カテゴリー「ニュース」の81件の記事

2009/11/17

魏志倭人伝に記された建物跡

 纒向遺跡が、邪馬台国の女王卑弥呼の所在した地域だと確定するのは早計であると私はこの記事に記した。しかし、各種メディアの報道は纒向=邪馬台国という論調になりつつある。特に産経新聞などは見出しに『「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し』とまで銘打って記事を書いている。しかし、ここでその類の話を批判しても議論にならず虚しいだけのでやめておきたい。
 なので今回は、先日来報道されている纒向での発掘調査に関する新聞記事を紹介して終わりたい。紹介した新聞記事をご覧の方々が、本当に女王卑弥呼が纒向に存在したと思われかが気になるところだ。

 
 「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡

 邪馬台国畿内説の“本命”である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡の発見は、江戸時代中期の儒学者、新井白石が大和説を提唱して以来続く邪馬台国論争にほのかなゴールをかいま見せる成果となった。魏志倭人伝の解釈や発掘調査、科学力を駆使した研究の積み重ねによって、古代史最大の謎が解き明かされつつある。

 「だんだん決着に近づいてきた」。畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は強調する。

 邪馬台国論争の歴史は古く、新井白石が大和説ののちに九州説を提唱し、国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)も九州説を打ち出すなど本格化。現在は、考古学的なアプローチが中心だ。

 纒向遺跡ではこの20年間、桜井市教委を中心に箸墓古墳(全長280メートル)など最古級の前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった。

 所在地論争の最大の決め手は卑弥呼が中国・魏から授かった金印の出土とされるが、丹念な調査が邪馬台国の実像をあぶり出しつつある。白石館長は「長年の研究の蓄積によって『九州説は無理だろう』という考古学研究者が大半を占めるようになった」と指摘し、「全容解明へ文化庁や県が調査に乗り出すなど態勢づくりが必要だ」と話した。

11月11日 産経新聞

 奈良・纒向遺跡 卑弥呼の祭祀空間か 3世紀最大級建物跡

 巨大な宮殿にこもり、卑弥呼(ひみこ)は一人、神の声を聞いたのか--邪馬台国論争の舞台、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった3世紀最大級の大型建物。一帯が王権の中枢部で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性が出てきた。古代史最大の謎とされる邪馬台国と卑弥呼の姿が、発掘の成果から浮かび上がってきた。

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、女王・卑弥呼が戦乱の倭国を治めるため、「鬼道(きどう)を行い、人々をひきつけた」とある。鬼道は、祖霊や神の言葉を聞く祭祀(さいし)と考えられている。卑弥呼は人々に姿を見せず、兵士や柵で厳重に守られた宮室(宮殿)などで祭祀を行い、政治を補佐する男弟(だんてい)に命令を伝えたとされる。

 辰巳和弘・同志社大学教授(古代学)は「大型建物は、政事あるいは祭事の『マツリゴト』が行われた場所」と指摘。西側には、祭祀に使う水をくんだとみられる「辻土坑(つじどこう)」という遺構があるほか、近くに纒向石塚古墳などの前方後円墳があることに注目。「『葬』『祭』『政』と当時重要な3要素がそろった。邪馬台国を認識させる大きな根拠だ」とみる。

 また、中国から北極星を信仰する考えが入った飛鳥時代や奈良時代には、建物を南北を軸として配置するようになるが、纒向は東西を軸にした配置。千田稔・奈良県立図書情報館長(歴史地理学)は「当時の人々が太陽の動きを重視し、最も重要な施設の配置に表現した」と話す。さらに、「卑弥呼」は「日の御子(みこ)」という意味だったとみられることに注目。「太陽の動きを取り入れた纒向は、卑弥呼の宮殿と考えるにふさわしい。そこで中国から贈られた鏡を使って儀式をしていたのだろう」と考える。
 
 ◇九州説研究者 大和説に慎重
 纒向遺跡の今回の成果について、邪馬台国九州説を主張してきた研究者らは、一定の評価をしながらも影響はないとみており、所在地を巡る論争が終息することはなさそうだ。

