カテゴリー「戦国時代」の11件の記事

2009/09/18

仕事帰りの電車で読んだ本

 私の話だが先月の下旬に転職し、営業の仕事を就いた。営業といってもメーカーにおいて小売店さまへ売り込みをするルート営業であり、保険屋さんのような個別訪問の営業ではない。ただ、移動が多く、起床時間が不規則になるため、今まで夜更けまで仕事し、翌朝8時前後に目覚めていた私にはかなりこたえる。疲労も蓄積しているのか、眼底出血までおこしている状態だ。
 あまり仕事の愚痴を長々といっても仕方ないので、この辺でやめておくが、要は私がいいたいのは仕事が忙しいので日本史に触れる機会がほとんどなくなってしまったことだ。
 梅雨の時期までは、頻繁にブログを更新したり、司馬さんの作品を紹介したりと日本史に触れる機会が多かった。しかし、転職前後からこのブログも更新しなくなり、歴史の”れ”の字も頭をよぎらなくなった。
 ストレスが溜まっていて日々考えることは仕事のことばかり。これではいけないと思ったので、今夜は帰りの電車の中で久しぶりに司馬さんの著作を熟読することにした。その作品は『豊臣家の人々』だ。
 『豊臣家の人々』は秀吉が一代で築き上げた豊臣家の中で生きた人物を、独特の司馬史観により描いている名作である。今夜は秀吉の妻おね(高台院)の章と、弟小一郎(秀長)の章を前半部分だけ読んできた。
 司馬さんの描く豊臣家の人々は作品の中で確実に生きている。茶々や石田三成などの近江派を疎ましく思うおねや、私怨で三成ら近江派を打倒したい加藤清正など、その時代々々での人間関係やしがらみ、そして新興貴族の豊臣家に翻弄される秀吉の近親者たち。この作品はこれらの人物の性格的描写を見事に描き出しているのだ。
 この記事では作品の内容を詳しく記さないが、司馬さんが新興貴族の豊臣家をどう考察し、その一族の”家”に翻弄される人々の姿をご覧になりたい方には、この作品はオススメの一冊でる。多くの人にぜひ読んでもらいたい。
 最後も私の話になるが、仕事が終わって疲労困憊していた状態でも、司馬さんの作品を読み始めたら疲れそっちのけで熟読してしまった。私のストレス解消法は日本史、特に司馬さんの小説を読むことなのかもしれない。

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2009/06/06

小説『覇王の家』

 模倣に模倣を重ねて『覇王の家』を築き上げた徳川家康。
 彼がどのような手法で盤石な政権基盤を築き上げたかを、独特の司馬史観で考察したのが、この『覇王の家』という作品だ。

 物語の前半、駿河で人質生活を送る家康は、今川家の軍師である太原雪斎からこんな言葉を聞く。
 

独創や創意、頓知などを世間の者は知恵というがそういう知恵は刃物のように危険で、やがては我が身が満身になり、我が身を滅ぼす。

 さらにつづけて
 
そこへゆくと、物まなびの心得ある者は、古今東西のよき例をまねるゆえ、一つの癖に陥らない。それには何がよいかというと、よいものを選ぶ心をつねに用意しておかねばならず、そういう心を持しているためには、おのれの才に執着があってはならぬ。おのれの才がたかが知れたものと観じきってしまえば、無限に外の知恵というものが入ってくる。その中で最良のものを選ぶだけの仕事で済む。

 この雪斎の言葉を、家康が実際に聞いたかは分からない。また、家康がそれを意識的におこなったのかも今になっては知る由もない。ただ、徳川幕府がのちに『庄屋仕立て』と表現されるように、模倣による運営を基礎としていたことを、その事実が物語っている。

