カテゴリー「古墳時代」の27件の記事

邪馬台国論争”@nifty投票”の結果

 「邪馬台国。実際そのような名前の国は存在しない。」
といえば大げさかもしれないが、邪馬台国という呼称は”魏志倭人伝”に記されていただけで、日本列島に住む人々はそんな呼び方をしていない。また、邪馬台国と呼ばれるクニを、日本列島に住む人々がどれだけ知っていたかについても、今となっては知る術もない。

 この邪馬台国と呼ばれるクニが一体どこにあり、どのような発展(衰退)をたどったのかという議論は、高名な学者から在野の研究者までの間で尽きない話であろう。しかしその所在地さえハッキリすれば、邪馬台国の実像というもがぼんやりと見えてくるのではないだろうか。
 私の思い込みかもしれないが、近畿であればヤマト王権のベースとなったクニであり、九州であればヤマト王権に従属したクニである可能性が高い。その見極めが困難なために、逆に邪馬台国論争がロマンとして取り上げられる訳だ。
 では邪馬台国が一体どこにあったのか、当ブログを閲覧された方々にそれを問うてみた。結果は以下のとおり。

九州説:37票 (37%)
近畿説:46票 (46%)
その他の地域:7票 (7%)
日本国外の地域:4票 (4%)
そもそも邪馬台国など存在しない:6票 (6%)

 箸墓古墳における調査結果の影響か、近畿説が一番高い得票数を得た。次いで九州説である。朝鮮半島から伝わった文明を濃厚に受け入れたであろう九州地方のクニが、魏志倭人伝を記した中国と交流が深かった可能性は高く、その背景から”邪馬台国=九州地方”は十分に考えられる話かもしれない。
 私自身は再三話しているように近畿説を支持しているのだが、その支持は正直まだ確信には至っていない。
 炭素年代法による調査や、三角縁神獣鏡の大量出土などの物証は近畿説であることを物語っている。いや、これは単にヤマト王権の原型が近畿に存在したことだけの物証であり、邪馬台国の所在とは関係のない話かもしれない。
 このように、考え出したらキリがない。それが邪馬台国論争なのだ。

 色々な意見や主張がある邪馬台国論争だが、所在地判明こそが日本の起源を知る重要な要素であることは言うまでもない。
 今後もこの邪馬台国論争を興味を持って見守ってゆきたい。

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『逆説の日本史』と邪馬台国の話

 先日、井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』を読み終えたのだが、その内容には少々疑問を感じた。
 井沢氏は作家であり、歴史学者よりも推論という観点では優れていると思う。しかし、井沢氏の悪いところは『資料至上主義者』と氏がいう学者たちを愚物のように卑下し、その卑下した部分から自身の推論の正当性を誇示しようとするところだ。
 2~5世紀にかけての日本には文字による資料がなく、資料と呼べるのは隣国の中国王朝の史書や好太王碑文といった類のものしかない。であるならば、重要になってくるものは、やはりそれらの資料や発掘調査による発見だろう。そのことは『資料至上主義者』の学者だけでなく、私のような無知な一般人でも思うところである。
 ただ、井沢氏やその他作家の方が古代史について推論を述べることは決して悪いことではない。私のように凡庸な人間と違い、多くの知識と高い推察力を持ち合わせている作家の方々の知恵をお借りることは、古代史の発展にもプラスになる。もしかしたら作家の中からシュリーマンのような人物が日本に現れて、邪馬台国の所在地を発見するかもしれない。

 駄文を長々と綴ったが、結局私が言いたいことは、資料も発掘も重要視しなければならないということである。特に発掘調査による数々の発見は、文字以上にその時代の背景を教えてくれる資料になる。
 箸墓古墳にしても、纏向石塚古墳にしても、そこから発掘された物が3世紀に近畿地方が大規模な政治連合を形成していたこと証明してくれた。その政治連合が”九州の邪馬台国”に滅ぼされることは考え難いのでないかと私個人としては思っている。ただ、近畿説を支持する私の潜在意識がそう導いているのかもしれないが、昨今の発見は近畿説への強力な補強材料になるであろう。

 最後に、その補強材料になるかもしれない発見についての新聞記事を紹介して今回の記事は終わりにしたい。

 

 桜井茶臼山古墳では、銅鏡の破片153個も出土した。昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40~50枚を副葬したとの見方も浮上。国内最多の40枚が出土した平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、福岡県前原市)を上回る可能性も出てきた。

 鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数センチ大に割れていた。60年前の調査では、邪馬台国の女王・卑弥呼に対し、中国から下賜(かし)されたともいわれる三角縁神獣鏡などが見つかっており、同研究所は鏡の種類の特定などを進める。

 古墳出土の銅鏡は、大和政権の大王が、大陸の王朝から下賜されたものを国内の地方首長らに配布して服属を誓わせたとの説や、鏡の光によって被葬者の魂を邪悪なものから守るための「葬具」といわれるなど、謎の多い副葬品。同古墳の鏡は、大和政権の権力構造を考える上でも重要なカギを握るとみられる。

 産経新聞 6月12日

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纏向遺跡古墳群の調査結果

 ご存知のように箸墓古墳の被葬者が、どうやら卑弥呼ではないかと報道されている。さらに今日、纏向遺跡の古墳群に関しても邪馬台国との関連性を思わせる調査結果が出た。
 纒向石塚古墳から出土した炭化物を測定してみたところ、結果は箸墓古墳と同様に3世紀前半の炭化物であるという。そしてその古墳が卑弥呼の側近であった人物の墓ではないかのかと伝えている。こうした科学的な調査により邪馬台国は近畿地方に存在した可能性が高いと記事では締めている。
 しかし、邪馬台国が近畿に存在したと確信するのは早計であろう。確かに3世紀前半に纏向を中心とした地域に大規模な勢力が存在したことは間違いない。しかも、その勢力が後のヤマト王権につながった可能性も高いであろう。ただ、魏志倭人伝に記されている邪馬台国が、その大規模勢力を指していたかどうかについては『魏』との関わりを証明する証拠がなければ断定できないはずだ。
 もし、近畿地方のある場所から、『親魏倭王』の金印でも発見されれば、邪馬台国の所在地を近畿と確定できるのだが、そうした確証が未だ発見されていない段階で、邪馬台国は纏向を中心に存在し、箸墓が卑弥呼の古墳であったと報道してよいものかが甚だ疑問である。

 邪馬台国近畿説を否定するような話をしてしまったが、私自身は今も近畿説を支持している。しかし、議論の流れが近畿であると決めてかかってしまうと、多くの研究者や古代史ファンの探究心が失せてしまうような気がしてならない。
 邪馬台国に関する資料が少ないからこそ、多くの意見を出し合って確証を見つけ出すことが重要だと考えている次第だ。

 最後に、冒頭で取り上げた話に関する新聞記事をここで紹介したい。 

纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内に集中する纒向石塚古墳(前方後円墳、全長96メートル)など国内最古級の古墳3基について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは31日、「放射性炭素年代測定法」によって3世紀前半の築造とする見解を発表した。女王・卑弥呼が擁立され、邪馬台国が隆盛した時期とほぼ合致し、邪馬台国畿内説を科学的に補強する資料として注目されそうだ。

 早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。

 纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末~3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り込まれることになった。

 また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220~260年ごろ、矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は220~240年ごろの築造の可能性が高いという。

 研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240~260年築造との見解を出しており、纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳(3)箸墓古墳-の順に築造された可能性が高いとしている。

 炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者については「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」としている。

 邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。

 産経新聞 5月31日

邪馬台国に関するアンケートですが、まだ続けていますので、ご協力よろしくお願いします。


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箸墓古墳の卑弥呼陵墓説についての続報

 昨日、箸墓古墳が卑弥呼の陵墓である可能性が高いと報道がされたが、なぜか考古学に関する報道が多い毎日新聞が沈黙していた。
 毎日新聞といえば、この一件(http://www9.atwiki.jp/mainichiwaiwai/)により報道の信頼性を失墜させ、各方面で忌み嫌われている新聞社である。しかし、私はその問題と毎日新聞の考古学に関する報道は分離して考えているので、今回の箸墓古墳に関してどのように論評してくるのかと期待して待っていた。
 そして先ほど、Yahoo!ニュースに毎日の記事がアップされたので、以下その記事を引用したい。 

箸墓古墳 歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから

 国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240~260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。

