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2008年11月の12件の記事

準備なき台湾遠征と巧な大久保の事後処理 翔ぶが如く(五巻)

 琉球民を生蕃(せいばん<概ね台湾を指す>)牡丹社(台湾の地域)の高砂族に虐殺され、その報復という名目で西郷従道は出兵することになった。当時の琉球は日本と清国との両属となっており、旧来であれば『報復』などといった名目は成り立たない。しかしこの出兵は征韓論で下野した士族たちを取り込んだ遠征にするべく、従道にとっては実現させなければならない外征であった。このことに多くの参議は反対したが、大久保や大隈は賛成の立場で従道を支持した。
 従道は長崎へ向かう途中に鹿児島に立ち寄り、兄西郷隆盛と会うのだが、そこで兄に台湾遠征の旨を伝え、その上で薩摩士族を遠征に同行させたいと願い出た。隆盛は従道に対し『郷士の連中を連れてゆけ』と言い、従道は兄の言葉どおり薩摩士族ら旧士族連中を『徴集隊』として遠征に同行させた。
 西南戦争が起こるのが1877年(明治9年)であり、その2年前のこの時期に従道が隆盛を訪ね、薩摩士族を遠征に徴集させた事実は新政府の中でも不平士族への対策が外征にありと考える人々がいたことを物語っている。また、隆盛が下野したとはいっても実際にはその影響力は十分に持ち合わせていたことが分かる。
 数日後、従道は長崎で遠征に備え大久保らと打ち合わせをしていた。大久保と大隈以外の参議はことごとく遠征には反対であり、太政大臣の三条実美は遠征中止の使者を従道へ送った。ところが従道は中止など出来ないと三条の意見を撥除けてさっさと台湾に向けて出発してしまう。本来自己の感情を抑えることが出来ない従道ではない。しかしこの遠征が単なる外征だけの意味を持たないことはこの従道の行動に見ることが出来る。それは不平士族への対策であり、従道の兄西郷隆盛の存在も大きかったのであろう。
 これは新政府にとって初の本格的外征であるが、出発してから準備不足が露見する。食料用の肉は腐り、飲水も不足、さらには熱帯に近づくにつれてマラリアやアミーバ赤痢といった病に倒れる者も続出した。
 台湾に上陸すると牡丹社に対して攻撃はしたものの、実際の被害は日本軍の方が甚大であった。戦死者は12人であるのに対し、前述した病による死者は700人を超え、いかに外征に対して準備不足であったかをうかがい知ることが出来る。この当時の新政府には外征するだけの戦略も軍事力も持ち合わせていなかったのだ。
 
 時を同じくして日本本国では太政官を揺るがす事態が起こっていた。英国からの抗議である。英国は清国に多くの権益を持つ。故に新興国である日本がその聖域(清国領土)に踏み込むことは面白くなく、ただちに兵を引き上げるように容喙してきたのだ。英国から多額の外債を引き受けてもらい頭の上がらない日本にとっては無視できない話であり、参議たちも動揺を隠せない。そこに『私にすべてを一任して清国へ派遣させてくれ』と申し出た男がいた。大久保利通である。
 大久保は台湾からの撤兵を清国との交渉によって解決することを目指した。それは清国から今回の出兵を『仁義の挙』であることを認めさせ、その上要した費用を得ようともするのである。実に狡猾であるが合理的な考えである。しかし台湾が清国の領土であるならば今回の遠征は単なる主権侵害(海賊行為)であり、日本の唱える義は立たない。大久保は清国に台湾は『無主の地』であることを認めさせなければならなかった。

