« 薩摩決起へ 翔ぶが如く(七巻) | トップページ | 開戦(熊本城・高瀬・吉次峠・田原坂) 翔ぶが如く(八巻から九巻) »

2008/12/11

熊本散策

 熊本に行ってきました。
 別に『翔ぶが如く』を読んでいるから関連の史跡を巡ろうと思った訳ではなく、以前から予定していたのです。それが偶然にも翔ぶが如くを読んでいる時期と重なった訳で、ある意味ラッキーであったと内心喜んでいます。何せリアルタイムで翔ぶが如くの舞台の一部熊本を巡ることが出来るのですから。

 今回熊本を訪れるのは4年2ヶ月ぶりになります。その間に熊本城は築城400年記念事業で復元工事がおこなわれたようで、17世紀の初めに加藤清正公が築城した当時の城郭の姿をほぼ再現させています。
 明治10年の西南戦争で、宇土櫓などを除く大半の建築物は焼失してしまったのですが、今回の復元工事では焼失した本丸御殿など複数の建築物が現代技術の粋を集めて再建されました。熊本の人々がお城に寄せる想いの集大成と言ったところでしょうか。
 それではその熊本城や今回の熊本散策について順を追って紹介してゆこうと思います。

1.本丸御殿
 焼失前の本丸御殿は清正の時代に建設され、中でも『昭君之間』と呼ばれる居間は下の画像をご覧頂いても分かるように豪華絢爛です。一説には豊臣秀頼が徳川家に攻められた場合、清正が秀頼を熊本に匿い、この昭君之間に迎えようとしていたと言われています。清正が存命し、秀頼を奉じて西国大名に号令をかけていれば大阪の戦いも違った形になったかもしれませんね。(参考『その時歴史が動いた 第315回』
Photo_2

2.大銀杏 
 本丸御殿入口付近に植えられている大銀杏は熊本城の別名『銀杏城』に由来します。清正が熊本城築城の際に植えたと伝わっており、清正が亡くなる直前『この木が天守閣と同じ高さとなったときに、異変が起こる』と言い遺したそうです。それが不思議なことに天守閣と同じ高さになったのが西南戦争の時であり、この銀杏も天守閣焼失とともに燃えてしまったと言います。
現在の大銀杏はその後に芽吹いたもので、西南戦争から約130年経過した現在でこの高さな訳ですから、260年経過していた西南戦争当時に天守閣の高さと同じになったというのは満更大袈裟な話ではないかもしれません。
Photo_3

3.天守閣
 熊本城といえばこの天守閣ですよね。この天守閣も西南戦争によって焼失してしまったのですが、昭和35年に1億8000万円の費用をかけて再建されました。この時松崎吉次郎氏という方からは5000万円も寄付して頂いたそうで、この金額を見ても熊本県人にとって天守閣再建が悲願であったあったことがうかがえます。
 天守閣から藤崎宮付近を撮影してみました。天守閣の北西は丘になっているため、西南戦争では薩軍がそこを占領しようと総攻撃を仕掛けました。篭城する鎮台兵と激戦を繰り広げ、2枚目の画像の宇土櫓後方あたりまで薩軍の大隊が熊本城に向かって押し寄せて来たことが想像できます。
Photo

Photo_2

4.宇土櫓
 西南戦争で焼失を免れた数少ない城の施設です。秀吉時代に肥後半国を治め、関が原の戦いで西軍で参戦したために処刑されたキリシタン大名小西行長が居城としていた『宇土城』の天守閣を移築したために宇土櫓と呼ばれると伝えられてましたが、近年の研究で元々熊本城内に建築された櫓である可能性が高いとのことです。
 焼失を免れためリアルに築城当時の内部構造を知ることが出来ます。まず櫓内の構造ですが階段が急勾配で上り下りが結構怖いです。足を滑らしたら転げ落ちてしまう危険があります。ご年配の方やお子さんは特に注意が必要です。
 城の石垣は反りが激しいために『武者返し』と呼ばれていますが、その武者返しを果敢にも登ろうとする敵兵に向けて銃弾を浴びせるため、櫓の所々に画像のような銃眼が設置されています。熊本城が『天下の堅城』と呼ばれる所以をここにも見ることが出来るでしょう。
 画像の3枚目は夜ライトアップされた宇土櫓と天守閣です。神秘的な美しさで観光客を魅了しています。
Photo_3
Photo_4
Photo_5