 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。

 歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240~260年を導いた。

 発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」と述べた。

 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。

 中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。

 毎日新聞 5月31日

 どうやら毎日新聞は慎重論である。以前から邪馬台国近畿説に関し、慎重な論評を続けていた毎日の性格を考えれば当然かもしれない。
 読売や産経は比較的近畿説関連の発見に肯定的であるのだが、毎日は畿内説に関して論評そのものが面白くなさ気であるように思う。いや、実際に面白くないのかもしれない。今後この箸墓古墳や纏向遺跡などで歴史的な発見がされた場合、毎日がどのように報道するのか、ある意味楽しみだ。

 このように、新聞各社によってその立場や論調が違うことは、多くの意見を出し合うことになり、それにより議論が盛んになる訳なので、今後も各社とも独自の論調で”邪馬台国論争”を報じてもらいたい。

 最後に、前回の記事でもお願いしました邪馬台国に関するアンケートですが、まだ続けていますので、ご協力よろしくお願いします。


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箸墓古墳

 まずは、昨日各メディアで報道された『箸墓古墳』の築造年代判明に関するの新聞記事をここで紹介したい。

箸墓古墳、240~260年築造 卑弥呼の死亡時期と一致 炭素年代で判明

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。

 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240~260年の範囲に相当したという。

 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。

 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

 産経新聞 5月29日

 この見出しをご覧になって、『死亡時期と一致』という文言から純粋に「箸墓が卑弥呼の墓」だと思われた方いますか?
 私から言わせれば、実にいい加減な見出しだと思う。
 卑弥呼が死亡した時期を記しているのは『梁書』と呼ばれる中国の歴史書で、6世紀に編纂されたものである。300年以上も前のことを、克明に記せるかどうかということは、疑わしい限りであり、少なからず編者の創作も含まれているだろう。
 また、炭素年代測定法によって、箸墓の土器がその年代のものだと判明したというが、その時代に崩御された倭王(もしくは有力豪族)は卑弥呼に限らないはずだ。
 そんなことを言い出したら切がないので止めるが、曖昧な証拠で箸墓を卑弥呼の陵墓と推測するのは、何だか腑に落ちない。
 しかし、私自身は邪馬台国畿内説支持者であり、その理由はこの記事(http://j-history.cocolog-nifty.com/misakijapanhistory/2008/11/4-6690.html)で述べている。
 結局、邪馬台国論争を決着させるには、その陵墓の埋葬者が魏に遣いを送った証拠(親魏倭王の金印)でも発見されない限り、ケリをつける確証にはならないであろう。

 今回の分析結果や報道に関して、少々懐疑的な意見を述べてみたが、素直に読み取れば、これらが卑弥呼と邪馬台国のナゾを解く鍵になることは間違いない。
 また、日本書紀には箸墓古墳の被葬者として、『倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)』の名が記されており、その存在は魏志倭人伝に伝わる卑弥呼に類似している。
 肯定的に考えるのであれば、魏志倭人伝や日本書紀に記されている内容の裏づけが、最新の技術によって解明され出したと言えるだろう。
 現在、纏向遺跡の本格的な調査も進んでおり、近畿説にとって追い風であることはいうまでもない。

 最後に、邪馬台国に関するアンケートにご協力をお願いします。

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国民的ミステリー邪馬台国本格調査へ

 『邪馬台国は一体どこに存在していたのか?』
 この疑問に対する明確な答えはまだ出されておりませんが、昨今の発掘調査などを勘案しますとその答えは近畿説に傾いているような気がしてなりません。
 私自身もこのブログで再三記しているように、邪馬台国近畿説を支持し、その根拠も述べています。それらについてはこちらをご覧下さい。

 さて、その邪馬台国近畿説を裏付けるための調査が2月から奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で始まるようです。今まで大規模な調査がおこなわれていなかったこと自体不思議に思いますが、先日纒向遺跡にある箸墓古墳において大周壕跡が発見されたり、また纒向遺跡の規模が今まで考えられてきた以上のものであることが判明したことが、今度の本格調査につながったのでしょう。
 もし調査中に『親魏倭王』の金印でも発見されれば邪馬台国近畿説の決定的な証拠となり、邪馬台国近畿説が確定することは間違いありません。
 この本格調査に関連した記事が産経新聞と毎日新聞に掲載されているので、ここで紹介してゆきましょう。

 まずは産経新聞1月30日より 

 中国の歴史書「魏志(ぎし)倭人伝」に登場する邪馬台国(やまたいこく)の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末-4世紀初め)について、市教育委員会は30日、かつて神殿跡の一部が発掘された遺跡中心部を2月から学術調査すると発表した。邪馬台国の女王・卑弥呼が国家的祭祀(さいし)を行った神殿の可能性もあり、邪馬台国論争のカギを握る重要な成果も期待される。  
 同遺跡は奈良盆地東南部に位置し、卑弥呼の墓との説が根強い箸(はし)墓古墳(全長280メートル)を含む東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡。県や市は、昭和46年から160回にわたって調査しているが、大半が住宅などの開発工事に伴う小規模な発掘だったため、調査ずみ面積は全体の5%にとどまり、全容解明にはほど遠い状況となっている。  
 市は、古代日本の首都とされる同遺跡の全容解明が不可欠として、中枢部分の学術調査を初めて実施することを決定。調査は数年間を見込んでおり、今年度内は、昭和53年に駐車場整備に伴う発掘で神殿跡が見つかった地域を含む450平方メートルに着手する。  
 当時の調査では、卑弥呼(生年不明~248年?死去)の時代とほぼ一致する3世紀前半の神殿とみられる約5メートル四方の掘っ立て柱建物跡と、南側にはほこらのような約2メートル四方の建物跡1棟、周囲に柵(さく)が見つかっており、神殿の一部と考えられている。今回の調査によって、これらの建物跡の全容を把握するという。  
 研究者の間では、建物跡の東側に卑弥呼の居館や大規模な神殿が存在したとの見方もあり、平成21年度以降に調査したいとしている。

 続いて毎日新聞1月30日より  

 奈良県桜井市教委は30日、ヤマト王権の本拠地で、女王・卑弥呼がおさめたとされる邪馬台国の最有力候補地、同市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)について、来月から中枢部を本格的に発掘調査すると発表した。集落部分の学術調査は初めて。71年以来160回の調査をしたが、開発に伴う小規模なものが多かった。  
 遺跡の範囲は、東西約2キロ、南北約1.5キロ。古事記や日本書紀で、歴代天皇の宮があったと伝えられる三輪山ろくに広がる。卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)をはじめ、前方後円墳が誕生した場所で、九州から関東まで各地の土器が持ち込まれていたことなどから、邪馬台国やヤマト王権との関係が取りざたされてきた。  
 今年度は、78年度の調査で神殿風の特殊な建物跡が見つかったJR巻向駅近くの空き地約450平方メートルを2カ月かけて調査。まだ見つかっていない中心建物の発見を目指し、規模や構造、性格を明らかにする。

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ヤマト王権の鉄

 日々寒い日が続きますね。神奈川では今朝の最低気温が0.3℃でした。朝7時半に寝床から起き上がった時にこの凍てつく寒さに『厳冬』を身で感じた次第です。ただ北国にお住まいの方からすれば、今朝の神奈川の寒さなどは『余裕』の類なんでしょうね。とにかく寒暖の差によって体調を崩さないよう、留意しなければなりません。

 ところで先日の新聞報道で、5世紀ヤマトにおける『鉄』に関連した興味深い発見がなされたという記事が掲載されていました。5世紀というと騎馬民族制服論の根拠なる副葬品の『突然変異的な変化』がみられた時期であります。3世紀以降の副葬品であった鏡・玉・剣・車輪石・鍬形石などの宝器的・象徴的・呪術的なものから、この時期(5世紀)になると生活・戦闘など実用的なものに変わり、例えば食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具や盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類へと変化した訳です。

 前述した『突然変異』に一石を投じる発見として今回紹介する発見は注目に値します。要は突然変異という抽象的な史観ではなく、ヤマトには鉄を生産するだけの十分な設備を備えていたことが形として発見されたのです。これを騎馬民族制服論を否定する材料と言い切りませんが、ヤマトに一定水準の技術力(鉄を生産する技術)が存在したことは、これより以前に強力な『国家』が成立していたことの根拠となるのでないでしょうか。

 ではその新聞記事を紹介しましょう。

 大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶(かじ)工房跡が出土していたことが、市文化財協会の調査でわかった。 
 百舌鳥(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳が築かれた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。 
 工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に2棟建てられ、1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝で区画。棟の間に井戸跡が見つかったほか、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭、排水や湿気よけに利用されたとみられる溝からは、鉄器製造の際に出た3センチ大の鉄滓(てっさい)が発見された。

