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熊本散策

 熊本に行ってきました。
 別に『翔ぶが如く』を読んでいるから関連の史跡を巡ろうと思った訳ではなく、以前から予定していたのです。それが偶然にも翔ぶが如くを読んでいる時期と重なった訳で、ある意味ラッキーであったと内心喜んでいます。何せリアルタイムで翔ぶが如くの舞台の一部熊本を巡ることが出来るのですから。

 今回熊本を訪れるのは4年2ヶ月ぶりになります。その間に熊本城は築城400年記念事業で復元工事がおこなわれたようで、17世紀の初めに加藤清正公が築城した当時の城郭の姿をほぼ再現させています。
 明治10年の西南戦争で、宇土櫓などを除く大半の建築物は焼失してしまったのですが、今回の復元工事では焼失した本丸御殿など複数の建築物が現代技術の粋を集めて再建されました。熊本の人々がお城に寄せる想いの集大成と言ったところでしょうか。
 それではその熊本城や今回の熊本散策について順を追って紹介してゆこうと思います。

1.本丸御殿
 焼失前の本丸御殿は清正の時代に建設され、中でも『昭君之間』と呼ばれる居間は下の画像をご覧頂いても分かるように豪華絢爛です。一説には豊臣秀頼が徳川家に攻められた場合、清正が秀頼を熊本に匿い、この昭君之間に迎えようとしていたと言われています。清正が存命し、秀頼を奉じて西国大名に号令をかけていれば大阪の戦いも違った形になったかもしれませんね。(参考『その時歴史が動いた 第315回』
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2.大銀杏 
 本丸御殿入口付近に植えられている大銀杏は熊本城の別名『銀杏城』に由来します。清正が熊本城築城の際に植えたと伝わっており、清正が亡くなる直前『この木が天守閣と同じ高さとなったときに、異変が起こる』と言い遺したそうです。それが不思議なことに天守閣と同じ高さになったのが西南戦争の時であり、この銀杏も天守閣焼失とともに燃えてしまったと言います。
現在の大銀杏はその後に芽吹いたもので、西南戦争から約130年経過した現在でこの高さな訳ですから、260年経過していた西南戦争当時に天守閣の高さと同じになったというのは満更大袈裟な話ではないかもしれません。
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3.天守閣
 熊本城といえばこの天守閣ですよね。この天守閣も西南戦争によって焼失してしまったのですが、昭和35年に1億8000万円の費用をかけて再建されました。この時松崎吉次郎氏という方からは5000万円も寄付して頂いたそうで、この金額を見ても熊本県人にとって天守閣再建が悲願であったあったことがうかがえます。
 天守閣から藤崎宮付近を撮影してみました。天守閣の北西は丘になっているため、西南戦争では薩軍がそこを占領しようと総攻撃を仕掛けました。篭城する鎮台兵と激戦を繰り広げ、2枚目の画像の宇土櫓後方あたりまで薩軍の大隊が熊本城に向かって押し寄せて来たことが想像できます。
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4.宇土櫓
 西南戦争で焼失を免れた数少ない城の施設です。秀吉時代に肥後半国を治め、関が原の戦いで西軍で参戦したために処刑されたキリシタン大名小西行長が居城としていた『宇土城』の天守閣を移築したために宇土櫓と呼ばれると伝えられてましたが、近年の研究で元々熊本城内に建築された櫓である可能性が高いとのことです。
 焼失を免れためリアルに築城当時の内部構造を知ることが出来ます。まず櫓内の構造ですが階段が急勾配で上り下りが結構怖いです。足を滑らしたら転げ落ちてしまう危険があります。ご年配の方やお子さんは特に注意が必要です。
 城の石垣は反りが激しいために『武者返し』と呼ばれていますが、その武者返しを果敢にも登ろうとする敵兵に向けて銃弾を浴びせるため、櫓の所々に画像のような銃眼が設置されています。熊本城が『天下の堅城』と呼ばれる所以をここにも見ることが出来るでしょう。
 画像の3枚目は夜ライトアップされた宇土櫓と天守閣です。神秘的な美しさで観光客を魅了しています。
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5.細川刑部邸
 ここは1994年に城下に移築されて一般に公開されています。なので私が初めて熊本を訪れた1991年にはまだ城下にはなく、子飼という地域にあったそうです。
 細川刑部邸は肥後細川家初代藩主忠利公の弟、刑部少輔興孝(おきたか)が1646年に2万5千石を与えられ興した家であり、その後も細川一門として藩政に参加しています。江戸期に細川姓ではなく長岡姓を名乗っていますが、詳しい理由は分かりません。ちなみに明治初頭に活躍した細川一門の長岡護美は後に細川姓に復姓しています。
 刑部邸は江戸時代に上級士族が住んだ武家屋敷の典型なのでしょう。下の画像2~3枚目は銀の間と呼ばれる家主の執務室と客間を撮影したものです。上級士族の屋敷と言えども質素な感じの造りであり、何となく『禅』の精神を感じることが出来ます。
 ちなみに平日の朝に行ったためか訪れていた観光客は私だけで、ほぼ貸切状態でした。また、刑部邸入場券と熊本城入場券をセットで購入すると2割引きとなるため、まず刑部邸を訪れて入場券を購入することをオススメします。
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6.桜山神社
 桜山神社には神風連の乱で死した敬神党のメンバー123名が葬られています。西南戦争につながる不平士族の反乱の中で最も早くに蜂起したのが神風連であり、彼らを再評価する動きが戦後から活発化しているそうです。三島由紀夫も彼らの思想に共鳴したと聞いたことがあります。色々な考え方はありますが、彼らが憂国の士であったと私は信じています。
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7.横井小楠記念館(四時軒)
 肥後藩出身で幕末に活躍した横井小楠の記念館と併設されているのが小楠の旧居であった『四時軒』です。記念館では小楠の経歴と偉業を称え、多くの遺品を公開しています。
 横井小楠は司馬遼太郎の『翔ぶが如く』において近代国家建設のビジョンを持っていた幕末から明治初頭に存在した3人(福沢諭吉・横井小楠・勝海舟)のうちの1人と称されている人物です。
 小楠はここ四時軒に坂本龍馬など幕末の志士を招いていたそうです。小楠の思想が多くの志士に波及したことが『攘夷』という抽象的な思想から『倒幕・新国家建設』という具体的な目標に変化していったのでしょう。
 画像は四時軒にある小楠の書斎です。ここも刑部邸同様に質素な造りとなっています。
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8.田原坂
 西南戦争最大の激戦地『田原坂』。ここは薩軍が要塞化し、政府軍の侵入を徹底的に防いだ場所です。よって多くの兵士がここで戦死したのです。
 司馬遼太郎は自身の著書『街道をゆく』で
『坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。』
と記しています。確かに田原坂に立ってみるとその異様な雰囲気と両側の山壁は洞窟の中にでもいるかのようで、薩軍が奇襲攻撃するには最適の場所であり、政府軍にとっては難攻不落の要塞であったことでしょう。
 坂を登り切ると西南戦争の慰霊塔が建っています。薩軍・政府軍の戦死者の氏名が刻まれており、その数の多さに正直驚いてしまいました。また、慰霊塔の近くには『弾痕の家』という施設があり、西南戦争当時に田原坂に建っていた家が両軍の凄まじい銃撃戦により多くの弾痕を残したそうで、それを当時撮影した家の写真をもとに再建したということです。
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9.阿蘇山
 私は過去に阿蘇山へ4回ほど登ったのですが、すべて雨か曇りで晴れている阿蘇山頂を肉眼で見たことがありません(飛行機の窓から見たことはありますが)
 今回は初めて晴れた阿蘇山頂を訪れることが出来ました。草千里や中岳の雄大さに感動しました。さすが日本最大のカルデラ火山です。
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 今回の熊本観光は、今まで私自身が熊本の歴史に疎かったために堪能することが出来なかった反省もあり、多くの予備知識をインプットしたことが良い旅につながったと思います。
 旅をする時には事前にその地の歴史を学んでゆくと一層有意義な旅となることでしょう。

