小説『劒岳<点の記>』
6月に映画『劒岳<点の記>』が公開されるが、それに先立ち、新田次郎氏の原作本を読んだので、今回の記事ではその感想とストーリーを少々紹介したい。
小説を読み進めるにあたり、作中で語られる日本史に関することについては、まがりなりにも『通』を自任しているので、日本軍軍人の独特の考え方や、奈良朝以降に盛んになる修験道についてなど理解しやすい部分であった。
反面、それが測量や登山の話になると知識が皆無であるために難渋したが、インターネットのこのサイトを発見し、専門知識に関してお世話になったことで、知識ゼロの私でも少しは理解しながら読み進めることが出来たのだと思う。
この本に登場する人物のほとんどは実在する人物であり、著者の新田次郎氏は編集者の方が集めた多くの資料を基にしつつ、自ら独自の視点によってこの小説を書き上げていったようだ。
物語は日露戦争直後の明治39年から始まる。明治維新から40年、陸軍の測地測量部のメンバーは、正確な地図を作成するために日本中のあらゆる場所で測量を手掛け、三角点とよばれる標石を埋設してゆく。日頃私たちが日本中を何気なく歩いていると、ふと目にしたことがあるはずの三角点は、明治以降に測地測量部の手によって埋設されたものである。
明治39年、未だ三角点が埋設されていない日本地図最後の空白地点があった。そこに三等三角点埋設の計画がなされる。その場所は、前人未到の劔岳山頂。埋設のために現地へ向かうのが物語の主人公柴崎芳太郎であった。
劔岳登頂が計画された当時、民間人の手により設立されたばかりの山岳会(現日本山岳会)が、柴崎らと時を同じくして、前人未到といわれる劒岳への登頂を目論んでいた。
『陸軍測地測量部が民間の山岳会ごときに遅れをとってはならない』
と柴崎は上官である少将や大尉からプレッシャーをかけられる。測量と登頂、この2つを同時におこなわなければならない柴崎の重圧と疲労は想像を絶するものだったであろう。
翌年、劔岳山頂を目指し、測量偵察が一段落すると、劔岳への登頂に挑むことになった。早月尾根、別山尾根からの登頂を試みるも失敗。この四方絶壁に囲まれた頂に立つことは無理なのかと思われたが、明治40年7月12日に以前から柴崎と案内人の長次郎が企図していた劔岳東側大雪渓からの登頂を敢行、急勾配の雪渓と断崖絶壁を攀じ登り、ついにの劔岳登頂に成功した。

柴崎ら測量隊が登攀した劒岳雪渓。この勾配を一気に1000mも登り、さらに頂上へゆくために絶壁を攀じ登った。(画像はサイト『山のページ』さまより拝借いたしました。)
大きな地図で見る
この時、彼等が通ったルートは、Googleマップの剣岳右にある剣沢雪渓から現在長次郎谷と呼ばれている急勾配の大雪渓を一路登攀し、絶壁の剣岳を攀じ登って山頂に達したルートである。現在の一般登山ルートは前劒から『カニのタテバイ』を登攀するルートになっている。
話を小説に戻す。
ところが、前人未到であったはずの頂上に、何と古びた錫杖の頭と剣の先が置かれていたのだ。
※発見されたそれらの画像はこちらからご覧になれます。
奈良朝時代(700年代後半)の立山信仰では江戸期のような「劒岳は地獄の針の山、決して登ってはならない」という概念はなく、剣岳も神の権現として修験者の信仰の対象であった。この時の山頂での発見がそれを証明したことになる。
念願であった劒岳の登頂は成功した。それは信仰目的以外での登頂としては史上初であった。しかし、柴崎は不本意であった。予定の三等三角点も登攀が困難を極めたために資材の運搬ができず、正式記録が残らない四等三角点で設置せざろえなかったためだ。(点の記は三等三角点を埋設することで残るのです)
また、初登頂であることを期待していた軍部も、それが信仰登山といえども既に達せられていたことで、今までのイケイケムードから一転、実に冷ややかな態度で柴崎に接した。
しかし、日本山岳会の小島鳥水から送られた
『初登頂おめでとうございます。』
という電報が、その虚しさを埋めてくれる数少ないものであったと新田氏は記している。
山の道を極める壮絶さを真に理解してくれていたのは山岳会であったのかもしれない。
内容的には専門用語が頻出して、やや難しい内容になっていますが、6月に公開される映画を観に行かれる予定の方には、この小説を読んでおくことをオススメします。
小説『』の購入はこちらから
↓
劒岳―点の記 (文春文庫 )
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

















最近のコメント