 発表に先立つ今月1日、吉野ケ里遺跡で、特別記念フォーラム「なぜ邪馬台国は九州か」が開かれた。高島忠平・佐賀女子短期大学長や作家の中山千夏さんら6人のゲストは全員が九州説。「纒向は発掘途上で、ぼんやりと見えてきたかという程度」「魏志倭人伝の記述では九州しかありえない」などの意見が出され、集まった約300人から何度も大きな拍手が起きた。

 高島さんは、建物が同一直線上で南北対称となるよう配置されていることについて「大きな発見だ」と評価する。しかし、「全体的な発掘調査が行われていない。大型建物の性格は、(未発掘の)他の遺構と比較して考えるべきで、今の段階では判断できない。大和説は決定的になっていない」と慎重だ。

 また、吉野ケ里遺跡を有力候補地と考える七田忠昭・佐賀県教委参事は「邪馬台国や卑弥呼の議論は、すべて魏志倭人伝の記述から始まっており、それらを発掘成果と照らし合わせることが大切」と強調。魏志倭人伝では、卑弥呼の宮殿を「宮室・楼閣・城柵」としているが、七田さんは「この『3点セット』は、吉野ケ里の北内郭にそろっている。今回の発掘成果をもってしても、纒向にこれらがそろったわけではない」としている。
11月10日 毎日新聞


NHKニュース 11月10日

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2009/06/17

『逆説の日本史』と邪馬台国の話

 先日、井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』を読み終えたのだが、その内容には少々疑問を感じた。
 井沢氏は作家であり、歴史学者よりも推論という観点では優れていると思う。しかし、井沢氏の悪いところは『資料至上主義者』と氏がいう学者たちを愚物のように卑下し、その卑下した部分から自身の推論の正当性を誇示しようとするところだ。
 2~5世紀にかけての日本には文字による資料がなく、資料と呼べるのは隣国の中国王朝の史書や好太王碑文といった類のものしかない。であるならば、重要になってくるものは、やはりそれらの資料や発掘調査による発見だろう。そのことは『資料至上主義者』の学者だけでなく、私のような無知な一般人でも思うところである。
 ただ、井沢氏やその他作家の方が古代史について推論を述べることは決して悪いことではない。私のように凡庸な人間と違い、多くの知識と高い推察力を持ち合わせている作家の方々の知恵をお借りることは、古代史の発展にもプラスになる。もしかしたら作家の中からシュリーマンのような人物が日本に現れて、邪馬台国の所在地を発見するかもしれない。

 駄文を長々と綴ったが、結局私が言いたいことは、資料も発掘も重要視しなければならないということである。特に発掘調査による数々の発見は、文字以上にその時代の背景を教えてくれる資料になる。
 箸墓古墳にしても、纏向石塚古墳にしても、そこから発掘された物が3世紀に近畿地方が大規模な政治連合を形成していたこと証明してくれた。その政治連合が”九州の邪馬台国”に滅ぼされることは考え難いのでないかと私個人としては思っている。ただ、近畿説を支持する私の潜在意識がそう導いているのかもしれないが、昨今の発見は近畿説への強力な補強材料になるであろう。

 最後に、その補強材料になるかもしれない発見についての新聞記事を紹介して今回の記事は終わりにしたい。

 

 桜井茶臼山古墳では、銅鏡の破片153個も出土した。昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40~50枚を副葬したとの見方も浮上。国内最多の40枚が出土した平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、福岡県前原市)を上回る可能性も出てきた。

 鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数センチ大に割れていた。60年前の調査では、邪馬台国の女王・卑弥呼に対し、中国から下賜(かし)されたともいわれる三角縁神獣鏡などが見つかっており、同研究所は鏡の種類の特定などを進める。

 古墳出土の銅鏡は、大和政権の大王が、大陸の王朝から下賜されたものを国内の地方首長らに配布して服属を誓わせたとの説や、鏡の光によって被葬者の魂を邪悪なものから守るための「葬具」といわれるなど、謎の多い副葬品。同古墳の鏡は、大和政権の権力構造を考える上でも重要なカギを握るとみられる。