 天津に着いた大久保は米国公使館に滞在した。この天津には清国の外交を担う大物政治家がいた。後に下関会議で清国の全権を務める李鴻章である。本来多くの外国公使たちは交渉の前に彼を訪ねる。またそれが慣例となっている。しかし大久保は李鴻章と会わなかった。なぜなら李鴻章は公使・柳原前光に対して今回の台湾遠征について交渉した際に子供扱いして取り合わなかったからだ。大久保はそのような相手と会う必要はないと考えたのであろう。かつこれを心理戦に利用しようと考えたに違いない。
 この大久保の態度を非礼とみた李鴻章は外交窓口である北京の総理衙門に対し『大久保非礼極まり。交渉に譲歩する必要あらず。』のような指示を下したのは間違いないと思われる。
 結局大久保は李鴻章と会わぬまま北京へと向かった。大久保は今回の外交団の随員に仏人法律家のボアソナードを随行させていた。このボアソナードから『台湾は無主の地』であることを万国公法を根拠として主張できると言われ、大久保もその言葉どおりに交渉に臨んだ。
 大久保と清国外交団の交渉は平行線をたどった。大久保は『生蕃は無主の地であり、日本の軍事行動は琉球民保護の観点から義挙である。』と主張し、清国側は『台湾は清国の領土であり、日本の行為は侵犯行為だ。』と主張した。大久保は『清国の領土である根拠を示せ。』と迫るが清国側は『その必要はない。』と突っぱねる。そして大久保は交渉を終わりにして帰国することを決めるのである。大久保帰国となれば日清開戦の可能性が現実味を帯びてくる。そこに清国に対して利権多く持たないドイツやフランスが日本を担ぐことになれば英国としてはたまったものでない。そこで英国は公使ウェードが総理衙門に赴き自らが日本との間を仲介すると願い出た。
 ウェードの調停案は以下のとおりである。

1.遠征軍は償金と引き換えに撤収する。
2.清国は日本の行為を『民を保つ義挙』と認めて先住民に害された者の遺族に見舞金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設や道路を清国が買い上げるという名目で40万両を支払う。
ここで注目したいのは『民を保つ義挙』の『民』とは琉球民のことで、それを保護する日本の行動を「義挙」というのだから、「琉球は日本領土である」ことを清国が認めたのだと解釈された訳だ。これが後の琉球処分へとつながってゆく。
 大久保は交渉を終え、帰国の途中立ち寄った天津で李鴻章に会う。交渉前には決して会うことをしなかった大久保が帰国直前で会いに行ったのだ。何という巧みでしたたかな性格の持ち主であろうことか。このような大久保の清国との交渉における一連の流れを見て、大久保利通という男の大半を観ることができよう。徹底した合理主義者あり利害関係でのみ人間関係を使い分ける狡猾であるが『公』に徹する人物というのが私の大久保評だ。
 大久保は直接帰国せずに台湾に立ち寄り西郷従道に交渉の結果を直接伝えにゆく。太政官から軍事権を委任されている大久保が自ら撤兵を告げるというのである。これは今回の遠征が終始自らの権威と正当性によって進められたことを見せ付けるための演出であろう。

 この撤兵に対して多くの徴集兵たちは不満であった。義兵とされたが良いが遠征とは名ばかりで大久保の外交戦術に利用された形となったからだ。
 そのような徴集兵の中に肥後出身の宮崎八郎がいた。後に辛亥革命の影の立役者として名を馳せる宮崎滔天(とうてん)の兄である。八郎は世間の不平士族同様、新政府のやり方に憤慨していた。が徴集兵には志願している。この当時の不平士族がやり場のない鬱屈感を外征に求めていた事を八郎の行動を通して司馬氏は伝えたかったのかもしれない。さらにこうした気分の延長線上に太平洋戦争があったとも述べている。
 その宮崎八郎だが、郷士の身分でありながら熊本の藩校時習館で学んだ秀才であった。故に維新後は肥後士族として時勢の流れに乗り遅れてしまった。そのことが八郎が反政府への感情を生んだ。

 物語は台湾遠征から故郷熊本荒尾村へ戻った宮崎八郎がルソーの『民約論』に傾倒し、さらに反政府の教育機関として植木学校を設立する話へと進んでゆくが、その部分については省略させて頂く。
 大久保が帰国した明治7年以降、宮崎のような不平士族は民権運動や反政府暴動を展開することとなるが、その経緯については6巻へと続く。

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江藤蜂起 翔ぶが如く(四巻)

 征韓論に敗れて下野した参議は西郷以下肥前出身の江藤新平、同じく副島種臣、土佐出身の板垣退助であった。
 新政府は征韓論という政争がおこる以前に、徴兵制・地租改正・廃藩置県といった政策を実施し既成の制度を変革することで、中央集権による新しい国家体制を目指していた。廃藩置県では薩摩藩国父・島津久光以外は特段の抵抗はなかったが、徴兵制には旧士族、特に戊辰戦争で官軍として戦った武士たちからの反発を受けた。それに加えて地租改正により税負担が増した百姓たちは各地で一揆を起こしている。もし、この一揆と不平士族が結びついて全国で一斉に武装蜂起でもおこれば基盤の脆い新政府にとって忌々しき事態となることは必定である。
 そんな危惧を抱いていていた矢先に征韓論という政争がおこり、それによって武士のカリスマと崇められていた西郷隆盛が下野したのだ。さらに西郷を慕う薩摩士族は続々と中央での職を辞して後を追うように鹿児島へ帰郷してしまう。この事実は鹿児島の地が不平士族による反政府暴動への導火線となることを意味していた。

