カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の41件の記事

2009/10/21

保守からみた司馬史観

 司馬史観。
 司馬遼太郎さんの歴史考察はこう呼ばれている。私自身もこのブログで再三司馬史観を記事にしている訳だが、最近この司馬史観に関して保守系知識人から異論が出ているようだ。
 その話の前に少々私が司馬史観をどう思っているのかを述べさせてはしい。
 司馬史観は歴史学ではなく、あくまでも司馬遼太郎という一個人の思想であり、実際には司馬『私』観と呼ぶ方が正しいであろう。
 しかし、司馬遼太郎さんが国民作家としての地位を築いたがゆえに司馬史観が歴史学上の事実のような捉え方をする向きがある。
 私は、司馬史観を人生の教科書と捉えて読み、そして学んでいる。要は歴史を通じた道徳の教本として司馬作品を読んでいるのだ。
 その中にも私が司馬史観に異論を唱えたいものもある。例えば乃木希典愚将論や、勝海舟を開明的幕臣と捉える考えなどだ。
 乃木希典は確かに旅順攻略に苦戦した。さらには白襷隊という愚行としかいいようのない部隊を編成して無駄な肉弾戦を実施した。
 反面、乃木の統帥力に目を向けると、彼の司令の下に無垢なまでに従順であった部下が、乃木を信じて旅順で戦ったし、旅順艦隊を攻撃するために、正面攻撃と併用して港に砲撃を仕掛けている。
 私は、乃木が下地を作っていたからこそ、児玉源太郎の作戦が203高地を陥落させることに成功したと思う。司馬さんのいうような愚将であるとは思わない。
 勝海舟のことだが、司馬さんは彼を非常に高く評価している。果たしてそうだろうか。
 勝は幕府の海軍力の強化や、江戸城無血開城には尽力した。しかしそれだけで終わってしまい、西郷隆盛のような時勢を操るほどの力量は持ち合わせていない。私から言わせれば勝海舟ごときは単なるネゴシ好きなオッサンだろう。

 話を本題に移したい。
 保守系知識人が司馬史観を問題にしているのは『明るい明治』と『暗黒の昭和』という描き方についてだ。
 司馬史観を歴史学として捉えた場合、それは確かに極端な対比であり、保守系知識人の方々にとっては面白くない。しかし、くどいようだが、司馬史観は司馬私観であり、歴史学ではなく小説である。そこを保守系知識人の方には考慮してもらいたい。
 また、司馬さん自身がいわれているように、司馬さんは戦前の事象の否定のために18歳の自身に向けて小説を書いている。それを考えた場合、必然的に明治の肯定と昭和の否定で結ばれるは仕方ないことだろう。

 最後になるが、保守系知識人の方が司馬遼太郎は攘夷を無謀な思想と断じていると語られているが、それには異論を述べたい。司馬さんは攘夷を変革のエネルギーとして描いている。それは小説『花神』を読んで頂ければわかるはずだ。

 と司馬史観について述べさせてもらったが、これだけ司馬遼太郎という人物が死後13年を経ているにもかかわらず、多大な影響力を持っていることに、私は驚きを感じた次第でる。
 まだ司馬さんの小説を読まれてない方には、ぜひ一読されることをおすすめしたい。

 チャンネル桜 富岡幸一郎氏の「司馬史観に異議あり」動画。
 保守系知識人からみた司馬史観として大変参考になる動画である。

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2009/10/07

小説『豊臣家の人々』

 今回の記事も私の話から始めてしまうが、最近電車での通勤が多く、その上乗車時間が長い。さらに慣れない土地での仕事は非常にストレスも溜まりやすく、帰宅時にはグッタリしている状況だ。
 そんな中、前回の記事でも話したように、せめて通勤・帰宅時に楽しみでもあればと思い、司馬さんの作品を読むことにした。それがタイトルの『豊臣家の人々』である。
 豊臣家の人々は転職前に読み続けていたものを、再び読みだしたもので、読み進めてゆくうちに2ヶ月前に読んでいた内容が思い出されてゆき、さらには私が”豊臣家の人々”を俯瞰しているような感覚になるほど熟読したので、わずか3日の日数だけで読み終えてしまった。読書のスピードが遅い私にとって、約300ページ近くを通勤・帰宅・就寝前の3日で読み終えるということは、その内容がそれだけ魅力的なものだということが言える。
 何だか司馬さんの作品のように回りくどい始まりになってしまったが、そろそろ本題に移りたい。

