カテゴリー「日本史探求を振り返る」の9件の記事

2012/04/07

ブログ日本史探求を聴く

7年前の3月に始めたこの日本史探求だが、最近では滅多に更新をせず開店休業状態にしてしまっている。
7年に比べ今ではWikipediaが普及し、日本史について調べたいことがあれば容易に検索することが可能となった。ゆえにこのブログを使って日本史の情報発信するモチベーションが私的には下がってしまった。
またトラックバック機能もTwitterが普及したことでなりを潜めてしまった感がある。このブログを開設して間もない頃はニフティでも『トラックバック野郎』なる企画をおこない、トラックバック普及に力を注いでいたようだが、それも今は昔・・・。
ノスタルジーに浸るのはこのあたりでやめにして、ところで最近ネット上で面白いフリーソフトをダウンロードできるようになった。その名は『棒読みちゃん』。この棒読みちゃんを起動して、色々な文章を入力またはペーストするとその文章を棒読みしてくれるのだ。実に面白いソフトである。
ところでこの日本史探求だが、私が7年間頑張ったから記事の数も多く、またその記事一つ一つの文章が長くて読んでいても面倒になる。自分で作成した記事なのに面倒になるとは極めて無責任な話だが、事実だから仕方ない。
そこで棒読みちゃんにこのブログで作成した記事をコピペすると、読むのが面倒な小難しい文章を無機質に読み上げてくれるのだ。
その棒読みちゃんを使って、今日はいくつかの記事を読み上げてもらった。読み上げられる私の記事を聴き、私は何と素晴らしい記事を作成していたのであろうと自分で自分をリスペクトしてしまった。邪馬台国の記事は畿内説を取る理由をしっかりと表現しているし、司馬さんの名作『翔ぶが如く』のストーリーも丁寧にまとめてある。今から4〜5年ぐらい前の自分はこんなにも良い記事を書いていたのかと感動してしまった。
今ではまったくと言ってよいほど更新していない日本史探求だが、棒読みちゃんのおかげで更新だけではない楽しみ方(自己満足)を覚えた気がする。

しかし、開設7年の老舗ブログなのだから、たまには歴史のニュースについての雑感だけでも記事にしてアップしてゆきたいと思う。自分自身で『いい記事書いてるねぇ』と悦に入るためにもね。

そんな訳でブログ日本史探求はこれからも続けていきます。

2008/11/09

日本史探求を振り返る 8

 1年ちょっと前の話だがブログ『縄文と古代文明を探求しよう!』の管理人であるtanoさんが、この日本史探求をご自身のブログ内で紹介して下さった。ありがたいことに、歴史好きレベルの私がが片手間で更新しているような当ブログを誉めて下さって正直嬉しく、またこのブログを続けてゆく原動力にもなった。
 ところで、以前私はこの記事で『継体天皇は一体何者なのか?それは私の次回までの宿題』と記していたにも関わらず、2年半以上も『宿題』を放置したままでいる。
 そもそも継体天皇とは謎多き大王である。先代の武烈天皇に後継が存在しなかったことから豪族大伴氏の願いにより皇位に就いたといわれている人物であり、血筋は応神天皇の皇孫と伝えられている。しかし日本書紀が伝えているこの内容に懐疑的な研究者も多々おり、継体天皇は王朝交代によって即位したと見解を持つ人も多い。私自身も継体が平和的な王位継承によって即位したことについては懐疑的であった。そしてなぜ継体天皇は傀儡ではなく、権威ある天皇として存在することが出来たのかについても疑問を抱いていた。
 その継体天皇について、先ほど紹介した『縄文と古代文明を探求しよう!』においてとても分かりやすい記事がアップされている。その記事は以前私も一読したことがある黒岩重吾氏の『古代史の真相』を基に独自の視点も交えながら『謎の継体天皇と当時のヤマト王権をとりまく状況』について詳しく説明されており、継体天皇の存在を知る上で非常に参考となるものである。
 この記事を読むと、当時は天皇といっても豪族の上に立つ権力にシンボルであり、その存在こそが豪族をまとめる力になっていたことが理解出来る。なぜ継体天皇が大伴氏ら豪族に擁立されたのかを読めば進めてゆけば見えてくるはずだ。