 征韓論による西郷下野から間もなく、佐賀では新政府一の切れ者と呼ばれていた江藤新平が不平士族の首魁に奉りあげられて武装蜂起した。俗にいう『佐賀の乱』である。
 なぜ、江藤ほどの才ある人物が反乱をおこしたのか?の疑問に対し翔ぶが如くの作中で司馬氏は
『江藤は今こそが第二の維新をおこすべき時と考えている。維新の時のように(肥前は)乗り遅れてはならない。』
『江藤は西郷が立つ事に期待した。長州人は利口だが薩人は愚鈍だから騙せる。』
と述べている。
 江藤自身が蜂起することが、薩摩の不平士族の蜂起へと繋がると考えたのであろう。
 ところが西郷は動かなかった。
 江藤の目論見は外れてしまった。こうなっては佐賀の局地的武装蜂起では維新どころではない。極めて小規模な反乱になってしまい、その意味すら失ってしまう。
 この佐賀の乱を新政府の基盤強化に繋げようと考えたのが江藤の憎むべき大久保利通であった。大久保は
『反乱は小規模なら起きてくれたほうが政府にとっては好都合である。』
と考えた。反乱を鎮圧することで、新政府が不平士族の反乱に対して断固たる措置をすると見せ付けることが出来るからであろう。そして太政官府の三条や岩倉から現地での司法権、行政権を借用し、反乱軍討伐の責任者として佐賀へ赴いた。
 佐賀の士族は旧幕府時代から教育水準は高いと有名であるが、理屈が多いため戦いの実戦では弱い。そのような理由を裏付けるように、戦いでは防衛線が長すぎたことが災いし兵力を散してしまってその力を発揮できないまま徴兵制で集められた『鎮台兵』相手に敗れてしまった。
 敗北すると江藤は逃亡し、鹿児島で西郷に会い決起を促すのだが理解を得ることは出来ず、その後自ら司法卿時代に築いた警察網に引っかかり捕縛され、大久保の『賊徒巨魁の者は、梟首(きょうしゅ)』の方針のとおり惨い最期を遂げた。
 この江藤に対する惨い処置について司馬氏は作中で
『独立国の様相を呈している薩摩への警告、挑戦であったであろうか。』
と述べている。
おそろなくはこの推論で間違いないとは思うが、私は大久保と江藤の間には表の歴史では知られることのない『私怨』があり、このような結果になってしまったと考えている。

 江藤の蜂起が失敗に終わると、大久保や西郷従道ら政府・軍部幹部は次なる手で薩摩に対してアクションをおこしてゆく。それは『台湾遠征』である。
 この台湾遠征は元々征韓論以前から続いている案件であった。琉球人が清国へ渡る際に漂流してしまい、台湾に漂着した。その漂流民を台湾の原住民が殺害した事件を日本のアメリカ公使たちがそそのかして新政府に出兵を促したことから始まった。
 そもそも琉球は江戸時代から日本と清国の両国から統治されている。よって琉球の民と言えども自国民であることには変わりなく、日本(新政府)はその保護のために出兵すべきだと公使らは言うのである。このアメリカ公使たちは猟官運動で地位を得た胡散臭い役人であり、現実的に考えて新政府に容喙するべきことは僭越であろうが、外交慣行に不慣れな日本政府を利用してアメリカの野心を満たそうとしたのであろう。また、当時の副島種臣外務卿はこんな話に興味を示してしまった。
 この問題はしばらく放置されていたのだが、江藤の蜂起と時を同じくして新政府(特に薩摩閥)の中から台湾へ遠征すべしという意見が太政官で取り上げられ、実行に移されることになった。
 征韓論に敗れ、外征により存在意義を示せなくなった旧武士たちを台湾への外征で鬱積した気分をガス抜きさせようと画策した訳だ。
 果たしてこの台湾遠征はどのように進んでゆくのか、五巻へと続く。

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紛糾征韓論 翔ぶが如く(一巻から三巻まで)

