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2009年3月の2件の記事

ブログ開設4周年

 2005年からもう4年も経つのかと思うと、早いようなそうでないような・・・。まあ正直どちらでもいいって訳で、それよりも世の中の変化に比べて自分は変化も成長もしていないと恥じ入るばかりである。

 あぁそんな話題じゃなかった。日本史探求の話題。
 今日で開設から4年を迎える。アクセスして下さったみなさんと、私に歴史を探求できるような有閑な環境と与えてくれた人々にあらためて謝意を表したい。ありがとうございます。

 さて、日本史探求の記事をカテゴリー別に検索してみると、平安時代から戦国時代の記事が極端に少ない。これは私の関心事を如実に表している。
 物事の起源や時代の変革期、合理的な思想に興味を抱く私が目を向けるのはどうしても古代から奈良にかけてと、江戸から近代にかけての時代になる。もちろん中世は変革の時代である。支配階層の変化や日本人の倫理観、生活様式が確立された時代こそ中世であった。
 しかし中世は遠からず近からずの時代のため、歴史そのものが漠然としており興味が持てないというのが現在の心理である。どうしたって鎖国によってオリジナリティが形成され学問や文化が成熟した江戸時代や、新しい国の在り方を模索した幕末に目が行ってしまう。それはそれでいいのだろうが、消化不良も起こしやすくなる。こうなるとその消化不良によって歴史への興味が薄れてしまう危険性もあるだろう。

 歴史の真ん中がスッポリ抜けている私の歴史観とブログ日本史探求だが、ブログのタイトルでもある日本史探求を実践するには全ての時代を網羅しなければならない。今後は中世に視点を向けないことには真の日本史探求は出来ないであろう。記事が稚拙になろうとも、知識が継ぎ接ぎの不完全なものであってもチャレンジすることが大事であり、学ぶ姿勢を持ってゆきたい。
 これからのブログ日本史探求の目標は『中世の記事をアップ』すること。苦手な時代もそれを克服すれば好きに変わるってこともあるだろう。
 相変わらず下手な随筆になってしまったが、日本史探求を今後もご贔屓に願います。

※ちなみに、NHK教育テレビで放送されている『高校講座日本史』がインターネット上で視聴(無料)できるそうです。私も時間がある時に見てみようと思います。興味がある方はアクセスしてご覧になって下さい。

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東京大空襲

 64年前の今頃、東京の下町に空襲警報が出た。
 東京上空に襲来したB-29は房総半島方面に消え、空襲警報も解除された。しかし米軍はこの隙を狙い、3月10日の0時7分から焼夷弾を投下した。これが下町の一般市民を『無差別殺戮』した東京大空襲である。

 4年前、あるテレビ番組で映画監督の山本晋也氏が次のような話をされていた。
 『昭和20年3月10日深夜、小田原に疎開していた私は激しい轟音により目を覚まし、その轟音の方向に目を向けました。すると空が昼間のような明るくなっており、東京で激しい空襲が始まったことに気づいたのです。戦後、私の通っていた小学校の先生が私たち生徒にこう言われました。「いいか、東京を火の海にしたヤツの名はカーチス・ルメイというアメリカの軍人だ。この名前を一生忘れるな。」その言葉は今でも忘れられません。』
 4年前は東京大空襲から60年目の年で、テレビでも多くの特番が組まれていた。その中でも山本監督のこの言葉が今でも忘れられない。
 
 国家間で戦争状態になると多くの犠牲が出て、尊い命が失われてゆく。私たちが命を奪う側にもなるし、また奪われる側にもなる。残酷であるがこの地球上に生まれた人間の運命である。
 しかし、太平洋戦争末期のアメリカ軍は、どう考えても日本人を使い開発した兵器の実験をしていたとしか思えない。『リメンバー・パールハーバー』という感情を差し引いても東京大空襲や原爆投下は行き過ぎた軍事行動だ。これらの行為は日本に生まれた私にとって屈辱であるし、この蛮行に及んだ当時のアメリカ軍の連中を許すことは出来ない。

 実はこの日本史探求を始める前、ココログで別のブログを開設していた。そのブログにおいて東京大空襲60年目の記事を作成している時に
『この記事のように歴史の真実を取り上げてゆくブログを始めてみよう。』
と思ったことが、日本史探求を始めるきっかけとなった。それは私たち日本人が真に学ぶべき歴史をブログというツールを使って広げ、日本人としてこの国を愛せるように自らがなるという志を持った瞬間でもあった。
 東京大空襲は私たち日本国民にとって忘れてならない悲劇であり、屈辱であることを最後に記しておく。

 東京大空襲詳細 Yahoo!百科事典より

 

1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち)地区に対する爆撃を中心とする、アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となった。米軍機の日本空襲は開戦翌年の1942年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。日本軍の連勝中に、太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう/チョーチヤン)省の基地におりたこの奇襲は、被害こそ少なかったが、日本軍部に大衝撃を与えた。

 本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領によって始まった。日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B‐29の爆撃圏に入ったからである。アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。B‐29は44年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。9か月に及ぶ空襲は、延べ4900機により130回に及ぶもので、38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下された。3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(43年7~8月)で有名なルメー少将の指揮によって準備された。下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからである。午前0時8分から深川(ふかがわ)地区に始まったこの空襲の特徴は、夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたものであった。

 2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。

 アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。その後、空襲は地方の中小都市へと移り、最後の空襲は1945年8月15日午前1時、東京西多摩郡に対して行われた。

 東京大空襲に関連した動画がyou-tubeにアップされていたので、ここに貼っておきます。爆撃を指揮したルメイの映像もあり、そのルメイが日本で手にした旭日勲一等の勲章の映像も収められています。日本人を殺戮した人物に勲章を与えた事実は国辱としか言いようがありません。


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