纏向遺跡と三輪王朝
戦後、良くも悪くも戦前の歴史観が否定されるようになり、万世一系といわれてきた天皇家に対しても新しい観点から研究されるようになった。そして現在では定説のような感じさえある王朝交代説が生まれる。
王朝交代説については、Wikipedia等で調べてもらえば分るのだが、簡単に言えば天皇を中心とする皇統は、途中断絶があり、それによって三輪、河内、近江の3つ王朝が交代して現在の天皇の系統に至るというものだ。
そして昨今は、日本における本格的な統一国家の誕生は、10代天皇の崇神天皇によって統治された三輪王朝からではないかといわれるようになる。記紀に記されたそれ以前の歴史は空想であり、その空想的な描写は、ヤマト王権の統治上必要な記述であったのだろう。
今回は空想的な話は省略したい。
さて、纏向遺跡が魏志倭人伝に記された邪馬台国の中心部であったと世間では騒がれているが、それよりも、記紀に記された崇神天皇時代の権力構造が纏向発掘により明らかなになっていることのほうが私としては興味深い。
纏向にある箸墓古墳の被葬者、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼であるかないかは正直興味がない。ただ、纏向から大規模な建造物の跡が発見されたことは、この倭迹迹日百襲媛命がそこで呪術的な行為をおこなっていた可能性は十分に考えられる。そして、それほどの建造物が建てられた時代が倭迹迹日百襲媛命の時代と重なるのならば、必然的に纏向が三輪王朝の黎明期から最盛期を知る地域となってくる。
邪馬台国という中国の歴史書だけに目が行ってしまうと見えてこないものが、違った角度で観察してみると、実は記紀の裏付けになっているのがとても面白い。三輪王朝を知るには纏向を知る、そんなことを思う今日この頃である。
最後に、三輪王朝と纏向の関わりについて産経新聞の記事を紹介したい。
纒向遺跡中枢域は“水の宮殿” 3方に河川と人工水路
邪馬台国の最有力候補地である纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった大型建物跡(3世紀前半)の一帯は、河川と人工水路で3方を囲まれていた可能性があることが16日、桜井市教委などの分析で分かった。“水の宮殿”を想起させる構造で、約半世紀後の初期大和政権の大王ともされる崇神天皇の宮の「瑞籬宮(みずかきのみや、水垣宮)」とイメージが一致する。邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿と、初期大和政権の宮の関連性や継続性を示す構造として注目されそうだ。
桜井市教委の調査によると、大型建物跡が出土した調査地は、周囲より1メートル以上高い「微高地」(東西約150メートル、南北約100メートル)の中心部。市教委は大型建物跡を囲むさくの内部を内郭、微高地の範囲を外郭と想定している。地形や発掘調査から当時、微高地の北辺と南辺に河川が東西に流れていたとみられる。東辺は未調査だが飛鳥時代の古代官道の上ツ道の推定ルートとほぼ一致している。
西辺は、幅8メートル以上、深さ1・4メートル以上の溝跡が昭和53年の奈良県立橿原考古学研究所の調査で発見されている。底面の土の堆積(たいせき)から、よどんだ水路ではなく、南北の河川とつながっていた可能性が高い。土器などから溝は3世紀前半にあったと考えられ、大型建物跡と同時期だ。これについて香芝市二上山博物館の石野博信館長は「溝は宮殿のある中枢域を水で囲むために人工的に掘ったのではないか」と指摘する。
卑弥呼の宮殿について魏志倭人伝は「宮室は楼観や城柵を厳かに設け」とあるだけで、水で囲われていたかは不明。だが、初期大和政権の最初の大王ともされる崇神天皇の宮が、古事記では「師木水垣宮(しきみずかきのみや)」、日本書紀も「磯城(しき)瑞籬宮」と表記。宮殿の周囲を瑞(=水)の籬(=垣)が巡っていたことが読み取れる。
寺澤薫・橿考研総務企画部長は「纒向遺跡の中枢域は清らかな水が流れる神聖な空間だったと想像でき、瑞籬宮の言葉の意味とも重なる」と話している。
産経新聞 11月16日
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