンの価値がほとんどないために、観光客にドルを要求することがある。このように流通通貨が違うことで経済成長の妨げになっていることを示している悪い例として多くの人々が知るところであろう。意次はこのような経済成長の妨げとなる障害を取り除こうとした。18世紀に生きた意次が現代に生きるキム・ジョンイルよりも格段に優れた政治家であることが分かる政策である。

 そこで意次は経済発展を推進ために通貨の統一を図るのだが、すでに流通している金銀を回収して新たな通貨を生産することは容易ではない。そこで意次は金銀の交換単位を統一することで通貨の流通を円滑にし、さらに『南鐐二朱判』という金の単位を持った銀価を生産(南鐐とは極上の銀の意味)することで全国の通貨を統一しようと画策した。ところが志半ばで失脚し、南鐐二朱判も松平定信の手により生産中止となってしまう。


 このような意次の経済政策が功を奏し、幕府財政は171万7529両という第5代将軍綱吉以来の備蓄金最高値を記録している。 (ウィキペディアより参考)
 田沼意次は賄賂を受取った汚職政治政治家だったかもしれない。しかし清い流れだけで民衆が幸福になるかといえばそれは違う。緊縮財政という名のもとにある宰相が我が日本を格差社会に追い込んだ事実は多くの方の記憶に新しいはず。そう考えると幕府という権威が先導して積極財政を推進し、経済の活性化を促した田沼政治は『負』だけではない『正』の部分も評価されてしかるべきであるし、また評価していただきたい。
 今、この悩める日本の手本となるのはもしかしたら田沼意次という有能なエコノミストの功績かもしれない。

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2008/09/20

日本史探求を振り返る 3

 過去の記事を読んでみると、意外と江戸時代の学者について取り上げてたりする。華岡青洲に伊能忠敬、そして二宮敬作、有名なようで日本人には忘れられている偉人たちだ。でも結局はこの方々がいなかったら江戸期において日本の文明水準は向上することはなかったと言っても大袈裟じゃないかもしれない。今でこそ麻酔の調合・地図作成・語学・医術は当然のように学ぶことができるが、鎖国時代の江戸期にあってはそれこそ試行錯誤の連続であっただろうし、オランダ語の書物だって訳すことが非常に困難であったはずだ。そんな逆境を乗り越えて偉業を達成した彼らこそもっと称えられてしかるべきだと思うが如何に。
 そんな偉人たちの中でも、私が心の底から「すげぇ」と思えるのが伊能忠敬だ。ゆかりの地である佐原では「チュウケイ先生」と呼ばれ今でも親しまれているという。
 つい先日だが、NHKのあるTV番組を見ていたら、この伊能忠敬を取り上げていた。仕事に行く前に少し見た程度なのだが、どうやら中学生向けのような番組であったらしい。私の知的水準は中学生レベルかもしれないので、私にとっては分かりやすい内容に仕上がっていたと思う。
 番組の中で、紹介されていた話だが、明治初期に英国海軍が日本沿岸の測量を実施し、途中まで作業を進めたのだが、その過程で手に入れた伊能図があまりにも完成度が高かったので、途中で測量を止めて伊能図を基に英国版日本地図を作成というのだ。当時の英国海軍は地図の作成において世界一の正確さを誇っていたのに、その彼らを驚嘆させた伊能図の存在は現在でも日本が世界に誇れる名品であることは間違いない。浮世絵や茶器、刀に鎧と日本が世界に誇る名品たちの中でも、伊能図はもっとも輝いていると私は信じている。