読売新聞 1月12日

 私たちが考えている以上に5世紀のヤマト王権はその基盤を磐石なものとしており、それを物語っているのが今回の発見かもしれません。
 磐石であった要素は多々考えられますが、今ここで推測を述べると大変長い文章となってしまうので、折を見て少しづつ述べてゆこうと思います。
 ちなみに、このブログのリンク先である『縄文と古代文明を探求しよう!』の管理人さまtanoさんが今回の長原遺跡での発見について『鉄』の生産の背景にあるヤマト王権隆盛の姿をわかりやすく解説された論文『長原遺跡ー鉄器工房発掘ーが意味する5世紀の史実』を掲載されているの、こちらもぜひご覧下さい。

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いつの間に箸墓古墳が『卑弥呼』の墓になったんですかね

 10日前のことですが『枚方・禁野車塚古墳:北河内最大級、“卑弥呼の墓”そっくり 』(毎日新聞)という記事がYahoo!ニュースに掲載されていました。
 記事の内容は次の通りです。

◇3世紀後半~4世紀前半、奈良・箸墓古墳と同時代 
 北河内最大級の前方後円墳で国史跡の「禁野車塚(きんやくるまづか)古墳」(枚方市宮之阪5、全長約120メートル)の形状が、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と酷似していることがわかった。
 府内で箸墓古墳の類型と判明したのは初めてで、近距離にあることから被葬者も同古墳の被葬者と密接な関係性があった可能性が高いという。【宮地佳那子】 

◇被葬者も密接な関係?
 8月に関西、京都橘、京都府立の3大学の教授、学生らと枚方市文化財研究調査会の延べ260人による「淀川流域前期古墳研究調査団」が調査を実施、今月、結果を発表した。 
 それによると、前方部の形が細長い(三味線の)ばち状で、古墳の最も狭い部分が前方部側であるなど、箸墓古墳の顕著な特徴が数多く認められた。近畿から九州北部に22の類型が確認された中でもよく似ており、主従関係や政治同盟などの結びつきを示すという。 
 また、築造時期は出土したはにわの形状などから4世紀代とされていたが、箸墓古墳と同時期と考えられるため、3世紀後半~4世紀前半に造られた府内では珍しい早期の古墳と考えられるという。 
 前方後円墳に詳しい都出比呂志・大阪大名誉教授(日本考古学)は「初期の王の古墳は奈良県に集中しており、禁野車塚古墳の被葬者は、初期の王権と上下関係があったのではないか。国家成立の解明のため欠かせない貴重な古墳だ」と話す。 
 枚方市は同古墳と周辺の整備をし、史跡公園を作る計画を進めている。

12月12日 毎日新聞より

 この記事を読むと箸墓古墳が卑弥呼の墓という前提で、それに類似する『枚方・禁野車塚古墳』が卑弥呼と密接な関係にあった者の墓として推定しようとしています。
 邪馬台国近畿説を支持する私としては、仮に卑弥呼の墓所が存在すのであれば近畿地方であろうと思います。しかし、箸墓が卑弥呼の墓所だと断定されていない段階で、このような記事を掲載するのはどう考えてもおかしいです。まずは箸墓が卑弥呼の墓所であることが確定されてから上のような記事を掲載するべきではないでしょうか。
 
 卑弥呼云々を抜きにすれば、この発見は3~4世紀にかけて近畿地方にこうした大規模な古墳が存在することで、当時の倭国が近畿にその拠点を置いていた可能性を示唆するに十分な意味を持つ調査結果であるでしょう。
 
 話が古墳から離れますが、最近大河ドラマや歴史ドキュメンタリーなどで史実を度外視した確信犯的な番組が多々流されています。それを視聴者がフィクションの『娯楽』として観ているのであれば別に構わないのですが、事実として捉えてしまう人がいると史実が歪曲されて伝わってしまう危険性があります。今年問題になった会津若松城の問題もそれしかりです。
 歴史に限らずメディアの発信する情報を受取る私たちにとって、歪曲された情報を確信犯的に発信されている事実を自らの目で認識する必要があります。
 メディアの一方的な情報に惑わされることなく、リテラシー能力を磨いて、多少懐疑的になるぐらいな感じで情報を見つめてみましょう。

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日本史探求を振り返る 8

 1年ちょっと前の話だがブログ『縄文と古代文明を探求しよう!』の管理人であるtanoさんが、この日本史探求をご自身のブログ内で紹介して下さった。ありがたいことに、歴史好きレベルの私がが片手間で更新しているような当ブログを誉めて下さって正直嬉しく、またこのブログを続けてゆく原動力にもなった。
 ところで、以前私はこの記事で『継体天皇は一体何者なのか?それは私の次回までの宿題』と記していたにも関わらず、2年半以上も『宿題』を放置したままでいる。
 そもそも継体天皇とは謎多き大王である。先代の武烈天皇に後継が存在しなかったことから豪族大伴氏の願いにより皇位に就いたといわれている人物であり、血筋は応神天皇の皇孫と伝えられている。しかし日本書紀が伝えているこの内容に懐疑的な研究者も多々おり、継体天皇は王朝交代によって即位したと見解を持つ人も多い。私自身も継体が平和的な王位継承によって即位したことについては懐疑的であった。そしてなぜ継体天皇は傀儡ではなく、権威ある天皇として存在することが出来たのかについても疑問を抱いていた。
 その継体天皇について、先ほど紹介した『縄文と古代文明を探求しよう!』においてとても分かりやすい記事がアップされている。その記事は以前私も一読したことがある黒岩重吾氏の『古代史の真相』を基に独自の視点も交えながら『謎の継体天皇と当時のヤマト王権をとりまく状況』について詳しく説明されており、継体天皇の存在を知る上で非常に参考となるものである。
 この記事を読むと、当時は天皇といっても豪族の上に立つ権力にシンボルであり、その存在こそが豪族をまとめる力になっていたことが理解出来る。なぜ継体天皇が大伴氏ら豪族に擁立されたのかを読めば進めてゆけば見えてくるはずだ。

『日本史探求を振り返る』は今回で最後です。今後も出来るだけ幅広い日本の歴史を探求してゆく所存ですので、よろしくお願いします。

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日本史探求を振り返る 6

 かつて、こんな記事を載せたことがある。

 黒岩重吾氏の『邪馬台国九州説概要』
 

 2003年に亡くなられた故黒岩重吾氏は生前に卑弥呼亡きあとの邪馬台国、そしてヤマト政権成立過程において次のような仮説を立てています。
まず。邪馬台国について。
 「そもそも邪馬台国は九州の部族連合国家であり、260年代に東遷して『ヤマト王権』になった。宋女トヨが西晋へ朝貢していることは邪馬台国が、中国から冊封された事実に他ならない。」
 トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していたと言うです。なぜ東遷したのかについての説明はされていない(確認していない)のですが、部族連合国家である邪馬台国が統治していく上でより内陸に本拠を置く方が得策と考えたか、もしくは(ここからは私の推論)北九州にあっては朝鮮からの襲来に遭う恐れがあったとか・・・。とりあえず、邪馬台国系ヤマト王権から異なる系統のヤマト王権(三輪王朝などの系統からヤマト王権は始まったと言われていますが、今回この件には触れないでおきます。)へ権力が移る過程で何が起きたのかを考えていきたいと思います。
 更に黒岩氏はこう続けます。
 「邪馬台国が東遷したのち、朝鮮から渡来してきた集団の影響で、九州勢力が再び勢いづいたと推測する。そして4世紀後半、その九州の勢力が東へ移動し、ヤマト王権の皇女と九州勢力の長が婚姻関係で結ばれた。その長こそが、応神・仁徳王朝の始祖王ではないのだろうか。そして反抗した旧畿内勢力(ヤマト王権守旧派)を制圧し、応神・仁徳王朝が成立した。」
 ここでも、ヤマト王権がなぜ九州勢力と婚姻関係を結んだかは明記されていないですが、おそらく九州勢力の主導権を握っている朝鮮系の強大な武力を背景に、婚姻を迫ったとも考えられます。そして婚姻により正当な統治者である口実を得た九州勢力は反対勢力を武力で制圧していったのでしょう。この時期が江上波夫氏の言う副葬品が変化した時期だと考えられます。
 この黒岩氏の仮説を参考に、私の推測をまとめてみると

 邪馬台国は元々九州に存在したが、統治上の何らかの理由から近畿へ東遷することになった。そして邪馬台国をベースとする「ヤマト王権」が成立、これが4世紀後半まで続く。やがて九州に朝鮮人の勢力が渡来し、旧来の九州勢力に加わったことで勢いを増し、東へ進む。そして強大な武力を背景にヤマト王権と婚姻関係を結び、応神・仁徳王朝の始祖王と考えられる人物が、新たな系統を組むヤマト王権を確立した。