5.細川刑部邸
 ここは1994年に城下に移築されて一般に公開されています。なので私が初めて熊本を訪れた1991年にはまだ城下にはなく、子飼という地域にあったそうです。
 細川刑部邸は肥後細川家初代藩主忠利公の弟、刑部少輔興孝(おきたか)が1646年に2万5千石を与えられ興した家であり、その後も細川一門として藩政に参加しています。江戸期に細川姓ではなく長岡姓を名乗っていますが、詳しい理由は分かりません。ちなみに明治初頭に活躍した細川一門の長岡護美は後に細川姓に復姓しています。
 刑部邸は江戸時代に上級士族が住んだ武家屋敷の典型なのでしょう。下の画像2~3枚目は銀の間と呼ばれる家主の執務室と客間を撮影したものです。上級士族の屋敷と言えども質素な感じの造りであり、何となく『禅』の精神を感じることが出来ます。
 ちなみに平日の朝に行ったためか訪れていた観光客は私だけで、ほぼ貸切状態でした。また、刑部邸入場券と熊本城入場券をセットで購入すると2割引きとなるため、まず刑部邸を訪れて入場券を購入することをオススメします。
Photo_6
Photo_7
Photo_8


6.桜山神社
 桜山神社には神風連の乱で死した敬神党のメンバー123名が葬られています。西南戦争につながる不平士族の反乱の中で最も早くに蜂起したのが神風連であり、彼らを再評価する動きが戦後から活発化しているそうです。三島由紀夫も彼らの思想に共鳴したと聞いたことがあります。色々な考え方はありますが、彼らが憂国の士であったと私は信じています。
Photo_9  

7.横井小楠記念館(四時軒)
 肥後藩出身で幕末に活躍した横井小楠の記念館と併設されているのが小楠の旧居であった『四時軒』です。記念館では小楠の経歴と偉業を称え、多くの遺品を公開しています。
 横井小楠は司馬遼太郎の『翔ぶが如く』において近代国家建設のビジョンを持っていた幕末から明治初頭に存在した3人(福沢諭吉・横井小楠・勝海舟)のうちの1人と称されている人物です。
 小楠はここ四時軒に坂本龍馬など幕末の志士を招いていたそうです。小楠の思想が多くの志士に波及したことが『攘夷』という抽象的な思想から『倒幕・新国家建設』という具体的な目標に変化していったのでしょう。
 画像は四時軒にある小楠の書斎です。ここも刑部邸同様に質素な造りとなっています。
Photo_10

8.田原坂
 西南戦争最大の激戦地『田原坂』。ここは薩軍が要塞化し、政府軍の侵入を徹底的に防いだ場所です。よって多くの兵士がここで戦死したのです。
 司馬遼太郎は自身の著書『街道をゆく』で
『坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。』
と記しています。確かに田原坂に立ってみるとその異様な雰囲気と両側の山壁は洞窟の中にでもいるかのようで、薩軍が奇襲攻撃するには最適の場所であり、政府軍にとっては難攻不落の要塞であったことでしょう。
 坂を登り切ると西南戦争の慰霊塔が建っています。薩軍・政府軍の戦死者の氏名が刻まれており、その数の多さに正直驚いてしまいました。また、慰霊塔の近くには『弾痕の家』という施設があり、西南戦争当時に田原坂に建っていた家が両軍の凄まじい銃撃戦により多くの弾痕を残したそうで、それを当時撮影した家の写真をもとに再建したということです。
Photo_11
Photo_12
Photo_14