Inouzu1
これを五十の手習いで始めたってんだからすごい。

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2008/09/11

薩摩兵児の末裔

 来年の大河ドラマ天地人のキャストについて、私個人の意見だが観る気が失せる配役であり残念で仕方がない。
 昨年放送された風林火山は、ゴンゾウの演技が素晴らしく、葵徳川三代以来の名作として高い評価のできる作品であった。今年の篤姫の配役は「?」であるが、放送時間になればチャンネルを合わせる気にさせてくれるので及第点は与えられる。主役の宮崎あおいさん(演出家との確執云々が言われているが・・・)の演技力は評価出来るし、島津斉彬・久光の配役もイメージに合っている。ただ、大久保一蔵と和宮はかなり厳しいと思うのだが、ご覧になられている方はどう思っているか少し聞いてみたいところだ。
 あっそうそう、天地人だが配役が謙信と景勝以外はどうも気に入らない。気に入らないから見ないんだけど、やはり歴史に名を遺した偉人には現代人が持つイメージってのがある訳で、ベストな配役で言えば伊達政宗=渡辺謙とか徳川家康=津川雅彦といった具合である。視聴者の持つイメージも崩さないような配役って重要なはずなんだけど、天地人はそれを無視しているとしか思えない。それとも視聴率的に篤姫以上を目指そうとしているため配役のイメージにこだわってはいられなかったのか?とりあえず配役についてはホームページで確認していただきたい。

 あぁタイトルから思いっきり話が逸れてしまったが、先日近代警察の父と呼ばれる川路利良についてググッていたら、とても興味深いサイトに辿り着いた。asahi.com鹿児島という朝日新聞のサイトなのだが、そこに薩摩のために尽くし偉人として崇められている薩摩兵児の末裔が紹介されていた。前述の川路利良や理不尽な幕命で木曽川の大規模治水工事の指揮を執った平田靱負、薩摩自顕流の使い手で人切り半次郎と京で恐れられた中村半次郎、西郷の懐刀村田新八、言わずと知れた倒幕の立役者大久保利通西郷隆盛などの末裔の方々が先祖に対するそれぞれの想いについて語っている。
 薩摩の偉人といえども、川路利良や大久保利通などは後年薩摩を討つ側に回ったため、つい最近までは鹿児島に銅像を建てることすら躊躇う空気があったようで、銅像は没してから大久保は101年(1979年)川路は120年(1990年)の歳月を経て鹿児島の地に建てられた。こんなごく最近まで建てることができなかったことを知り、逆に鹿児島の人々がどれだけ西郷を慕っているのかが少しだが理解できた気がする。
 このように色々な因縁やしがらみはあると思うが、今を生きる子孫が偉大なる先祖へどのような想いを抱いているのかをご覧になっていただければと思う次第である。

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2008/09/07

日本史探求を振り返る 1

 この3年数ヶ月、数多の記事をアップしてきたが、それらの記事を読み返し、再検証等々してゆこうかと思う。
 まずはこの日本史探求で一番最初にアップした記事の主人公・保科正之について、現在の私が思うところ述べてみたい。

 保科正之に関心を持ち始めたのは2000年に放送された「葵徳川三代」の影響によるところが大きい。何せ徳川家光に異母兄弟がいたことすらあのドラマを観るまで知らなかったのだから。
 保科正之については会津史研究の第一人者である中村彰彦氏がタイトルもそのもの「保科正之」という新書(中公新書)を出版していたので、当時早速購入したのだった。
 私は、中村氏が著した保科正之を夢中になって読み、すっかり保科正之教の信者の如くになっていった。彼(保科正之)の将軍後見職としての実績は実に見事であり、武断政治から文治政治への過渡期を柔軟な政治姿勢で切り抜いていった有能な政治家として心から尊敬の念を抱くようになった。
 現在、私のその気持ちは当時ほど熱いものではないが、彼に対して尊敬の気持ちは抱き続けている。

 また以前の記事でも取り上げたが、保科正之を主人公とした大河ドラマを実現させるため、会津と高遠の有志の方々が運動を始めた。織田信長や坂本龍馬といった「画になる漢」は常にドラマ化され日本人の中に英雄像が完成されているが、時代劇でもほとんど登場することのない保科正之が大河ドラマの主役として登場したらどんなに画期的で、どんなに素晴らしいことであろうか。
 メディアは戦国時代や幕末、または忠臣蔵、源平の合戦、太平記という定番ばかりをドラマ化している。そうでなければ視聴率が獲れないのは分からなくもないが、歴史好きな人々にとってはそれでは物足りないはず。なので是非2010年の大河ドラマは保科正之で進めてほしい。

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2008/08/30

妖刀 村正

 日本刀のブランドに「村正」なるものがある。私自身、刀コレクターではないので詳しいことはしらないが、戦国時代に伊勢桑名で生産されていたものらしい。
 村正の詳細についてはウィキペディア等でお調べ頂くとして、今回は徳川家と村正との忌まわしい関係について紹介したいと思う。