 今、冷静に黒岩氏の説を考察してみると、幾つかの疑問点を見出すことが出来る。
 まずは
 『トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していた』
 という箇所。
 3世紀の後半、近畿には纏向(まきむく)遺跡に代表されるように、大規模なクニの存在を示す史跡が多く発見されている。ということはそれだけ大規模なクニの連合体が近畿には存在していたのだ。
 黒岩氏が唱える九州にあった邪馬台国が東遷して『ヤマト王権』になるためには、邪馬台国そのものが大規模な軍事力と生産力を有していなければ説明がつかない。それを著書において根拠を示さずにただ『東遷した』と片付けるのは、些か稚拙な考えではないかと今の私は思っている。(当時は無垢に多くの知識人の主張を消化してきたのだが、現在はかなりひねくれているので、黒岩氏の主張の矛盾点を探ってしまうのである。)
 また、4世紀に朝鮮に在った集団が九州の勢力と結びついて東遷した邪馬台国を脅かしたと推測しているが、4世紀後半に倭国(おそらくはヤマト王権)が高句麗の広開土王率いる高句麗と交戦したという記録が残っている。朝鮮半島の、しかも当時最強であった高句麗と交戦出来うるヤマト王権が、九州の勢力に脅かされるものであろうか?私は4世紀には既に統一国家が存在し、黒岩氏の主張するような国内での内紛は考えられないと推測する。
 そして、邪馬台国は九州に存在したのではなく、近畿に存在した連合体であり、その発展形がヤマト王権であると推測しているのである。
 
 今は亡き黒岩重吾氏の説にケチをつけるようになってしまったが、黒岩氏のような方々が多くの主張してくれるからこそ、邪馬台国論争が盛り上がるであって、決して黒岩氏のすべてが間違えだとは言わない。
 また、この時期の文献が非常に少ないからこそ、知識人の見解や、調査研究の成果が必要であり、それを否定する気はまったくない。
 邪馬台国論争、今後もどんどん盛り上がってほしいものである。

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日本史探求を振り返る 4

 11月から『まぼろしの邪馬台国』が上映されているが、内容は邪馬台国論争云々ではなく、まぼろしの邪馬台国を求め旅をする宮崎康平氏夫妻の夫婦愛をメインに描いた作品だという。劇場に足を運んで観ようとまでは思わないが、いずれDVDがレンタルされた時には観てみようかなとは思っている。
 そんな話題の邪馬台国であるが、この日本史探求でも幾度となく邪馬台国に関する話を取り上げてきた。最近では箸墓(はしはか)古墳から大規模な周濠が発見され、邪馬台国論争が再び盛り上がってきたことと、それに関する持論を少しばかり紹介した。
 私自身、邪馬台国近畿説を支持しており、3年前のこの記事でも私の持論を紹介している。
 なぜ近畿なのか?
 と問われると正直確信があって近畿説を支持しているとは言えない。ただ九州に邪馬台国が存在したとすると、近畿を拠点とするヤマト王権が成立する過程で相当大規模な遠征がおこなわれなければ統一国家(この表現が正しいかは微妙であるが)をわずか1世紀程度で成立させるのは不可能ではないだろうか?しかも邪馬台国に近くには争いを繰り広げていた狗奴国(くなこく)が存在し、そのような状況下で東へ大規模な遠征をおこない、わずか100年足らずの間に邪馬台国が統一国家を築き上げるのは難しいような気もするのだが・・・。あっ、今までの話はあくまでも『邪馬台国=ヤマト王権』という過程であり、もしかしたら『邪馬台国≠ヤマト王権』の可能性も否定できなので、私の推論の域を出ていないことだけはお伝えしておきたい。
 ところで、以前邪馬台国近畿説を支持する私の推論を載せたのだが、今回も簡単にここで紹介しようと思う。

 まず、本質的な疑問で卑弥呼とは一体何者なのか?
 魏志倭人伝には倭国大乱の後、『倭の有力者の話し合いで、女王に推された』とある。そして卑弥呼の人物像について

鬼道を使い、祭事に携わる人物で、背丈が高く道理を良く理解している。夫婿はいないが年下の男がいて、国の統治を補佐している。 卑弥呼が女王になつてから、側女を千人置き、直接面会出来る人は限られている。 ただ男子一人が、食事の時お言葉を戴くためにお側に参上している。

と伝えている。
 卑弥呼が鬼道を使うとあるが、これは中国の皇帝から貰った鏡を使った祭事のことだとも考えられる。当時の倭国では鏡は貴重品かつ霊的な力があるものと信じられていたため、権力者のステータスシンボルとして祭事に使用されていたはずだ。卑弥呼は鏡を利用した祭事を通じて他の有力者たちに神秘性を植え付け、その神秘性を背景に倭国を支配をていた可能性がある。話が飛躍してしまうが、記紀に登場する皇祖神「天照大神」はこの卑弥呼の存在が由来したの可能性も十分考えられる
 今までの話の流れではヤマト王権の系譜を辿っていくと卑弥呼に辿り着くことになるが、卑弥呼の系譜がヤマト政権を樹立したかと言う話になると、それは別の話ではないかと考えている。魏志倭人伝には、卑弥呼の死後に男性が王になると再び争いが起ったと記述されている。その後一時的に壹興と言う女王が登場し、争いは収まったようだが、私の憶測だとこの壹興と言う女王が死んだのちにまたしても大きな争いが起き、その勝者がヤマト政権を樹立したと推測している。その勝者こそがヤマト王権の大王として登場する人物ではないかと考えているのだ。
 私の推測のまとめは

①ヤマト政権のベースとなるのが邪馬台国であり、それが畿内に存在した。
②そこを統治したのは「天照大神」のモデルとなった卑弥呼であり、その統治に中国の権威と鬼道と言う神秘性を利用した。
③卑弥呼の死後、王の座を争い有力者同士の戦いが起こり、のちに大王と呼ばれる有力者が勝ち残った。そして邪馬台国をベースにしたヤマト政権を樹立した。

 素人的な視点ではあるが、私が近畿説を支持するのは以上のような考えがあるためである。

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「箸墓被葬者=卑弥呼or臺与か」の報道に対する疑問

 まずはこの新聞記事をご覧頂きたい。

浮かぶ権力者の威光、被葬者論争にも一石 箸墓古墳周濠初確認
 最古の巨大前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)で、大規模な周濠(しゅうごう)が初めて確認された。これまで周濠の明確な痕跡は認められておらず、学界でもその存在を疑問視する声が根強かったが、墳丘を取り巻く壮大な周濠が築造当初から整備されていた可能性が高まり、大土木工事を可能にした被葬者の威光を浮かび上がらせた。古墳に眠るのは果たして卑弥呼か、後継の臺与(とよ)か-。再び邪馬台国へのロマンが広がった。
 同古墳の墳丘は宮内庁の陵墓に指定されており、学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれている。
 こうした中、桜井市教委や奈良県立橿原考古学研究所は10年以上前から墳丘の周辺を丹念に発掘。その結果、大規模周濠の存在を突きとめた。市教委の橋本輝彦主任は「60メートル以上という周濠の幅は、実に古墳1つが入るほどの大きさ。周濠によって、被葬者と外部との隔絶性をより明確にしたのだろう」と推測する。
 その被葬者はいったい誰か-。中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2人の女王が登場する。それによると、呪術を通して君臨した卑弥呼の死後、戦乱が起こったが、卑弥呼一族の女性・臺与を後継に立てることでようやく収束したという。
 卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。
 3世紀中ごろの築造説を採る白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「箸墓古墳を造るには10年以上かかり、卑弥呼の墓の時期に合致する」と卑弥呼説を提唱。「周濠などの調査は構造を明らかにする上で極めて重要。国なども本格的に乗り出すべきだ」と強調する。
 一方、築造は260~280年とみる寺澤薫・橿原考古学研究所総務企画部長は「被葬者は卑弥呼の後の臺与か、その後の男王では」と推測。卑弥呼の時代はライバルの狗奴(くな)国があり、決して万全な体制ではなかったとして、「男王の時代に王権の力が全国に及び、巨大な箸墓古墳を築くことができたのだろう」と指摘する。
 同様に、卑弥呼説に否定的な石野博信・兵庫県立考古博物館長も「被葬者は臺与とみていいだろう」と言及。「3世紀後半には全国の土器の動きが活発になり、交流や戦争などさまざまなことがあった。臺与は、魏志倭人伝にあまり記述がないが、業績は大きかったはず」と推測する。
 被葬者の強大なカリスマ性を物語る大規模周濠。今回の発掘成果をきっかけに、被葬者論争はさらに高まりそうだ。
 産経新聞 2008年8月27日

