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2009年5月の7件の記事

2009/05/31

箸墓古墳の卑弥呼陵墓説についての続報

 昨日、箸墓古墳が卑弥呼の陵墓である可能性が高いと報道がされたが、なぜか考古学に関する報道が多い毎日新聞が沈黙していた。
 毎日新聞といえば、この一件(http://www9.atwiki.jp/mainichiwaiwai/)により報道の信頼性を失墜させ、各方面で忌み嫌われている新聞社である。しかし、私はその問題と毎日新聞の考古学に関する報道は分離して考えているので、今回の箸墓古墳に関してどのように論評してくるのかと期待して待っていた。
 そして先ほど、Yahoo!ニュースに毎日の記事がアップされたので、以下その記事を引用したい。 

箸墓古墳 歴博が「卑弥呼の墓」説 築造時期などから

 国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240~260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。

 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。

 歴博グループは、放射線炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240~260年を導いた。

 発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」と述べた。

 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。

 中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。

 毎日新聞 5月31日

 どうやら毎日新聞は慎重論である。以前から邪馬台国近畿説に関し、慎重な論評を続けていた毎日の性格を考えれば当然かもしれない。
 読売や産経は比較的近畿説関連の発見に肯定的であるのだが、毎日は畿内説に関して論評そのものが面白くなさ気であるように思う。いや、実際に面白くないのかもしれない。今後この箸墓古墳や纏向遺跡などで歴史的な発見がされた場合、毎日がどのように報道するのか、ある意味楽しみだ。

 このように、新聞各社によってその立場や論調が違うことは、多くの意見を出し合うことになり、それにより議論が盛んになる訳なので、今後も各社とも独自の論調で”邪馬台国論争”を報じてもらいたい。

 最後に、前回の記事でもお願いしました邪馬台国に関するアンケートですが、まだ続けていますので、ご協力よろしくお願いします。


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2009/05/30

箸墓古墳

 まずは、昨日各メディアで報道された『箸墓古墳』の築造年代判明に関するの新聞記事をここで紹介したい。

箸墓古墳、240~260年築造 卑弥呼の死亡時期と一致 炭素年代で判明

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。

 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240~260年の範囲に相当したという。

 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。

 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

 産経新聞 5月29日

 この見出しをご覧になって、『死亡時期と一致』という文言から純粋に「箸墓が卑弥呼の墓」だと思われた方いますか?
 私から言わせれば、実にいい加減な見出しだと思う。
 卑弥呼が死亡した時期を記しているのは『梁書』と呼ばれる中国の歴史書で、6世紀に編纂されたものである。300年以上も前のことを、克明に記せるかどうかということは、疑わしい限りであり、少なからず編者の創作も含まれているだろう。
 また、炭素年代測定法によって、箸墓の土器がその年代のものだと判明したというが、その時代に崩御された倭王(もしくは有力豪族)は卑弥呼に限らないはずだ。
 そんなことを言い出したら切がないので止めるが、曖昧な証拠で箸墓を卑弥呼の陵墓と推測するのは、何だか腑に落ちない。
 しかし、私自身は邪馬台国畿内説支持者であり、その理由はこの記事(http://j-history.cocolog-nifty.com/misakijapanhistory/2008/11/4-6690.html)で述べている。
 結局、邪馬台国論争を決着させるには、その陵墓の埋葬者が魏に遣いを送った証拠(親魏倭王の金印)でも発見されない限り、ケリをつける確証にはならないであろう。

 今回の分析結果や報道に関して、少々懐疑的な意見を述べてみたが、素直に読み取れば、これらが卑弥呼と邪馬台国のナゾを解く鍵になることは間違いない。
 また、日本書紀には箸墓古墳の被葬者として、『倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)』の名が記されており、その存在は魏志倭人伝に伝わる卑弥呼に類似している。
 肯定的に考えるのであれば、魏志倭人伝や日本書紀に記されている内容の裏づけが、最新の技術によって解明され出したと言えるだろう。
 現在、纏向遺跡の本格的な調査も進んでおり、近畿説にとって追い風であることはいうまでもない。

 最後に、邪馬台国に関するアンケートにご協力をお願いします。

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2009/05/27

幕末関連アンケート

 選択肢が少なくて申し訳ないのですが、以下のようなアンケートを作成しました。
 幕末という激動の時代に活躍した藩で、特に『この藩の活躍が好き』と持っているものを以下の選択肢から選んで下さい。
 会津のような佐幕的な藩、長州のような急進的な藩、佐賀・土佐のような有能な逸材を輩出した藩、宇和島藩のような開明的な藩、自身が『これだ』と思うものを選んで下さい。
 ご協力お願い申し上げます。