 徳川家康の父(広忠)・祖父(清康)はご存じのとおり三河の小大名であったため、下剋上の世にあっては求心力が弱く、故に家臣により惨殺されている。家康の若き日が不遇の時代であったといわれているのはこの小大名の家に生まれたためであることは周知の事実である。
 その後、三河を保護国として扱っていた今川義元が桶狭間において戦死したため、家康は三河で再起し、義元を倒した織田信長の盟友として心骨を砕いて働いてきた。
ところが、その盟友信長も、家康の利発な嫡男信康を「武田との内通あり」という嫌疑をかけ、家康に命じて自害させている。

 と、ここまで家康不遇の時代について簡単に述べてきたが、実はこれらの出来事には村正という刀が深くかかわっているという。
 まず、祖父・父が家臣に討たれた際、用いられた刀が実にこの村正であり、また嫡男信康を介錯する際に用いられたのも村正であった。家康、いや徳川家にとって最悪の事態にかかわった村正、何とも忌まわしい刀であったことか。
 その後家康は太閤秀吉の治世を持ち前の「したたかさ」で切り抜け、遂に天下分け目の関ヶ原を経て徳川治世を迎えるのだが、徳川家にとって不吉な出来事に用いられてきた村正を徳川の世に生きる大名や旗本は忌避して帯刀しなくなった。ただ肥前鍋島家だけは家宝とし村正を伝えている。この事実は鍋島家が立藩当初から徳川家を快く思っておらず、それが幕末の肥前における地位を位置づけたのかもしれない。
 また、幕末において討幕を志す志士たちは好んで村正を帯刀したという。しかしこの志士たちの中にも非業の最期を遂げた者が多く、こうした経緯から村正が妖刀と呼ばれることになったのかもしれない。
 ちなみに、徳川の忠臣・本多忠勝の槍は村正であり、一概に徳川家に不吉な出来事をもらたらした訳ではなく、徳川家を天下をもたらした槍は村正であったことも事実である。

 妖刀村正…なんとも怪しげな刀だ。

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2008/06/26

今和泉島津家 墓所から謎の木箱発見

 暑い日と肌寒い日が交互に続く今の季節。このブログをご覧になっている方でも体調を崩されている方が少なくはないはず。私も寒暖の差に対応できるよう服装のセレクトはしっかりしゆきたいところだ。

 ところで私は今、夜の仕事をしているので、昼間に放送している番組をちょくちょく観ているのだが、先日の午後NHKの「お元気ですか日本列島」と言う番組を観ていたところ、鹿児島県指宿市にある今和泉島津家(篤姫の実家)の墓所の調査で、意外な発見があったと伝えていた。
 その意外な発見とは、今まで二代目当主の墓と言われていた墓の中から木箱発見され、九州国立博物館にあるX線CTスキャンで内部を調べてみたところ、その中には女性の髪の毛が収められていた。二代当主の墓から女性の髪の毛??さらに詳しく調べてみたところ、どうやらこの墓は二代当主の奥方様の墓であったのだ。では二代当主の墓はどこにあるのだろうか?これも程なくして判明した。
 それは当主以外の人物(幼くして亡くなったと伝わる人物)のものだと伝わる墓から同じように発見された木箱に記されていた成人を示す「居士」の文字により、そこが二代目当主の墓であったのである。
 このように、墓所を調査するだけで今までの概念を覆す発見がある訳で、陵墓参考地の調査が全面解禁される日が早く訪れることを願うばかりである。

※今和泉島津家についてはこちらのサイトで詳細が記されています。
Samurai World-薩摩紀行

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2007/12/16

二宮敬作 ―シーボルトに学んだ町医―

ここ2、3日やっと12月らしく冷え込んできて、夜になれば吐く息も白くなる。ただ原油価格が高騰しているのでヒーターを使いすぎないよう注意している。
原油高もそうだが、ここのところ物価が高くなってきて、無駄な買い物など出来やしない。物価高になると市民の怒りの矛先が時の政治権力へ向く傾向にある日本だが、来年あたりその不満がどういう形で意思表示されるのか非常に気になるところである。

