カテゴリー「文化・芸術」の18件の記事

2007/11/01

10月から東京国立博物館で「大徳川展」開催

明日、都内に出るついでに上野の国立博物館へ寄ってみようと思い、博物館のサイトを見ていたら・・・何と!
「大徳川展」
なるイベントが10月から開催されるとのこと。
江戸好きな私にとっては朗報である。

そして内容だが
将軍家・尾張家・紀伊家・水戸家に伝わる徳川家の至宝から選び抜かれた約300点の宝物を東京国立博物館に集めて展示する
と言う何とも贅沢なイベントだ。

オフィシャルサイトで確認できる展示物には

「この紋所が目に入らぬかぁー!」でお馴染みの
黒地葵紋蒔絵印籠 徳川(水戸)光圀所用

家康公が征夷大将軍に任じられた時に読み上げられた
宣旨 徳川家康征夷大将軍補任
※内大臣源朝臣と記されているが、家康は源氏を名乗るために家系図を吉良家から頂戴している。

そして家康公が臨終に際して「これを刃先を西国に向けて安置しておけ」と言い遺した
太刀無銘光世
※結局、260年後に外様として冷遇してきた薩摩・長州の西国雄藩に攻められるんだけど・・・。

などなど目玉宝物が多く展示されるとのことだ。
江戸マニアな方は是非足を運んで頂きたい。

大徳川展から話が逸れるが、徳川慶喜公の曾孫徳川慶朝さんが著した「徳川慶喜家にようこそ」は維新後に華族に列せられた徳川家の生活や価値観を垣間見る上でとても興味深い作品である。
慶喜公が撮影した写真なども掲載されており慶喜公の「その後」について興味のある方にはオススメの作品だ。

※江戸ブログにおいて2007年7月9日に投稿した記事です

| | コメント (0) | トラックバック (0)

edoで庶民の生活をCG体験しよう

昨夜、ネットサーフィンをしていたら大変興味深いサイトを発見した。
その名も「edo」
管理人の方はこのサイトのコンセプトをこう述べている

現代の大半の人の江戸文化を正しく理解していません。 それは封建社会の仕組政治的歴史は学校教育により学びますが、 庶民の生活文化を学ぶ機会が少ないからでしょう。 またテレビの時代劇などの誤った時代考証の影響もあります。 そこで、現在で可能な限り正確に時代考証を再現し、 多くの人々に伝えたいと思いこの3DCG「江戸」を制作しました。

なるほど、私も江戸時代の政治については興味津々に率先して学んできたが、庶民生活については教わる機会も、自ら学ぶ機会も少なかった気がする。
よくよく考えてみれば江戸時代は循環型社会と呼ばれていていたので、大量生産・大量消費を繰り返している現代の私たちにとって江戸時代の生活は学ぶところは多いはずだ。以前ある著名な作家に方が「日本が一番美しかったのは江戸時代だった。」と語っているのを耳にしたことがある。それは当時の町並みが美しいとか、景色が美しいとか言っているのではなく、生活習慣なども含めて美しい時代だったと言いたかったのだと今になって気がついた次第だ。