 産経新聞 6月12日

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2009/06/01

纏向遺跡古墳群の調査結果

 ご存知のように箸墓古墳の被葬者が、どうやら卑弥呼ではないかと報道されている。さらに今日、纏向遺跡の古墳群に関しても邪馬台国との関連性を思わせる調査結果が出た。
 纒向石塚古墳から出土した炭化物を測定してみたところ、結果は箸墓古墳と同様に3世紀前半の炭化物であるという。そしてその古墳が卑弥呼の側近であった人物の墓ではないかのかと伝えている。こうした科学的な調査により邪馬台国は近畿地方に存在した可能性が高いと記事では締めている。
 しかし、邪馬台国が近畿に存在したと確信するのは早計であろう。確かに3世紀前半に纏向を中心とした地域に大規模な勢力が存在したことは間違いない。しかも、その勢力が後のヤマト王権につながった可能性も高いであろう。ただ、魏志倭人伝に記されている邪馬台国が、その大規模勢力を指していたかどうかについては『魏』との関わりを証明する証拠がなければ断定できないはずだ。
 もし、近畿地方のある場所から、『親魏倭王』の金印でも発見されれば、邪馬台国の所在地を近畿と確定できるのだが、そうした確証が未だ発見されていない段階で、邪馬台国は纏向を中心に存在し、箸墓が卑弥呼の古墳であったと報道してよいものかが甚だ疑問である。

 邪馬台国近畿説を否定するような話をしてしまったが、私自身は今も近畿説を支持している。しかし、議論の流れが近畿であると決めてかかってしまうと、多くの研究者や古代史ファンの探究心が失せてしまうような気がしてならない。
 邪馬台国に関する資料が少ないからこそ、多くの意見を出し合って確証を見つけ出すことが重要だと考えている次第だ。

 最後に、冒頭で取り上げた話に関する新聞記事をここで紹介したい。 

纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内に集中する纒向石塚古墳(前方後円墳、全長96メートル)など国内最古級の古墳3基について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは31日、「放射性炭素年代測定法」によって3世紀前半の築造とする見解を発表した。女王・卑弥呼が擁立され、邪馬台国が隆盛した時期とほぼ合致し、邪馬台国畿内説を科学的に補強する資料として注目されそうだ。

 早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。

 纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末~3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り込まれることになった。

 また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220~260年ごろ、矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は220~240年ごろの築造の可能性が高いという。

 研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240~260年築造との見解を出しており、纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳(3)箸墓古墳-の順に築造された可能性が高いとしている。

 炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者については「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」としている。

 邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。

 産経新聞 5月31日

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2009/05/31

箸墓古墳の卑弥呼陵墓説についての続報

 昨日、箸墓古墳が卑弥呼の陵墓である可能性が高いと報道がされたが、なぜか考古学に関する報道が多い毎日新聞が沈黙していた。
 毎日新聞といえば、この一件(http://www9.atwiki.jp/mainichiwaiwai/)により報道の信頼性を失墜させ、各方面で忌み嫌われている新聞社である。しかし、私はその問題と毎日新聞の考古学に関する報道は分離して考えているので、今回の箸墓古墳に関してどのように論評してくるのかと期待して待っていた。
 そして先ほど、Yahoo!ニュースに毎日の記事がアップされたので、以下その記事を引用したい。 

箸墓古墳 歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから

 国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240~260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。

 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。

 歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240~260年を導いた。

 発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」と述べた。

 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。

 中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。

 毎日新聞 5月31日

 どうやら毎日新聞は慎重論である。以前から邪馬台国近畿説に関し、慎重な論評を続けていた毎日の性格を考えれば当然かもしれない。
 読売や産経は比較的近畿説関連の発見に肯定的であるのだが、毎日は畿内説に関して論評そのものが面白くなさ気であるように思う。いや、実際に面白くないのかもしれない。今後この箸墓古墳や纏向遺跡などで歴史的な発見がされた場合、毎日がどのように報道するのか、ある意味楽しみだ。

 このように、新聞各社によってその立場や論調が違うことは、多くの意見を出し合うことになり、それにより議論が盛んになる訳なので、今後も各社とも独自の論調で”邪馬台国論争”を報じてもらいたい。

