カテゴリー「ニュース」の80件の記事

『逆説の日本史』と邪馬台国の話

 先日、井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』を読み終えたのだが、その内容には少々疑問を感じた。
 井沢氏は作家であり、歴史学者よりも推論という観点では優れていると思う。しかし、井沢氏の悪いところは『資料至上主義者』と氏がいう学者たちを愚物のように卑下し、その卑下した部分から自身の推論の正当性を誇示しようとするところだ。
 2~5世紀にかけての日本には文字による資料がなく、資料と呼べるのは隣国の中国王朝の史書や好太王碑文といった類のものしかない。であるならば、重要になってくるものは、やはりそれらの資料や発掘調査による発見だろう。そのことは『資料至上主義者』の学者だけでなく、私のような無知な一般人でも思うところである。
 ただ、井沢氏やその他作家の方が古代史について推論を述べることは決して悪いことではない。私のように凡庸な人間と違い、多くの知識と高い推察力を持ち合わせている作家の方々の知恵をお借りることは、古代史の発展にもプラスになる。もしかしたら作家の中からシュリーマンのような人物が日本に現れて、邪馬台国の所在地を発見するかもしれない。

 駄文を長々と綴ったが、結局私が言いたいことは、資料も発掘も重要視しなければならないということである。特に発掘調査による数々の発見は、文字以上にその時代の背景を教えてくれる資料になる。
 箸墓古墳にしても、纏向石塚古墳にしても、そこから発掘された物が3世紀に近畿地方が大規模な政治連合を形成していたこと証明してくれた。その政治連合が”九州の邪馬台国”に滅ぼされることは考え難いのでないかと私個人としては思っている。ただ、近畿説を支持する私の潜在意識がそう導いているのかもしれないが、昨今の発見は近畿説への強力な補強材料になるであろう。

 最後に、その補強材料になるかもしれない発見についての新聞記事を紹介して今回の記事は終わりにしたい。

 

 桜井茶臼山古墳では、銅鏡の破片153個も出土した。昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40~50枚を副葬したとの見方も浮上。国内最多の40枚が出土した平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、福岡県前原市)を上回る可能性も出てきた。

 鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数センチ大に割れていた。60年前の調査では、邪馬台国の女王・卑弥呼に対し、中国から下賜(かし)されたともいわれる三角縁神獣鏡などが見つかっており、同研究所は鏡の種類の特定などを進める。

 古墳出土の銅鏡は、大和政権の大王が、大陸の王朝から下賜されたものを国内の地方首長らに配布して服属を誓わせたとの説や、鏡の光によって被葬者の魂を邪悪なものから守るための「葬具」といわれるなど、謎の多い副葬品。同古墳の鏡は、大和政権の権力構造を考える上でも重要なカギを握るとみられる。

 産経新聞 6月12日

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纏向遺跡古墳群の調査結果

 ご存知のように箸墓古墳の被葬者が、どうやら卑弥呼ではないかと報道されている。さらに今日、纏向遺跡の古墳群に関しても邪馬台国との関連性を思わせる調査結果が出た。
 纒向石塚古墳から出土した炭化物を測定してみたところ、結果は箸墓古墳と同様に3世紀前半の炭化物であるという。そしてその古墳が卑弥呼の側近であった人物の墓ではないかのかと伝えている。こうした科学的な調査により邪馬台国は近畿地方に存在した可能性が高いと記事では締めている。
 しかし、邪馬台国が近畿に存在したと確信するのは早計であろう。確かに3世紀前半に纏向を中心とした地域に大規模な勢力が存在したことは間違いない。しかも、その勢力が後のヤマト王権につながった可能性も高いであろう。ただ、魏志倭人伝に記されている邪馬台国が、その大規模勢力を指していたかどうかについては『魏』との関わりを証明する証拠がなければ断定できないはずだ。
 もし、近畿地方のある場所から、『親魏倭王』の金印でも発見されれば、邪馬台国の所在地を近畿と確定できるのだが、そうした確証が未だ発見されていない段階で、邪馬台国は纏向を中心に存在し、箸墓が卑弥呼の古墳であったと報道してよいものかが甚だ疑問である。

 邪馬台国近畿説を否定するような話をしてしまったが、私自身は今も近畿説を支持している。しかし、議論の流れが近畿であると決めてかかってしまうと、多くの研究者や古代史ファンの探究心が失せてしまうような気がしてならない。
 邪馬台国に関する資料が少ないからこそ、多くの意見を出し合って確証を見つけ出すことが重要だと考えている次第だ。

 最後に、冒頭で取り上げた話に関する新聞記事をここで紹介したい。 

纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内に集中する纒向石塚古墳(前方後円墳、全長96メートル)など国内最古級の古墳3基について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは31日、「放射性炭素年代測定法」によって3世紀前半の築造とする見解を発表した。女王・卑弥呼が擁立され、邪馬台国が隆盛した時期とほぼ合致し、邪馬台国畿内説を科学的に補強する資料として注目されそうだ。

 早稲田大学で同日開かれた日本考古学協会総会で報告された。

 纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末~3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り込まれることになった。

 また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220~260年ごろ、矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は220~240年ごろの築造の可能性が高いという。

 研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240~260年築造との見解を出しており、纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳(3)箸墓古墳-の順に築造された可能性が高いとしている。

 炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者については「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」としている。

 邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。

 産経新聞 5月31日

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箸墓古墳の卑弥呼陵墓説についての続報

 昨日、箸墓古墳が卑弥呼の陵墓である可能性が高いと報道がされたが、なぜか考古学に関する報道が多い毎日新聞が沈黙していた。
 毎日新聞といえば、この一件(http://www9.atwiki.jp/mainichiwaiwai/)により報道の信頼性を失墜させ、各方面で忌み嫌われている新聞社である。しかし、私はその問題と毎日新聞の考古学に関する報道は分離して考えているので、今回の箸墓古墳に関してどのように論評してくるのかと期待して待っていた。
 そして先ほど、Yahoo!ニュースに毎日の記事がアップされたので、以下その記事を引用したい。 

箸墓古墳 歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから

 国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240~260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。

 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。

 歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240~260年を導いた。

 発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」と述べた。

 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。

 中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。

 毎日新聞 5月31日

 どうやら毎日新聞は慎重論である。以前から邪馬台国近畿説に関し、慎重な論評を続けていた毎日の性格を考えれば当然かもしれない。
 読売や産経は比較的近畿説関連の発見に肯定的であるのだが、毎日は畿内説に関して論評そのものが面白くなさ気であるように思う。いや、実際に面白くないのかもしれない。今後この箸墓古墳や纏向遺跡などで歴史的な発見がされた場合、毎日がどのように報道するのか、ある意味楽しみだ。

 このように、新聞各社によってその立場や論調が違うことは、多くの意見を出し合うことになり、それにより議論が盛んになる訳なので、今後も各社とも独自の論調で”邪馬台国論争”を報じてもらいたい。

 最後に、前回の記事でもお願いしました邪馬台国に関するアンケートですが、まだ続けていますので、ご協力よろしくお願いします。


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箸墓古墳

 まずは、昨日各メディアで報道された『箸墓古墳』の築造年代判明に関するの新聞記事をここで紹介したい。

箸墓古墳、240~260年築造 卑弥呼の死亡時期と一致 炭素年代で判明

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。

 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240~260年の範囲に相当したという。

 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。

 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

 産経新聞 5月29日

 この見出しをご覧になって、『死亡時期と一致』という文言から純粋に「箸墓が卑弥呼の墓」だと思われた方いますか?
 私から言わせれば、実にいい加減な見出しだと思う。
 卑弥呼が死亡した時期を記しているのは『梁書』と呼ばれる中国の歴史書で、6世紀に編纂されたものである。300年以上も前のことを、克明に記せるかどうかということは、疑わしい限りであり、少なからず編者の創作も含まれているだろう。
 また、炭素年代測定法によって、箸墓の土器がその年代のものだと判明したというが、その時代に崩御された倭王(もしくは有力豪族)は卑弥呼に限らないはずだ。
 そんなことを言い出したら切がないので止めるが、曖昧な証拠で箸墓を卑弥呼の陵墓と推測するのは、何だか腑に落ちない。
 しかし、私自身は邪馬台国畿内説支持者であり、その理由はこの記事(http://j-history.cocolog-nifty.com/misakijapanhistory/2008/11/4-6690.html)で述べている。
 結局、邪馬台国論争を決着させるには、その陵墓の埋葬者が魏に遣いを送った証拠(親魏倭王の金印)でも発見されない限り、ケリをつける確証にはならないであろう。

 今回の分析結果や報道に関して、少々懐疑的な意見を述べてみたが、素直に読み取れば、これらが卑弥呼と邪馬台国のナゾを解く鍵になることは間違いない。
 また、日本書紀には箸墓古墳の被葬者として、『倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)』の名が記されており、その存在は魏志倭人伝に伝わる卑弥呼に類似している。
 肯定的に考えるのであれば、魏志倭人伝や日本書紀に記されている内容の裏づけが、最新の技術によって解明され出したと言えるだろう。
 現在、纏向遺跡の本格的な調査も進んでおり、近畿説にとって追い風であることはいうまでもない。

 最後に、邪馬台国に関するアンケートにご協力をお願いします。

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東京大空襲

 64年前の今頃、東京の下町に空襲警報が出た。
 東京上空に襲来したB-29は房総半島方面に消え、空襲警報も解除された。しかし米軍はこの隙を狙い、3月10日の0時7分から焼夷弾を投下した。これが下町の一般市民を『無差別殺戮』した東京大空襲である。

 4年前、あるテレビ番組で映画監督の山本晋也氏が次のような話をされていた。
 『昭和20年3月10日深夜、小田原に疎開していた私は激しい轟音により目を覚まし、その轟音の方向に目を向けました。すると空が昼間のような明るくなっており、東京で激しい空襲が始まったことに気づいたのです。戦後、私の通っていた小学校の先生が私たち生徒にこう言われました。「いいか、東京を火の海にしたヤツの名はカーチス・ルメイというアメリカの軍人だ。この名前を一生忘れるな。」その言葉は今でも忘れられません。』
 4年前は東京大空襲から60年目の年で、テレビでも多くの特番が組まれていた。その中でも山本監督のこの言葉が今でも忘れられない。
 
 国家間で戦争状態になると多くの犠牲が出て、尊い命が失われてゆく。私たちが命を奪う側にもなるし、また奪われる側にもなる。残酷であるがこの地球上に生まれた人間の運命である。
 しかし、太平洋戦争末期のアメリカ軍は、どう考えても日本人を使い開発した兵器の実験をしていたとしか思えない。『リメンバー・パールハーバー』という感情を差し引いても東京大空襲や原爆投下は行き過ぎた軍事行動だ。これらの行為は日本に生まれた私にとって屈辱であるし、この蛮行に及んだ当時のアメリカ軍の連中を許すことは出来ない。

 実はこの日本史探求を始める前、ココログで別のブログを開設していた。そのブログにおいて東京大空襲60年目の記事を作成している時に
『この記事のように歴史の真実を取り上げてゆくブログを始めてみよう。』
と思ったことが、日本史探求を始めるきっかけとなった。それは私たち日本人が真に学ぶべき歴史をブログというツールを使って広げ、日本人としてこの国を愛せるように自らがなるという志を持った瞬間でもあった。
 東京大空襲は私たち日本国民にとって忘れてならない悲劇であり、屈辱であることを最後に記しておく。

 東京大空襲詳細 Yahoo!百科事典より

 

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。米軍機の日本空襲は開戦翌年の1942年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。日本軍の連勝中に、太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう/チョーチヤン)省の基地におりたこの奇襲は、被害こそ少なかったが、日本軍部に大衝撃を与えた。

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。

 アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。

 東京大空襲に関連した動画がyou-tubeにアップされていたので、ここに貼っておきます。爆撃を指揮したルメイの映像もあり、そのルメイが日本で手にした旭日勲一等の勲章の映像も収められています。日本人を殺戮した人物に勲章を与えた事実は国辱としか言いようがありません。


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国民的ミステリー邪馬台国本格調査へ

 『邪馬台国は一体どこに存在していたのか?』
 この疑問に対する明確な答えはまだ出されておりませんが、昨今の発掘調査などを勘案しますとその答えは近畿説に傾いているような気がしてなりません。
 私自身もこのブログで再三記しているように、邪馬台国近畿説を支持し、その根拠も述べています。それらについてはこちらをご覧下さい。

 さて、その邪馬台国近畿説を裏付けるための調査が2月から奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で始まるようです。今まで大規模な調査がおこなわれていなかったこと自体不思議に思いますが、先日纒向遺跡にある箸墓古墳において大周壕跡が発見されたり、また纒向遺跡の規模が今まで考えられてきた以上のものであることが判明したことが、今度の本格調査につながったのでしょう。
 もし調査中に『親魏倭王』の金印でも発見されれば邪馬台国近畿説の決定的な証拠となり、邪馬台国近畿説が確定することは間違いありません。
 この本格調査に関連した記事が産経新聞と毎日新聞に掲載されているので、ここで紹介してゆきましょう。

 まずは産経新聞1月30日より 

 中国の歴史書「魏志(ぎし)倭人伝」に登場する邪馬台国(やまたいこく)の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末-4世紀初め)について、市教育委員会は30日、かつて神殿跡の一部が発掘された遺跡中心部を2月から学術調査すると発表した。邪馬台国の女王・卑弥呼が国家的祭祀(さいし)を行った神殿の可能性もあり、邪馬台国論争のカギを握る重要な成果も期待される。  
 同遺跡は奈良盆地東南部に位置し、卑弥呼の墓との説が根強い箸(はし)墓古墳(全長280メートル)を含む東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡。県や市は、昭和46年から160回にわたって調査しているが、大半が住宅などの開発工事に伴う小規模な発掘だったため、調査ずみ面積は全体の5%にとどまり、全容解明にはほど遠い状況となっている。  
 市は、古代日本の首都とされる同遺跡の全容解明が不可欠として、中枢部分の学術調査を初めて実施することを決定。調査は数年間を見込んでおり、今年度内は、昭和53年に駐車場整備に伴う発掘で神殿跡が見つかった地域を含む450平方メートルに着手する。  
 当時の調査では、卑弥呼(生年不明~248年?死去)の時代とほぼ一致する3世紀前半の神殿とみられる約5メートル四方の掘っ立て柱建物跡と、南側にはほこらのような約2メートル四方の建物跡1棟、周囲に柵(さく)が見つかっており、神殿の一部と考えられている。今回の調査によって、これらの建物跡の全容を把握するという。  
 研究者の間では、建物跡の東側に卑弥呼の居館や大規模な神殿が存在したとの見方もあり、平成21年度以降に調査したいとしている。

 続いて毎日新聞1月30日より  

 奈良県桜井市教委は30日、ヤマト王権の本拠地で、女王・卑弥呼がおさめたとされる邪馬台国の最有力候補地、同市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)について、来月から中枢部を本格的に発掘調査すると発表した。集落部分の学術調査は初めて。71年以来160回の調査をしたが、開発に伴う小規模なものが多かった。  
 遺跡の範囲は、東西約2キロ、南北約1.5キロ。古事記や日本書紀で、歴代天皇の宮があったと伝えられる三輪山ろくに広がる。卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)をはじめ、前方後円墳が誕生した場所で、九州から関東まで各地の土器が持ち込まれていたことなどから、邪馬台国やヤマト王権との関係が取りざたされてきた。  
 今年度は、78年度の調査で神殿風の特殊な建物跡が見つかったJR巻向駅近くの空き地約450平方メートルを2カ月かけて調査。まだ見つかっていない中心建物の発見を目指し、規模や構造、性格を明らかにする。

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ヤマト王権の鉄

 日々寒い日が続きますね。神奈川では今朝の最低気温が0.3℃でした。朝7時半に寝床から起き上がった時にこの凍てつく寒さに『厳冬』を身で感じた次第です。ただ北国にお住まいの方からすれば、今朝の神奈川の寒さなどは『余裕』の類なんでしょうね。とにかく寒暖の差によって体調を崩さないよう、留意しなければなりません。

 ところで先日の新聞報道で、5世紀ヤマトにおける『鉄』に関連した興味深い発見がなされたという記事が掲載されていました。5世紀というと騎馬民族制服論の根拠なる副葬品の『突然変異的な変化』がみられた時期であります。3世紀以降の副葬品であった鏡・玉・剣・車輪石・鍬形石などの宝器的・象徴的・呪術的なものから、この時期(5世紀)になると生活・戦闘など実用的なものに変わり、例えば食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具や盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類へと変化した訳です。

 前述した『突然変異』に一石を投じる発見として今回紹介する発見は注目に値します。要は突然変異という抽象的な史観ではなく、ヤマトには鉄を生産するだけの十分な設備を備えていたことが形として発見されたのです。これを騎馬民族制服論を否定する材料と言い切りませんが、ヤマトに一定水準の技術力(鉄を生産する技術)が存在したことは、これより以前に強力な『国家』が成立していたことの根拠となるのでないでしょうか。

 ではその新聞記事を紹介しましょう。

 大阪市平野区の長原遺跡で、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶(かじ)工房跡が出土していたことが、市文化財協会の調査でわかった。 
 百舌鳥(もず)・古市古墳群の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳が築かれた「倭(わ)の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、同協会は「大和王権直営の鉄器生産拠点」とみている。 
 工房は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に2棟建てられ、1棟ごとに一辺約8メートルの「コ」の字形の溝で区画。棟の間に井戸跡が見つかったほか、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭、排水や湿気よけに利用されたとみられる溝からは、鉄器製造の際に出た3センチ大の鉄滓(てっさい)が発見された。

読売新聞 1月12日

 私たちが考えている以上に5世紀のヤマト王権はその基盤を磐石なものとしており、それを物語っているのが今回の発見かもしれません。
 磐石であった要素は多々考えられますが、今ここで推測を述べると大変長い文章となってしまうので、折を見て少しづつ述べてゆこうと思います。
 ちなみに、このブログのリンク先である『縄文と古代文明を探求しよう!』の管理人さまtanoさんが今回の長原遺跡での発見について『鉄』の生産の背景にあるヤマト王権隆盛の姿をわかりやすく解説された論文『長原遺跡ー鉄器工房発掘ーが意味する5世紀の史実』を掲載されているの、こちらもぜひご覧下さい。

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いつの間に箸墓古墳が『卑弥呼』の墓になったんですかね

 10日前のことですが『枚方・禁野車塚古墳:北河内最大級、“卑弥呼の墓”そっくり 』(毎日新聞)という記事がYahoo!ニュースに掲載されていました。
 記事の内容は次の通りです。

◇3世紀後半~4世紀前半、奈良・箸墓古墳と同時代 
 北河内最大級の前方後円墳で国史跡の「禁野車塚(きんやくるまづか)古墳」(枚方市宮之阪5、全長約120メートル)の形状が、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と酷似していることがわかった。
 府内で箸墓古墳の類型と判明したのは初めてで、近距離にあることから被葬者も同古墳の被葬者と密接な関係性があった可能性が高いという。【宮地佳那子】 

◇被葬者も密接な関係?
 8月に関西、京都橘、京都府立の3大学の教授、学生らと枚方市文化財研究調査会の延べ260人による「淀川流域前期古墳研究調査団」が調査を実施、今月、結果を発表した。 
 それによると、前方部の形が細長い(三味線の)ばち状で、古墳の最も狭い部分が前方部側であるなど、箸墓古墳の顕著な特徴が数多く認められた。近畿から九州北部に22の類型が確認された中でもよく似ており、主従関係や政治同盟などの結びつきを示すという。 
 また、築造時期は出土したはにわの形状などから4世紀代とされていたが、箸墓古墳と同時期と考えられるため、3世紀後半~4世紀前半に造られた府内では珍しい早期の古墳と考えられるという。 
 前方後円墳に詳しい都出比呂志・大阪大名誉教授(日本考古学)は「初期の王の古墳は奈良県に集中しており、禁野車塚古墳の被葬者は、初期の王権と上下関係があったのではないか。国家成立の解明のため欠かせない貴重な古墳だ」と話す。 
 枚方市は同古墳と周辺の整備をし、史跡公園を作る計画を進めている。

12月12日 毎日新聞より

 この記事を読むと箸墓古墳が卑弥呼の墓という前提で、それに類似する『枚方・禁野車塚古墳』が卑弥呼と密接な関係にあった者の墓として推定しようとしています。
 邪馬台国近畿説を支持する私としては、仮に卑弥呼の墓所が存在すのであれば近畿地方であろうと思います。しかし、箸墓が卑弥呼の墓所だと断定されていない段階で、このような記事を掲載するのはどう考えてもおかしいです。まずは箸墓が卑弥呼の墓所であることが確定されてから上のような記事を掲載するべきではないでしょうか。
 
 卑弥呼云々を抜きにすれば、この発見は3~4世紀にかけて近畿地方にこうした大規模な古墳が存在することで、当時の倭国が近畿にその拠点を置いていた可能性を示唆するに十分な意味を持つ調査結果であるでしょう。
 
 話が古墳から離れますが、最近大河ドラマや歴史ドキュメンタリーなどで史実を度外視した確信犯的な番組が多々流されています。それを視聴者がフィクションの『娯楽』として観ているのであれば別に構わないのですが、事実として捉えてしまう人がいると史実が歪曲されて伝わってしまう危険性があります。今年問題になった会津若松城の問題もそれしかりです。
 歴史に限らずメディアの発信する情報を受取る私たちにとって、歪曲された情報を確信犯的に発信されている事実を自らの目で認識する必要があります。
 メディアの一方的な情報に惑わされることなく、リテラシー能力を磨いて、多少懐疑的になるぐらいな感じで情報を見つめてみましょう。

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藤ノ木古墳 23年目の真相

 もう23年も前のことなので記憶が曖昧なのだが、未盗掘状態の古墳が発見され、日本中が盛り上がっていたのをぼんやりと覚えている。その古墳は『藤ノ木古墳』と呼ばれ、被葬者が身に着けていた副葬品などから身分の高い人物の古墳ではないかとの報道がなされていた。しかし一体誰の古墳で、なぜ1つの石室に2人の人物が埋葬されているのかなどの疑問が未解決のまま10数年の歳月が経ち、近年はキトラ古墳と高松塚古墳の劣化問題に話題が集中したことから私の記憶からは『藤ノ木古墳』の文字は薄れていた。
 ところが先日、藤ノ木古墳の被葬者を特定できそうな重要な調査結果が新聞紙上を賑わし、その報道が私の記憶の引き出しから『藤ノ木古墳』の文字を引っ張り出してきた。その新聞報道は次のようなもので、『まさかそこから被葬者を特定してゆくか』と思わせるような興味深い内容である。

  金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。

 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。

 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。藤ノ木古墳の石棺には、ベニバナの生花が供花として石棺に納められている可能性があることが分かった。

 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。

 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗(あら)い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬-などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきよ)作った可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。
 11月1日 産経新聞

 『なるほど』と頷いてしまう反面、『そんな単純なもんなのかな?』と猜疑心もある。どちらの割合が高いといわれれば肯定したい部分の方が強いかもしれない。副葬品や古墳の形状も大事であるが、このような花粉という植物の特性などから探るって手段もあることに驚かされ、また感心した次第だ。
 もし、この記事のように穴穂部皇子が埋葬されているならば、急造りの古墳であったため、外観は粗末に見え盗掘に遭わずに1400年も現状を保つことが出来た可能性も十分に考えられる。科学的視点と歴史学的視点双方から見ても説得力のある調査結果であろう。
 そして、被葬者といわれる穴穂部皇子と宅部皇子だが一体どんな人物であったのか?これについても産経新聞に解りやすく掲載されていたので、記事を紹介したい。

藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)から見つかったベニバナの花粉は、石棺に納められた2人の被葬者像をみごとにあぶり出した。蘇我馬子によって殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。穴穂部皇子は仏教導入をめぐり、物部氏の勢力をバックに蘇我氏と覇権争いを演じた人物だ。皇位継承もからんだ血みどろの政争が繰り広げられた6世紀。石棺内に1400年間封印されたベニバナは、悲劇の皇子の運命を切々と物語った。

 穴穂部皇子について、日本書紀は暴虐な一面を記す。585年8月、敏達天皇が崩御し、翌年5月に埋葬するまでの儀式「殯(もがり)」の最中に、敏達の后・炊屋(かしきや)姫(のちの推古天皇)に暴行しようとして殯宮に押し入った。敏達の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に阻止されると、これを逆恨みして三輪君を殺害した。

 前園実知雄・奈良芸術短大教授が「穴穂部皇子は権力志向が強かった」と推測するように、敏達を継いだ用明天皇が病弱だったことから、物部守屋の後ろ盾のもとでポスト用明を狙った。しかし蘇我馬子が、かつて穴穂部皇子に襲われかけた炊屋姫と組んで、587年6月7日に穴穂部皇子を殺害した。

 その様子について日本書紀は「穴穂部皇子の宮を囲み、兵士が高楼(たかどの)に上って皇子の肩を射た。皇子は落下し部屋に逃げ込んだ。兵士は皇子を見つけ出して切り殺した」と生々しく記述。皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も翌日に殺された。翌7月、馬子は聖徳太子らと計って守屋も滅ぼし、ついに蘇我氏独裁体制を築いたのだった。

 ついに天皇の座をものにすることはかなわなかった穴穂部皇子。「ポスト用明」には弟・崇峻天皇が587年に即位したが、わずか5年後に馬子によって暗殺された。前園教授は「兄弟そろって馬子に殺害されたのはまさに歴史の皮肉」と語る。

 未盗掘で見つかった藤ノ木古墳は、権謀術策の歴史を如実に物語っていた。前園教授は「石棺内は埋葬された状況のままだったからこそ、花粉分析を含めた徹底した調査によって、被葬者像や埋葬時期を絞り込むことができた」と興奮気味に話す。

 ただ、これで被葬者が断定されたわけではない。金原正明・奈良教育大准教授は「ベニバナが保存用だとすると夏以外の埋葬の可能性も捨てきれない」と慎重な姿勢をみせる。豪華な副葬品の発見で「金色のファッション」と騒がれた昭和63年の石棺調査から20年。古代史のミステリーが、再び盛り上がりをみせそうだ。
 11月1日 産経新聞

