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2011年2月の2件の記事

2011/02/12

今まで読んだ司馬遼太郎作品

 司馬さんの小説をはじめて読んだのはそう遠い昔の話ではない。3年前、夏の終わりに「最後の将軍」を読んだのが最初であった。
 最後の将軍はタイトルどおり徳川慶喜を描いた作品で、司馬さんの作品にしてはめずらしく一冊でおさまっている作品である。エッセイ「街道をゆく」の中で司馬さんは「最後の将軍は私が若いころに書いた作品で云々。」と述べているので、この作品は初期の頃の作品であろう(とはいっても「龍馬がゆく」よりは後の作品であるようだ。)。
 4~5年前までは歴史小説をさげすみ、学術的な新書系の本を馬鹿の一つ覚えのように読んでいた私は、司馬さんの作品にふれて大きなインパクトを受けた。目から鱗とでもいうのだろうか。新書系の書籍では偉人の功績を「何某は、どういうことをこのような時期にした。」というような文字の断片でしか表記していないのだが(学者が記すのだから当然と言えば当然である。)、司馬さんの作品に登場する歴史上の人物は作品の中で一個の人格を持ち、生きいきとしている。歴史上の人物が人格をもって描かれているのだ。私の歴史小説に対する偏見は司馬さんによって解氷された。
 とはいっても、やはり歴史小説である。史実という部分では装飾がなされ、小説をあたかも史実であるような受け取り方は危険である。司馬さんを心酔する人たちは「司馬史観」というものを持っている。そして私も司馬史観を支持する一人である。しかし、その司馬史観を絶対的な歴史観としてとらえてしまうと、大局的な視野で歴史がみれなくなる。であるから、史観そのものは個々が持っていてもよいが、その史観を盾にして対局的にある史観を論破しようという考え方はやめた方がいいし、私はしないようにしている。それをしてしまうと史実が見えてこないからだ。史実は多くの論証が複合的に重なり形成されると私は信じている。

 話が司馬さんの小説から逸れてしまったが、最後の将軍は私がはじめて読んだ作品であることは先にも述べた。弁舌において比類なき才を持つ慶喜を見事に描いた作品である。しかし、自身の理論にこだわりすぎるあまり、最後は賊になることをおそれ(水戸学の影響か)謹慎してしまう。徳川慶喜を性格的な部分で焦点をあて、それを見事に描写したのがこの作品といえるだろう。
 最後の将軍の次は、長編小説「翔ぶが如く」を読破し、そして「坂の上の雲」、さらには「菜の花の沖」と司馬作品でも長編のものを読破していった。
 以下、読んだ作品を読んだ順番に記してみたい。()内は主人公

・最後の将軍(徳川慶喜)
・翔ぶが如く(西郷隆盛・大久保利通)
・坂の上の雲(秋山真之・秋山好古・正岡子規・明治国家)
・菜の花の沖(高田屋嘉兵衛)
・花神(大村益次郎)
・殉死(乃木希典)
・覇王の家(徳川家康)
・豊臣家の人々(秀吉の親族や養子たちの短編小説集)
・世に棲む日日 第3巻まで(吉田松陰・高杉晋作)
・幕末(幕末に生きた暗殺者たちの短編小説集)
・酔って候(山内容堂 他3作品の短編小説集)
・竜馬がゆく 第7巻のみ(坂本龍馬)
・歳月 上巻途中(江藤新平)

 こんなところだな。幕末ものが圧倒的に多いのが私の嗜好なのかもしれない。有名な作品「関ヶ原」や「播磨灘物語」は読んではいない。

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2011/02/11

司馬遼太郎 肥前の妖怪

 今、司馬遼太郎の作品「歳月」を読んでいる。この作品は明治初期の司法卿江藤新平の人生を描いた作品だ。ところで江藤の出身藩である佐賀藩だが、幕末期においても尚、藩士に志士活動を許さず、葉隠という保守的な武士道を強要し、時勢を傍観していた。それが原因で維新回天に乗り遅れ、薩摩と長州に維新の主導権を握られてしまう。そのことを口惜しく思う江藤は焦るが、知恵をしぼり肥前佐賀藩の枠を越え自らの裁量で動ける状況をどうにかこうにかつくりつつある。というところまで歳月を読み進めている。
 ”幕末期においても尚、藩士に志士活動を許さず、葉隠という保守的な武士道を強要し、時勢を傍観していた。”
と記したが、これには訳がある。幕末期、佐賀藩の隠居鍋島閑叟が葉隠以外にもこんな思想をもっていたからだ。
 「勤王亡国、佐幕亡国」
 尊王攘夷思想は非現実的であり、国を滅ぼす。また幕府という老朽化した政治機構が続けば帝国主義により侵略をうけ、日本全土が欧米列強の掠奪に遭うのは確実である。だから勤王も佐幕も亡国なのだ。
 と司馬さんは小説「肥前の妖怪」で鍋島閑叟に言わせている。史実において閑叟がそういったたぐいのことを言ったのかは分からないが、事実、佐賀藩が幕末期にとった行動をみるとそういう閑叟の思想によって動いていたとしか考えられない。さらに閑叟はあまりにも天才すぎた。長州の藩主親子のように「そうせい」と言って志士たちを活発に働かせるような軽挙はせず、というよりも、自身の才があまりにも長けているがゆえに志士など肥前にはいらず、自身の思惑によって動けばいいと考えていたのだろう。
 佐賀藩の背骨ともいえる葉隠をこの小説の中で閑叟は世にあわずと批判している。なぜなら葉隠の侍は武士でなく亡霊であるというのだ。要は200年近く前の装備で戦えるのか?それでも武士と呼べるのか?と痛烈に批判しているのだ。であるから近代兵器と近代兵制により戦える武士を育てようと試みた訳である。
 佐賀藩は保守的な土壌であるにもかかわらず、閑叟という天才が独裁者であったことで、装備、兵制、人材は維新回天の時期に最強を誇っていた。最強であるからこそ日和見であったにもかかわらず薩長土”肥”に加わることができたのであろう。
 明治期、肥前出身の英傑たちは薩摩・長州の志士あがりの策謀により淘汰されてしまう。志士活動歴が少ない彼らの不幸であろう。この不幸は天才でありながら、残念なことに武家貴族であった閑叟の日和見によって生じた被害であり、閑叟が戦国気質の大名であったならば佐賀藩士たちは維新回天の主役になれたのかもしれない。
 最後に、思い出したこと。かなり前に私が江藤について記事をアップしているので、よかったら読んで下さい。

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