 最後に、前回の記事でもお願いしました邪馬台国に関するアンケートですが、まだ続けていますので、ご協力よろしくお願いします。


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2009/05/30

箸墓古墳

 まずは、昨日各メディアで報道された『箸墓古墳』の築造年代判明に関するの新聞記事をここで紹介したい。

箸墓古墳、240~260年築造 卑弥呼の死亡時期と一致 炭素年代で判明

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。

 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240~260年の範囲に相当したという。

 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。

 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

 産経新聞 5月29日

 この見出しをご覧になって、『死亡時期と一致』という文言から純粋に「箸墓が卑弥呼の墓」だと思われた方いますか?
 私から言わせれば、実にいい加減な見出しだと思う。
 卑弥呼が死亡した時期を記しているのは『梁書』と呼ばれる中国の歴史書で、6世紀に編纂されたものである。300年以上も前のことを、克明に記せるかどうかということは、疑わしい限りであり、少なからず編者の創作も含まれているだろう。
 また、炭素年代測定法によって、箸墓の土器がその年代のものだと判明したというが、その時代に崩御された倭王(もしくは有力豪族)は卑弥呼に限らないはずだ。
 そんなことを言い出したら切がないので止めるが、曖昧な証拠で箸墓を卑弥呼の陵墓と推測するのは、何だか腑に落ちない。
 しかし、私自身は邪馬台国畿内説支持者であり、その理由はこの記事(http://j-history.cocolog-nifty.com/misakijapanhistory/2008/11/4-6690.html)で述べている。
 結局、邪馬台国論争を決着させるには、その陵墓の埋葬者が魏に遣いを送った証拠(親魏倭王の金印)でも発見されない限り、ケリをつける確証にはならないであろう。

 今回の分析結果や報道に関して、少々懐疑的な意見を述べてみたが、素直に読み取れば、これらが卑弥呼と邪馬台国のナゾを解く鍵になることは間違いない。
 また、日本書紀には箸墓古墳の被葬者として、『倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)』の名が記されており、その存在は魏志倭人伝に伝わる卑弥呼に類似している。
 肯定的に考えるのであれば、魏志倭人伝や日本書紀に記されている内容の裏づけが、最新の技術によって解明され出したと言えるだろう。
 現在、纏向遺跡の本格的な調査も進んでおり、近畿説にとって追い風であることはいうまでもない。

 最後に、邪馬台国に関するアンケートにご協力をお願いします。

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2009/03/09

東京大空襲

 64年前の今頃、東京の下町に空襲警報が出た。
 東京上空に襲来したB-29は房総半島方面に消え、空襲警報も解除された。しかし米軍はこの隙を狙い、3月10日の0時7分から焼夷弾を投下した。これが下町の一般市民を『無差別殺戮』した東京大空襲である。

 4年前、あるテレビ番組で映画監督の山本晋也氏が次のような話をされていた。
 『昭和20年3月10日深夜、小田原に疎開していた私は激しい轟音により目を覚まし、その轟音の方向に目を向けました。すると空が昼間のような明るくなっており、東京で激しい空襲が始まったことに気づいたのです。戦後、私の通っていた小学校の先生が私たち生徒にこう言われました。「いいか、東京を火の海にしたヤツの名はカーチス・ルメイというアメリカの軍人だ。この名前を一生忘れるな。」その言葉は今でも忘れられません。』
 4年前は東京大空襲から60年目の年で、テレビでも多くの特番が組まれていた。その中でも山本監督のこの言葉が今でも忘れられない。
 
 国家間で戦争状態になると多くの犠牲が出て、尊い命が失われてゆく。私たちが命を奪う側にもなるし、また奪われる側にもなる。残酷であるがこの地球上に生まれた人間の運命である。
 しかし、太平洋戦争末期のアメリカ軍は、どう考えても日本人を使い開発した兵器の実験をしていたとしか思えない。『リメンバー・パールハーバー』という感情を差し引いても東京大空襲や原爆投下は行き過ぎた軍事行動だ。これらの行為は日本に生まれた私にとって屈辱であるし、この蛮行に及んだ当時のアメリカ軍の連中を許すことは出来ない。

