カテゴリー「書籍・雑誌」の33件の記事

2009/11/16

小説『世に棲む日日(一)~(二)』

 狂。
 平和な世の中に生きる私たちがこの一字を目にするとき、恐ろしい、もしくは不快なイメージでとらえるだろう。常軌を逸した何かがその一字には秘められている。
 しかし、動乱の時代においては、狂という気運が時代を一変させる力となることを私たちは歴史の中で無意識に知っている。それは平将門の戦乱しかり、織田信長の天下布武しかりだ。そして何と言っても極めつけは幕末の尊皇攘夷という思想ではないだろうか。
 司馬遼太郎は、小説『世に棲む日日』において、この狂に目覚め狂に殉じた人物を描いている。
 吉田松陰と高杉晋作、彼らは『狂』という情念を加熱させて明治維新への原動力に変化させた。この二人の生きざまを描いたのが『世に棲む日日』である。

 司馬さんは、思想というものと吉田松陰の関係について作品の中でこのように述べている。

 思想とは本来、人間が考えだした最大の虚構ー大うそーであろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはじき出すように日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を理論化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。これをほどの思想家は、日本歴史の中で二人といない。

 江戸時代末期、吉田松陰が唱える尊王や国家論は狂気そのものであった。江戸幕藩体制が250年近く続き、松陰の思想がこの国の既成概念から逸脱したものにとらえられた。
 しかしその狂気の思想がペリー来航以降、厳然たる国家観としてとらえられ、それが尊皇攘夷という倒幕運動のエネルギーにまで醸成されてゆく。そして高杉晋作が、松陰の虚構を体現してゆく実践者となる。

 『世に棲む日日』の1巻と2巻では、吉田松陰の思想家への道程と、さらには高杉晋作がその思想の実践者になる前の葛藤を描いている。平和な時代に生まれていたら狂人と呼ばれさげすまれていたであろう松陰と、同じく上士高杉家の御曹司として藩の良吏として一生を終えたはずの晋作。2人の人物像を、幕末の時代背景とさらには彼らの交友関係を織り交ぜながら見事に描き出している。

 3巻以降は、晋作が長州藩における尊皇攘夷の牽引者としての活躍を描いているのだが、それについては読了してからあらためて記事にしたい。
 その時に、尊皇攘夷という狂気の思想が、維新への原動力と醸成されてゆく過程を、この作品(司馬史観)を通じて考えてみたいと思う。

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2009/10/21

保守からみた司馬史観

 司馬史観。
 司馬遼太郎さんの歴史考察はこう呼ばれている。私自身もこのブログで再三司馬史観を記事にしている訳だが、最近この司馬史観に関して保守系知識人から異論が出ているようだ。
 その話の前に少々私が司馬史観をどう思っているのかを述べさせてはしい。
 司馬史観は歴史学ではなく、あくまでも司馬遼太郎という一個人の思想であり、実際には司馬『私』観と呼ぶ方が正しいであろう。
 しかし、司馬遼太郎さんが国民作家としての地位を築いたがゆえに司馬史観が歴史学上の事実のような捉え方をする向きがある。
 私は、司馬史観を人生の教科書と捉えて読み、そして学んでいる。要は歴史を通じた道徳の教本として司馬作品を読んでいるのだ。
 その中にも私が司馬史観に異論を唱えたいものもある。例えば乃木希典愚将論や、勝海舟を開明的幕臣と捉える考えなどだ。
 乃木希典は確かに旅順攻略に苦戦した。さらには白襷隊という愚行としかいいようのない部隊を編成して無駄な肉弾戦を実施した。
 反面、乃木の統帥力に目を向けると、彼の司令の下に無垢なまでに従順であった部下が、乃木を信じて旅順で戦ったし、旅順艦隊を攻撃するために、正面攻撃と併用して港に砲撃を仕掛けている。
 私は、乃木が下地を作っていたからこそ、児玉源太郎の作戦が203高地を陥落させることに成功したと思う。司馬さんのいうような愚将であるとは思わない。
 勝海舟のことだが、司馬さんは彼を非常に高く評価している。果たしてそうだろうか。
 勝は幕府の海軍力の強化や、江戸城無血開城には尽力した。しかしそれだけで終わってしまい、西郷隆盛のような時勢を操るほどの力量は持ち合わせていない。私から言わせれば勝海舟ごときは単なるネゴシ好きなオッサンだろう。