さあCGで江戸の生活を体験してみよう!
edo 江戸

※江戸ブログにおいて2007年6月13日に投稿した記事です

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/10

浮世絵と実際の風景を比較する

以前からこのブログでも何度も取り上げている「浮世絵」。特に葛飾北斎の作品に関しては芸術の素人である私でさえ息をのむような美しい風景画を描ている。私が富嶽三十六景を国立博物館で見た時は北斎ワールドに完全にやられた。
そんな北斎の富嶽三十六景をはじめ、江戸中後期に多くの浮世絵画家たちが風景画を描いているのだが(これは寛政の改革の綱紀粛正の影響で美人画が描けなくなったことに由来しているらしい)どうやら実際、描いた場所から見える風景と作品の風景は違うものが多いらしく、江戸後期から明治時代に撮影されたそれらの場所からの写真と比較するとそれがよくわかる。
そこで、それを見比べることの出来るとても興味深いサイトを発見した。「Web 浮世絵」と言うサイトだ。ここには北斎と広重が描いた浮世絵と、実際の東海道などの古写真を同じページに掲載し、比較している。実際に見比べても「あぁ、かなり違うね。」と思ってしまう。ただ言えることは、彼らの浮世絵は、模写するために描かれたのではなく、芸術性を追求して描かれていることだ。もし彼らが模写だけに固執していたら、後世にまで伝えられる名作にはなっていなかったはずだ。
とにかく、とても興味深いサイトなので、訪れてみてはいかがであろうか。
ちなみに日本近代洋画の祖、高橋由一が名作「花魁」を完成させると、モデルとなっていた花魁が「私はこんなんじゃないわ・・。」と泣いて嫌がり、由一は「わしは見たままを描いただけじゃ。」と素っ気なく返したと言う。結局花魁は喜多川歌麿の浮世絵のような作風を期待していたのに、由一がリアルに描いてしまったためにショックを受けたのだろう。お気の毒に・・・。

oiranutamaro
左が由一が描いた花魁で、右が歌麿が描いた美人画。全然違う・・・。

fugaku36-2
北斎の「神奈川沖波裏」すげぇ波だな。でも実際にはどう見えたのか?いづれあの世で北斎に聞いてみることにする(笑)

こちらからアクセスしてみて下さい→Title

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/11/22

北斎展

以前からこのブログで何回か取りあげている「北斎展」。私も19日の土曜日、会場の国立博物館へ行ってきました。
世界中に散在する北斎の作品を、今回の北斎展のために東京へ集めたとのことで、会期中は約600点にもおよぶ北斎の作品を見ることが可能です。そのためか私が到着した午後2時過ぎの時点で待ち時間は40分に達していました。会期が1ヶ月以上もある北斎展ですが、この待ち時間からも、北斎の人気をうかがい知ることができます。
会場に入ると作品を観るための列が出来ており、私は列の最後尾にならび、この日展示されている約400点の作品を観て回りました。
全ての展示作品を観るのに要した時間は約2時間半、入場者が多いため終了時間が1時間延長された甲斐もあって、最後の方は列に押されることもなく、鑑賞することが出来ました。
この日、北斎展で展示されていた作品を観て、私が持っていた北斎=浮世絵チックな風景画と言う固定観念は覆されました。北斎が若き日に習得した文化文政時代の浮世絵で用いられた技法に、陰影法・遠近法と言った西洋の技法を加えることで、独自の作風を形成し、富嶽三十六景につながっていく流れがわかったからです。
葛飾北斎と言うひとりの絵描きが、あらゆる特徴を持っているため、複数の絵描きが集まって北斎として作品を発表している。そんな錯覚さえ感じた北斎展でした。
博物館から出ると、辺りは薄暗い照明と月明かりだけの暗がりになっていました。日没が早いこの時期ですが私の心の中には、北斎と言う大きな太陽が輝き続けていました。
何ともクサイ台詞ですが、とにかく北斎の作品にはとても感動した次第です。また博物館に行ける方で興味のある方にはこの北斎展を是非おすすめします。

siojyaketonezumi
晩年の葛飾北斎は信州に住み、この「塩鮭と鼠」のような写術的な作品を完成させている。私も北斎展に行くまでは「浮世絵チックな風景画家」のイメージを強く持っていたが、こうした作品を目の当たりにして、北斎の創作能力の高さに脱帽した。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/07

東京国立博物館 北斎展

先月の25日より東京国立博物館において北斎展が開催されております。この展覧会は幕末から明治にかけて世界中に散ってしまった北斎の画を、現在収蔵している大英博物館やその他有名博物館から約500点以上も東京へ運び展示すると言うのものです。北斎ファンにとってはたまらない企画でしょう。
葛飾北斎と言えば富嶽三十六景をイメージする人は多いはずです。現に私もそうなんですから。ただ北斎は風景画だけを書いていたわけではありません。彼の長い人生(90年!)において、絵師として出発した当初は、役者絵で有名な勝川春章の門に入り、北斎自身も役者絵を描いていたのです。やがて、長崎にオランダの銅版画の技術が入ってくると、北斎はその技法を習得するため遠近法の研究に没頭します。また、当時の日本画では対象物に影を描くことはありませんでしたが、北斎はそうした概念に囚われず立体感を出す為に陰影法なども研究し、ついに独自の風景画スタイルを確立させるのです。その集大成が富嶽三十六景だったのでしょう。
と簡単にではありますが、北斎と言う画家がどのように画に対して取組んでいったはわかっていただけたでしょう。人生50年と言いますが、その倍近くを生き、その歳月をかけ独自のスタイルを確立した北斎は、日本が世界に誇れる画家と言えるではないでしょうか。