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史跡田名向原遺跡公園を訪ねて

昨年(平成19年)4月に相模原市田名塩田に「史跡田名向原遺跡公園」がオープンした。
実は私、ここからそう遠くない地域に住んでいるので一度は訪れてみようと思っていたのだが、忘れていたり、時期を逸したりして延び延びになっていた。そして今日、時間も行動力も十分にあったので、遺跡へ行ってみることにした。
この史跡田名向原遺跡は現在公園として整備されているが、数年前までは発掘調査がおこなわれていて、今から18000年前の後期旧石器時代住居跡が発見されている。この住居跡は日本最古のものの一つではないかと言われており、相澤忠洋が岩宿遺跡を発見するまで、その存在すら証明出来なかった旧石器時代の重要な痕跡が我が郷土にあると思うだけでも何だか嬉しくなってしまう。この嬉しさはおそらく郷土愛ってやつかもしれない。いや郷土自慢であろうか?とにかく「我が国最古」が身近にあると言うのは気分が良い。

さて、この史跡田名向原遺跡公園には後期旧石器時代の住居跡以外にも、縄文時代(中期)の竪穴住居跡や、7世紀前半に築かれた円墳なども復元保存されている。
竪穴住居の存在は、この田名の地が相模川沿いであり、さらに川向こうは山岳地帯となっており、水の恵みと狩猟に適した豊かな土地に縄文人集まってきたことを証明している。狩猟が盛んであったことは遺跡から発見された黒曜石の加工品(石鏃-矢の先端部分-など)からもわかる。また、三内丸山遺跡の生活様式からもわかるように、縄文中期は現在の日本に比べておそらく温暖な気候であったと考えられる。するとこの地でも三内丸山と同じように果実を生産することが可能であったかもしれないのだ。
水・肉・果実、縄文人にとって田名は恵みの地であったに違いない。

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史跡田名向原遺跡公園内に再現された竪穴住居

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内部はかなり狭いが、現代人に比べて小柄であった縄文人にはちょうど良い広さかもしれない。

最後に公園内に再現された円墳から7世紀のこの地について考えてみたい。
おそらくは西から稲作が伝わり、土地をめぐる争いと、それにともなう階級社会が形成されていったのだろう。とくにこの地は川沿いであり、灌漑の整備により稲作が早い速度で普及していったと考えられる。また、円墳に眠る有力者はおそらく大和朝廷から柵封さらた人物だったに違いない。円墳と言う大和の埋葬方式を受け入れていることが何よりの証拠であろう。

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公園内に復元された円墳。古代田名の有力者が埋葬されていたものであろう。

この田名と言う地は相模川から水の恵みを受けて豊かな土地として発展していった。江戸末期から明治にかけても、江成久兵衛と言う人物が川の氾濫を堤防を築くことで防ぎ、多くの水田を広げていった歴史がある。この地に水があったからこそ旧石器時代から人々が集まってきたと私は思う。

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川崎大師へ初詣

現在午前2時32分、夜中に目覚めて寝付けないので、昨日行った初詣のことをブログにアップしてみようと思う。

昨日初詣で行った寺院は川崎大師である。ここは「厄除け」大師として有名な寺院であり、また初詣には多くの参拝客でごったがえすことでも有名だ。私が知っている限りでは初詣で川崎大師へ訪れる参拝者数は全国第2位だったはず。1位は明治神宮だったから確か2位であろう。
私はかつて川崎大師へ初詣する際に、大晦日から元日に日付が変わる時間に掛けて参拝をしていた。しかし近年は深夜の寒さや眠さに耐えるのがつらいので、元日以降の昼から参拝に出掛けるようにしている。それでも三元日は本堂(御本尊は弘法大師)にたどり着くまでに約2時間はかかる。昨日も2時間弱の時間を要した。画像をご覧頂いてもわかるように多くの人で本堂前はすし詰め状態だ。
そこまでして参拝する私は真言宗を熱心に信心しているかと言うと、檀家が真言宗だから初詣も川崎大師にしているだけと言うのが本音である。また神や仏の存在を信じるかと問われれば「信じたいが確証を持てない存在に絶対性を抱けない」と言うが私の神仏に対する気持ちである。何と言ったら良いのだろうか、神社仏閣の存在には畏敬の念は感じているが、それを信心しても神仏は「沈黙」している。だからその存在に確信は持てない訳だ。故遠藤周作氏の作品「沈黙」の終盤で主人公のポルトガル人宣教師が抱くキリストへの感情が私の神仏に対する感情と似ているかもしれない。とりあえず説明するのが面倒なので、興味のある方は「沈黙」を一読して頂ければと思う。