 この藤ノ木古墳の調査結果を古代史ファンや研究者の方々はどのように捉えて新聞記事を拝見したのであろうか?私のような単なる歴史好きとは違う視点で見られている方も多いと思うので、今後ブログなどで関連する話題を検索し、興味深い記事などを探し、新聞報道だけには捉われない多角的な視点から被葬者について考えてゆきたい。

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薩摩兵児の末裔

 来年の大河ドラマ天地人のキャストについて、私個人の意見だが観る気が失せる配役であり残念で仕方がない。
 昨年放送された風林火山は、ゴンゾウの演技が素晴らしく、葵徳川三代以来の名作として高い評価のできる作品であった。今年の篤姫の配役は「?」であるが、放送時間になればチャンネルを合わせる気にさせてくれるので及第点は与えられる。主役の宮崎あおいさん(演出家との確執云々が言われているが・・・)の演技力は評価出来るし、島津斉彬・久光の配役もイメージに合っている。ただ、大久保一蔵と和宮はかなり厳しいと思うのだが、ご覧になられている方はどう思っているか少し聞いてみたいところだ。
 あっそうそう、天地人だが配役が謙信と景勝以外はどうも気に入らない。気に入らないから見ないんだけど、やはり歴史に名を遺した偉人には現代人が持つイメージってのがある訳で、ベストな配役で言えば伊達政宗=渡辺謙とか徳川家康=津川雅彦といった具合である。視聴者の持つイメージも崩さないような配役って重要なはずなんだけど、天地人はそれを無視しているとしか思えない。それとも視聴率的に篤姫以上を目指そうとしているため配役のイメージにこだわってはいられなかったのか?とりあえず配役についてはホームページで確認していただきたい。

 あぁタイトルから思いっきり話が逸れてしまったが、先日近代警察の父と呼ばれる川路利良についてググッていたら、とても興味深いサイトに辿り着いた。asahi.com鹿児島という朝日新聞のサイトなのだが、そこに薩摩のために尽くし偉人として崇められている薩摩兵児の末裔が紹介されていた。前述の川路利良や理不尽な幕命で木曽川の大規模治水工事の指揮を執った平田靱負、薩摩自顕流の使い手で人切り半次郎と京で恐れられた中村半次郎、西郷の懐刀村田新八、言わずと知れた倒幕の立役者大久保利通西郷隆盛などの末裔の方々が先祖に対するそれぞれの想いについて語っている。
 薩摩の偉人といえども、川路利良や大久保利通などは後年薩摩を討つ側に回ったため、つい最近までは鹿児島に銅像を建てることすら躊躇う空気があったようで、銅像は没してから大久保は101年(1979年)川路は120年(1990年)の歳月を経て鹿児島の地に建てられた。こんなごく最近まで建てることができなかったことを知り、逆に鹿児島の人々がどれだけ西郷を慕っているのかが少しだが理解できた気がする。
 このように色々な因縁やしがらみはあると思うが、今を生きる子孫が偉大なる先祖へどのような想いを抱いているのかをご覧になっていただければと思う次第である。

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政治の話

 もう3年前になるか、俗にいう郵政解散の時に、私は何というか物凄く気持ちの悪い「ポピュリズム」の空気を感じていた。メディア・民衆・為政者、それらが同じ方向に視線を向け、政治ではなく喜劇を愉しんでいる雰囲気を感じた。それが私にとって非常に不快でかつ居心地が悪く、早くこの気味の悪い雰囲気が消え去らないかという思いで一杯であった。
 時の民主党党首・岡田克也はそれに気づいていたのかどうか分からないが、喜劇を愉しむ民衆を成熟した大人として扱い、民衆からすれば「小難しい」セリフに終始している三流役者にしか映らなかった。ワンフレーズと対立構造で民衆とメディアを取り込んだ時の為政者は、良くも悪くも一流の役者であり、岡田克也は意図せずにその引き立て役に回ってしまった訳だ。
 私は当時の心境をこのブログでも綴っているが、未だにこの日本はあの時の反省はなされていない。しかも民主党までも政局マニアに成り下がり、共産党は相変わらず「我々だけは正しい」の一点張りである。メディアは自民党総裁選の勢いで総選挙へ云々ばかりを垂れ流し、自戒の念など皆無に等しい。
 野党にしても年金の国庫負担1/2へ引き上げる際の財源をどうすのか?道路特定財源の一般財源化後の道筋はどうなっているのか?彼らは抽象的な主張ばかりで、明確なビジョンがない。それに民主党の小沢一郎は政策より政局の政治家であるため、おそらくは政権奪取に成功してもこのような難問を解決する術は持ち合わせていないであろう。
 最後になるが、民約論の訳者・中江兆民は民権を「恩賜の民権」「回復の民権」という2つに分けた。前者は専制政府が権利を民衆に対して与えると言う意味で、後者は当然の権利として人民が持つ民権を専制政府から取り返す(回復)と言う意味だ。本当の意味での民主主義を実現するには、政権交代を度々実現することで民衆がイニシアティヴを握り、回復の民権を実現することが重要であるし、重要どろか実現しなければならないのだ。
 と色々と政治に関して述べてきたが、私はこの国が好きだから真剣に考えるのであって、政治の話をタブーにするつもりはない。
 我が国日本を愛するからこそ、厳しい視点で見てゆく。

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プロレタリア(過去と今)

 小林多喜二
 文学に疎い私にとって、彼のことは特高の拷問により死に至った若い文学者程度でしか認識していない。
 その小林多喜二が昭和初期に著した作品「蟹工船」が最近売り上げを伸ばしているという。さらにその影響で日本共産党の党員数が1万人も増えたということなのだが、その新聞記事を紹介しつつ自分なりの考えを稚拙ながらもの述べてゆこうと思う。

                   

共産党 「蟹工船」ブームで1万人新規入党
 
 小林多喜二の「蟹工船」ブームに乗る共産党の地方行脚に従来の支持層を超えて関心が集まっている。格差問題に対する取り組みなどが評価され、昨年9月以降の10カ月間で約1万人が新規に入党。次期衆院選をにらんだ幹部の演説会には1カ所平均約1300人が集まる。接点のなかった業界団体や保守系地方議員との対話も行われ、国政の長期低迷脱却への期待がふくらみ始めている。

 8月28日午後、京都市伏見区にある京都府トラック協会事務所。衆院京都1区から立候補予定の穀田恵二国対委員長が初めて訪ねた。協会は杉本守専務理事が出迎え、燃油高騰に苦しむ業界の現状や環境、行政改革で1時間にわたり意見交換した。協会の陳情先は自民、民主両党が中心で、協会員で構成する政治連盟は両党議員のパーティー券を購入してきた。初めて共産党を迎え入れた理由について杉本氏は「弱者への思いやりを感じる」と率直に話した。

 保守系地方議員との接触も増えた。市田忠義書記局長は7月上旬、奈良県吉野郡などの7市町村の首長・議員と会った。下市町の森本晴男議長は「私は与党議員だが、私たちの気持ちを一番代弁してくれるのは共産党だ」と明言した。

 共産党は志位和夫委員長が就任した00年11月時点で衆院20、参院23だった国会での議席が、現在は衆院9、参院7。国会の党首討論にも参加できない低迷状態にある。旧来の支持層の高齢化も顕著で、新たな支持層の獲得が急務だ。同党は次期衆院選で小選挙区候補擁立を140選挙区程度に絞り込み、比例代表に重点を移した。広範な支持獲得を目指した演説会はすでに47都道府県135カ所を数え、参加者も計約17万人に達した。集会の盛況が選挙結果に結びつくかは微妙だが、穀田氏は「何十年も接触がなかった人たちの視野を広げられた意味は大きい」と手応えを語る。

毎日新聞 2008年8月31日

 この毎日新聞の記事を読むと、タイトルの「共産党 「蟹工船」ブームで1万人新規入党」の経緯がほとんど触れられておらず、それよりも日本共産党の活動報告に終始していて、何とも脈絡のない記事だと呆れてしまう。蟹工船ブームだけで1万人も党員を獲得したのかといえばそれだけではなく、もっと複合的な要素が絡み合って入党者が増えたことを客観的に分析して記事にすべきではなければならないと私は思うのだが、他の方はどう思われるだろうか。
 とりあえず毎日の批判はここまでにして、蟹工船が書き上げれらた時期のプロレタリアと、現代のプロレタリアの定義は大きく違っているのではないだろうか?
 プロレタリアとは「賃金労働者」の意味を指すが、昭和初期のプロレタリアの定義は「反資本主義」であり、現代のプロレタリアは「反貧困」である。それを同一視して共産主義に期待を持つというのは少し無理があるのではないか。しかも蟹工船で描かれている日本はプロレタリアに対して徹底した弾圧を繰り返す封建的制度の国と表現され、ソ連は平等な社会を構築している幸多き国の如く表現されている。これは小林多喜二がソ連に対する無知であった可能性(共産主義=善)が考えられる。このような作品に感化されて日本共産党に入党する人間が本当に多くいるのであれば、それは共産主義を誤って認識しているとしか考えられない。
 とはいっても、私自身「反権力」的思考の持ち主であるので、日本共産党がこうした人気によって議席を増やすことには決して反対ではない。ただ、蟹工船を読み感化されただけで入党する人間が本当にいるなら、それはあまりにも稚拙だと言いたいだけだ。

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「箸墓被葬者=卑弥呼or臺与か」の報道に対する疑問

 まずはこの新聞記事をご覧頂きたい。

浮かぶ権力者の威光、被葬者論争にも一石 箸墓古墳周濠初確認
 最古の巨大前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)で、大規模な周濠(しゅうごう)が初めて確認された。これまで周濠の明確な痕跡は認められておらず、学界でもその存在を疑問視する声が根強かったが、墳丘を取り巻く壮大な周濠が築造当初から整備されていた可能性が高まり、大土木工事を可能にした被葬者の威光を浮かび上がらせた。古墳に眠るのは果たして卑弥呼か、後継の臺与(とよ)か-。再び邪馬台国へのロマンが広がった。
 同古墳の墳丘は宮内庁の陵墓に指定されており、学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれている。
 こうした中、桜井市教委や奈良県立橿原考古学研究所は10年以上前から墳丘の周辺を丹念に発掘。その結果、大規模周濠の存在を突きとめた。市教委の橋本輝彦主任は「60メートル以上という周濠の幅は、実に古墳1つが入るほどの大きさ。周濠によって、被葬者と外部との隔絶性をより明確にしたのだろう」と推測する。
 その被葬者はいったい誰か-。中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2人の女王が登場する。それによると、呪術を通して君臨した卑弥呼の死後、戦乱が起こったが、卑弥呼一族の女性・臺与を後継に立てることでようやく収束したという。
 卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。
 3世紀中ごろの築造説を採る白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「箸墓古墳を造るには10年以上かかり、卑弥呼の墓の時期に合致する」と卑弥呼説を提唱。「周濠などの調査は構造を明らかにする上で極めて重要。国なども本格的に乗り出すべきだ」と強調する。
 一方、築造は260~280年とみる寺澤薫・橿原考古学研究所総務企画部長は「被葬者は卑弥呼の後の臺与か、その後の男王では」と推測。卑弥呼の時代はライバルの狗奴(くな)国があり、決して万全な体制ではなかったとして、「男王の時代に王権の力が全国に及び、巨大な箸墓古墳を築くことができたのだろう」と指摘する。
 同様に、卑弥呼説に否定的な石野博信・兵庫県立考古博物館長も「被葬者は臺与とみていいだろう」と言及。「3世紀後半には全国の土器の動きが活発になり、交流や戦争などさまざまなことがあった。臺与は、魏志倭人伝にあまり記述がないが、業績は大きかったはず」と推測する。
 被葬者の強大なカリスマ性を物語る大規模周濠。今回の発掘成果をきっかけに、被葬者論争はさらに高まりそうだ。
 産経新聞 2008年8月27日

 歴史ロマン的な視点から言えばこの箸墓の発見が「被葬者=卑弥呼or臺与」に限りなく近づいたと考えたくなるし、それはそれで構わないと思う。私自身も邪馬台国畿内説を支持しているので、箸墓は邪馬台国からヤマト王権へと続く過程で建造されたものだと信じている。
 ただ、箸墓がこれだけ大規模な古墳だと分かったということは、逆に卑弥呼の古墳ではないことを裏付けたような気がしてならない。そう思うのは魏志倭人伝の記述に

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

があるからだ。これは邪馬台国連合に参加している国々を指しており、実際邪馬台国に支配されていた訳ではない。(ないと言えないが、なかったであろう。)現在のEU(ヨーロッパ連合)よりまとっている連合集団、それが邪馬台国連合であったはずだ。
 ということは連合の女王である卑弥呼は統治こそしてはいたが、後のヤマト王権の大王のような中央集権が強まった時の支配者ではない。そのような一連合の支配者の墓所が新聞記事に載っているような大規模建造物になるであろうか?私は今回の発掘によって逆に箸墓が卑弥呼の古墳ではないことが強まったような気がする。

 ところで、坂の上の雲のアンケートはまだ続けております。是非ご協力よろしくお願いします。

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地元の話題

今年の初め史跡田名向原遺跡公園に関する記事をアップしたが、その史跡田名向原遺跡公園に関連したニュースがYahoo!ニュースに掲載されていたので紹介したいと思う。

 

 約二万年前の住居状遺構を中心とした「相模原市立史跡田名向原(むかいはら)遺跡公園」(同市田名塩田三丁目)内に、旧石器時代の歴史などが学べる「学習館」が二〇〇九年四月、オープンする。石器時代に特化した学習施設は全国でも珍しいという。市は市議会九月定例会に学習館の設置条例案を提出する。
 一九九七年に発見された田名向原遺跡は、直径十メートルほどの後期旧石器時代の住居状遺構などがある。建物跡としては国内最古とされ、九九年に国の指定史跡となった。
 遺跡の保存活用を図るため、市は二〇〇六年度から周辺約八千二百平方メートルを公園として整備。公園の一部は〇七年三月に開園している。
 「市立史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館」は、同公園の一角に建設。鉄骨平屋約六百二十平方メートルで、発掘された石器などの遺物や住居の復元模型を展示するほか、石器時代の人々暮らしぶりを模型や映像を活用しながら分かりやすく解説していく。また実習室も設け、土器や石器作りなどの体験学習も行う予定。
 市教育委員会文化財保護課は「子供たちに地元の歴史に親しんでもらうだけでなく、専門家の研究にも役立つ施設にしたい」と話している。

 郷土研究という分野だと中世から近代にかけての研究が多く、旧石器時代について触れることはかなり少ないと思うので、相模原市近辺にお住まいで興味のある方はぜひ訪れていただきたい。

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日本航空123便墜落事故から23年

 昨日8月12日は、1985年に発生した日本航空123便の墜落事故から23年目の日であった。
 この事故は単独航空機事故としては世界最大の被害で、520人の方々の命が奪われてしまった非常に痛ましい事故であった。
 事故原因については1978年に123便が起こした「しりもち事故」の修理を担当したボーイング社の修理ミスによる隔壁の耐久度が極めて低くなってしまった事と言われているが、真相はまだハッキリとはしない。ただ墜落で520人の命が失われた事実だけはハッキリとしている。
 私は当時11歳、親類宅のバーベキューに参加していた時にTVの報道で航空機が墜落した事を知った。この時から3年ほど前に、片桐機長の錯乱によって引き起こされた日航機羽田沖墜落事故の記憶があったため、その時と同じように生存者はいるだろうと思っていたが、たった4人しか生存していなかったことに子供ながらに衝撃を覚えた。
 あの日から23年、日本航空は相も変わらずトラブルが多く、利用者に不安を与えている。このような状況を8月12日のあの事故を教訓にして是非改善していただきたい。
 今回ここにUPしようか迷ったが、この事故を風化させないために回収された123便のボイスレコーダーを内容をyou-tubeからUPしておく。
 そして事故で亡くなられた方々に対し哀悼の意を表したいと思います。

 日本航空123便 ボイスレコーダー

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寛永寺の徳川宗家墓所調査はじまる

 寛永寺には、大きくて高い門がある。そしてその門の奥には歴代将軍の墓所があると言う。
どうして民間人に開放されていないのか?もしくは、期間を定めて開放しているのかは知る由も無いが、その墓所がここ数日調査されていて、8日には中間報告が発表された。
 それによると、徳川家の関わりのある女性の墓所からは非常に豪華な副葬品が発見されたようで、大奥で権威を振るっていた女性たちの力を知る重要な証拠となるとのことだ。
 その大奥と言うシステムだが、個人的には好きではない。将軍職が世襲であり、世子を儲けるために多くの女性を侍らすのは当時の概念からしたら仕方のないことだが、それにしても大奥に対して財を投じすぎている。特に11代将軍で、後の大御所の徳川家斉の時代には常軌を逸したが如く大奥への出費を重ねてしまい、それが一つの原因となって幕末期に幕政が行き詰ってしまった訳だ。
 ドラマなどのストーリーとしては大奥の人間模様や豪華さなどは「画」になるであろうが、この国の近代化や為政者の効率的な政策を踏み潰してきたのは大奥に住む住人たちであったのは周知の事実である。

 と大奥の悪口を綴ってしまったが、それもまた歴史。歴史から学ぶことは多々あるので、大奥に関しても今後どうのような研究や発見があるのかを興味深く見守ってゆきたい。
 最後に、寛永寺の調査に関する読売新聞の記事を紹介したいと思う。

徳川将軍家の菩提(ぼだい)寺、東京・上野の寛永寺にある将軍家墓所から、現存最大の墓誌や豪華な副葬品が出土したと、発掘調査を行っている近世墓所調査団が9日、発表した。
調査は墓所の改葬に伴うもので、昨年6月に始まった。これまで将軍の生母、正室、子女らの墓所25基のうち、16基が終了した。名誉団長の坂詰秀一・立正大名誉教授は「大奥のタイムカプセルが開いた」と成果を評価している。
調査の結果、遺体を納めた石櫃(せきひつ)、石槨(せっかく)のふたの裏面に刻まれた墓誌のうち、12代家慶(1793~1853年)の正室・浄観院、13代家定(1824~58年)の正室・澄心院の墓誌は、縦横各2・9メートル、重さ4・9~5・3トンと判明。日本に現存する墓誌としては最大であることが分かった。
また、遺体の傍らには大奥の華麗な生活を物語る多様な副葬品も確認された。水晶製の数珠や、水晶の容器入りの仏舎利、金銅や黒漆塗りの厨子(ずし)に入った念持仏などが出土した。

Ytokugawa
最後の将軍 徳川慶喜の墓所。
慶喜公は、将軍職を朝廷に返上し、晩年は公爵として過ごしたため、天皇の臣下として扱われた。ゆえに歴代将軍とは違い、神式の墓所に埋葬されている。
場所は谷中墓地。

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多民族国家 日本

 私の学生時代、歴史と言う科目が好きでかつ得意であった理由の一つに社会科を担当してくれた和田先生の影響がある。和田先生は中学2年時において社会科の担当であったが、教科書の内容にはとらわれない授業を進めるので、好奇心旺盛だった私にとっては和田先生の授業「だけ」は本当楽しみだった訳だ。
 おかげで当時の神奈川県内での通知表の評価は10段階評価だったのだが、社会科(歴史)は常に9or10、その他の科目では5以上は国語と、担任が担当していた美術だけだった。要は社会科以外の科目はまったくの劣等生「だった」私、今ではそのことを信じてもらえず、元同級生や社会人になってからの友人たちから「お前が劣等生だなんて、そんな風には見えないよhappy01」と有難い評価をして頂いている。

 あっいつの間にか自慢話になってしまったが、話を和田先生に戻すと、和田先生がある日の授業でこう話されていた。
「日本は単一民族国家などと言われているが、それは大きな間違いだ。日本には琉球民族もいればアイヌ民族もいて、それぞれ独自の文化を育んでいる。そのことは忘れてはならないぞ。」
と。
 私は琉球もアイヌも知っていたが、中学の同級生には沖縄出身のヤツがいたし、アイヌだって木彫り熊などのお土産を作る器用な人たちってイメージで「差別する」なんて概念すら湧いてこなかった。特に沖縄の人はスポーツが強い人が多く、ある意味尊敬すらしていた。<具志堅さん、衣笠さん>など。まあ最近は綺麗なタレント・女優さんは沖縄出身の方が多く、日本のエンターテイメントは琉球民族抜きには語れないと実感している。
 って個人的な話はここまでにして、本日国会でアイヌ民族を「先住民族」として認定する決議が全会一致で採決された。単一民族と言う意識の強い我が国では異例のことのようで、アイヌの方々もこれで一応一区切りつけられたのではないだろうか。それにしても明治後期に制定された「北海道旧土人保護法」と言う差別法を10数年前まで施行していたのだから驚きである。
 でもこうした過去をの歴史を糧に新しい歴史を歩みだそうではないか。アイヌ民族、琉球民族、そして私たち大和民族(って表現でよかったかな?)がガッチリ連携を組み、この「日本」と言う国を世界に誇れる多民族国家に押し上げてゆきましょう。

以下毎日新聞の記事を紹介します。また、フジテレビで放送されたアイヌ民族の方の特集もリンクしておきます。

 LOVE and PEACE
by jazzy-misaki

 

アイヌ民族:「先住民族」初の国会決議、衆参両院で採択

 アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議案が全会一致で可決された参院本会議=国会内で2008年6月6日午前10時18分、藤井太郎撮影 アイヌ民族を先住民族と認定するよう政府に求める初の国会決議が6日の衆参両院本会議で、全会一致で採択された。これを受け町村信孝官房長官は両院本会議で、政府として初めてアイヌを「先住民族」と認識することを表明し、正式な認定に前向きな姿勢を示した。政府は今後、「アイヌ有識者会議」(仮称)を設置し、先住民族と認めた場合の先住権の内容などを検討する方針。アイヌの先住権を認めず北海道開発を優先してきた明治以来のアイヌ政策の転換につながる可能性が出てきた。

 決議は昨年9月に国連で「先住民族の権利宣言」が採択されたことにより、具体的な行動が求められていると指摘。「我が国が近代化する過程において多数のアイヌの人々が差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」とし、先住民族としての認定と総合的な施策の確立を政府に求めた。

 これを受け町村長官は「政府としては独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族との認識のもと、国連宣言を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む」と表明。政府はこれまでアイヌ民族について「先住性」は認めてきたが、「先住民族」との認識を示したのは初めて。

 アイヌの法的位置付けをめぐっては、1世紀近くにわたり差別の根源とされた「北海道旧土人保護法」に代わり「アイヌ文化振興法」が97年に制定されたが、先住民族としての認定は避け、アイヌ語の普及や伝統的な歌や踊りの継承を目的とする内容にとどまった。そのためアイヌで作る北海道ウタリ協会は「先住性」を基に独自の文化や生活の保護・再生を進める総合的な施策の拡充を求めていた。

 同協会の加藤忠理事長は参院本会議を傍聴後、「本当に感動した。これまでのアイヌ民族に対する不正義に終止符を打ち、新たな視点でお互いを尊重する社会づくりの一歩にしてほしい」と語った。【千々部一好】

 ◇解説…国連宣言の「外圧」で動く
 アイヌの先住民族認定へ向け、ようやく国会の意思が一つになった。昨年9月に国連で採択された先住民族の権利宣言、7月にアイヌの先住地・北海道で開かれるサミット(主要国首脳会議)という「外圧」が国会を動かしたとも言える。今後は政府がサミットまでに先住民族認定に踏み切るかが焦点となる。

 決議の動きは国連宣言を受けて始まった。自民党の今津寛衆院議員や民主党の鳩山由紀夫幹事長ら北海道選出議員が中心となり、7月の北海道洞爺湖サミットまでに先住民族認定を実現しようと超党派の議員連盟「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」を3月に結成し、政府と水面下で調整しながら決議の文案をまとめた。

 ただ、政府・自民党内には過去のアイヌ政策を否定することへの抵抗感や、先住権として土地などの財産権、国会議席の民族枠などの政治的権利を要求されることへの警戒感が強い。同会が作成した当初の原案にはアイヌの歴史に関し「労働力として拘束、収奪された」「『同化政策』により伝統的な生活が制限、禁止された」などの記述があったが、自民党内の反発で削除された経緯もある。

 国連宣言は土地権や自決権、教育権など、先住民族の権利として46項目を挙げている。政府は今後、有識者会議で具体的な先住権の中身を検討することになるが、国連宣言に賛成しながらアイヌの先住権を認めない「内と外の使い分け」はもう許されない。【千々部一好】

 ◇アイヌ民族
 北海道や千島列島などに住む独自の文化、言語を持つ民族。かつては主に狩猟や山菜の採取に従事し、明治政府の同化政策で人口が急減したと言われている。北海道庁が06年に行った調査では、道内に2万3782人が居住。北海道ウタリ協会は1946年に「北海道アイヌ協会」として発足したが、アイヌ語で「人」を意味する「アイヌ」の呼称は差別された歴史を思い起こすとして、「同胞」を意味する「ウタリ」を使ってきた。拒否感が薄れたことなどから、来年4月から名称を「北海道アイヌ協会」に変更する。

 ◇アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議骨子
 1 政府は「先住民族の権利宣言」を踏まえアイヌを先住民族として認めること

 2 政府は有識者の意見を聞きながら総合的な施策の確立に取り組むこと

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キトラの被葬者 謎の形状

 ブログ・日本史探求を開設してから3年ちょっとが経った。当時は歴史検定に合格した勢いで、その知識をブログを通じて発信してゆこうと思い始めた訳だが、あまりにも日本史は奥が深く、検定に合格した程度の知識ではアクセスしてくれた方を満足させる記事は書けないとこの3年間で痛感した次第だ。
 でも、これだけは自信を持って言える。このブログを通じて今まで興味など殆どなかった古代史のミステリーについて数多探求する機会を得ることが出来た。そして今もその探究心は薄れることなく続いている。

 と言う堅苦しい文言はやめにして、産経新聞の記事を紹介しいてゆこうと思う。
 7~8世紀に建造された遺跡の代表格と言えばキトラ古墳と高松塚古墳であろう。しかもこの2つの古墳の被葬者は未だに解っていない。被葬者については過去の記事でも幾度となく取り上げてきた
 そして今回、産経新聞においてキトラ古墳の被葬者論争に一石を投じる記事が掲載された。それは被葬者の埋葬状態(いや状況かな?)である。
 記事よるとその状況は通常の被葬者とは違い尋常ではないとのこと。私自身も権力闘争の果てに非業の死を遂げた時の権力者、、もしくは政敵であったと考えている。
 以下の記事をご覧頂いて一体どのような人物が被葬者なのか思いを巡らして頂ければ古代史ファンである日本史探求管理人として幸いである。
 