 話を本題に移したい。
 保守系知識人が司馬史観を問題にしているのは『明るい明治』と『暗黒の昭和』という描き方についてだ。
 司馬史観を歴史学として捉えた場合、それは確かに極端な対比であり、保守系知識人の方々にとっては面白くない。しかし、くどいようだが、司馬史観は司馬私観であり、歴史学ではなく小説である。そこを保守系知識人の方には考慮してもらいたい。
 また、司馬さん自身がいわれているように、司馬さんは戦前の事象の否定のために18歳の自身に向けて小説を書いている。それを考えた場合、必然的に明治の肯定と昭和の否定で結ばれるは仕方ないことだろう。

 最後になるが、保守系知識人の方が司馬遼太郎は攘夷を無謀な思想と断じていると語られているが、それには異論を述べたい。司馬さんは攘夷を変革のエネルギーとして描いている。それは小説『花神』を読んで頂ければわかるはずだ。

 と司馬史観について述べさせてもらったが、これだけ司馬遼太郎という人物が死後13年を経ているにもかかわらず、多大な影響力を持っていることに、私は驚きを感じた次第でる。
 まだ司馬さんの小説を読まれてない方には、ぜひ一読されることをおすすめしたい。

 チャンネル桜 富岡幸一郎氏の「司馬史観に異議あり」動画。
 保守系知識人からみた司馬史観として大変参考になる動画である。

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2009/10/14

吉田松陰という人

 私が公僕であった時代の同僚が、このブログを読んで『ジャジーさ、疲れてるみたいだな。』とありがたいような、迷惑なようなメールを送ってきた。
 この同僚、実は職場で優秀な男であるにもかかわらず、その稀有な性格からか公僕らしからぬ言動が多い。おそらくは余程の天才か、余程の変人か、どちらかなのだろう。
 この同僚と同じような性質の人物が幕末の日本に存在した。吉田松陰である。
 私は現在、司馬遼太郎さんの¨世に棲む日々¨を読んでいる途中なのだが、この作品(1巻)の主人公が吉田松陰だ。
 作中の松陰は、平素君子人であるのだが、ある事象を目のあたりにすると行動が飛躍する。飛躍するというか彼が育った環境を鑑みれば辻褄(つじつま)が合う。
彼の師は玉木文之進、司馬さんの幾つかの作品に登場する長州の教育者である。
 文之進の教育は
『私より公をまず考えて行動しろ。』
というものである。また多分に陽明学の影響が強いので、言行一致を旨としているのであろう。その教育姿勢は、吉田松陰や乃木希典に受け継がれ、日本人的精神の基礎となった、と言えば大袈裟かもしれないが、今に至っても彼の思想や倫理観を美的なものと捉える人は多いはずだ。
 そんな訳で世に棲む日々を読んで、吉田松陰という人に迫ろうとしているジャジーです。
 内容はいずれまた記事をアップしたい。

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2009/10/07

小説『豊臣家の人々』つづき

 PCでの入力は目が疲れるので、携帯からの投稿にした。
 では前回からのつづきで、話題は淀君(茶々)から。

 ¨秀吉の夢¨であり¨砂上の楼閣¨でもあった豊臣政権だが、関ヶ原の戦いにより瓦解、徳川家康に政権運営を掠奪されてしまう。
 時勢の流れに敏感である戦国の猛者どもは、家康に対して従属してゆくが、なぜだか淀君は時勢を理解していない。関ヶ原の戦いを単なる派閥抗争と考えていた節すらある。
 そこには淀君の生い立ちが関係しているのであろう。
 豊臣家の人々に描かれている他の人物は、自身が卑賤の出自であることを認識し、その事実と新興貴族豊臣家のメンバーとして振る舞わなければならない葛藤が人生の足枷のようになっていた。しかし淀君は違う。生まれながらの武家貴族であり、ゆえに彼女にはパワーバランスがない。彼女にはきらびやかな世界で自身をどう魅せるかが生への執着であったのだ。
 司馬さんはこの作品でそこまでは触れていないが、淀君の未練がましい最期を描いた時点で、それを暗に表現していたことは間違いないはずだ。もし、淀君が豊臣秀吉の側女ではなく、羽柴秀吉時代からの連れ合いであったならば、大阪の陣という愚行に及ばなかったであろう。いや、関ヶ原前夜に尾張派と近江派を和解せしめて、家康による尾張派懐柔策を打ち砕いていたかもしれない。
 司馬さんの描く淀君は、武家貴族としての気位が高く、神輿に乗りやすく、その割にはパワーバランスを理解できない愚鈍な人物であった。それは元々淀君に対して歴史的評価をしない私にとってはある意味痛快な話であったし、淀君の性格も司馬さんが描くようなものであったと想像してしまう。先入観と思い込みとはこんなものである。