 『露と落ち露と消えぬるわが身かな浪花のことは夢のまた夢』

 豊臣秀吉の有名な辞世の句である。最後の”浪花のことは夢のまた夢”という部分を読むと、秀吉自身が本能寺の変以降そのものを”夢”と認識していたことが理解できる。司馬さんはこの”夢”の主宰者秀吉を取り巻く人物を、この作品で見事な人間描写を駆使して描いている。さらに言えば、彼らの栄華の部分ではなく、陰鬱な部分を濃厚に描いている。それこそが、秀吉の”夢”に翻弄された”豊臣家の人々”であり、司馬さんが読み手に伝えたかった部分ではないだろうか。(少なくとも私はそう感じ取った。)
 そんな中で、秀吉の正妻寧々と異母弟の秀長に関しては、自己を認識した有能な人物として描き、逆に異母妹の旭に関しては新興貴族”豊臣家”の被害者として描いている。
 豊臣政権尾張派の母堂として君臨し、時勢の流れを巧みに読み取る寧々、その寧々が事実上の主宰である尾張派と、茶々を担いで政権実務を握っている近江派の調整役を任されている秀長の憂鬱、さらには秀吉の権謀の道具として不幸な人生を歩む旭、作品の中で独特の司馬史観が彼らに息吹を与えている。見事だ。

 とここまで記してたが、何だか疲れてしまったので、続きは気が向いたら更新したい。ご容赦のほどを。

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2009/08/15

日本版ボートマッチ

 以前、このブログに多くのコメントを寄せて下さった”ASTRO-KT”さんから教えて頂いたツール”日本版ボートマッチ”をご紹介したい。
 現在、読売新聞のインターネットサイトYOMIURI ONLINEでは、有権者の投票行動の基準となる”総選挙2009 日本版ボートマッチ”を提供している。ボートマッチは、30問近い設問に答え、その回答がどの政党と近いのかを判定するものである。私も投票行動の指針とするために先ほどやってみた。
 最も政策が一致した政党は”国民新党”で一致が18、不一致が14という結果であった。ちなみに、最も政策が一致しない政党は”公明党”で、一致が8、不一致が24である。

 私が国民新党との一致が多いのは、必然的な結果かもしれない。4年前の郵政解散では小泉劇場を批判して、郵政民営化反対の候補者を支持したのだから。詳しくはこちら
 郵政公社を民営化することは仕方ないにしても、急激な民営化は利用者の困惑を生むだけだと私は考えていた。しかも、郵貯や簡保の残高が、市場原理主義者や外資系金融機関に流れることも危惧していた。そうした考えから早急な郵政民営化には反対したのである。
 公明党と不一致が多いというのも当然の結果であろう。私はこの国が好きだし、坂の上の雲を目指して必死に走った近代日本人に尊敬の念を抱いている。公明党は支持母体の創価学会が、戦前の日本の覇権主義を全面否定している訳で、歴史認識が私とまったく違う。(日本は帝国主義的な道を歩まなければ、19世紀以降生きてゆけなかったし、ロシアの南下運動に侵食されていたと私自身は考えている。)
 政策も、都合の良い部分だけ自民党に容喙する程度の政党を、支持する気にはなれない。

 現在の日本の政治は”二大政党制”の様相を呈しており、マイノリティーの意見が軽んじられてしまう傾向にある。私の考え方は、真の民主主義とはマイノリティーの意見も汲み上げることができるシステムであると思う。小選挙区比例代表並立制の導入により、その傾向が顕著になってしまった。
 二大政党制は、政権交代が可能なシステムとして評価はできる。しかし前述したように、マイノリティーの意見を封殺してしまう弊害もあるのだ。

 政治について駄文を長々とつづってきたが、このページをご覧の皆様も、インターネットの掲示板などに煽動されることなく、自身の意思で一票を投じてほしい。私も8/30は意思を示しに行く予定だ。

 賢明な有権者の皆さん、選挙に行きましょう。

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2009/08/08

ドラマ『坂の上の雲』キャスト

 今秋から放送予定のスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』の配役がほぼ決まった。
 配役は以下のとおり。