随分と堅苦しい内容となってしまったが、日本人はつい一週間前までキリストの生誕日を祝っていたかと思えば、新年を迎える日には寺社仏閣に参拝している。これを節操がないと評する人もいるが、私はこうした日本人の寛容さが明治から戦後にかけて飛躍的な技術革新を遂げる一因となったのではないかと考えている次第である。川崎大師へ初詣
元日から3日まで境内は多くの人でごった返す川崎大師。

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上野散策

もう2週間以上前になるが、上野へ行ってきた。
上野へは、昨年8月に東京国立博物館で開催された伊藤若冲展へ行って以来となる。
上野は江戸の文化と近代の芸術を凝縮した街である。江戸と明治と言う異なるカルチャーを同時に持ちあせている上野は何とも不思議な雰囲気を醸し出す街だ。ただその不思議さに中に多くの魅力を感じるのは私だけではないはずだろう。
そこで今回はこの不思議な街上野で撮影した歴史的名所・旧跡を写真とともに紹介してゆく。

まずは東京国立博物館。
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国立博物館は明治5年開館の日本最古の博物館である。現在の場所には明治15年に移ってきたと言う。
モダンで文明開化の香りが漂う美しい建築物だ。
個人的な話だが、上野を訪れた際は必ず立寄る場所で、常設展示の展示物も定期的に変わるので新しい発見もある。
歴史や文化が好きな方にはオススメのスポットだ。

次に不忍池。
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蓮が美しいこの池も、かつては海であった言われている。弁天堂を囲む池は一面蓮で覆われており、とても幻想的である。
池の名前の由来は、多くの笹が生い茂っていたため「しのわず」と呼ばれていたことだとあるサイトで読んで知った。

そして不忍池弁天堂
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新しい感じの建築物に見えるが、再建したものだろうか。
家康から家光まで3人の将軍に仕えた天海僧正が、不忍池の中に弁天島を築いたのが始まりだと言う。
天海は不忍池を琵琶湖に見立てていたので、弁天島は琵琶湖で言うところの竹生島になるらしい。

上野東照宮
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上野の東照宮は、1616年駿河で藤堂高虎と天海僧正が病床の家康を見舞った際、家康から末永く鎮魂の出来る場所を造って奉ってくれと遺言を受け、高虎の屋敷であった上野のこの地へ1617年に建立した。
その後家康を神と崇める家光によって大規模な改修も行われた。
この東照宮はその家康の他、八代将軍徳川吉宗・最後の将軍徳川慶喜を神として奉っている。

彰義隊の墓
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王政復古の大号令を端に発した戊辰戦争は、江戸にも戦火が及んだ。
江戸城無血開城をよしとしない幕臣・旗本たちは寛永寺に立てこもり自らを彰義隊と名乗って大村益次郎率いる新政府軍と戦った。
新政府軍はアームストロング砲を始め新型兵器で彰義隊を圧倒、彰義隊は敗れ去った。
墓石に刻まれた「戦史乃墓」の字はラストサムライと呼ばれている山岡鉄舟によるもの。

と、このように上野と言う町は、江戸から明治へと移り変わりの目撃者として、それを今に伝えているのである。

※江戸ブログにおいて2007年7月26日に投稿した記事です

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ぶらり甲斐府中の旅

NHK大河ドラマ「風林火山」の舞台である甲斐国(山梨県)。地元では風林火山の旗の下に「さあ街興しだ!」と盛り上がっているのだが、番組の視聴率は低迷を続けているようで、Gacktさん演じる上杉謙信の今後の活躍に期待したいところだ。私自身が過去の大河ドラマの作品と比較すると2000年に放送された「徳川葵三代」以来の名作だと思うんだけど、内容がマニアック過ぎて大衆受けしないのが原因かもしれない。
ドラマの話は終わりにして、私事になるが一昨日、甲斐国への日帰り旅を敢行した。甲斐国と言っても甲府市だけなのだが、山梨県の県庁所在地である甲府には武田信玄ゆかりの史跡などが多く点在するので、写真とともに紹介してゆこうと思う。

まずは甲州の伝統工芸でもある甲州印傳。それを製作・販売している「印傳屋」さん二階の印傳博物館に展示されていた1699年刊の版本・甲陽軍艦。
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甲陽軍艦とは武田信玄・勝頼親子の戦いやその戦術などを記した作品で、武田家の家臣であった香坂弾正から伝え聞いたものをその親族が記し、江戸時代に編纂されたと言われている。風林火山の主人公・山本勘助は、公には足軽組頭程度の武将でしかなかったと伝えられているが、この甲陽軍艦では軍師として登場したので、その影響で信玄の知恵袋的存在として多くの人に知られることになった。

つづいて訪れたのは甲斐善光寺。
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武田信玄は1552年の川中島の戦い以降、上杉謙信と同所において戦いを繰り広げていた。そのうち第二次川中島の戦いでは、信州にある善光寺にまで戦火がおよび、戦乱により焼失を危惧した信玄が1558年に本尊を自らの拠点である甲府に移し、ここに善光寺を建立したのが甲斐善光寺の始まりだと伝わっている。