 1990年にNHK大河ドラマとして放送された『翔ぶが如く』。この原作は司馬遼太郎の小説で、全十巻にも及ぶ長編作品である。
 当初は翔ぶが如くを読む予定ではなく、同じく司馬遼太郎氏の著書である『坂の上の雲』の2巻以降の続き読みたくて古本屋へ購入しに行った訳だが、どうやら来年のドラマ化が影響しているのかどこの店も在庫がない。ただ最後に行った店ではその日が『1冊100円セール』の日でもあったので、棚に並んでいた翔ぶが如くを購入したことが今これを読むきっかけとなった。
 先日読み終わった同じく司馬氏の作品『最後の将軍』が徳川幕府の側から観た幕末維新であるのに対し、翔ぶが如くは反幕府勢力の筆頭薩摩藩の西郷・大久保からの幕末維新を描いた作品であろうと思い、全十巻という長編小説ではあるももの購入したのだが、第一巻の始まりがいきなり薩摩士族で後の大警視である川路利良の洋行シーンであり、大河ドラマの翔ぶが如くを知る私にとっては肩透かしを食らった感じであった。
 物語は征韓論で太政官府が紛糾する直前から始まり、西郷や大久保の話以外にも多くの政府関係者や旧士族の思惑等々を征韓論を通じて描く形となっている。
 当初は幕末維新の話を期待していたので期待外れ的な感情を抱いていた私であるが、話を読み進めてゆくうちに、当時の新政府役人や薩長土肥出身者の思惑を司馬氏独自の視点で取り上げており、実に面白く興味深い内容である。
 
 現在第四巻を読み進めているところだが、とりあえずは第三巻までの『感想文』的な物をここに記してゆきたい。また、十巻までの間にこのような形で記事を上げてゆきたいとも思っている。しかし、全十巻もある長編小説などは読んだことはなし、かなり根気が必要なのかと思うのだが、日本史、特に江戸期から明治にかけては非常に興味のある時代なので、実際のところ苦にはなっていない。まあこれで苦になるようであれば『日本史探求』などというブログ自体を開設し更新し続けてゆくことはしないであろうけど。

 そもそも各巻話が長く、多くの人物が登場するので、私の印象に残った人物や作中に描かれているやりとりを取り上げてゆきながら感想を述べてゆこうと思う。
 
 翔ぶが如くの作中で、私がもっとも印象に残る人物は川路利良と桐野利秋(中村半次郎)である。
 西郷によって中央政府の官吏に引き立てられた薩摩藩士川路利良と桐野利秋は共に西郷を慕う気持ちを抱いている。しかし2人は征韓論直前の時期にまったく異なる思考をもって行動する。『公』を重んじ『私』を封印する川路。『義』を重んじ、維新の戦いでの栄誉を胸に西郷を絶対的に崇拝する桐野。2人の歩む道は後の西南戦争における各人の果たした役割の原点となってゆくのではないだろうか。そもそも西郷が川路にポリスの役職を与えなければ、西南戦争は違った形に展開したのかもしれない。
 その西郷だが、参議として重責を果たすべく死に場所を求めて朝鮮への遣使に任じてほしいと太政大臣・三条実美に働きかける。征韓論の賛否は別にして、その姿は『静』の西郷というイメージを覆す『動』の西郷を私なりに感じた。また、征韓論という私から言わせてもらえば愚行(当時の日本国の生産力を考慮した際の発想)に西郷や切れ者江藤新平らが提起したのかもこの作品を読むと分かる。
 西郷は純粋に『師匠』である島津斉彬の構想を実現するために征韓論を成し遂げよう(朝鮮を占領しようという発想ではなく、朝鮮を説き彼の国においても維新を達成させ、さらには清王朝も加えた東アジア連合によって列強と対峙すべしという構想)とするのだが、この構想に乗っかるようにして『維新によって冷遇されている不平士族の鬱積を晴らす』ことや『維新に乗り遅れた肥前の権勢を征韓論と共に増す』などといった思惑が重なってゆき、ついには征韓論が政争の道具と化してしまう。
 そして洋行帰りの連中はそれを『愚の骨頂』と罵り、潰しにかかる。特に伊藤博文や大隈重信といった現実主義者(司馬氏曰く二流の人物であるようだが)は征韓論潰しのために東奔西走する。
 私自身、出来るだけ歴史を客観的に捉えようと心掛けているのだが、もし私が当時太政官の参議であって征韓論を目の当たりにしていたならば、おそらくは反征韓論の立場を取っていたであろう。なぜなら西郷の掲げる征韓論は幕末に島津斉彬が西郷に語った東アジア連合という机上の空論を基にしているため、現実的に維新により成立した新政府の台所事情を考えたら、外征などは『愚の骨頂』の何物でもない。
 と、征韓論は太政官の廟議でも当然紛糾し、太政大臣の三条が心労で倒れるに至り、反征韓論者の岩倉具視が代理となることで征韓論を主張する連中は事実上敗れたのである。(征韓論自体は『先送り』という結論だったらしい。)
 敗れた参議たちは一斉に下野するのであるが、下野した連中がどのような行動を取るのかは四巻以降の物語として続くのである。
 