 歴史ロマン的な視点から言えばこの箸墓の発見が「被葬者=卑弥呼or臺与」に限りなく近づいたと考えたくなるし、それはそれで構わないと思う。私自身も邪馬台国畿内説を支持しているので、箸墓は邪馬台国からヤマト王権へと続く過程で建造されたものだと信じている。
 ただ、箸墓がこれだけ大規模な古墳だと分かったということは、逆に卑弥呼の古墳ではないことを裏付けたような気がしてならない。そう思うのは魏志倭人伝の記述に

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

があるからだ。これは邪馬台国連合に参加している国々を指しており、実際邪馬台国に支配されていた訳ではない。(ないと言えないが、なかったであろう。)現在のEU(ヨーロッパ連合)よりまとっている連合集団、それが邪馬台国連合であったはずだ。
 ということは連合の女王である卑弥呼は統治こそしてはいたが、後のヤマト王権の大王のような中央集権が強まった時の支配者ではない。そのような一連合の支配者の墓所が新聞記事に載っているような大規模建造物になるであろうか?私は今回の発掘によって逆に箸墓が卑弥呼の古墳ではないことが強まったような気がする。

 ところで、坂の上の雲のアンケートはまだ続けております。是非ご協力よろしくお願いします。

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学術重視により神功皇后陵の調査を許可

今まで宮内庁は「尊厳などを守るため」と言う微妙な言い回しで、戦後の一時期を除き、陵墓参考地への調査・発掘は認めてこなかった。ところが今回、日本考古学協会の要望を受け、神功皇后の陵墓と伝えられている奈良県の五社神(ごさし)古墳の調査を認める運びとなった。理由は「尊厳より学術を優先した。」とのこと。ただし発掘についての許可は下りていない。
これまで宮内庁管轄の陵墓参考地における発掘・調査は(西都原古墳群など一部を除き)原則禁止であったが、調査をさせない理由は極めて曖昧であり、何か調べられてはまずい事でもあるのかと勘ぐってしまう。古代日本の歴史を知る上で陵墓参考地の調査は不可欠であり、今回このような前例を残したことは評価に値する。
ちなみに神功皇后と言う人物だが、第14代仲哀天皇の后であり、第15代応神天皇の母であると伝えられている。記紀によるところ通常では考えられないような神秘的な力を持っていた人物と記されており、一部では魏志倭人伝に登場する卑弥呼の後継台与(トヨ)ではないかと言われている。そのような人物の陵墓と伝わる場所を調査出来ることは注目に値するであろう。

以下今回の許可に関する記事を紹介する。

奈良市の神功皇后陵=五社神(ごさし)古墳=で、陵墓としては初めて学会側の要望に基づく立ち入り調査が22日に行われることが決まった。申請した日本考古学協会などは「歴史遺産としての陵墓を解明する第一歩になる」と評価、「今後の足がかりにもなれば」と期待を寄せている。
陵墓の立ち入り調査について、宮内庁は「尊厳などを守るため」として戦後の一時期を除いて長年認めてこなかったが、昭和54年からは補修工事の際に研究者の見学は認めるようになった。
さらに学会側は平成17年、計11の陵墓について調査を要望。宮内庁は昨年1月、陵墓管理の内規を変更し、学術目的の申請であれば審査し許可する方針に転換した。
今回の調査にあたり、同協会の西谷正会長(九州大名誉教授)は「陵墓としての尊厳を尊重しながら文化財としての側面から調べたい」と話す。
神功皇后陵について、宮内庁書陵部が平成15年度に行った整備工事に伴う調査では、墳丘の前方部西側面で葺(ふき)石などを確認。円筒埴輪(はにわ)などの破片も見つかっている。
今回の学術調査では、発掘ができないなどの制約はあるものの研究者の期待は膨らむ。同協会の高橋浩二理事(富山大准教授)は「宮内庁が作成した墳丘の復元図が正しいかどうかを現地で検証したい。規模や形状を調べ、埴輪の破片があればその特徴から築造時期を推測したい」。
西谷会長は、今後の陵墓調査についても「継続的に要望し、順次調査を実現したい。さらに前進するよう努力していきたい」と話している。

産経新聞 2月15日

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銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)

Wakatakeru_1銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)・・・一体何のこと言っているのだろうと思われた方も多いと思われるが、「ワカタケルの剣の事」と言えばピンとくるだろう。そう、写真の剣(剣には見難いが)こそが有名な「ワカタケルの剣(江田船山古墳から出土)」である。この剣は現在東京国立博物館の収蔵品として定期的に公開されているものを、一昨年訪れた際に私が撮影したものだ。剣は側面から撮影しているが、上部から眺めてみると確かに「治天下獲□□□鹵大王世」と記されており、この日本に文字がもたらされて間もないものであることがうかがい知れる。
ワカタケルとは倭の五王の一人「雄略天皇」ではないかと言われている。江田船山古墳は熊本県菊水町にある古墳である。そこから出土したと言うことは、当時の熊本に勢力を持つ豪族が雄略天皇から柵封された証拠であり、この時期(5世紀の中・後半期)既にヤマト王権は西は九州から東は同じく「ワカタケルの剣」が出土されている埼玉県稲荷山古墳の地域まで勢力を伸ばしていたのであろう。
先述したが、この雄略天皇ことワカタケルは、中国の歴史書「宋書倭国伝」に記されている倭国王「武」に該当する人物ではないだろうかと言われている。当時のヤマト王権は既に国内を平定し、更に朝鮮半島にまで勢力を伸ばそうとしていた。雄略天皇より少し前の時代だが、高句麗にヤマトの軍勢が侵略してきたことを「高句麗好太王碑」が記している。
なぜであろう、3世紀前半には倭国大乱と言う古代群雄割拠時代であったのにもかかわらず、わずか100数年の間にヤマト王権は国内を統一し、しかも半島にまで勢力を伸ばすことできたのだろうか?学術的なことはわからないが、ヤマト王権に基盤となるもの(統治機構や軍事力)が統一以前から存在しなければこれだけ早期に統一国家を樹立することは不可能であったと思うが如何に。

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継体天皇

天皇家の系譜について遡って行くと、怪しい出自の天皇が何人かいますが(天武天皇しかり)私のように歴史に多少の知識しかない人間でも「おや?」と思うのが継体天皇の存在です。
日本書紀によれば、継体天皇は近江で生まれたのちに福井へ移り、天皇になるまではそこで過ごしたことになっています。そのような田舎育ちの人物がどうして天皇になったのか?その背景には日本書紀に記された理由を額面どおりに受け取れない複雑な理由が必ずあると私は思うのです。(記紀の信憑性が裏付けられた昨今の情勢から鑑みて記紀の信憑性の高さを主張する私がそれを否定するのような記事を書くのは矛盾していますが、今回は疑惑の目を向けてみようと思います。)
記紀が伝える継体天皇が即位した事情とは一体どのようなものであったのでしょう?ここで簡単に紹介します。
先代の暴君武烈天皇が亡くなると、その後継がいないため(武烈には子供は無く、男の兄弟もいなかった)次の天皇を誰にするかが問題になります。当初は仲哀天皇の子孫「倭彦王」を擁立しようとし、大和の軍勢が迎えに行くのですが、自分を討ちに来たのかと思い、逃げてしまいました。そこで仕方なく次の候補として、応神天皇の子孫「男大迹王」を擁立すべく大和の軍勢が男大迹王を迎えに越前に赴きました。朝廷の使者大伴金村が男大迹王に天皇即位の要請と説得をし、受諾したことで男大迹王が継体天皇として即位したと日本書紀は伝えています。
と言う話の中で、当時の中央政権であるヤマト王権の後継がこんな簡単な形で決まってしまうのはおかしいと思われる方は多いと思います。特にこの時期のヤマト王権は天武天皇の時代のように天皇の権力基盤は磐石ではなかったであろうし、後継のいない武烈の死後には内乱も起こりかねない情勢だったはずです。そう考えると日本書紀の継体天皇即位の記述は天武天皇が天皇家の系譜を神武からの続くものであると主張するために改ざん・・・と言うか都合よく記させた可能性はなきにしもあらずと思えてくるのです。
では継体天皇は一体何者なのか?それは私の次回までの宿題と言うことでご容赦のほどを。
まあ諸説あるとは思いますが、この継体天皇の出自について自分なりの推論を時間をかけてまとめてみたいと思っています。

