小説『豊臣家の人々』
今回の記事も私の話から始めてしまうが、最近電車での通勤が多く、その上乗車時間が長い。さらに慣れない土地での仕事は非常にストレスも溜まりやすく、帰宅時にはグッタリしている状況だ。
そんな中、前回の記事でも話したように、せめて通勤・帰宅時に楽しみでもあればと思い、司馬さんの作品を読むことにした。それがタイトルの『豊臣家の人々』である。
豊臣家の人々は転職前に読み続けていたものを、再び読みだしたもので、読み進めてゆくうちに2ヶ月前に読んでいた内容が思い出されてゆき、さらには私が”豊臣家の人々”を俯瞰しているような感覚になるほど熟読したので、わずか3日の日数だけで読み終えてしまった。読書のスピードが遅い私にとって、約300ページ近くを通勤・帰宅・就寝前の3日で読み終えるということは、その内容がそれだけ魅力的なものだということが言える。
何だか司馬さんの作品のように回りくどい始まりになってしまったが、そろそろ本題に移りたい。
『露と落ち露と消えぬるわが身かな浪花のことは夢のまた夢』
豊臣秀吉の有名な辞世の句である。最後の”浪花のことは夢のまた夢”という部分を読むと、秀吉自身が本能寺の変以降そのものを”夢”と認識していたことが理解できる。司馬さんはこの”夢”の主宰者秀吉を取り巻く人物を、この作品で見事な人間描写を駆使して描いている。さらに言えば、彼らの栄華の部分ではなく、陰鬱な部分を濃厚に描いている。それこそが、秀吉の”夢”に翻弄された”豊臣家の人々”であり、司馬さんが読み手に伝えたかった部分ではないだろうか。(少なくとも私はそう感じ取った。)
そんな中で、秀吉の正妻寧々と異母弟の秀長に関しては、自己を認識した有能な人物として描き、逆に異母妹の旭に関しては新興貴族”豊臣家”の被害者として描いている。
豊臣政権尾張派の母堂として君臨し、時勢の流れを巧みに読み取る寧々、その寧々が事実上の主宰である尾張派と、茶々を担いで政権実務を握っている近江派の調整役を任されている秀長の憂鬱、さらには秀吉の権謀の道具として不幸な人生を歩む旭、作品の中で独特の司馬史観が彼らに息吹を与えている。見事だ。
とここまで記してたが、何だか疲れてしまったので、続きは気が向いたら更新したい。ご容赦のほどを。
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