 

キトラ古墳(奈良県明日香村、7世紀末)の石室で見つかった被葬者の人骨について、古代人骨に詳しい片山一道・京都大学大学院理学研究科教授(自然人類学)が分析した結果、粉々になった頭骨や歯、足の骨のごく一部しか残っていないことが24日、分かった。飛鳥時代には遺体をそのまま棺(ひつぎ)に納めるのが通例で、被葬者を埋葬する際、儀式として全身ではなく頭の骨など一部だけを棺内に納めたか、後から骨を抜き取った可能性も浮上、古代のミステリーに専門家も首をかしげている。

 片山教授は、平成16年に石室内を発掘した奈良文化財研究所などの依頼で分析。発掘では頭骨片など約200点と歯約30本が確認され、骨の形や歯の摩滅状況などから、被葬者は40~60歳代のがっしりした男性の可能性が高いことが分かった。

 ところが、歯はほぼ1人分が見つかったのに対し、骨は大きいものでも5センチ大前後が数点、2~3センチ大が50点ほどしかなく、大半は粉々の状態だった。

 古墳では、被葬者の骨が残っているケースがしばしばあり、キトラ古墳と同様に壁画が描かれていた同時代の高松塚古墳(同村)では、首の骨や足の骨などが状態が良いまま見つかっている。また、豪華な副葬品で知られる藤ノ木古墳(同県斑鳩町、6世紀後半)の石棺には、頭骨や手足の骨などほぼ全身分が残っていた。

 これに対し、キトラ古墳のように少量しか残っていない例はほとんどない。キトラ古墳は鎌倉時代初めに盗掘を受けているが、片山教授は「盗掘でよほど荒らされない限り、このような状況にはならない。埋葬時に何らかの儀礼的行為があり、白骨化した頭骨と足の骨の一部を木棺に納めたか、それとは逆に他の骨を除去したのか…。まさに歴史の闇の中だ」と首をかしげる。

 キトラ古墳では、被葬者が納められていた木棺は全面朱塗りだったことが同研究所の調査で判明。同様の棺に近くに古墳のある天武天皇の棺があることから、被葬者として天武天皇(在位673~686年)の皇子で、首相にあたる太政大臣を務めた高市皇子(たけちのみこ)(654~696年)とする説がある。

 日本書紀などによると、高市皇子の弟、大津皇子(663~686年)は、謀反の罪で処刑されて葬られたが、その後、遺骨だけが二上山のふもとに埋葬されたという。古代の葬送儀礼に詳しい和田萃(あつむ)・京都教育大学名誉教授(古代史)は「大津皇子のような特異な事情があって遺骨だけ埋葬し直したのかもしれないが、通例と異なる骨の状況は現状では全くの謎だ」と話している。


【用語解説】キトラ古墳
 直径14メートルの円墳で、昭和58年のファイバースコープ撮影で、高松塚古墳に次ぐ国内2例目の極彩色壁画が描かれていることが判明した。高松塚には残っていなかった南壁の神獣「朱雀」や、十二支を表現した獣頭人身像壁画など11個の壁画が確認され、天文図は世界最古といわれる。平成16年の石室内発掘で、金銅製の棺金具なども出土した。壁画は剥落(はくらく)の危険が高いとして同年からはぎ取り作業が行われ、天文図を含めて今年度中に終了する予定。12年に国特別史跡指定。


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学術重視により神功皇后陵の調査を許可

今まで宮内庁は「尊厳などを守るため」と言う微妙な言い回しで、戦後の一時期を除き、陵墓参考地への調査・発掘は認めてこなかった。ところが今回、日本考古学協会の要望を受け、神功皇后の陵墓と伝えられている奈良県の五社神(ごさし)古墳の調査を認める運びとなった。理由は「尊厳より学術を優先した。」とのこと。ただし発掘についての許可は下りていない。
これまで宮内庁管轄の陵墓参考地における発掘・調査は(西都原古墳群など一部を除き)原則禁止であったが、調査をさせない理由は極めて曖昧であり、何か調べられてはまずい事でもあるのかと勘ぐってしまう。古代日本の歴史を知る上で陵墓参考地の調査は不可欠であり、今回このような前例を残したことは評価に値する。
ちなみに神功皇后と言う人物だが、第14代仲哀天皇の后であり、第15代応神天皇の母であると伝えられている。記紀によるところ通常では考えられないような神秘的な力を持っていた人物と記されており、一部では魏志倭人伝に登場する卑弥呼の後継台与(トヨ)ではないかと言われている。そのような人物の陵墓と伝わる場所を調査出来ることは注目に値するであろう。

以下今回の許可に関する記事を紹介する。

奈良市の神功皇后陵=五社神(ごさし)古墳=で、陵墓としては初めて学会側の要望に基づく立ち入り調査が22日に行われることが決まった。申請した日本考古学協会などは「歴史遺産としての陵墓を解明する第一歩になる」と評価、「今後の足がかりにもなれば」と期待を寄せている。
陵墓の立ち入り調査について、宮内庁は「尊厳などを守るため」として戦後の一時期を除いて長年認めてこなかったが、昭和54年からは補修工事の際に研究者の見学は認めるようになった。
さらに学会側は平成17年、計11の陵墓について調査を要望。宮内庁は昨年1月、陵墓管理の内規を変更し、学術目的の申請であれば審査し許可する方針に転換した。
今回の調査にあたり、同協会の西谷正会長(九州大名誉教授)は「陵墓としての尊厳を尊重しながら文化財としての側面から調べたい」と話す。
神功皇后陵について、宮内庁書陵部が平成15年度に行った整備工事に伴う調査では、墳丘の前方部西側面で葺(ふき)石などを確認。円筒埴輪(はにわ)などの破片も見つかっている。
今回の学術調査では、発掘ができないなどの制約はあるものの研究者の期待は膨らむ。同協会の高橋浩二理事(富山大准教授)は「宮内庁が作成した墳丘の復元図が正しいかどうかを現地で検証したい。規模や形状を調べ、埴輪の破片があればその特徴から築造時期を推測したい」。
西谷会長は、今後の陵墓調査についても「継続的に要望し、順次調査を実現したい。さらに前進するよう努力していきたい」と話している。

産経新聞 2月15日

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奈良で弥生時代前期の水田跡がみつかる

日本に大陸から稲作が伝わったのは、縄文時代末期から弥生時代前期かけてだと言われている。そしてその痕跡は福岡県の板付遺跡など主に九州地方において発見されているため、九州から東日本へ稲作は広がったと考えられているようだ。よって日本におけるクニの発展は九州から広がっていったと言う考えが根強く、さらには2世紀に魏国へ遣いを出した邪馬台国の存在も、こうした経緯から九州説を支持する人々が多い。ちなみに私は近畿説を支持している。
話を稲作伝来に戻すが、日本に稲作が伝わったと言われる紀元前4世紀頃の水田跡が奈良県の萩之本遺跡から発見された。この発見は稲作そして大陸の文化が九州地方から東へ伝播していったと言う定説を覆すものとして注目に値する。また、鉄器の伝来によりクニ同士が群雄割拠し、小国が分立していた九州よりも近畿地方のクニの方が稲作を基盤とした安定した発展が可能だったと考えられる。
この萩之本遺跡の発見は早い時期から近畿に稲作が伝わり、文明を築いていた証拠になるだろう。さらにはここを拠点に安定した文明と広範囲の領地を有する勢力が後に九州に存在したクニと互角以上の戦いを繰り広げたのではないだろうか。
以下詳細は新聞記事より抜粋。

奈良県立橿原考古学研究所は14日、萩之本遺跡(同県橿原市)で、弥生時代前期(紀元前4~3世紀ごろ)の水田跡と堰(せき)が見つかったと発表した。奈良盆地で確認された最古の水田跡。奈良盆地で弥生前期に高度な水利技術を伴った稲作が既に行われていたことが初めて明らかになった。識者は日本における稲作の広がりや、後に大和政権を生んだ奈良盆地の発展を生産面から考える上で貴重な成果とみている。
稲作は、弥生時代早期(紀元前5世紀ごろ)に大陸から九州に伝わり、東へ広がったと考えられている。奈良盆地ではこれまで、土器の形式などから弥生前期に稲作が行われていたことが推測されるだけだった。
京奈和自動車道の建設に伴い、約4000平方メートルを調査した。水田は高さ数センチのあぜで1枚10平方メートル程度に区画。全部で40枚以上(総面積約700平方メートル)を検出した。耕作土の他、水田を襲った洪水の堆積(たいせき)層から弥生時代前期の土器を確認。稲を刈った跡や弥生人の足跡も見つかった。
水田から約50メートル北の地点では、洪水で埋まった川を水路に転用し、水田に水を引くための堰(全長約10メートル、幅約2メートル、深さ約1メートル)を設けていた。川岸を数百本のくいと矢板で護岸して水の流れを制御し、川底を掘り下げた貯水施設を造っていた。取水口に水門らしき施設を伴い、季節によって変動する水量を調節したらしい。

◎工楽善通(くらく・よしゆき)大阪府立狭山池博物館長(考古学)の話 
弥生時代前期に奈良盆地に稲作が定着していたことの実証だ。後に大和政権の基盤にも結びつく生産力を発展させていく背景が分かってきたといえる。

毎日新聞 2月14日

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渡来系の権威を示す跡

約1ヶ月ぶりの更新となる今回の記事は、恥ずかしながら人伝に聞いた話題を取り上げてみたい。

今月、6世紀後半の実力者・蘇我馬子の墓と推測されている石舞台古墳をもしのぐ横穴式石室を持つ古墳の全容が明らかにされた。その古墳の名は真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳と言い、渡来系の東漢(やまとのあや)一族の墓所であったと考えられているものだ。
今回発表された内容によると、真弓鑵子塚古墳の石室内規模そして構造は石舞台古墳をしのぐ規模であり、石室内に積み上げられた石の配列は当時の最新技術を用いていると言う。これは東漢氏の権威を示す証拠であり、当時の権力構造(6世紀中期)において渡来系の占めていたポジションをうかがい知ることが出来る貴重な発見だろう。また仏教伝来の時期と重なることも興味深く、この時期のヤマト政権は朝鮮(特に百済)の影響を強く受けていたのではないだろうか。
王朝交代があって間もない6世紀のヤマトは、こうした渡来系一族らの助力なくして政権運営をおこなうことは出来なかったと推測するが如何に。

少し話が古墳から逸れてしまったが以下、真弓鑵子塚古墳について取り上げた読売新聞の記事を紹介しておこう。

国内最大規模の横穴式石室の全容が半世紀ぶりに明らかになった奈良県明日香村の真弓鑵子(かんす)塚古墳(6世紀中ごろ)。絶妙のバランスで巨石をドーム状に積み上げた精巧な石室は、朝鮮半島から古代飛鳥に最新の技術や知識をもたらし、律令国家成立の“隠れた立役者”と言える渡来系氏族の雄、東漢(やまとのあや)氏の姿を鮮やかに浮かび上がらせる。
「ドーム状の石積みが見事。幾度もの大地震に耐えたしっかりとした造りで、朝鮮半島から持ち込まれた技術の高さがうかがえる」。河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は評価した。
村教委が、土砂に埋もれた石室を発掘すると、畳18畳分の空間が現れた。中には石やクギが残されていた。少なくとも石棺が二つ、木棺が一つ置かれていたらしい。南側出入り口は、石でふさがれた後に崩され、追葬が行われたらしい。西光慎治技師は「これほど立派な石室だったとは。一族の墓を造ったとみられる。広さが権力を示しているのではないか」と話す。
石室は、欽明天皇陵とされる奈良県橿原市、丸山古墳にある国内最大の横穴式石室はやや下回る規模だったが、石舞台古墳は上回っていた。渡来系氏族の特徴とされるミニチュア炊飯具やベルトに使われたとみられる獣面飾金具など華やかな副葬品も出土した。
一帯は、東漢氏の本拠地「檜前(ひのくま)」に近い。「日本書紀」によると、東漢氏は応神天皇の時代に渡来し、飛鳥時代前半には蘇我氏に協力、軍事や財政、外交を担った。平安時代にも一族から坂上田村麻呂らを輩出した有力豪族。被葬者は東漢氏の首長級に違いない。
和田萃・京都教育大名誉教授(古代史)は日本書紀の登場人物に注目。同族の川原民直宮(かわらのたみのあたいみや)が良馬を見つけ、買い取った記述がある。古墳から馬具や刀の金具が出土しており、「記述は、馬の素質を見抜く優れた武人であったことを伝えようとしたのだろう。川原民直宮は候補の一人」と言う。

読売新聞 2月8日

(追記) you-tubeに投稿されていた古墳内部の映像も紹介したいところだが、著作権の関係もあるのでリンクだけしておく。
http://www.youtube.com/watch?v=DLfRsOS7y2k

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3000円が500万円に!

今朝、NHKニュースを見ていたら驚きの鑑定結果が私の耳に飛び込んできた。「開運!なんでも鑑定団」でもありえないようなお宝が発見されたのだ。
そのお宝が発見されたのは栃木県栃木市の民家で、ここの住民が20・30年前に廃品回収業者から3000円で購入した江戸時代の肉筆画である。ところがこの肉筆画は何と江戸時代を代表する浮世絵師・喜多川歌麿の作品であり、しかも歌麿の人生の中で書き上げた肉筆画は30点しかないと言うから非常に貴重な作品であるのだ。当然希少価値があり、相当な値段がつくと予想されていただろうが、購入金額が3000円に対して栃木市が買い上げた金額が500万円と言うのだから驚きである。
もし、これをご覧頂いている方で、数百年前に描かれた絵などを所有している方がいらしたら、なんでも鑑定団かそれ以外の鑑定士に見てもらうと驚きの結果が出るかもしれない。
いや、しかしすごい話だ・・・。
あと、スポーツ報知のウェブサイトにこの件に関して詳しく載っていたので、その内容を紹介しておく。 またその作品(女達磨図)の画像はこちらに掲載されている。

江戸時代中期から後期にかけて活躍した人気の浮世絵師、喜多川歌麿(1753―1806年)が描いた幻の肉筆画「女達磨図」が栃木県栃木市の民家で5日までに見つかった。作風の変化を知る上で貴重な資料という。
縦約37センチ、横約57センチの和紙に墨と顔料で赤い達磨の扮装(ふんそう)をした遊女の上半身が描かれており、千葉市美術館の浅野秀剛学芸課長が歌麿直筆の肉筆画と確認した。
歌麿作品は版画が2000点以上残されているが、肉筆画は30点ほどしか残っていない。「女達磨図」は昭和初期の資料にその存在が記されていたが、写真はなく幻の作品とされていた。あごやほおの線、目鼻立ち、髪の描き方などから歌麿全盛期の少し前、30代後半の作品とみられる。
肉筆画は所有者の女性の夫が20―30年前、廃品回収業者から3000円ほどで購入したもので、現在は作品保護のため、とちぎ蔵の街美術館(栃木市)に預けられている。
浅野課長は「劣化は激しいが、作風の変化を研究する上で貴重な材料になる」と話している。

スポーツ報知 10月5日

※喜多川歌麿(1753?~1806)
江戸後期の浮世絵師で、当初の名は北川豊章と名乗る。江戸中期から後期の版元として有名な蔦屋重三郎に才能をみいだされ、歌麿と改名し活躍した。

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竹田遺跡 最大の建物跡見つかる

歴史とは関係のない話から始めるが、「Aソ連型」と言うインフルエンザウィルスが日本で流行しそうな兆しがあるようだ。日本史探求をご覧の方々、どうか外から帰宅した際には手洗い・うがいを必ずおこなって頂き、インフルエンザウィルスの侵入を防いで頂ければと思う。出来ることならワクチンの予防接種を受けて頂くこともお勧めしたい。私自身インフルエンザを罹ったことはないが、感染すると死ぬほどつらいと聞く。つらいのは勘弁なので、私も予防に心掛けてゆきたい次第だ。

さて、話を歴史に移すが、明日香村の竹田遺跡から非常に大きな建物跡が発見されたと昨日の毎日新聞に載っていた。建物は皇族・高官の邸ではないかと考えられ、専門家の間では天武天皇の皇子である新田部親王の邸の可能性があると推測されている。この竹田遺跡近くには中臣氏の拠点だった場所もあり、中臣鎌足の孫である新田部親王が邸を構えるには立地としては悪くないであろう。
天武天皇の皇子たちと言えば7世紀終わりから8世紀始めにかけて権力の中枢にいた人物が多い。有名なところでは長屋王の父である高市皇子や忍壁皇子である。彼らと同じ天武天皇の皇子である新田部親王は長屋王政権時代に大将軍の要職にあった。そのため藤原四子の陰謀で長屋王を謀殺する際には新田部親王が長屋王邸に派遣されたと言われている。

以下、その新田部親王の邸ではないかと言われる遺跡発見についての記事なので、紹介しておく。

皇族や高位高官の邸宅があったとみられる竹田遺跡(明日香村)で、同遺跡の建物としては最大となる7世紀後半の掘っ立て柱建物跡(南北4・8メートル、東西12メートル以上)が見つかり、4日、村教委が発表した。
同遺跡ではこれまでに飛鳥時代の建物跡約10棟を確認。万葉集によると、周辺には天武天皇の皇子の新田部(にいたべ)親王(?~735)が住んでいたとされ、関連が注目される。
今年6月から約720平方メートルを調査。土地を大規模に造成して造られた7世紀後半以降の建物跡6棟と塀を確認した。最大規模の建物跡は、約1メートル四方の柱穴を持ち、一部で柱のこん跡(直径約30センチ)を確認。柱穴の中には、建物が沈み込まないよう柱の下に敷いた礎板石(そばんいし)が残っていた。同様の目的に使ったとみられる砂岩の切石も見つかった。この砂岩は、大きさや加工の状態が近くの酒船石遺跡の石垣と一致。684年の地震で崩れたとされる石垣の石を転用したらしい。
同遺跡の石垣の転用例は、藤原宮跡の建物の礎板石や飛鳥京跡の石敷きなど飛鳥を中心に約40例あるという。
調査を担当した高橋幸治技師は「これだけの建物を建てた背景には、大きな権力が存在しただろう。中臣氏の本拠地も近く、どんな人物が住んでいたのか興味深い」と話した。

毎日新聞 12月5日

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名護屋城の規模は大坂城と同じ

ご無沙汰しております。
今年もすでに12月、間もなく正月だと思うと月日の流れってのは本当に早いと感じてしまう。そしてこのブログを始めてからもう2年9ヶ月が経つ。つい最近始めたと思っていたのに・・・。

ところで歴史関連のニュースを取り上げてみたい。
豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し居城とした名護屋城だが、どうやら城の規模が大坂城と同等であったのではないかと言う内容がある新聞記事に載っていた。
それだけ大規模の城であったと言うことは、秀吉の朝鮮制圧への野望が強かったかのか?それとも一部研究家や作家などからも指摘されているように痴呆からくる誇大妄想によりこんな大規模の城を築いて莫大な戦費を浪費していったのか?
いずれにしても全国統一後の秀吉の行動は尋常ではない。やはり権力を掌中に収めると、極端な被害妄想に襲われてしまうのかもしれない。
とこのニュースを見て晩年の秀吉について色々と考えてしまった。

以下その記事を紹介しておく。

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として築いた唐津市の国特別史跡「名護屋城」が、大阪城に匹敵する規模と格式を備えた居城だったことが30日、明らかになった。発掘調査をしている県立名護屋城博物館が同日、「城跡及び陣跡保存整備委員会」(会長・川原純之元文化庁主任文化財調査官、9人)で報告した。
調査は天守台そばの本丸御殿跡地で実施。同跡地では本丸御殿の一部と見られる約300畳敷の広さを持つ大型の礎石建物が96年に見つかっており、06年度から周辺の発掘を再開していた。
調査面積は南北約65メートル、東西70メートル。玉石敷の広がりや礎石の配置から、大小の建物が複雑に連結して広がっていた様子が分かった。
建物群は計12棟。広さ約1500平方メートルで、御殿が秀吉軍の公務の場とされる公的空間と秀吉の私的空間に分かれていたことも分かった。秀吉の在陣当時を描いたとされる「肥前名護屋城図屏風」を裏付ける形で、「大阪城本丸小指図」とも類似点があるという。
同博物館によると、秀吉が築いた城で御殿建物の遺構が発見されたのは名護屋城だけ。発掘調査で御殿建物の様子が分かる遺構が発見された例は仙台城本丸大広間など数例しかないという。
西和夫・神奈川大学工学部教授(建築史)は「大阪城に匹敵する規模」と評価。川原会長も「現在の大阪城は徳川時代のもので、遺構は地下に埋まっている。秀吉の御殿遺構が出るのは名護屋城だけで、価値は高い」と話している。
毎日新聞 12月1日

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歴史的な遺物があわや焼失!

ここ2回、私事の記事を載せてしまって日本史関連の記事が疎かになってしまいました。もし期待されている方がいらしたら申し訳ございません。
11月はツキがないと言うか良いことが殆どないです。いきなりネットにつながらないアクシデントに始まり、さらに体調面でもつらい日々が続いています。ただ11月にしては暖かい日が続き(温暖化の影響かも?)比較的過ごしやすい気候なので、前向きに大好きな歴史に触れながら日々過ごしてゆこうと思います。

ところで、飛鳥時代の貴重な遺物を保存している明日香村埋蔵文化財展示室付近でボヤがあり、近くにいた作業員が火を消し止めたようですが、あわや歴史的に重要な遺物が焼失しかけたそうです。放火の可能性もあるとのことで、地元警察や消防はパトロールを強化しているようです。もし放火なら許しがたい行為であり、江戸時代であれば火付けは死罪(火あぶり)に処せられたので、犯人を検挙したら江戸時代のようにはいかないでしょうが、厳罰に処してほしいとろこです。
この件に関して産経新聞に詳しい記事が載っていましたので、紹介します。

キトラ古墳の石室片や、斉明天皇の墓とされる牽牛子塚(けんごしづか)古墳の漆塗り棺の破片など、明日香村内で発掘された遺物を展示する同村飛鳥の村埋蔵文化財展示室と棟続きの村教育委員会文化財課事務所前で10月、ボヤ騒ぎがあったことが13日、分かった。
近くに居合わせた作業員らが消火して事なきを得たが、発見が遅れていれば貴重な文化財が焼失した可能性もあった。地元では放火の可能性もあるとみて、夜間パトロールなどで警戒を強めている。
建物は木造平屋建ての約520平方メートル。廃園になった旧飛鳥幼稚園の園舎を、平成9年から文化財課が使用している。高市消防署などによると、ボヤがあったのは10月28日午前5時40分ごろ。道路舗装工事をしていた大淀町の新田義雄さん(61)▽同町の大隈東源(ひろのり)さん(40)▽下市町の小西康男さん(39)-が、事務所前から炎が上がっているのを発見。廃棄処分するため同課が事務所前に置いていたすだれ(縦横約3メートル)の一部が燃えていたため、水道水でホースを使って消し止めた。
事務所に隣接する展示室には、瓦や土器など約400点を展示。国宝など指定物件はなかったが、推古天皇が開いた「小墾田(おはりだ)宮」の存在を裏付けた「小治田宮」と墨書きされた土器、マルコ山古墳の被葬者を納めた漆塗り木棺の破片など、古代史解明へのカギを握る資料が並んでいる。同課はボヤを受けて、建物の周囲にあった発掘用ビニールシートなどをすべて撤去。高市消防署や橿原警察署などは、村内の夜間パトロールを強化している。
北浦敬教・文化財課長は「貴重な文化財もあり、あのまま燃えていたらひどい状況になっていた。消火活動に当たってくれた人に感謝したい」と安堵(あんど)の表情を浮かべる一方、防火へ気を引き締めていた。
高市消防署は15日、新田さんら3人に感謝状を贈ることにしている

産経新聞 11月14日

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写楽の正体は能役者なのか

東洲斎写楽と言えばわずか10ヶ月の間に140点の錦絵を描き姿を消した謎の絵師として有名だが、その正体は諸説ある。例えば富嶽三十六景で有名な葛飾北斎とか、もしくは複数の絵師たちが集まって描いた作品を東洲斎写楽の名義で世に出したなどだ。
そんな謎だらけの写楽の正体だが、江戸の町名主で考証家の斎藤月岑(げっしん)は阿波徳島藩(蜂須賀家)のお抱え能役者である斎藤十郎兵衛が写楽であったと伝えている。十郎兵衛は藩から絵を描くのは止めろと言われ写楽でいられなくなったと言うことなのだが、それを検証すべく、徳島県議会文教厚生委員会が検証チームを立ち上げることになったようだ。それに関する新聞記事をここで紹介したい。

江戸時代後期に突然現れ、わずか10カ月で140点以上の作品を残して姿を消したなぞの浮世絵師、東洲斎写楽。阿波徳島藩のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛を写楽とする説を巡り、県教委は5日にあった県議会文教厚生委員会で「写楽調査検討チームの設置を検討する」とした。 文化の森総合公園(徳島市八万町)への移転を検討している県立鳥居記念博物館(鳴門市撫養町林崎)の資料の中に、写楽に関する記事などが見つかった。 同博物館では、県出身の人類学者、鳥居龍蔵博士(1870~1953)が収集した写真などの資料約5万点を所蔵。その中に、鳥居博士が文芸雑誌に寄稿した記事など十数点がある。鳥居博士は記事の中で、阿波藩主・蜂須賀家がお抱え能役者という写楽の身分が世間に知れるのを恐れて呼び戻し、絵を捨てるよう強要したのではないかと推定している。 西沢貴朗県議(自民交友会)は、鳥居博士の資料を十分調査することが功績の顕彰につながるとし、「金をかけなくてもいいが、県はもっと真剣に調査すべき。写楽が徳島ゆかりの人なら、大きな財産だ」と指摘した。 調査検討チームの設置を求められた県教委は「県立博物館などと話し合い、検討したい」としている。

毎日新聞10月6日

なかなか面白い検証チームであるので、今後の進展に期待したい。

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彦根で開催「開国と直弼」展

人気者ひこにゃんで一躍有名になった彦根城築城400年祭だが、その一環として、彦根城博物館では現在「決断!開国と大老井伊直弼」展を開催している。

祭りのイメージキャラクターのひこにゃんとは対照的に、井伊直弼は安政の大獄で多くの攘夷派を処刑し、雄藩連合の太守たちを次々江戸から追い出していった悪者(少なくとも、私が歴史を知る過程ではそう受け取った)と言うイメージが非常に強い。
しかし、彼は大老である前に彦根藩主でもあった訳で、ご当地においては井伊直弼=悪者と言う額面どおりのイメージを受け入れることはしないのだろう。それは歴史を振り返る上で大事なことだと思うし、先入観があると、どうしたって歴史の本質が見えなくなる。歴史研究の場においては、色々な立場の人達がいても良いと考えるが如何に。

話が「開国と直弼」展から逸れてしまったが、この催しのコンセプトは

人間・井伊直弼

にスポットを当てることのようだ。弾圧政治を実施してきた直弼が、それに対してどのような心情または苦悩を抱いていたのかを、遺された資料などから探ってゆくとのこと。
幕末史に興味がある方は、是非足を運んでみてはいかがだろうか。

中日新聞に詳しい記事が掲載されていたので、以下はそれを紹介する。

彦根城博物館(彦根市金亀町)で特別企画展「決断! 開国と大老井伊直弼」が開かれている。江戸時代末期の日本の開国に幕府大老として重要な役割を果たした直弼にまつわる資料39点が展示されている。7月20日まで。

「国宝・彦根城築城400年祭」に合わせて開催中の「百花繚乱(りょうらん)-彦根歴史絵巻」の第四弾。直弼は一八五八(安政五)年、天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約の締結を進めるなど開国を押し進め「安政の大獄」で敵対勢力を弾圧。その反発から江戸城の桜田門外で暗殺された。企画展では、苦悩しつつも懸命に立場を貫こうと立ち向かった人間としての直弼にスポットを当てた。

直弼が絵師狩野永岳に描かせたと伝わる「井伊直弼画像」には、自身の心情を詠んだ和歌「あふみの海 磯うつ浪のいく度か 御世にこころをくだきぬるかな」が添えられている。「ペリーの横浜上陸」は、一八五四(嘉永七)年、ペリーが日米和親条約交渉のため横浜に上陸した様子が描かれた石版画。「ゑひすのうわさ」は、対外関係を中心とする安政年間の出来事や見聞の記録で、米総領事ハリスの人物図も活写されている。

観覧料は、一般五百円、小中学生二百五十円。問い合わせは、彦根城博物館=電0749(22)6100=へ。

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幕府御用達の絵師狩野永岳が描いた井伊直弼。顔立ちから強い信念を持った人物だと伺い知ることが出来る。

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祭りのシンボル、ひこにゃん。

※江戸ブログにおいて2007年6月19日に投稿した記事です

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金印で白熱のトークバトルとなるか!?