9.阿蘇山
 私は過去に阿蘇山へ4回ほど登ったのですが、すべて雨か曇りで晴れている阿蘇山頂を肉眼で見たことがありません(飛行機の窓から見たことはありますが)
 今回は初めて晴れた阿蘇山頂を訪れることが出来ました。草千里や中岳の雄大さに感動しました。さすが日本最大のカルデラ火山です。
Photo_13

 今回の熊本観光は、今まで私自身が熊本の歴史に疎かったために堪能することが出来なかった反省もあり、多くの予備知識をインプットしたことが良い旅につながったと思います。
 旅をする時には事前にその地の歴史を学んでゆくと一層有意義な旅となることでしょう。

banner_04人気ブログランキングへ協力お願いします。

|

« 薩摩決起へ 翔ぶが如く(七巻) | トップページ | 開戦(熊本城・高瀬・吉次峠・田原坂) 翔ぶが如く(八巻から九巻) »

コメント

 小説を読みながら、舞台となった土地を訪ね、虚構と史実の境界を掌中に納める…それを平和にできるのは、日本人であることの醍醐味です。
 じつは、継体天皇の石棺から宇土半島が気になっていたところに、今年の1月に丹後に行くと、細川家老で八代城主になる松井家が久美浜にいたことを知り、宮本武蔵! 細川家は長岡京の国家構想地図を持っているのか?とか、ガラシャさんも絡んで、ハチャメチャになっておりました。
 大分側から阿蘇を見たことはあるけれど、熊本県にはまだ行ったことのない私です。
 奄美生まれのうちの父は西郷隆盛が大好きで、西郷さんの陶器の人形(上野公園の銅像のミニチュア)を床の間に飾っていました。
 喜界島の城久遺跡から明治維新まで、列島を貫く何かがあるような感じがしてまいりました。
 それにしても、司馬遼太郎さんには、もっと長生きしてもらいたかったですね。

投稿: 高塚タツ | 2009/03/01 23:42

高塚さん、こんばんわ。
おっしゃるように、これは日本人の醍醐味であると私も思います。
また、司馬史観に触れることが出来たおかげで、一層深い感情をもって史跡を巡ることが出来ることに感謝、感謝です。

継体天皇の石棺は九州の石から造られたことは聞いた事はありますが、その真意な何なのでしょうね。

それから細川家の分家筋は長岡姓を名乗っていますが、長岡京との関連もあるのでしょうか?

投稿: Mr.Misaki | 2009/03/02 23:47

 継体の宮の移転の意味を考えていたとき、乙訓宮に位置的に重なる長岡京のあたりを歩いて、「勝龍寺城跡」を訪れました。そこで入手したリーフレットによると、細川藤孝は、「信長が義昭を追放した後、桂川の西の地を与えられ、姓を長岡と名乗りました。」とあります。
  細川に復姓した後、分家に長岡姓を残した。そうして長岡とも名のる松井家は、細川家の重臣であると同時に、継体の綴喜宮のあたりの山城国相楽郡に領地を持つ直参でした。
 細川家が長岡にいた1573~1580年、明智玉(ガラシャ)が輿入れ、吉田兼見が訪問、また、三条西実枝による古今伝授があったといわれています。
 自称歴史推理作家の高塚タツは、歩きながら、長岡京の「核」から細川家の文化兵器が開発されたと感じとりました。「核」とは、継体時代の深い地層に埋められたもので、高句麗方面から飛んできた種子の運よい発芽はありえないでしょう。
 今城塚古墳の石棺を、宇土から高槻まで運んだルートについては、自説を温めているのですが、有明海を見る機会を得てから発表したいと存じます。
 Mr.Misakiさんの的確なご質問に感謝します。ありがとうございました。また、十分なお答えができず、申しわけございません。

投稿: 高塚タツ | 2009/03/03 15:03

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91558/43382259

この記事へのトラックバック一覧です: 熊本散策:

« 薩摩決起へ 翔ぶが如く(七巻) | トップページ | 開戦(熊本城・高瀬・吉次峠・田原坂) 翔ぶが如く(八巻から九巻) »