カテゴリー「飛鳥時代」の5件の記事

2008/11/08

藤ノ木古墳 23年目の真相

 もう23年も前のことなので記憶が曖昧なのだが、未盗掘状態の古墳が発見され、日本中が盛り上がっていたのをぼんやりと覚えている。その古墳は『藤ノ木古墳』と呼ばれ、被葬者が身に着けていた副葬品などから身分の高い人物の古墳ではないかとの報道がなされていた。しかし一体誰の古墳で、なぜ1つの石室に2人の人物が埋葬されているのかなどの疑問が未解決のまま10数年の歳月が経ち、近年はキトラ古墳と高松塚古墳の劣化問題に話題が集中したことから私の記憶からは『藤ノ木古墳』の文字は薄れていた。
 ところが先日、藤ノ木古墳の被葬者を特定できそうな重要な調査結果が新聞紙上を賑わし、その報道が私の記憶の引き出しから『藤ノ木古墳』の文字を引っ張り出してきた。その新聞報道は次のようなもので、『まさかそこから被葬者を特定してゆくか』と思わせるような興味深い内容である。

  金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。

 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。

 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。藤ノ木古墳の石棺には、ベニバナの生花が供花として石棺に納められている可能性があることが分かった。

 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。

 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗(あら)い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬-などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきよ)作った可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。
 11月1日 産経新聞

 『なるほど』と頷いてしまう反面、『そんな単純なもんなのかな?』と猜疑心もある。どちらの割合が高いといわれれば肯定したい部分の方が強いかもしれない。副葬品や古墳の形状も大事であるが、このような花粉という植物の特性などから探るって手段もあることに驚かされ、また感心した次第だ。
 もし、この記事のように穴穂部皇子が埋葬されているならば、急造りの古墳であったため、外観は粗末に見え盗掘に遭わずに1400年も現状を保つことが出来た可能性も十分に考えられる。科学的視点と歴史学的視点双方から見ても説得力のある調査結果であろう。
 そして、被葬者といわれる穴穂部皇子と宅部皇子だが一体どんな人物であったのか?これについても産経新聞に解りやすく掲載されていたので、記事を紹介したい。

藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)から見つかったベニバナの花粉は、石棺に納められた2人の被葬者像をみごとにあぶり出した。蘇我馬子によって殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。穴穂部皇子は仏教導入をめぐり、物部氏の勢力をバックに蘇我氏と覇権争いを演じた人物だ。皇位継承もからんだ血みどろの政争が繰り広げられた6世紀。石棺内に1400年間封印されたベニバナは、悲劇の皇子の運命を切々と物語った。

 穴穂部皇子について、日本書紀は暴虐な一面を記す。585年8月、敏達天皇が崩御し、翌年5月に埋葬するまでの儀式「殯(もがり)」の最中に、敏達の后・炊屋(かしきや)姫(のちの推古天皇)に暴行しようとして殯宮に押し入った。敏達の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に阻止されると、これを逆恨みして三輪君を殺害した。

 前園実知雄・奈良芸術短大教授が「穴穂部皇子は権力志向が強かった」と推測するように、敏達を継いだ用明天皇が病弱だったことから、物部守屋の後ろ盾のもとでポスト用明を狙った。しかし蘇我馬子が、かつて穴穂部皇子に襲われかけた炊屋姫と組んで、587年6月7日に穴穂部皇子を殺害した。

 その様子について日本書紀は「穴穂部皇子の宮を囲み、兵士が高楼(たかどの)に上って皇子の肩を射た。皇子は落下し部屋に逃げ込んだ。兵士は皇子を見つけ出して切り殺した」と生々しく記述。皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も翌日に殺された。翌7月、馬子は聖徳太子らと計って守屋も滅ぼし、ついに蘇我氏独裁体制を築いたのだった。

 ついに天皇の座をものにすることはかなわなかった穴穂部皇子。「ポスト用明」には弟・崇峻天皇が587年に即位したが、わずか5年後に馬子によって暗殺された。前園教授は「兄弟そろって馬子に殺害されたのはまさに歴史の皮肉」と語る。

 未盗掘で見つかった藤ノ木古墳は、権謀術策の歴史を如実に物語っていた。前園教授は「石棺内は埋葬された状況のままだったからこそ、花粉分析を含めた徹底した調査によって、被葬者像や埋葬時期を絞り込むことができた」と興奮気味に話す。

 ただ、これで被葬者が断定されたわけではない。金原正明・奈良教育大准教授は「ベニバナが保存用だとすると夏以外の埋葬の可能性も捨てきれない」と慎重な姿勢をみせる。豪華な副葬品の発見で「金色のファッション」と騒がれた昭和63年の石棺調査から20年。古代史のミステリーが、再び盛り上がりをみせそうだ。
 11月1日 産経新聞