 また、家康自身が武田信玄の築いた軍制や、その統治方法を模倣することで、秀吉に対抗しうる勢力になったことをこの作品から知ることも出来た。

 自らを抽象化し、そして法人として生きた徳川家康。『覇王の家』は、家康の歩んだ軌跡と彼の人心掌握の術を知ることができる良作である。

 人心掌握と言えば、当時の徳川家臣団は郷土意識に根付いた強固な集団であった半面、徳川家(家康)の存在を自身らの利益代表者と観ていた。
 利益代表者である家康が、彼らの意思に反してその利益を反故にしてしまう、または利益を共有することをしないときは、彼らは利己のために裏切る可能性があった。
 例えば、家康の腹心である酒井忠次は自身を面罵し、いつしか陥れようする徳川信康を嫌悪していた。そのため、自身の保身と利益の確保のために、信長に対して何の申し開きもせず、その瑕疵を信長へ滔々と述べてしまい、ついには信康を自刃に追い込んでしまったのだ。これは忠次の利益を害する信康を、その利益と保身のために殺したと言っても過言ではない。しかし、当時の家康は忠次を責めることなく、責めるどころか後々まで重用するのであった。
 この事実は、家康が個人的な感情に左右されず、一個の機関として抽象的に観じきっていたことを物語っている。また、こうしなければ家康が三河家臣団を統率することは不可能であったのであろう。
 家康の人心掌握術とは、このように自身を抽象化し合理的な判断におこなうことで、彼らの利益を損じないように気を配ることであった。それが家康の人心掌握の核となっていたはずだ。
 家康は、戦国時代の覇王と呼ぶに相応しくない人物かもしれないが、戦国時代を堰武させることは家康でなければ不可能だったのかもしれない。そんな事を”覇王の家”を読みながらふと思った次第である。

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2008/09/10

戦国武将

 現代に生きる日本人の戦国好きは相当なものである。戦国時代を舞台としたドラマを製作すれば割と視聴率が良いし、家庭用ゲームなどでも戦国時代を扱っているものが多く人気も高い。争い(戦争や紛争)に直接関与することがほとんどなくなった現代日本人にとって戦国時代とは戦うという本能、いわゆる闘争心がくすぐられる時代なのかもしれない。また、そのような時代を知略・謀略・政略といった権謀を用いて戦い抜いた戦国武将を、自己や現代の為政者などに投影して人間性を分析することも好むのが特徴だ。それだけ戦国時代は今に生きる人々にとって良くも悪くも魅力的な時代であるのだろう。
 少々小難しい前述となったが、私が仕事の帰りに聴いているJ-WAVEの番組に「PLATOn」という番組がある。毎回あるテーマについてその分野に詳しい方々をゲストに呼び、それを哲学してゆこうという趣旨の番組なのだが、一昨日のテーマが戦国武将であったので、いつも以上に興味深く聞かせてもらった。今まで私が詳しく知ることのなかった後藤又兵衛の存在や、伊達男という呼び名の由来、安土城の秘密など日本史初心者の私には大変感心させられる内容であった。
 番組の中では好きな戦国武将についてリスナーからメールを募集したのだが、やはり信長の人気は劣れ知らずといった感じで、信長以外では伊達政宗、今川義元などの名も挙がった。また、稀有なリスナーからは山内一豊に一票あった。千代さんの内助の功が有名な一豊を再評価してほしいという願望かもしれないが。こうしたアンケートを通じて感じたことは、やはり戦国時代に生きた武将はド派手であればそれに比例して人気も上がるということであろう。信長しかり政宗しかり。派手さが戦意高揚にもつながると彼らは理解していたのかもしれない。
 話が番組から逸れるが、以前このブログでも「天下を取ってほしかった武将」というアンケートを実施したが、結果はこんな感じだった。

伊達政宗 7%
武田信玄 16%
上杉謙信 18%
北条氏康 6%
織田信長 26%
明智光秀 15%
毛利元就 6%
その他 6%

 ここでも信長の人気は凄い。因習や儀礼などは一切重んじず、合理的な手段を好み、かつそこに情などはない。私の苦手なタイプの人間ではあるが、日本人には自身の持ち合わせていない破天荒さと強情さが魅力的に映るのであろう。
 信長が嫌いな私ではあるが、いづれは司馬遼太郎の「国盗り物語」を読んで、斉藤道三の視点から信長像に触れてみようと思っている。
 戦国時代、実際はどのような時代であったのか真実を知りたい。

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2008/08/30

妖刀 村正

 日本刀のブランドに「村正」なるものがある。私自身、刀コレクターではないので詳しいことはしらないが、戦国時代に伊勢桑名で生産されていたものらしい。
 村正の詳細についてはウィキペディア等でお調べ頂くとして、今回は徳川家と村正との忌まわしい関係について紹介したいと思う。