善光寺の次は武田神社へ。
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ここはかつて武田信虎・信玄・勝頼の三代が居館とした躑躅ヶ崎館があった場所で、1581年に勝頼が韮崎へ新府城を築くまで武田家はここで政務などをおこなっていた。館の詳しい説明は画像を拡大していただきたい。
武田神社は1915年に信玄が従三位に追贈されたことから創建されることとなった。境内には宝物殿もあり、信玄が戦で用いた風林火山の旗や、明治政府で太政大臣であった三条実美から寄進された太刀(信玄の正室・三条の方が三条家出身であったことが寄進の理由)なども展示されている。

護国神社付近の甘利虎泰屋敷跡。
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武田神社から車で2、3分のところに護国神社があり、その脇に甘利虎泰屋敷跡と立て札が設置されていた。
甘利虎泰と言えば風林火山では竜雷太が演じ、保守的な頑固じいさんと言うイメージがある。ドラマなので創作の部分はあるだろうが、譜代の家臣で信虎の信任が厚かったことから、武田家臣団の中ではやはり保守派なんだろう。
躑躅ヶ崎館からかなり近い位置に屋敷を構えていたところを見ると、家臣団の中で重きをなしていたことがわかる。

武田信玄公墓所
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私は信玄の遺骨は、諏訪湖にまかれたのではないかと思っていたのだが(黒澤明監督の影武者でそんなシーンがあったような・・・。)実は荼毘に附されたあと、埋葬されていたと言う。その後江戸時代に代官の某に発掘され、現在の墓所が建立されたようだ。
ここに信玄公が眠っていると思っただけで気持ち引き締まってしまった。

最後に積翠寺温泉。
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ここは信玄の隠し湯と伝えられている所で、戦の疲れをここで癒したと言う。
風林火山で信玄と勘助が二人で湯に浸かっているシーンがあるが、もしかしたらこの積翠寺温泉を想定していたのかもしれない。
私も温泉に行ったが、肌がツルツルになり良い湯だった。オススメ。

とすごく簡単に私の甲府ぶらり旅を紹介してみたが、泊付きで行けばまだまだ名所・旧跡を見学することが出来るし、近くには石和温泉や勝沼のワイナリー、風林火山の撮影セットのある北杜市(サントリーのウイスキー工場もある)などもあるので、興味のある方は訪れてみてはいかがだろうか。

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鶴岡八幡宮 流鏑馬神事

※この記事は4月16日に作成したものですが、操作を誤り削除してしまったものです。作成日が4月25日となっておりますがご了承願います。

本日、鎌倉鶴岡八幡宮では毎年恒例の「武田流金子四郎家教氏一門」による流鏑馬神事が開催され、今年も多くの見物客で賑わっていた。私も、この流鏑馬を観るために鶴岡八幡宮まで足を運んだ。
実は昨年もこの流鏑馬神事を観に出掛けたのだったが、それが突発的であったために開始直前に現地へ着き、席取りなど当然出来ず、的を射るポジションで観ることができなかった。今回はその反省から他の見物客に遅れてはならぬと4時間以上前から的付近の最前列に陣取り撮影したのが下にUPした動画である。

今回の動画は昨年使用していた携帯電話より動画機能は優れている上に、撮影場所も良かったので、流鏑馬の迫力が非常に良く伝わると思うが、如何せん携帯電話だけに画素が荒いので、これでは射た瞬間はほとんど確認できない。そこで、同行者の方が提供してくれた高性能デジタルカメラにより撮影した的を射た瞬間の画像を下に載せておいたので見て頂きたいと思う。
この鶴岡八幡宮での流鏑馬は、毎年恒例イベンとして開催されているのだが、秋には別の流派も流鏑馬神事をおこなうそうなので、興味のある方は足を運んでみてはいかがだろうか。

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的を射る瞬間をデジタルカメラの連写モードで撮影しています。また、画像をクリックすると拡大します。

追記(2007年4月30日)
下にUPした動画は、昨日富士浅間神社で開催された武田流流鏑馬の映像です。鎌倉の流鏑馬と見比べてみてはいかがでしょうか?

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若沖と江戸絵画展

Jakuchu一昨日、お盆休みを故郷から脱出しようと毎度おなじみの東京国立博物館へ行ってきました。
帰省している人が多いから都内はそんなに混んではないと思ってましたが、意外や意外。「若沖と江戸絵画展」を観るために外まで行列が出来ているではありませんか!
とりあえず列最後尾に並び待つこと15分、会場を入ることが出来ました。
ところで、250年の江戸時代における文化を一言で片付けることは出来ません。京・大坂の上方中心で発展した元禄文化においての絵画は、まだ江戸での文化は成熟していなかったため桃山文化からの流れを組む幕府御用絵師の狩野派や、その影響を強く受ける尾形光琳(ただこの光琳の影響を受けた琳派の絵師達が、のちに江戸の絵画界において多大な影響を及ぼすことは言うまでもありません)などが隆盛を極めたのに対し、後期の化政文化では江戸を中心に町人が担い手となって発展した文化であったためか、菱川師宣・鈴木春信らの浮世絵から亜欧堂田善・葛飾北斎らの風景画までオリジナリティが随所に見られる作品を世に送り出したのです。そしてこの時代は先にも述べたような多くの有能な絵師を輩出した時代でした。その中には今回の展示の主役である伊藤若沖も含まれています。
「若沖と江戸絵画展」では、主に伊藤若沖や若沖と同じ時代を生きた絵師たちがどのような作品を残してきたのかを紹介しているものです。
江戸時代後期の円山応挙や伊藤若沖といった絵師たちは、狩野派と一線を画し、模写を重視したリアリティのある素晴らしい作品を残しています。また、この時代は長崎経由でオランダから伝ってきた西洋の絵画技法を用いているなど模写絵としての芸術性はかなり高いレベルにあると思われます。応挙や若沖の時代ではそれほど西洋の技法を多く用いた形跡はありませんが、亜欧堂田善や葛飾北斎の絵画にはそれらを多く見出すことが出来ます。
まあ鎖国の時代だからこそ、化政文化により成熟された日本オリジナル絵画の技法に貴重な洋画の技術が加わり、素晴らしい作品が多く生まれたのでしょう。まさに和洋折衷といったところでしょうか。