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2009/05/24

小説『殉死』

 著者の司馬遼太郎氏は、自身が太平洋戦争に出征し、陸軍戦車連隊に所属していた経験からか、日露戦争後から終戦に至るまでの期間を”忌まわしい時期”というような感覚でとらえている。そして、その忌まわしい時期の思想的シンボルを乃木式の軍人精神に求めた感もある。いや、乃木の殉死そのものを忌まわしい時期の出発点として考えていたのかもしれない。
 ゆえに司馬氏が描く乃木希典像というものは、必然的に『愚』なるものとして結ばれている。それをダイレクトに受け入れることは、客観性を失い、偏った視点を持つにいたるだけであろう。そうした理由から、小説『殉死』を読み進めるにあたり、出来るだけ客観性を保とうと心掛けた。

 さて、小説『殉死』の話に移る。
 この小説は、陸軍大将乃木希典の一生を描いた作品である。冒頭に司馬氏は小説というよりも随想として読んでほしいようなことを記している。
 確かに内容は司馬氏の随想である
 司馬氏は乃木の軍事的才覚の乏しさを指摘し、世間一般での評価は作り上げられたものだと断じている。私自身も、西南戦争や日露戦争における乃木の軍略、戦術の類を見ると、司馬氏同様の考えに至る。しかし、一人間として乃木を考えた場合、司馬氏のいうような『愚』の存在ではなかったと思う。
 乃木は指揮官としての才能は乏しかったし、現に旅順でそれを露見してしまった。では人間としての乃木はどうであろうか。私からすれば軍人が持つべき規範(忠実さ、無私、身のこなし等々)は抜群であったと思うし、また、激動の時代に生まれていなければ、有能であったと評価されていただろう。おそらく、江戸期の思想家や歌人として乃木が生まれていたならば、司馬氏も彼を高く評価したに違いない。

 さらに私が乃木を素晴らしいと思うところは、ドイツ留学から帰国した後に自身のスタイルを一変させたことだ。
 私もそうだが、人間というのはある部分で自身を卑下し、それを変えたいという変身願望がある。しかし、欲求や本来持つ性格などから、それを遂げることは難しい。乃木は1年の留学中に思うところがあったのか、自己を変革を決意し、実際に実行する。それには強靭な精神力が必要であろう。乃木はその精神力を持っていた。
 それに、欲求という部分でも、常に無私を心掛けた。司馬氏はそのような乃木の姿を単なる”自己満足”としてとらえたのかもしれないが、その一言で片付けてしまうことは乃木に失礼であるし、実際に現代人である私たちが乃木の生き方や自己変革を実践してみろと言われれば、相当困難であるはずだ。

 乃木希典、軍隊の指揮官としては凡庸であったかもしれないが、生き方やその思想(司馬氏曰く陽明学の影響を色濃く受けた思想)は人間として一流であり、そこには『美』をも感じる。
 乃木に関しては、もっと多角的な視点で評価すべきであると私は思う。

 最後に『小説『坂之上の雲』で無能司令長官と描かれた乃木希典は本当に無能だと思いますか』のアンケートにご協力くださった方、ありがとうございました。

 結果は『無能極まりない』が、それ以外を6票上回り、やはり乃木=無能という考え方が多いことに気づかされました。
 無能と評価された方も、それ以外の評価をされた方も、それぞれ思うところがあったのでしょう。乃木さんのように評価の分かれる人は、歴史上そう多くないはずです。そういった意味でも乃木希典という人物は、歴史を語る上で重要な人物であることは確かなようです。