 この藤ノ木古墳の調査結果を古代史ファンや研究者の方々はどのように捉えて新聞記事を拝見したのであろうか?私のような単なる歴史好きとは違う視点で見られている方も多いと思うので、今後ブログなどで関連する話題を検索し、興味深い記事などを探し、新聞報道だけには捉われない多角的な視点から被葬者について考えてゆきたい。

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2008/11/05

日本史探求を振り返る 5

 この日本史探求ではネタにつまると必ずといってよいほど新聞記事を引用し、それに対して私の拙い論評を載せてきた。なのでカテゴリーの『ニュース』をクリックすると他のカテゴリーに比して多くの記事が抽出されることに気づかされるであろう。
 言い訳をさせてもらうが、このブログというツールはそもそも新聞記事等に掲載されたニュースやサイトなどのURLを寸評つきで紹介することがメインであったといわれている。(※ウィキペディアより)
 ということは私自身『日本史探求』において新聞記事を紹介しながらあれこれ論評していること自体ブロガーとしては正当な行為なのかもしれない。と勝手に自己の正当性を主張しているが、結論としては新聞記事の紹介・論評であってもご覧頂いている方々に分かりやすく、そして批評に値する記事を提供できていればベストかなと思っている。
 長い言い訳であったが、では本題へ。
 私が新聞記事を紹介する際に記事を検索するのは決まって
『Yahoo!ニュース』
 であり、そこには多くの記事が紹介されている。そして驚くことに歴史関連の記事は毎日新聞のものが圧倒的に多い。『毎日新聞歴史頑張るな。』と関心していたのだが、この事件以来毎日新聞には失望した。せっかく考古学記事を丁寧に掲載していただけに残念で仕方がない。
 随分と前説が長くなったが、そんな毎日の記事を紹介してゆく中で私が最も興味を抱いたのは『聖なるライン』についてだ。聖なるラインとは
 

藤原京の中軸線から南へ直線を引いていくと、その直線上に多くの古墳が点在し、その直線上の古墳に埋葬されているのは天武天皇の皇子たちである。そのような理由から『聖なる』と呼ばれている。

 というものだ。
 その聖なるライン上にある古墳でも、いまだに被葬者がハッキリしていないのがキトラ古墳である。過去に何度もキトラの被葬者に関する記事を掲載してきたが、自分なりに『この人が被葬者ではないか。』と考えている人物が天武天皇の第一皇子である『高市皇子』、あの長屋王の父である。 
 高市皇子の可能性を示す根拠を挙げるとすると
 
 1.キトラ古墳の石室が造られた時期は調査の結果7世紀後半だと考えられる。
 2.石室の装飾から考察するとかなり身分の高い人物が埋葬されているはず。
 3.天武天皇の皇子たちの古墳が点在する『聖なるライン』上に存在する。
 4.キトラから発見された頭蓋骨の一部を分析したところ被葬者の年齢は、歯のすり減り具合などから50歳前半から60歳前半で、性別は骨の特徴から男性である。
 
 などである。
 この被葬者の件に関しては未だ確定されていないので、断定は出来なのだが、多くの研究結果が
 『被葬者は高市皇子』
 と伝えているように聞こえてくる。
 4に関しては高市皇子の死亡年齢は40代前半であると言われているのだが、当時の平均寿命なのを勘案すると老化の進行については現在の50から60代と見て問題はないと思われる。

 このように、キトラ古墳1つ見ても古代史は多くの謎につつまれているが、最新の研究技術がその謎を解明してくれることに期待したいものだ。

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2007/09/23

高松塚古墳の被葬者は誰か

昨今の解体作業が進み、今まで謎のベールに包まれていた構造が明らかになりつつある高松塚古墳だが、そこに葬られていた人物が誰であったのかは未だにハッキリしない。
その被葬者の話だが、地方紙の奈良新聞に連載されている「被葬者の迷宮」において、多くの研究者たちが独自の視点から「被葬者は○○だ。」と推論を展開している。それがどれもそれらしい検証であるので興味深く拝見させてもらった次第だ。
色々な説の中でも私が支持したいのは弓削皇子(ゆげのみこ)説石上麻呂(いそのかみのまろ)説である。
まず、弓削皇子説であるが、連載には次の理由が挙げられている。

1.火葬されていない被葬者
火葬された持統天皇以後の皇族たちは同様に火葬された可能性が高いと考えられる。弓削皇子は持統天皇が火葬される前に亡くなっており、高松塚古墳の被葬者は火葬されていないことから、この弓削皇子である可能性が高い。