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雷神を捕まえた人間の墓らしい・・・

ウソのようなウソの話でしょうが、平安時代の説話集「日本霊異記」(私はこの書物の存在すら知りませんでした。)に記されている雷神を捕まえた雄略天皇の臣下の墓と思われる遺跡を明日香村の雷丘で発見したそうです。
各全国紙の報道によると、その臣下は雷丘に葬られたと伝えられ、そこから多くの埴輪の破片が出土しました。奈良文化財研究所は「古墳があった可能性は高く、伝承との関連があるかもしれない」と話しています。
記紀や古代からの伝承に関する話は、話そのものをかなり誇張して記されてますが、最近の発掘調査などで核心の部分については満更ウソではないと考えられるようになりました。こうした伝承の誇張した部分だけを丁寧にはぎ取り、核心部分を基に調査をしていけば意外とヤマト王権成立の謎も解明出来そうな感じですよね。
まあ歴史の謎を解明するのはそんなに容易いことではないんでしょうけど・・・。私が生きている間にヤマト王権&邪馬台国の謎が解明されることを切に願っています。

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謎多き渡来人の存在

渡来人と言えば世間一般的に、4~5世紀にかけて日本へ大陸の文化を伝えた朝鮮の人々のことを指し、渡来してきた理由が「半島の内戦から難を逃れるため」と言われてますが、果たしてそれだけの理由で日本に逃れて来るのでしょうか?私の素人考えではそうした背景で日本に渡ってきたのではなく、すでに先に日本へ渡って権力基盤を固めていた朝鮮民族を頼ってきたと直感的に思うんですよね。
内戦を逃れてと言う割には当時の日本(ヤマト王権)は高句麗好太王碑に「ヤマト王権は百済を支援するため出兵している」とあり、また宋書倭国伝にも倭の五王が、朝鮮半島の支配を宋に認めてもらいたいような記述もあることから朝鮮の内戦に関与していて、決して渡来人にとっては安全な場所であったとは言えないはずです。これだけ深く朝鮮半島にこだわるヤマト王権ってのは元々朝鮮半島にあった権力、もしくは政治的争いで亡命するように日本に渡ってきた人々が築いた政権だったとは考えられないでしょうか?
当ブログの「我々に受け継がれた怨念と執念の血脈(憶測)」の記事でも指摘したことですが、白村江の戦い・秀吉の朝鮮出兵・日韓併合と続く朝鮮半島への介入は、我々のDNAに「祖国を侵略者から取り戻せ!」とインプットされていて、それに基づいた政策や戦いであった・・・。これは飛躍した考えかもしれませんが、決して間違っているとも思いません。
古代史に関しては、これ以上日本での調査では通説を覆す発見は望めないのかもしれません。だとしたらヤマト王権成立の鍵は朝鮮半島に求めとよいのでないでしょうか?その辺は今後の調査に期待したいと思います。

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我々に受け継がれた怨念と執念の血脈(憶測)

「このタイトルの意味は何?」と思われた方、これから私が説明することを「信じる・信じない」は別にして、とりあえず聞いてください。
渡来人・・・この言葉を聞いたことがある人は多いはずです。渡来人とは4~7世紀ごろに、朝鮮半島(特に百済)から大勢の人々が当時の倭国へ渡来し、漢字・儒教・機織り・造船などの進んだ技術を伝えたとされる人々のことを指します。しかしこの渡来人、実は技術を伝えるために渡って来たのではなく、朝鮮半島の内戦により迫害を受け、仕方なく倭国へ渡って来た人々なのです。
今、私は渡来人を「進んだ技術を伝えた」と表記しましたが、それほどの能力を持った彼らが技術を伝えるだけに終始するでしょうか?おそらくそれ以外の・・・権力の奪取を計った・・・ことも考えられなくもありません。現に第26代の継体天皇の出自は謎のままです。これはあくまで憶測ですが、継体天皇は百済の人間だったのでは・・・そんなことすら考えている今日この頃です。
「怨念と執念の血脈」についての話に戻しましょう。邪馬台国以来の古代日本人と、渡来してきた百済系の朝鮮人たち、両者が混血して現在の日本人が形成されたとは考えられませんか?そして継体天皇が即位したことで百済系の渡来人がついに倭国の政治権力を手中にしたとは考えられませんか?もしこの憶測が事実であるなら「怨念と執念の血脈」についての説明が容易になります。そう、我々が白村江の戦いから日韓併合に至る過程は、百済系朝鮮人の半島に対する「怨念」であり「執念」なのです。そして日韓併合は、百済の朝鮮半島での復権を我々子孫が達成したことになるのです。
最後になりますが、「筑紫国造磐井の乱」は筑紫国造磐井が大和朝廷に対して起こした反乱で、527年に九州北・中部の勢力とともに決起し、大和朝廷が準備していた朝鮮遠征軍の派遣を妨害した反乱と言われています。これは権力の中枢から追い出された古代日本人が、新羅の援助を受け百済系の朝鮮人に戦いを挑んだと推測できます。この戦いは古代日本人の最後の抵抗だったのでしょう。

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黒岩重吾氏の邪馬台国九州説とその後

2003年に亡くなられた故黒岩重吾氏は生前に卑弥呼亡きあとの邪馬台国、そしてヤマト政権成立過程において次のような仮説を立てています。
まず。邪馬台国について。
「そもそも邪馬台国は九州の部族連合国家であり、260年代に東遷して『ヤマト王権』になった。宋女トヨが西晋へ朝貢していることは邪馬台国が、中国から冊封された事実に他ならない。」
トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していたと言うです。なぜ東遷したのかについての説明はされていない(確認していない)のですが、部族連合国家である邪馬台国が統治していく上でより内陸に本拠を置く方が得策と考えたか、もしくは(ここからは私の推論)北九州にあっては朝鮮からの襲来に遭う恐れがあったとか・・・。とりあえず、邪馬台国系ヤマト王権から異なる系統のヤマト王権(三輪王朝などの系統からヤマト王権は始まったと言われていますが、今回この件には触れないでおきます。)へ権力が移る過程で何が起きたのかを考えていきたいと思います。
更に黒岩氏はこう続けます。
「邪馬台国が東遷したのち、朝鮮から渡来してきた集団の影響で、九州勢力が再び勢いづいたと推測する。そして4世紀後半、その九州の勢力が東へ移動し、ヤマト王権の皇女と九州勢力の長が婚姻関係で結ばれた。その長こそが、応神・仁徳王朝の始祖王ではないのだろうか。そして反抗した旧畿内勢力(ヤマト王権守旧派)を制圧し、応神・仁徳王朝が成立した。
ここでも、ヤマト王権がなぜ九州勢力と婚姻関係を結んだかは明記されていないですが、おそらく九州勢力の主導権を握っている朝鮮系の強大な武力を背景に、婚姻を迫ったとも考えられます。そして婚姻により正当な統治者である口実を得た九州勢力は反対勢力を武力で制圧していったのでしょう。この時期が江上波夫氏の言う副葬品が変化した時期だと考えられます。
この黒岩氏の仮説を参考に、私の推測をまとめてみると

邪馬台国は元々九州に存在したが、統治上の何らかの理由から近畿へ東遷することになった。そして邪馬台国をベースとする「ヤマト王権」が成立、これが4世紀後半まで続く。やがて九州に朝鮮人の勢力が渡来し、旧来の九州勢力に加わったことで勢いを増し、東へ進む。そして強大な武力を背景にヤマト王権と婚姻関係を結び、応神・仁徳王朝の始祖王と考えられる人物が、新たな系統を組むヤマト王権を確立した。

今回の私の推測も根拠に乏しく、ただの想像にしか過ぎませんが、もう一度黒岩氏の古代史に関する書籍を探してみて、それを参考にこの話を掘り下げてみたいと思います。

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伝仁徳天皇陵。「ヤマト王権」はこれだけの陵墓を作り上げる権力を5世紀には持っていたことになる。その権力をどのようにして手に入れたのか不思議でならない。

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邪馬台国の謎を考える パート3

もう5ヶ月前になりますが、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝」説を紹介したことがあります。今回はその「騎馬民族征服王朝」説を元に邪馬台国からヤマト政権への変遷について考えてみたいと思います。
まず、話を進める前に、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝」説を再度紹介してみたいと思います。

(騎馬民族征服王朝)
古墳時代前期と後期とでは、「突然変異的な変化」がみられることに着目。とりわけ副葬品の変化に注目し、前期は鏡・玉・剣さらに車輪石・鍬形石など宝器的・象徴的・呪術的なものであり弥生時代と本質的には変わっていない、しかし後期になると生活・戦闘など実用的なものに変わり、食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類などに変わっている。
江上氏は、こうした「突然変異的な変化」は「その社会それ自身の内部的な発展によって生み出されるものでは決してなく、別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象」だと説いている。