 実はこの日本史探求を始める前、ココログで別のブログを開設していた。そのブログにおいて東京大空襲60年目の記事を作成している時に
『この記事のように歴史の真実を取り上げてゆくブログを始めてみよう。』
と思ったことが、日本史探求を始めるきっかけとなった。それは私たち日本人が真に学ぶべき歴史をブログというツールを使って広げ、日本人としてこの国を愛せるように自らがなるという志を持った瞬間でもあった。
 東京大空襲は私たち日本国民にとって忘れてならない悲劇であり、屈辱であることを最後に記しておく。

 東京大空襲詳細 Yahoo!百科事典より

 

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。米軍機の日本空襲は開戦翌年の1942年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。日本軍の連勝中に、太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう/チョーチヤン)省の基地におりたこの奇襲は、被害こそ少なかったが、日本軍部に大衝撃を与えた。

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。

 アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。

 東京大空襲に関連した動画がyou-tubeにアップされていたので、ここに貼っておきます。爆撃を指揮したルメイの映像もあり、そのルメイが日本で手にした旭日勲一等の勲章の映像も収められています。日本人を殺戮した人物に勲章を与えた事実は国辱としか言いようがありません。


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2009/01/31

国民的ミステリー邪馬台国本格調査へ

 『邪馬台国は一体どこに存在していたのか?』
 この疑問に対する明確な答えはまだ出されておりませんが、昨今の発掘調査などを勘案しますとその答えは近畿説に傾いているような気がしてなりません。
 私自身もこのブログで再三記しているように、邪馬台国近畿説を支持し、その根拠も述べています。それらについてはこちらをご覧下さい。

 さて、その邪馬台国近畿説を裏付けるための調査が2月から奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で始まるようです。今まで大規模な調査がおこなわれていなかったこと自体不思議に思いますが、先日纒向遺跡にある箸墓古墳において大周壕跡が発見されたり、また纒向遺跡の規模が今まで考えられてきた以上のものであることが判明したことが、今度の本格調査につながったのでしょう。
 もし調査中に『親魏倭王』の金印でも発見されれば邪馬台国近畿説の決定的な証拠となり、邪馬台国近畿説が確定することは間違いありません。
 この本格調査に関連した記事が産経新聞と毎日新聞に掲載されているので、ここで紹介してゆきましょう。

 まずは産経新聞1月30日より 

 中国の歴史書「魏志(ぎし)倭人伝」に登場する邪馬台国(やまたいこく)の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末-4世紀初め)について、市教育委員会は30日、かつて神殿跡の一部が発掘された遺跡中心部を2月から学術調査すると発表した。邪馬台国の女王・卑弥呼が国家的祭祀(さいし)を行った神殿の可能性もあり、邪馬台国論争のカギを握る重要な成果も期待される。  
 同遺跡は奈良盆地東南部に位置し、卑弥呼の墓との説が根強い箸(はし)墓古墳(全長280メートル)を含む東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡。県や市は、昭和46年から160回にわたって調査しているが、大半が住宅などの開発工事に伴う小規模な発掘だったため、調査ずみ面積は全体の5%にとどまり、全容解明にはほど遠い状況となっている。  
 市は、古代日本の首都とされる同遺跡の全容解明が不可欠として、中枢部分の学術調査を初めて実施することを決定。調査は数年間を見込んでおり、今年度内は、昭和53年に駐車場整備に伴う発掘で神殿跡が見つかった地域を含む450平方メートルに着手する。  
 当時の調査では、卑弥呼(生年不明~248年?死去)の時代とほぼ一致する3世紀前半の神殿とみられる約5メートル四方の掘っ立て柱建物跡と、南側にはほこらのような約2メートル四方の建物跡1棟、周囲に柵(さく)が見つかっており、神殿の一部と考えられている。今回の調査によって、これらの建物跡の全容を把握するという。  
 研究者の間では、建物跡の東側に卑弥呼の居館や大規模な神殿が存在したとの見方もあり、平成21年度以降に調査したいとしている。

