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2008年12月の8件の記事

2008/12/31

平成20年 大晦日

 日本史探求をご覧下さっている皆様こんばんわ。今日は大晦日ですね。皆様にとって今年はどんな一年でした?私にとって平成20年はつくづく『運気』がなかった一年でした。運も実力のうちという言葉をこの身で痛感した一年だと表現したくなります。ただ陰鬱になっていても仕方ないので、運がなかったことを糧にするぐらいの気概で来年はパワフルに駆けてゆこうと思います。

 ところで12月中旬から司馬遼太郎氏の作品『坂の上の雲』を読んでいまして、現在は第7巻まで読み進めています。司馬氏の俯瞰的な視点で日露戦争を著しているのですが、明治末の日本国が体力的にギリギリのところで大国ロシアに対抗し、ついに戦艦性能的には世界最強とも言えるバルチック艦隊を迎え撃つところに至って最終8巻に入るといった感じです。
 当初は秋山好古・真之兄弟と正岡子規の成長過程を中心に描かれていたのですが、3巻の途中から日露戦争に関わる多くの人物を取り上げる展開になり、坂の上の雲の主役が『明治日本』に移ってゆくようなストーリー展開になります。
 旅順要塞の攻防では、第三軍司令長官乃木大将や参謀長の伊地知幸介の無能ぶりを痛烈に批判し、旅順の戦死者を人災による被害者であると言い切っています。
 乃木希典は確かに旅順要塞攻略に苦戦しましたが、日本人が実戦で初めて目にした近代要塞を前に適切な策を講じることは乃木でなくても難しかったはずだと私としては乃木に同情します。逆に司馬氏は全軍の参謀児玉源太郎については天才と評価しています。この坂の上の雲でも『翔ぶが如く』でも児玉は戦略の天才と評価されており、実際天才であったのでしょう。しかし司馬氏自身が太平洋戦争において戦車連隊に所属した経緯から、昭和期の軍部、特に陸軍を『愚』の対象としている前提が『児玉=天才』『乃木=無能』という思考が前面に現れていることを考えると、この司馬氏の論調に対して冷静に判断する必要があるのかもしれません。
 
 作品ではこれ以外にも黄海海戦や奉天会戦などについても詳細に記しているのですが、やはり旅順要塞攻略の一部始終が作品へのめり込むようなリアルさを表現していて、その詳細な描写を記した司馬氏の才能に驚かされた次第です。
 坂の上の雲もあと第8巻を読むだけになりましたが、読み終わりましたらあらためて感想記事をアップしようと思います。
 
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2008/12/22

いつの間に箸墓古墳が『卑弥呼』の墓になったんですかね

 10日前のことですが『枚方・禁野車塚古墳:北河内最大級、“卑弥呼の墓”そっくり 』(毎日新聞)という記事がYahoo!ニュースに掲載されていました。
 記事の内容は次の通りです。

◇3世紀後半~4世紀前半、奈良・箸墓古墳と同時代 
 北河内最大級の前方後円墳で国史跡の「禁野車塚(きんやくるまづか)古墳」(枚方市宮之阪5、全長約120メートル)の形状が、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と酷似していることがわかった。
 府内で箸墓古墳の類型と判明したのは初めてで、近距離にあることから被葬者も同古墳の被葬者と密接な関係性があった可能性が高いという。【宮地佳那子】 

◇被葬者も密接な関係?
 8月に関西、京都橘、京都府立の3大学の教授、学生らと枚方市文化財研究調査会の延べ260人による「淀川流域前期古墳研究調査団」が調査を実施、今月、結果を発表した。 
 それによると、前方部の形が細長い(三味線の)ばち状で、古墳の最も狭い部分が前方部側であるなど、箸墓古墳の顕著な特徴が数多く認められた。近畿から九州北部に22の類型が確認された中でもよく似ており、主従関係や政治同盟などの結びつきを示すという。 
 また、築造時期は出土したはにわの形状などから4世紀代とされていたが、箸墓古墳と同時期と考えられるため、3世紀後半~4世紀前半に造られた府内では珍しい早期の古墳と考えられるという。 
 前方後円墳に詳しい都出比呂志・大阪大名誉教授(日本考古学)は「初期の王の古墳は奈良県に集中しており、禁野車塚古墳の被葬者は、初期の王権と上下関係があったのではないか。国家成立の解明のため欠かせない貴重な古墳だ」と話す。 
 枚方市は同古墳と周辺の整備をし、史跡公園を作る計画を進めている。

12月12日 毎日新聞より

 この記事を読むと箸墓古墳が卑弥呼の墓という前提で、それに類似する『枚方・禁野車塚古墳』が卑弥呼と密接な関係にあった者の墓として推定しようとしています。
 邪馬台国近畿説を支持する私としては、仮に卑弥呼の墓所が存在すのであれば近畿地方であろうと思います。しかし、箸墓が卑弥呼の墓所だと断定されていない段階で、このような記事を掲載するのはどう考えてもおかしいです。まずは箸墓が卑弥呼の墓所であることが確定されてから上のような記事を掲載するべきではないでしょうか。
 
 卑弥呼云々を抜きにすれば、この発見は3~4世紀にかけて近畿地方にこうした大規模な古墳が存在することで、当時の倭国が近畿にその拠点を置いていた可能性を示唆するに十分な意味を持つ調査結果であるでしょう。
 
 話が古墳から離れますが、最近大河ドラマや歴史ドキュメンタリーなどで史実を度外視した確信犯的な番組が多々流されています。それを視聴者がフィクションの『娯楽』として観ているのであれば別に構わないのですが、事実として捉えてしまう人がいると史実が歪曲されて伝わってしまう危険性があります。今年問題になった会津若松城の問題もそれしかりです。
 歴史に限らずメディアの発信する情報を受取る私たちにとって、歪曲された情報を確信犯的に発信されている事実を自らの目で認識する必要があります。
 メディアの一方的な情報に惑わされることなく、リテラシー能力を磨いて、多少懐疑的になるぐらいな感じで情報を見つめてみましょう。

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2008/12/16

翔ぶが如くを読み終えて

 翔ぶが如くは昭和47年1月から昭和50年9月まで毎日新聞朝刊に掲載され、文庫本は全10巻におよぶ長編小説です。
 歴史小説は基本的に長編小説が多いのですが、翔ぶが如くの全10巻はその中でも殊更長編であり、かつある程度予備知識がないと理解するのが難しい内容だと思います。この本を読もうと思うのであれば明治初頭の政治体制や士族の動向など教科書的な学習で構わないのでしておくことをおススメします。