 この豊臣家の人々中で司馬さんは多くの場でお話されている¨自己認識¨について歴史小説家らしい描写をされていた。現代に生きる日本人は、どうも生き方が抽象的であり、自己の肥大化もしくは自己卑下し過ぎでいるような気がする。もっとよく自己認識し、今の自身に何ができるのかを考えれば現代社会に窒息しなくて済むのではないだろうか。
 歴史を知ることで、今の生き方を知る。豊臣家の人々を読み終えての私の感想である。

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小説『豊臣家の人々』

 今回の記事も私の話から始めてしまうが、最近電車での通勤が多く、その上乗車時間が長い。さらに慣れない土地での仕事は非常にストレスも溜まりやすく、帰宅時にはグッタリしている状況だ。
 そんな中、前回の記事でも話したように、せめて通勤・帰宅時に楽しみでもあればと思い、司馬さんの作品を読むことにした。それがタイトルの『豊臣家の人々』である。
 豊臣家の人々は転職前に読み続けていたものを、再び読みだしたもので、読み進めてゆくうちに2ヶ月前に読んでいた内容が思い出されてゆき、さらには私が”豊臣家の人々”を俯瞰しているような感覚になるほど熟読したので、わずか3日の日数だけで読み終えてしまった。読書のスピードが遅い私にとって、約300ページ近くを通勤・帰宅・就寝前の3日で読み終えるということは、その内容がそれだけ魅力的なものだということが言える。
 何だか司馬さんの作品のように回りくどい始まりになってしまったが、そろそろ本題に移りたい。

 『露と落ち露と消えぬるわが身かな浪花のことは夢のまた夢』

 豊臣秀吉の有名な辞世の句である。最後の”浪花のことは夢のまた夢”という部分を読むと、秀吉自身が本能寺の変以降そのものを”夢”と認識していたことが理解できる。司馬さんはこの”夢”の主宰者秀吉を取り巻く人物を、この作品で見事な人間描写を駆使して描いている。さらに言えば、彼らの栄華の部分ではなく、陰鬱な部分を濃厚に描いている。それこそが、秀吉の”夢”に翻弄された”豊臣家の人々”であり、司馬さんが読み手に伝えたかった部分ではないだろうか。(少なくとも私はそう感じ取った。)
 そんな中で、秀吉の正妻寧々と異母弟の秀長に関しては、自己を認識した有能な人物として描き、逆に異母妹の旭に関しては新興貴族”豊臣家”の被害者として描いている。
 豊臣政権尾張派の母堂として君臨し、時勢の流れを巧みに読み取る寧々、その寧々が事実上の主宰である尾張派と、茶々を担いで政権実務を握っている近江派の調整役を任されている秀長の憂鬱、さらには秀吉の権謀の道具として不幸な人生を歩む旭、作品の中で独特の司馬史観が彼らに息吹を与えている。見事だ。