 徳川家康の父(広忠)・祖父(清康)はご存じのとおり三河の小大名であったため、下剋上の世にあっては求心力が弱く、故に家臣により惨殺されている。家康の若き日が不遇の時代であったといわれているのはこの小大名の家に生まれたためであることは周知の事実である。
 その後、三河を保護国として扱っていた今川義元が桶狭間において戦死したため、家康は三河で再起し、義元を倒した織田信長の盟友として心骨を砕いて働いてきた。
ところが、その盟友信長も、家康の利発な嫡男信康を「武田との内通あり」という嫌疑をかけ、家康に命じて自害させている。

 と、ここまで家康不遇の時代について簡単に述べてきたが、実はこれらの出来事には村正という刀が深くかかわっているという。
 まず、祖父・父が家臣に討たれた際、用いられた刀が実にこの村正であり、また嫡男信康を介錯する際に用いられたのも村正であった。家康、いや徳川家にとって最悪の事態にかかわった村正、何とも忌まわしい刀であったことか。
 その後家康は太閤秀吉の治世を持ち前の「したたかさ」で切り抜け、遂に天下分け目の関ヶ原を経て徳川治世を迎えるのだが、徳川家にとって不吉な出来事に用いられてきた村正を徳川の世に生きる大名や旗本は忌避して帯刀しなくなった。ただ肥前鍋島家だけは家宝とし村正を伝えている。この事実は鍋島家が立藩当初から徳川家を快く思っておらず、それが幕末の肥前における地位を位置づけたのかもしれない。
 また、幕末において討幕を志す志士たちは好んで村正を帯刀したという。しかしこの志士たちの中にも非業の最期を遂げた者が多く、こうした経緯から村正が妖刀と呼ばれることになったのかもしれない。
 ちなみに、徳川の忠臣・本多忠勝の槍は村正であり、一概に徳川家に不吉な出来事をもらたらした訳ではなく、徳川家を天下をもたらした槍は村正であったことも事実である。

 妖刀村正…なんとも怪しげな刀だ。

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2007/12/08

戦国時代の長崎について

12月も半ばを迎え、寒い日が続くと思いきや日中は15℃前後の気温なので非常に過ごしやすい。私が少年時代は12月と言えば耳がかじかむ程寒かった記憶があるが、昨今は温暖化の影響のためそのようなことはほとんどない。あと数十年後には日本に四季がなくなるのではと思ってしまう今日この頃である。

ところで話を日本史に移したい。
このブログをご覧頂いている方は日本を代表する港湾都市と言えばどこを思いつくであろうか?横浜、神戸…そして長崎が挙がるであろう。だがその長崎がかつてイエズス会の支配下にあったことを知っている方は少ないと思う。現に私も司馬遼太郎氏が著した「街道ゆく・肥前の諸街道」を読むまでは知る由もなかったのだから。
そこで今回は街道をゆくに記されていた内容をもとにどのようにして長崎がイエズス会が長崎を支配するに至ったか述べてゆきたい。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルが布教目的で日本に訪れたのは1549年である。ザビエルの所属するイエズス会は、布教と(ポルトガルとの)貿易を一体として行うことを目的とし、貿易だけの取引には基本的に応じない姿勢でいた。これは布教を受け入れさせることで領土的野心も実現させやすい土壌をつくることを想定していたためであろう。当時のポルトガルはこの手法で領土を広げていったことは多くの人が知るところだ。

イエズス会は日本での拠点を当初平戸に置いていた。平戸の領主松浦(まつら)道可は家臣をカトリックに入信させることで平戸における貿易の利を得ていた。しかし「宮の前の大喧嘩」と言う日本人とポルトガル人との乱闘事件が原因で宣教師たちは平戸から去ってしまうのであった。
平戸を去ったイエズス会宣教師たちは次に肥前の有力大名である大村純忠(すみただ)に接触した。平戸の松浦氏と敵対関係にある大村氏はポルトガルとの貿易を通じて経済発展と最新兵器を得ることを望んでいたのだ。
更に大村純忠はその特権を不動のものとするために、カトリック教徒となった。これが当時多くのキリシタン大名が誕生した経緯である。
純忠はポルトガルとの貿易をおこなう港として横瀬(現・長崎県西彼杵郡)を開いた。ところが開港から2年後、純忠と敵対する義弟・後藤貴明が横瀬に夜襲を仕掛け、港を壊滅状態にしてしまった。このため純忠はイエズス会のために新しい港湾を与える必要に迫られた。