 翔ぶが如くを読み続けてゆく中で、私は西郷隆盛とは何者かを知ろうと思い、登場人物の行動などから対西郷を読み解いてみました。不思議なことに征韓論から私学校の暴走に至るまで西郷は鹿児島で猟師のような生活をしていて、決して表には出てきません。しかし事あるごとに『鹿児島の西郷は』と作中に登場します。時代の歪の中で、不平士族にも太政官にも畏敬される存在だったのです。
 その畏敬は決して西郷が島津斉彬のような奇抜かつ聡明な人物だからではなく、明治維新の『功』なる部分の代名詞としての虚像が形成されていたからです。その虚像は西郷が好む好まざるとも時勢が作り上げたものでした。その虚像に期待する者、畏怖する者、挑む者、それらが西南戦争に帰結して争いを始めた訳です。

 単なる歴史好きが西郷を理解するのは無理だと思います。西郷を理解するには多少俯瞰するようではありますが、取り巻く人物や時代を大局的に見渡す必要があるのです。
西郷隆盛『個』だけを眺めていては西郷は見えないと断言出来ます。

 堅苦しい西郷への論評になってしまいましたが、西南戦争を知るには翔ぶが如くを読むことをあらためておススメします。
 翔ぶが如く、この作品を読むことが出来たことを日本に生きる人間として幸せに思う今日この頃です。

Photo
上野公園に佇む西郷隆盛像。西南戦争で『賊』として散った西郷の名誉は明治の終わりに回復し、政府は日本で一番人の集まる公園の入り口にこの像を設置した。この西郷像は明治維新成功の記念碑なのかもしれない。

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西郷死す (翔ぶが如く十巻)

 明治10年3月19日、高島鞆之助少将率いる別働第二旅団は、八代の背後に上陸し、薩摩軍を攻撃して八代を占領した。この上陸作戦によって熊本城を包囲していた薩摩軍は南へ退くこととなる。
 熊本で敗退した薩摩軍であったが、士気はまだ旺盛であり、事実上の総司令官桐野利秋は人吉へ撤退すると次のような戦略を考えつく。薩摩軍によって三州(薩摩国・大隅国・日向国)を盤踞し、人吉をその根拠地とするというのである。当初から挙兵上京という抽象的な意図をして進軍していた薩摩軍がここにきてやっと戦略らしい戦略を立案するのであった。
 しかし緻密な計画ではないために、その後政府軍の攻撃によって人吉からも退くこととなり、薩摩軍は日向にのがれた。
 
 日向では西郷が兎狩り、桐野は遊郭に出入りするなど戦場の指揮官とは思えない行動をしていた。西郷は挙兵直後から体を差し出した訳であり、桐野は戦うこと以外に生きがいを感じない。よってこうした行動に罪悪の念は感じないのであろう。また、物資や弾薬の不足を補うために不換紙幣の『西郷札』なるものを発行し、それを占領下で流通させようともした。
 日向で戦略らしい戦略を持ち戦っていたのは、私学校が暴発する直前に神戸で情報収集をおこなっていた野村忍介であった。彼は熊本で戦死した慎重派の永山弥一郎を兄事していたためか、桐野の無策ともいうべき進軍に憤りを感じながら従軍していた。しかしここ日向に至ってついに桐野の意向を無視し自らの大隊を率い政府軍と交戦し、その上勝利を収めている。
 このように薩摩軍は強い。日向では野村や他の士族兵も奮戦し、局地的な勝利は収めるが、あくまでも局地戦だけでの強さであり、山県の戦略によって動く政府軍に次第に追い込まれてゆく。そして延岡において政府軍6個旅団に完全包囲されてしまった。
 
 8月16日延岡の北に位置する和田峠の戦いで、西南戦争開戦以来始めて西郷が前線に立ち指揮をした。西郷はおそらくここで死のうと思ったのであろうか。しかし桐野や村田新八らが西郷を前線から退かせたので、ここで死ぬことはなかった。
 この和田峠で薩摩軍は敗れた。誰もがこれで戦争の敗北は決定的だと思っていただろう。しかし口には出さなかった。西郷が生きている限り戦いを終わらないことを兵士、特に薩摩出身の連中はそう意識していたからだ。
 政府軍の包囲が狭まる中、西郷はついに解軍の令を出す。薩摩軍には薩摩士族以外にも九州の他藩出身の士族も含まれていた。その彼らを西郷としてはこれ以上従軍させて死なせてはならないと思ったのであろう。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。 (翔ぶが如く十巻より)

 以上が西郷が発した解軍の令である。
 『西郷がこの地で死を覚悟したのか』と兵士たちから思われたに違いない。これにより政府軍に降伏する者と、このまま薩摩軍に従う者とがここで別れたのである。

 どうせ死ぬなら郷土薩摩で死にたいという気分が薩摩軍の全体を支配していたのか、完全に包囲されている情況を打破しようと『可愛岳(えのだけ)』と呼ばれる難所を彼らは越える決意をした。ここを越えて遠路鹿児島へ向かおうというのだ。
 この可愛岳を越えるだけでも凄まじい精神力が要求されるのに、何と薩摩軍は行軍の途中、守備が手薄であった政府軍の一部を見つけるとそれに攻め込み、食料・弾薬・砲門一門を奪取した。恐ろしいほどの体力と精神力である。
 薩摩軍は可愛岳を越えると道なき道を進み、さらには断崖を登り、渓流をつたって、ついに鹿児島に戻ってきた。

 山県は薩摩軍が再び熊本城下に出現するのではないかと思い熊本の守備を固めていた。実際薩摩軍の中にも再び熊本へと西郷に進言する者いたが、西郷はそれを却下し鹿児島へ向かった。
 鹿児島に到達した薩摩軍は政府軍の守る私学校を襲撃し占領に成功する。また、鹿児島の住民も西郷率いる薩摩軍に協力的であり、さらには熊本の戦いで負傷し帰郷していた薩摩兵も合流するに至り、薩摩軍は鹿児島をほぼ占領した。
 薩摩軍は城山に陣を構えて政府軍との戦いに備えた。薩摩軍は一時は優勢であったが、時間の経過とともに物量に勝る政府軍に包囲されてゆき、9月6日には政府軍によって城山を完全に包囲された。

 城山に残る薩摩軍は約370名、対する政府軍は5万名とも6万名とも言われている。この状況を司馬氏は『戦争ではなく虐殺だ。』と作中で記している。しかしこの政府軍の数が示していることはそれだけ薩摩軍の武威を恐れている証拠なのかもしれない。
 城山に籠る薩摩軍において、西郷の助命を願い出ようとするものがあった。その者たちは徹底主戦派の桐野に悟られることないよう注意を払いながら村田新八ら幹部の許可を受けて政府軍の少将で薩摩人の川村純義の下に西郷助命を願い出た。
 使者は河野主一郎と山野田一輔である。河野主一郎は薩摩軍の幹部であり、ここまで勇敢に戦ってきた。しかしここにきて西郷の命だけは救いたい気持ちが強くなったのであろう。川村もその意を察して『西郷をここに呼べばどうにかする。』ような旨を伝えた。さらに山県から降伏勧告を突きつけられた。降伏勧告とは言っても山県はかつて自身の汚職事件の際に西郷に助けられた経緯があるため、極めて丁寧な文章で降伏を勧めた。(しかし山県は暗に西郷に自決せよとも伝えている)
 これら政府軍の意思を携えて山野田一輔一人が薩摩軍の本営に戻った。皮肉にもここまで勇猛果敢に戦ってきた河野主一郎は捕らわれの身となり、西南戦争後も生き続けることになる。