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2009/05/21

小説『花神(下巻)』

 長州が幕府軍に勝った。
 兵力の差はおよそ20倍、その軍勢に長州は勝った。
 数字の上で考えれば、大軍を率いて攻め込んできた幕府軍が明らかに優位である。しかしメンタルという部分で幕府軍は長州に劣っていた。
 幕府軍の構成は諸藩から集めた軍勢で、要は烏合の衆である。烏合の衆では戦いの目的意識を共有することは実に難しい。一方、長州の軍勢は『郷土防衛』という共通の認識を持ち戦っている。そこが幕長の差であったのだが、そこだけの差では戦争には勝てない。勝つためには戦術や戦略といった高等技術も必要となってくる。その部分を担ったのが村田蔵六であった。
 維新後、桂小五郎改め、木戸孝允はこんなことを語っている。
 「維新は癸丑(ペリー来航の嘉永六年)以来、無数の有志の屍の上に出できたった。しかし最後に出てきた大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就は難しかったに違いない。」
 まったくの正論である。
 私たちは、幕末期を振り返るときに、思想や政略といった華々しい部分に焦点を充ててしまう。実際私もそうである。しかし、その影には技術的な部分を補完するための知識で維新という革命を支えた人物がいたことを忘れてはならない。
 『花神(下巻)』では、司馬氏独特の史観によって、幕末維新の『軍事技術』という部分をクローズアップし、その代名詞ともいえる村田蔵六を中心に、幕末の軍事技術がどのようなものであったのかを描き出している。

 幕末に活躍した志士たちに共通する熱気というか、その心意気というか、それぞれの『気』が一つの塊を成し、維新に向かって邁進したことは多くの人たちがしるところである。しかし、その熱気は『狂気』と表裏一体であり、それを不用意に刺激すると暴走してしまう危険も孕んでいる。
 狂気とは、戦いの場所において加熱するものだと思う。少なくとも私はこの作品を読んでそう感じた。その中に技術的思考ともいうべき『理性』が過分に入り込んでしまうと、中和させるのではなく、灰神楽が立つことが如く手のつけられない状態になる。その情景を司馬氏は、上野戦争における蔵六と薩摩藩士・海江田信義との関係で描き出している。見事に描き出しているが、ここに記すのが面倒なので、興味のある方はこの小説を読んで頂きたい。
 この上野戦争における経緯で、最終的に蔵六は命を落とすのだが、私は蔵六の落命により維新後の新たな闘争が始まったような気がした。その戦いは西南戦争で結実するのだが、その西南戦争でさえも蔵六は予言していたのだから、何と表現してよいのか、実に奇異な人物だと不思議な気分になった。

 この小説を読んで、私は蔵六に好意を持つには至らなかったが、彼が果たした役割、そしてその重要性については高く評価したい。

 最後に、司馬遼太郎氏は小説家であって、歴史学者ではない。ゆえにその主張の拠所は作家として別の場所から歴史を俯瞰することができる客観性であろう。ということは、司馬氏だけの主張を歴史の真実と受け止めることは、少々危険のような気もする。歴史をたのしむのであれば、司馬史観に依存するのも悪くはないが、学問として探求するのであれば、司馬史観以外にも視野を広くすることが重要でないかと、ふと思った。

 長々と理屈っぽい評論になってしまったが・・・この作品、面白かった♪

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2009/05/17

小説『花神(中巻)』

 上巻の最後で、ナショナリズムという意識により長州藩雇士となり、郷土へ戻った蔵六だが、蔵六が郷土に戻った時期(文久年間以降)というのは、長州藩が激動の幕末の主役へ躍り出たことは今更説明するまでもない。そのような時期と同じくして帰郷したということは、蔵六自身が意識していなくとも、激動の時代に必要とされた存在であったといっても過言ではないだろう。

 さてこの中巻だが、攘夷というエネルギーによって驀進する長州藩の動きにスポットをあてながら、そこに属する蔵六を描き出すような展開になっている。また、おなじみの鳥瞰的手法が多々用いられ、蔵六の話以外にも幕末長州そして幕末日本の動静を司馬氏独特の史観から考察しており、歴史好きには満足のゆく構成となっている。幕末という時代が好きな私にとって、興味深く読める内容に仕上がっている。

 蔵六は攘夷論者であった。しかし『夷敵を神州(日本)から追い払う』という抽象的な攘夷論ではなく、作中の文章を借りれば
『日本中に攘夷という大発熱をおこさせることで、日本の体質を変える』
と考えている攘夷論者であった。また、攘夷を実行する上では、夷(西洋文明)の技術を吸収し、それを用いて攘夷を実行しようと考えているあたりは、蔵六が志士と呼ばれる連中が唱える攘夷とは一線を画していることがうかがえる。