 続いて毎日新聞1月30日より  

 奈良県桜井市教委は30日、ヤマト王権の本拠地で、女王・卑弥呼がおさめたとされる邪馬台国の最有力候補地、同市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)について、来月から中枢部を本格的に発掘調査すると発表した。集落部分の学術調査は初めて。71年以来160回の調査をしたが、開発に伴う小規模なものが多かった。  
 遺跡の範囲は、東西約2キロ、南北約1.5キロ。古事記や日本書紀で、歴代天皇の宮があったと伝えられる三輪山ろくに広がる。卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)をはじめ、前方後円墳が誕生した場所で、九州から関東まで各地の土器が持ち込まれていたことなどから、邪馬台国やヤマト王権との関係が取りざたされてきた。  
 今年度は、78年度の調査で神殿風の特殊な建物跡が見つかったJR巻向駅近くの空き地約450平方メートルを2カ月かけて調査。まだ見つかっていない中心建物の発見を目指し、規模や構造、性格を明らかにする。

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2009/01/16

ヤマト王権の鉄

 日々寒い日が続きますね。神奈川では今朝の最低気温が0.3℃でした。朝7時半に寝床から起き上がった時にこの凍てつく寒さに『厳冬』を身で感じた次第です。ただ北国にお住まいの方からすれば、今朝の神奈川の寒さなどは『余裕』の類なんでしょうね。とにかく寒暖の差によって体調を崩さないよう、留意しなければなりません。

 ところで先日の新聞報道で、5世紀ヤマトにおける『鉄』に関連した興味深い発見がなされたという記事が掲載されていました。5世紀というと騎馬民族制服論の根拠なる副葬品の『突然変異的な変化』がみられた時期であります。3世紀以降の副葬品であった鏡・玉・剣・車輪石・鍬形石などの宝器的・象徴的・呪術的なものから、この時期(5世紀)になると生活・戦闘など実用的なものに変わり、例えば食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具や盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類へと変化した訳です。

 前述した『突然変異』に一石を投じる発見として今回紹介する発見は注目に値します。要は突然変異という抽象的な史観ではなく、ヤマトには鉄を生産するだけの十分な設備を備えていたことが形として発見されたのです。これを騎馬民族制服論を否定する材料と言い切りませんが、ヤマトに一定水準の技術力(鉄を生産する技術)が存在したことは、これより以前に強力な『国家』が成立していたことの根拠となるのでないでしょうか。

 ではその新聞記事を紹介しましょう。

 大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶(かじ)工房跡が出土していたことが、市文化財協会の調査でわかった。 
 百舌鳥(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳が築かれた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。 
 工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に2棟建てられ、1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝で区画。棟の間に井戸跡が見つかったほか、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭、排水や湿気よけに利用されたとみられる溝からは、鉄器製造の際に出た3センチ大の鉄滓(てっさい)が発見された。

読売新聞 1月12日

 私たちが考えている以上に5世紀のヤマト王権はその基盤を磐石なものとしており、それを物語っているのが今回の発見かもしれません。
 磐石であった要素は多々考えられますが、今ここで推測を述べると大変長い文章となってしまうので、折を見て少しづつ述べてゆこうと思います。
 ちなみに、このブログのリンク先である『縄文と古代文明を探求しよう!』の管理人さまtanoさんが今回の長原遺跡での発見について『鉄』の生産の背景にあるヤマト王権隆盛の姿をわかりやすく解説された論文『長原遺跡ー鉄器工房発掘ーが意味する5世紀の史実』を掲載されているの、こちらもぜひご覧下さい。

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2008/12/22

いつの間に箸墓古墳が『卑弥呼』の墓になったんですかね

 10日前のことですが『枚方・禁野車塚古墳:北河内最大級、“卑弥呼の墓”そっくり 』(毎日新聞)という記事がYahoo!ニュースに掲載されていました。
 記事の内容は次の通りです。