 山野田が本営に戻り、西郷に川村からの伝言と山県からの書簡を手渡すのだが、西郷はそれらを無視し最後の戦いを決意する。
 戦いは始まった。西郷らは本営としていた洞窟を出て整列し目の前の岩崎口へ進軍した。岩崎口を攻める第四旅団 の司令長官曾我祐準陸軍少将は薩摩人ではない。曾我をここ配したのは西郷を兄事し、尊敬する薩摩人では戦いに躊躇することを山県が危惧したからではないだろうか。

 岩崎口では西郷以下挙兵以来付き従ってきた桐野や村田も奮戦した。そして負傷して歩行することすら儘ならない別府晋介も駕籠に乗って従軍していた。別府は西郷から最期の時には介錯してほしいと命じられていた。西郷を心から慕う別府にとっては最高の誉れであったことは間違いない。
 西郷とともに殉じようとする幹部たちであったが、意外な人物が政府軍の降伏した。野村忍介である。
 野村は戦いの当初から桐野のやり方が気に入らず、日向では桐野を無視して自ら隊を率いて独断で戦った経歴の男だ。野村は『桐野がやった戦でおめおめ死ぬよりは、法廷で義挙の趣旨を明らかにして刑死しよう。』としたのだ。桐野の従兄弟である別府九郎もこれに従った。戦後、野村は10年の刑に処せられた。

 桐野は幕末に『人斬り半次郎』として恐れられたいた中村半次郎である。西郷はこの男を凶器のように使った。そして半次郎も凶器であることに徹していた。しかし明治維新がこの凶器に思考を与えてしまった。
 司馬氏は半次郎をこう考察する。
『この凶器(半次郎)は西郷によって陸軍少将となり、日本の軍事権の一部を掌握した。凶器は栄誉と権限を得たために自立したために凶器自身が思想と判断で動くようになり、ついには飼い主であった西郷を自分の思惑へと引きずり込んでしまった。』
 実に的を得ている。しかし桐野だけが悪いのかと言えばそうではなく、時勢という悍馬が西郷を欲したことがすべての始まりだったのではないだろうか。いや時勢そのものが西郷に憑依したのかもしれない。

 城山の戦いが始まってしばらく、銃弾の雨が西郷らを襲った。そして肥満である西郷の体には銃弾が打ち込まれ、自らの最期を悟った。
『シンドン(別府晋介)、モウ、ココデヨカロウ。』
西郷は別府の介錯によって波乱の人生に幕を閉じた。
 西郷に続いて村田新八も腹を掻っ捌いて死んだ。次々に死んでゆく薩摩兵の中で、桐野だけは堡塁に登り一人銃を構えて政府軍に対抗していた。半次郎時代の瞬発力は衰えておらず、向かってくる兵士を次々に狙撃して倒した。しかし、至近距離から狙撃され堡塁の中に落ちた。別府は落ちてきた桐野を見たが頭を撃ち抜かれて即死だった。

 政府軍の攻撃は終わった。戦場には裸の屍骸が散乱していた。酷いことに裸にされた上に局部を口に突っ込められた死体もあった。(薩摩人以外の)政府軍兵士、特に賊軍とされた藩出身の兵士にとっては哀れみも何もない。憎しみだけが士気を高めていた。
 これが戦争なのである。

 西郷の首は後日発見され、死亡した幹部たちは江藤のように曝し首にされることなく丁重に葬られた。維新最大の功労者と太政官薩摩閥への配慮であろう。そして薩摩人を刺激しないようにと意図もあったのかもしれない。

 西郷の死から1年もしないうちに彼の盟友であり、敵であった大久保利通が紀尾井坂で暗殺された。西郷挙兵により第二の維新を目指していた石川藩士島田一郎の犯行であった。
 西南戦争の導火線に火をつけた川路利良も明治12年病死する。大久保の死後、陰鬱な表情に変わり、かつての生気は感じられなかったという。

 時勢という大きな波に呑み込まれた幕末維新の英傑たちが去り、波が引いた後に残された人々が新たな時勢に立ち向かおうとしていた。世界を相手に・・・。

 終わり。 

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2008/12/13

開戦(熊本城・高瀬・吉次峠・田原坂) 翔ぶが如く(八巻から九巻)

 私学校本堂における評定において西郷が
『自分は、何もいうことはない。一同がその気であればよいのである。自分はこの体を差し上げますから、あとはよいようにして下され。』
と発したことでついに挙兵上京が決まり、私学校党を含む多くの鹿児島(旧)士族が馳せ参じ、約1万以上の軍勢となった。
 鹿児島の人々へは以下のような布告文が高札などに書かれ掲示された。
『今般、陸軍大将西郷隆盛ほか二名、政府へ尋問の筋これあり、旧兵隊などが随行し、日ならず上京の段、届出があった。これについては朝廷へも届け出、また各府県庁ならびに各鎮台に通知した。ついてはこの節に際し(県では)人民保護に一層注意して事を運ぶから(人民たちは)あつくその意を承知し、ますます安堵するよう、この旨を布達する』(以上翔ぶが如く八巻本文より)
 『政府へ尋問の筋これあり』とはおそらくは川路の密偵中原らが企てていた西郷暗殺計画についてであろう。私学校党らの暴発おいて一番の要因はこれに起因するところが大である。
 こうして集まった薩摩士族らは2月17日、雪の降りしきる鹿児島を発ち北上を開始した。

 兵力は7大隊約12000人にものぼり、この軍勢を見ると政府への尋問というよりは、対政府戦を想定していたとしか言いようがない。しかし想定と言葉を使ったが、実際には軍略も政略もなく、今まで鬱積された薩摩士族の外征気分を発散するがの如くの挙兵であったと考えられる。それを暴走と表現するのは正しくないかもしれないが、暴走する薩摩士族という悍馬に西郷は乗せられてしまったのだろう。
 話が下るのだが、各地での戦いおいて指揮の主導権を握っているは桐野である。西郷は陣頭指揮を採ったり、評定で作戦を練るようなことはしていない。西郷はあくまで従軍している兵士の『玉』にすぎなかったのだ。

