開戦(熊本城・高瀬・吉次峠・田原坂) 翔ぶが如く(八巻から九巻)
私学校本堂における評定において西郷が
『自分は、何もいうことはない。一同がその気であればよいのである。自分はこの体を差し上げますから、あとはよいようにして下され。』
と発したことでついに挙兵上京が決まり、私学校党を含む多くの鹿児島(旧)士族が馳せ参じ、約1万以上の軍勢となった。
鹿児島の人々へは以下のような布告文が高札などに書かれ掲示された。
『今般、陸軍大将西郷隆盛ほか二名、政府へ尋問の筋これあり、旧兵隊などが随行し、日ならず上京の段、届出があった。これについては朝廷へも届け出、また各府県庁ならびに各鎮台に通知した。ついてはこの節に際し(県では)人民保護に一層注意して事を運ぶから(人民たちは)あつくその意を承知し、ますます安堵するよう、この旨を布達する』(以上翔ぶが如く八巻本文より)
『政府へ尋問の筋これあり』とはおそらくは川路の密偵中原らが企てていた西郷暗殺計画についてであろう。私学校党らの暴発おいて一番の要因はこれに起因するところが大である。
こうして集まった薩摩士族らは2月17日、雪の降りしきる鹿児島を発ち北上を開始した。
兵力は7大隊約12000人にものぼり、この軍勢を見ると政府への尋問というよりは、対政府戦を想定していたとしか言いようがない。しかし想定と言葉を使ったが、実際には軍略も政略もなく、今まで鬱積された薩摩士族の外征気分を発散するがの如くの挙兵であったと考えられる。それを暴走と表現するのは正しくないかもしれないが、暴走する薩摩士族という悍馬に西郷は乗せられてしまったのだろう。
話が下るのだが、各地での戦いおいて指揮の主導権を握っているは桐野である。西郷は陣頭指揮を採ったり、評定で作戦を練るようなことはしていない。西郷はあくまで従軍している兵士の『玉』にすぎなかったのだ。
熊本城には政府軍の『鎮台』が置かれている。熊本鎮台の司令長官は土佐出身の少将谷干城であった。その谷率いる熊本鎮台へ陸軍大将西郷隆盛から一通の書簡が送られた。ただし文章は西郷の起草・直筆ではなく、鹿児島県令大山綱良が県官の今藤宏に書かせたものである。内容は以下のとおりである。
『自分(西郷)はこのたび政府に尋問するところがあって明後十七日に鹿児島県を発する。ついては陸軍少将桐野利秋、篠原国幹および旧兵隊の者が随行するので、貴鎮台のそばを通過するときは、貴官は鎮台兵を整列させ、私の指揮を受けられるべく、この段、通知する。』(以上翔ぶが如く八巻本文より)
谷自身は鹿児島の私学校党が陸軍の弾薬庫を襲撃した時から戦いを決意していた。しかし熊本鎮台には参謀長の樺山資紀をはじめ薩摩人が多く、彼らが薩摩軍に内応するのではないかと危惧していた。しかし薩摩からの鎮台へ届けられた書簡を読んだ樺山が『先生(西郷)は非職の私人ではないか』と激昂したことで谷の懸念は幾分か払拭されたのである。そして北上してくる薩摩軍に熊本城に籠城して交戦しようと決意を固めた。
薩摩軍と交戦する2日前の2月19日、熊本城の天守閣を含む多くの施設が炎上した。この火災で籠城戦に備えて集めていた兵糧も燃え尽きた。そして城下も約9割が焼失した。ちなみに戦国時代から戦の前には城下を焼き払うことが倣いであった。それゆえに城下の焼失は鎮台兵による付け火であったとも伝えられている。熊本城火災の原因は現在に至っても判明していない。
熊本城の炎上により鎮台で備蓄していた兵糧を失ったことは籠城戦を前に大きな打撃であった。そこで熊本鎮台は急ぎ兵糧調達して籠城に備えた。
熊本に進軍した薩摩軍大隊長別府晋介は焼け野原の城下を目にし、『町を焼いたということは熊本鎮台があくまで戦うと決意したことだ。』と他の者に語った。この別府の言葉が西南戦争の緒戦とも言える熊本城攻防戦につながってゆく。別府の率いる独立大隊(6~7番大隊)が熊本城下南部に位置する川尻に到着した時、鎮台から派遣されていた軍勢が別府の率いる軍勢へ発砲し、戦いが始まった。