今回は簡単に記事をUP出来ると言う短絡的な理由で、あるニュースを紹介したい。(とは言っても勿論私の厳選した歴史ニュースだが)
金印と言えば・・・志賀島であるが、その志賀島で「あの金印は本当に志賀島で見つかったものなのか!?」と言う異論も含めた公開シンポジウムが11月3日に開催すると言う。
「カンノワノナノコクオウ」の金印と言えば、後漢書東夷伝だったかに記されていた朝貢に来た倭の奴国王へ柵封の証として与えた金印ではないかと伝えられている。ただここでは省略して後で新聞記事を読んで頂ければと思うが、こうした通説にも昨今の研究などで異論も出てきており、志賀島でのシンポジウムはこうした研究者同士の主張や討論、または研究成果を発表する場として設けようと企画されたものらしい。また、志賀島の「島おこし」にも一役買ってくれそうでもある。
私の説明はここまでにして、以下は西日本新聞の関連記事を紹介する。

博多湾に浮かぶ志賀島で発見されたが、出土状況などに多くの不明な点を残す金印「漢委奴国王」。謎を探ろうと、同島民らが11月3日、定説に異議を唱える識者を県外から招き、長年調査に取り組んできた地元の研究者らと議論する公開シンポジウムを開く。その後も、主張の異なるパネリストを招いて開催を続け、島おこしにつなげていく考えだ。(福岡東支局・向井大豪)
シンポジウムを開くのは、島内の公民館講座で金印の歴史を教える福岡地方史研究会会員の折居正勝さん(59)と、受講者ら約20人が2年前に発足した「志賀島歴史サークル『金印』」。小中学生や観光客を対象にした島の歴史案内のほか、定期的な情報交換会を通じ、金印に関する資料集めを続けている。
金印は「カンノワノナノコクオウ」と読み解くのが定説で、古代中国との交流を示すものとして国宝に指定。発見者の同島住民が語ったとされる「百姓甚兵衛口上書」を基に、江戸時代の1784年、水田の溝の修理中に見つかったと伝えられている。依頼を受けた旧福岡藩の儒学者亀井南冥(なんめい)は、後漢の光武帝から贈られたものと鑑定した。だが、発見から200年以上たった今も、甚兵衛が実在したことを示す確定的な史料はなく、出土地点の特定にも至っていない。金印は本当に志賀島から出土したのか‐。
福岡市教委などによる度重なる調査でも物証は見つからず、あいまいさから学会では真贋(しんがん)論争も繰り返されてきた。今回のシンポジウムは、金印の文字から史実を探ることに主眼を置く。パネリストの大阪府教委主査の久米雅雄氏は、「漢委奴国王」は「奴国」でなく「委奴(いと)国(伊都国)」を指し、志賀島外から出土したとする持論を展開。対する福岡側からは、発掘調査を続ける元福岡市教委課長の塩屋勝利氏らが出席し、定説の正当性を主張する。折居さんは「以前の志賀島は貿易拠点だったと推測され、金印出土も不自然ではない。議論を通じてこうした島の歴史も掘り起こし、活性化につなげたい」と意気込む。活動を支えるサークル会員の募集も続けていく。
2007/09/28付 西日本新聞

Kinin
この金印は本当に後漢の光武帝から贈られたものなのであろうか?刻印を見る限るでは漢と言う字は確認できるのだが・・・。また、志賀島と言う辺鄙な場所から発見されたと言うことは、ここが古代日本において貿易の拠点であったと考えられなくもない。

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歴史的建築物をどうするか

東京に来られた方ならご存知だと思うが、都心の一等地(東京駅前)に東京中央郵便局がある。
中央局の建設は昭和6年と言うのだから75年前に建築された「昭和建築」の代表作みたいなものであろう。
その東京中央局の局舎をめぐってビル化か?保存か?と意見が割れているようだ。

私は反対。
現代において都会のど真ん中に昭和の雰囲気漂う建築物は貴重な存在であろう。
それに横浜でも大正時代に建設された多くの建物は保存され、博物館などとして使用している。
民営化する郵政公社からしてみれば(民営化を推進した人々と言った方がいいか)さっさとぶっ壊してテナント収入が期待できるビルの方が魅力あるし、株式会社化するにあたって株主に利益を出さなければならないと言う話であろう。
何とも寂しい話であるが、2005年に小泉劇場郵政解散編に多くの国民は賛成したのだから、中央局の局舎解体は、その劇場と歓喜した観衆(郵政民営化支持の有権者)によってもたらされた悲しい出来事として捉えるしかないであろう。
彼らからしてみれば私のような国民は、時代遅れの理想主義者にしか映らないだろうから・・・。

では、その関連新聞記事を紹介する。

東京駅前に建つ東京中央郵便局の建築の行方が注目の的となっている。
日本郵政公社は今秋の郵政民営化に伴い、高層ビル化を検討。5月から再開発計画を公募しており、8月にも設計者が決定する見通し。
しかし、この建物は貴重な近代建築であることから保存運動が続いており、郵政民営化の企画会社、日本郵政株式会社は今月中に有識者による委員会を組織し、歴史的な価値や活用方法を検討するという。
東京中央郵便局の保存問題は正念場を迎えている。(猪谷千香)東京中央郵便局は旧逓信省で多くの近代建築を手がけた吉田鉄郎の設計。昭和6年に完成した鉄筋コンクリート地上5階地下1階建ての建物。近代建築の保存活動を行う国際的な非政府組織「DOCOMOMO」日本支部による日本の近代建築100選に名を連ねている。
これまで日本建築学会などが保存を訴えてきたが、再開発計画の公募をうけて、衆院議員の森山真弓氏(自民)や平沢勝栄氏(同)、河村たかし氏(民主)ら超党派の国会議員22人が、先月から識者を招いた勉強会や東京中央郵便局の見学を行うなど、保存に向けた活動を本格化させている。
先月には同公社の西川善文総裁と面談も行い、「丸の内の東京駅舎とあいまって、東京を訪れる人に、ありし日の東京の姿を語りかけてくるシンボル」として、国の重要文化財指定へ同意するよう要望した。これに対し、西川総裁は「有識者による委員会を組織して、いろいろな観点から検討し、それをふまえて進めていきたい」と答えた。委員会は今月中にスタートし、東京中央郵便局の歴史的な価値や活用方法を検討し、年内にも報告がまとめられるという。                  
その一方で、同公社は公募していた再開発の設計者を8月にも決定する見通しだ。委員会の報告を待たない同公社の姿勢に、保存を訴えてきた関係者からは疑問の声が上がっている。
「予断を許さない状況」であるとして、日本建築学会と日本建築家協会、DOCOMOMO日本支部の3団体は来月2日、都内で緊急のシンポジウムを開く。東京中央郵便局の文化財としての価値を再確認し、保存の必要性を広く訴えるのが目的だ。また、議員らは今後、東京都などからヒアリングを行い、同郵便局の保存と活用方法など、都市計画の観点から検討していくという。

近年、近代建築が国の重要文化財に指定されるケースは増えている。文化庁文化財部では、東京中央郵便局について「文化財建造物として候補になる可能性は十分あるが、所有者の考えが重要」とする。ただし、「文化財に指定されても、日常的に使用するということも含め、活用の計画を柔軟に立てることはできる。国の重要文化財指定と民間企業としての対応は、対立するものではない」と話す。
東京中央郵便局が位置する丸の内では、歴史的な景観を保存、再現する方針が打ち出され、明治27年に完成した「三菱一号館」の復元計画が進められているほか、一時は高層ビル化が取りざたされた「東京駅丸の内駅舎」も、大正3年建築当時の姿に復元される工事が始まった。
DOCOMOMO日本支部代表で三菱一号館の復元計画にも携わっている東京大学大学院の鈴木博之教授(建築史)は、「東京中央郵便局は戦後の官庁建築のスタイルに大きな影響を与えた。丸の内の再整備の中で、郵政のシンボルとして残してほしい」と話している。

6月1日  産経新聞

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倭国大乱の形跡発見

約1ヶ月ぶりの記事ですな。
さぼり気味・・・と言うか義務じゃないから不定期更新でご容赦のほど。

ところで、後漢書東夷伝や魏志倭人伝などにも記されている
倭国大乱
だが、実際にどのような規模のもので、本当に起っていたのかもよくわからない。
しかし、その時期(2世紀後半)の住居が昨日発見され、倭国大乱を示すような状況証拠が見つかったようである。

以下産経新聞の関連記事を紹介する

亀岡市千歳町の出雲遺跡で弥生時代後期(2世紀後半)の六角形の竪穴住居跡が見つかり、府教委が19日、発表した。
邪馬台国が日本国内を統一する直前の「倭国の大乱」の時期にあたり、住居の中には使える状態の土器がそのまま残されていた。府教委は動乱の中、敵が迫ったたため、住民が何も持たずに逃げ出した可能性もあるとみている。
この竪穴住居跡は広さ約50平方メートル。全体の形は六角形で、一辺は4~5メートル。住居跡の中からは甕や壺など土器計15点が確認された。いずれもほぼ完全な形で残されており、散らばった状態の米も数多く見つかった。米はすでに炭化していたが、脱穀されていた。こうしたことから府教委は、住居は住民がいなくなって、そのまま放棄されたと判断。しかし、まだ使用できる貴重な甕や壺をそのままにして住まいを放棄するのは、当時としては異例で、これまでの発掘調査でも火災を受けていないケースはほとんど確認されていないという。
「魏志倭人伝」などによれば、邪馬台国の女王、卑弥呼が倭国を統一する前、日本国内は100国以上に分裂、戦いを繰り広げていた。発掘調査で見つかるこの時期の竪穴住居には、戦闘で火災に遭い焼け落ちた状態のものもあるが、今回の遺構には火災の跡はなかった。この住居跡は盆地を見下ろす山の中腹につくられていた。
府内ではこれまでに計12例の多角形住居が確認されている。府教委は21日午前10時から現地説明会を開催。この後、古墳時代の住居跡が確認された亀岡市教委の発掘現場(同遺跡内)でも現地説明会が開催される。

これが大乱による緊急避難の痕跡かどうかはわからないが、生活必需品を置き去りにしているところを見ると、何か切迫した状況であったことには間違いないであろう。
遺跡の年代からも倭国大乱を連想してしまうのは仕方のないことだ。
弥生後期の日本、一体どのように大規模な内戦が治まったのか?タイムマシンがあるなら行って確認してみたい。

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平城京の定説を覆す発見

平城京と言えば南北九条で造営され、前京である藤原京を北へ平行移動させた都である。そのため右京が山がちで住みにくいことで、東へ外京を設けてそこに東大寺や興福寺を建設したと言う話は有名であろう。
要は場所的に建設当初考えていたような大規模な都にすることが出来ずにいたと言うのだ。

話変わって、藤原京に関して今まで考えられていた規模以上であったと言うことを示す発見が十数年前にあり、話題を呼んだ。それは藤原京が東西南北、平城京と同規模の大きさを持っていたと言う調査結果である。それにより、元々平城京は藤原京建設の延長線上であった可能性を示唆する声が上がったのだ。

そして先日、平城京が藤原京の建設プランを踏襲して造られたと思われる発見が明らかになった。
その記事をここで紹介したい。

奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で平城京(710~784)の南限とされてきた九条大路の南532メートルを、東西に走る道路遺構が見つかり、市教委は13日、「十条大路」と断定したと発表した。造営後に廃棄されており、それより南に道路遺構はなかった。南北九条だったとする100年前からの定説を覆し、造営当初は十条大路が南限で、後に九条大路までに縮小されたことがほぼ確定した。
平城京内は東西南北とも532メートル間隔の大路で区切られ、さらに133メートル間隔の小路で細分されている。05、06年には、九条大路より南で、東西に走る3本の道路(133メートル間隔)が造営後に埋め戻された跡が見つかり、造営当初の条坊(碁盤目状の街区)が、定説より南に拡大することが分かっていた。
今回は十条大路の想定地など約2040平方メートルを調査。長さ9.5メートルにわたり幅14メートルの道路と、南北側溝の遺構を確認した。既に見つかっている条坊遺構と同様、遷都から約20年以内に埋め戻されたとみられる。後に九条大路に付設された羅城や塀の遺構はなかった。
十条大路の南133メートルの地点は小石混じりの堆積(たいせき)層で、道路遺構はなかった。このため、市教委は十条大路以南に京域が広がる可能性がほとんどないと判断した。
藤原京(694~710)は、南北が十条までとする説が有力。市教委の山川均・文化財係主任は「今回の発見で平城京が藤原京のプランを踏襲していた可能性が高くなった」と話す。 

毎日新聞 6月13日

当初は藤原京同様に十条で建設が進んでいたにもかかわらず、なぜ造営後に埋め戻されたのであろうか?これについても何か文献のようなものが発見されれば、新しい事実がつかめるような気がしてならない。

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報われた研究

歴史だけではなく、あらゆる分野において個人的な調査・研究はどうも重要視されない傾向にある。
動員される人員や、つぎ込まれた資金など大規模になればそれだけ権威があると考えられるのは仕方がないが、何だか寂しい話である。
そうした中でもシュリーマンや相澤忠洋と言った研究熱心な史家たちは、周囲からの嘲笑や反論にめげることなく歴史的発見をした。それは多くの人が知るところでもあろう。
そして今回紹介する話は、以前取り上げた坂上田村麻呂の墓所について自らの調査・研究し、30年前から「西野山古墓で田村麻呂の墓所は間違いない」と主張してきた史家の鳥居治夫さんの話である。

以下は京都新聞ウェブサイトの関連記事

京都市山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓」が、平安時代初期の征夷大将軍、坂上田村麻呂(758-811)の墓である可能性が指摘されているが、30年前に同様の内容の論文を発表した同区在住の歴史考古学研究家・鳥居治夫さんが「自分の成果がようやく日の目を見て、大変うれしい」と喜んでいる。
陶芸デザイナーの仕事をしながら、民間の研究会などで考古学や文献の研究に没頭した鳥居さんは1973年10月、近江考古学研究会が刊行した学術誌「近江」に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」で、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定した。
各地を歩いて、地上で確認できる遺跡を探していた鳥居さんは、古代に耕作地を方形のマス目で区画した「条里」を現代の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元、田村麻呂の墓の位置を推定した。しかし、論文は専門家の間では一定評価されたが、一般的に広く知られるには至らなかった。近くにある別の「田村麻呂の墓」の伝承を覆すことになるほか、「当時は反戦運動の華やかだった時代。蝦夷征討を行った田村麻呂の墓を大々的にPRできる社会ではなかった」と振り返る。今月4日、文献研究で西野山古墓が田村麻呂の墓である可能性を明らかにした京都大文学研究科の吉川真司准教授(日本古代史)も「推定地にずれはあるが、西野山古墓が田村麻呂の墓だと確定すれば、最初の発見者は鳥居さん」と公表時に評価した。鳥居さんは「自分の説を受け継いでくれる仲間が増えた気持ち。今後、発掘調査で実証されることを望みたい」と話している。

鳥居さんのような方が日本中に多くいれば、今現在も謎とされている歴史について、意外なところから発見される可能性もあるだろう。
私も頑張ってみるか・・・。

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狩野永徳の屏風を発見

安土桃山時代から江戸初期にかけて隆盛を極めた狩野派の絵画。あの独特な技法を用いて作成される屏風を非常に好む人も多いが、実は私、狩野派の絵ってあまり好きではない。
何て言うのか派手なだけで芸術性の部分が欠けているような・・・もし狩野派の絵が好きな人いたら、ごめんなさい。

そんな私は狩野派よりも、江戸時代中・後期に活躍した葛飾北斎や伊藤若冲と言った絵師たちの作品に心奪われたりもする。多分この二人作品にはオリジナリティを感じるのかもしれない。素人だから偉そうには言えないけど、狩野派の絵は技法その物が伝承されているので、開明的な絵と言う部分では魅力を感じないんだよね・・・。でも価値観は人それぞれですから断定した言い方は良くないね。

ところで、その狩野派で信長・秀吉の時代に活躍した狩野永徳の作品がこの度発見されたらしい。狩野派で良く耳にする名前筆頭はこの永徳であるのだが、実は彼の作品って現存する物が非常に少ないみたいで・・・。
その事実は相当意外だった。やはり戦国時代の方だから、作品も戦いの被害で焼失してしまったのかな?その辺りはよくわからないが、どうなのだろう。
って余計な話が長くなってしまっても仕方ないので、これに関連する新聞記事を紹介したいと思う。

京都国立博物館は5日、狩野派最高峰の絵師で織田信長や豊臣秀吉に重用された狩野永徳(1543~1590)が描いた屏風(びょうぶ)が新たに見つかった、と発表した。
安土桃山時代を代表する画家ながら、永徳の作品は多くが消失しており、真筆と確認されているのは10点程度。鑑定した山本英男・同館保存修理指導室長は「国宝級の発見だ」としている。
見つかったのは「洛外名所遊楽図屏風」。4曲1双で右隻、左隻それぞれ縦85.4センチ、横269.4センチ。京都の嵯峨、嵐山、宇治などを舞台に紅葉の下で酒宴に興じる武士や平等院に参詣する人々、農作業の様子などが鮮やかな色彩で詳細に描かれ、当時の風俗を伝えている。
狩野博幸・同志社大教授(日本近世絵画史)が同館に在籍していた05年夏、知人の情報で京都の古美術商を訪ね、見つけた。落款はないが、狩野教授は「絵に独特の格がある。(永徳作とされる国宝の)『洛中洛外図屏風』と筆遣いや絵の具の質が酷似しており、真筆に間違いない」と確信した。ただ当時は、古美術商の意向で発表を見合わせたという。
永徳は安土城、聚楽第、大坂城の障壁画などを描いたことで知られ、「四季花鳥図襖(ふすま)」「檜(ひのき)図屏風」などは国宝。新発見の屏風は10月16日から11月18日まで同館で開かれる「狩野永徳」展で公開される。

【狩野派】 狩野正信を始祖とする日本絵画史上最大の流派。室町時代から江戸時代末までの約400年間を通じ、時の政権と結びつき、御用絵師として画界の主流となった。大和絵の技法を取り入れつつ、武家的な力強い装飾性を特徴とする。障壁画から扇面まで、多彩なジャンルの絵画制作にかかわった。永徳以外の主な絵師に、山楽、探幽、常信など。
毎日新聞 6月5日

やはり時代が時代だけに多くの作品が焼失してしまったようだ・・・。
ところで、先ほど私が狩野派の絵が好みでない云々と述べてみたが、専門家の方は「絵に独特の格がある。」とおっしゃっているみたいで、わかる人にはわかる作風なんだろうか。どうも派手な感じが好きになれないんだよね。

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清水寺ではなかった田村麻呂の墓

今日はニュースで報道されていた坂上田村麻呂の墓のことを取り上げていこうと思う。
最初に田村麻呂と言う人物の簡単な経歴を紹介しよう。
生まれは天平宝字2年(758年)で、成人した後に朝廷の武官として登用され活躍する。武士と言う身分がまだ存在しない中で、戦いを専門とする武官の職にあり、後に蝦夷(東北地方)征伐で活躍したのは多くの方が知るところであろう。その蝦夷征伐の際に田村麻呂が朝廷から賜った征夷大将軍の位は、のちの鎌倉期から江戸期においては「武家の棟梁」として最高の位として扱われていたが、平安中期においては「夷敵を討つ」軍隊の将軍と言う意味で授かる官位であった。そうした時代に征夷大将軍に就任したのが坂上田村麻呂だった。とここまでは中学生でも知っている話である。
話変わって田村麻呂の身長だが、文献によると1尺8寸(180cm)もあり、当時の人物としてはかなりの大男であったと伝えられている。ちなみに私は身長179cmであるから私も当時にタイムスリップすれば大男なんだろう。
そのような話はひとまず終わりにして、ところで恥ずかしながら、私は今日まで田村麻呂の墓は、清水寺にあるのかと思っていた。田村麻呂が、清水寺の創建に深く関わった人物として有名なのは周知の事実であり、そうした事実から当然のように田村麻呂の墓所も清水寺にあると勝手に思い込んでいたのだ。しかし、今日のニュースではまったく違う場所に葬られていたと報道されており、大変興味深くその報道に見入った次第。その件については京都新聞のウェブサイトに詳しく載っていたので、ここで紹介しておこう。

平安時代初期の征夷大将軍で清水寺(京都市東山区)を創建した坂上田村麻呂(758-811)の墓が、山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓(こぼ)」である可能性が高いことが、京都大文学研究科の吉川真司准教授(日本古代史)の文献調査で、4日までに分かった。
吉川准教授によると、平安後期の「清水寺縁起」に田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述があり、平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、西野山古墓と一致したという。同古墓から1919年に出土した金装大刀や鏡(いずれも国宝)などの年代がほぼ同じころで、上級貴族が所有するような高級品なことから、田村麻呂の墓だと判断した。
現在、同古墓から南東約1・5キロの同区勧修寺東栗栖野町に田村麻呂の墓とされる遺跡がある。また、73年には民間の郷土史研究の論文で、吉川准教授と同じ方法によって、同古墓近くに田村麻呂の墓があるとする指摘がされている。吉川准教授は「古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートだった。都の玄関口でにらみをきかす意味もあったのではないか」と話している。

「清水寺縁起」と言うものがあって、そこに田村麻呂の墓の位置が記してあったとは驚きだ。こうして多くの古文状が謎の解明につながるとは、何とも神秘的なものを感じる。

Skiyomizu
京都でも屈指の観光名所である清水寺。平安京が造営される前からこの地にある、伝統的な寺院である。
坂上田村麻呂が僧の延鎮より殺生の罪を説かれたこで、観音に帰依し、その観音像を祀るために田村麻呂の自邸を本堂として寄進したことが清水寺の始まりだと言われている。

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飛鳥美人現る

タイトルの美人は人間のことではなく、高松塚古墳に描かれた飛鳥美人のことである。
地球温暖化の影響で、石室内の壁画にカビが発生し、このままでは保存が難しいと言われている高松塚古墳。現在この古墳を解体し修復する作業がおこなわれている。
現代の技術力をもってして修復し、空調設備により常温に保つことで壁画を保存する文化庁の試みは正しい選択であると思う。しかし私はそうした保存作業云々よりも約1300年もカビが発生することなく、ほぼ当時の状態を今に遺してきた高松塚やキトラが、なぜここにきて保存作業をせざろえなくなっているのか?と言う事に危惧の念を抱いている。その原因である地球温暖化は、私たちの予想を上回るスピードで進行している。近年はBRICと呼ばれる新興国家が経済成長を遂げた。その国々だけの問題ではないが、その代償として環境汚染や地球温暖化が深刻化している。そうした環境汚染・地球温暖化の影響で高松塚の壁画は劣化しはじめ、現在の状況に至ってしまった。これは経済至上主義で環境を無視している現状を高松塚古墳は身をもって示している証拠なのであろう。
話が環境問題になってしまったが、このように歴史に興味を示すと言うことは、過去を知るだけではなく、今も知ることが出来るのだ。高松塚はそれを私たちに教えてくれている。
ところで高松塚の飛鳥美人は取り出されたあとどのような措置が施されるのであろうか?詳細を26日の毎日新聞記事から紹介してみよう。