 熊本城には政府軍の『鎮台』が置かれている。熊本鎮台の司令長官は土佐出身の少将谷干城であった。その谷率いる熊本鎮台へ陸軍大将西郷隆盛から一通の書簡が送られた。ただし文章は西郷の起草・直筆ではなく、鹿児島県令大山綱良が県官の今藤宏に書かせたものである。内容は以下のとおりである。
『自分(西郷)はこのたび政府に尋問するところがあって明後十七日に鹿児島県を発する。ついては陸軍少将桐野利秋、篠原国幹および旧兵隊の者が随行するので、貴鎮台のそばを通過するときは、貴官は鎮台兵を整列させ、私の指揮を受けられるべく、この段、通知する。』(以上翔ぶが如く八巻本文より)
 谷自身は鹿児島の私学校党が陸軍の弾薬庫を襲撃した時から戦いを決意していた。しかし熊本鎮台には参謀長の樺山資紀をはじめ薩摩人が多く、彼らが薩摩軍に内応するのではないかと危惧していた。しかし薩摩からの鎮台へ届けられた書簡を読んだ樺山が『先生(西郷)は非職の私人ではないか』と激昂したことで谷の懸念は幾分か払拭されたのである。そして北上してくる薩摩軍に熊本城に籠城して交戦しようと決意を固めた。

 薩摩軍と交戦する2日前の2月19日、熊本城の天守閣を含む多くの施設が炎上した。この火災で籠城戦に備えて集めていた兵糧も燃え尽きた。そして城下も約9割が焼失した。ちなみに戦国時代から戦の前には城下を焼き払うことが倣いであった。それゆえに城下の焼失は鎮台兵による付け火であったとも伝えられている。熊本城火災の原因は現在に至っても判明していない。
 熊本城の炎上により鎮台で備蓄していた兵糧を失ったことは籠城戦を前に大きな打撃であった。そこで熊本鎮台は急ぎ兵糧調達して籠城に備えた。

 熊本に進軍した薩摩軍大隊長別府晋介は焼け野原の城下を目にし、『町を焼いたということは熊本鎮台があくまで戦うと決意したことだ。』と他の者に語った。この別府の言葉が西南戦争の緒戦とも言える熊本城攻防戦につながってゆく。別府の率いる独立大隊(6~7番大隊)が熊本城下南部に位置する川尻に到着した時、鎮台から派遣されていた軍勢が別府の率いる軍勢へ発砲し、戦いが始まった。
 薩摩軍の本来の目的であるならば、熊本城は素通りして一路北上すべきである。しかし彼ら(主に篠原や桐野といった評定での主戦派)は熊本城を攻めた。この事実一つを見ても挙兵そのものが軍略も政略もないことが分かる。さらに先の神風連の乱において鎮台が予想以上に弱いことを薩摩軍は知っていたためにいとも簡単に落城させることが可能だと思っていたに違いない。

 熊本城攻防戦は鎮台側による銃砲攻撃の雨に薩摩軍は苦戦を強いられた。接近戦では徴集された鎮台兵は薩摩軍に及ぶはずもないが、火力を用いた戦いならば兵器の優れる鎮台軍でも勝負になる。銃弾・大砲を繰り出す熊本鎮台と薩摩軍との戦いは一進一退を極めた。籠城する鎮台の攻撃に薩摩軍も予想外といったところで、全軍を挙げての城攻めから、南下してくる政府軍に対しても兵を分散して迎え撃つ作戦へと変更した。
 ちなみに、小倉第14連隊を率いて熊本城へ入城するはずだった連隊長の乃木希典少佐は、途中北上した薩軍との木葉における野戦において連隊旗を奪われる失態を犯している。

 薩摩の挙兵に熊本の旧士族たちも馳せ参じた。藩校時習館出身者で構成される熊本隊、宮崎八郎らルソーの民約論に傾倒してる士族たちで構成される熊本協同隊などだ。
 彼らは地理に詳しいことから自ら道案内役を買って薩摩軍に従軍した。
 
 熊本城下から北上した薩摩軍の一部は熊本北部の高瀬において博多から南下してきた政府軍(第1、第2旅団)と三度の会戦を繰り広げた。兵器の能力に劣る薩摩軍であったが、菊池川を挟んでの攻防戦は優位に進めた。政府軍も徴集兵以外に元士族である近衛兵も参戦し、奮戦した。
 薩摩軍はその高い士気で政府軍を押し返したが、どうゆう訳だかこれだけの戦いを繰り広げたにもかかわらず高瀬(熊本城下西北に位置する町)占領することなく退くのである。ここにも薩摩軍が軍略を用いず、単に武威を示すだけに終始したことが分かる。そして高瀬は薩摩軍からの攻撃を受けることなく、政府軍が占領に成功した。

 政府軍が位置する高瀬と、薩摩軍の主力が展開する植木との間にあるのが吉次峠と有名な田原坂である。政府軍がここを突破すれば熊本城に入城することができる。それゆえに薩摩軍にとってはここは死守しなければならない拠点であった。
 ここでの薩摩軍の勢いを凄まじいものであった。兵器の性能で劣る分を接近戦の白刃攻撃によって補おうと時には正面から、時には背後から近づき政府軍の兵士を次々に蹴散らしていった。『占領される』という意識が希薄なためか常に『攻め』の姿勢の薩摩軍、ゆえに司令官級の人物までが最前線で戦闘に参加し、兵士たちを鼓舞しているのである。吉次峠の戦いでは第1大隊隊長篠原国幹が敵の狙撃兵によって銃撃され死亡した。篠原は隊の先陣の中にあったために、かつて近衛軍時代に面識のあった敵兵によって狙撃の的にされたのであった。
 篠原たちの奮戦が政府軍の吉次峠を断念させ、田原坂に向かわせた。

 田原坂は薩摩軍の要塞と化していた。翔ぶが如くの著者司馬遼太郎氏は自らの著書『街道をゆく』の中において次のように記している。
『坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。』
 この田原坂を突破しなくては熊本城下に進むことができない。しかし田原坂は薩摩軍の驚異的な士気と白刃攻撃により政府軍、とりわけ徴集された百姓兵などは無残に殺されていった。

 大警視川路利良は大阪にいた。川路は臨時に陸軍少将の地位に就き政府軍の兵站基地である大阪で戦争の形勢を見ていたのである。
 前線では士族あがりの巡査を従軍させて薩摩軍に対抗させてみてはどうかと言う意見が出ていた。現在田原坂方面で戦っている兵士は近衛兵などを除けば大半は百姓兵であり、猿の甲高い鳴き声のような奇声を発して切り込んでくる薩摩武士に恐れおののいて士気が低下している。そのため武士には武士をと警視庁の巡査連中に助けを乞うてきたのである。川路自身は巡査の参戦に賛成であり、警視庁から選りすぐりの猛者を九州に送り込んだ。
 今回の戦いの事実上最高司令長官である山県有朋は、当初巡査の参戦に懐疑的な姿勢であったが田原坂を含む各方面での劣勢を打開するためには仕方ないと思ったのであろう、巡査の参戦を認め彼らの部隊を『抜刀隊』と名づけた。

