準備なき台湾遠征と巧な大久保の事後処理 翔ぶが如く(五巻)
琉球民を生蕃(せいばん<概ね台湾を指す>)牡丹社(台湾の地域)の高砂族に虐殺され、その報復という名目で西郷従道は出兵することになった。当時の琉球は日本と清国との両属となっており、旧来であれば『報復』などといった名目は成り立たない。しかしこの出兵は征韓論で下野した士族たちを取り込んだ遠征にするべく、従道にとっては実現させなければならない外征であった。このことに多くの参議は反対したが、大久保や大隈は賛成の立場で従道を支持した。
従道は長崎へ向かう途中に鹿児島に立ち寄り、兄西郷隆盛と会うのだが、そこで兄に台湾遠征の旨を伝え、その上で薩摩士族を遠征に同行させたいと願い出た。隆盛は従道に対し『郷士の連中を連れてゆけ』と言い、従道は兄の言葉どおり薩摩士族ら旧士族連中を『徴集隊』として遠征に同行させた。
西南戦争が起こるのが1877年(明治9年)であり、その2年前のこの時期に従道が隆盛を訪ね、薩摩士族を遠征に徴集させた事実は新政府の中でも不平士族への対策が外征にありと考える人々がいたことを物語っている。また、隆盛が下野したとはいっても実際にはその影響力は十分に持ち合わせていたことが分かる。
数日後、従道は長崎で遠征に備え大久保らと打ち合わせをしていた。大久保と大隈以外の参議はことごとく遠征には反対であり、太政大臣の三条実美は遠征中止の使者を従道へ送った。ところが従道は中止など出来ないと三条の意見を撥除けてさっさと台湾に向けて出発してしまう。本来自己の感情を抑えることが出来ない従道ではない。しかしこの遠征が単なる外征だけの意味を持たないことはこの従道の行動に見ることが出来る。それは不平士族への対策であり、従道の兄西郷隆盛の存在も大きかったのであろう。
これは新政府にとって初の本格的外征であるが、出発してから準備不足が露見する。食料用の肉は腐り、飲水も不足、さらには熱帯に近づくにつれてマラリアやアミーバ赤痢といった病に倒れる者も続出した。
台湾に上陸すると牡丹社に対して攻撃はしたものの、実際の被害は日本軍の方が甚大であった。戦死者は12人であるのに対し、前述した病による死者は700人を超え、いかに外征に対して準備不足であったかをうかがい知ることが出来る。この当時の新政府には外征するだけの戦略も軍事力も持ち合わせていなかったのだ。
時を同じくして日本本国では太政官を揺るがす事態が起こっていた。英国からの抗議である。英国は清国に多くの権益を持つ。故に新興国である日本がその聖域(清国領土)に踏み込むことは面白くなく、ただちに兵を引き上げるように容喙してきたのだ。英国から多額の外債を引き受けてもらい頭の上がらない日本にとっては無視できない話であり、参議たちも動揺を隠せない。そこに『私にすべてを一任して清国へ派遣させてくれ』と申し出た男がいた。大久保利通である。
大久保は台湾からの撤兵を清国との交渉によって解決することを目指した。それは清国から今回の出兵を『仁義の挙』であることを認めさせ、その上要した費用を得ようともするのである。実に狡猾であるが合理的な考えである。しかし台湾が清国の領土であるならば今回の遠征は単なる主権侵害(海賊行為)であり、日本の唱える義は立たない。大久保は清国に台湾は『無主の地』であることを認めさせなければならなかった。
天津に着いた大久保は米国公使館に滞在した。この天津には清国の外交を担う大物政治家がいた。後に下関会議で清国の全権を務める李鴻章である。本来多くの外国公使たちは交渉の前に彼を訪ねる。またそれが慣例となっている。しかし大久保は李鴻章と会わなかった。なぜなら李鴻章は公使・柳原前光に対して今回の台湾遠征について交渉した際に子供扱いして取り合わなかったからだ。大久保はそのような相手と会う必要はないと考えたのであろう。かつこれを心理戦に利用しようと考えたに違いない。