fugaku36-2
北斎と言えばこれ。「神奈川沖波裏」です。今回の北斎展でも11/13まで展示されているそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/03

記事「江戸時代の食事」に関連して

当ブログで3月に取り上げたテーマに「江戸時代の食事」と言う記事がありました。これに関連して面白い展覧会を見つけたので紹介したいと思います。
先月28日から滋賀県彦根市の彦根城博物館で、江戸時代の彦根の食文化を紹介するテーマ展「彦根の食文化」が開催されています。内容は江戸時代の武士や町人などの各層による食生活の紹介、井伊家の専任料理人の仕事(藩主への献立や使用した彦根の食材)、町人の宴会料理メニュー・豆腐料理のレシピなどの紹介etcとなっています。
私は関東地方在住のために行く事が出来ませんが、お近くに住まわれていて興味のある方は行かれてみてはいかがでしょうか?
(追記)
当ブログのテンプレートを「ウォームビズ」にしました。地球温暖化は現在進行形の人類最大の問題であり、また汚点でもあります。住みやすい環境を少しでも取り戻すために私もこの「ウォームビズ」に協力していこうと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/10/25

亜欧堂田善 浅間山

お久しぶりでございますm(_ _)m
私事ではありますが、10月中旬より就職活動をしておりまして、ブログへの書き込みを疎かにしてしまいました。ちょっと言い訳っぽくなりましたが、今後も「日本史探求」を宜しくお願いいたしますm(_ _)m
さて、今回はおなじみの東京国立博物館の展示品から亜欧堂田善の「浅間山図屏風」を取り上げたいと思います。
亜欧堂田善・・・変な名前ですね。この方は江戸の文化年間を生きた画家で、作品などはよく教科書にも載っているので名前を耳にした方もいらっしゃることでしょう。本名は永田善吉と言うらしく、「田善」はそれを略したものだそうです。まあ経歴を話すと長くなるので簡単に説明します。
生来才能あふれる画家だった田善ですが、その名を世に知られるきっかけは寛政の改革で有名な元幕府老中で白河藩主の松平定信が寛政6年(1794年)におこなった領内巡視の時でした。巡視の途中に田善の「江戸芝愛宕図」が目にとまり、田善は定信の御用絵師であった谷文晁に入門するのです。「浅間山図屏風」(写真)はその田善の代表作と言える作品です。
写真で見ていただいてもわかるように、とても写実的な作風でありつつも古来からの日本画の影響を受けた美しい作品と言えるでしょう。これ以外の亜欧堂田善のすばらしい作品をこの目で見てみたいものです。

tokyonationalmuseum2005
まさかこの名作を生で見れるとは思いませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/01

黒田清輝「読書」

数ヶ月前に東京国立博物館へ行った際のこと、数多く並ぶ日本画の中に一点だけ洋画が展示されていました。画の作者は黒田清輝、1895年の内国勧業博覧会で自らパリの展覧会で入選した『朝妝』(ヌード画)を出品し、裸体画論争を引き起こした経緯を持つ明治日本を代表する画家です。
写真の展示作品は「読書」と言う作品で、黒田がフランス滞在中に描いたもので、とても明治初期の日本人が描いた作品とは思えないほど対象の描写を見事に捉えた名作であります。
元々黒田は法律を学びにパリへ行ったのに、いつの間にか絵画に夢中になったらしいです。華族の道楽息子の趣味が高じて一流画家となった。黒田とはそんな人物だったかもしれません。でも一流を極めるとはいかなる理由であれ尊敬に値します。

kuroda-1
黒田清輝作「読書」。画の中の女性が真剣な眼差しで読み入っている本とは一体何なのでしょうか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/08/09