文化庁は26日、高松塚古墳(奈良県明日香村)の「飛鳥美人」として知られる女子群像が描かれた西壁が確認できる石室写真を公開した。25日に取り上げた北から2番目の天井石の直下にあり、同古墳の代名詞的壁画が初めて姿を見せた。西壁は大型連休明けにも取り出される。星宿図の一部が描かれた北から2番目の天井石は、側面に亀裂が走るなど状態が不安定だった。25日の取り上げ後も、断熱覆屋内の準備室に置いていた。26日午前は、石室のある断熱覆屋から空調設備の整った専用トラックに積み込んだ。午後、約750メートル離れた修理施設へ運ぶ。石材は、いったん修理施設の前室(作業室の手前の部屋)に入れられ、カビやしっくいを除去した後、本格的な修理を行う作業室へ移される。

地球温暖化を招いた技術力の発展が、皮肉にも壁画の劣化を抑えようとしている。しかし今の段階ではこれが最善の方法であろう。悲しいような、虚しいような事実である。

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現代に現れた飛鳥美人。彼女たちは今の世をどう見ているのだろうか・・・。
写真 文化庁提供

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観光客殺到の高松塚古墳

地球温暖化により石室内の温度上昇し、カビの異常発生が原因で劣化した壁画の存続維持が急務である高松塚古墳。6日には予定通りカビの除去が終了し、残すは石室の解体作業となる中で解体と言う世紀の大プロジェクトを実感したい」という人々が全国から押し寄せている模様だ。

「世紀の大プロジェクト」
は言っても、地球温暖化、それが原因で壁画が劣化してしまった訳で、関係者としても心中複雑なものであるに違いない。
本日のYOMIURI ONLINEには観光客殺到の様子が取り上げられているのでここで紹介してみようと思う。

石室解体が進む奈良県明日香村の高松塚古墳は7日、石室北端の天井石が取り外されて初の週末を迎え、「世紀の大プロジェクトを実感したい」という人たちが大勢押し寄せた。観光面では思わぬ「解体効果」が表れた格好だが、古墳は失われてしまうだけに、関係者の思いは複雑だ。この日はあいにくの曇り空だったが、高松塚周辺の桜は満開。家族4人で訪れた岡山県倉敷市の中学1年、原田悠希君(12)は覆屋(おおいや)を見上げ、「考古学者になるのが夢で、どうしても来たかった。覆屋は想像以上に大きい」と興奮した様子。壁画が描かれた虎塚古墳がある茨城県ひたちなか市の主婦、冨岡瑛子さん(62)は、古墳前にある発掘調査などを説明するパネルを見て、「虎塚は一般公開されているのに高松塚は現地保存できず、痛々しい姿になってしまった」と残念がった。

記事からは、関係者・歴史ファンそれぞれの複雑な心中をうかがい知ることが出来る。白虎はほとんど消滅している現状の中では、石室解体と言う選択肢以外はもうないであろうが、修復して元に位置へ戻す時には万全の対策をもってして臨んで欲しいものだ。

Kabitakamatsuduka
文化庁が昨年9月5日に公開した壁画の写真。カビが繁殖し、早急な措置が必要であることがわかる。

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今城塚古墳での発見

大変ご無沙汰いたしております。暖冬のせいか季節の移り変わりをあまり実感できずに日々を過ごしております。
ところで、今朝の毎日新聞には私にとって「おぉー!」と声を発してしまうほどの目覚まし効果がある記事が紙面を踊っていました。
『今城塚古墳:大規模石組み確認 王権を継承?奪取? 「異色の天皇」、権威浮き彫り』
少しお堅いタイトルではありますが、ここで「異色の天皇」と表現されているのは第26代天皇「継体天皇」のことで、このお方、実は歴史学的に大変「曰く付き」な人物なのです。
ここで新聞記事云々に入る前に継体天皇について簡単に取り上げてみましょう。
継体天皇は武烈天皇(史実では暴君と言われていますが如何に)の死後、後継者として擁立され天皇に即位したと伝えられています。応神天皇(4世紀後半に当時の中国王朝へ朝貢して史記に倭の五王と記された人物の一人と言われている)の5世孫と言われ、この史実が事実なら当時の天皇家の嫡流からは相当離れていた人物である訳です。
ではなぜ嫡流から離れているこの継体天皇が即位したのでしょうか?これは日本書記による記述ですが、簡単に取り上げてみましょう。
武烈天皇には世嗣が無く、その上兄弟もいなかったので、後継を定めないままに崩御してしまうのです。死後次の天皇は誰にするかとなり、当初は第14代仲哀天皇の5世孫である倭彦王を擁立しようとしますが、倭彦王は大和朝廷の軍が迎えに行くと、自分を討ちに来たのかと思いこんで、逃げてしまい擁立に失敗してしまいます。(随分と簡単に逃げれましたね・・・。)そこで次の候補として、応神天皇の5世孫である越前の男大迹王を擁立せんと説得を繰り返し、507年に57歳と言う高齢で即位するのです。
うーん、このわずか250年前までは倭国大乱と言う群雄割拠のような時代であったのに、随分と簡単に王権を手に出来てしまうんですね・・・。
と素人の私ですらこうした素朴な疑問を思う訳ですから、専門家の方々においては継体天皇が即位するまでの間に内乱もしくは王権交代などがあったと言う説を唱えているのです。
この「怪しい・・・」継体天皇の陵墓から石室の石組みが発見されたのですから今後歴史を揺るがすような発見につながるかもしれないのです。記事の内容からすると、権威を誇示するために前例のない埋葬方法を用いたとの見解もあるようで、そんなところからも王権交代の臭いがプンプンします。
この継体天皇の即位の過程については諸説ありますので、興味のある方はネットサーフィンしてみてください。

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カビだらけの高松塚古墳ついに解体

今朝、起きてから毎日新聞を広げてみると
「高松塚古墳 石室解体が正式決定」
と紙面に出ているではありませんか!
先日、34年ぶりにマスコミ各社へ石室を公開し、カビによる被害の深刻さが改めて浮き彫りなった矢先の決定に仕方ないと言う思い半面、何とかならなかったものかと悔やまれてなりません。
6世紀後半に建造され、1000年以上保たれてきたあの極彩色の壁画がたったこの数年の間にあの有様とは悲しい気持ちになります。
以下読売新聞の15日の記事ですが、紹介しておきます。

文化庁は14日、高松塚古墳(奈良県明日香村)の石室内部を報道各社に公開するとともに15日、最新の壁画の写真10枚を提供した。 報道陣への公開は、1972年3月の発見直後以来、34年ぶり。国宝壁画修理のための石室解体(来年3月)に先立つ発掘調査が間近に控えており、解体前の壁画を見学できる最後の機会となることから、公開に踏み切った。「世紀の大発見」として古代史ブームを巻き起こした極彩色壁画は、退色やカビの増殖などの劣化で華やかさを失い、危機的な状況に陥っていることが改めて確認された。 公開は14日午後に行われ、石室南壁の盗掘穴越しに各社に3分間ずつ見せた。漆喰(しつくい)は全体的に黒ずみ、表面もざらついた状態で、保存修復の難しさを印象づけた。読売新聞 9月15日

Kabitakamatsuduka
文化庁が今月5日に公開した壁画の写真。こんなにカビが繁殖していたとは・・・。

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傷だらけの高野長英

大変ご無沙汰いたしております。何だか最近の記事ではこの言葉が口癖ですね。
約1ヶ月ぶりの投稿となりますが今回は内容は江戸末期の蘭学者・高野長英についてです。
高野長英についてと言いましても彼が遺した足跡を詳しく説明する訳ではなく、今回は歴史の教科書などにも掲載されている高野長英の肖像画が「ちょっとだけ」傷ついた件から始めたいと思います。
「高野長英記念館」で昨年の8月19日に記念館所蔵の高野長英肖像画を「ちょっとだけ」傷つけていた事が判明し、ずさんな管理体制に批判が集中しています。まずはその記事を紹介しましょう。


岩手県の奥州市立高野長英記念館で、職員が昨年、国の重要文化財に指定されている「高野長英肖像」を誤って傷つけ、顔料の一部がはげ落ちていたことが22日分かった。奥州市は文化財保護法に基づく文化庁への10日以内の報告を行わず、半年以上たった同日、損傷届を提出したとのこと。
岩手県教育委員会によると、傷つけたのは江戸時代の画家椿椿山が幕末の蘭学者だった長英を描いた掛け軸。昨年8月、貸し出しのため、職員が展示してある作品を収納しようと巻き上げた際に壁のくぎに引っ掛けて傷つけたとのこと。羽織を着た姿で描かれている長英の襟の部分の顔料が直径約2ミリの半円形状にはげ落ちた。2006年度中に修復するという。
共同通信

傷つけた職員は焦っただろうな・・・。まあちゃんと修復して今後注意して取り扱えば良いと私は思います。
それにしても高野長英は生前も死後も傷だらけですな~。
高野長英の傷・・・私は中学生の時、社会科の授業で「獄中から脱出した長英が身分がばれないよう自ら顔に薬品をかけ火傷を負った顔にして潜伏生活をしていた。」と聞き、凄まじい男だな!と感じた記憶があります。だから今回の肖像画の傷についても何だか「傷だらけの長英」をイメージした次第です。
私の中ではモリソン号事件を批判して蛮社の獄で弾圧され、長い逃亡生活を送ったことしか記憶にない人物ではありますが、調べてみたら鳴滝塾で学び、その優秀さから塾の学頭に選ばれた人物だったんですね。生まれた時代がもう少しあとであれば、適塾の大村益次郎のように活躍していた人物かもしれません。
Choeitakano_1
高野長英肖像画。水色の○のあたりをちょっとだけ傷つけたみたです。


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露見した隠蔽体質 文化庁

約2週間半ぶりの記事となります。個人的に忙しかったので更新が疎かになってしましましたm(__)m
ところで、今朝のニュースでご存知の方も多いと思いますが、高松塚古墳の傷つけ事件!驚きました。なんでこんな重大な失敗を公表しなかったのでしょうか?文化庁さん、いい加減にしてくださいね!
以下毎日新聞の記事です。

国宝の極彩色壁画を傷つけ、公表せずに処理していたとは--。
奈良県明日香村の特別史跡・高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で、文化庁担当者らがカビの除去作業中に機材を接触、転倒させて男子群像を傷つけたことが表面化し、学者や地元関係者からは驚きの声が相次いだ。
文化庁は12日、「損傷事故に関する調査会」(仮称)の設置を決め、報告書をまとめると発表したが、同庁の隠ぺい体質が大きく批判されるのは必至だ。
高松塚古墳は72年3月、発掘調査をしていた網干善教・関西大名誉教授(当時助教授)らの研究グループが発見した。国内の考古学ブームのさきがけとなり、極彩色壁画はその後、国宝に指定された。今回、文化庁が事故の経緯を公表しなかったことについて、網干名誉教授は「完全な隠ぺい工作。文化庁の不注意で壁画を傷つけていながら隠し、石室解体を決めるなんて」と怒りを隠さない。白石太一郎・奈良大教授(日本考古学)は「劣化の問題が明らかになり、管理状況が問われた時期になぜミスがあった事実を示さなかったのか。文化庁の体質が問われる」と批判。百橋明穂(どのはしあきお)・神戸大教授(美術史)は「全くの初耳。石室内は立ち上がれないほど狭く、誤って器具を倒すのはありうるが、速やかに傷を処置して公表すべきだった。不信感を持たざるをえない」と語気を強めた。同庁は今年1月、壁画の現状や保存対策の経緯について、明日香村で初の地元説明会を開いた。村民約100人が出席したが、「壁画を文化庁に任せていいのか疑問」「情報公開が不十分」という不満の声が一斉に上がっていた。それだけに関義清村長は落胆の表情で、「一生懸命作業している中でのことだろうが、隠す必要はなかった。文化庁は現実をありのまま報告しない体質が染み込んでおり、それが変わらない限り信用できない」と言い切った。飛鳥古京を守る会事務局長の花井節二さん(65)も、怒りに声を震わせる。「なぜ今日まで黙っていたのか。もう文化庁を信じられない。壁画は国宝なのだから、すぐに国民に知らせるべきだった。村民を対象にした説明会で文化庁次長は情報公開を約束したはず。このままでは解体も任せていいのか不安いっぱいだ」と一気に話した。

◇事故調査会の設置を表明 文化庁

「国民の大切な国宝の壁画を損傷したことについては、管理する文化庁としても申し訳ないと思う」。高松塚古墳石室西壁の損傷事故について、文化庁文化財部の山崎秀保・美術学芸課長は12日、記者会見し、謝罪した。また、外部の有識者を交えた5人程度の事故に関する調査会を設置することを表明。(1)損傷の経緯(2)修理方法の是非(3)当時、損傷を公表しなかったことの是非などについて、事故当時の関係者からの聞き取りなどを行い、報告書をまとめる。
同課によると、損傷事故自体は02年1月28日の修理日誌カードに「観察中、空気清浄機の転倒事故」「室内灯事故」と記載され、同日と同年3月28日の日誌に応急措置や修復措置が記載されている。事故は当時の担当課長と文化財部長まで報告が上がっていたことが確認されている。
同庁は事故が日誌に記載されていることから、「事故を隠ぺいした痕跡はない」と判断しているが、「積極的に公表もしなかった」として、詳しい経緯を調べる。壁画の損傷自体で同庁が把握しているのは今回の件だけだが、75年ごろから残る約1300枚の修理日誌カードを点検し、他に同様の事故がなかったか確認することにしている。
毎日新聞  4月12日

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スパイが遺した熊本城略図

熊本城と言えば戦国時代の名将加藤清正によって築城され、のちの西南戦争時には谷干城司令長官率いる政府軍が城に指令本部を設置、そしてその強固な要塞は勇猛な薩摩武士の攻撃をしのぎ、あの西郷隆盛にして「清正公との戦に敗北したようなもの」と言わしめた天下の名城です。
その熊本城が築城されてから5年後に作成さらた城最古の絵図「肥後熊本城略図(1612年作成)※」が実は毛利氏の萩藩によるスパイ活動の中で作成されたものであったと言うことが判明しました。
以下はそれの関連記事です。

現存する熊本城の絵図としては最も古い「肥後熊本城略図」が山口県文書館(山口市)に所蔵されているのを、熊本大の北野隆教授(日本建築史)らが発見した。
略図とともに残る「肥後国熊本様子聞書」の記述によると1612年ごろ、萩藩が送り込んだ間者(スパイ)が作成したという。縦約50センチ、横約1メートル。城のやぐらや門の配置などを墨で簡潔に描写している。聞書や北野教授によると、徳川幕府の開設を受け、豊臣氏寄りだった萩藩は九州各地の藩に間者を派遣し、生き残りの参考にしようとさまざまな見聞をさせたらしい。小倉城(北九州市)や佐賀城(佐賀市)の絵図も同じころ、萩藩が作っていたという。
城の外側から間者がひそかに調査を重ね、その情報を基に同行の絵師が図にしたとみられる。北野教授は「推測で描いた部分があるかもしれないが、他の史料とも整合する部分が多く、かなり正確。城内の協力者から情報を得ていたのではないか」とみている。
共同通信 3月24日

当時は徳川幕府が開府してからまだ数年しか経過しておらず、豊臣恩顧や関が原敗北組の大名たちも「隙あらば!」と言う気持ちがあったことがこれでわかります。豊臣家が滅亡したのちも打倒徳川を秘密裏に祈願していた萩の毛利家にとっては明治維新はまさに大願成就といったところではないでしょうか。

※肥後熊本城略図
現存する同城の絵図では最も古いことが熊本大学工学部の北野隆教授(65)=日本建築史=の調査で確認された。これまで最古と確認されていた絵図より約二十年さかのぼる。北野教授は「江戸幕府成立直後の萩藩の動きを示す貴重な史料」としている。
略図は縦四十八センチ、横百二センチの和紙で、毛利家から県に寄託された「毛利家文庫」中の一点。天守閣や石垣など城の配置が簡略化して描かれている。
熊本城は1607(慶長12)年、肥後藩主加藤清正が築いた。北野教授によると、これまでは1632(寛永9)年ごろ、新藩主の細川家が周りの屋敷に家臣を割り振るために作らせた「熊本屋(や)鋪(しき)割之絵図」が最も古いとされていた。しかし、その絵図には大天守築城後に増築されたとみられる小天守があるが、今回見つかった略図には、それが見えない。これらの点から時代がさかのぼると推定される。
中国新聞2月1日記事より一部抜粋

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現在の熊本城天守閣は昭和35年に再建されたものです。また現在は西南戦争の戦火で焼失した熊本城を江戸期のそのものによみがえらせようと言う復元整備計画事業が展開されています。

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三角縁神獣鏡

まずはこの新聞記事をご覧下さい

神戸市教委は13日、北区道場町塩田の八幡神社古墳群にある前方後円墳(古墳時代前期=4世紀)から、仏の像を彫った三角縁神獣鏡1枚が出土したと発表した。
三角縁神獣鏡は国内で約500枚が確認されているが、仏像を彫ったものは5種7枚目。鏡は直径22・5センチ。中央部分に神3体と仏1体が、竜や虎などの動物と交互に彫られていた。仏は座禅を組んでいる。その外側には、竜など9体の獣が取り巻き、「天王日月」の文字が6カ所に記されていた。外側部分が厚く、神像が精緻(せいち)なことから中国製とされる古い形式の鏡に属するという。
これまで同じ型で造った兄弟鏡は見つかっていない。この形式の鏡が中国製なのか、日本製なのかは論争があるが、日本への仏教伝来より前に造られており、この鏡は中国製の可能性が極めて高い。古墳は全長35メートル。2人が埋葬されており、鏡は、第1被葬者の木棺(長さ約7メートル)の中の被葬者の頭の近くに置かれていた。市教委は塩田北山東古墳と銘銘した。森下章司・大手前大助教授は「非常にはっきりした仏像表現を取り入れた鏡であることが注目される。三角縁神獣鏡がどこで何のために造られたのかというテーマに迫る上で貴重な資料だ」と話している。
毎日新聞 3月14日(神戸版)

邪馬台国の女王卑弥呼が魏から銅鏡を送られたのが239年(3世紀半ば)と言われています。そして今回記事が伝えるように中国製と思われる三角縁神獣鏡が神戸の前方後円墳から発見されましたが、もしこれが本当に中国製ならば邪馬台国からの流れを組む「あるクニ」がヤマト王権を樹立した証拠になりうると考えられるのでは?と私的には考えます。
製造された年代は4世紀頃であると推測されている出土した三角縁神獣鏡。
邪馬台国以外の勢力が仮にヤマト王権を樹立したと考えると、わずか1世紀の間に魏が倭王と認めたクニの連合体以外の勢力が統一王朝を築いたとなります。しかしわずか100年と言う短期間にそうした勢力が統一王朝を築く事が果たして可能なのでしょうか?私は不可能だと思います。戦国時代でさえ130年の時間を費やしているのに、戦国乱世よりも武器の進歩の遅いこの時代だったら更に年月を費やすと思います。
まわりクドイ前説になりましたが、結論としてはこの三角縁神獣鏡はおそらく邪馬台国連合のクニの一部が中国の王朝から送られ、それを八幡神社古墳群にある前方後円墳に埋葬された王と一緒に埋められたものなのでしょう。
と確信的な推論を勝手に展開してしまいましたが、私が思うに邪馬台国連合は近畿にあり、そのクニの一部が中国王朝もしくは朝鮮といった国々から先進技術(人的・物的)の援助(もしかした援助ではなく侵略を受けた?)を受けヤマト王権を樹立したと考えています。
私的な極論を展開し失礼しました(^_^;)

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二つの正殿があった理由

ここ数日、多くの歴史ファンそして研究家の興味を集めている発見があります。その発見については既にご存知の方も多いと思いますが、明日香村の飛鳥京跡(※舒明朝時代の飛鳥岡本宮から持統朝時代の浄御原宮まで飛鳥に存在した都跡)で発見された二つ目の正殿跡のことです。
この二つ目の正殿が存在した時代の歴史的な背景をもとに、なぜ正殿が二つ必要であったのかを「考古学ネタ」なら全国紙NO1の毎日新聞が分析していますので、ここで紹介したいと思います。

◇塀で人の立ち入り制限
明日香村・飛鳥京跡の内郭(内裏相当区画)で、斉明朝から天武・持統朝(7世紀後半)にかけての二つ目の正殿跡が見つかった。昨年確認された正殿跡の北側で、ほぼ同規模・同構造の「ダブル正殿」が並び建っていたことになる。天皇のプライベート空間の色彩が濃厚で、壬申(じんしん)の乱(672年)で勝利し、天皇中心の中央集権国家を目指した天武天皇の神格化をもしのばせる。「菊のカーテン」の内側は――。
日本書紀には、二つの正殿のことを思わせる記述がある。681(天武10)年正月、天武天皇が「向小殿(むかいのこどの)」で宴を催した日、親王・諸王は「内安殿(うちのあんどの)」に入り、諸臣は「外安殿(とのあんどの)」にはべったという。686(朱鳥元)年正月には、天武天皇が「大安殿(おおあんどの)」に出て、諸王卿を召して宴を催したとある。
調査を担当した県立橿原考古学研究所の林部均・主任研究員(考古学)は、今回の正殿は南の正殿より地盤が低く、階段もない点に注目する。「南の方が人を引き入れて公的な儀式をした建物。その背後にある今回の正殿は塀を建てて人の立ち入りを制限しており、より私的な建物だ」として、今回の正殿が内安殿、南の正殿が大安殿とみる。
天武天皇の皇子は草壁皇子ら10人、皇女は7人。天武天皇は豪族の大臣を置かず、皇子たちに政治を補佐させた。和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)は「天皇や皇子・王が入れたのが今回の正殿。諸王卿を召した大安殿が南の正殿だと思う。規模と形は同じでも、外観はかなり違っていただろう」と、宴の参加者の身分の違いを指摘する。天武天皇には皇后(後の持統天皇)を含め妻が10人もいた。木下正史・東京学芸大教授(考古学)は「皇后や妃(きさき)、女官が住んだ後宮的な建物ではないか」と考える。一方、後宮が成立するのは平安時代で、妃や女官は内裏に相当する内郭の建物にはいなかったとみるのは瀧浪貞子・京都女子大教授(日本古代史)。壬申の乱で夫の天武の挙兵に付き従い、政権奪取後も夫の政治を皇子と共に支えた皇后・持統の絆(きずな)の深さを指摘し、「今回の正殿で天武、持統が一緒に過ごしていたか、南の正殿で天武、今回の正殿で持統が住んでいたかのどちらかだろう」と想像する。
◇宮中枢部の建物配置、「平城」「平安」に影響飛鳥京跡の内郭の中枢部に、同規模の正殿が二つ並んでいたことが判明した。二つの正殿の南にはやや小ぶりの「前殿」があることが過去の調査でわかっている。この建物配置は後の宮の原型ともみられる。奈良時代初期の平城宮の内裏でも、ほぼ同じ大きさの大型建物が平行に南北に並んで建っていた。平安宮の内裏には、南から北に向かって順に、儀式を行う公的な紫宸殿(ししんでん)、天皇が寝起きした仁寿殿(じじゅうでん)、後宮である承香殿(じょうきょうでん)の3棟が並んでいた。小沢毅・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長(考古学)は「飛鳥京跡の南の正殿と今回の正殿、平城宮の二つの建物は、それぞれ平安宮の紫宸殿、仁寿殿に相当する役割を果たしていたのだろう」と、内裏内の建物の機能の連続性を指摘する。黒崎直・富山大教授(考古学)は、前殿を含めて3棟が南北に並ぶ構造に注目し、「藤原京内の貴族の邸宅跡から、南北に三つ並ぶ建物跡が確認されている。日本の伝統的な建物配置だったのかもしれない」と想像する。

毎日新聞 3月10日

蘇我氏や中臣鎌足といった側近を重用し、天皇の権威がやや低下気味であった7世紀前中期のヤマト王朝。そうした時代の転換期となったのが壬申の乱と言う王の座を懸け挑んだ戦いで勝利し、真の王政復活を達成した天武天皇の登場です。
天皇による真の王政を確立するために、天武天皇が持つ権力・権威を神格化(正殿の使い分け等)と言う形で表現したことは、理に適った仮説だと思います。
そしてこの建造物の概要についても日本書紀の記述をもとに推測されていますが、こうした事実は研究家たちが記紀を研究の論拠とし考えはじめた証拠と言えるのでないでしょうか。
今年は数々の遺跡発掘により古代史の新しい発見が期待できそうな1年になりそうです。

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次々と裏付けられる日本書紀の記述

このブログでも再三取り上げている「記紀」の信憑性について、最近の数々の発見により更なる裏づけがなされています。その中でも歴史ファンを驚かせた発見は、昨年11月の発掘調査で判明した蘇我入鹿邸跡の発見(こちらの記事を参考)ではないでしょうか。
日本書紀には蘇我入鹿の邸宅について「644年、甘樫丘に家を建て並べ、蝦夷の家を<上の宮門>、入鹿の家を<谷の宮門>と呼ばせた。<城柵(きかき)>や武器庫を備え、番兵が警備したという。」(毎日新聞 11月13日掲載文より一部抜粋)と言う記述があるのですが、11月に甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡(奈良県明日香村)での発掘でその記述を裏付ける発見があり「蘇我入鹿の邸宅跡か!」と各全国紙でも大々的に報道されました。
話が少し変わりますが、1945年以降の歴史研究は研究家が「戦前の皇史観の否定」を前提に進めてきたことは過去の記紀に対する評価を考えた場合、否めない事実でしょう。また教育現場でも、一部左翼的(あまり良い表現ではないですが)な教員により記紀=ウソ・大袈裟・胡散臭い等の教えがなされ、私自身も若い時にそう教育されたので、記紀に対するイメージをそれと同等に捉えていました。
しかし昨今の発見により(-原点が記紀の記述からはじまり、そして最新の調査でそれを裏づけ、新しい発見へと続いていく-)歴史研究の現場では記紀の再評価がなされているのです。
と偉そうな前説が長くなりましたが、ここ数日、またしても記紀の記述を裏付ける発見があったのでここで紹介したいと思います。

発見その1
奈良県明日香村島庄の石舞台古墳の東約100メートルの島庄遺跡で、建物跡とみられる柱穴の列や7世紀前半の土器などが新たに見つかった。県立橿原考古学研究所が8日発表した。石舞台古墳は天皇を補佐した大臣(おおおみ)として権勢を振るった蘇我馬子(?~626年)の墓とする説が有力。日本書紀には、馬子の没後集まった蘇我氏の一族が馬子の墓を造り、そばに宿舎が設営されたと記述されており、同研究所は宿舎跡の可能性が高いとみている。 
時事通信  3月8日

発見その2
奈良県立橿原考古学研究所は7日、同県明日香村岡の飛鳥京跡で、柱穴に焼け土や炭が詰まった大型建物跡を見つけたと発表した。大型建物は舒明天皇(在位629~641年)が造った飛鳥岡本宮の宮殿の一部とみられ、日本書紀の「(636年)6月、岡本宮が火災に遭った」という記載を裏付けると、研究者は注目している。 
時事通信 3月7日

こうした調査結果を鑑みると、私たちの世代が学校教育の中で教わった「日本書紀=胡散臭い」の定説は、すでに崩壊していると断言できるはずです。そして今後も日本書紀をもとに重要な発見がなされていく事は間違いないでしょう。
最後に、私はあくまで紹介してきた報道等に個人的な意見を加えて記紀の信憑性の高さを主張していますが、そうした主張に対して「いや、やはり記紀には誇張や偽りが多い!」と思われる方がいれば忌憚のないコメントを書き込んで下さっても構いません。
※ただし荒らしだけはご遠慮下さい。私の判断で削除させていただきます。

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壁画を守れ!高松塚古墳解体実験がついに始まる

昨今のニュースでも取り上げられていた京都府加茂町に設置された石室解体実験場で2日、ついに解体実験が始まったようです。
昨夜のNHKニュースで見た限りでは、相当な緊張感に包まれた雰囲気で実験がおこなわれていました。1000年以上も経過した石を特殊なクレーンで運び出すのですが、強い力挟むと亀裂が生じ、弱く挟むと途中で落下してしまう・・・とても難しい作業のようです。しかし飛鳥美人の壁画と当時の芸術を保存するためには失敗は許されません。作業の成功を切に願うばかりです。
それではいつものように実験について詳しく記載されている新聞記事を紹介しましょう。

劣化が進んでいる高松塚古墳(奈良県明日香村、特別史跡)の壁画保存をめぐり、石室の解体修理の方針を打ち出している文化庁は2日、京都府加茂町の実験場に設営した石室模型を利用して解体実験をスタート、天井石のつり上げ実験の様子を国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会委員らに公開した。
クレーンに取り付ける治具(じぐ)はすべて特別に開発。天井石用の治具はコの字形で、石材を上からつかみ、ウレタン製の24個の押し具で左右から圧力をかけて持ち上げる。最小限の力でバランス良く持ち上げられるよう、6カ所にセンサーを取り付け、石のひずみの度合いを計測した。また、石をはさむためのシリンダーは、石材に油が付着しないよう油圧式だけでなく空気式も併用。実験では手作業も交え、手際よく石材をつり上げ、5分ほどで搬出した。実際と同様に亀裂を再現した天井石のつり上げも行い、搬出後に亀裂の様子を確認したが、特に問題はなかったという。作業部会委員で京都大防災研究所の三村衛助教授(地盤工学)は「実際の石材は亀裂の中に土砂などが入っている恐れもあり、条件を変えて繰り返し実験する必要がある」と話していた。
京都新聞 3月2日

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我々現代人はこの飛鳥美人を守ることができるのか?