古墳時代の前期とは「魏志倭人伝」に邪馬台国が紹介された年代だと考えられます。この時期、倭国において「クニ」の連合体が争い無く統治されていたと推測するならば、副葬品が鏡・玉・剣の類であることに何ら疑念は湧きませんし、否定もしません。しかし江上氏は後期になると副葬品が生活・戦闘など実用的なものに変わることを理由に騎馬民族により倭国(邪馬台国)が征服されたと主張していますが、私はこれに関しては肯定できません。邪馬台国が政権基盤の不安定な連合体であることは「魏志倭人伝」においても記述されており、卑弥呼、またはその後求心力を持った指導者が倒されたことにより再び内乱状態になれば、副葬品の変化が騎馬民族の征服によるものではなく、内乱により生じた変化とも考えられます。
前述が長くなってしまいましたが、私の推測では副葬品の変化した時期こそが、邪馬台国からヤマト政権へ権力が移った時期だと思うのです。私はヤマト政権は騎馬民族による征服王朝ではなく、邪馬台国から派生した「クニ」が幾多の戦闘を繰り返しながら、強大な武力によって支配地域を拡大し、統一王朝を確立したと考えます。ただ、その「クニ」が前回の海幸彦・山幸彦の話から推測したように、朝鮮半島南部を支配していた「クニ」であった可能性も十分にあります。任那が新羅に侵略されるまで、倭国の支配下にあったのはそうした成立過程が背景として存在していたからではないのでしょうか。
話が飛びますが、「記紀」はヤマト政権の支配を正当化するために、系統の違う倭国の支配者たちも自らの系統に組み入れ、正当な流れを組む王朝だと主張するために作成されたと私は推測します。
話が色々な方向に飛びましたが、邪馬台国とヤマト政権の謎については今後も調べていく予定です。

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邪馬台国の謎を考える パート2

「邪馬台国の謎を考える」の記事を載せてから数日の間、色々なサイトや書籍を読んで邪馬台国の謎について私なりに分析してみました。前回の「邪馬台国の謎を考える(追記)」において北九州地方で西暦237~238年に皆既日食があり、それが「記紀」の天の岩戸の話と符号していると指摘しましたが、それ以外にも邪馬台国と記紀の関連で数点気になった所があったので紹介してみたいと思います。
まず、「魏志倭人伝」の記述が日本=倭国と言う解釈で現在まで伝わっていますが、当時の中国において倭国とは遼東半島の南端から朝鮮半島までを倭国として認識していたようです。そのことまでを視野に入れて考えると、邪馬台国は決して日本だけのことを指していると断定できなくなります。
話が飛びますが、よく記紀の記述において「天(あま)から下る」神々が登場しますが、これを「海(あま)下る」と考えると朝鮮半島から渡って来た民族、と言うか朝鮮南部を支配していた民族が日本に渡ってきたことを指しているのではないでしょうか?要は邪馬台国は朝鮮南部の「クニ」と北九州の「クニ」の連合体だったと考えられなくもありません。
また、海幸彦と山幸彦の話は、海幸彦がなかなか言うことを聞いてくれない兄の山幸彦を、最終的には服従させる話でした。これに関しては諸説ありますが、もしかしたら朝鮮南部の「クニ」=「海幸彦」で北九州の「クニ」=「山幸彦」と考えることもできます。
今回も根拠のない憶測だけの話になりましたが、邪馬台国そして倭国の謎については今後も考えていきたいと思います。

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陵墓参考地の西都原古墳群の調査

陵墓参考地とは宮内庁が管理する天皇や皇室ゆかりの墓と推定される地域のことを言います。宮内庁はこの陵墓参考地の地中調査を頑なに拒絶し、過去一度も許可したことはありませんでした。ところが昨年、宮内庁はついに陵墓参考地である宮崎県の西都原古墳群の地中調査を許可したのです。謎のベールに包まれた陵墓参考地の内部を垣間見る日がついに来たのです。
調査の対象となったのは西都原古墳群内にある陵墓参考地「男狭穂(おさほ)塚古墳」で、調査内容は地中からの反射波を解析し、以前行なった測量調査と今回の調査と照らし合わせ、築造時の男狭穂塚の形状を確定させるとのことです。
ところで「男狭穂(おさほ)塚古墳」とその隣の「女狭穂(めさほ)塚古墳」には一体誰が埋葬されていてどのような人物像なのでしょうか?
男狭穂塚はニニギの尊、その隣の女狭穂塚はコノハナサクヤ姫の墓と伝えられいます。ニニギの尊とは、天照大神の子神天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊と、高皇産霊(たかみむすび)命の女、栲幡千々(たくはたちぢ)姫の間に生まれた皇子で、天照大神の孫にあたります。日向国高千穂峰に降臨した天孫として有名です。日本書紀では、天照大神が尊に「斎庭(ゆには)の穂」(神聖な田で獲れた稲穂)を持たせて天降りさせています。この話からニニギの尊は稲穂の神格化とされています。降臨ののちニニギの尊は、「コノハナサクヤ姫と結婚、海幸彦(火照命)、山幸彦(穂々出見命)を生むのです。
一方コノハナサクヤ姫とはニニギの尊が日向国高千穂峰に天降りののち、笠紗の御前で美人に会い、名を訊ねると大山紙神の女で、コノハナサクヤ姫と答えます。その父に女を請うと、父神は喜び姉イワナガ姫をそえて多くの献上物を奉ります。しかし尊は醜い姉を返し、妹を求めたので、父神はそれを恥じてこう言いました。「姉を差上げたのは、天つ神の御子の命が石のごとく永遠に続くようにという意味、妹は木の花が栄えるようにという意味でした」と。やがてサクヤ姫は妊娠して出産しますが、尊は一夜だけで妊んだのを怪しみ、わが種ではあるまいと疑ったので、姫は「妊んだ子が、真の天つ神の子ならば安全な子でしょう」と、大きな殿に籠り、火を放って子を産みます。火の盛んなときに生まれた子は火照命(ほでりのみこと)、次に火須勢理命(ほすせりのみこと)、次に火遠理命(ほおりのみこと)の三子を生みます。神話の海幸彦・山幸彦の海幸が長男の火照命(のち薩摩の隼人族の始祖)、山幸が火遠理命と言われています。火遠理命が海神の女豊玉比売と結婚して皇孫鵜群草葺不合命(ウガヤフキアエズの命)が生まれ、その子の四男が神武天皇と言われています。

神話上の人物が埋葬されていると言われる西都原古墳群ですが、実際内部には何が存在するのでしょうか?今後更なる調査が続けられることを期待します。

(追記)西都原古墳群の調査に関して、こちらのサイトに詳しいことが載っております。

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邪馬台国の謎を考える(追記)

前回の「邪馬台国の謎を考える」の中で私は邪馬台国畿内説を支持しましたが、そこで根拠とした「天照大神=卑弥呼」の可能性が高まれば高まるほど実は九州説が有力になる事が後日判明しました。その根拠とは「皆既日食」です。(情報提供者ASTRO-KTさん)
古事記の記述に「天の岩戸」伝説があるのは周知のとおりですが、実は卑弥呼が生きた時代に皆既日食があり、なおかつそれが北九州で発生しているのです。(産能大学の何某教授がASCII社のPCソフト「ステラナビゲーター」を使い、西暦237と年238年に北九州地方で「皆既日食」が発生したことを証明した。)何だか天の岩戸の話と符号していませんか?九州説をとる方には大変な裏づけとなると考えられます。
話ついでに「天の岩戸」の話を紹介しましょう。

アマテラスの弟スサノオは姉にさんざん嫌がらせをしました。水田をメチャメチャにしたり、御殿を糞で汚したり、それでも天を治めているアマテラスは怒りませんでした。
ところがある時、アマテラスたちが機織りをしていると、スサノオが屋根の上から死んだ馬の皮を投げ入れて、驚いたアマテラスの侍女の一人が死んでしまったのです。さすがのアマテラスも、「もうイヤだ」と言い、岩戸の中に引きこもってしまったのです。アマテラスは太陽の神だったので、彼女が引きこもってしまうと、天も地も真っ暗になってしまいました。
困った他の神たちは相談し、アマテラスを引っ張り出すために岩戸の外でお祭りを始めました。不思議に思ったアマテラスが岩戸の中から「何事か」と尋ねると、神々は「あなたより立派な神が現れたので、お祝いをしていています。」と答えました。アマテラスがその言葉に釣られて外を覗くと、神々が岩戸の外に鏡を用意しておいたので、アマテラスが見たのは自分自身の姿。彼女が驚いているすきに無理矢理岩戸から引きずり出し、世の中に光が戻るのでした。
参考書籍「楽しい古事記」(著)阿刀田 高 