新しい港は当初福田浦と言う現在の長崎湾をかこむ小半島付近であった。ところがここは港としては適さず、イエズス会はこことは違う港はないかと湾内を調査し、見つけた場所が大村純忠の家臣である長崎甚左衛門が領有する「長崎」であった。
純忠は長崎甚左衛門からこの地を取り上げ、大村氏の直轄領とする。気の毒にも甚左衛門は先祖伝来の土地を手放すことになるのだが、自身がカトリック教徒であったためか代替地さえもらっていないのに抵抗することなく純忠の命に従ったようだ。
そして1580年、大村純忠はイエズス会との間に次のような取り決めを交わした。

・長崎の町を「永久」に無償で贈与する。茂木(地名)および周囲すべての田畑を贈与する。
・死刑を含む裁判権を与える。
・入港する船舶の入港税、停泊税を永久に与える。
・ただし、ポルトガル船などこの港に入港する船からの物品輸入税は予に留保する。

このように純忠は長崎において関税以外の権利をすべてイエズス会に与えてしまったのだ。
私も戦国時代九州に多くのキリシタン大名が存在していたのは知っていたが、領土を割譲していたことまでは知らなかった。しかも有名な長崎をである。
もちろん割譲の背景には大村純忠の信仰による部分以外にも、経済的恩恵や敵対勢力からの防衛と言う意味で利点を見出していたのだろう。この考え方は群雄割拠の戦国時代であったからこそ思い付いたものであり、統一国家がおこなっていたら極めて非常識な発想である。
このイエズス会による長崎領有は豊臣秀吉が九州を制圧する1587年まで続くのであった。

Nagasakiport
長崎港。まさか戦国時代ここがイエズス会教会領であったとは・・・。
写真は夜景壁紙.comさまから拝借しました。

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2006/11/03

明智光秀は生きていた!?

Tennouzan_04_image06_2明智光秀は山崎の合戦での敗北後、逃亡中に落ち武者狩りに遭い悲運の最期を遂げたと言われています。
・・・言われていますが、その死をハッキリと確認した人物は存在していないと言うのが通説です。そうすると死んでいなかった可能性もある訳です。
そう、光秀が生き残り違う人物の名で天寿をまっとうしたと言う伝説もあるのです。
ではその光秀生存説を前提として、生き延びた光秀のその後について推測してみようと思います。

①天海僧正説
天海僧正と言えば徳川家3代の将軍に仕え「黒衣の宰相」と言われ、齢108歳まで生き延びた人物であります。この天海僧正が光秀ではないかと言われる根拠が幾つかあるので紹介しましょう。

1.豊臣家を攻めるにあたり、口実や戦略を家康に提言した。
世に言う「方広寺鐘銘事件」は豊臣家により再建された方広寺の鐘銘に「国家安康・君臣豊楽」と記されていたことを「家康を二つに裂き、豊臣が君として栄えると言う願いを銘文として記したのだ」と天海が解釈したのです。そして豊臣に逆心ありと天海が進言したため、家康の大阪攻めの口実となった事件です。また大阪冬の陣での講和後に講和の条件には含まれていない城の内堀を勝手に埋めることを提案したのも天海であったと言われています。
このように豊臣家に対して徹底した敵視政策を提言した天海を、本能寺後に秀吉によって明智家を滅ぼされた怨念による所業だと考える人たちにより
天海=光秀
と言う説が生まれたようです。

2.天海の口利きで、本能寺の変にも従軍し、山崎の合戦に敗れた後秀吉により斬首された光秀の重臣斎藤利三の娘おふく(春日局)が幕府内で重用され、大奥の総元締めまで登りつめたこと。

この他にも天海に関しては諸説ありますが、よく言われる根拠はこんなところです。

②千利休説
これは少し無理があるとは思うのですが、光秀は自らが謀反人であるため天下を治めるのが不可能だとわかっていた。そこで山崎の合戦の前に秀吉に対して勝ちを譲ることを約束し、自らは頭を丸めて茶坊主となった。
そして光秀は千利休と名乗り、秀吉天下統一のブレーンとして活躍した。
と言う説です。確かに天下統一後に自害させられているところなどは、役目を終えて必要でなくなった光秀を使い捨てた感もあり、一笑に伏すことの出来ない事実のような気がします。

