奈良で弥生時代前期の水田跡がみつかる
日本に大陸から稲作が伝わったのは、縄文時代末期から弥生時代前期かけてだと言われている。そしてその痕跡は福岡県の板付遺跡など主に九州地方において発見されているため、九州から東日本へ稲作は広がったと考えられているようだ。よって日本におけるクニの発展は九州から広がっていったと言う考えが根強く、さらには2世紀に魏国へ遣いを出した邪馬台国の存在も、こうした経緯から九州説を支持する人々が多い。ちなみに私は近畿説を支持している。
話を稲作伝来に戻すが、日本に稲作が伝わったと言われる紀元前4世紀頃の水田跡が奈良県の萩之本遺跡から発見された。この発見は稲作そして大陸の文化が九州地方から東へ伝播していったと言う定説を覆すものとして注目に値する。また、鉄器の伝来によりクニ同士が群雄割拠し、小国が分立していた九州よりも近畿地方のクニの方が稲作を基盤とした安定した発展が可能だったと考えられる。
この萩之本遺跡の発見は早い時期から近畿に稲作が伝わり、文明を築いていた証拠になるだろう。さらにはここを拠点に安定した文明と広範囲の領地を有する勢力が後に九州に存在したクニと互角以上の戦いを繰り広げたのではないだろうか。
以下詳細は新聞記事より抜粋。
奈良県立橿原考古学研究所は14日、萩之本遺跡(同県橿原市)で、弥生時代前期(紀元前4~3世紀ごろ)の水田跡と堰(せき)が見つかったと発表した。奈良盆地で確認された最古の水田跡。奈良盆地で弥生前期に高度な水利技術を伴った稲作が既に行われていたことが初めて明らかになった。識者は日本における稲作の広がりや、後に大和政権を生んだ奈良盆地の発展を生産面から考える上で貴重な成果とみている。
稲作は、弥生時代早期(紀元前5世紀ごろ)に大陸から九州に伝わり、東へ広がったと考えられている。奈良盆地ではこれまで、土器の形式などから弥生前期に稲作が行われていたことが推測されるだけだった。
京奈和自動車道の建設に伴い、約4000平方メートルを調査した。水田は高さ数センチのあぜで1枚10平方メートル程度に区画。全部で40枚以上(総面積約700平方メートル)を検出した。耕作土の他、水田を襲った洪水の堆積(たいせき)層から弥生時代前期の土器を確認。稲を刈った跡や弥生人の足跡も見つかった。
水田から約50メートル北の地点では、洪水で埋まった川を水路に転用し、水田に水を引くための堰(全長約10メートル、幅約2メートル、深さ約1メートル)を設けていた。川岸を数百本のくいと矢板で護岸して水の流れを制御し、川底を掘り下げた貯水施設を造っていた。取水口に水門らしき施設を伴い、季節によって変動する水量を調節したらしい。◎工楽善通(くらく・よしゆき)大阪府立狭山池博物館長(考古学)の話
弥生時代前期に奈良盆地に稲作が定着していたことの実証だ。後に大和政権の基盤にも結びつく生産力を発展させていく背景が分かってきたといえる。毎日新聞 2月14日
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