 警視庁の士族あがりで組織された抜刀隊は3月14日、田原坂に陣取る薩摩軍に対して奇襲を仕掛けることに決まった。ところで抜刀隊の中には会津士族が多くいたと伝えられている。彼らが参戦を前に川路に『会津の戦いでの復讐を肥後で遂げよ』のような言葉を掛けられたのではないかと著者の司馬氏は作中に記している。
それは川路が私学校へ密偵を送った時の郷士連中を煽る姿と同様であったのであろう。あくまでも司馬氏の憶測ではあるが、実際もそのような声掛けがあっても不思議ではない。
 西南戦争には福地桜痴や犬養毅ら新聞社の記者たちも政府軍に随行していた。ここで会津士族が戊辰戦争での遺恨を晴らすことできたならば判官贔屓の日本人にとっては痛快であり、これが報道されることで会津の汚名をそそぐことが出来ると会津出身の巡査連中の士気も上がったに違いない。

 3月14日、抜刀隊による奇襲攻撃が開始された。突然の斬り込みに薩摩の兵士たちも驚き、退却する兵が続出した。
 ところが薩摩軍は士族兵である。やられっ放しの訳がない。形勢を立て直し再び政府軍に攻め掛かった。前日とは比にならない政府軍の強さではあったが、この日は結局田原坂を突破することは出来なかったのである。
 田原坂での攻防は3月20日まで及び、薩摩軍は退却することになるのだが、この時点ではまだ薩摩軍強しのイメージを政府軍に与えたままであった。

 司馬氏は薩摩の兵士は勇敢に戦うが、逃げることに負い目を感じないと作中で記している。『特攻』精神というのは明治の後半から培われた歪な倫理観であり、武士の時代には逃れることは戦術の一つであった。
 そうした理由かは分からないが、薩摩軍は防衛線である植木・木留の戦いでも敗れ、南へ敗走することになった。
 負け戦続きの薩摩軍であるが負けてなお強しといった感じで、各地で新政府軍を苦しめていた。熊本城もまだ包囲した状態であり、鎮台は籠城が長引いていることから極度の食料不足に陥っていた。
 勇敢に戦っていた薩摩軍であってが、戦線が熊本を中心としていたために南部方面は手薄になっていた。そこに目をつけた男がいた。陸軍大佐の高島鞆之助である。
 軍勢の手薄の八代あたりから旅団を上陸させて北部前線に送り込めば植木の旅団と挟み撃ちに出来るではないかと考えたのだ。この戦略を思い付いた高島は有能であるが、逆に前線で指揮をしていた抜け目ない性格の山県がこの点に気づかなかったことは実に意外である。
 こうして政府の衝背軍が上陸し、戦況は一気に政府側に傾いた。

 戦況が悪化し、熊本の西郷も移動しなければならなかった。この西南戦争における西郷は囚われ人のようであり、戦争の指揮は桐野利秋をはじめとする隊長クラスに委ねられたいた。特に桐野は戦略全般を指揮する立場にいた。かつて陸軍少将であった桐野に反発する人はほとんどおらず、西郷とともに死すると決めていた村田新八も桐野を諌めることはしなかった。
 西郷はこの後、人吉に滞在し、そこにも軍勢が迫ると日向方面に移る。このように薩摩軍の『玉』として何を指揮する訳でもない西郷はついに故郷鹿児島で追い詰められるのであった。

 十巻に続く。

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2008/12/11

熊本散策

 熊本に行ってきました。
 別に『翔ぶが如く』を読んでいるから関連の史跡を巡ろうと思った訳ではなく、以前から予定していたのです。それが偶然にも翔ぶが如くを読んでいる時期と重なった訳で、ある意味ラッキーであったと内心喜んでいます。何せリアルタイムで翔ぶが如くの舞台の一部熊本を巡ることが出来るのですから。

 今回熊本を訪れるのは4年2ヶ月ぶりになります。その間に熊本城は築城400年記念事業で復元工事がおこなわれたようで、17世紀の初めに加藤清正公が築城した当時の城郭の姿をほぼ再現させています。
 明治10年の西南戦争で、宇土櫓などを除く大半の建築物は焼失してしまったのですが、今回の復元工事では焼失した本丸御殿など複数の建築物が現代技術の粋を集めて再建されました。熊本の人々がお城に寄せる想いの集大成と言ったところでしょうか。
 それではその熊本城や今回の熊本散策について順を追って紹介してゆこうと思います。