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謎の四世紀に関する新発見

このブログでも再三取り上げてきている「謎の四世紀」に関して、奈良県の巣山古墳から当時の葬送儀礼の一端を垣間見れる興味深い発見がありました。
この発見は7世紀に編纂された中国の「隋書倭国伝」に記載されている「貴人は、三年外に殯し、葬に及べば、屍を船上に置きて、陸地にて之を牽く」という記述と合致するものであり、今後四世紀の我が国の歴史を調査していく上でも貴重な発見だと思われます。
読売新聞に詳しい記事が載っていましたので紹介したいと思います。

奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳(4世紀後半)の周濠(しゅうごう)から、表面に文様が刻まれ、朱が塗られた前例のない形状の大型木製品が出土したと、同町教委が22日、発表した。
木製品は船の形に復元できることから、埋葬前に遺体を仮安置する「殯(もがり)」の場から古墳まで遺体を運んだ<霊柩(れいきゅう)船>の一部と専門家はみている。古代の葬送儀礼を解明する上で極めて重要な発見と言える。
出土した木製品のうち、船の側板の形をしたスギ製の部材は、長さ3・7メートル、幅45センチ、厚さ5センチ。一部が欠けているが、復元すると長さは8・2メートルに達する。魔よけを意味する三重の円と帯状の文様が刻まれていた。棺の蓋(ふた)形をしたクスノキ製の部材(長さ2・1メートル、幅78センチ、厚さ25センチ)は復元長が約4メートル。表面に直線と弧を組み合わせた「直弧文」と三重の円が刻まれ、一部に朱色の顔料が残っていた。ここれらを組み合わせると、先端が反り上がったゴンドラ形の船に棺を載せたような形になり、中国の史書「隋書倭国伝」(7世紀)にある「貴人は、三年外に殯し、葬に及べば、屍(しかばね)を船上に置きて、陸地にて之を牽(ひ)く」という記述と合致する。
巣山古墳は全長約220メートルの前方後円墳で、被葬者は大王(天皇)級の有力者とされる。出土品は3月4、5日に町文化財保存センターで一般公開される。
河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)の話「葬送用の棺として殯の場に安置し、古墳まで運んだ後に破砕して周濠に捨てたのではないか。葬送儀礼の流れが、初めて明らかになった」
読売新聞  2月22日

新聞記事にある「先端が反り上がったゴンドラ形の船に棺を載せ」と言う記述から、その当時の権力者の祖先たちは海を渡ってきた可能性があるのでは?と推測してしまいます。棺を船に乗せると言う行為は被葬者を死後先祖代々の地に戻すと言う意味もあるような気がしますが如何に・・・。

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またしてもカビ被害

おはようございます。今朝はとても清々しい朝を迎えています。そして今日は休日ですから、久しぶりにアウトドア(ライヴドアじゃないですよって面白くないですね(爆))でも楽しんでみようかと思っているところです。
ところで、私が今までテンプレートで使用していた「ウォームビズ」ですが、この冬があまりも寒すぎて浸透しませんでしたね・・・。そうしているうちに一昨日あたりから気温も上昇をはじめ、そろそろ春の気配を感じる季節になっています。そんな理由から3ヶ月間使用してきた「ウォームビズ」のテンプレートを以前のものに戻す事にしました。来年こそは「ウォームビズ」が浸透すると良いですが「クールビズ」ほど効果はやはり期待出来ないかもしれないですね・・・。
話が本題から逸れてしまいましたが、高松塚古墳に描かれている飛鳥美人のお顔に何とカビが発生したそうです。よりによって顔の部分に発生とは・・・カビにも女性の気持ちを考えて欲しいものです。
とは冗談はさておき、以前このブログの記事でも紹介しましたが(2005年5月3日記事「地球温暖化が歴史的遺産にも影響?」参考)この壁画のカビ問題は極めて深刻です。「この冬は「ウォームビズ」が浸透しなほど冷え込んでいたのにカビがなぜ発生するんだよ!」と素人の私に思ってしまうのですが、やはり我々が想像している以上に地球温暖化が進んでいるのでしょう・・・。
またしても新聞記事の紹介になりますが「飛鳥美人の顔にカビが!」についての詳細です。

takamatutuka奈良県明日香村の特別史跡・高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)について、文化庁は9日、「飛鳥美人」として知られる石室西壁の女子像の右目尻と右肩に、黒いしみが見つかったと発表した。奈良市でこの日開かれた恒久保存対策検討会(渡辺明義座長、24人)で明らかにされた。
同庁の説明では、女子群像の中央に立つ像で、しみは目尻が直径約1ミリ。右肩は衣服を中心に、縦約2センチ、横約3センチの範囲に広がっていた。今月2日の点検で撮影し、画像を精査して分かった。過去の写真と比較したところ、9月には既に兆候が出ていたという。目尻のしみは、しっくい内部から染み出しているようにも見え、肩の部分は9月と比べると少し濃く大きくなっていた。
同古墳では02年秋に壁画を汚す黒カビが発生し、04年春ごろからは石室内でのカビ発生と虫の侵入が続いた。昨年9月には、西壁の女子群像の衣服のすそ部分にゲル状物質が確認された。同庁は昨年9月、墳丘に設置した冷却管で石室の冷却を開始。12月や今年1月の点検では、カビやゲル状の物質はほとんど見られなくなっていたという。
委員はこの日、会議に先立って京都府加茂町の石室解体実験場を視察。検討会では、壁画を保護する養生期間を経て、来年2月半ばから約1カ月半かけて石室を解体し、約10年にわたり石材、壁画を保存する日程が示された。一方で、「解体方法のみでなく、修復後どのように石室を古墳に戻すのか、その方法も併せて議論すべきだ」との意見も出された。

毎日新聞 2月10日

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秋篠宮妃ご懐妊で思うこと

昨日秋篠宮紀子妃殿下がご懐妊されたことで、今国会に提出されるべき女系天皇容認を盛り込んだ皇室典範の改正に待ったの声が多方面から上がっています。
私自身、女系天皇容認云々については賛否どちらでもありません。それよりも前に日本のしかるべき機関が「天皇家は万世一系」であることを実証可能な形で証明し、その上で女系天皇云々を再度議論すべきだと思うのです。これが明らかにならなければ男系・女系を論じるべきではないでしょう。
こうした考えは私が決して左派だからと言うのではなく、陵墓参考地の調査すら満足にさせない宮内庁の対応や、歴史的に未解明の事実(継体天皇の出自等)が多くあるためです。
まあ私のような一市民が問題を提起したところで、どうにかなるものでもないので、最後に新聞社説(産経と朝日)では今回のご懐妊を受けてどのように反応しているのか紹介してみたいと思います。

宮内庁の羽毛田信吾長官は、秋篠宮妃紀子さまにご懐妊の兆候が見られると発表した。皇室にとっては、平成十三年の愛子さま誕生以来の慶事である。最近、国民の心がすさむようなできごとが多いなか、久しぶりの明るいニュースだ。みんなで喜びを分かち合いたい。
秋篠宮さま、紀子さまご夫妻は新春の歌会始の儀で、コウノトリのお歌を詠まれた。ご誕生となれば、秋篠宮家では三番目のお子さまである。男子であれ女子であれ、皇族のすそ野が広がることは大変意義深いことだ。
男子であれば、現在の皇室典範では皇太子さま、秋篠宮さまについで皇位継承順位三位ということになる。それだけに、紀子さまのご懐妊が現在の皇室典範改正の論議に影響を与えるのは当然だろう。
政府は、昨年秋の「皇室典範に関する有識者会議」の報告を受けて、改正案の今国会への提出を予定している。現在の男系男子に代わり、女性天皇の容認のほか、母親の系統に天皇をもつ女系天皇も認め、継承順位も男女を問わず第一子を優先するとしている。
これに対し、専門家や国会議員の間からは、歴史上、天皇は男系だけで、女系天皇は一人もなく、政府案通り改正されれば、その伝統を根本から覆すことになるとして、慎重論が高まっている。しかし、小泉首相はあくまで今国会での提出方針を崩していない。
首相をはじめ政府が改正を急いでいるのは、皇室で秋篠宮さま以来約四十年間、男子の誕生がなく、今後ともその可能性がないことを前提にしていたからとも思える。
しかし、現に皇太子さまをはじめ、六人の男系男子の継承資格者がおられることから、改正は差し迫った問題ではない。今回の紀子さまのご懐妊で、急ぐべきでないことは、一段とはっきりしてきた。もし急いで改正した後、男子の誕生となれば、国民の間に割り切れないものが残るだろう。
紀子さまにとって、ご出産まで健やかに過ごされるべきことは言うまでもない。その意味でも、国論を二分するような議論は避けるべきである。ご出産後に、改めて改正の是非を含め議論しても遅くはない。
いずれにせよ静かに、無事なご誕生を待ちたい。
産経新聞 2月8日 社説

秋篠宮妃の紀子さまが懐妊された。秋ごろに出産の予定だ。ご夫妻にとって、長女の眞子さま、次女の佳子さまに続き、3人目のお子さまとなる。
ご夫妻は昨年秋、兵庫県で保護されてきた特別天然記念物のコウノトリを野生化するために放鳥する際、最初の一羽を放った。今年の歌会始では、おふたりともその情景を詠んだ。
コウノトリには、赤ちゃんをもたらすという言い伝えがある。その言い伝えの通りになったのだろうかと、ほほえましく思い返す人もいるだろう。
新しい生命が宿ることは、いつも厳粛で、喜ばしいことである。しかし、女性にとって出産までの負担は重い。とくに妊娠の初期は不安定になりがちだ。出産のご無事を祈りながら、静かに見守りたいと思う。
今回の懐妊は、政府が皇位継承のあり方を見直し、皇室典範の改正案を準備しているさなかの発表だった。
皇室では、天皇陛下の次男である秋篠宮さまの後、40年間も男子が生まれていない。皇太子さまの次の世代に1人も男子がいない状態が続いてきた。皇室典範の規定通りに、皇位継承を「男系男子」に限れば、天皇になる人がいなくなる恐れがある。
このため、小泉首相は有識者会議に「将来にわたって安定的な皇位継承のあり方」を諮問した。有識者会議は「女性・女系天皇を認める」「直系の第1子を優先する」という報告書をまとめた。
これに対し、旧皇族の男子を迎えて男系の維持を図るべきだ、などの反対意見が様々な立場から出ていた。国会議員が反対集会を開いたばかりでなく、閣僚の中にも慎重論や反対意見がある。
いまの皇室典範によれば、秋篠宮さまの第3子が男の子だった場合、皇位継承順位は皇太子さま、秋篠宮さまに継ぐ3番目となる。皇太子さまの次の世代にも男子が存在することになり、皇位継承は当面、現行法のままでも続けられる。
小泉首相は有識者会議の報告書に基づいて、今国会に皇室典範の改正案を提出すると述べてきた。しかし、紀子さまの懐妊という新しい事態は、改正案提出への慎重論をいっそう広げることになるだろう。
一方で、将来とも皇位継承を安定的なものにするには、女性・女系天皇を認める皇室典範改正に踏み切るべきだとの意見もある。あらためて議論を深めていく必要がある。
いずれにせよ、生まれてくるのが男の子であるか否かについて過度にこだわることは慎みたい。男の子であれ、女の子であれ、親にとって大切さは少しも変わらない。
秋篠宮さまはかつて「子どもたちが、妹なり弟なり何かその世話をしてあげたいという気持ちがあるような印象があります」と語っていた。
そうしたご一家の気持ちを大切にしていきたい。
朝日新聞 2月8日 社説

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専門家が大絶賛

先日の記事で紹介した「日本最古の押し花」ですが、昨日、植物分類学者の方々がその押し花と対面し、その保存状態の良さに驚きの声を上げたそうです。確かに映像で見てもとても18世紀初めのものだとは思えないぐらいに美しく保存されていますよね。
では、お得意の新聞記事を紹介いたします(笑)

豊岡市史料整理室が保管する旧豊岡藩5代藩主夫人・梅寿院の押し花約70点が国内現存最古の植物標本と確認された件で、鑑定にあたった兵庫県立大の鈴木武助手ら植物分類学者3人が29日、同整理室で押し花との初対面を果たし、保存状態の良さに「奇跡的」と興奮をあらわにした。公開に期待は高まるが、鈴木助手は「最も重要なのは標本がきっちり残ること」と、保存最優先の姿勢を強調した。
訪問したのは鈴木助手のほか、県立大自然・環境科学研究所の高橋晃教授と高野温子・県立人と自然の博物館主任研究員。今回の鑑定はこれまで写真やコピーに限られており、現物を目にした3人は「すごい」「すばらしい」と感嘆した。
高橋教授はほとんど虫食いがない保存状態から「採取後すぐ和紙にはさんで急速に乾燥し、その後、日に当てなかったから桜のピンク色も残った」と推定。「歌詠み用で収集対象が多弁の桜など特定分野に集中している。自分用の図鑑だったのでは」と分析した。
一方、鈴木助手は、大名がお抱え絵師に書かせた花の図譜を互いに見せて自慢し合う習慣が、文化文政年間ごろに盛んになったと指摘。「梅寿院もその習慣を知っており『絵ではなく本物を見せたら面白い』と触発されたかも」と示唆した。また「今から200~300年後の子孫にも江戸時代の遺物が見られるよう、温度や湿度、防虫管理など保存管理の徹底が必要」と強調した。
この日は、同管理室を所管する市教委の担当者4人も駆けつけた。村田正次・教育次長は「一部を見た限りでは今すぐ公開にたえる状態にない。古文書を所有する京極家の了承も必要で、今後の活用や保存方法は県立大などと十分相談の上、検討させてほしい」とした。

毎日新聞 1月30日

梅寿院が「絵ではなく本物を見せたら面白い」と考え付かなかったら、この押し花はなかったんでしょうね。そう考えると梅寿院の美意識に対してリスペクトしたいと思います。

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西都原古墳群再調査

昨年の9月に「陵墓参考地の西都原古墳群の調査」の新聞記事をこのブログで紹介しましたが、その第二回目が25日に行なわれたそうです。
この西都原古墳群は陵墓参考地ではめずらしく二回もの調査が実施され(レーダーのみですが)、今後の陵墓参考地調査における先駆けとなるかもしれない重要な調査になることは間違いありません。
以下がそれに関連した新聞記事です。

宮崎県教委は25日、西都市の国特別史跡・西都原古墳群にある「男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚」で、2回目のレーダー探査を開始した。両塚は宮内庁が初めてレーダーによる地中探査を許可した陵墓参考地で、県教委が04~06年度に調査を実施する。
昨年は、男狭穂塚の前方部の西側約4500平方メートルを探査し、国内最大の帆立貝式古墳であることが判明した。
今年は31日まで男狭穂塚の前方部と女狭穂塚の後円部の間の約5000平方メートルを探査して、男狭穂塚の詳しい形状や、両塚が造られた時期の前後関係などを明らかにしたい考えだ。3月ごろに調査結果を発表する。
毎日新聞  1月26日

もう陵墓参考地の調査を全面的に解禁しましょうよ、宮内庁さん。

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素敵な押し花

一週間ぶりのご無沙汰です<(_ _)>
最近は派遣社員として出向している会社での仕事に時間を費やしているので(社会人ならそれは当然ですが、先日までは失業していたので、ネタは探し放題でした)なかなか書き込むネタを見つけられません(^_^;)
ところで、さきほどのニュースで日本最古の押し花が発見されたと言う報道を拝見しました。一応歴史に分類されると思いますので、紹介したいと思います。(ネタに困った時、ニュースを引用してばかりですいません・・・)

兵庫県豊岡市で、今から300年近く前の江戸時代中期に作られた「押し花」などが見つかりました。国内に残されたものとしては、最古と見られています。
見つかった「押し花」などは、サクラやカエデのほか、ヤマブキやシダなどで、ほとんどが園芸用に栽培されていたものと見られています。これらは、豊岡市の史料整理室が、江戸時代の豊岡藩主だった京極家の古文書の中から見つけました。押し花とともに見つかった文書は、藩主の妻で歌人でもあった梅寿院が記したもので、紙に張られた花や植物の葉は、1721年から1752年までの間に江戸の大名屋敷などで採取されたとされています。表書きには、「押し花」という文字も残されていました。国内に残されているものとしては最も古いとみられていて、調査にあたった兵庫県立人と自然の博物館は、「当時の実物の植物がデータとともに残されているのは極めて貴重で、この頃から花を愛でる文化が広がっていたことを知ることができる」としています。
朝日放送 1月26日

江戸時代の花が現在に残っているとは何とも素敵じゃないですか。こう言うニュースを聞くと何だかうれしくなる今日この頃です(理由は特にないのですが・・・)
このニュースはNHK動画ニュースでも配信していますので、よかったらご覧下さい。

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聖徳太子の弟(用明天皇の皇子)の墓か?

私事ですが、今週から派遣社員として近くの大手運送会社で事務職勤務をしており、しかも以前から目指していたファイナンシャルプランナー試験が日曜に迫っていると言うことで、当ブログの更新がだいぶ疎かになっています。もし楽しみされている方がいらしたなら、何卒ご容赦のほどを。
ところ、今日のニュースで知ったんですが、あの聖徳太子に弟がいたようですね。息子の山背皇子のことは少し知っていたのですが、弟のことは知らなかったです。
まあそんな私が知った知らないはどうでもいいのですが、その聖徳太子の弟の墓らしき古墳が調査されたようです。詳しい新聞記事を紹介しますので、興味のある方は一読してみて下さい。

7世紀前半の築造とされる大阪府羽曳野市はびきの3にある大型方墳「塚穴古墳」の南側から、墳丘を囲むように築かれたとみられる大規模な外堤の一部が確認された。19日発表した市教委によると、外堤は幅14~15メートルの上下2段構造で、一辺100メートルに及ぶ壮大なものだったとみられる。同古墳は、聖徳太子の弟、来目皇子(くめのおうじ)の墓として宮内庁が陵墓に指定。蘇我馬子の墓とされる「石舞台古墳」(奈良県明日香村)と規模や外堤を持つ構造が酷似しており、市教委は「大王墓に匹敵する第一級の古墳。来目皇子墓である可能性が強まった」としている。
同古墳は、陵墓のため詳しい調査は行われていないが、約50メートル四方の方墳で、文献などから7世紀前半に造営されたとみられる。隣接する民有地での建設工事に伴い発掘調査した。外堤は、幅約10メートルの掘割を隔てた南側で確認。古墳南縁に並行する形で東西に築かれ、上下2段の階段構造だった。厚さ15センチ前後の小判形の土塊を積み上げるなどして造成。堀底からの高さは約2メートルあった。
今回確認しただけで、東西約50メートルにわたって築かれており、市教委は総延長約100メートルと推定。南東隅で直角に北方向へ延びており、外堤は墳丘を囲むように築造されたらしい。また、南面は古墳の正面を意識し豪壮な堤にしたとみられ、市教委は「風水や天子南面といった中国など外来の造墓思想も取り入れているのでは」と話している。
日本書紀によると、来目皇子は用明天皇の第2皇子で、聖徳太子のすぐ下の弟。602年、推古天皇に新羅攻めの将軍に命じられたが、翌年、新羅に向かう途中、九州で亡くなり、河内の埴生(はにゅう)山の丘の上に葬られたと記述されている。【高尾具成】
白石太一郎・奈良大教授(日本考古学)の話 古墳時代終末期の方墳が南側を正面と意識し、より立派に見せようと築造していたことが明らかになった。100メートルと推定される外堤から、大王に準じる位の高い被葬者であろう。
毎日新聞 1月19日

この時期は蘇我氏全盛の時代。天皇家の外戚であった同氏の血縁用明天皇の皇子がこうした手厚い扱いを受けていたことを考えると、平安時代の藤原家に似たような権威を連想してしまいます。こうした「蘇我氏でなければ人にあらず」的なところが、後の天皇や蘇我の血受け継がない皇族たちの不満を爆発させることになるのでしょうね。
しかし毎度のことですが「陵墓のため詳しい調査は行われていない」と抜粋記事に記されていました。宮内庁はこうした歴史的に貴重な陵墓の調査に対してもっと柔軟な態度を示してくれないのでしょうかねぇ・・・(苦笑)

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朝鮮半島とヤマト王権との関連性の証明か?