2.怨念を封じ込める
弓削皇子は軽皇子(文武天皇)の即位に口を挟んで、大友皇子の第一皇子である葛野王から叱責を受けたことがある。また、万葉集に収録されている歌からもわかるように、異母兄妹で天皇の妻である紀皇女に想いを寄せたりして身分をわきまえない行為を重ねていた。そうした理由から弓削皇子は当時の皇族の中では異端的存在であったのであろう。また、天皇に不忠の人物として命を奪われる危険性も考えられた。
高松塚の被葬者には頭がないのだが、それは無念(-自らの主張を蔑ろにされたことや、恋心が成就しなかったこと。またはこれ以外にも朝廷の意向に従わなかったために不幸な最期を遂げた等々-)を遺して死んでいった弓削皇子の怨念を畏れたために、この世に復活できないように頭だけを取り除いて埋葬したためだと考えられている。

次に石上麻呂説であるが、また連載に記されていた理由を挙げてみたい。

1.壁画に描かれた人物から読み取れる被葬者の身分
壁画に描かれている人物像は、被葬者の身分を現していると京都大学名誉教授の岸俊男氏が指摘されていた。それを根拠に被葬者の身分を推測すると、従一位の身分にあるものだと考えられる。7世紀末から8世紀初めに一位の身分で亡くなった人物はいないのだが、死後その身分を与えられた人物が2人いる。藤原不比等と、この石上麻呂だ。
岸氏は壁画の変色の可能性を勘案して石上麻呂であるとは断定していなかったが、石棺の形式や被葬者と共に埋葬されていた剣の年代から分析すると、高松塚古墳は710年以後の古墳と考えられる。
もう一人の従一位藤原不比等は「延喜式」に埋葬地は多武峰にあると伝えられているので、それが事実であれば一層石上麻呂の可能性が高くなる。

2.火葬との関係
前述した持統天皇が火葬されたことにより、その後亡くなった皇族たちは火葬されることが慣例となった。しかし、天皇存命中はその権威の強さから従うことが多かった豪族たちも、死後は藤原氏の台頭でもわかるようにその権威は弱まり、豪族たちだけは大和の伝統である埋葬方法を続けた可能性がある。そうした背景から持統天皇より長く生きた石上麻呂が火葬されなかった可能性は十分にある。

3.竹取物語
竹取物語でかぐや姫に求婚する「いそのかみのまろたり」は石上麻呂がモデルであったと伝わっている。この「いそのかみのまろたり」はかぐや姫が望んだ「燕の子安貝」を求めて軒下の巣を探ろうと自ら籠に乗り込んで吊り上げさせ巣を探り何かを掴んだ。しかしバランスを崩して転落してしまい、子安貝だと思って掴んだものは燕の糞であった。
その後遺症と精神的ショックから「いそのかみのまろたり」は亡くなってしまうのだ。
さて、高松塚古墳の被葬者をX線写真で調べたところ、頚椎骨に「変形性骨変化」が確認された。これは高いところから落ちた時にその箇所を強打した際出来るものらしい。
竹取物語は創作だが、この「変形性骨変化」は石上麻呂の死と関連性があるのかは、詳しくはわかっていない。ただ興味深い調査結果であることは間違いない。

以上、興味深い2人の人物を取り上げてみたが、この2人以外にも奈良新聞の連載では考えられる人物を多角的な角度から検証をしている。興味がある方は是非ご覧頂きたい。
奈良新聞「特集 高松塚光源-第二部-被葬者の迷宮