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亜欧堂田善の代表作「浅間山図屏風(本物)」の写真。かなりぼやけていますが、本物はかなりの迫力でしたよ。

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流鏑馬

季節も春になりましてとても過ごしやすい日々が続いています。こうした時期には何となく史跡めぐりでもしたくなるのですが、個人的に新しい仕事に就いた事と5月に控えた資格試験の勉強などでなかなかその機会を作ることが出来ないでいます。また、多くの方に訪れていただいているにもかかわらず、ブログの更新も疎かになってしまって本当に申し訳ない気持ちで一杯です。多少余裕が出てきたら以前のように数多くの記事を載せていきたいと思っていますので、何卒ご容赦いただければと思います。
何だか堅苦しい挨拶となってしまいましたが、今回の記事はタイトルのとおり「流鏑馬」です。先程自分で史跡めぐりに行く機会をなかなかつくれないと言っておきなが、こんな記事を書くのは言っている事と違うとお思いになるでしょうが、この流鏑馬だけはどうしても見たかったので、車を鎌倉まで走らせてついつい観に行った次第です。
さて、その流鏑馬ですがその歴史を説明するだけでしたら他のサイトでも知る事が出来るので、私のブログでは流鏑馬の「歴史」ではなく流鏑馬の「動画」を紹介します。
動画の流鏑馬は16日の日曜日に鎌倉の鶴岡八幡宮で催された武田流金子四郎家教氏一門による流鏑馬で、悪天候であるにもかかわらず多くの見物客で賑わっていました。その見物客に遅れてはならぬと1時間以上前から最前列に陣取り撮影したのがこの動画です。
流鏑馬は実に迫力があり、目の前を馬が駆け抜けるたびに「魂が武者震いする」気持ちになります。(何だか変な表現ですいません・・・)
この流鏑馬、鶴岡八幡宮で毎年恒例イベンとして開催されていますので、興味のある方はぜひ足を運んでみてください。


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博物館に初もうで

タイトルの意味は一体?と思われた方も多いかと思います。
06年の干支である「いぬ」にちなんだ展示や正月のイベントが1月2日から東京国立博物館で催されるとの事なので、凍てつく寒さと小雨降りしきる中、上野公園に赴いてみました。
下の写真は「博物館に初もうで」のキャンペーン用垂れ幕です。

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この日の国立博物館は入場無料で、毎年年始は無料であるとのことです。興味のある方要チェックですよ。
中に入るとすでに入口付近でイベントが始まっており、何だか獅子舞が私を出迎えてくれました(笑)下の写真はその時のもので、写真の獅子舞の中に入っていたのは何と女性の方でした!ビックリ\(◎o◎)/

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そのまま展示室の方へ進みましたが、展示内容はいつもの常設展示と大して変わらないものでした。しかし戌だけに「ワン」フロアだけ干支(戌)に関する展示スペースとなっていて、円山応挙が描いた戌や、その他古墳から出土した埴輪犬など、その時代でどのように犬を捉えていたのかわかる作品の数々を観ることが出来ました。
数時間博物館を観覧し、そのあと向った先は寛永寺です。
2日3日と寛永寺の根本中堂が無料で公開されると言うことで、強い降りになってきた雨をパーカーのフードで耐えつつ、急ぎ根本中堂へ向いました。
この寛永寺根本中堂には重要文化財の「秘仏薬師三尊像」が安置されています。また幕末期に大阪城から江戸に戻った慶喜公が謹慎したのもこの場所だったと聞いています。
下の写真が公開されている根本中堂です。

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初詣でへは有名な神社仏閣へお参りに行くのも良いですが、趣向をかえて正月早々から博物館で日本の文化に触れてみるのも悪くないですよ。オススメです。

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天応院


相模原市の下溝地区に天応院と言う寺があります。(この下溝地区は、私が2〜4歳まで住んでいた土地でもあります。)今日の午前中、いつものように車を飛ばし、この天応院まで行ってきましたので映像と一緒に紹介していこうと思います。
この天応院は室町時代には既に開山していましたが、江戸時代に小田原の後北条家一門の実力者北条氏照の娘が貞心尼と名乗り、この天応院の中興の祖として寺を再興します。また、この天応院は徳川家光の養育係であった青山忠俊の墓もあり、映像の墓がその青山忠俊の墓と言われているものです。
青山忠俊は2代将軍・徳川秀忠に仕え、のちに徳川家光の傅役となります。そして元和6年(1620年)には、四万五千石で岩槻の城主となりますが、しばしば家光に諫言を繰り返したことから閉居させられています。そしてこの天応院は忠俊が閉居した場所の一つだと伝えられているのです。その忠俊は死後、この地の領主であったため天応院に葬られています。
あと映像で真っ二つに切られた墓石がありますが、それはお化け石塔と呼ばれているもので、理由は定かではないですが、武士に切られたそうです。(しかし石を刀で切るなんてこと出来るのでしょうか・・・。疑問です。)

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相模原市の古墳



昨日に引き続き、近場にある史跡の動画を撮影してきましたので、アップ&説明をしていこうと思います。
私が住んでいる近隣に古墳でもないかとネットで検索してみたところ、相模原市にあることが判明しましたので、早速車を飛ばし、相模原市当麻にある「当麻東原古墳」へ到着しました。
ところが、到着して周囲を見渡してみると古墳と公園が隣接しているために、墳丘が子供の遊び場となっているではありませんか!「そこ、大昔の人のお墓なんだよ・・・。」と思いつつ古墳を撮影してきました。動画に子供が多く写っているのはそのせいであります。
この当麻東原古墳ですが、7世紀に築造されたもので、昔から地元では「馬塚」や「名馬塚」などと呼ばれていたそうですが、外観からすると馬と言うよりは完全に円墳だとわかります。
墳丘の直径は約16m・高さ約3mで、周囲に幅2mの溝がめぐっています。相模川の河原石を積み上げて築いた横穴式石室からは馬具や装身具数百点が出土しました。6世紀に相模川の低地を拠点とする集団を支配していた長の墓だと言われ、こうした古墳による埋葬を取り入れていたと考えると、この相模原一帯も6世紀にはすでにヤマト政権の支配下にあったと考えられます。
今回はこの小さな古墳の紹介をいたしましたが、今後も地元神奈川に点在する幾つもの史跡を紹介していこうと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