秋山真之 本木雅弘

秋山好古 阿部 寛

正岡子規 香川照之

正岡 律 菅野美穂

夏目漱石 小澤征悦

秋山久敬 伊東四朗

秋山 貞 竹下景子

秋山多美 松たか子

伊藤博文 加藤 剛

広瀬武夫 藤本隆宏

東郷平八郎 渡 哲也

高橋是清 西田敏行

児玉源太郎 高橋英樹

長岡外史 的場浩司

井口省吾 堤大二郎

藤井茂太 宮内敦士

陸 羯南 佐野史郎

正岡八重 原田美枝子

秋山季子 石原さとみ

山本権兵衛 石坂浩二

八代六郎 片岡鶴太郎

乃木希典 柄本明

乃木静子 真野響子

伊地知幸介 村田雄浩

 私が思うハマリ役は何といっても正岡子規の香川照之さん。
 映画『剱岳<天と記>』では、案内人の宇治長次郎役を見事に演じきった。また、演技派女優として応援している菅野美穂さんの妹リツ役も期待大だ。
 小説では天才として評価されている児玉源太郎は、高橋英樹さんが演じる。児玉にしてはカッコ良すぎる気もしなくもないが。私は映画『203高地』を観ているので、どうしても児玉=丹波哲郎さんのイメージが強い。
 小村寿太郎の竹中直人さんはハマリ役だろう。

 さて、乃木大将の配役である。先日、柄本明に決定した。小説では徹底的に愚物として描かれた乃木大将、それを誰が演じるのか期待して待っていたのだが、柄本さんとは意外である。前述した203高地でのイメージが強く残っている私は、乃木=仲代達也さんのイメージであるため、ドラマにおいても重厚感のある役者さんが演じると思っていた。
 柄本さんが決して重厚感がないとは言わない。ただ、どうしても『功名が辻』での秀吉のイメージが強いので、この配役を聞いたときは「えっ」と思ってしまった。しかし、評価はドラマを見てからにしたい。
 あとは無能参謀伊地知を村田雄浩さんが演じる。村田さんといえば、私が楽しんで見ていた『スチュワーデス刑事』で財前さんの夫役を公演した俳優であり、個人的には好きな俳優さんである。無能伊地知を村田さんがどう演じるのか注目したい。
 スペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』、今から楽しみだ。

 @nifty投票を利用して、以下のようなアンケートを実施しています。ご協力お願いします。

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2009/08/01

幕末雄藩”@nifty投票”の結果

 日本史が好きな方の多くは『”~時代”に興味がある』というものがあるはずだ。私自身のその時代は江戸時代と幕末(大局的にみれば幕末も江戸時代なのだが)である。
 特に政治史は好きで、ブログでも多くの江戸政治家を取り上げてきた。
 そして幕末、時代の激動と共に駆け抜けた志士たちの活躍を小説やドラマで見てはその都度胸を躍らせている。もちろん彼らだけでなく、その活躍を支えた藩という組織にも関心を持っている。今回はその幕末雄藩についてブログをご覧の皆さんに投票してもらった”@nifty投票”の結果から随想風に記してゆこうと思う。

@nifty 投票「幕末の雄藩でその活躍が好きなのはどの藩ですか?」の結果は以下のとおり。

薩摩藩:23票 (29%)
会津藩または新撰組等の幕府関連組織:15票 (19%)
長州藩:13票 (16%)
宇和島藩:13票 (16%)
土佐藩:8票 (10%)
佐賀(肥前)藩:6票 (7%)

 結果は薩摩藩がトップであった。やはり幕末三傑のうち2人を擁する薩摩藩に多くの方が魅力を感じたのであろう。西郷、大久保といえば「尊敬する歴史上の人物」という問いで常に上位にランキングされる人物であり、賢君徳川慶喜にして「幕府に西郷、大久保ごときの器をもった人物がおるか。」と言わしめたほどである。
 特に西郷隆盛は人間としての器もケタ外れであろう。本来であればその才覚を駆使してたやすく権力を掌中に収めることできるにもかかわらず、自身を”愚鈍”であると観じきってしまい、配下の人々に仕事をしやすくする。しかもその責任は西郷自身が取る。まさに究極の将帥の姿であろう。
 今の時代にこれほどの器を持った政治家が日本にいるだろうか?狷介固陋な小泉純一郎氏や、曖昧な抽象論ばかり口にする野党幹部たち。もっと西郷のごとく大きく構えて、堂々と国民に向き合うべきではないだろうか。
 現代の政治の話はやめておく。
 西郷や大久保は自身の役割を心得ていた。そして薩摩藩全体を彼らの向かう方向へと舵を切らせた。西郷という巨大戦艦に有能な志士を乗せ、舵は大久保が取る。燃料の供給者は島津久光。ゆえに向かう方向が同じ時には歯車が見事にかみ合い、驚異的なスピードで推進する。しかし、その方向性が違ってくると、あまりに個性が強すぎるために互いを傷つけあってしまうことになる。それが幕末薩摩藩の長所と短所といえるだろう。少なくとも私にはそう映る。

