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2010年11月の3件の記事

2010/11/27

¨華¨について

 司馬遼太郎さんの書籍を読んでいて気づいたことがある。中華の¨華¨が彼ら曰わく唯一の文明という意味であり、その¨華¨の外にある日本や西欧などは蛮夷であるというのだ。ゆえに”華”と称する彼らには外交という概念がない。彼らにとって外交とは朝貢であり、冊封でしかないのだ。
 14世紀末に成立した李氏朝鮮はそれを積極的に受け入れ、¨華¨の枝に徹してきた。さらに言えば、中華思想を体現することにより従属姿勢を示したと言える。
 昨今、私たち日本人は中国や北朝鮮の態度を見るにつけ憤りを感じている。確かに私たちの価値観からすれば彼らは排他的であり、利己的でもある。しかし、260年もの間国を閉じていたにもかかわらず、ひとたび維新が成ると文明開花の名のもとに西欧文明をふんだんに取り入れて世界の舞台に躍り出た私たちの価値観から彼らを理解しようとするのは非常に難しい。
 別に彼らが悪く、我々が正義だと言うのではない。大局的にみれば歩んできた歴史が違い過ぎるのだ。
 ¨華¨を唯一の文明とする彼らは儒教を国教化することで、その考え方がより固陋になってゆく。朝鮮も然り。合理主義でもある西欧文明とそれを受け入れた日本は彼らにとって蛮夷であることは先にも触れたが、その蛮夷が国際社会で正義を示そうとすれば彼らは自らの儒教思想を虚飾し、固陋なまでに正当化する。¨華¨は時代の流れが変化しようとも¨華¨でなければならないのだ。
 私たちが感情論で北朝鮮や中国をみようとすれば本質はみえてこない。まずは歴史を知り、そこから大局的に彼らをとらえようとしなければ、問題の解決は難しくなるだけだ。
 中華思想を今も標榜する中国とその枝に咲いた虚飾の華北朝鮮が目の前の現実として存在してることを私たちは認識すべきであろう。李氏朝鮮や中華帝国は日本人的価値観で判断すれば厄介な隣人であるが、先人たちは彼らと渡り合った訳で、先人の足跡を範として難題を解決してほしい。

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参考書籍 この国のかたち三 司馬遼太郎

2010/11/12

御巣鷹の尾根

 先月下旬、学生時代の友人と共に御巣鷹の尾根に登ってきた。
 ”あの”御巣鷹の尾根である。
 1985年8月12日、日本航空123便羽田発伊丹行きが30分近く迷走の末、御巣鷹の尾根に墜落した。墜落により落命した方の数は520人、大量輸送時代に起きた悲劇である。
 墜落から一夜明け、テレビのブラウン管には原形をとどめていない123便の姿が映し出されていた。当時11歳だった私だが、その姿はいまだに残像として脳裏から離れることはない。
 墜落原因は後部圧力隔壁破損による尾翼の欠損と油圧系統の切断により操縦不能に陥ったためだと言われている。

 話を登山に戻したい。
 登山に備え、前日の夜から麓の上野村に宿泊した。宿は事故当時、朝日新聞の記者たちが前線基地としたI旅館である。
 I旅館で一泊し、翌朝9時過ぎに尾根に向かった。車では御巣鷹の尾根まで残り数百メートルの地点までゆける。ただそこから先は急峻を登らなければならない。
 30代の男が二人して息を上げながら急峻を登ること30分、目の前に墓標が現れた。さらに登ると墓標の本数が増えてゆく。尾根が墓標に覆われている感じがした。悲しい光景であった。
 急峻を登りきり視界が開けると『招魂の碑』が見えてきた。ここで空の安全を祈願し手を合わせる。更に登ると高浜機長、佐々木副操縦士、福田機関士の墓石が見えてきた。操縦不能の123便をどうにか羽田に着陸させようとした3人の墓石である。
 彼らを誰が責められようか。操縦不能の機を30分も飛行させたことは神業と言っても過言ではない。
 佐々木副操縦士は享年39歳、今の私と3歳しか違わない。佐々木さんの墓石の前で手を合わせる。その時私の目には熱いものがこみあげた。佐々木さんの苦闘をこのボイスレコーダーで聞いているから、それをここで思い出してしまった・・・。
 この尾根には番人がいた。番人は私たちが何を聞きたいかを察しているかのようで、色々と教えてくれた。そして123便が飛んできた方向を指でさし、私たちに尾根に激突した123便の顛末を話してくれた。番人も事故の翌朝にここへ駆けつけたのだろうか?今となっては知る由もない。
御巣鷹の尾根