1.本丸御殿
 焼失前の本丸御殿は清正の時代に建設され、中でも『昭君之間』と呼ばれる居間は下の画像をご覧頂いても分かるように豪華絢爛です。一説には豊臣秀頼が徳川家に攻められた場合、清正が秀頼を熊本に匿い、この昭君之間に迎えようとしていたと言われています。清正が存命し、秀頼を奉じて西国大名に号令をかけていれば大阪の戦いも違った形になったかもしれませんね。(参考『その時歴史が動いた 第315回』
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2.大銀杏 
 本丸御殿入口付近に植えられている大銀杏は熊本城の別名『銀杏城』に由来します。清正が熊本城築城の際に植えたと伝わっており、清正が亡くなる直前『この木が天守閣と同じ高さとなったときに、異変が起こる』と言い遺したそうです。それが不思議なことに天守閣と同じ高さになったのが西南戦争の時であり、この銀杏も天守閣焼失とともに燃えてしまったと言います。
現在の大銀杏はその後に芽吹いたもので、西南戦争から約130年経過した現在でこの高さな訳ですから、260年経過していた西南戦争当時に天守閣の高さと同じになったというのは満更大袈裟な話ではないかもしれません。
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3.天守閣
 熊本城といえばこの天守閣ですよね。この天守閣も西南戦争によって焼失してしまったのですが、昭和35年に1億8000万円の費用をかけて再建されました。この時松崎吉次郎氏という方からは5000万円も寄付して頂いたそうで、この金額を見ても熊本県人にとって天守閣再建が悲願であったあったことがうかがえます。
 天守閣から藤崎宮付近を撮影してみました。天守閣の北西は丘になっているため、西南戦争では薩軍がそこを占領しようと総攻撃を仕掛けました。篭城する鎮台兵と激戦を繰り広げ、2枚目の画像の宇土櫓後方あたりまで薩軍の大隊が熊本城に向かって押し寄せて来たことが想像できます。
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4.宇土櫓
 西南戦争で焼失を免れた数少ない城の施設です。秀吉時代に肥後半国を治め、関が原の戦いで西軍で参戦したために処刑されたキリシタン大名小西行長が居城としていた『宇土城』の天守閣を移築したために宇土櫓と呼ばれると伝えられてましたが、近年の研究で元々熊本城内に建築された櫓である可能性が高いとのことです。
 焼失を免れためリアルに築城当時の内部構造を知ることが出来ます。まず櫓内の構造ですが階段が急勾配で上り下りが結構怖いです。足を滑らしたら転げ落ちてしまう危険があります。ご年配の方やお子さんは特に注意が必要です。
 城の石垣は反りが激しいために『武者返し』と呼ばれていますが、その武者返しを果敢にも登ろうとする敵兵に向けて銃弾を浴びせるため、櫓の所々に画像のような銃眼が設置されています。熊本城が『天下の堅城』と呼ばれる所以をここにも見ることが出来るでしょう。
 画像の3枚目は夜ライトアップされた宇土櫓と天守閣です。神秘的な美しさで観光客を魅了しています。
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5.細川刑部邸
 ここは1994年に城下に移築されて一般に公開されています。なので私が初めて熊本を訪れた1991年にはまだ城下にはなく、子飼という地域にあったそうです。
 細川刑部邸は肥後細川家初代藩主忠利公の弟、刑部少輔興孝(おきたか)が1646年に2万5千石を与えられ興した家であり、その後も細川一門として藩政に参加しています。江戸期に細川姓ではなく長岡姓を名乗っていますが、詳しい理由は分かりません。ちなみに明治初頭に活躍した細川一門の長岡護美は後に細川姓に復姓しています。
 刑部邸は江戸時代に上級士族が住んだ武家屋敷の典型なのでしょう。下の画像2~3枚目は銀の間と呼ばれる家主の執務室と客間を撮影したものです。上級士族の屋敷と言えども質素な感じの造りであり、何となく『禅』の精神を感じることが出来ます。
 ちなみに平日の朝に行ったためか訪れていた観光客は私だけで、ほぼ貸切状態でした。また、刑部邸入場券と熊本城入場券をセットで購入すると2割引きとなるため、まず刑部邸を訪れて入場券を購入することをオススメします。
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6.桜山神社
 桜山神社には神風連の乱で死した敬神党のメンバー123名が葬られています。西南戦争につながる不平士族の反乱の中で最も早くに蜂起したのが神風連であり、彼らを再評価する動きが戦後から活発化しているそうです。三島由紀夫も彼らの思想に共鳴したと聞いたことがあります。色々な考え方はありますが、彼らが憂国の士であったと私は信じています。
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7.横井小楠記念館(四時軒)
 肥後藩出身で幕末に活躍した横井小楠の記念館と併設されているのが小楠の旧居であった『四時軒』です。記念館では小楠の経歴と偉業を称え、多くの遺品を公開しています。
 横井小楠は司馬遼太郎の『翔ぶが如く』において近代国家建設のビジョンを持っていた幕末から明治初頭に存在した3人(福沢諭吉・横井小楠・勝海舟)のうちの1人と称されている人物です。
 小楠はここ四時軒に坂本龍馬など幕末の志士を招いていたそうです。小楠の思想が多くの志士に波及したことが『攘夷』という抽象的な思想から『倒幕・新国家建設』という具体的な目標に変化していったのでしょう。
 画像は四時軒にある小楠の書斎です。ここも刑部邸同様に質素な造りとなっています。
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8.田原坂
 西南戦争最大の激戦地『田原坂』。ここは薩軍が要塞化し、政府軍の侵入を徹底的に防いだ場所です。よって多くの兵士がここで戦死したのです。
 司馬遼太郎は自身の著書『街道をゆく』で
『坂の左右は谷であり、一見自然の長城をなしている。その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹々が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼は見事と言う他ない。』
と記しています。確かに田原坂に立ってみるとその異様な雰囲気と両側の山壁は洞窟の中にでもいるかのようで、薩軍が奇襲攻撃するには最適の場所であり、政府軍にとっては難攻不落の要塞であったことでしょう。
 坂を登り切ると西南戦争の慰霊塔が建っています。薩軍・政府軍の戦死者の氏名が刻まれており、その数の多さに正直驚いてしまいました。また、慰霊塔の近くには『弾痕の家』という施設があり、西南戦争当時に田原坂に建っていた家が両軍の凄まじい銃撃戦により多くの弾痕を残したそうで、それを当時撮影した家の写真をもとに再建したということです。
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9.阿蘇山
 私は過去に阿蘇山へ4回ほど登ったのですが、すべて雨か曇りで晴れている阿蘇山頂を肉眼で見たことがありません(飛行機の窓から見たことはありますが)
 今回は初めて晴れた阿蘇山頂を訪れることが出来ました。草千里や中岳の雄大さに感動しました。さすが日本最大のカルデラ火山です。
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 今回の熊本観光は、今まで私自身が熊本の歴史に疎かったために堪能することが出来なかった反省もあり、多くの予備知識をインプットしたことが良い旅につながったと思います。
 旅をする時には事前にその地の歴史を学んでゆくと一層有意義な旅となることでしょう。

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2008/12/06

薩摩決起へ 翔ぶが如く(七巻)

 明治9年秋、熊本の神風連、萩の前原党、秋月の旧士族らが一斉に決起した。太政官政府はこれらを短期間で制圧したが、必然的に不平士族たちの気分が高揚したのはいうまでもない。もちろん薩摩の私学校連中もその気分でいた。
 警視庁の川路良利は事前に密偵を送り、特に前原一誠に関しては近く蜂起の可能性があることを知り得ていた。
 前原は密偵に多くのことを喋り過ぎた。後にそれを知り神経質になったことはかつての盟友品川弥二郎へ送った手紙を見ても内容の『言い訳がましさ』から窺い知ることが出来る。
 かつて参与であった前原に対して過敏になり過ぎていた政府が、神風連が真っ先に蜂起すると予測していなかった可能性がある。実際熊本では県令安岡良亮や県幹部、そして熊本鎮台が夜襲を受けて甚大な被害を受けた。刀しか持たない相手にである。
 神風連と事前に連絡をしていた前原党や秋月の士族は呼応するように決起したが、政府は短期間で制圧している。
 この事実は士族の不満を全国に形として露見した『負』の部分がある反面、鹿児島の周辺士族を鎮圧し、鹿児島私学校党への協力勢力を抑えたという『正』の成果も得た。

 鹿児島の私学校党はこの情報に興奮した。機が熟したとでも思ったのだろう。しかし詳細については分からない。そこで鹿児島県警の署長を務める野村忍介は情報収集のために大阪へ向かった。(この時、鹿児島県は鎖国同然で一種の独立国の様相を呈していた。)
 野村は大阪府警で騒乱に対し政府から各県警察へどう命令されたかなどを確認し、さらに新聞では薩摩や中央官僚らがどのように報道されているかなどを調べた。
 各紙薩摩に好意的だった。これには野村も気分を良くしたが、神戸から大阪へ鉄道が敷かれ文明開化が進んでいる事実に
『政府は薩摩の田舎でいってるように弱くはない。』
と薩摩にいる永山弥一郎の言葉を思い出した。
 永山弥一郎は西郷下野の際には辞職せず、北海道開拓の官吏として残った。永山が薩摩に戻ったのは千島樺太交換条約に反対したことによる。それだけ現実的な視点で時勢を観察出来る男なのだ。
 野村は上方で得た情報を手に薩摩へ戻った。