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三増合戦場跡


ブログに動画をアップすることができるようになったので、早速自宅からそう遠くない史跡へ足を運んできました。
車で走ること35分、神奈川県の愛川町にある「史跡三増合戦場」へ到着しました。この愛川町の三増地区は、目の前に桑畑と丹沢山系が広がる長閑な場所で、今の時期にはツーリング等で訪れる方も多いようです。
さて、この三増合戦場ですが一体何の合戦場の跡だったか、これから説明していこうと思います。
1569年10月、武田の軍勢は北条氏の居城小田原城を包囲します。が、しかし天下の堅城と謳われたこの城を落とすことは武田信玄をしてもかなわず、余力が残るうちに撤退することにしました。ところが、これを察知した北条氏康は、2万の軍勢を三増峠に送り、追撃を開始します。
戦いは当初、北条軍有利で進みましたが、武田軍の伏兵が北条軍の側面に撃って出て挟み撃ちをかけたことにより戦況が一変、北条軍は総崩し撤退を余儀なくされました。北条氏康と息子氏政は、厚木荻野まで援軍を率いて駆けつけましたが、三増峠での敗北を知り、小田原へ撤退するのでした。
現在、この合戦跡には戦死者(北条軍3269人・武田軍900人)を弔うための墓標が建てられており、今でも歴史ファンの方がお参りに来るそうです。私もここで亡くなった戦死者の方に哀悼の意を表したいと思います。
(追記)
平成10年にこの三増合戦場跡付近で重要な発見があったそうなので、追記しておきます。
平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は、武田・北条の二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は、筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では、相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説のあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
(愛川町教育委員会)

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円覚寺舎利殿

先日、約5年ぶりに鎌倉に行ってきました。目的は有名玉子焼き店の「おざわ」に行く事。そして北鎌の史跡めぐりをする事でした。午前中にうな重と「おざわ」の玉子焼きを食し、午後になってから北鎌へ移動しました。駅をおりて真っ先に向ったのが円覚寺。その円覚寺にある舎利殿と言えば鎌倉文化の代表建築です。高校生で日本史を学んだ方であれば「唐様」建築物として覚えた事でしょう。
ここで円覚寺について簡単に説明します。円覚寺は元寇(1274年・1281年)の戦没者(日本・元両軍の戦没者)の菩提を弔うために1282年に創建されました。開山は無学祖元。「円覚」の由来は、工事の際に「円覚経」と呼ばれる経典が発見されたことによります。
舎利殿は源実朝が中国より請来した仏舎利(釈尊の遺骨)を納められているお堂です。現在の舎利殿は室町時代の建築で、西御門太平寺の仏殿を移建したものと言われています。
と、長い歴史を持つ舎利殿ですが、舎利殿に向ったところ現在は非公開・・・(T-T)公開されるのは年に二回、正月三が日と、11月の文化の日を含めた三日間行われる「宝物風入」の時だけだそうです。次こそリベンジ!

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かろうじて見える舎利殿。ん~遠い・・・。

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京都へ行ってきました

6/27~6/29の3日間、京都へ行ってきました。この旅行は友人との二人旅でしたが、すべての旅程計画を私が立てたので半分は一人旅のようなものでした。
コースは定番の東寺・金閣寺・二条城・清水寺などはもちろんの事、そこ以外にも「願い事を叶えてくれる」お地蔵様がいる鈴虫寺や、新撰組最初の屯所壬生寺にも行ってきました。今回はそれらの場所で撮影した写真を紹介します。

2005
東寺の五重塔。その大きさは圧巻です!まさに弘法大師の器のように大きい!?

2005
六波羅密寺。奥に微かに見えるのが、国の重要文化財で運慶の四男康勝の作と言われる「空也上人立像」。

2005
清水の舞台。決して身を投げないでください!

2005
2005
蛤御門。門には禁門の変の際に出来た銃弾跡が残っています。

2005
壬生寺にある近藤勇像。

2005
鹿苑寺金閣。いつ見てもキンピカです!放火されていなければ当時の面影を偲ぶことが出来たのに・・・残念です。

今回は2泊3日での京都観光でしたが、京都を散策するには3日では足りないと痛感しました。また、せっかく京都に行くなら、奈良に立ち寄るべきだったと後悔しています。私は現在フリーターで、時間的余裕があります。再就職する前にもう、一度もっと長い日数を掛けて京都観光してみたいと思う今日この頃です。

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西郷隆盛の顔について

上野公園には日本を代表する彫刻家の高村光雲が制作した「西郷隆盛」の銅像があります。
ところでこの銅像、実際には本人の顔をモデルにして製作したものではないのです。これについては有名な話ですから多くの方がご存知でしょう。では誰をモデルにしたのでしょうか?
答えは
顔の上半分が弟・西郷従道(写真左)で、顔の下半分は従兄弟・大山巌(写真右)だそうです。tsugumichiiwao
ではなぜ西郷さんはそんな顔になってしまったのか?
明治政府は各産業において外国人の指導を仰いでいました。明治11年当時の印刷局局長の得能良助は写真が現存しない西郷の面影を残すために印刷局のお雇い外国人「キヨソネ」に肖像画を依頼します。そしてキヨソネは従道と巌の写真を参考にして西郷さんの肖像画を書き上げたのです。
saigou時は流れて明治31年・・・高村光雲はキヨソネの画いた肖像画を元に銅像を製作しました。この銅像の除幕式に出席した西郷さんの妻イトは
「こげなお人ではなか。」
と呟いたそうです。
今、西郷さんの頭蓋骨が残っていればスーパーインポーズ法を用いて肖像画と比較することで、イトの発言の真意を探れるのでないでしょうか?と思う今日この頃です。