『日本史探求を振り返る』は今回で最後です。今後も出来るだけ幅広い日本の歴史を探求してゆく所存ですので、よろしくお願いします。

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2008/11/06

日本史探求を振り返る 7

 前回のキトラ古墳の話題の中で『長屋王』という人名を出したので、彼についてもう一度どのような人物であったのかを見てゆきたいと思う。(※もう一度というのは以前この記事で取り上げているからです。)
 長屋王について語る時に必ず出てくる話題は彼の邸宅跡についての話。確か1985年に、奈良市内に出店予定のそごうデパート建設現場から『長屋親王』と記された木管が出土した。『長屋親王』とは・・・奈良時代初期の最高権力者にして権力闘争の末に非業の最後を遂げた長屋王のことである。そして木簡の内容からその地が彼の邸宅跡であることが証明された瞬間だった。
 調査の結果、邸宅の規模は甲子園球場の1.5倍で邸内には鶴や馬が飼われていたことが木簡の記述により明らかになる。まさに栄華を極めた最高実力者の夢の跡であった。
 長屋王は684年、天武天皇の第一皇子である高市皇子(前回の記事でキトラ古墳の埋葬者である可能性を示唆した人物)の第一子として生まれた。ところで『王』の称号は天皇の子または兄弟姉妹に対して用いられる敬称である。天武天皇の孫である長屋王には『王』と呼ばれる資格はない。にもかかわらず王と呼ばれていたことを考えると、彼が当時どれほどの権勢を誇っていたのかをうかがい知ることが出来る。また、高市皇子が天武天皇からの信任が厚く、かつ有能な人物であったことがその子である長屋王に『王』たる資質があると周知させたとも考えられる。
 長屋王は709年に宮内卿となり、710年に式部卿、718年に大納言と議政官として国政を動かす地位を次々と歴任してゆく。まさに全力で権力への階段を駆け上る勢いである。
 720年、大宝律令の策定に関わった権力者・藤原不比等が死去すると、その権力は長屋王に集中することになった。そして手初めに世に知られる『百万町歩開墾計画』を実施に移すのである。(※現在の研究では、租税に苦しむ農民に対してさらに開墾計画を課したこと自体無謀な計画であったと論じられている。)
 しかし権力闘争に強くても所詮は貴族。庶民感覚が理解できないでは政策が自体好転することなどなく、結局は『三世一身法』を出すに至り、大化のクーデター以来続いていた『公地公民』体制の崩壊を招くのであった。
 その後も政治の中心で権力を欲しいがままにしてきた長屋王であったが、抵抗勢力である藤原四子が長屋王を陥れる計略を練り、そして実行に移す日が訪れる。
 729年2月10日、夜の闇に包まれた長屋王邸を宮廷の軍隊が囲み、その軍隊の指揮を執るのは政敵・藤原四子で不比等の三男である「宇合」であった。長屋王にかけられた嫌疑は、呪術で聖武天皇を呪ったというもの。身に覚えがなくとも宮廷からの軍隊から圧力に屈した長屋王は邸宅で自殺。絶頂から転落し、かつ自ら命を絶つという悲運の最期であった。

 もし、長屋王が藤原氏を含む集団指導体制をとっていたならば、天皇を中心とする政治体制は堅持され、藤原氏の絶頂時代は訪れなかったであろう。しかし8世紀当時に『集団指導体制』という概念など希薄あり、この事態(長屋王謀殺)を避けることは極めて難しかったといわざろえない。
 結局長屋王は藤原氏躍進の踏み台になってしまったのかもしれない。