 これより少し前、警視庁の川路良利大警視は薩摩の郷士身分を呼び集めある指令を出していた。指令とは薩摩への密偵工作である。
 密偵の人選は殆ど薩摩郷士の者であった。旧薩摩藩は江戸幕府の封建体制をどこの藩と比しても強くしいていた。身分の高い上級士族は郷士たちを蔑み、そして日常的に差別をした。この事は薩摩出身の郷士にとっては屈辱の体験であり、人によっては怨念として記憶に残っている。
 西郷と共に下野した薩摩の近衛兵団の多くは上士出身者である。西郷の側近で陸軍少将の桐野利秋は郷士出身者であるが、それは西郷に気に入られていたために厚遇されただけで、実際には近衛兵は上士から、警察は郷士からという具合で西郷は人選した。よって川路も郷士出身者である。
 川路は密偵を命ずる者に
『かつて受けた屈辱を晴らせ。』
というような事を言い、士気を高めた。その密偵の一人中原尚雄はその一言に並々ならぬ決意をした。
 ところで大警視川路利良だが、現在の身分を与えてくれたのは西郷である。本来ならば薩摩への密偵工作に躊躇しても不思議ではないはずだが、川路はそのような想いは皆無のようだ。余程『公』に資する意識が強いのだろう。
 川路の警察組織を築く上で手本にしたのはフランス視察中に知ったジョセフ・フーシェという人物である。フーシェはフランスでは変節漢で悪名高く、武士道を重んじる日本人ならば軽蔑の対象である。フーシェは自らの保身のためにフランスの警察組織を整備し発展させたのだが、川路はフーシェの『罪』部分よりも警察組織を築いた『功』部分を高く評価した。フーシェは密偵を政府高官のもとに送り秘密を握ってユスリ紛いのことをした。しかし川路はフーシェとは違い密偵を『公』のための必要な工作と位置付け整備した。
 川路とフーシェは警察組織を整備する動機は違ったが、川路がフーシェを模範としたことは政府にとっては最強の武器となる。
 こうして川路は挑発と情報収集のための密偵を放った。

 鹿児島は私学校党らが今こそ挙兵すべしと沸き立っていた。その興奮状態は鹿児島全域を一種の独立国の様相とし、若い私学校の連中は上京して君側の奸(大久保らのこと)を討つべしと鼻息を荒く叫んでいた。
そのような時期に川路の放った密偵は帰郷という名目で鹿児島に潜入した。もちろん一種の鎖国状態である鹿児島においては帰郷した者を猜疑心をもって見た。
 明治9年11月の評論新聞紙面において『流言あり。政府密かに刺客を鹿児島に遣はし、西郷大将を暗殺せんとす。』と掲載された。この情報は鹿児島にももたらされ、私学校党の連中は風説ではなく確報として受け止めた。故にこの時期に帰郷する者に対し、当然の如く疑いの目を向けた。
 密偵中原尚雄も例外ではない。私学校党側は中原が密偵であるかを調べるべく、足軽身分の谷口登太を中原へ接触させた。
 中原の元へ谷口が出向くと中原は谷口を丁重に扱った。そして酒が入ったいたせいか、私学校の連中には政府軍を倒せないと語り出し谷口を懐柔しようと試みた。さらに中原は饒舌となり
『此処に於て秘中の秘策を用ゐ、十分可相崩之事決し居候に付、第一西郷隆盛を暗殺せば必ず学校は瓦解可至…』(自分は西郷と面識があるから面会を得て刺し殺す覚悟がある。すれば私学校は瓦解するだろう…)
と私学校の連中が聞けば驚愕し、大騒乱となることを語ったのだ。
 谷口はそれに私学校側に通報し、中原は捕縛された。
 中原は私学校党からの拷問を受けたがその事実を認めなかった。さら時を下り西南戦争後の裁判においても否定し続けた。
 西郷暗殺が川路から指令であったかは現在でもはっきりしない。ただ密偵がその気分であったことは間違ないだろう。

 時を同じくして鹿児島にある陸軍弾薬庫から政府が弾薬の類を接収し始めた。明らかに挑発行為である。この政府の行動に私学校党は激昂した。時は中原による西郷暗殺が露見したのと同時であり、私学校党はそうした複合的要素によってついに暴走、弾薬庫を襲撃し弾薬を奪取した。
 この報は狩猟に勤しんでいた西郷にも伝えられた。
『シモォタ!』
この報に接した際、西郷がこの言葉を発したと後世に伝えられているが、心境としてはまさにそれであるだろう。
今まで鹿児島の山中にあって世捨人のような生活を送り、私学校党を無言の圧力で抑えてきた西郷にとってはあってはならない事態が起きたのだ。こうして西郷は下山し、私学校本局において臨時の大評定を開いた。
 評定には主だった西郷の側近や私学校幹部らが参加し、決起ついて賛否を求めた。求めたといっても桐野や篠原国幹らは既に挙兵し上京すべしの規定路線をぶち上げている。事ここに至って慎重論を唱えるのは永山弥一郎だけだった。永山は明治7年まで官吏の職にあったので政府の力は薩摩で言われているほど弱くはないと思っている。今回挙兵しても苦戦は必至だと主張したが、場内挙兵の雰囲気が充満しており、永山の主張は黙殺された。
 評定を決したのは西郷の一言だった。
『自分は、何もいうことはない。一同がその気であればよいのである。自分はこの体を差し上げますから、あとはよいようにして下され。』
 幕末、政略と軍略で名を馳せた天下の西郷とは思えない発言であるが、これによって西郷ら薩摩武士一同は挙兵するに至った。
 西南戦争の幕開けである。
 八巻へ続く。

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2008/12/03

不平士族 翔ぶが如く(六巻)