 とここまで記してたが、何だか疲れてしまったので、続きは気が向いたら更新したい。ご容赦のほどを。

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2009/09/18

仕事帰りの電車で読んだ本

 私の話だが先月の下旬に転職し、営業の仕事を就いた。営業といってもメーカーにおいて小売店さまへ売り込みをするルート営業であり、保険屋さんのような個別訪問の営業ではない。ただ、移動が多く、起床時間が不規則になるため、今まで夜更けまで仕事し、翌朝8時前後に目覚めていた私にはかなりこたえる。疲労も蓄積しているのか、眼底出血までおこしている状態だ。
 あまり仕事の愚痴を長々といっても仕方ないので、この辺でやめておくが、要は私がいいたいのは仕事が忙しいので日本史に触れる機会がほとんどなくなってしまったことだ。
 梅雨の時期までは、頻繁にブログを更新したり、司馬さんの作品を紹介したりと日本史に触れる機会が多かった。しかし、転職前後からこのブログも更新しなくなり、歴史の”れ”の字も頭をよぎらなくなった。
 ストレスが溜まっていて日々考えることは仕事のことばかり。これではいけないと思ったので、今夜は帰りの電車の中で久しぶりに司馬さんの著作を熟読することにした。その作品は『豊臣家の人々』だ。
 『豊臣家の人々』は秀吉が一代で築き上げた豊臣家の中で生きた人物を、独特の司馬史観により描いている名作である。今夜は秀吉の妻おね(高台院)の章と、弟小一郎(秀長)の章を前半部分だけ読んできた。
 司馬さんの描く豊臣家の人々は作品の中で確実に生きている。茶々や石田三成などの近江派を疎ましく思うおねや、私怨で三成ら近江派を打倒したい加藤清正など、その時代々々での人間関係やしがらみ、そして新興貴族の豊臣家に翻弄される秀吉の近親者たち。この作品はこれらの人物の性格的描写を見事に描き出しているのだ。
 この記事では作品の内容を詳しく記さないが、司馬さんが新興貴族の豊臣家をどう考察し、その一族の”家”に翻弄される人々の姿をご覧になりたい方には、この作品はオススメの一冊でる。多くの人にぜひ読んでもらいたい。
 最後も私の話になるが、仕事が終わって疲労困憊していた状態でも、司馬さんの作品を読み始めたら疲れそっちのけで熟読してしまった。私のストレス解消法は日本史、特に司馬さんの小説を読むことなのかもしれない。

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2009/06/20

司馬遼太郎さんの作品に学ぶ

 私は、司馬遼太郎さんの作品に出会えたことを幸せに感じている。そう、目から鱗が落ちるとでもいうべきだろうか。
 歴史は人間が築く。その人間に身分などなく、熱意と才能が歴史を動かすことを司馬さんの作品を通じて学ぶことが出来た。

 江戸時代末期の人物である高田屋嘉兵衛を描いた『菜の花の沖』では、国家間の紛争は”友情”で解決できることを私たちに伝えた。
 難解な問題でも、熱意を持つことで解決できるのだと司馬さんは読み手に伝えているのだろう。

 『花神』では、日本初の蒸気機関設計に携わった宇和島の堤燈張り嘉蔵(かぞう)を高く評価した。
 嘉蔵の才能を埋もれさせた江戸封建社会体制を批判した上で、人間が持っている何かしらの才能を社会全体で掘り起こすことの重要性を訴えている。

 徳川家康とその家臣団を描いた『覇王の家』では、現代人には地味で陰湿なイメージの家康を”模倣の天才”と評価し、模倣であっても組織の運営に有効なものは積極的に取り入れることの重要性を説いている。

 話し出すと切がないので、この辺りでやめておくが、司馬さんの作品は人間が人間であることの意義と、歴史の中の人間ではなく、人間が築いた歴史ということを伝えている。
 歴史を観るときに、断片的な事実(資料)に拠ることは決して否定しないし、それはそれで重要だと思う。ただ、歴史の中にはその過程を歩み、またはその歩む道を切り拓いた人間がいたことを私たちは忘れてはならないだろう。

 ちなみに、週刊『司馬遼太郎』という書籍がある。
 司馬さんが歴史の中から人間を掘り起こす作業を、司馬さんの関係者の視点から観てゆく内容で、司馬遼太郎ファンの方なら一読される価値はあるはずだ。
 また週刊『司馬遼太郎』では司馬作品の舞台となった土地も取材しているが、『菜の花の沖』の舞台になったペトロハブロフスクの写真はとても美しく、その画は今でも脳裏の残っている。

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2009/06/17

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』

 現在手元にある『街道をゆく』シリーズは、私が中学生であった20年前に叔父から頂いたものである。
 自身でいうのもおこがましいが、中学時代の私は歴史科目を得意としていた。いや歴史”だけは”と表現したほうが正しいかもしれない。
 そんな私に叔父が、『街道をゆく』を読み歴史に関して造詣を深めてもらいたいと、シリーズ25冊を贈ってくれた。しかし当時の私にはあまりにも難しい内容であり、結局は読まずじまいで書棚に18年もの間眠ることになる。
 ところが一昨年前のある日、訳あって職が無い時期だった私は特にやることもなかったので、書棚の『街道をゆく』を手に取り読み始めた。幸いにして中学生の時よりも歴史に関する知識は向上しており、当時のように難渋することはなく、無作為に取り出した1冊を、そう時間をかけずに読み終えた。
 出版されたのが30年以上前の作品でありながら、その内容には新鮮さがあり、歴史と風土の関連性など細かく突き詰めていて、実に素晴らしい作品であった。