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2008/11/05

日本史探求を振り返る 6

 かつて、こんな記事を載せたことがある。

 黒岩重吾氏の『邪馬台国九州説概要』
 

 2003年に亡くなられた故黒岩重吾氏は生前に卑弥呼亡きあとの邪馬台国、そしてヤマト政権成立過程において次のような仮説を立てています。
まず。邪馬台国について。
 「そもそも邪馬台国は九州の部族連合国家であり、260年代に東遷して『ヤマト王権』になった。宋女トヨが西晋へ朝貢していることは邪馬台国が、中国から冊封された事実に他ならない。」
 トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していたと言うです。なぜ東遷したのかについての説明はされていない(確認していない)のですが、部族連合国家である邪馬台国が統治していく上でより内陸に本拠を置く方が得策と考えたか、もしくは(ここからは私の推論)北九州にあっては朝鮮からの襲来に遭う恐れがあったとか・・・。とりあえず、邪馬台国系ヤマト王権から異なる系統のヤマト王権(三輪王朝などの系統からヤマト王権は始まったと言われていますが、今回この件には触れないでおきます。)へ権力が移る過程で何が起きたのかを考えていきたいと思います。
 更に黒岩氏はこう続けます。
 「邪馬台国が東遷したのち、朝鮮から渡来してきた集団の影響で、九州勢力が再び勢いづいたと推測する。そして4世紀後半、その九州の勢力が東へ移動し、ヤマト王権の皇女と九州勢力の長が婚姻関係で結ばれた。その長こそが、応神・仁徳王朝の始祖王ではないのだろうか。そして反抗した旧畿内勢力(ヤマト王権守旧派)を制圧し、応神・仁徳王朝が成立した。」
 ここでも、ヤマト王権がなぜ九州勢力と婚姻関係を結んだかは明記されていないですが、おそらく九州勢力の主導権を握っている朝鮮系の強大な武力を背景に、婚姻を迫ったとも考えられます。そして婚姻により正当な統治者である口実を得た九州勢力は反対勢力を武力で制圧していったのでしょう。この時期が江上波夫氏の言う副葬品が変化した時期だと考えられます。
 この黒岩氏の仮説を参考に、私の推測をまとめてみると

 邪馬台国は元々九州に存在したが、統治上の何らかの理由から近畿へ東遷することになった。そして邪馬台国をベースとする「ヤマト王権」が成立、これが4世紀後半まで続く。やがて九州に朝鮮人の勢力が渡来し、旧来の九州勢力に加わったことで勢いを増し、東へ進む。そして強大な武力を背景にヤマト王権と婚姻関係を結び、応神・仁徳王朝の始祖王と考えられる人物が、新たな系統を組むヤマト王権を確立した。

 今、冷静に黒岩氏の説を考察してみると、幾つかの疑問点を見出すことが出来る。
 まずは
 『トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していた』
 という箇所。
 3世紀の後半、近畿には纏向(まきむく)遺跡に代表されるように、大規模なクニの存在を示す史跡が多く発見されている。ということはそれだけ大規模なクニの連合体が近畿には存在していたのだ。
 黒岩氏が唱える九州にあった邪馬台国が東遷して『ヤマト王権』になるためには、邪馬台国そのものが大規模な軍事力と生産力を有していなければ説明がつかない。それを著書において根拠を示さずにただ『東遷した』と片付けるのは、些か稚拙な考えではないかと今の私は思っている。(当時は無垢に多くの知識人の主張を消化してきたのだが、現在はかなりひねくれているので、黒岩氏の主張の矛盾点を探ってしまうのである。)
 また、4世紀に朝鮮に在った集団が九州の勢力と結びついて東遷した邪馬台国を脅かしたと推測しているが、4世紀後半に倭国(おそらくはヤマト王権)が高句麗の広開土王率いる高句麗と交戦したという記録が残っている。朝鮮半島の、しかも当時最強であった高句麗と交戦出来うるヤマト王権が、九州の勢力に脅かされるものであろうか?私は4世紀には既に統一国家が存在し、黒岩氏の主張するような国内での内紛は考えられないと推測する。
 そして、邪馬台国は九州に存在したのではなく、近畿に存在した連合体であり、その発展形がヤマト王権であると推測しているのである。
 
 今は亡き黒岩重吾氏の説にケチをつけるようになってしまったが、黒岩氏のような方々が多くの主張してくれるからこそ、邪馬台国論争が盛り上がるであって、決して黒岩氏のすべてが間違えだとは言わない。
 また、この時期の文献が非常に少ないからこそ、知識人の見解や、調査研究の成果が必要であり、それを否定する気はまったくない。
 邪馬台国論争、今後もどんどん盛り上がってほしいものである。