夕顔棚納涼図屏風

tokyonationalmuseum2005写真(暗くて見難いですが)の絵は、先日東京国立博物館において撮影した江戸時代の代表的な絵師久隅守景の作品「夕顔棚納涼図屏風」です。「夕顔棚納涼図屏風」は学生時代に教科書でご覧になった方も多いと思いますが、江戸初期の代表的な絵画として評価が高く、今でも高い人気を誇っています。来館された方の中には、この作品をお目当てに来たと言う方もいて、その人気を知る事ができます。
久隅守景は元々狩野派の絵師だったようですが、破門されてしまったようです(理由は定かではありません)。その後守景は庶民の生活に根付いた作品を書き、この「夕顔棚納涼図屏風」を完成させます。
絵の説明ですが、夕顔とは瓢箪のことで、その瓢箪の下で、夕涼みをしている家族の様子を描いています。また大きく描かれた月は、この家族の満足感を表現しているのかもしれません。
私はこの絵を見ていると日常の中には、ふとした事で、幸せを感じることができる瞬間があるのかなと思ったりします。納涼図屏風は本当にほのぼのとした優しい絵ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/17

ゴッホも影響を受けた「ジャポニズム」

200515日の日曜日、知人から誘われて東京国立近代美術館で開催されている「ゴッホ展」へ行ってきました。
正直な話、この展覧会へ行くまでゴッホと言う人物がどこの国の人物で、どの時代を生きたかなどは知らず、油絵で「花魁」と「ひまわり」を書いた人と言うだけの知識しか持ち合わせていませんでした。
電車で約1時間、美術館に到着するとすごい長蛇の列!どうやら会場に入るには1時間半は待つようです。結局この長蛇の列に加わり、知人にFP(ファイナンシャルプランナー)の問題を出題してもらいながら時間を潰し、ようやく会場まで辿り着きました。
「興味がないから退屈しちゃうかな・・・。」と思いつつ足を進めていくと、とっ、とんでもない!ここに展示されているゴッホの作品に夢中になってしまったのです。特にゴッホの作品が非常に日本の浮世絵の影響を受けていたと知り、かなりのサプライズ!「ゴッホって絵は下手なのに感受性がすごい!しかも日本に影響を受けていたとは!」と感動しました。(「花魁」以外にも「夜のカフェテラス」でも浮世絵の手法を取り入れているようです。)
と言う事で少し無理矢理ですが、今回はこのゴッホも影響を受けたヨーロッパでの日本ブームについて取り上げてみたいと思います。
ヨーロッパでの日本ブーム、それを「ジャポニズム」と言うそうです。日本の美術や工芸がヨーロッパに知られるきっかけは、1867年に開催され、日本(幕府・薩摩・肥前)が初めて参加した、パリの万国博覧会です。万博閉会後に出品物が売却され、このことによって、フランスにおいて日本の芸術が流行したと言われています
また、ゴッホが画家として活動した1870年代後半から1880年代にかけてが特に「ジャポニズム」隆盛の時代で、1886年にはフランスの雑誌「パリ・イリュストレ」が日本特集号を発行し、その表紙を元にゴッホが「花魁」を完成させたと伝えられています。
その他にも「ジャポニズム」に影響を受けた画家としては、マネ・モネ・ドガなどが有名で、主として前衛的な画家たちがジャポニズムを取り入れたようです。
考えてみると日本でゴッホの人気が高いのは、その作品に我々祖先たちが築き上げた伝統(祖先の用いた技法)を見る事が出来るからかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/19