 五巻の後半から物語の中心人物となった宮崎八郎だが、肥後でルソーの『民約論』に触れ、民権思想へと傾倒する。宮崎が民約論に触れるのは中江兆民による民約論が出版される以前の時代であるが、フランス留学から帰国した兆民と何らかの方法で通じ、その思想を知るに及んだのではないかと司馬氏は分析している。
 民権思想へと傾倒する宮崎はあることを思い付く。明治7年から8年当時、各県における地域行政は江戸期の名残から庄屋や富農たちが名前を『戸長』と変えて担っていた。宮崎はその戸長の業務は『民会』という民主的な会合によって選出された者によっておこなうべきだと考え、東京・浅草本願寺の地方官(府県知事)会議に出席している白川県(熊本県)令・安岡良亮に談判すべく、単身東京へと向った。
 藩校時習館出身で、先の台湾出兵にも参戦した宮崎のことを安岡は意外にも評価している。そのため植木学校設立の折には躊躇うことなく助成金を支給した。また浅草では宮崎を丁重に迎え、宮崎の『民会開設』なるものを聞いた。安岡は宮崎の話を黙々と聞き、即答を避け宮崎と別れた。しかし実際にはその内容に驚愕し、(安岡としては『民会』は時期尚早であると思ったのであろうか?)熊本へ戻ると真っ先に植木学校への助成金を打ち切った。元々財政の厳しい学校であったたために必然的に廃校となった。安岡良亮は宮崎の急進的な思想に危機感を覚え、その思想が植木学校を通じて培養されるであろうことを恐れ潰したと考えられる。
 東京で不平士族らの情報収集をおこなっている宮崎の元に、熊本の同士が訪ねてきた。植木学校が廃校になった経緯を述べた上で事態打開のために宮崎に熊本へ戻るよう願い出るが、宮崎は東京に止どまるという。東京には薩摩人『海老原穆』という人物がおり、彼の主宰する評論新聞社を通じて薩摩の情報を得ると同士に告げた。

※海老原穆とは薩摩人でありながら、太政官の政策に異を唱える人物であり、どういう訳か、薩摩藩財政再建の功労者・調所広郷の遺した財産を相続してその財産をもって評論新聞社の活動資金としている。

 宮崎曰く、熊本にあっては西郷蜂起の情報が得にくい、故に薩摩との連絡も密である評論新聞社を通じその情報を得ることで自分たちの西郷蜂起に呼応すると言うのだ。
 以上の話でも分かるように、宮崎が民権運動に傾倒したといっても、武力による政権打倒の道は捨てておらず、さらに西郷が蜂起し太政官府を倒したとしても西郷が武断主義者である以上(これは宮崎自身の西郷像であるが)、事が成った後には西郷らも武力で倒し、理想とする民権の政府を立ち上げるという。これらの思考は当時、いや現在でも書生如きの机上の空論としか映らない。しかし宮崎は大真面目にこの構想が現実可能だと信じていた。それだけ維新というものが与えた衝撃と反動は大きく、書生の思考回路を誇大にさせていたのかもしれない。結局は志士あがりの民権活動家とは所詮宮崎のような人物が多かったのでだろう。

 次の話は島津久光の事に移る。
 太政官府は西郷隆盛という大きな重石を征韓論争により失い、不平士族が西郷を戴き、反政府動乱がおこることを恐れた。そのため、西郷下野の直後に復古主義者とも言える旧薩摩藩国父・島津久光に左大臣就任を要請する。
 この左大臣という役職は王政復古から明治7年までの間、太政官府には置かれていなかった。左大臣は時代を遡れば登場するのような役職で、有名なところでは奈良時代の権力者『長屋王』が左大臣であったことは知られている。そのような古の役職を復活させて久光に就かせようとしたのには不平士族の重石としててであろう。また、久光やその一派が西郷と手を握り、さらには全国の不平士族と呼応して反乱がおきないように役職に就けて久光を半ば拘束しようと考えたのかもしれない。
 この久光、極端な復古主義であり、左大臣に就任してからといもの幕藩体制に戻せと主張、ついには太政大臣である三条公にまで弾劾状を奏上するに至るのであった。しかし天皇(新政府)は五箇条の誓文により幕藩体制を否定した訳で、太政官にとっては受け入れ難いものばかりである。当然であるが大久保ら参議はこれらを黙殺した。
 そのような経緯から久光は左大臣の職を辞し、さっさと鹿児島へ帰ってしまう。これにより旧士族の重石となっていた西郷、そして旧体制の代表格久光を失った太政官は、必然的に不平士族との本格的な対立へと向かうのであった。

 六巻では『萩の乱』を起こした前原一誠についても詳細に記されているが、ここでは省略させてもらい後半物語の中心となる神風連について話を進めたい。ちなみに司馬氏は前原一誠について『萩の乱』の首魁として知られてはいるが、実際は不平士族の気分が名以上の存在に祭り上げたと考えているようだ。
 さて神風連であるが、熊本に存在した過激勤王攘夷の思想集団の俗称であり、本来は『敬神党』と呼ばれている。熊本には敬神党以外にも『学校党(藩校時習館に在籍した志士の党派)』や『実学党(横井小楠の思想を継承している党派。太政官の政策と近い)』があり、この二派閥は政治色が強いが、神風連は政治色よりも思想や宗教色が強い。そもそも神風連とは、彼らが『元寇』の時に吹き荒れた嵐(神風)によって夷人を倒すという思想を持ち合わせていたことでそう呼ばれるようになった。故に神風連は、政治的な思想に拠って行動するよりも宗教的(神道)な精神により行動する集団である。
 その神風連が明治9年10月、廃刀令に反発し反乱を起こした。ただ反乱の原因は廃刀令だけではなく、太政官府がおこなう政策の西洋化や、征韓論や台湾問題において膨張主義に踏み切れない弱腰な姿勢にも起因していた。これらは現代日本における右翼思想の原点とも言える。(司馬氏もそのようなことを述べている。ちなみに後者は秋月の乱をおこした宮崎車之助らが濃厚に主張したものである。)
 また、世の不平士族が西郷の挙兵に期待していたのに比し、神風連は西郷ら薩摩など俗物であるので期待などせずに宇気比(うけひ)<おみくじみたいなもの。彼ら曰く神託>によって行動指針を決めた。恐ろしいほどの信心である。当然この反乱も宇気比により決まった。
 神風連は極端な国粋主義者であるので、反乱には銃器は用いず、刀のみで蜂起した。夜中に熊本県の役人を襲ったことから被害は甚大で、県令の安岡良亮や熊本鎮台司令長官、警察幹部らが殺害された。また襲撃を受けた熊本鎮台でも多くの百姓兵(徴兵された兵士)が逃げ切れずに惨殺された。まったくもって無差別殺人であるのだが、神風連にとっては洋化された卑しい官を成敗する義挙であった。
 当初は夜襲によって神風連は勢いを誇っていたが、思想上の理由から銃器を持たない神風連は次第に劣勢となり結局は後に日露戦争で活躍する若き司令官児玉源太郎が指揮する兵士たちによって鎮圧された。この乱に参加したメンバー約170人のうち約120人が死亡したと言われている。実に凄惨な反乱であった。
 この神風連の乱は結果的には失敗に終わったが、世間には『鎮台兵弱し』のイメージを植えつけることになった。そしてこのイメージが西南戦争で薩摩軍が鎮台兵の守る熊本城に向かうことへつながってゆくのである。

 神風連の蜂起の後に呼応して『萩の乱』や『秋月の乱』が起こるが、果たして太政官はどのように対処するのか?そして西郷はついに動くのであろうか?七巻以降へと続く。

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西南戦争の戦火を免れ、江戸期から現存している『宇土櫓』。築400年以上の宇土櫓において鎮台兵と神風連のメンバーが戦った可能性はある。

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