このように年齢そして政治的な背景から生まれた天海・利休の光秀伝説は興味深いものがありますね。


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2005/11/16

後北条家 パート3

今回で3回に渡って掲載してきた「後北条家」シリーズは最終回です。
氏康亡き後、第4代当主として北条家を継いだのは嫡男氏政でした。氏政は就任当初から父氏康の領土拡大政策を踏襲し、三国同盟崩壊以降、敵対関係にあった武田氏と再び手を結ぶことによって北関東の武将たちを服属させ、下総国北部から下野国までに北条家の勢力を拡大します。また武田家が衰退すると今度は織田信長と手を組み関東の覇権を磐石なものにしていきます。ここまでの氏政は時世の流れ敏感に読み取ることが出来る有能な武将であったと思われます
時代は流れ・・・織田信長が本能寺で討たれた後に、明智光秀を山崎の合戦で破って関白へ就任した羽柴秀吉は、その類稀な行動力で三河の雄徳川家康や西国の毛利・島津らを服属させ、残る関東・東北の制圧を目指します。そして秀吉は「関東・奥両国惣無事令」を発令することによって、関東から出羽国・陸奥国に至るまでの大名同士による私闘を禁じるのです。これは明らかに氏政に対して「矛を収めて臣従せよ」とシグナルを送ったと考えられます。それに対して氏政は秀吉に対して臣従の意思を示す事なく、秀吉の上洛命令を拒否し続けます。
こうした氏政の対応が秀吉の逆鱗に触れ、ついに小田原攻めを検討します。
1589年10月23日、北条氏家臣で沼田城代の猪俣邦憲が豊臣方の大名真田昌幸の支城・名胡桃城を奪い取ります。秀吉はこの軍事行動を「関東・奥両国惣無事令」を破る敵対行為と判断、北条氏政に対して5ヶ条からなる宣戦布告状をつきつけ、ついに小田原攻めが決行されます。これに対して氏政は未だに勝算があると判断し、籠城戦を展開します。なぜ勝算があると考えたか?それはかつて上杉謙信や武田信玄が小田原城を包囲した時、父氏康は小田原城に籠城し撃退した光景が脳裏に焼きついているからでしょう。さらに東北の独眼竜伊達政宗らと同盟することで東日本連合軍ができ、秀吉を撃退できると考えていたことも挙げられます。しかし秀吉の戦力は氏政の想像を遥かに上回るとてつもない軍勢だったのです。具体的には兵力22万、兵糧20万石と言う数のものでした。この軍勢を用いて秀吉の小田原城包囲は開始されました。
この小田原攻めに際して東北の有力大名たちが次々に秀吉に帰順します。その面々は伊達政宗・最上義光・佐竹義宣ら氏政が同盟を期待していた大名たちだったのです。このように東北勢の救援が期待できなくなり、小田原城中の空気は徹底抗戦から降伏へと変わっていくのです。
戦局が北条不利と判断した氏政の嫡男氏直が、義父の徳川家康を介して、自ら切腹するかわりに城兵の命を助けるよう秀吉に求めます。それに対して秀吉は氏直には切腹を許さず、氏政と氏政の弟氏照の切腹を条件に降伏を受け入れました。
伊勢長氏から氏直まで約100年もの間、関東の覇者として君臨してきた後北条家はこんなにも虚しく、そして簡単に滅亡したのでした。
ちなみに後北条本家は滅亡しましたが、分家である氏政の弟の氏規の子、氏盛が河内狭山藩を1万1千石で立藩し、明治維新まで続いたそうです。