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日本史探求を振り返る 5

 この日本史探求ではネタにつまると必ずといってよいほど新聞記事を引用し、それに対して私の拙い論評を載せてきた。なのでカテゴリーの『ニュース』をクリックすると他のカテゴリーに比して多くの記事が抽出されることに気づかされるであろう。
 言い訳をさせてもらうが、このブログというツールはそもそも新聞記事等に掲載されたニュースやサイトなどのURLを寸評つきで紹介することがメインであったといわれている。(※ウィキペディアより)
 ということは私自身『日本史探求』において新聞記事を紹介しながらあれこれ論評していること自体ブロガーとしては正当な行為なのかもしれない。と勝手に自己の正当性を主張しているが、結論としては新聞記事の紹介・論評であってもご覧頂いている方々に分かりやすく、そして批評に値する記事を提供できていればベストかなと思っている。
 長い言い訳であったが、では本題へ。
 私が新聞記事を紹介する際に記事を検索するのは決まって
『Yahoo!ニュース』
 であり、そこには多くの記事が紹介されている。そして驚くことに歴史関連の記事は毎日新聞のものが圧倒的に多い。『毎日新聞歴史頑張るな。』と関心していたのだが、この事件以来毎日新聞には失望した。せっかく考古学記事を丁寧に掲載していただけに残念で仕方がない。
 随分と前説が長くなったが、そんな毎日の記事を紹介してゆく中で私が最も興味を抱いたのは『聖なるライン』についてだ。聖なるラインとは
 

藤原京の中軸線から南へ直線を引いていくと、その直線上に多くの古墳が点在し、その直線上の古墳に埋葬されているのは天武天皇の皇子たちである。そのような理由から『聖なる』と呼ばれている。

 というものだ。
 その聖なるライン上にある古墳でも、いまだに被葬者がハッキリしていないのがキトラ古墳である。過去に何度もキトラの被葬者に関する記事を掲載してきたが、自分なりに『この人が被葬者ではないか。』と考えている人物が天武天皇の第一皇子である『高市皇子』、あの長屋王の父である。 
 高市皇子の可能性を示す根拠を挙げるとすると
 
 1.キトラ古墳の石室が造られた時期は調査の結果7世紀後半だと考えられる。
 2.石室の装飾から考察するとかなり身分の高い人物が埋葬されているはず。
 3.天武天皇の皇子たちの古墳が点在する『聖なるライン』上に存在する。
 4.キトラから発見された頭蓋骨の一部を分析したところ被葬者の年齢は、歯のすり減り具合などから50歳前半から60歳前半で、性別は骨の特徴から男性である。
 
 などである。
 この被葬者の件に関しては未だ確定されていないので、断定は出来なのだが、多くの研究結果が
 『被葬者は高市皇子』
 と伝えているように聞こえてくる。
 4に関しては高市皇子の死亡年齢は40代前半であると言われているのだが、当時の平均寿命なのを勘案すると老化の進行については現在の50から60代と見て問題はないと思われる。

 このように、キトラ古墳1つ見ても古代史は多くの謎につつまれているが、最新の研究技術がその謎を解明してくれることに期待したいものだ。

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2008/11/04

日本史探求を振り返る 4

 11月から『まぼろしの邪馬台国』が上映されているが、内容は邪馬台国論争云々ではなく、まぼろしの邪馬台国を求め旅をする宮崎康平氏夫妻の夫婦愛をメインに描いた作品だという。劇場に足を運んで観ようとまでは思わないが、いずれDVDがレンタルされた時には観てみようかなとは思っている。
 そんな話題の邪馬台国であるが、この日本史探求でも幾度となく邪馬台国に関する話を取り上げてきた。最近では箸墓(はしはか)古墳から大規模な周濠が発見され、邪馬台国論争が再び盛り上がってきたことと、それに関する持論を少しばかり紹介した。
 私自身、邪馬台国近畿説を支持しており、3年前のこの記事でも私の持論を紹介している。
 なぜ近畿なのか?
 と問われると正直確信があって近畿説を支持しているとは言えない。ただ九州に邪馬台国が存在したとすると、近畿を拠点とするヤマト王権が成立する過程で相当大規模な遠征がおこなわれなければ統一国家(この表現が正しいかは微妙であるが)をわずか1世紀程度で成立させるのは不可能ではないだろうか?しかも邪馬台国に近くには争いを繰り広げていた狗奴国(くなこく)が存在し、そのような状況下で東へ大規模な遠征をおこない、わずか100年足らずの間に邪馬台国が統一国家を築き上げるのは難しいような気もするのだが・・・。あっ、今までの話はあくまでも『邪馬台国=ヤマト王権』という過程であり、もしかしたら『邪馬台国≠ヤマト王権』の可能性も否定できなので、私の推論の域を出ていないことだけはお伝えしておきたい。
 ところで、以前邪馬台国近畿説を支持する私の推論を載せたのだが、今回も簡単にここで紹介しようと思う。