◇3世紀後半~4世紀前半、奈良・箸墓古墳と同時代 
 北河内最大級の前方後円墳で国史跡の「禁野車塚(きんやくるまづか)古墳」(枚方市宮之阪5、全長約120メートル)の形状が、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と酷似していることがわかった。
 府内で箸墓古墳の類型と判明したのは初めてで、近距離にあることから被葬者も同古墳の被葬者と密接な関係性があった可能性が高いという。【宮地佳那子】 

◇被葬者も密接な関係?
 8月に関西、京都橘、京都府立の3大学の教授、学生らと枚方市文化財研究調査会の延べ260人による「淀川流域前期古墳研究調査団」が調査を実施、今月、結果を発表した。 
 それによると、前方部の形が細長い(三味線の)ばち状で、古墳の最も狭い部分が前方部側であるなど、箸墓古墳の顕著な特徴が数多く認められた。近畿から九州北部に22の類型が確認された中でもよく似ており、主従関係や政治同盟などの結びつきを示すという。 
 また、築造時期は出土したはにわの形状などから4世紀代とされていたが、箸墓古墳と同時期と考えられるため、3世紀後半~4世紀前半に造られた府内では珍しい早期の古墳と考えられるという。 
 前方後円墳に詳しい都出比呂志・大阪大名誉教授(日本考古学)は「初期の王の古墳は奈良県に集中しており、禁野車塚古墳の被葬者は、初期の王権と上下関係があったのではないか。国家成立の解明のため欠かせない貴重な古墳だ」と話す。 
 枚方市は同古墳と周辺の整備をし、史跡公園を作る計画を進めている。

12月12日 毎日新聞より

 この記事を読むと箸墓古墳が卑弥呼の墓という前提で、それに類似する『枚方・禁野車塚古墳』が卑弥呼と密接な関係にあった者の墓として推定しようとしています。
 邪馬台国近畿説を支持する私としては、仮に卑弥呼の墓所が存在すのであれば近畿地方であろうと思います。しかし、箸墓が卑弥呼の墓所だと断定されていない段階で、このような記事を掲載するのはどう考えてもおかしいです。まずは箸墓が卑弥呼の墓所であることが確定されてから上のような記事を掲載するべきではないでしょうか。
 
 卑弥呼云々を抜きにすれば、この発見は3~4世紀にかけて近畿地方にこうした大規模な古墳が存在することで、当時の倭国が近畿にその拠点を置いていた可能性を示唆するに十分な意味を持つ調査結果であるでしょう。
 
 話が古墳から離れますが、最近大河ドラマや歴史ドキュメンタリーなどで史実を度外視した確信犯的な番組が多々流されています。それを視聴者がフィクションの『娯楽』として観ているのであれば別に構わないのですが、事実として捉えてしまう人がいると史実が歪曲されて伝わってしまう危険性があります。今年問題になった会津若松城の問題もそれしかりです。
 歴史に限らずメディアの発信する情報を受取る私たちにとって、歪曲された情報を確信犯的に発信されている事実を自らの目で認識する必要があります。
 メディアの一方的な情報に惑わされることなく、リテラシー能力を磨いて、多少懐疑的になるぐらいな感じで情報を見つめてみましょう。

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2008/11/08

藤ノ木古墳 23年目の真相

 もう23年も前のことなので記憶が曖昧なのだが、未盗掘状態の古墳が発見され、日本中が盛り上がっていたのをぼんやりと覚えている。その古墳は『藤ノ木古墳』と呼ばれ、被葬者が身に着けていた副葬品などから身分の高い人物の古墳ではないかとの報道がなされていた。しかし一体誰の古墳で、なぜ1つの石室に2人の人物が埋葬されているのかなどの疑問が未解決のまま10数年の歳月が経ち、近年はキトラ古墳と高松塚古墳の劣化問題に話題が集中したことから私の記憶からは『藤ノ木古墳』の文字は薄れていた。
 ところが先日、藤ノ木古墳の被葬者を特定できそうな重要な調査結果が新聞紙上を賑わし、その報道が私の記憶の引き出しから『藤ノ木古墳』の文字を引っ張り出してきた。その新聞報道は次のようなもので、『まさかそこから被葬者を特定してゆくか』と思わせるような興味深い内容である。