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2005/11/15

後北条家 パート2

後北条家の当主で、初代早雲と並び称されるのが3代当主の北条氏康です。彼は武田信玄・上杉謙信らと同じ時代に生き、また彼らと幾多の戦いを繰り広げた名将でもあります。
今回の後北条家第二弾はこの北条氏康の活躍した時代の話を取り上げていこうと思います。
1515年北条氏康は後北条家2代当主北条氏綱の嫡男として生まれます。
父の氏綱も早雲に引けを取らない名将で、小田原に本拠を移し、姓を北条に改めたのもこの氏綱の治世でした。そして何よりも父の野望である関東一の戦国大名に登りつめたことは氏綱最大の功績と言われています。
この有能な父の跡取りとして期待され帝王学を叩き込まれた氏康は、1541年に氏綱の死によって後北条家第3代当主となります。
当主となった氏康は次々と領国拡大政策を計り、1545年に駿河東部の覇権を巡って今川義元と戦います。しかしこの戦いは決着がつかず今川と同盟を組む武田信玄の仲介によって渋々和議を受け入れます。氏康は翌年、標準を駿河から関東に切り替え、関東管領職である上杉憲政の上野国に攻め入り、上杉氏の所領を併合、関東での支配権を磐石のものとします。
こうして領国拡大を計ってきた氏康に対して、今川・武田の両家は畏怖の念を抱くようになり、それぞれの野望を達成させるために駿河国善徳寺で会談、同盟を結びます。これが有名な「今川・武田・北条の三国同盟」です。
この三国同盟は今川家の外交僧太原雪斎が「武田家は信濃、今川家は三河、北条家は関東が大事なはず。三家とも向う方向が違うのに争っては無益。三国が手を携えて難局を乗り切ってみてはどうか?」と提案したことがきっかけだったと言われています。
1559年氏康は家督を嫡男氏政へ譲ります。しかし隠居はせずに「御本城さま」と呼ばれ実権は自らの手に握っていました。やはり同盟を組んだと言っても、強かな甲斐の武田信玄や天才的戦術家で勢力を拡げる越後の長尾景虎、そして以前から敵対している房総の里見義弘など、周辺諸国に対して十分な警戒をしなければならず、呑気に隠居している場合ではなかったのでしょう。そしてついに越後の虎が牙を剥いてくるのです。
西の桶狭間で三国同盟の一角を占めていた駿河の雄今川義元が尾張のうつけ者織田信長に夜襲を受け打ち果てた1560年、北条氏康は北からの脅威に頭を悩ませていました。その悩みの種とは越後の虎こと長尾景虎です。
長尾景虎は氏康や信玄と比べたらまだ若く、しかも国力もこの二人に比べたら見劣りしていました。しかしその天才的な戦術で周囲を圧倒し、信玄との川中島の戦いでは北信濃を奪うべく1560年までに3度の戦いを繰り広げ、その戦いぶりは信玄以上とも言われる漢なのです。
1561年その景虎が関東の有力な戦国武将たち96000人!の軍勢を率いて小田原に兵を進めます。この時景虎は鶴岡八幡宮で上杉憲政から引き継いだ関東管領職の受領する儀式を行い、「関東管領からこの地を奪った賊の北条を討つ!」と意を決し小田原城を包囲します。
当初は軍勢の数や戦意などから景虎優位と見られていましたが、名うての戦上手で知られる氏康が簡単に敗れる訳がありません。氏康は早雲の代より60年以上かけて強固な堅城へと築き上げた小田原城に篭城、持久戦に持ち込みます。これが功を奏して景虎は兵士の戦意の低下を危惧し、20日余りで包囲を解除、小田原を落すことは出来ませんでした。
この時、嫡男氏政や若き武将たちは「あの長尾景虎をして落城させることが出来ない小田原城に敵なし!」と思ったはずです。この思い込みがのちに後北条家へ滅亡に導くことになるとは彼らは夢にも思わなかったことでしょう。
こうして、信玄・謙信と言う強敵を相手に引けを取らなかった名将北条氏康ですが、関東覇者として天下に名乗りを上げるも、天下統一を成し遂げることなく1571年にこの世を去りました。

次回は後北条氏最後の戦い「秀吉の小田原攻め」を中心に話を進めたいと思います。

ujiyasu
後北条家3代目氏康。
俗に3代目は天才肌が多い。足利義満・徳川家光・小泉純一郎・・・??etc

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2005/11/13

後北条家 パート1

今回アップした映像は、箱根の早雲寺にある後北条家歴代当主5人の墓所の映像です。
この後北条家とは戦国時代、小田原に城を構えて関東一円を支配した北条早雲を祖とする一族を指して言います。鎌倉時代に執権政治を展開した北条得宗家と区別するために「後」と表記しているようです。
さて、今回は小田原後北条家の興りから隆盛、そして滅亡までの話を3回に分けて取り上げていこうと思います。
まずは後北条家の興りについて。