次は恵比寿・・・ちょっと贅沢なビール発祥の地

恵比寿駅で流れる発車ベルはエビスビールのCMに使用されている音楽なんです。これは恵比寿駅を利用される方ならよく存じ上げている事でしょう。ではなぜエビスビールと恵比寿駅が関係あるのでしょうか?
1889年、日本麦酒酒造会社が目黒村三田にビール工場を建設します。日本麦酒酒造会社とは現在のサッポロビールです。その後ビールの生産量は増加し、1901年、日本鉄道にビール輸送のための停車駅を建設することを要請します。その要請に応じ駅が設置されます。そして駅名にはビールのブランド名の「恵比寿」と付けたのです。ここから各地に恵比寿「ちょっと贅沢な」ビールを発送したのでした。その後住民の要望があって駅を開放し、山手線の駅として開業します。そして駅名をそのまま「恵比寿」という名称で使用し現在に至っています。
実は私もつい最近までこの話を知らず、「何でエビスビールのCMソングが流れるのかなぁ~?」と疑問に思ってました。ところがTOKYO-FMでこの逸話をたまたま紹介していたので知る事ができたのでした。

ebisu-g恵比寿ガーデンプレイス。この地が恵比寿ビールの工場跡で、サッポロビール本社もこの中にある。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/04/13

日本へのカメラ伝来

現代は携帯電話にすらカメラ機能が備わっている時代、もうカメラなしでは不便で仕方がないという方も多いでしょう。カメラは発明されてからまだ200年程度しか経っていないのですが、その短い期間に利便性や芸術性などから多くの人に愛されるようになりました。今回はそのカメラの歴史、特に日本におけるカメラ伝来の歴史について取り上げていこうと思います。
世界で初めて写真の撮影に成功したのは、1816年フランスのニエプスという人物で、酸化銀と硝酸に浸した紙に映像(陰画)をとどめることに成功します。
その後の撮影技術の進歩する過程に関しては、私は詳しいことはわからないので、撮影技術が日本に伝わる時期にまで話を進めたいと思います。 1848年、長崎の商人である上野俊之丞がダゲレオタイプの機材一式をオランダから輸入します。ダゲレオタイプとは銀メッキした銅板に沃素蒸気で処理して表面に沃素銀を形成させて感光性を与え、撮影後に水銀蒸気で現像するものです。といっても私には漠然としかその製法はイメージ出来ないので、詳しい説明は控えさせていただきます。
上野俊之丞が輸入したダゲレオタイプの機材は、1849年に薩摩藩主島津斉彬の手に渡ります。彼が水戸藩主の徳川斉昭に宛てた手紙の中に「印影鏡」という言葉が度々使われ、ダゲレオタイプの性能を説明しています。
こうして「印影鏡」は日本にもたらされましたが、日本において最初に撮影に成功したのは1853年に来航したペリーの東インド艦隊の従軍写真家「エリファレット・ブラウン・ジュニア」で、日本人をダゲレオタイプで撮影したのです。しかしほとんどの写真は焼失してしまったそうです。
ダゲレオタイプの機材を手にした島津斉彬が撮影に成功するのは、入手してから10年近くたった1857年の事です。ということは日本人で初めて撮影に成功するのは斉彬を撮影した人物になる訳です。
その後、開港した長崎において多くの人物が撮影され、明治になると日本でもカメラが普及していくのでした。
最後に余談になりますが、西郷隆盛は写真嫌いで一枚も写真を撮らせなかったと言われてますが、実は西南戦争の時に、隆盛の暗殺を防ごうと、顔を知られないように、弟子たちが写真を処分してしまったという話もあったそうです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/11

ビートルズがやってきた!