  金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。

 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。

 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。藤ノ木古墳の石棺には、ベニバナの生花が供花として石棺に納められている可能性があることが分かった。

 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。

 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗(あら)い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬-などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきよ)作った可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。
 11月1日 産経新聞

 『なるほど』と頷いてしまう反面、『そんな単純なもんなのかな?』と猜疑心もある。どちらの割合が高いといわれれば肯定したい部分の方が強いかもしれない。副葬品や古墳の形状も大事であるが、このような花粉という植物の特性などから探るって手段もあることに驚かされ、また感心した次第だ。
 もし、この記事のように穴穂部皇子が埋葬されているならば、急造りの古墳であったため、外観は粗末に見え盗掘に遭わずに1400年も現状を保つことが出来た可能性も十分に考えられる。科学的視点と歴史学的視点双方から見ても説得力のある調査結果であろう。
 そして、被葬者といわれる穴穂部皇子と宅部皇子だが一体どんな人物であったのか?これについても産経新聞に解りやすく掲載されていたので、記事を紹介したい。

藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)から見つかったベニバナの花粉は、石棺に納められた2人の被葬者像をみごとにあぶり出した。蘇我馬子によって殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。穴穂部皇子は仏教導入をめぐり、物部氏の勢力をバックに蘇我氏と覇権争いを演じた人物だ。皇位継承もからんだ血みどろの政争が繰り広げられた6世紀。石棺内に1400年間封印されたベニバナは、悲劇の皇子の運命を切々と物語った。

 穴穂部皇子について、日本書紀は暴虐な一面を記す。585年8月、敏達天皇が崩御し、翌年5月に埋葬するまでの儀式「殯(もがり)」の最中に、敏達の后・炊屋(かしきや)姫(のちの推古天皇)に暴行しようとして殯宮に押し入った。敏達の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に阻止されると、これを逆恨みして三輪君を殺害した。

 前園実知雄・奈良芸術短大教授が「穴穂部皇子は権力志向が強かった」と推測するように、敏達を継いだ用明天皇が病弱だったことから、物部守屋の後ろ盾のもとでポスト用明を狙った。しかし蘇我馬子が、かつて穴穂部皇子に襲われかけた炊屋姫と組んで、587年6月7日に穴穂部皇子を殺害した。

 その様子について日本書紀は「穴穂部皇子の宮を囲み、兵士が高楼(たかどの)に上って皇子の肩を射た。皇子は落下し部屋に逃げ込んだ。兵士は皇子を見つけ出して切り殺した」と生々しく記述。皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も翌日に殺された。翌7月、馬子は聖徳太子らと計って守屋も滅ぼし、ついに蘇我氏独裁体制を築いたのだった。

 ついに天皇の座をものにすることはかなわなかった穴穂部皇子。「ポスト用明」には弟・崇峻天皇が587年に即位したが、わずか5年後に馬子によって暗殺された。前園教授は「兄弟そろって馬子に殺害されたのはまさに歴史の皮肉」と語る。

 未盗掘で見つかった藤ノ木古墳は、権謀術策の歴史を如実に物語っていた。前園教授は「石棺内は埋葬された状況のままだったからこそ、花粉分析を含めた徹底した調査によって、被葬者像や埋葬時期を絞り込むことができた」と興奮気味に話す。

 ただ、これで被葬者が断定されたわけではない。金原正明・奈良教育大准教授は「ベニバナが保存用だとすると夏以外の埋葬の可能性も捨てきれない」と慎重な姿勢をみせる。豪華な副葬品の発見で「金色のファッション」と騒がれた昭和63年の石棺調査から20年。古代史のミステリーが、再び盛り上がりをみせそうだ。
 11月1日 産経新聞

 この藤ノ木古墳の調査結果を古代史ファンや研究者の方々はどのように捉えて新聞記事を拝見したのであろうか?私のような単なる歴史好きとは違う視点で見られている方も多いと思うので、今後ブログなどで関連する話題を検索し、興味深い記事などを探し、新聞報道だけには捉われない多角的な視点から被葬者について考えてゆきたい。

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