 後半ではついに幕府と長州の戦い(幕長戦争)の戦端が開かれる。蔵六(この時期に桂小五郎の推薦により、上士身分となり、大村益次郎と名乗る)は総司令長官として、この戦いの戦略を担うことになった。
 得意のオランダ語によって、西洋の軍式を隅の隅まで理解していた蔵六は、百姓町人を『戦いの一員(兵士)』に組み込み、その連中に新式銃であるミニェー銃を携えさせ旧式装備の幕軍と対峙させる。これが後に 『階級社会の崩壊』につながり、武士の特権を奪うことにつながってゆく。

 この中巻で人間・村田蔵六を垣間見ることができるシーンは、シーボルトの娘イネと、妻のお琴との会話の場面だけかもしれない。 蔵六に限らず、人間というのは恋や夫婦生活において人間らしさをかもし出すことが多い。小説の世界ではあるが、作中で機械のように冷たい蔵六が、血の通った人間の姿を見せるのはこの二人にだけである。

 最後に、くどいようだが、この作品は司馬氏が得意とする鳥瞰的手法により、時代そのものが主人公となり、そこから人物を照らし出す作風となっている。閑話休題しても一級品の作品を仕上げる司馬氏の才能は、さすがの一言である。

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2009/05/10

小説『花神(上巻)』

 『花神(かしん)』とは中国において花咲爺という意味である。(小説『花神』解説より)
 花咲爺というタイトルを付したのだから当然、作品の内容と密接に関係しているのは間違いない。 そのことに関連し、著者の司馬遼太郎氏が『革命』というものについて以下のように記している。

 

大革命とは、思想家が精神的支柱を作り、策略家が押し進め、技術者が仕上げることである。

 この考え方から読み取れることは、仮に幕末維新を大革命と定義すると
1.思想家が精神的支柱を作り
については、長州藩においては吉田松陰がこれに該当し
2.策略家が押し進め
については、蛤御門の変で壮絶な最期を遂げた久坂玄瑞や、幕長戦争で奇兵隊らを指揮して幕府軍を破った高杉晋作がこれに該当し

そして
3.技術者が仕上げること
については、戊辰戦争において、その優れた軍略を用い、新政府軍に勝利をもたらした『花神』の主人公である村田蔵六が該当する。(新政府で参議として活躍した桂小五郎もここに該当するだろう。)

 吉田松陰が種を蒔き、久坂や高杉が水を与えて木の根を伸ばし、最後に蔵六がその木に花を咲かせる。
 これが長州藩における幕末維新の流れであり、蔵六が担った『花神』としての役目であった。

 小説『花神』とは、激動の幕末に生きた村田蔵六と、蔵六を取り巻く人々を描いた壮大な長編小説なのである。

 話を村田蔵六に移す。
 幕末の蘭学者で、維新政府の軍務を担った人物として有名な村田蔵六であるが、彼が元禄時代に生まれていたとすれば、無愛想な村医者で一生を終えたであろう。しかし、時代が蔵六を必要とした。(そういっても過言ではない。)
 黒船が江戸湾に現れて以来、西洋文明に対する日本人の畏敬の念は、それ以前とは比較にならないほど広がり始めていた。特に西国雄藩の藩主たちは、その文明を受容し、かつ自らもその産業を興そうと躍起になる。
  村田蔵六は、ペリーショック以前から大阪の適塾で蘭学を学び、西洋の文明というものを書物を通じて知り得ていた。その蔵六を時代が必要とした。
 宇和島藩藩主の伊達宗城は、藩の独力により蒸気船を建造しようと試みる。しかし、西洋の技術を導入するためには、西洋の文字を読める技術者が必要であった。そこで白羽の矢に立ったのが村田蔵六であった。
 医学と蘭語の知識しかない蔵六だが、未開の分野である蒸気船設計を宇和島の町人で司馬氏曰く『天才』である嘉蔵(かぞう)と共に見事成功させる.ここでのストーリーは、知識欲旺盛な日本人が、新しい文明に対して試行錯誤しながら、それを自らのモノにしていく過程を垣間見ることができ、とても面白い。
 また、シーボルトの娘イネとの恋や、かつてこのブログでも紹介した二宮敬作との出会いによって、冷たい人間像で描かれている蔵六が、人間らしさをみせるのは、ここ宇和島でのシーンの特徴であろう。

 開国、新しい文明、そして革命とわずか15年の間に激動の時代を走り抜けた日本。その時代に必要とされ、その時代と運命を共にした村田蔵六の人生前半を描いた『花神(上巻)』は、一人の人生でなく、長い眠りから覚めた日本の激動も知ることが出来る名著である。
 幕末の技術革新について興味のある方には、オススメの一冊だ。

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