 まず、本質的な疑問で卑弥呼とは一体何者なのか?
 魏志倭人伝には倭国大乱の後、『倭の有力者の話し合いで、女王に推された』とある。そして卑弥呼の人物像について

鬼道を使い、祭事に携わる人物で、背丈が高く道理を良く理解している。夫婿はいないが年下の男がいて、国の統治を補佐している。 卑弥呼が女王になつてから、側女を千人置き、直接面会出来る人は限られている。 ただ男子一人が、食事の時お言葉を戴くためにお側に参上している。

と伝えている。
 卑弥呼が鬼道を使うとあるが、これは中国の皇帝から貰った鏡を使った祭事のことだとも考えられる。当時の倭国では鏡は貴重品かつ霊的な力があるものと信じられていたため、権力者のステータスシンボルとして祭事に使用されていたはずだ。卑弥呼は鏡を利用した祭事を通じて他の有力者たちに神秘性を植え付け、その神秘性を背景に倭国を支配をていた可能性がある。話が飛躍してしまうが、記紀に登場する皇祖神「天照大神」はこの卑弥呼の存在が由来したの可能性も十分考えられる
 今までの話の流れではヤマト王権の系譜を辿っていくと卑弥呼に辿り着くことになるが、卑弥呼の系譜がヤマト政権を樹立したかと言う話になると、それは別の話ではないかと考えている。魏志倭人伝には、卑弥呼の死後に男性が王になると再び争いが起ったと記述されている。その後一時的に壹興と言う女王が登場し、争いは収まったようだが、私の憶測だとこの壹興と言う女王が死んだのちにまたしても大きな争いが起き、その勝者がヤマト政権を樹立したと推測している。その勝者こそがヤマト王権の大王として登場する人物ではないかと考えているのだ。
 私の推測のまとめは

①ヤマト政権のベースとなるのが邪馬台国であり、それが畿内に存在した。
②そこを統治したのは「天照大神」のモデルとなった卑弥呼であり、その統治に中国の権威と鬼道と言う神秘性を利用した。
③卑弥呼の死後、王の座を争い有力者同士の戦いが起こり、のちに大王と呼ばれる有力者が勝ち残った。そして邪馬台国をベースにしたヤマト政権を樹立した。

 素人的な視点ではあるが、私が近畿説を支持するのは以上のような考えがあるためである。

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2008/09/20

日本史探求を振り返る 3

 過去の記事を読んでみると、意外と江戸時代の学者について取り上げてたりする。華岡青洲に伊能忠敬、そして二宮敬作、有名なようで日本人には忘れられている偉人たちだ。でも結局はこの方々がいなかったら江戸期において日本の文明水準は向上することはなかったと言っても大袈裟じゃないかもしれない。今でこそ麻酔の調合・地図作成・語学・医術は当然のように学ぶことができるが、鎖国時代の江戸期にあってはそれこそ試行錯誤の連続であっただろうし、オランダ語の書物だって訳すことが非常に困難であったはずだ。そんな逆境を乗り越えて偉業を達成した彼らこそもっと称えられてしかるべきだと思うが如何に。
 そんな偉人たちの中でも、私が心の底から「すげぇ」と思えるのが伊能忠敬だ。ゆかりの地である佐原では「チュウケイ先生」と呼ばれ今でも親しまれているという。
 つい先日だが、NHKのあるTV番組を見ていたら、この伊能忠敬を取り上げていた。仕事に行く前に少し見た程度なのだが、どうやら中学生向けのような番組であったらしい。私の知的水準は中学生レベルかもしれないので、私にとっては分かりやすい内容に仕上がっていたと思う。
 番組の中で、紹介されていた話だが、明治初期に英国海軍が日本沿岸の測量を実施し、途中まで作業を進めたのだが、その過程で手に入れた伊能図があまりにも完成度が高かったので、途中で測量を止めて伊能図を基に英国版日本地図を作成というのだ。当時の英国海軍は地図の作成において世界一の正確さを誇っていたのに、その彼らを驚嘆させた伊能図の存在は現在でも日本が世界に誇れる名品であることは間違いない。浮世絵や茶器、刀に鎧と日本が世界に誇る名品たちの中でも、伊能図はもっとも輝いていると私は信じている。