さて、話を歴史に移すとしたい。
最近私が夢中で読んでいる故司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズだが、氏が宇和島を旅した時の話(街道をゆく14 南伊予・西土佐の道)に出できた人物に私は興味を抱いた。その人物の名は二宮敬作という。二宮と言えば金次郎こと二宮尊徳を連想される方が多いだろうが(現に私もそうであるが)実はこの二宮敬作は江戸末期に長崎において蘭学を学び、その後宇和島(正確には卯之町だが)で町医師として活躍した庶民の味方と呼べる人物なのである。さらにあの有名なシーボルトの娘イネにオランダ語を教え、イネが日本初の女医となる基礎を授けた人物でもあるのだ。
今回はこの二宮敬作について取り上げてみようと思う。

話が明治時代にまで下るが、地理学者の志賀重昴(しがしげたか)がライプチヒ版の「ドイツ人名辞典」を読み、日本人の名前が掲載されているか探してみた。しかしその数の少なさを嘆いていたのだが、どういう訳だかこの二宮敬作の名を人名辞典で見つけることが出来た。それを見た志賀は
「二宮尊徳あるを知って、二宮敬作あるを知らず」(街道をゆく14 南伊予・西土佐の道より)
と述べたと言われている。
明治時代の日本で、しかも知識人である志賀でさえも知ることなかった二宮敬作と言う人物とは一体どのような経歴を辿ったのであろうか?

二宮敬作は1804年に宇和島藩の保内郷磯崎浦で生まれた。生家は半農半商の身分であり、農業のかたわら酒の小売などもしていたと言う。
敬作は16歳の時に
「長崎へ出て蘭学を学びたい。」
と両親に告げ、磯崎から長崎へ向かった。
当初長崎では通詞などからオランダ語を学んでいたが、途中シーボルトが来日したので彼の教えを受けることになる。これが敬作とシーボルトとの関係の始まりであった。
敬作は植物学に興味を持ち、シーボルトも
「熱心な植物学者」
だと評価している。また、敬作が採ってきた高山植物に「ケイサキー」と言う学名をつけたあたりからも、シーボルトが敬作に対して学者として高い評価をしていたことを物語っている。このことが、後に「ドイツ人名辞典」に名が載るきっかけとなるのかもしれない。

1828年、伊能忠敬により作成された日本地図をシーボルトがオランダへ持ち出そうとする事件が発生する。俗にいうシーボルト事件である。敬作はこれに連座し、長崎を追放されてしまうのである。
長崎を追われた敬作は、故郷磯崎に戻り、さらに3年後には宇和島藩卯之町で町医を開業するのであった。
司馬遼太郎氏は敬作が卯之町で開業したことを

侍の町である宇和島よりも町人の町である卯之町を選んだのは、あるいは敬作の生涯を特徴づける反骨とは無縁でないかもしれない。

と街道をゆくの中で評している。利益よりも医師としての信念を貫き診察に応じた敬作を町民たちは「医聖」と評して慕っていたという。

二宮敬作は、蛮社の獄で国事犯として捕らえられ、江戸の火事に紛れて脱獄してきた高野長英を卯之町の自宅に滞留させている。(敬作と長英はシーボルト門の同窓である)
長崎を追われた敬作の開業を認め、脱獄者である高野長英を藩に招いて蘭学を教授させた宇和島藩藩主・伊達宗城(だてむねなり)のしたたかさは先祖である伊達政宗のDNAをしっかり受け継いでいるようだ。

その後、敬作はおイネさんを始め多くの後進に医術指導をしながら晩年を過ごしたが、幕末動乱期の1862年その生涯を閉じた。
敬作は開国主義者であったと言う。ゆえに攘夷論者を
「攘夷など馬鹿なことを言いおって」
とののしった。
そんな敬作を司馬遼太郎氏は
幸い、攘夷テロリストの全盛時代というべき文久2年(1862年)に病死したからよかったが、さもなければ流行の天誅ということで殺されていたかもしれない。

と述べている。
そう考えると、幕末(特に長州が京都で大暴れしていた時期)と言う時代は、時代遅れの思想が流行の最先端であり、開明的な思想の持ち主が保守派と呼ばれた時代であったのかもしれない。

参考書籍 街道をゆく14 南伊予・西土佐の道

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