江上波夫氏は騎馬民族征服王朝説で「古墳時代後期の副葬品は前期と異なり生活・戦闘など実用的なものに変わるのだといわれ、食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類などに変わっている。」と指摘しています。
今回、その古墳時代後期の遺跡から騎馬民族征服王朝説と関連のありそうな馬の轡が発見されたようです。詳しい記事が読売新聞に掲載されていたので紹介いたします。

古墳時代に馬の飼育地があったとされる大阪府四條畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡で、5世紀中ごろの鉄製馬具、轡(くつわ)が出土し、11日、府教委が発表した。
馬にくわえさせるハミ(長さ8センチ)と、そのずれを防ぐくさび形の鹿角製器具(同12センチ)、手綱を結びつける棒状の金具(同8・4センチ)など計7点で、保存状態が極めて良く、当時の轡の構造が初めて判明した。
朝鮮半島の百済で製作されたとみられ、府教委は「馬の飼育は、百済からの渡来人が日本にもたらしたことを裏付ける貴重な成果」と評価している。
読売新聞 1月12日

現在の通説では渡来人によって馬の飼育がもたらされたとされていますが、私はどうも腑に落ちません。
2世紀の倭国は魏に朝貢するのがやっとの連合国家だったのに、4世紀になると朝鮮半島にまで侵略するほどの力を持つに至っている訳で、こうした史実を考えてみると謎の4世紀の間に騎馬民族の侵略があっても不思議ではないと思います。真実は如何に・・・。

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藤原京

藤原京と聞くと平城京に遷都される前に都があった場所と言う漠然としたイメージがあると思います。そして学校等で教わった教藤原京の概要は「平城京に比べると手狭で、規模の小さい都であった」としか聞いてないはずです。
ところが最近の調査でこの藤原京が実は手狭ではなかった事が次第にわかってきました。平成8年の奈良県橿原市の土橋遺跡等の調査により東西5・3キロ、南北4・8キロに及ぶことが判明し、平安・平城の両都をしのぐ大きさの大藤原京であったと推測されているのです。
このような調査結果で次第に藤原京の規模が判明してきましたが、発掘調査に関連して、今月4日の毎日新聞に藤原京内裏の発掘内容が掲載されていましたので、今回はこの記事を紹介したいと思います。

奈良県橿原市の藤原宮跡にある内裏(だいり)中枢部で、4面にひさしの付いた掘っ立て柱建物跡(東西約17メートル、南北約11メートル)が確認された。内裏は天皇が生活した場所で、発掘調査した奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部によると、中枢部で建物跡の規模が判明したのは初めてで、「天皇のプライベート空間の一端が明らかになった貴重な発見」としている。
藤原宮跡は藤原京(694~710年)の中心に位置し、内裏や、律令政治の場である大極殿、役人が儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)などがあった。
建物跡は都の中軸線から外れているため正殿ではないとみられるが、奥行きやひさしの構造が平城宮の内裏正殿(東西約29メートル、南北約15メートル)などと同様で、正殿に次ぐ規模の建物とみられる。
内裏には大きな池があり、これまでほとんど調査がされていなかったが、昨年11月から市道拡幅に伴い約550平方メートルを調査。掘っ立て柱建物跡は、大極殿から北東へ約700メートルの内裏内で見つかった。遺構は建物の西南角とみられ、一辺が1メートル以上ある柱跡を9カ所確認。直径約30センチの柱が残っているものもあった。
また、掘っ立て柱建物の遺構上からは、建物を壊した後に造られたとみられる石組みの溝約6メートル分(幅約1メートル)を検出した。藤原京に都が置かれた16年の間に、内裏が改変されたらしい。さらに建物跡の西側一帯では、こぶし大の石でできた石敷きも確認した。石の並び方にばらつきがあることなどから、舗装や護岸の目的で敷かれたものではなく、広場や神域のような特別な空間だった可能性があるという。
毎日新聞 1月4日掲載記事一部抜粋

これは内裏の規模がとても大きかったとわかる調査結果で、しかも内裏の規模からして、持統天皇の権力がいかに強大であったかをうかがい知ることができます。
なぜこのように巨大な規模の藤原京をわずか16年で捨てたのか?実に不思議ですよね・・・。

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沖縄の独立

 2000年におこなわれた九州・沖縄サミット。あの時各方面で沖縄の文化や歴史が取り上げられ日本とは異なる文化を持ち、江戸期まで独自の外交を展開していたことが多くの人々に知られるようになりました。
琉球は廃藩置県により明治政府に併合され、琉球民族は日本人として扱われるよになります。そしてあの忌まわしい1945年の沖縄戦から、戦後のアメリカ領時代を経て1972年に再び日本に復帰しました。
しかしどうなのでしょう?私はこの琉球の歴史を知れば知るほど独立させるべきでは、もしくは自治領として一定の権限を与えるべきでは?と考えてしましいます。そんな中、沖縄県民に対する「琉球独立」関するアンケートで、彼らがどのような意識を持っているのか垣間見えたのでここで紹介したいと思います。

4人に1人(25%)が「沖縄独立を要望」―。琉球大学法文学部の林泉忠助教授が実施した「沖縄住民のアイデンティティー調査」で、こんな結果が出た。独立を望む理由としては「沖縄の政治、社会的状況が本土とは違う」が最も多かった。
同調査は、林助教授を責任者とする調査チームが、今年11月に県民2300人に電話アンケート調査を実施し、1029人から回答を得た。併せて、台湾、香港、マカオでも地元大学の協力を得て同様の調査を実施した。
アイデンティティーの基本構造としては、4割が「自分は沖縄人」と回答。一方で、「日本人である」が21%、「沖縄人で日本人」が36%おり、複合的なアイデンティティーが存在していることを反映している。
スポーツで沖縄チームと日本チームが対戦した場合、「沖縄チームを応援する」が93%とほとんどを占めた。
台湾、香港、マカオの住民意識を見ると、「独立すべき」は台湾が約6割で最も多かった。香港は約2割、マカオは約1割となっており、独立に否定的意見が多数を占めた。
林助教授は「沖縄の人の率直な心情としては、地元への愛着度は高いが、日本人という意識も根付いている。今後、政府の政策、特に基地政策がどのように改善されるかによって、独立に対する意識も変わってくる可能性がある」としている。
琉球新報  12月20日

県民調査で1/4の人々が独立を望んでいる現状を考えると、そう遠くない日に「琉球独立運動」が展開されるかもしれません。

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耐震強度

姉歯元1級建築士による耐震強度偽造問題が日本中を騒がせている昨今ですが、あの有名な古墳の石室も耐震強度不足に悩まされているようです。

劣化が進む国宝壁画を保存するため、石室解体が決まった奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末-8世紀初め)で、石室の床石に亀裂が入っていたことが9日、文化庁などの調査で分かった。
 これまでに亀裂が確認されている天井石同様、過去の地震が原因とみられる。調査した奈良文化財研究所の肥塚隆保室長は「床石は最後に取り外す。解体作業に影響はないが、地震が起きたら石室が壊れる危険が大きく、解体の必要性が高まった」としている。
 石室壁面をチェックし、これまで3枚と考えていた床石が4枚あり、南から2枚目の石は、南北に亀裂が数本入っていると判明した。床石の表面はしっくいや土に覆われ、亀裂の状態は詳しく分からないという。

共同通信  12月9日

作業中に地震が起こらないことを祈るばかりです。

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山の民

ここのところ子供を狙った事件が多くて嫌な感じですね。茨城の事件も早く犯人が検挙されることを願うばかりです。
ところで、滋賀県の山中で竪穴式住居が発見されたと毎日新聞に掲載されていたので一部紹介したいと思います。

東近江市百済寺町の百済寺遺跡を調査していた県教委は6日、平野部から150メートルも山に登った海抜360メートルの山腹で弥生時代後期から古墳時代にかけて(3世紀ごろ)の竪穴式住居跡5棟が見つかったと発表した。
現場は谷の最深部で、10~30度の傾斜地。5棟の住居跡のうち3棟から焦土を検出した。床面積が60平方メートルを超える大型住居跡には深さ約20センチの溝があり、焦土が見つかった直径4、5メートルのだ円形の住居跡からは弥生時代終末期の土器が出土した。
 調査に当たった同協会の重田勉主任技師は「左岸一帯に50カ所近く住居跡と見られるくぼ地が点在する。約1万平方メートルの規模と推察される集落のうち490平方メートルを発掘した」と話している。
 林博通・県立大教授(考古学)は「『高地性集落』ではなく、山地を生業の場とする『山の民』か、戦乱を逃れて一時的に住んだ『隠れ里』集落とみられる。この時代の社会のあり方を再検討させる貴重な資料になる」と話している。
毎日新聞  12月7日

何だか訳ありの物件・・・ならぬ訳ありの集落跡ですね。山の民だったとの憶測もあり、ヤマト王権とは別の勢力だったことも考えられ、実に面白い発見だと思います。調査が進み詳しいことが判ると良いですよね。

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百済の王族の墓

今朝のニュースで明日香村のカヅマヤマ古墳構造が、4世紀~7世紀の朝鮮半島の王族が埋葬される際に多く見られるものだと伝えていました。この時期は半島での戦乱を逃れるために多くの渡来人が日本に渡ってきており、その中でも高貴な人物を埋葬したものか?もしくは権力の中枢にいた渡来系の人物を半島の埋葬方法に則って埋葬したものか?素人の私の頭の中では色々な想像が膨らんでいます。
今朝の産経新聞に詳細が載っていましたのでここで紹介したいと思います。

高松塚古墳など皇族クラスの古墳が集中し、飛鳥時代の“王家の谷”とされる奈良県明日香村南西部のカヅマヤマ古墳(同村真弓、七世紀後半)で、レンガ状に石を積み上げた石室が見つかり、一日、同村教委が発表した。四世紀から七世紀にかけて朝鮮半島に栄えた百済に多く見られる「磚(せん)積み石室」構造で、高貴な人物に限って使われた漆塗り木棺の破片も出土。皇族か、日本に滞在した百済の王族らが葬られた可能性が高いという。また石室は、一三六一年の南海地震で崩落していたことも判明した。
同古墳は一辺二十四メートルの二段築成の方墳。尾根の南側を東西約百メートルにわたって削るなど、大規模に土地を造成して築造されていた。築造時期は、出土した土器から六百六十-六百七十年代と推定され、被葬者は四十、五十歳代の男性とみられる。
産経新聞 12月2日

明日香村と言えば蘇我氏の本拠地とされている地域。ここにこのような古墳があるとすると、蘇我氏のルーツは朝鮮人で、なおかつ蘇我氏が権力の中枢にあった時期に多くの渡来人を受け入れたと考えられます。ただ発見されたカヅマヤマ古墳は660年~70年に築造されたものですから、蘇我氏が滅亡した後の話なんですよね・・・。私の想像には少し無理があるのかもしれません(苦笑)

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壁画取扱注意

ついに師走ですね。ここ2日間ぐっと寒くなってきました。体調管理には十分気をつけて元気に新しい年を迎えたいものです。
ところで、私のブログでも何回か取り上げているキトラ古墳の壁画はぎ取り作業ですが、どうしたことか玄武部分のはぎ取り作業に失敗したようです。
以下読売新聞記事より抜粋

奈良県明日香村の特別史跡、キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の壁画保存作業で、文化庁は、北壁の玄武(げんぶ)のはぎ取りに失敗、蛇の頭など5か所を破損させたことを、30日明らかにした。
昨年8月の作業開始以来、壁画が損傷したのは初めて。
同庁は「修復は可能」としているが、しっくいごと取り外す作業の困難さが改めて浮き彫りになった。石室解体論も浮上している中、今後の保存対策に重大な影響を与えそうだ。
同庁の発表によると、蛇と亀が絡み合う玄武(縦15センチ、横23センチ)は、右上と右下、左側の三つに分割してはぎ取ったが、蛇の頭部や亀の右の前脚などが壁に残ったままになり、2センチ~数ミリ四方の5か所を破損した。
はぎ取りは、壁画表面にレーヨン紙を張り、上から合成樹脂を塗布して行ったが、破損した部分はいずれも樹脂がうまく付着しなかったらしい。同庁は「バクテリアの影響で樹脂が浸透しにくかった可能性がある」と釈明している。
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話「文化財を破壊してしまった文化庁の責任は重い。他の壁画はぎ取りでも起こり得ることで、保存対策を見直す必要がある」
読売新聞 11月30日

文化庁は「修復は可能」と言っているそうですが、やはりこの作業そのものが困難を極めているのしょう。確かに1000年以上経過した壁画をはぎ取る訳ですから容易な作業ではありません。
結局人間がやる事だから失敗しても仕方ないのでしょうが、文化財ですから慎重にお願いしたいものです。

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入鹿邸跡に古代史ファンが殺到

13日に報道され、古代史ファンの注目を集めている奈良県明日香村甘樫丘の入鹿邸跡発掘現場が本日午前から一般公開され、多くファンが殺到したようです。
さて、これほどまでに古代史ファンがこの遺跡に対して大きな関心を寄せている理由とは・・・。
古代史史上最大の政変と言われる大化のクーデターにより謀殺された蘇我親子。その彼らが政変前に握っていた権力を計り知る重要な発見であると同時に、記紀(日本書紀・古事記の総称)の記述の裏付けとなる発見と言われています。
記紀によれば、蝦夷・入鹿親子は644年、甘樫丘に家を建て並べ、蝦夷の家を『上の宮門』、入鹿の家を『谷の宮門』と呼ばせていたと言います。また中大兄皇子らが板蓋宮で入鹿を謀殺した翌日に、父の蝦夷が甘樫丘の邸宅で『天皇記・国記・珍宝』を焼き、自害したとも記述されています。
この記述を裏付ける発見が今回相次いで確認されました。まず「谷筋の尾根を削って低い部分を埋め立てる大規模な整地を行い、平たん地を造っていたことが判明」(毎日新聞記事より一部抜粋)と言う調査結果と「入鹿の家を『谷の宮門』と呼ばせていた」と言う記述。
もう一つは「建物の大きさは10.5メートル×3.6メートル。近くの溝(長さ約3メートル、幅80センチ)に、焼け土と炭が残っていた。」(毎日新聞記事より一部抜粋)と言う調査結果と「父の蝦夷が甘樫丘の邸宅で『天皇記・国記・珍宝』を焼き、自害した」と言う記述。
ここまで記述と発見が酷似していると「こじつけ」では片付けられませんよね。そうした事を考えると記紀の信憑性を再考し、記述に基づいた遺跡調査を進めることが重要なのかも知れません。
ちなみに私もこの発掘現場に行きたいのですが、すぐに向える場所ではないので、渋々断念します・・・。

nifty地図から入鹿邸跡発掘現場を検索してみました。

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今日は坂本龍馬の生誕170周年の日です

ryoma-sakamoto2日本史ファンの間で絶大な人気を誇るのが戦国時代の異端児織田信長(私は嫌いですけど・・・。)と幕末の革命児坂本龍馬と言われています。その坂本龍馬の愛好家が「龍馬会」と言う団体を立ち上げたそうです。
この龍馬会には俳優の森田健作氏も顧問として参加し、多方面から龍馬ファンが参加していることが伺えます。龍馬自身も後世このように自分が歴史ファンからリスペクトされるとは思っていなかったでしょうね。
現代の日本人に高知県(土佐)から連想するものは?と訊ねれば-高知と言えば坂本龍馬-と言う答えが多いはずです。特に地元の高知では龍馬を常に郷土の英雄として崇めており、近代国家の礎を築いた板垣退助や植木枝盛さえも霞む人気を誇っています。
私は坂本龍馬を特に好きと言う訳ではないのですが、とにかく自分の行動に絶対の自信を持ち、下級脱藩藩士と言う立場など関係なしで誰に対しても忌憚のない物言いをするところはとても魅力を感じています。それに龍馬が暗殺されずに生き残って明治を迎えたら日本の政治システムは違う方向に向ったと思います。具体的には龍馬が目指した民主化を考えた場合、貧しくても有能な人材が身分に関係なく参加できる政治システムを構築していたはずです。(龍馬が参議として太政官府に参加し、なおかつ土佐派がイニシアティヴを握れたならばの話ですが・・・)
遅れましたが今日はタイトルの通り、龍馬生誕170年目にあたります。(実は私、今まで知らなかったんです。先ほど父から教えられました。)そして龍馬が近江屋で非業の死を遂げたのも今日11月15日です。11月15日は龍馬にとって因縁深い日だったんですね。
死から138年後の日本に生きる私は龍馬に現在の日本、そして世界を見てどんな感想を言うのか、聞いてみたい思う今日この頃です。
話は歴史から逸れますが、オーストラリアで1835年に英科学者チャールズ・ダーウィンによって捕獲されたと言われる亀が175歳になったそうです。この亀、龍馬よりも長生きなんですね!(驚)

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蘇我親子邸であることがほぼ確定

以前からこのブログでも取り上げてきた蘇我氏邸宅跡(こちらの記事)に関する発掘調査ですが、調査もだいぶ進み、蘇我氏の邸宅の全貌が明らかになってきました。今朝の毎日新聞の記事から紹介します。

7世紀前半に権勢をふるった蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅があったと推定されている甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡(奈良県明日香村)で、谷を整地した上に建てられた建物跡や焼け土などが見つかった。
-中略- 
大化の改新(645年)の始まりとされるクーデターで入鹿が暗殺された後、蝦夷が火を放ったとされる邸宅の存在がより現実的になり、地形的な特徴から日本書紀が記す入鹿の邸宅「谷(はさま)の宮門(みかど)」の一部との見方が有力になっている
-中略-
調査面積が限られているため、建物は7世紀代のものとしか特定できないが、94年に今回の調査地の東隣でも、焼けた建築部材や土器が大量に見つかっていることや、一等地であったことなどから、同調査部は「蘇我氏の邸宅跡の可能性が高まった。今後の調査で年代を確定し、全体像を解明したい」としている。
調査地は蝦夷の父、馬子の邸宅跡とみられる島庄(しまのしょう)遺跡の北西約1.3キロ。日本書紀によると、蝦夷・入鹿親子は644年、甘樫丘に家を建て並べ、蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼ばせた。「城柵(きかき)」や武器庫を備え、番兵が警備したという。中大兄皇子(後の天智天皇)らが645年6月12日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で入鹿を切り殺し、翌13日、蝦夷は甘樫丘の邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとされる。
毎日新聞- 11月13日掲載分より一部抜粋

この調査は、当時の豪族(権力者と表記した方が正しいかも)の権威を窺い知るだけではなく、信憑性の薄いとされてきた「記紀」の記述の裏づけにも関わってくる重大な発見だと思います。これを期に、記紀に対して歴史的史書として評価が高まることを願うばかりです。

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弥生時代後期の越前

またニュース記事からの紹介になりますが弥生時代後期、越前でとても大きな勢力が存在した可能性があるようです。
以下の文は記事からの抜粋

弥生時代後期(1-2世紀)に山陰や丹後地方の墳墓に多く副葬された鉄剣や鉄刀が、弥生終末期(3世紀前半)になると福井平野の墳墓に集中することが11日、大阪府立弥生文化博物館(同府和泉市)の調査で分かった。
刀剣類は形などから朝鮮半島製とみられ、北部九州などを経由して入手したらしい。同館の小山田宏一学芸課長は「弥生末期に福井地方の豪族が力を付け、日本海側の他の豪族を抑えたのだろう。長さ約1メートルの大刀(たち)もあり、勢力の強さがうかがえる」と話している。
開催中の「北陸の玉と鉄」展に先立ち、同館が鉄製刀剣の発掘例を調査。弥生後期後半には丹後地方の墳墓で30例以上あったが、福井平野ではほとんどなかった。
ところが弥生終末期になると、福井平野では乃木山墳墓や原目山墳墓群など約20例が確認される一方、丹後半島は5例に激減。山陰地方では妻木晩田遺跡(鳥取県)などで鉄器の出土例が増えたのに、鉄剣や鉄刀は減っていたという。
共同通信 11月11日

この記事の内容だと、この時期は邪馬台国が魏に使者を送った239年からほぼ半世紀後のことになりますね。と言うことは3世紀後半の日本においてはまだ統一国家が誕生していなかった事になります。
また、記事の中で「刀剣類は形などから朝鮮半島製とみられ、北部九州などを経由して入手したらしい」と記述がありますが、素人である私の憶測では、朝鮮半島の渡来民が越前に上陸して、勢力を拡大していったとは考えられなくもない・・・と思いますが如何に。
この話からかなり後の話にはなりますが、継体天皇が武烈天皇の後継になる前に住んでいたのは確か越前だったはずです。ヤマト政権の形成を考える上で、越前と言う地域は重要な事実が隠されているのかもしれません。

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国内最古の木製皿を発見

縄文時代の人々はグルメで有名ですが、食器(と表現していいのかな?)にもこだわりがあり、今まで多くの遺跡から発見されています。そんな中で先日、佐賀県の東名遺跡から7000年前に使用されていた木製の皿が発見されたそうです。
以下その関連記事になります。

佐賀市金立町千布の東名遺跡の貝塚から、縄文時代早期(約7000年前)のものとみられる木製の皿など5点が見つかり、同市教育委員会が8日、発表した。木製の容器としては国内最古の出土品という。
市教委は「早い時期から木製品が使われたことは想像できていたが、それを裏付ける出土品」としている。
市教委によると、見つかったのは、直径約30センチ、幅約15センチ、深さ約2センチの皿やひしゃくの一部など計5点。2点はクワとクリで作られていることが確認されたが、残る3点は不明という。
5点は2003年11月から今年10月にかけて見つかり、周辺から出土した編みかごやドングリなどを年代測定したところ、縄文早期の出土品であることが判明。木製の皿なども同年代のものと判断した。
共同通信 11月8日

7000年前、まだ稲作が始まる数千年前から、食事を盛り付ける器を利用していたとは驚きです。
日本列島においては周囲を海で囲まれているため、漁業を中心とした食文化が発達していた事が伺えます。それを裏付ける根拠として福井県の鳥浜遺跡の貝塚を調査した結果、木の実以外にもマグロやシジミなどの海の幸を食していたことが判っています。
丸木舟や木皿の利用から縄文人は我々が想像している以上に豊かな食文化を育んでいたかもしれませんね。

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現代人が試食

以前紹介した江戸時代の食文化を紹介するテーマ展「彦根の食文化」に関連して、地元の彦根市では市民に彦根藩主が実際に食したメニューを試食する催しが開催されたそうです。詳しい内容を6日の京都新聞より抜粋してみました。

江戸時代の大名の日常食を試食する催しが5日、滋賀県彦根市本町一丁目の商店街「四番町スクエア」で開かれ、約500人の市民らが意外に質素な食事を味わった。
区画整理事業が完成したばかりで、食文化に根ざしたまちづくりを目指している四番町スクエア協同組合と、テーマ展「彦根の食文化」を開催中の彦根城博物館が主催した。
再現された食事は、最後の14代彦根藩主・井伊直憲の食事を書き記した「御膳帳」を基に再現した1863(文久3)年10月7日の朝食で、「今出川豆腐のこし薩摩芋(いも)かけ」と「白玉と牛蒡(ごぼう)のみそ汁」。ご飯と漬物の代わりに、彦根藩から幕府にも献上されたと伝えられる醒ケ井餅(もち)が添えられた。
試食会場には大勢の市民らが詰めかけ、煮豆腐にこしたサツマイモをかけたおかずなどを口に運び、参加者は「質素で、健康によさそう。あっさりとおいしかった」と話していた。
京都新聞  11月6日掲載

試食された方は「質素で、健康によさそう。あっさりとおいしかった」と話されたようですが、当時の農民や庶民にとっては贅沢品だったはずです。ただ現代の飽食の時代を生きている人々から見れば、江戸時代の大名の食事も質素なものに映るのでしょう。しかしこの質素さこそが、日本人の食文化形成の一翼を担ってきたことは言うまでもありません。今あらめてこの質素な食生活を意識することが、健康的な食生活を送るためには重要なことだと思います。

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好きこそ物の上手なれ

先日、毎日新聞に60代の方が歴史好きが高じて(良い表現ではありませんが・・・)学芸員の資格を取得したと言う記事が掲載されてました。
この方、若き日に手伝いとして古墳の調査・研究に携わり、その日から学芸員になることを志していたそうです。
世の中には「好きこそ物の上手なれ」と言う言葉がありますが、まさにそれを体現された方ではないでしょうか?しかも私のように「趣味」の領域で終わらせず、大学卒業の資格まで取得し学芸員になるのですから決意も相当なものだったのでしょう。同じ歴史好きの一人として本当に尊敬いたします。
以下が毎日新聞に掲載された記事の一部です。

名神高速道路の建設に伴う遺跡発掘調査(1959年)の手伝いをした若者が調査から46年を経て学芸員資格を取得、地元の老人クラブに古墳の話をする研修会のための資料をまとめた冊子も製作した。発掘調査結果を伝える当時の毎日新聞をこれまで大切に保存し、46年ぶりに夢をかなえた。
この男性は上石津町牧田山村、電器店経営、森川賢治さん(63)。森川さんは幼くして父親を亡くし、中学を卒業後、農業を継いだ。20歳の時に大垣市内の電器店で修業、4年後に電器店を設立し、現在に至っている。
森川さんが発掘調査を手伝ったのは同町の6~7世紀の牧田古墳群。名神高速道路建設で取り壊されるのを前に、県文化財保護委員会(当時)が1959年に岐阜大学や名古屋大学の協力で調査。当時、農業をしていた森川さんも地元の区長の依頼で半年間、名古屋大学の学生たちと調査の手伝いなどをした。その調査結果は翌60年6月6日付の毎日新聞の朝刊に掲載された。
森川さんが再び、好きな歴史の勉強を始めたのは3人の子どもが全員大学を卒業した56歳の時。大学受験を決意し、大学入学資格の検定試験を受けて99年、放送大学に入学。人文・自然コースで学んだ。仕事と勉強を両立させて03年春に卒業。さらに、独学で勉強を続けて今春、学芸員資格(考古学・民俗学など)を取得した。
森川さんは「歴史が好きだった。面白い。多くの人とも出会えた」と語り、現在も時間が許せば町の郷土資料館に出かけるなどして考古学の勉強を続ける一方、同町や養老町、垂井町などの古墳発掘現場にも足を運んでいる。

毎日新聞 10月30日掲載記事より一部抜粋

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東京都が史跡の見直しへ

最近、東京都がお岩さんの稲荷や将門の首塚を「史実の裏付けが乏しい」という理由で指定廃止の方向で検討しているようです。
現在指定廃止が検討されているのは、「四谷怪談」のお岩さんが信仰した新宿区左門町の田宮稲荷神社跡、朝廷に反乱を起こし、京都でさらし首となった平安時代の武将、平将門の首が宙を飛んで落ちたと伝えられる千代田区大手町の将門の首塚、「忠臣蔵」の赤穂浪士の一部が切腹した港区高輪の熊本藩江戸屋敷跡などです。お岩さんの稲荷や将門の首塚については伝承的要素の強いものですが、赤穂浪士まで?と思う方も多いはずです。これは1918~1942年の間に忠臣蔵関連の史跡が10ヶ所も指定されたのですが、戦争を拡大していった日本政府が、浪士の忠誠心を政治利用するにあたり、こうした史跡を指定したと考えられているからです。
確かに「史実の裏付けが乏しい」と言う理由はわかります。ただ、こうした後世に残る伝承には当時の時代背景を知る重要なものも含まれているはずです。安易に見直さなくてもいいのでは?と思うのは私だけでしょうか?