 佐幕的立場の藩に投票される方が薩摩の次に多かった。日本人の伝統的性格である”判官贔屓”をこれにみることができる。佐幕的な藩や組織といえば、会津、桑名、長岡などの徳川親藩や新撰組、京都見廻組といった治安組織が思い浮かぶ。特に新撰組は司馬遼太郎氏の作品「燃えよ剣」や三谷幸喜氏のドラマ「新撰組!」などの影響で人気は高い。私が4年前に壬生寺を訪れた際にも、多くの歴女が隊士たちへの想いを訪問ノートに記していた。
 少々語弊があるかもしれないが、新撰組という組織は治安維持を名目にした単なる”人斬り集団”を、後世の時代小説家たちが義士にまつり上げた感がある。志士としての器量や才覚は土方はズバ抜けているが、他の隊士にはそれが乏しかった。乏しかったと言い切ってしまうこともないが、土方と他の隊士の終わり方を見るとそれは歴然である。

 意外にも長州藩が人気がない。実際は私もこの藩が好きってことはないのだが、明治の元勲伊藤博文のような才覚ある政治家を生み出した藩風は高く評価したい。
 司馬遼太郎氏の作品「花神」の主人公である大村益次郎にしたって、この藩領で生まれていなければ単なる田舎医者として終生過ごしていたはずだ。長州というナショナリズムが強い地域と藩風があったからこそ軍略家大村益次郎になりえたのである。
 また、この藩が幕長戦争に勝利していなければ、倒幕という流れが生まれることなく、さらに日本が文明開化に目覚めることもなかっただろう。そう考えると長州藩の果たした役割は、ある意味薩摩藩のそれより大きかったのかもしれない。

 その他、宇和島藩が高い得票を得ていることに驚く。日本史に詳しくない方には幕末宇和島藩が果たした役割など知ることはないであろう。私自身も司馬氏の「街道をゆく」を読むまでは宇和島藩など”伊達家の枝”程度にしか考えていなかった。しかし、この藩は知れば知るほど面白い。
 藩公の伊達宗城は好奇心の塊のような人で、開明的な人物を身分関係無く重用した。蒸気船の建造に関しては前述の大村益次郎(この時期は村田蔵六と称す)や堤燈張りの嘉蔵、医学に関してはシーボルトの娘イネや、同じくシーボルトの弟子二宮敬作などを重用し、藩を上げての技術革新を成し遂げようとした。
 こうした事実を顧みると、”通(つう)”の人には宇和島藩が魅力的に映るのが分る。

 その他、坂本龍馬や板垣退助を輩出した土佐藩、宇和島藩と同様に名君の鍋島閑叟によって技術革新を進めた肥前藩など、幕末の藩を調べてゆくことは本当に面白い。 

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2009/07/26

邪馬台国論争”@nifty投票”の結果

 「邪馬台国。実際そのような名前の国は存在しない。」
といえば大げさかもしれないが、邪馬台国という呼称は”魏志倭人伝”に記されていただけで、日本列島に住む人々はそんな呼び方をしていない。また、邪馬台国と呼ばれるクニを、日本列島に住む人々がどれだけ知っていたかについても、今となっては知る術もない。

 この邪馬台国と呼ばれるクニが一体どこにあり、どのような発展(衰退)をたどったのかという議論は、高名な学者から在野の研究者までの間で尽きない話であろう。しかしその所在地さえハッキリすれば、邪馬台国の実像というもがぼんやりと見えてくるのではないだろうか。
 私の思い込みかもしれないが、近畿であればヤマト王権のベースとなったクニであり、九州であればヤマト王権に従属したクニである可能性が高い。その見極めが困難なために、逆に邪馬台国論争がロマンとして取り上げられる訳だ。
 では邪馬台国が一体どこにあったのか、当ブログを閲覧された方々にそれを問うてみた。結果は以下のとおり。