小田原後北条家の祖・北条早雲(当初は伊勢長氏)の出自ですが、出生時期については今だに諸説ありはっきりした事実はわかりません。世に通説として挙げられているのは、1432年に備中の高越山城主・伊勢盛定の子として生まれたという説で、これが最も有力な説だと言われています。
長氏が歴史的史書に始めて登場するのは1476年のことで、今川家の家督相続の仲介役として登場します。
この伊勢長氏が戦国大名として立身出世するきっかけとなったのは堀越公方(くぼう)での内乱でした。伊豆韮山の堀越公方で発生した内乱に介入した長氏は、これに乗じて見事に堀越公方に代わり伊豆の支配権を得たのです。
伊豆を支配した長氏は、農民たちに対して年貢の軽減策を実施します。これが領民の心をつかみ伊豆支配の基礎固めに成功します。また長氏はこの時期に、「広い野原にそびえていた2本の大きな杉の根をネズミがかじりだし、やがてその杉を倒し、ネズミは巨大な虎に姿を変える。」と言う夢を見ます。要は関東を支配している2つの上「杉」家をたおし、関東を支配するのはネズミ年生まれ伊勢長氏だと言うのです。本当にこの夢を見たのかは定かではありませんが、長氏が関東に対して相当な野心を持っていたのは確かなようです。そして長氏は自らの野望である「関東進出」の拠点となる小田原城の奪取を計ります。
1495年、当時から難攻不落と言われていた小田原城を奪い取るために長氏は何とも言えない絶妙な計画を立て、それを実行しました。
まず、自分の領土内に生息する鹿やイノシシが小田原方面に逃げたので、狩人を小田原に入れる許可を当時の小田原城主大森藤頼からもらいます。その時長氏は狩人に変装させた兵士を小田原に進入させ、多数の牛の角へたいまつを取り付け、小田原城に突入させました!その状況に小田原の城内は混乱し、まんまと長氏は落城させることに成功するのでした。
小田原城と言う難攻不落の堅城を手に入れた長氏は、甲斐の武田信綱との戦いやら相模国の三浦義同を滅ぼすなどして相模国全域の支配権を確立します。
最後になぜ長氏が早雲と呼ばれているのか?ですが、伊勢長氏は生前に自らを「北条早雲」と名乗ることはありませんでした。後北条家二代氏綱の時代に北条姓に変えたため、江戸以降の軍記物では伊勢長氏を「北条早雲」と呼ぶようになったのが一般に「北条早雲」の由来と言われています。
こうして一武将から、国持ち大名となった長氏ですが、1518年家督を氏綱に譲り、翌1519年伊豆韮山城にてこの世を去ったのでした。
次回の後北条家の話は中興の祖として名高い北条氏康の話を取り上げていく予定です。

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2005/11/12

狸オヤジ

tokugawa-ieyasuこのブログをご覧になっている方は、家康がなぜ「狸オヤジ」と言われていたかご存知ですか?ご存知の方はちょっとした歴史通ですね。
狸と言えば「化ける」イメージがありますが、家康も実は化けていたのです。
彼は織田・今川の人質時代にこの化け方を身につけ、やがて周囲のほとんどが化けた家康に騙され、天下をも取られてしまうことになるのですが、何に化けていたかと言うと、そう凡人に化けていたのです。「私は野心なんてありません。あなたさまの仰せの通りに。」と顔では服従していても、内心では「バカだなぁ~俺がお前に従うわけないじゃん。今だけだよ、今だけ。」と実は野心満々の狸男だったのです。「面従腹背」していた訳ですね家康は。
家康は三河の領主松平家の後継として生まれるのですが、家康が征夷大将軍になる際、自分の出自は清和源氏(平安時代の清和天皇を祖とした一族であり、子孫として有名な人物は源頼朝)と名乗っていました。しかしこれが大嘘で、実は三河の土豪(土着の人間)の子孫だったのです。
鎌倉・室町それぞれ幕府の将軍は清和源氏の出自であったため、慣例として将軍になれるのは清和源氏出身の武士に限られていたのです。ある例を出すとサル秀吉が征夷大将軍になれなったのは、身分の卑しい百姓の倅だったからではなく、清和源氏の人間でなかったためなのです。
そうした慣例からか、家康は家系図を改ざんして自らを清和源氏と名乗り将軍の地位を手に入れるために大嘘をつくことになります。
狸オヤジは実にしたたかだった訳で、周囲(豊臣家や石田光成など)もそれに翻弄され、ついには天下まで取られてしまったのです。もしかしたら家康って本物の狸だったりして・・・・。

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