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天皇を凌ぐ権力者の跡・・・

昨年末に放送された「その時歴史が動いた(入鹿殺害のクーデターの謎)」において、入鹿が殺害される原因として次のような事実が取り上げられていました。
まず、馬子・入鹿親子の邸宅が天皇のそれと同等な規模であったこと。部下や側近に蘇我一族を天皇一族と同等に扱わせていたことです。それらのことが朝廷には、蘇我氏が天皇家の権威を否定する行為として映りクーデターの一因となったと言うのです。そして、それを裏づける発見が昨日ありました。内容は以下のとおりです。

奈良県明日香村の島庄遺跡で昨年見つかった飛鳥時代の豪族、蘇我馬子の邸宅跡とみられる建物群の全容がほぼ判明したと、同村教委が24日、発表した。
確認された建物は計5棟となり、このうち最大の建物は幅12メートル、奥行き7・5メートルの規模と確定した。当初の推定より一回り小さかったが、飛鳥時代の天皇の宮殿並みで、馬子の権勢を改めて裏付ける成果となりそうだ。
8月25日 読売新聞より

話は当時の政争に移りますが、蘇我一族はライバルである物部一族を滅ぼし、朝廷内でその権勢を欲しいままにしてきました。こうして着々と独裁体制を固める蘇我氏に対して、元来独裁体制を嫌う朝廷や冷や飯食いの反蘇我連合によって入鹿は殺害されたのでしょう。
前回の記事で取り上げた「日本人独特の政治観」が独裁者入鹿を抹殺したと言っても過言ではないと思います。

iruka
「多武峯縁起絵巻」の入鹿暗殺の図。私は決して入鹿を庇う訳ではないが、嘘っぱちの儀典に呼び出し、その上不意を突いて殺害するやり方は気に入らない。

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日本海○ 東海× 

今日のニュースで、日本海の呼称問題の外務省の反論の内容が報じられました。

外務省は、米議会図書館所蔵の14~19世紀の地図を対象に、日本海海域の名称がどのように表記されているか調査し、このほど、その結果をまとめた。
19世紀の地図の8割超が「日本海」と表記しており、「19世紀初頭からヨーロッパで日本海の呼称が定着していた」という日本政府の主張が裏付けられたとしている。
調査対象は1730枚で、このうち、1435枚は日本海海域に何らかの呼称を記載していた。内訳は、「日本海」が77%に上り、「朝鮮海」が13%、「中国海」と「東洋海」がそれぞれ1%、「東海」は0.1%だった。
19世紀発行の1285枚に限ると、「日本海」は82%を占め、「朝鮮海」は7%。「東洋海」と記した地図は2枚、「東海」は1枚だった。
韓国は「『日本海』が定着したのは、日本の植民地主義が原因」などと主張し、「東海」と名称を変えるよう国際社会に働きかけている。
(読売新聞 7月30日)

韓国・北朝鮮・中国は日本と生じる何らかの問題を、必ずと言って良いほど日本の植民地時代の話に掏り替える傾向があります。(注・国民を指してるのではなく、国の指導部に対してです。)私は問題の本質を率直に論じてこない彼らに憤りすら感じます。特に北朝鮮では植民地時代の問題と拉致問題を比較し、拉致問題を些細な事だと言い切るならずもの国家です。このような我々の常識では計り知ることの出来ない相手とも互角に交渉しなければならないのが現在の対東アジア外交なのでしょうね・・・。

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キトラ古墳で新たな発見

こんな発見があるんですね・・・。

奈良県明日香村の特別史跡・キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の極彩色壁画の保存処置を進めている文化庁は14日、「四神(しじん)・朱雀(南壁)の下部で、新たな壁画を確認した」と発表した。位置から、十二支像の午(うま)という。しっくい表面に付着した泥の層に、鮮やかな朱色の顔料と墨の線が残っていた。十二支像はこれまで寅(とら)、戌(いぬ)など五つが確認されていたが、他は崩落したり、溶けてなくなっていると考えられていた。
朱雀の処置に先立ち、午が描かれていると想定される余白部分を縦33センチ、横29センチの大きさにはぎ取った。裏側から観察したところ、しっくい(厚さ約2~5ミリ)が崩れ落ちた部分で表面を覆っていた泥が露出しており、2~3センチ大で2カ所に、顔料と墨の線が付着しているのが見つかった。午の着物の腰付近と考えられるという。
担当している川野辺渉・東京文化財研究所修復材料研究室長は「粒子が細かい泥が壁画にくっついたおかげで顔料が残ったのではないか。こんなに鮮やかとは予想しておらず、描かれた当初の色だろう」と話した。
キトラの十二支像は獣頭人身で、北壁中央の子(ね)を起点に、時計回りに並んでいる。巳(み)、卯(う)も同様に、しっくい表面に泥が付着しているため、顔料が残っている可能性があるという。 
「十二支像」( 時刻や方位を表す十二支の動物像。隋(581~618年)、唐(618~907年)など古代中国の墓の墓誌や、朝鮮半島を統一した新羅の王の墓を囲む石の表面などに彫られている。十二支の動物の顔と人の体を組み合わせた獣頭人身像も含まれる。)
毎日新聞  6月15日

キトラや高松塚は保存作業の過程において、色々な発見があります。法隆寺火災後の補修時、木材をバラバラにしてみると当時の大工の助手たちと思われる人物が書いた落書きや文章がいろいろと出てきて世間を驚かせましたが、今回もその時と同じく、災いが生んだ発見と言えるでしょう。不思議なものです・・・。
12支像の「午」の一部とみられる絵の写真はこちら

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キトラ古墳 「白虎」部分の壁画のはぎ取りに成功

キトラ古墳の壁画保存作業において、四神のひとつ「白虎」部分のはぎ取りに成功したようです。以下は読売新聞記事より抜粋

奈良県明日香村の国特別史跡キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の保存事業で、文化庁は24日、西壁に描かれた壁画「白虎」の前脚部分のはぎ取りに成功した。
石室の壁に固着した漆喰(しっくい)の分離は今回が初めて。昨年はぎ取った胴体部分と合わせ、これで「白虎」全体が完了した
同庁はこの日、6月中にも南壁の「朱雀」に着手、東壁の獣頭人身十二支像「寅(とら)」へと作業を進め、北壁の「玄武」は分割してはぎ取る方針を示した。
作業は、修復技術者5人が交代で石室に入り、うち1人が漆喰に厚さ0・3ミリのへらを差し込み、1時間30分かけて壁画の表面を薄くはぎ取った。漆喰の裏側は粒状の固まりが無数にあって難航。5ミリ四方が欠けたが、壁画の損傷は免れた。

読売新聞 5月25日

本来なら石室内での保存が一番好ましい形なんですが、過去にも取り上げたように、人間の「負の遺産」によって、それも叶わなくなりました。しかし1300年もの間、その姿を留め続けた四神の壁画を現代人の英知をもって保存できるよう努力してほしいと思います

キトラ古墳とは?
奈良県明日香村にある終末期古墳で直径約14メートルの小型円墳。約1キロ北の高松塚古墳で極彩色壁画が発見されたのを機に、1983年から調査が始まり、朱雀など四神図と獣頭人身の十二支図、天文図などを確認した。今年1月に本格的な調査が再開。石室内部を発掘し、被葬者とみられる人骨や木棺金具、副葬品のこはく玉や大刀飾りが見つかった。被葬者は、天武天皇の皇子や渡来系豪族など諸説ある
高松塚古墳よりひと回り小さい。昭和58年以降、計4回の撮影調査が行われた。藤原宮の中軸線を延ばした「聖なるライン」に乗るとする研究者もいる

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寺田屋騒動慰霊法要

幕末に起きた「寺田屋事件」は薩摩藩の国父にして独裁者の島津久光が、中央で権勢を振るうために、邪魔な急進派藩士を殺害しろと情け容赦のない命令を下したために不幸にも起きてしまった事件です。その久光のエゴの犠牲となった哀れな藩士たちは、歴史の片隅に消えてしまったと思ってましたが、今日の南日本新聞の記事を読み、有馬新七ら薩摩藩士9人を哀れに思ってくれている薩摩隼人がいたことがわかりました。
以下の記事は南日本新聞からの抜粋です。

幕末に京都で起きた寺田屋騒動で亡くなった薩摩藩士9人の墓がある京都市伏見区の大黒寺で22日、慰霊法要があり、鹿児島県の企業の大阪支社で組織するサングリーンクラブの会員や関係者ら約30人が出席し先人のめい福を祈った。
寺田屋騒動は文久2(1862)年4月、倒幕急進派の有馬新七らが、公武合体派の島津久光の命を受けた藩士らに伏見の船宿・寺田屋で斬殺された事件。維新後、寺を訪れた西郷隆盛が碑銘を書いて墓が建てられたといわれる。
慰霊法要の世話役を務める酒造会社社長・齋藤透さん(京都市)によると、当時近所で呉服屋を営んでいた齋藤家が、事件直後に有馬らの遺体をさらしに包み、薩摩藩のぼだい寺である大黒寺に運んだという。齋藤家が163年にわたり毎年独自に慰霊法要を行ってきた。
同寺には宝暦治水を指揮した総奉行平田靭負(ゆきえ)の墓もあり、同クラブ会員は薩摩九烈士らの先人の墓前に焼香した。また薬丸自顕琉の演武も披露された。

南日本新聞 2005年05月24日

郷土の先人たちを弔うとは、さすがは薩摩隼人!リスペクトです。

hisamitu薩摩藩国父の島津久光。彼の冷酷性は寺田屋事件以外にも生麦事件と言った血生臭い事件によって垣間見ることが出来る。

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高松塚古墳のカビ対策

前回の記事で深刻化する高松塚古墳のカビ問題について触れましたが、文化庁はその対策のために次のような措置を検討しているようです。

明日香村平田の高松塚古墳(7世紀末―8世紀初め)で、国宝の極彩色壁画が劣化している問題で、文化庁の保存対策検討会は11日の会合で、劣化の要因となっているカビの発生を抑えるため石室の下や墳丘表面に冷却パイプを設置し、石室内の温度を下げることを決めた
石室解体案など恒久的な保存対策が実施されるまでの間、被害が拡大しないよう暫定的な措置として行なう。同庁は9月までに設置を終え、稼働させたいとしている
2005.5.13 奈良新聞

地球温暖化により壁画へカビやダニが異常発生し、それが食物連鎖となり古墳の保存を難しくしていると前回の記事で取り上げました。地球温暖化と言う現代人の負の遺産のために祖先が遺した文化遺産が無くなるにはあまりにも寂しいことです。しかし現代人は負の遺産とともに最新のテクノロジーを残しています。そのテクノロジーを駆使して是非とも古墳の保存に全力で取り組んでほしいですね。

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高松塚古墳の外観。現在は保存調査のためシートが被せられている。現在の高松塚古墳の写真はこちらを参照

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地球温暖化が歴史的遺産にも影響?

takamatutuka高松塚古墳のカビ被害の概要がこんな形で解明されてきました。

奈良県明日香村の特別史跡・高松塚古墳の壁画(国宝)劣化問題で、カビとダニが相互に影響して繁殖する「生物の連鎖」が石室内で起きていることが、文化庁の分析で分かった。増殖の速度に殺菌処置が追いつかず、壁画の被害は拡大の一途をたどっているという。11日の恒久保存対策検討会で報告する。同庁は「今の環境で壁画を維持し続けるのは困難で、緊急事態。早期に抜本的な対策が必要」と指摘しており、この連鎖が先月、検討委の作業部会が石室解体案をまとめた大きな根拠になったとみられる。
文化庁はカビ発生後からの古墳の現状について、生物被害、壁面、石室、墳丘に項目を分けて詳細に分析した。
報告書では、石室内のカビの発生は04年春から続いているとし、微生物の専門家3人による分析結果として、「発生したカビがダニの餌になり、ダニの排せつ物や死がいがカビの栄養分になっている」と指摘。「現地保存では微生物、微小動物による被害を防ぐことはできない」と結論づけている。
このほか、01年2月に石室入り口の外で実施した壁面強化工事で、カビが大量に発生。これをきっかけに石室内でも気温の高い時期に黒褐色のカビなど壁面を著しく汚すものが発生するようになったと指摘した。さらに、この殺菌処置のために人が出入りすることで石室内の温度が上昇し、新たなカビが繁殖する悪循環に陥っているとした。
また、「(白虎などの)描線が不鮮明になったのは、72年の壁画発見当時から既に進行していたしっくい劣化のせい」「地球温暖化で石室内の気温も上がり、カビや虫による汚損は一層、激しくなる」などとも指摘している。

毎日新聞 5月3日

高松塚古墳の被葬者は「聖なるライン」の上に存在することから天武天皇の何人かの皇子の墓ではないかと言われる貴重な歴史的遺産です。奈良時代からの1300年もの間、その姿を留めてきたにも関わらず、この数年でここまで劣化してしまうとは驚きです。
カビの異常発生が「地球温暖化」の影響とも伝えられてます。我々の祖先が遺した素晴らしい遺産が、私たちの残す負の遺産によって無くなってしまうとは皮肉なものですよね・・・

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歴史を知らない大学生が増加

今日、こんなニュースを見つけました。

「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」といった言葉を知っている学生が減り、近代史に関する日付として6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」と正しく記憶している割合も低下していることが、教育史研究者の岩本努さんの調査で分かった。特に加害の歴史については理解不足が目立った。
岩本さんは「中高校で近代史を十分教えず、マスメディアもあまり取り上げない。中国、韓国で反日運動が高まる中、歴史を正しく知らなければ、本当の意味の友好関係を築くことはできない」と話している。
岩本さんの講義を受けている中央大の44人、法政大の79人を対象に4月に調べた。
共同通信 2005年5月4日

この岩本氏と言う学者が調査した内容は歴史が好きでなければ知りえない内容なので、この調査が果たして「歴史を知らない」に結びつくのか疑問ですが、確かに最近の若い人は歴史に疎く、私(31歳)が歴史好きだと話すと稀有な人物だと言われる事もあります。まあ「過去より今」を生きるのに精一杯な世の中ですから仕方ないと言えば仕方ないですけどね。
ちなみにこの記事で「特に加害の歴史については理解不足が目立った。」と言う記述がありますが、歴史に対して「加害」の意識をいつまでも持つ事がこの日本人にとって良い事なんでしょうか?私は逆に「加害」ではなく「未来への教訓となる歴史認識」(日本の侵略だけでなく、列強進出を許してしまったアジア諸国の負の歴史など)を持てるように教える事が大事だと思います。ただ日本の軍部が昭和初期にアジア諸国でおこなった非人道的な行為を当時の時代背景を考察しながら伝えていく必要はあるでしょうね。「皆さん反省しなさい!」の教育はノーサンキューです。

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江戸時代の食事

「もし日本の農産物輸入が完全にストップした場合の献立例とは?」今日、こんな興味深いニュースをラジオで聞きましたので紹介します。

『夕食はご飯1杯、焼き芋1本、焼き魚1切れ-。農水省は仮に農産物輸入がストップした場合として、かつての食料不足の時代を思い起こさせる、こんな献立例を作成した。朝、昼も芋中心で、みそ汁は2日に1杯、肉は9日に1食だ。
農水省が新農政の基本計画で盛り込んだ食料自給率の目標45%(カロリーベース、現行40%)を達成しても、今の食生活のレベルを大幅に落とさざるを得ないとしている。輸入が完全に途絶えるという極端なケースを想定、食料自給率の向上の必要性を訴えた格好だ。
ちなみに朝食のメニュー例としては、ご飯1杯、粉吹き芋1皿、ぬか漬け1皿。昼食は焼き芋2本、ふかし芋1個、リンゴ4分の1。
共同通信 3月21日』

なんだか現実味のない話ではありますが、日本はつい150年前まで庶民の食事はほぼ国内の自給によりまかなっていた「鎖国時代」だったのです。この時代の日本人は一体どのような食生活であり、またどんなものを食していたのか調べてみました。
江戸時代の食事は、初期には一日二食でしたが、中期以降には一日三食が一般的になりました。献立の内容は飯と味噌汁、おかずが一品という、いわゆる「一汁一菜」でした。これは町人に限らず、武士も基本的にはかわりませんでした。
また江戸では一日三度、精米したご飯をふんだんに食べられました。しかし、玄米を食べる田舎に比べ、白米が食べる江戸ではビタミンB1が不足するので、脚気にかかる人が多く、「江戸患い」と呼ばれるほどでした。
おかずは一品だけでしたが、行商人が旬の食材を新鮮なうちに売りにくるので、現代の野菜や魚よりもおいしいものが食べられたのです。
このように質素なものではありましたが、素材や栄養については今よりも優れ、鎖国時代の食生活を見習う部分は大いにあると思いました。

uk_edo100_001web初代歌川広重の「日本橋雪晴」。魚河岸が日本橋のたもとの対岸にあり、江戸っ子気質の魚屋で大変な賑わいと活気をみせていた。

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聖なるラインの被葬者たち

最近7~8世紀の古墳の研究調査が進んでますよね。先月の奈良新聞に高松塚古墳の被葬者について興味深い記事があったので紹介します。

明日香村平田の高松塚古墳(七世紀末―八世紀初め)で行われた約30年ぶりの発掘調査は、墳丘の規模や形など、ベールに包まれていた同古墳の姿を浮き彫りにした。被葬者への手がかりが増えたことで「墓の主」をめぐる論議は新たな方向性を見い出せるのだろうか。一方、「石室環境の悪化原因を突き止める」という主目的については決め手がなく、文化庁は新たな課題を背負うことになったといえそうだ。
【はがされたベール】
「有名な高松塚古墳が、実は大きさも形も分かっていなかった。それを確定できた意義は大きい」。調査を担当した奈良文化財研究所の松村恵司室長はそう話した。
同古墳の発掘は昭和47年。壁画を一刻も早く保護するため、県立橿原考古学研究所は調査開始から1カ月で打ち切りを決断、無二の遺産を文化庁に引き渡した。
このため、墳丘の十分な調査が行われず、「16―18メートルの円墳」と考えられてきた。形についても天皇墓を示す八角形の可能性が残されていた。
今回の調査は、これらのベールをすべて取り払った。墳丘すその排水溝(幅2.5メートル)が見つかったことで直径23メートルの円墳と確定。盛り土の最下層で出土した須恵器から、築造時期も七世紀末―八世紀初めと裏付けられた。
【新資料得た被葬者論】
松村室長は築造時期を藤原宮期(694―710年)に絞れるとみている。天武天皇の皇子たちが藤原宮の中軸線上に葬られたとする「聖なるライン」論や副葬されていた海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)の年代観とも矛盾しない。
中国・陝西省の独弧思貞墓で出土した海獣葡萄鏡は高松塚古墳の鏡と特徴が同じで、704年帰国の遣唐使が持ち帰ったとする見方がある。直木孝次郎・大阪市立大名誉教授(日本古代史)は、壁画に描かれた人物の服装などから705年に死んだ忍壁皇子説を唱えてきた。
一方、今回の成果を受けて「弓削皇子説が裏付けられた」と主張するのは菅谷文則・滋賀県立大教授(考古学)。699年に死亡しており、藤原宮期に当てはまる。持統天皇の火葬(703年)以前であることも大きな理由だ。それ以降の皇族は火葬されたとみている。
いずれも天武天皇の皇子だが、八角形説が消滅したことで朝廷の高官も被葬者の可能性が強まる。白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「大刀などの副葬品からみた年代観は奈良時代。被葬者はやはり左大臣・石上麻呂(640―717年)だろう。今回の土器は時期を特定できる資料ではない」と厳しい。平城遷都後、藤原宮の留守司を務めた人物で、死後、従一位を贈られた。
墳丘規模は「兄弟古墳」といわれるキトラ古墳(直径約14メートル)との間に10メートル近い差が生じることになった。菅谷教授は「石室はほぼ同じ大きさで、サイズの違う服を着ているようなもの。それがどういう意味を持つのか十分検討する必要がある。大化薄葬令(646年)との関係も考えられるのではないか」と指摘している。

奈良新聞 2月28日

藤原京の中軸線上(聖なるライン)に点在する古墳の被葬者は天武天皇の皇子たち、前回のキトラ古墳の記事でもこの「聖なるライン」の被葬者について話しましたが、今回も同じく高松塚古墳の被葬者が天武天皇の皇子である可能性を示唆する新聞記事の内容です。
学説では「皇子説」と「朝廷高官説」と分かれているようですね。被葬者論争も邪馬台国論争同様に決定的な根拠がないため結論を導き出すに至らないものとなっていますが、またそこが古代史のロマン・・いいですよね。

takamatutuka被葬者の調査とともに壁画の保存も研究者の課題になっているようです。

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キトラ古墳の被葬者について

また「Yahoo!ニュース」からの記事でキトラ古墳の被葬者についてのものがあったので載せてみました。

奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室で出土した頭骨の破片約100点と歯23点を鑑定した結果、被葬者は50歳代の男性の可能性が高くなったと、文化庁が10日、発表した。
骨太で歯も大きく、大柄な人物だったとみられる。被葬者の特定に直接結びつく手がかりとして注目される。
鑑定したのは、片山一道・京都大教授(自然人類学)。年齢は、歯のすり減り具合などから50~60歳、性別は骨の特徴から男性と判断された。昨年の鑑定では「40~70歳で性別不明」との中間報告を得ていた。
これまで被葬者候補に挙がっていた天武天皇の皇子・高市(たけち)皇子は40歳代前半、右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)は60歳代後半で死んだとされており、被葬者論争に影響を与えるとみられる。

読売新聞 3月10日

キトラ古墳の被葬者については色々な説が出ていましたね。私が以前見た本には百済からの渡来人であるような説を唱えてありました。まあ古墳の規模や装飾からするとおそらく7世紀後半に死んだ人物が被葬者でありそうな気がします。最近では壁画の保存に苦慮しているなど話題が多い古墳です。ちなみにキトラ古墳について奈良新聞に詳しい説明が載っていたので紹介します。

【キトラ古墳】
明日香村にある終末期古墳で直径約14メートルの小型円墳。約1キロ北の高松塚古墳で極彩色壁画が発見されたのを機に、1983年から調査が始まり、朱雀など四神図と獣頭人身の十二支図、天文図などを確認した。今年1月に本格的な調査が再開。石室内部を発掘し、被葬者とみられる人骨や木棺金具、副葬品のこはく玉や大刀飾りが見つかった。被葬者は、天武天皇の皇子や渡来系豪族など諸説ある。
高松塚古墳よりひと回り小さい。昭和58年以降、計4回の撮影調査が行われた。藤原宮の中軸線を延ばした「聖なるライン」に乗るとする研究者もいる。

「聖なるライン」・・。これは天武天皇の皇子たちが藤原京の中軸線上に埋葬されることから名づけられたものです。そうすると被葬者は高市皇子の可能性がありますね。高市皇子は確か壬申の乱で先鋒を務めた方、しかし皇子たちの中では年長であるにもかかわらず、母の身分が低いため皇太子にはなれずに亡くなったそうです。その高市皇子がキトラの被葬者・・なんだかワクワクします。

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蘇我氏滅亡前後の建物跡発見

奈良県明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡から、7世紀前半~同後半の建物跡7棟が見つかった。同遺跡では昨年3月、推古朝の最高権力者、蘇我馬子(?~626年)の邸宅跡とみられる建物跡を確認。9日発表した村教委は「うち4棟は馬子の死後の7世紀中ごろのもので、蘇我氏滅亡の前後。誰が利用したか興味深い」としている。
馬子の邸宅は、大化の改新(645年)で蘇我氏本家が滅んだ後、天皇家に没収されて「嶋(しまの)宮」となり、7世紀後半には皇太子・草壁皇子が住んだ。今回の建物跡は、その間の空白を埋める資料となりそう。
調査地は、馬子の墓とされる「石舞台古墳」(7世紀前半)の西側。昨年見つかった大型建物跡の南北計520平方メートルを発掘したところ柱穴が見つかり、うち4棟が、過去に近くで確認された7世紀中ごろのさく跡と方位が合っており、同時期と判断した。最大で東西9メートル以上、南北約6メートルで、邸宅の中心とされる大型建物を上回るものはなかった。あとの1棟は7世紀前半、2棟は7世紀後半とみられる。
日本書紀には、大化の改新の際、中大兄皇子(天智天皇)が馬子の邸宅近くに建てた宮殿で中臣鎌足と入鹿(いるか)殺害を謀議した--との記述があり、この地域に皇極天皇の母や舒明天皇の母などが拠点を構えたとの説も。村教委は「これらの記録と対応する可能性もあり、さらに周辺地域を調査する」と話している。
和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)は「(4棟の建物は)7世紀前半の大型建物のすぐそばで見つかっており、同時期に一体となって使用されたか、馬子の息子・蝦夷(えみし)や孫・入鹿の時代に増築されたものと考えたい」と話している。
毎日新聞 3月10日

これは「Yahoo!ニュース」から抜粋したもので前回の記事と同じく「日本書紀」の記述の裏づけになりそうな興味深い発見です。
蘇我馬子については世間的にヒールのイメージがありますが実は聖徳太子の行った数々の改革うしろからサポートしていた可能性もあり、まだまだ研究の余地がある人物ではないでしょうか。
欽明朝~皇極朝の蘇我氏隆盛の時代の記紀の記述には「大化の改新」の正当性を主張するがあまり幾らか脚色された部分もあるのは仕方ないことです。しかし今後古代史の研究調査が進み、蘇我氏が再評価されることを期待して止みません。

isibutai石舞台古墳。蘇我馬子の墓と言われ、今回発見された邸跡付近に位置しています。

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「日本書紀」信憑性の裏づけなるか

飛鳥時代の宮殿跡が重なる飛鳥京跡(奈良県明日香村)で、7世紀後半の内裏にあった中心建物、正殿の全容が明らかになった。8日発表した県立橿原考古学研究所によると、東西23.5メートル、南北12.4メートルと大規模で、日本書紀に天武天皇が宴を催したと記される「内安殿(うちのあんどの)」と「向小殿(むかいのこどの)」にあてる説などが浮上。律令国家形成期の天皇の私的空間の実態に迫る資料となる。
斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656~667)とそれを再利用した天武、持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672~694)の建物とみられる。西にも形の違う建物がある左右非対称の特異な構造で、橿考研は「中国の宮殿は左右対称が原則。日本古来の伝統を残しているのでは」としている。
1324年前、天武天皇らが酒宴を楽しんだまさにその場所が、私たちの目の前に--。「共に置酒して、楽を賜う」と日本書紀に記された奈良県明日香村の飛鳥京跡が全容を現した。壬申の乱(672年)に勝利し、律令国家建設にまい進した天武天皇が、日本最古の法律制定などさまざまな施策を実行に移した古代史のメーン舞台、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)。その私的空間で、どのようなドラマが繰り広げられたのか--。
今回確認された正殿と東の建物、さらに塀で区切られた南に大型建物があり、これらが日本書紀の記述とどう対応するか検討することが可能になったことが、今回の大きな成果だ。

毎日新聞 3月9日

3・10の朝刊でこの記事を読んだとき「日本書紀」の信憑性が裏づけられるのでは?と、とっさに思ってしまいました。私が中学生の時の歴史の先生はやや左寄りの方で古代史の話になるとさも「古事記」や「日本書紀」がデタラメのものであるかのように生徒に話し私もそう信じていました。
しかし30を越え考えに多少の円熟味が増したことで「デタラメなものの中に古代史の謎を解く重要な記述があったり、また真実があったりするはずだ。」そう考えるようになりました。
確かに記紀に関して言えば大和朝廷を正当化するための史書と言う概念が広まっていますが、それ以外にも忘れられている歴史を発見できる史書であると言えるのではないでしょうか。

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