薩摩軍の本来の目的であるならば、熊本城は素通りして一路北上すべきである。しかし彼ら(主に篠原や桐野といった評定での主戦派)は熊本城を攻めた。この事実一つを見ても挙兵そのものが軍略も政略もないことが分かる。さらに先の神風連の乱において鎮台が予想以上に弱いことを薩摩軍は知っていたためにいとも簡単に落城させることが可能だと思っていたに違いない。
熊本城攻防戦は鎮台側による銃砲攻撃の雨に薩摩軍は苦戦を強いられた。接近戦では徴集された鎮台兵は薩摩軍に及ぶはずもないが、火力を用いた戦いならば兵器の優れる鎮台軍でも勝負になる。銃弾・大砲を繰り出す熊本鎮台と薩摩軍との戦いは一進一退を極めた。籠城する鎮台の攻撃に薩摩軍も予想外といったところで、全軍を挙げての城攻めから、南下してくる政府軍に対しても兵を分散して迎え撃つ作戦へと変更した。
ちなみに、小倉第14連隊を率いて熊本城へ入城するはずだった連隊長の乃木希典少佐は、途中北上した薩軍との木葉における野戦において連隊旗を奪われる失態を犯している。
薩摩の挙兵に熊本の旧士族たちも馳せ参じた。藩校時習館出身者で構成される熊本隊、宮崎八郎らルソーの民約論に傾倒してる士族たちで構成される熊本協同隊などだ。
彼らは地理に詳しいことから自ら道案内役を買って薩摩軍に従軍した。
熊本城下から北上した薩摩軍の一部は熊本北部の高瀬において博多から南下してきた政府軍(第1、第2旅団)と三度の会戦を繰り広げた。兵器の能力に劣る薩摩軍であったが、菊池川を挟んでの攻防戦は優位に進めた。政府軍も徴集兵以外に元士族である近衛兵も参戦し、奮戦した。
薩摩軍はその高い士気で政府軍を押し返したが、どうゆう訳だかこれだけの戦いを繰り広げたにもかかわらず高瀬(熊本城下西北に位置する町)占領することなく退くのである。ここにも薩摩軍が軍略を用いず、単に武威を示すだけに終始したことが分かる。そして高瀬は薩摩軍からの攻撃を受けることなく、政府軍が占領に成功した。
政府軍が位置する高瀬と、薩摩軍の主力が展開する植木との間にあるのが吉次峠と有名な田原坂である。政府軍がここを突破すれば熊本城に入城することができる。それゆえに薩摩軍にとってはここは死守しなければならない拠点であった。
ここでの薩摩軍の勢いを凄まじいものであった。兵器の性能で劣る分を接近戦の白刃攻撃によって補おうと時には正面から、時には背後から近づき政府軍の兵士を次々に蹴散らしていった。『占領される』という意識が希薄なためか常に『攻め』の姿勢の薩摩軍、ゆえに司令官級の人物までが最前線で戦闘に参加し、兵士たちを鼓舞しているのである。吉次峠の戦いでは第1大隊隊長篠原国幹が敵の狙撃兵によって銃撃され死亡した。篠原は隊の先陣の中にあったために、かつて近衛軍時代に面識のあった敵兵によって狙撃の的にされたのであった。
篠原たちの奮戦が政府軍の吉次峠を断念させ、田原坂に向かわせた。
田原坂は薩摩軍の要塞と化していた。翔ぶが如くの著者司馬遼太郎氏は自らの著書『街道をゆく』の中において次のように記している。
『坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。』
この田原坂を突破しなくては熊本城下に進むことができない。しかし田原坂は薩摩軍の驚異的な士気と白刃攻撃により政府軍、とりわけ徴集された百姓兵などは無残に殺されていった。
大警視川路利良は大阪にいた。川路は臨時に陸軍少将の地位に就き政府軍の兵站基地である大阪で戦争の形勢を見ていたのである。