九州説:37票 (37%)
近畿説:46票 (46%)
その他の地域:7票 (7%)
日本国外の地域:4票 (4%)
そもそも邪馬台国など存在しない:6票 (6%)

 箸墓古墳における調査結果の影響か、近畿説が一番高い得票数を得た。次いで九州説である。朝鮮半島から伝わった文明を濃厚に受け入れたであろう九州地方のクニが、魏志倭人伝を記した中国と交流が深かった可能性は高く、その背景から”邪馬台国=九州地方”は十分に考えられる話かもしれない。
 私自身は再三話しているように近畿説を支持しているのだが、その支持は正直まだ確信には至っていない。
 炭素年代法による調査や、三角縁神獣鏡の大量出土などの物証は近畿説であることを物語っている。いや、これは単にヤマト王権の原型が近畿に存在したことだけの物証であり、邪馬台国の所在とは関係のない話かもしれない。
 このように、考え出したらキリがない。それが邪馬台国論争なのだ。

 色々な意見や主張がある邪馬台国論争だが、所在地判明こそが日本の起源を知る重要な要素であることは言うまでもない。
 今後もこの邪馬台国論争を興味を持って見守ってゆきたい。

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2009/05/27

幕末関連アンケート

 選択肢が少なくて申し訳ないのですが、以下のようなアンケートを作成しました。
 幕末という激動の時代に活躍した藩で、特に『この藩の活躍が好き』と持っているものを以下の選択肢から選んで下さい。
 会津のような佐幕的な藩、長州のような急進的な藩、佐賀・土佐のような有能な逸材を輩出した藩、宇和島藩のような開明的な藩、自身が『これだ』と思うものを選んで下さい。
 ご協力お願い申し上げます。

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2009/03/13

ブログ開設4周年

 2005年からもう4年も経つのかと思うと、早いようなそうでないような・・・。まあ正直どちらでもいいって訳で、それよりも世の中の変化に比べて自分は変化も成長もしていないと恥じ入るばかりである。

 あぁそんな話題じゃなかった。日本史探求の話題。
 今日で開設から4年を迎える。アクセスして下さったみなさんと、私に歴史を探求できるような有閑な環境と与えてくれた人々にあらためて謝意を表したい。ありがとうございます。

 さて、日本史探求の記事をカテゴリー別に検索してみると、平安時代から戦国時代の記事が極端に少ない。これは私の関心事を如実に表している。
 物事の起源や時代の変革期、合理的な思想に興味を抱く私が目を向けるのはどうしても古代から奈良にかけてと、江戸から近代にかけての時代になる。もちろん中世は変革の時代である。支配階層の変化や日本人の倫理観、生活様式が確立された時代こそ中世であった。
 しかし中世は遠からず近からずの時代のため、歴史そのものが漠然としており興味が持てないというのが現在の心理である。どうしたって鎖国によってオリジナリティが形成され学問や文化が成熟した江戸時代や、新しい国の在り方を模索した幕末に目が行ってしまう。それはそれでいいのだろうが、消化不良も起こしやすくなる。こうなるとその消化不良によって歴史への興味が薄れてしまう危険性もあるだろう。

 歴史の真ん中がスッポリ抜けている私の歴史観とブログ日本史探求だが、ブログのタイトルでもある日本史探求を実践するには全ての時代を網羅しなければならない。今後は中世に視点を向けないことには真の日本史探求は出来ないであろう。記事が稚拙になろうとも、知識が継ぎ接ぎの不完全なものであってもチャレンジすることが大事であり、学ぶ姿勢を持ってゆきたい。
 これからのブログ日本史探求の目標は『中世の記事をアップ』すること。苦手な時代もそれを克服すれば好きに変わるってこともあるだろう。
 相変わらず下手な随筆になってしまったが、日本史探求を今後もご贔屓に願います。

※ちなみに、NHK教育テレビで放送されている『高校講座日本史』がインターネット上で視聴(無料)できるそうです。私も時間がある時に見てみようと思います。興味がある方はアクセスしてご覧になって下さい。