 さて、その『街道をゆく』に話を移したい。
 今回読んだのは『街道をゆく2 韓のくに紀行』であった。この作品は、司馬氏が南鮮(新羅・百済・加羅)を旅し、そこでの風景を歴史とリンクして随想しているものである。
 司馬氏がこの作品の中でしきりに持ち出す思想が『朱子学』であった。朱子学は朝鮮民族にとっては国教ともいえる思想そであり、現在においてもその思考や風習に大きな影響を与えている。
 朝鮮の歩んだ歴史や、朝鮮民族の行動原理など観る場合、この朱子学を抜きにしては語れない。端的に言えば、朱子学の根源には忠孝という考え方があり、子は親を敬う精神を何よりも大事にする。また”家族”の結びつきも日本人のそれより強く、10親等までの婚姻は近親婚という概念すらあるという。
 李氏朝鮮は、その朱子学を統治上の基盤として民族に徹底させた。前述した親と子の概念を君主と民衆に定義し、家族を国家と定義したのだ。ゆえに現在でも朝鮮民族はあらゆる場面で観念的な表情を見せる。
 観念的であることは私自身決して悪いことではないと思うし、愛国心を育むためには、観念というものが必要であろう。しかし観念は進歩を阻み、その性格を固陋なものにしてしまう。ゆえに朝鮮民族は日本の統治下に置かれたり、または現在の北朝鮮のような恫喝一辺倒の状態を捨てることができない。
 司馬氏はこの著書の中で、怨念が観念となり、観念が正義となると述べている。殊、朝鮮民族にはその傾向が強く、日本人に対する現在の彼らが見せる表情はまさにそれではないだろうか。

 今まで、朝鮮民族の固陋さを”負”という部分で述べてきた。しかし彼らにも”正”の部分はもちろんある。特に彼らが私たちに伝えた多くの文化は、現在の日本においてどれだけ民族性の形成のに役立ったことであろうか。特に彼らが伝えた仏教に関しては、日本人の原理ともいえる”和を以って尊ぶとなす”にどれほど貢献したか計り知れない。
 また、白村江の戦いの後、日本に移住した百済人亡命者たちの貢献は今さら語る必要もないであろう。

 この『韓のくに紀行』を通じて、朝鮮民族の性格や、日本との関係の多くを知ることができた。”目から鱗が落ちる”とは、このことを言うのかもしれない。

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2009/06/06

小説『覇王の家』

 模倣に模倣を重ねて『覇王の家』を築き上げた徳川家康。
 彼がどのような手法で盤石な政権基盤を築き上げたかを、独特の司馬史観で考察したのが、この『覇王の家』という作品だ。

 物語の前半、駿河で人質生活を送る家康は、今川家の軍師である太原雪斎からこんな言葉を聞く。
 

独創や創意、頓知などを世間の者は知恵というがそういう知恵は刃物のように危険で、やがては我が身が満身になり、我が身を滅ぼす。

 さらにつづけて
 
そこへゆくと、物まなびの心得ある者は、古今東西のよき例をまねるゆえ、一つの癖に陥らない。それには何がよいかというと、よいものを選ぶ心をつねに用意しておかねばならず、そういう心を持しているためには、おのれの才に執着があってはならぬ。おのれの才がたかが知れたものと観じきってしまえば、無限に外の知恵というものが入ってくる。その中で最良のものを選ぶだけの仕事で済む。

 この雪斎の言葉を、家康が実際に聞いたかは分からない。また、家康がそれを意識的におこなったのかも今になっては知る由もない。ただ、徳川幕府がのちに『庄屋仕立て』と表現されるように、模倣による運営を基礎としていたことを、その事実が物語っている。