前線では士族あがりの巡査を従軍させて薩摩軍に対抗させてみてはどうかと言う意見が出ていた。現在田原坂方面で戦っている兵士は近衛兵などを除けば大半は百姓兵であり、猿の甲高い鳴き声のような奇声を発して切り込んでくる薩摩武士に恐れおののいて士気が低下している。そのため武士には武士をと警視庁の巡査連中に助けを乞うてきたのである。川路自身は巡査の参戦に賛成であり、警視庁から選りすぐりの猛者を九州に送り込んだ。
今回の戦いの事実上最高司令長官である山県有朋は、当初巡査の参戦に懐疑的な姿勢であったが田原坂を含む各方面での劣勢を打開するためには仕方ないと思ったのであろう、巡査の参戦を認め彼らの部隊を『抜刀隊』と名づけた。
警視庁の士族あがりで組織された抜刀隊は3月14日、田原坂に陣取る薩摩軍に対して奇襲を仕掛けることに決まった。ところで抜刀隊の中には会津士族が多くいたと伝えられている。彼らが参戦を前に川路に『会津の戦いでの復讐を肥後で遂げよ』のような言葉を掛けられたのではないかと著者の司馬氏は作中に記している。
それは川路が私学校へ密偵を送った時の郷士連中を煽る姿と同様であったのであろう。あくまでも司馬氏の憶測ではあるが、実際もそのような声掛けがあっても不思議ではない。
西南戦争には福地桜痴や犬養毅ら新聞社の記者たちも政府軍に随行していた。ここで会津士族が戊辰戦争での遺恨を晴らすことできたならば判官贔屓の日本人にとっては痛快であり、これが報道されることで会津の汚名をそそぐことが出来ると会津出身の巡査連中の士気も上がったに違いない。
3月14日、抜刀隊による奇襲攻撃が開始された。突然の斬り込みに薩摩の兵士たちも驚き、退却する兵が続出した。
ところが薩摩軍は士族兵である。やられっ放しの訳がない。形勢を立て直し再び政府軍に攻め掛かった。前日とは比にならない政府軍の強さではあったが、この日は結局田原坂を突破することは出来なかったのである。
田原坂での攻防は3月20日まで及び、薩摩軍は退却することになるのだが、この時点ではまだ薩摩軍強しのイメージを政府軍に与えたままであった。
司馬氏は薩摩の兵士は勇敢に戦うが、逃げることに負い目を感じないと作中で記している。『特攻』精神というのは明治の後半から培われた歪な倫理観であり、武士の時代には逃れることは戦術の一つであった。
そうした理由かは分からないが、薩摩軍は防衛線である植木・木留の戦いでも敗れ、南へ敗走することになった。
負け戦続きの薩摩軍であるが負けてなお強しといった感じで、各地で新政府軍を苦しめていた。熊本城もまだ包囲した状態であり、鎮台は籠城が長引いていることから極度の食料不足に陥っていた。
勇敢に戦っていた薩摩軍であってが、戦線が熊本を中心としていたために南部方面は手薄になっていた。そこに目をつけた男がいた。陸軍大佐の高島鞆之助である。
軍勢の手薄の八代あたりから旅団を上陸させて北部前線に送り込めば植木の旅団と挟み撃ちに出来るではないかと考えたのだ。この戦略を思い付いた高島は有能であるが、逆に前線で指揮をしていた抜け目ない性格の山県がこの点に気づかなかったことは実に意外である。
こうして政府の衝背軍が上陸し、戦況は一気に政府側に傾いた。
戦況が悪化し、熊本の西郷も移動しなければならなかった。この西南戦争における西郷は囚われ人のようであり、戦争の指揮は桐野利秋をはじめとする隊長クラスに委ねられたいた。特に桐野は戦略全般を指揮する立場にいた。かつて陸軍少将であった桐野に反発する人はほとんどおらず、西郷とともに死すると決めていた村田新八も桐野を諌めることはしなかった。
西郷はこの後、人吉に滞在し、そこにも軍勢が迫ると日向方面に移る。このように薩摩軍の『玉』として何を指揮する訳でもない西郷はついに故郷鹿児島で追い詰められるのであった。
十巻に続く。
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