budohkan この話が日本史に分類されるのかビミョーですが、今回は当時興行は不可能と言われたビートルズを日本に呼び、来日公演を仕切った伝説の男の話をさせてもらいます。
1960年代半ばに登場し、世界のミュージックチャートを席巻したイギリスのロックグループ、それが「ビートルズ」です。まあこんな説明は音楽を愛する人また志す人から言わせれば「説明不要」でしょうね。そのビートルズが来日してコンサートをするという噂が1965年ぐらいから国内を賑わします。そしてその話を現実のものにしようと立ち上がった男がいました。男の名は永島達司。共同企画(現キョードー東京)というプロモーション会社の40歳の青年社長です。
1966年、永島のもとに一本の電話が入りました。相手の名はビック・ルイス。ビートルズの辣腕マネージャーで知られるブライアン・エプスタインのパートナーでもあるルイスからの電話、何かビートルズに関する話だと確信した永島はその電話に出てみるとルイスから「ビートルズが日本に行きたがっている。お前がやってくれ。」との事。
当時の日本は現在と違い外貨を勝手に使用できない実情があり、ビートルズを呼ぶには相当な金額が必要だったのです。不安になった永島はその事をルイスに告げると「絶対に損はさせない!」と言われます。ただどうしても不安を拭えない永島は要請を断ろうとしましたがエプスタインから直接交渉を求められ渡英します。そして交渉の結果1966年4月5日来日興行を決意するのでした。永島一世一代の大勝負が始まります。
興行にはプローモーション会社以外にも主催してくれる企業が必要です。それには読売新聞社が求めに応じ、4月27日ついにビートルズ来日が公式に発表されました。日本のビートルズファンが夢にまで見た来日公演が現実となったのです。これは以前にその誠実な対応や堪能な英語を駆使しナットキング・コールなど大物ミュージシャンを呼び、興行を成功させているプロモーター永島に対してビートルズサイドが全幅の信頼を置いた結果とも言えるでしょう。
しかしビートルズ来日に関しては異論が絶えませんでした。主催の読売新聞社主の正力松太郎が「ベートルズとか言う連中に武道館は使わせん!」と発言すれば、細川隆元(細川隆一郎の叔父)は「乞食芸人に武道館を使用させるな!」と言う始末・・・。このような国内の反応に永島も苦慮し、使用問題解決のためエプスタインのいるニューヨークへ渡ります。そして協議を重ねた結果「女王から勲章(ビートルズはMBE勲章「メンバーズ・オブ・ブリティシュ・エンパイア」を授かっている)を授けられた英国の国民的音楽使節に武道館使用を許可する。」という武道館理事長の声明により事態の収拾を図ったのです。
そして1966年6月30日ビートルズが来日します。台風4号が去った直後の来日となったため、この来日を「ビートルズ台風上陸」とメディアは伝えたようです。永島と共同企画の社員たちはメンバーの移動やスケジュールを管理するため精一杯働きました。そして戒厳令が布かれた武道館においてコンサートがおこなわれます。会場はすさまじい声援と歓声で当時の音響設備では満足に音楽を聴くことは出来なかったでしょう。
そして4日間日本に滞在したビートルズは7月3日に離日。日本におけるビートルズ狂騒曲は幕を閉じたのでした。
永島はプロモーターとして永遠に語り継がれる仕事を成し遂げました。彼がこの日本にいなければこの「ビートルズ来日」は夢物語に終わっていたのかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あんパン物語

この話は以前NHKの番組、「その時歴史が動いた(明治天皇 あんパンを食す~リストラ武士 木村安兵衛の挑戦~)」で放映されたのでご存知の方は多いと思います。明治維新によって武士の身分を失った木村安兵衛がパン作りの修行を積み、やがて安兵衛が創作した「あんパン」を明治天皇に献上するという話です。今回はこの木村安兵衛がパン職人を志してから明治天皇にあんパンを献上するまでのストーリーを取り上げてみたいと思います。
木村安兵衛は現在の茨城県牛久出身で若き時は武士として幕府に仕えていました。ところが1867年の大政奉還により幕府は消滅、それとともに安兵衛は職を失います。
職を失った安兵衛は親類を頼って東京へ上京、東京府職業授産所(授産所とは、明治維新により失業した者に手に職を付けさせ生活の糧となるよう職業訓練をするところ)に務めるのですがそこで「パン」を知ることとなります。そして明治2年(1869年)、妻のわずかな蓄えを元手に芝日陰町(現在の新橋駅付近)にパン屋「文英堂」を開きます。しかし数ヶ月後に起こった火事によって店を焼失、銀座尾張町へ店舗を移転します。そこで武島勝蔵という腕のいい職人を雇い入れました。それからは文明開化の風潮のもと経営は軌道に乗ります。
やがて安兵衛は「日本人好みのパンを作りたい。」と思い、色々と思案しました。そこで思いついたのがパンの中に「あん」を入れた「あんパン」でした。この発明が大成功、飛ぶように売れていきます。
明治8年(1875年)、安兵衛は知人で明治天皇の侍従であり剣の師でもある山岡鉄舟からある提案を聞かされます。鉄舟はあんパンを「陛下に召し上がっていただこう」と申し出たのです。安兵衛はこの提案を快諾、この日より明治天皇ために、特別なあんパンを召し上がっていただこうと試行錯誤を重ねます。その結果、完成したあんパンはイーストの変わりに酒種を使い、中心の窪みに桜の塩漬けを用いたとても品の良いものに仕上がりました。
明治8年(1875年)4月4日、明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷を訪問します。そこでお茶菓子としてあんパンが献上されついに明治天皇があんパンを口にします。すべて召し上がり終えた天皇は・・・「引き続き納めるように」と申されたのです。これは献上した安兵衛に対する明治天皇なりのお褒めの言葉だったんでしょう。
この日以降あんパンは日本が誇る名物菓子となります。そして現在でも「木村屋」では明治天皇が召し上がったあんパンを「桜あんパン」として販売し、人気商品として不動の地位を維持しているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/28