2005高村光雲制作
「西郷隆盛」銅像


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第15代将軍 徳川慶喜の墓

yoshinobu今週の月曜日は天気が良くとても穏やかな日でしたので、私は定番の散歩コースである「上野公園周辺」へ行ってきました。
月曜日は各博物館とも軒並み休館日です。そこでこの日はウォーキングを兼ねて公園周辺の散策をしました。
どこを回ったかの詳細は省略させていただきますが、散策の最後に立ち寄ったのが写真の「第15代将軍徳川慶喜の墓」でした。
ここへ来るのは4回目で、祖父母の墓参りより多く行っています。おそらくあの世の慶喜公も私の顔を覚えてくれたはずです(笑)
徳川慶喜の墓は谷中霊園の一画にあります。曾孫の慶朝さんの話では約200坪の広さを持つようです。
本来徳川将軍であれば「上野・寛永寺」か「芝・増上寺」に墓地があるのですが、慶喜は将軍職を返上し、神式に改めたため、自ら墓地を谷中と選んだそうです。神式で葬られた慶喜の墓石(写真向かって左)は、写真を見ても分かるように、古墳に似ていますよね。これは葺石円墳状墓石と言うそうです。
もし慶喜公の墓に行かれる方がいるなら、お参りの際は必ず神式(柏手を打って頭を下げる)でして下さいね。

2005

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山梨県 銚子塚古墳 丸山塚古墳

今日は早朝のアルバイトが終わってから、友人と二人で山梨県の石和温泉へ行ってきました。9:40に神奈川を出発し、わずか2時間で石和に到着。早速山梨名物「小作」のほうとうを食し、その後笛吹市営温泉へ向かいました。温泉で約1時間寛ぎましたが、風呂上りの後は行くあてがなかったので武田神社にでも行こうと友人に持ちかけたところ「行き飽きた。」と言われ、しばらく沈黙・・・。ふと温泉入り口のチラシ類に目を遣ると「山梨の公園ガイド」なる物を発見!しばらく熟読し、行き先を「曽根丘陵公園」と決めました。yamanashi2005
温泉から川沿いの細い道を豪快に車を飛ばす友人に「怖い」と言えないまま20分ほど走り、目的地の曽根丘陵公園へ到着しました。
公園入り口付近には古墳の石室を移築したものと竪穴式住居があり、そこを地元の小学生達が夢中で探検?していました。小学生たちが去ると私も童心に返り住居の狭い入り口を潜り中に進入、内部を色々と観察しました。yamanashi2005そして入り口から歩くこと5分、目の前にとても大きな丘陵が見えてきました。その丘陵が丸山塚古墳です。
5世紀前半に築造された円墳の丸山塚古墳は、直径71mの大きさを持ち、当時甲斐の国を支配していた有力豪族のものだそうです。古墳の作りは近畿色が強く、その豪族が大和朝廷と強く結びついていたことを示しています。その証拠に大和朝廷から送られたと思われる鏡が出土しているのです。
丸山塚の頂上からはさらに大きな前方後円墳の銚子塚古墳を見ることができます。そして丸山塚から歩くこと1分、銚子塚の麓に着きました。yamanashi2005
銚子塚古墳は東日本最大級の古墳で、全長169mの前方後円墳です。まわりには濠があり、墳丘には埴輪が並べられていたそうです。古墳の竪穴式石室からは銅鏡、玉、石製品、刀剣、鉄鏃、貝輪などが発見され、ここの被葬者も大和朝廷と強く結びついていたと推測できます。
このように4世紀中ごろから5世紀初めには銚子塚古墳や丸山塚古墳など巨大な前方後方墳や円墳などが造られ、甲斐の豪族が、大和朝廷と結びついて甲斐の支配権を確立したことを物語っているのです。こうして古墳を見るだけでその当時の甲斐の様子が推測でき、豪族たちの権勢を計り知ることができますよね。
yamanashi2005ところが5世紀も終わりに近づく頃には豪族の力も衰えてゆき、古墳もこの写真のカンカン塚のような極めて規模の小さいものになっていくのでした。

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二条城

__hr_20051修学旅行の時、この城に行かれる方は多いんでしょうね。実際私も行きましたし。(ちなみに二度。修学旅行以外にも3年前に訪れました。)
この二条城は江戸時代初期の1603年に桃山文化の粋を結集して建設され、家康が上洛の際に宿所として利用するようになります。ちなみに豊臣秀頼が家康に謁見したのもこの二条城で、そのとき家康は秀頼の有能さに畏怖し「豊臣家を早く滅ぼさねば・・・。」と感じたそうです。そして方広寺の鐘の銘文に因縁をつけて1614年大坂の陣が開戦します。この戦いで徳川方参謀本部はこの二条城に置かれ、ここで数々の軍略を練ったのです。
家康の死後も将軍上洛の際には利用され、そして1626年には3代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大改修を行います。この大改修後の二条城が今も残るの城の体裁のようです。ところが家光の上洛を最後に、以後約200年にわたり将軍の上洛はなくなり、二条城は次第に荒廃していきます。幕末期にはまるで狐や狸の棲みかのようになり果てていたそうです。
二条城が再び脚光を浴びることになるのは1863年、14代将軍徳川家茂が3000人の兵を率いて上洛する時です。この時に荒廃していた二条城を約240年ぶりに大修築しました。当時の京都は長州系の志士たちの天下で、朝廷内も尊攘派の公家に支配されてました。そのような勢力に支配されていた朝廷は将軍家茂に攘夷決行を約束させるために京都まで将軍を引っ張り出したのです。その後も家茂は尊攘派に振り回され、幾度となく上洛しますが、第二次長州征伐の途中の1866年大坂城で病没、享年21歳でした。
最後の将軍徳川慶喜の時には、政治の中心はすでに京都に移っていたため、二条城は将軍の宿所ではなく幕府の中枢になっていました。そして1867年、慶喜はこの二条城で大政を奉還し徳川幕府260年の歴史に幕を閉じました。
後水尾天皇を迎え、幕府の権威を見せつけたこの二条城において、その幕府の幕を閉じたとは何とも皮肉なものです。