 この登山で唯一撮影したのが上の画像である。
 123便が画像の方角からこの尾根に向かってきた。その時速は260ノットというから新幹線よりもさらに早い速度である。
 260ノットで尾根に激突した直後に123便の後部だけは折れ、山腹をすべり落ちたという。
生存者の証言では激突直後に数十人の乗客が生存していた。救出作業が事故から2〜3時間後におこなれていれば生存者は4人以上であったはずだ。機体後部から発見されたある女性の遺族は、遺体が綺麗であり、おそらくは事故後数時間は生きていたと思うので救出が翌朝になったことが悔やまれてならないとコメントしている。

 御巣鷹の尾根をあとにする時、私の友人は言葉少なくなっていた。そして
『俺たち、この山に登ってよかったのかな・・・。』
と呟いた。
 ブラウン管を通じてだが、リアルタイムで事故を知る私と友人には衝撃的な登山であった。

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2010/11/03

奈良へ (石舞台古墳)

 石舞台古墳は飛鳥時代の実力者・蘇我馬子の墓所と言われている。実際に古墳を目の当たりにし、実力者の墓所という威容に満ちたものを感じた。

Photo
 上の画像が石舞台古墳。この大きな石の下に石室(空洞)が存在している。

 ちなみに、この石舞台古墳は”伝”蘇我馬子の墓所というだけで、実際には誰が埋葬されていたのかは明らかでない。もし、この古墳が馬子の墓所ではなく下級貴族のものと判明したら、私は『威容に満ちた』などと表現しただろうか?馬子の墓所という先入意識がそう思わせるのではないだろうか?
 など理屈っぽく考えてしまう。余談までに。

 石室内は真夏(その日は梅雨明け間もない酷暑であった)にもかかわらず風通しがよく、快適な室温が保たれており、そこが遺骸を安置する場所として造られたことが分かる。
 遥か1400年前もいにしえに造られた古墳だが、石室内の快適さによって当時の人々の英知を感じることができた。

Photo_2

Photo_3
 上2枚の画像は石舞台古墳石室入口と石室内部。何十トンもの石が積まれており、造る時は命がけであったと想像してしまう。

 最後に産経新聞にこの石舞台古墳について読みやすいコラムがあったので、紹介して終わりにしたい。以下産経新聞より引用。

 

◎桜の石舞台古墳 馬子が夢見た桃源郷?
 
 春の宵に桜が美しい石舞台古墳。飛鳥はいま、一年で最も華やかな季節を迎えている。

 自分の墓が観光名所になったとしたら…。複雑な気分かもしれない。どーんと無防備に存在感を示す巨石は、かつて棺を収めていた石室の上部だ。下には大空間が広がり、最も大きい天井石は推定77トンというから、墓の主の強大な権力が伺える。築造年代(7世紀前半)などからも、飛鳥時代の権力者、蘇我馬子の墓とされている。

 「発掘調査で築造のために破壊された群集墳が西側に確認されました。そんなことができる人物は限られる。さらに近年、北東の丘陵で大きな柱穴や小型の建物跡も見つかり、『日本書紀』の記述にも合う。全体からみて馬子の墓といっていい」と和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授。

 4代の天皇に仕えた大臣(おおおみ)、馬子は間違いなく大物政治家だが、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺した悪役イメージが定着している。一方で、積極的に仏教を招来した庇護(ひご)者との評価も。

 おもしろい話を聞いた。『日本書紀』に馬子は桜ならぬ「桃原墓(ももはらのはか)」に葬られたと記されている。なんと古墳近く、馬子邸があったとみられる島庄遺跡の池跡から多数の桃の種が出土した。しかも、花を観賞したケモモではなく食用の桃という。道教で桃は不老不死の果実とされ、日本でも邪気を払う力があると信じられた。「池の周辺に桃を植えたのは道教の神仙思想に基づくのでは」と和田名誉教授。

 馬子が夢見たのは桃源郷? 飛鳥には、想像をかきたてられる不思議な力が満ちている。

 産経新聞 平成22年4月4日

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