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2009/03/09

東京大空襲

 64年前の今頃、東京の下町に空襲警報が出た。
 東京上空に襲来したB-29は房総半島方面に消え、空襲警報も解除された。しかし米軍はこの隙を狙い、3月10日の0時7分から焼夷弾を投下した。これが下町の一般市民を『無差別殺戮』した東京大空襲である。

 4年前、あるテレビ番組で映画監督の山本晋也氏が次のような話をされていた。
 『昭和20年3月10日深夜、小田原に疎開していた私は激しい轟音により目を覚まし、その轟音の方向に目を向けました。すると空が昼間のような明るくなっており、東京で激しい空襲が始まったことに気づいたのです。戦後、私の通っていた小学校の先生が私たち生徒にこう言われました。「いいか、東京を火の海にしたヤツの名はカーチス・ルメイというアメリカの軍人だ。この名前を一生忘れるな。」その言葉は今でも忘れられません。』
 4年前は東京大空襲から60年目の年で、テレビでも多くの特番が組まれていた。その中でも山本監督のこの言葉が今でも忘れられない。
 
 国家間で戦争状態になると多くの犠牲が出て、尊い命が失われてゆく。私たちが命を奪う側にもなるし、また奪われる側にもなる。残酷であるがこの地球上に生まれた人間の運命である。
 しかし、太平洋戦争末期のアメリカ軍は、どう考えても日本人を使い開発した兵器の実験をしていたとしか思えない。『リメンバー・パールハーバー』という感情を差し引いても東京大空襲や原爆投下は行き過ぎた軍事行動だ。これらの行為は日本に生まれた私にとって屈辱であるし、この蛮行に及んだ当時のアメリカ軍の連中を許すことは出来ない。

 実はこの日本史探求を始める前、ココログで別のブログを開設していた。そのブログにおいて東京大空襲60年目の記事を作成している時に
『この記事のように歴史の真実を取り上げてゆくブログを始めてみよう。』
と思ったことが、日本史探求を始めるきっかけとなった。それは私たち日本人が真に学ぶべき歴史をブログというツールを使って広げ、日本人としてこの国を愛せるように自らがなるという志を持った瞬間でもあった。
 東京大空襲は私たち日本国民にとって忘れてならない悲劇であり、屈辱であることを最後に記しておく。

 東京大空襲詳細 Yahoo!百科事典より

 

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。米軍機の日本空襲は開戦翌年の1942年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。日本軍の連勝中に、太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう/チョーチヤン)省の基地におりたこの奇襲は、被害こそ少なかったが、日本軍部に大衝撃を与えた。

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。

 アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。

 東京大空襲に関連した動画がyou-tubeにアップされていたので、ここに貼っておきます。爆撃を指揮したルメイの映像もあり、そのルメイが日本で手にした旭日勲一等の勲章の映像も収められています。日本人を殺戮した人物に勲章を与えた事実は国辱としか言いようがありません。


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2009/01/17

10万アクセス達成

 日本史探求で利用しているアクセスカウンターで、ついに100000アクセスに達することが出来ました。

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 カウンターを設置したのが2005年7月30日で、このブログを開設したのが2005年3月13日、ゆえに4ヶ月間カウントしていなかった期間を考慮するならば、実は数ヶ月前に10万の数字は達成していたのでしょうけど、とりあえずはこのカウンターでアクセス数が10万に達したことを日頃ご覧頂いている方々にご報告させて頂きます。 

 ちなみにこのカウンターでは二重カウントをしない設定を選ぶことが出来ます。提供元の説明によれば『更新ボタンを何度も押されて、異常にカウント数を増やされたことはありませんか?スゴいカウンタは、二重訪問をカウントするカウンターと、カウントしないカウンターを両方用意しております。用途に応じて使い分けてください。』とのことです。

 この二重訪問をカウントしない設定で10万ものアクセスを達成できたのは、私の日本史知識の賜物・・・ではなく、ブックマークしてくださっている方やキーワード検索で訪れてくれた方、そしてこの日本史探求をご自身のブログでリンクして下っている方の力によるのもだと感謝しております。本当にありがとうございました。そして今後もこの日本史探求をよろしくお願いいたします。

 平成21年1月17日 日本史探求 Mr.Misaki

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