葛飾北斎と富嶽三十六景

ユネスコによる世界遺産は「人類共通の財産とも言える各国に散在する歴史的な遺跡、地球的な自然を永久に守り続け、後世に継承しよう」という目標の元に1972年第17回ユネスコ総会で「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称「世界遺産条約」)が採択されました。
この世界遺産に登録されても不思議ではないのが我が国の代名詞とも言える山「富士山」です。しかしこの富士山、周知のとおり今もって世界遺産に登録されてません。なぜでしょうか?理由は、「白い川」が原因だそうです。「白い川」とは、富士山の登山者が残す汚物によって造られるいわば「山小屋からの垂れ流し」です。また白い川に限らず、自動販売機の設置や、ゴミの投棄などの環境破壊も原因として挙げられます。このような現代の富士山の惨状はとても残念でなりません。
しかしまだゴミに汚染されず美しかった江戸時代の富士山が葛飾北斎によって描かれてます。有名な「富嶽三十六景」です。6年の歳月をかけて江戸、関東諸州、東海道・・様々な場所から望む富士山の姿と富士山と暮らす人々の景色を描いた名作です。
葛飾北斎は当初役者絵で知られた勝川春章に入門し、役者絵を描いてました。歌舞伎俳優をえがいた役者絵は、江戸時代のブロマイドのようなもので北斎も多くの役者絵を描きました。庶民の求める絵をひたすら描き続けたのです。 北斎が「風景画」を描こうと思ったきっかけは長崎から入ってきた18世紀のオランダの銅版画でした。北斎は西洋の技法を習得するため遠近法の研究に没頭し、立体感を出す為の陰影法も試しています。日本画では、人物に影を描くことはありませんでしたが、その常識を破ったのが北斎でした。そして月日は流れ「富嶽三十六景」を制作する直前、北斎は大病を患ってしまいます。しかし北斎は、脳出血を自ら煎じた薬で克服したと言われ、その病んだ体で富士山という巨大な山に立ち向かっていったのです。そして「富嶽三十六景」は完成していくのです。
近年、アメリカのライフ誌が企画した、この1000年間で偉大な業績をあげた世界の人物 100人の中に、日本人でただ一人北斎が選ばれました。また北斎の死後、西洋の後期印象派の画家たちに北斎の作品は影響を与えたようです。彼の芸術の素晴らしさは日本のみならず、世界からも高い評価を受けています。彼が描いた富士山とは対照的に・・・。
参考ホームページ 美の巨人たち