Inouzu1
これを五十の手習いで始めたってんだからすごい。

2008/09/07

日本史探求を振り返る 2

 日本史探求を始めた当初、私なりに「とにかく日本史を幅広く取り上げてゆこう」という生真面目な使命感みたいなものに駆られ、古代から得意の江戸時代、そして明治の話題と拙いなりにも記事を次々アップしていった。何だか今読み返してみると恥ずかしかったりする訳だが、それが今に繋がっているのだから一時の恥として留めておきいたい。
 さて、今回の振り返るは江上波夫氏の騎馬民族征服王朝論について。
 私がこの話題を取り上げるきっかけとなったのは、友人が自身のブログで取り上げていたこれにトラックバックという聞き覚えのないものを送信したかっただけで、その他特に理由はなかった。実に稚拙な考えだが、トラックバック出来ることの喜びを味わいたいと、当時は色々なブログをサーフィンしたものだ。
 そんなことはどうでもいいが、今あらためて考えると、4世紀のヤマトにおいては、他の地域からの侵略による王朝交代があったとは考え難い。
 以前の記事でも述べたように、3世紀後半に造られた箸墓古墳が大規模あったということは、この時点では既に日本を統一する勢いのクニがヤマトに存在していたと考えられる。しかも魏志倭人伝に記されているようなクニの連合政権ではなく、もっと強大な力をもって広範囲を支配する国家である。
 もし、江上氏が唱える騎馬民族征服王朝論が現実に起こったのであれば、その騎馬民族は大規模な集団であり、しかも高度な文化を持ち合わせている必要がある。でなければ箸墓古墳のような大規模な建造物を造れる国家を倒せなだろうし、また後のヤマト王権につながる国家の基盤を構築することは出来ないであろう。
 今あらためて冷静に考えてみると、騎馬民族征服王朝論も当時に比べて懐疑的な視点で見ることができる。
 ヤマト王権成立の謎を解明するにはまだ時間がかかりそうだ。
 

日本史探求を振り返る 1

 この3年数ヶ月、数多の記事をアップしてきたが、それらの記事を読み返し、再検証等々してゆこうかと思う。
 まずはこの日本史探求で一番最初にアップした記事の主人公・保科正之について、現在の私が思うところ述べてみたい。

 保科正之に関心を持ち始めたのは2000年に放送された「葵徳川三代」の影響によるところが大きい。何せ徳川家光に異母兄弟がいたことすらあのドラマを観るまで知らなかったのだから。
 保科正之については会津史研究の第一人者である中村彰彦氏がタイトルもそのもの「保科正之」という新書(中公新書)を出版していたので、当時早速購入したのだった。
 私は、中村氏が著した保科正之を夢中になって読み、すっかり保科正之教の信者の如くになっていった。彼(保科正之)の将軍後見職としての実績は実に見事であり、武断政治から文治政治への過渡期を柔軟な政治姿勢で切り抜いていった有能な政治家として心から尊敬の念を抱くようになった。
 現在、私のその気持ちは当時ほど熱いものではないが、彼に対して尊敬の気持ちは抱き続けている。

 また以前の記事でも取り上げたが、保科正之を主人公とした大河ドラマを実現させるため、会津と高遠の有志の方々が運動を始めた。織田信長や坂本龍馬といった「画になる漢」は常にドラマ化され日本人の中に英雄像が完成されているが、時代劇でもほとんど登場することのない保科正之が大河ドラマの主役として登場したらどんなに画期的で、どんなに素晴らしいことであろうか。
 メディアは戦国時代や幕末、または忠臣蔵、源平の合戦、太平記という定番ばかりをドラマ化している。そうでなければ視聴率が獲れないのは分からなくもないが、歴史好きな人々にとってはそれでは物足りないはず。なので是非2010年の大河ドラマは保科正之で進めてほしい。

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