 また、家康自身が武田信玄の築いた軍制や、その統治方法を模倣することで、秀吉に対抗しうる勢力になったことをこの作品から知ることも出来た。

 自らを抽象化し、そして法人として生きた徳川家康。『覇王の家』は、家康の歩んだ軌跡と彼の人心掌握の術を知ることができる良作である。

 人心掌握と言えば、当時の徳川家臣団は郷土意識に根付いた強固な集団であった半面、徳川家(家康)の存在を自身らの利益代表者と観ていた。
 利益代表者である家康が、彼らの意思に反してその利益を反故にしてしまう、または利益を共有することをしないときは、彼らは利己のために裏切る可能性があった。
 例えば、家康の腹心である酒井忠次は自身を面罵し、いつしか陥れようする徳川信康を嫌悪していた。そのため、自身の保身と利益の確保のために、信長に対して何の申し開きもせず、その瑕疵を信長へ滔々と述べてしまい、ついには信康を自刃に追い込んでしまったのだ。これは忠次の利益を害する信康を、その利益と保身のために殺したと言っても過言ではない。しかし、当時の家康は忠次を責めることなく、責めるどころか後々まで重用するのであった。
 この事実は、家康が個人的な感情に左右されず、一個の機関として抽象的に観じきっていたことを物語っている。また、こうしなければ家康が三河家臣団を統率することは不可能であったのであろう。
 家康の人心掌握術とは、このように自身を抽象化し合理的な判断におこなうことで、彼らの利益を損じないように気を配ることであった。それが家康の人心掌握の核となっていたはずだ。
 家康は、戦国時代の覇王と呼ぶに相応しくない人物かもしれないが、戦国時代を堰武させることは家康でなければ不可能だったのかもしれない。そんな事を”覇王の家”を読みながらふと思った次第である。

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2009/05/24

小説『殉死』

 著者の司馬遼太郎氏は、自身が太平洋戦争に出征し、陸軍戦車連隊に所属していた経験からか、日露戦争後から終戦に至るまでの期間を”忌まわしい時期”というような感覚でとらえている。そして、その忌まわしい時期の思想的シンボルを乃木式の軍人精神に求めた感もある。いや、乃木の殉死そのものを忌まわしい時期の出発点として考えていたのかもしれない。
 ゆえに司馬氏が描く乃木希典像というものは、必然的に『愚』なるものとして結ばれている。それをダイレクトに受け入れることは、客観性を失い、偏った視点を持つにいたるだけであろう。そうした理由から、小説『殉死』を読み進めるにあたり、出来るだけ客観性を保とうと心掛けた。

 さて、小説『殉死』の話に移る。
 この小説は、陸軍大将乃木希典の一生を描いた作品である。冒頭に司馬氏は小説というよりも随想として読んでほしいようなことを記している。
 確かに内容は司馬氏の随想である
 司馬氏は乃木の軍事的才覚の乏しさを指摘し、世間一般での評価は作り上げられたものだと断じている。私自身も、西南戦争や日露戦争における乃木の軍略、戦術の類を見ると、司馬氏同様の考えに至る。しかし、一人間として乃木を考えた場合、司馬氏のいうような『愚』の存在ではなかったと思う。
 乃木は指揮官としての才能は乏しかったし、現に旅順でそれを露見してしまった。では人間としての乃木はどうであろうか。私からすれば軍人が持つべき規範(忠実さ、無私、身のこなし等々)は抜群であったと思うし、また、激動の時代に生まれていなければ、有能であったと評価されていただろう。おそらく、江戸期の思想家や歌人として乃木が生まれていたならば、司馬氏も彼を高く評価したに違いない。

 さらに私が乃木を素晴らしいと思うところは、ドイツ留学から帰国した後に自身のスタイルを一変させたことだ。
 私もそうだが、人間というのはある部分で自身を卑下し、それを変えたいという変身願望がある。しかし、欲求や本来持つ性格などから、それを遂げることは難しい。乃木は1年の留学中に思うところがあったのか、自己を変革を決意し、実際に実行する。それには強靭な精神力が必要であろう。乃木はその精神力を持っていた。
 それに、欲求という部分でも、常に無私を心掛けた。司馬氏はそのような乃木の姿を単なる”自己満足”としてとらえたのかもしれないが、その一言で片付けてしまうことは乃木に失礼であるし、実際に現代人である私たちが乃木の生き方や自己変革を実践してみろと言われれば、相当困難であるはずだ。

 乃木希典、軍隊の指揮官としては凡庸であったかもしれないが、生き方やその思想(司馬氏曰く陽明学の影響を色濃く受けた思想)は人間として一流であり、そこには『美』をも感じる。
 乃木に関しては、もっと多角的な視点で評価すべきであると私は思う。

 最後に『小説『坂之上の雲』で無能司令長官と描かれた乃木希典は本当に無能だと思いますか』のアンケートにご協力くださった方、ありがとうございました。

 結果は『無能極まりない』が、それ以外を6票上回り、やはり乃木=無能という考え方が多いことに気づかされました。
 無能と評価された方も、それ以外の評価をされた方も、それぞれ思うところがあったのでしょう。乃木さんのように評価の分かれる人は、歴史上そう多くないはずです。そういった意味でも乃木希典という人物は、歴史を語る上で重要な人物であることは確かなようです。

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