fugaku36-1富嶽三十六景の一つ「神奈川沖波裏」北斎晩年の名作。


| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/03/23

蔦屋重三郎

レンタルCDなどで有名な「TSUTAYA」。この名前の由来は江戸時代の地本問屋「耕書堂」の主人の名前からとったというのは有名な話です。その「耕書堂」の主人、蔦屋重三郎は当時のエンターテーメントの先駆者であり、今でもその生き方に共感を受ける人が多いようです。
今回はこの蔦屋重三郎こと蔦重(つたじゅう)を取り上げていきます。
蔦重が営んでいた地本問屋とは娯楽的な絵本、洒落本、芸の稽古本、歌舞伎のダイジェスト絵本、浮世絵、細見、狂歌絵本など、一般的で軽い本を扱う本屋のこと言います。また出版社としての仕事も兼ねていたので当時の浮世絵師(写楽や喜多川歌麿など)や作家(山東京伝や十返舎一九など)に活躍の場を提供しました。はじめ蔦重は吉原に書店を開き、「吉原細見」(1773年)という店ごとに遊女の名を記した案内書(今の大人の遊びガイドみたいなもの)を出版、販売し世間にその名を轟かせます。その後、洒落本や狂歌本などのヒット作を次々に刊行し、1783年に一流版元の並ぶ日本橋に進出、先に説明したように有名な作家や浮世絵師に活躍の場を提供していきます。
しかし寛政の改革で1791年、山東京伝(さんとうきょうでん)の洒落本・黄表紙が摘発され、蔦重は財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けてしまいます。その後の1794年には写楽の役者絵を出版、その健在ぶりをアピールしますが、1797年に脚気により死去。48年の生涯に幕を閉じました。
まだメディアが発達していない江戸期にあって、これだけの大仕事を成し遂げた蔦重。この人こそまさにエンターテーメント先駆者、先見の明に長けた人物だったと思います。

参考ホームページ 蔦屋耕書堂

syaraku写楽の代表作「大谷鬼次の江戸兵衛。」
写楽はわずか10か月の間に約140点の錦絵を描いて、その後消息を絶った。この写楽の活躍も蔦重なくして語れない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

高橋由一と花魁

日本近代洋画の祖、高橋由一の代表作「花魁」についてのある逸話について紹介します。
その前に高橋由一の経歴を説明します。
1828年3月20日(文政11年2月5日)佐野藩士の子として江戸の藩邸に生まれました。幼年より日本画を学び、20歳ごろ、オランダの石版画を見て西洋画に魅せられ、1862年(文久2年)幕府の蕃書調所画学局に入所します。1873年(明治6年)天絵楼(のち天絵舎、天絵学舎)を設け、多くの後進を指導しました。 精密で写実的な画風が特徴で、近代日本最初の洋画家として知られています。
参考ホームページ 人名辞典

その逸話ですが、「花魁」のモデルとなった稲本楼の花魁・小稲は由一が描く絵が喜多川歌麿のような浮世絵の美人画で完成すると想像していました。しかし出来上がった画を見て、「私はこんなんじゃないわ・・。」と泣いて嫌がり、由一は「わしは見たままを描いただけじゃ。」と答えたと弟子によって伝えられています。
確かに「花魁」を見ると浮世絵に比べあまりにもリアルすぎて、当時のモデルからしてみれば「うわぁ!最悪・・。」と思うでしょうね(苦笑)

高橋由一の「花魁」(左)と喜多川歌麿の美人画(右)。

oiranutamaro

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/14

徳川家の末裔

江戸開府400年目を迎えた去年、徳川宗家18代当主徳川常孝さん(日本郵船株式会社 前副社長。現在、日本郵船株式会社 顧問)が「江戸を語る」をテーマに話されている映像を見つけましたので紹介します。
徳川家は明治維新後公爵家として存続し、16代当主徳川家達は貴族院議長をつとめ、大正10年にはワシントン軍縮会議に全権として出席しています。また大正3年に山本権兵衛首相がシーメンス事件(ドイツの造船会社シーメンス社からの収賄事件)の責任を取って辞任したあと、組閣の内命が降りましたが固辞した話は有名です。そんな徳川家の現在の当主が常孝さんで徳川の人間の立場から江戸時代や先祖について語っています。
江戸幕府の国際意識
鎖国政策 家康の思惑
徳川家とは?
知られざる将軍の一日
18代から見た徳川家康とは?
水戸黄門の諸国行脚は?

| | コメント (2) | トラックバック (1)