参考HP 日本の城・世界の城

taiseihoukan1867年10月、徳川慶喜は二条城二の丸御殿大広間で在京する40藩の大名や重臣を集め大政を奉還し、ここに徳川幕府260年余の歴史の幕は閉じた。その後二条城は朝廷に接取されて明治を迎える。
1884年に離宮となり1939年には京都市に下賜され現在に至っている。


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六義園

まだ桜が満開ではないのに駒込で電車を乗り換えるついでで六義園に行ってきました。しだれ桜はまだ三部咲程度…満開の時は美しい姿を見せてくれますがまだはずかしいようで「もう少し待って」とのことでした(笑)
六義園については以前「柳沢吉保」の記事の中で少し触れましたが今回は入場券の裏の解説を元に話をしてみたいと思います。
六義園は1702年に完成しました。この六義園、吉保の文学的教養により作庭され、名前は古今和歌集の序文に見える六義にちなんでつけられたそうです。園内には八十八の名勝があり1706年には霊元上皇が園内名勝の中から十二境八景の20ヶ所を選び吉保に賜ったのです。
六義園は現在、国の特別名勝として文化財保護法に指定されています。
(六義園説明)
東京都立六義園入場券参考

六義とは風、賦、比、興、雅、頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」から由来し、庭園は和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されたものだそうです。と言っても私もむずかしくてよくわかりません。
(追記)
ブログランキングにご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。おかげさまで4月1日現在10位となっています。これからもご協力おねがいします。

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六義園のしだれ桜。満開はまだ先ですな。

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私の好きな都内の散歩コース

私がまだ公務員で金銭的に余裕があったころ、上野~鶯谷方面に散策へ行ったものです。その散策の時一番最初に向かうのが「東京国立博物館」です。興味がある特別展示が催されてる時や、ただ何となく常設展示が見たい時にここへ寄ります。ここで見た渡辺崋山の「鷹見泉石像」は陰影法による写実的な表情で強烈な印象が残っています。
次に行くのが「旧岩崎邸庭園」。ここへは上野公園から不忍池を散策しながら抜けて行きますが、上野から少し歩くので覚悟してください(笑)
この邸は明治期に三菱財閥総帥岩崎久彌氏の本邸庭園として使用されていたのを復元したものです。ジョサイアコンドル(鹿鳴館も設計)設計の岩崎邸は洋館、和館、撞球室などがあり、当時のセレブの生活を見ることができます。庭に咲く花はとてもかわいく、警備のおじさまが品種について詳しくおしえてくれますよ。
次はそのまま鶯谷方向へ歩き目指すは谷中墓地。ここには多くの著名人のお墓がありますが、とにかく目立っているのが徳川慶喜公のお墓です。敷地はかなり大きく、曾孫の慶朝さんの話だと「二百坪」はあるようです。そして神式の墓らしく墓石代わりに亀の甲羅のような墳丘が二つ置かれています。ですのでお参りする際は柏手を打って頭を下げてください。
そして最後に・・ここは懐が温かい時にしか行けないのですが豆腐料理で有名な「笹の雪」です。この店の歴史は古く、元禄四年に玉屋忠兵衛が上野の宮様(110代後西天皇の親王)のお供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが始まりとされています。(笹の雪HPより)
ここで注文するのは「呉竹の里」コース。とにかく豆腐を使った創作料理がすばらしい。芸術品とっても過言ではありません。
こんな風に上野付近を散策してみると多くの発見ができますよ。

iwasaki-tei旧岩崎庭園。三菱の総帥「岩崎家」のセレブな生活がここでわかる。

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熊本城とその歴史

昨年の10月姉夫婦が住む熊本へ行ったついでに熊本城へ立ち寄り、何枚か写真を撮ってきたので紹介しながら熊本城とその歴史について触れてみたいと思います。
熊本城と言えば「加藤清正」と連想される方は少なくないはずです。彼が関が原の合戦の戦功により肥後54万石の大名となった後の慶長12(1607)年に熊本城は落成しました。豊臣恩顧の大名でもある清正はこの城を築くことによって、豊臣家に対して臣従を強要する家康を牽制する目的があったと思われます。がしかし慶長16(1611)年に清正は突然の死去、その世嗣の忠広は「江戸で生まれた母子を無断で国元へ送った。」と言う理由だけで改易されてしまい、出羽庄内1万石へ減封されてしまいます。その後この肥後の国に転封されて来たにはのは、細川護煕元総理のご先祖でもある細川忠利です。そしてこの細川家が幕末の廃藩置県まで肥後を統治することになります。細川家が肥後を統治していた時代については世間一般的にあまりよく知られていませんが、細川家第6代当主重賢は中興の祖として多くの藩政改革(宝暦の改革)に着手しました。中でも藩校時習館を設立して人材を育成し、また身分が高くなくても有能な人材(堀平太佐衛門など)を登用して藩政の建て直しを図った事は有名です。
そんな肥後の歴史を見つめ続けてきた熊本城でしたが、明治10年の西南戦争で宇土櫓以外はほとんど焼失。そのまま戦後を迎えましたが、現在は多くの有志により復元工事が進んでいるそうです。

_032加藤清正像。賤ヶ岳の七本槍の一人として武勇を馳せ、秀吉の朝鮮出兵では中心的役割を果たした。関ヶ原の戦いで東軍につき、戦功として肥後54万石を賜った。その後慶長12(1607)年熊本城を築城する。

_034熊本城天守閣。江戸期に存在した天守閣は西南戦争で焼失したため、現在の天守閣は昭和35年に再建されたもの。

_036宇土櫓。関ヶ原の戦いで処刑された小西行長の居城・宇土城を移築したとの説もあり、それが呼び名の由来ともなっている。

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