この話と3世紀前半に起きた北九州地方での「皆既日食」と言う接点を九州説を唱える学者たちは有力な根拠としているそうです。なるほどぇ~。古代史はロマンですね。

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邪馬台国の謎を考える

邪馬台国論争・・・これは歴史に興味がない方でも一度は耳にした事がある言葉ではないでしょうか?この論争、実に江戸時代から続いており、現在も確たる証拠が発見されていないため、邪馬台国の所在は不明のままです。ただ、中国歴史書「魏志倭人伝」には幸いにも邪馬台国までの行程が記されており、そこから所在を導き出すことが出来るかもしれません。それでは少し検討してみましょう。
魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの行程は文章にすると長くなるのでここには載せませんが、帯方(現在のソウル)から南に約12000里あったそうです。しかしこの記述どおりに考えると邪馬台国は南の海上に存在したことになります。そんな訳はありません。こう考えればどうでしょう?仮にこの記述の方角を南から東に変えてみると畿内地方に辿り着くことが出来るはずです。この推測から邪馬台国は畿内にあった!と決め付けられれば学者さん達は苦労してませんよね・・・(^^;)
ではここからの話は邪馬台国が畿内にあったと仮定して考えてみたいと思います。
まず、本質的な疑問で卑弥呼とは一体何者であるのでしょうか?前出の魏志倭人伝には倭国大乱の後、倭の有力者の話し合いで、女王に推されたと言われています。そして卑弥呼の人物像は
「鬼道を使い、祭事に携わる人物で、背丈が高く道理を良く理解している。夫婿はいないが年下の男がいて、国の統治を補佐している。 卑弥呼が女王になつてから、側女を千人置き、直接面会出来る人は限られている。 ただ男子一人が、食事の時お言葉を戴くためにお側に参上している。 」と伝えられています。
卑弥呼が鬼道を使うとありますが、これは中国の皇帝から貰った鏡を使った祭事のことではないのでしょうか?当時の倭国では鏡は貴重品かつ霊的な力があるものと信じられていたため、権力者のステータスシンボルとして祭事に使用されていたはずです。卑弥呼は鏡を利用した祭事を通じて他の有力者たちに神秘性を植え付け、その神秘性を背景に倭国を支配をていたのでしょう。話が飛躍してしまいますが、記紀に登場する皇祖神「天照大神」はこの卑弥呼の存在が由来したのかもしれません
と、なるとヤマト政権の系譜を辿っていくと卑弥呼に辿り着くことになるのですが、卑弥呼の系譜がヤマト政権を樹立したかと言う話になると、それは違うと思います。卑弥呼が死に、男が王になると再び争いが起こります。その後一時的に壹興と言う女王が登場し、争いは収まったそうですが、私の憶測だとこの壹興と言う女王が死んだのちにまたしても大きな争いが起き、その勝者がヤマト政権を樹立したと考えます。その勝者が本当の初代天皇と言われる崇神天皇だった可能性もあります。
私の推測のまとめは
①ヤマト政権のベースとなるのが邪馬台国であり、それが畿内に存在した。
②そこを統治したのは「天照大神」のモデルとなった卑弥呼であり、その統治に中国の権威と鬼道と言う神秘性を利用した。
③卑弥呼の死後、王の座を争い有力者同士の戦いが起こり、のちに崇神天皇と呼ばれる有力者が勝ち残った。そして邪馬台国をベースにしたヤマト政権を樹立した。
結局今回の話はすべて私の推測で何の根拠もありませんでしたが、こうして邪馬台国からヤマト政権への道筋を想像するだけでもワクワクします。しかしわが国の謎に満ちた成立過程を紐解いていく仕事は学者さんに任せましょう。

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ヤマト政権に関する新たな発見

前回は政治の話題になってしまったので、話を歴史に戻しましょう。
先月末、大阪の羽曳野市の工事現場から、三角縁神獣鏡や筒形銅器などが出土し、4世紀後半の前方後方墳の跡が発見されました。しかも古墳は盗掘されていないようです。
4世紀後半の古墳が盗掘されずに残っているとなれば、ヤマト政権成立過程における発見も期待出来そうです。発見された筒形銅器は朝鮮南部との関わりを示すものであり、推論ではありますが、ヤマト政権は朝鮮半島の助力によって成立したとも考えれます。また推論の域を出ない話になりますが、この羽曳野市から発見されたものから当時のヤマト政権の基盤を推測するならば、中国(三角縁神獣鏡の出土が中国との関係を示している)の権威を背景にしながら、朝鮮半島の助力を得て日本の統一を推進していったのかもしれません。そして、そのヤマト政権の勢力が、九州から派生したグループなのか?近畿を基盤とする「クニ」から生まれたものなのか?または朝鮮半島を経て日本に渡ってきた騎馬民族なのか?そんな事を考えだすと興味が尽きません.
まあ4世紀後半の発見なので、可能性は低いと思いますが、邪馬台国論争に新たな一石を投じる発見であることを願いつつ今後の調査を見守りたいと思います。

kk
この時期、ヤマト政権は百済を支援するため出兵しているが、高句麗に敗北してしまった。この記録が写真の「高句麗好太王碑」という石碑の碑文として刻まれているが、この頃、日本はどうなっていたのかというと、中国の史書に「倭の五王」と言う支配者がにおり、中国に朝貢してきたとしか記録に残っていない。
この4世紀の謎が解明されない限り、ヤマト政権の成立についてはミステリーのままだ。

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磐井一族に関する新たな発見

6日の西日本新聞に『八女古墳群(福岡県八女市)の前方後円墳の周辺で、ほぼ完全な形の武装石人一体が発掘された。』と言う記事が載りました。その発見がどのような事を意味しているのかと言うと、武装石人は磐井一族が大和朝廷に敗れた「筑紫君磐井の乱」(注)の後である六世紀中頃に製造されたもので、乱の後も磐井一族が勢力を保持していた可能性を示す証拠と言うのです。
磐井一族が乱を鎮圧されて、大和朝廷の勢力が完全に九州まで及んだとされていますが、こうした発見は九州の勢力が6世紀中ごろまでは、独自性を維持していた事を裏付けるものとなるでしょう。
以前から邪馬台国論争においても「近畿」説と「九州」説があるように、九州には大和朝廷と同等、もしくはそれ以上の勢力が存在したと考えられますよね。大和朝廷成立の鍵は九州にあるのではと思う今日この頃です。

(注)筑紫君磐井の乱
6世紀前半に九州の北部において勢力を誇っていた筑紫君磐井が大和朝廷に対して起こした反乱。日本書紀によれば、大和朝廷に対して不満を持っていた筑紫君磐井が527年、九州北・中部の勢力とともに決起し、大和朝廷が準備していた朝鮮遠征軍の派遣を妨害し、戦いを挑んだ。しかし乱は翌年末に鎮圧され、磐井は処刑されたと言われるが生存説もある。

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騎馬民族による征服王朝

周知の事実ですが3世紀後半から4世紀中ごろにかけて、日本(倭国)に関して記述された文献、石碑などは全くありません。要は魏志倭人伝から高句麗好太王碑までは空白の130年と言えるでしょう。その間日本(大和朝廷)がどのような過程で権力の統一を成し遂げて行ったのかはその年代の残された遺産などから検証するしかありません。それに関して、かつて江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝」説を唱えています。

「騎馬民族征服王朝」説とは・・・
「古墳時代前期と後期とでは、「突然変異的な変化」がみられることに着目。とりわけ副葬品の変化に注目し、前期は鏡・玉・剣さらに車輪石・鍬形石など宝器的・象徴的・呪術的なものであり弥生時代と本質的には変わっていない、しかし後期になると生活・戦闘など実用的なものに変わるのだといわれ、食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類などに変わっているといいます。
江上氏は、こうした「突然変異的な変化」は「その社会それ自身の内部的な発展によって生み出されるものでは決してなく、別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象。」と考えられたようです。

確かに魏志倭人伝によれば卑弥呼は呪術をもって30ヶ国余りを支配したとありますが、高句麗好太王碑には当時、朝鮮半島で百済の同盟国だった倭国の軍が、南侵してきた高句麗軍と交戦したとあり、わずか130年の間に同じ民族の支配形態が呪術から武力へ変わるのも疑問に思います。
この謎を解き明かすには、この空白の期間を埋める何か決定的な発見があることを待つしかないでしょう。

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