この大久保の態度を非礼とみた李鴻章は外交窓口である北京の総理衙門に対し『大久保非礼極まり。交渉に譲歩する必要あらず。』のような指示を下したのは間違いないと思われる。
結局大久保は李鴻章と会わぬまま北京へと向かった。大久保は今回の外交団の随員に仏人法律家のボアソナードを随行させていた。このボアソナードから『台湾は無主の地』であることを万国公法を根拠として主張できると言われ、大久保もその言葉どおりに交渉に臨んだ。
大久保と清国外交団の交渉は平行線をたどった。大久保は『生蕃は無主の地であり、日本の軍事行動は琉球民保護の観点から義挙である。』と主張し、清国側は『台湾は清国の領土であり、日本の行為は侵犯行為だ。』と主張した。大久保は『清国の領土である根拠を示せ。』と迫るが清国側は『その必要はない。』と突っぱねる。そして大久保は交渉を終わりにして帰国することを決めるのである。大久保帰国となれば日清開戦の可能性が現実味を帯びてくる。そこに清国に対して利権多く持たないドイツやフランスが日本を担ぐことになれば英国としてはたまったものでない。そこで英国は公使ウェードが総理衙門に赴き自らが日本との間を仲介すると願い出た。
ウェードの調停案は以下のとおりである。
1.遠征軍は償金と引き換えに撤収する。ここで注目したいのは『民を保つ義挙』の『民』とは琉球民のことで、それを保護する日本の行動を「義挙」というのだから、「琉球は日本領土である」ことを清国が認めたのだと解釈された訳だ。これが後の琉球処分へとつながってゆく。
2.清国は日本の行為を『民を保つ義挙』と認めて先住民に害された者の遺族に見舞金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設や道路を清国が買い上げるという名目で40万両を支払う。
大久保は交渉を終え、帰国の途中立ち寄った天津で李鴻章に会う。交渉前には決して会うことをしなかった大久保が帰国直前で会いに行ったのだ。何という巧みでしたたかな性格の持ち主であろうことか。このような大久保の清国との交渉における一連の流れを見て、大久保利通という男の大半を観ることができよう。徹底した合理主義者あり利害関係でのみ人間関係を使い分ける狡猾であるが『公』に徹する人物というのが私の大久保評だ。
大久保は直接帰国せずに台湾に立ち寄り西郷従道に交渉の結果を直接伝えにゆく。太政官から軍事権を委任されている大久保が自ら撤兵を告げるというのである。これは今回の遠征が終始自らの権威と正当性によって進められたことを見せ付けるための演出であろう。
この撤兵に対して多くの徴集兵たちは不満であった。義兵とされたが良いが遠征とは名ばかりで大久保の外交戦術に利用された形となったからだ。
そのような徴集兵の中に肥後出身の宮崎八郎がいた。後に辛亥革命の影の立役者として名を馳せる宮崎滔天(とうてん)の兄である。八郎は世間の不平士族同様、新政府のやり方に憤慨していた。が徴集兵には志願している。この当時の不平士族がやり場のない鬱屈感を外征に求めていた事を八郎の行動を通して司馬氏は伝えたかったのかもしれない。さらにこうした気分の延長線上に太平洋戦争があったとも述べている。
その宮崎八郎だが、郷士の身分でありながら熊本の藩校時習館で学んだ秀才であった。故に維新後は肥後士族として時勢の流れに乗り遅れてしまった。そのことが八郎が反政府への感情を生んだ。
物語は台湾遠征から故郷熊本荒尾村へ戻った宮崎八郎がルソーの『民約論』に傾倒し、さらに反政府の教育機関として植木学校を設立する話へと進んでゆくが、その部分については省略させて頂く。
大久保が帰国した明治7年以降、宮崎のような不平士族は民権運動や反政府暴動を展開することとなるが、その経緯については6巻へと続く。
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