Asukabijin_1
解体工事により出現した飛鳥美人。彼女たちはここに誰が眠っているのか知っている。
写真 文化庁提供

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2006/05/02

キトラ古墳

ご無沙汰しておりますm(__)m
世の中GW真っ最中ですが、皆さんは連休をいかがお過ごしでしょうか?連休期間中に日頃の疲れが癒せると良いのですが、家族サービスにうんざり・・・と言う方も多いはずです。頑張ってください(^_^;)
さて、話を歴史に移しますが、最近カビ問題や壁画の保存問題で何か注目を集めている高松塚古墳&キトラ古墳。飛鳥時代末期に作られたと言われる2つの古墳ですが、今回はそのうちの1つキトラ古墳について取り上げてみたいと思います。
キトラ古墳、何だか神々しい名称です。その由来については未だ謎が多いようですが、キトラと呼ばれている理由の一番有力な説として古墳の所在地が以前「北浦」と呼ばれていた事からそれが少し変化して「キトラ」と言う名称になったと言うものです。
名称の由来についても謎であるこのキトラ古墳ですが、一番の謎はやはり被葬者ではないでしょうか?被葬者については諸説あるようですが(私が以前読んだ本(確か黒岩重吾氏の著)には百済からの渡来人であるとの説を唱えてありました。)この古墳が作られた時期や、石室内の装飾からするとおそらく7世紀後半に亡くなった人物が被葬者であることは間違いないと思います。
ではどのような身分の人間が被葬者なのか?その疑問に答えるある有力な説があるのでご紹介しましょう。その有力な説の拠所となっているのが「聖なるライン」と言われるものです。
「聖なるライン」とは藤原京の中軸線から直線を引いていくと、その直線上に多くの古墳が点在していて、その直線上の古墳に埋葬されるのは天武天皇の皇子たちであると言う話から「聖なる」と呼ばれているのです。そしてこのキトラ古墳もその「聖なるライン」の上に存在しているのです。
そうするとこのキトラに埋葬された被葬者も天武の皇子の可能性が高いと思われますが、そう簡単に結論をつけるには証拠が乏しすぎるような気がします。しかしこの被葬者探しの一助となる研究結果が昨年発表され被葬者論争に一石を投じたのです。その内容は「キトラから発見された頭蓋骨の一部を分析したところ被葬者の年齢は、歯のすり減り具合などから50~60歳、性別は骨の特徴から男性。」と言うものです。
ここまで紹介してきた被葬者の条件「聖なるライン」・「50~60歳男性の骨」をもとに該当する人物を探していくと、ある一人の人物が浮かんできます。その人物の名は高市皇子。
高市皇子は天武天皇の第1皇子でありながら母方の身分が低かったため天皇になれなかった人物です。しかし天皇になれなかったとは言っても壬申の乱での活躍や、長屋王の父と言うことで日本史的には重要人物として扱われています。
高市皇子の死亡した年齢は40台前半とされていますが、分析結果の50台に近いと言う意味では被葬者として考えても良いでしょう。そして何より聖なるラインへの埋葬資格があります。こうしたデータを踏まえて考えてみると高市皇子の可能性が高いとは思いますが、そうである確たる証拠は何も発見せれていないのが現状です。証拠となるこのデータはあくまで高市皇子だと推測するためのものであって、確証するためのものではないのです。
ただ、一つだけ確実にわかっていることは7世紀後半を生きた高い位の人物だと言うことでしょう。
このようにキトラ古墳の謎を現代の技術を以って解明することも大事かもしれませんが、キトラのような歴史的に重要な史跡をしっかり保存して後世へ残していくことが現代に生きる私たちに課せられた本当の使命なのかもしれません。

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2005/03/29

蘇我石川麻呂

大化のクーデター(以下クーデター)の際、入鹿殺害の現場大極殿において殺害実行の合図となる「三韓の上表文」を読み上げる役を担っていたのが蘇我石川麻呂。私はこのクーデターになぜ入鹿と同じ姓を持つ人間が関わっていたのか不思議に思い今回調べてみることにしました。
蘇我石川麻呂は蘇我家の支族の子供として生まれました。支族に生まれたゆえに石川麻呂は朝廷内で冷遇されてます。なぜなら当時は蘇我本家(馬子から蝦夷、入鹿と続く系統)の権威は絶大で、例え同じ蘇我一族と言えども朝廷内では下流に甘んじなければならなかったからです。
石川麻呂には娘がいました。その娘の名は「遠智娘」。彼女は中大兄皇子の妃となります。このことがクーデターへの布石となるのです。そして蘇我本家を打倒するためクーデター計画を中大兄皇子らに打ち明けられます。石川麻呂からしてみればこのクーデターが成功し、中大兄皇子が天皇となった場合は「天皇の外戚」となれるかもしれません。石川麻呂は今まで本家から冷遇された恨みと、自らの権力欲のために参加を決意するのです
クーデター当日、「三韓の上表文」を読み上げる役を任された石川麻呂。しかし読み終えたのに入鹿殺害は実行されません。そのことによる極度の緊張のためか震え出し入鹿に怪しまれてしまいます。直後、中大兄皇子が入鹿の元へ走りより剣で斬りつけます。入鹿殺害・・・クーデターは成功しました。
クーデター成功の功績により石川麻呂は右大臣となりました。念願であった権力の中枢へ躍り出たのです。ところが石川麻呂の描いた新政権と現実の政権はかけ離れてました。そこには石川麻呂が望んだ「豪族の連合体」としての政権はなく、法と秩序が支配する律令制を目指した政権だったのです。
クーデターから4年後の649年、異母弟である蘇我日向が突如「石川麻呂に謀反の計画あり!」と密告します。孝徳天皇も「謀反の意志あり。」として身柄確保のため兵を派遣、石川麻呂は難波から大和へ脱出します。そして氏寺である山田寺金堂で自害してしまうのです。何とも儚き末路でした。
石川麻呂の娘で中大兄皇子に嫁いだ遠智娘は、鵜野皇女(のちの持統天皇)を出産。石川麻呂の血を継ぐ者たちは、皮肉にも彼が理想としなかった律令国家形成で大きな役割を果たすこととなるのです。

参考ホームページ 歴史日報

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