Seikanronzu
太政官の廟議で紛糾する『征韓論』を描いた図。寡黙な西郷が声を荒げたと伝わっており、その執念を垣間見ることができる。

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江戸幕府中興の宰相 田沼意次

 以前から私は田沼意次を『改革者』として賞賛し、彼が幕政で成し得た功績を当ブログでも紹介してきた。
 田沼意次に対し『賄賂政治家』のレッテルを貼り、改易せしめたのは『寛政の改革』で知られる松平定信である。定信は御三卿の一つ田安家の次男として生まれたにも関わらず意次の計略によって将軍になれなかった私怨があり、その恨みが意次のすべてを否定する思考に結びついたのかもしれない。
 発想を変えれば寛政の改革は定信の恨みが幕政として現れた結果なのかもしれない。田沼政治の否定が寛政の改革なのだからそう考えても不自然ではないであろう。

 さて、あらためて田沼政治を振り返ってみる。
 1745年、吉宗の嫡子家重が第9代将軍に就任すると意次も家重とともに江戸城本丸に移り、2年後には小姓組番頭格、さらに翌年には同組番頭、そして1751年に側衆側用取次(側用人)と破格のスピード出世を遂げた。これは将軍家重の覚えがめでたいだけではなく、周囲の幕閣らから意次の政治手腕を高く評価されていたことが裏付けられた結果であろう。
 また、意次が父から受け継いだ知行地はわずか600石、それをわずか数年のスピード出世により1万石の大名に列せられる訳だから当時の身分制度を考えると異例中の異例である。
 これから述べることはあくまでも私の憶測であるので確証はまったくないのだが、意次の政治手腕はその後の政策を見てもらっても分かるように非常に卓越したである。しかし、この出世は能力そのものを評価されての結果オンリーではなく、幕府の官吏に対する『賄賂』攻勢があったこともなきにしもあらずではないだろうか。わずか600石の貧乏旗本が将軍の側近くに仕えることなど江戸封建社会においては難しいところ、それを身に沁みて分かっている意次だからこそ『賄賂』という戦略を用いた可能性も否定できない。
 出世(ダーティーな手法)を重ねる上で、意次自身に商業資本よる財政再建の思想が芽生え、田沼政治と呼ばれる重商主義が発展したとも考えられるが如何に。

その田沼政治であるが、意次は一体どのような政策を実施していったのかを紹介しよう。

①予算制度の確立
 田沼意次が吉宗から政権を引き継いだ(家重・家治は将軍ではあったが幕政には殆ど関与していないので、この表現を使用させてもらった。)時、吉宗による緊縮財政と新田開発の結果、火の車であった幕府財政は何とか黒字へ転換することに成功した。しかし改革で転換した黒字収支も一歩間違えれば再び財政は赤字に戻ってしまう恐れがある。そこで意次が考えついたのは『予算』制度である。
 意次は幕府の主要機関へ予算を割り振り、その額で賄わせることにした。もちろん大奥の予算も大幅に削減している。
 『田沼は大奥のご機嫌を取り政権の維持を図った。』
 と言う通説もこの予算制度の導入を考えるとご機嫌取りをしていたとは考えられず、この事実が意次の財政再建政策実施が本気であったことを示している。
 この手法で重要な機関への予算を増やし、大奥のような浪費の多い機関への予算を減らすことで幕府財政の安定を計った。

②税制改革
 江戸時代、税制の根本は農民の収穫を一定の割合で年貢として徴収することであった。この制度は現代で言う直接税(所得税・住民税)にあたるもので、仮に不作であった場合でも年貢を納めなければならず、一揆などが発生する原因ともなり政情も不安定になりかねなかった。
 そこで意次は直接税を引き上げない代わりに間接税(現代では消費税等に該当)を導入しようと考えたのである。その名も『流通税』。意次は現代の消費税のように個人に事業者を介して課税することは難しいと考え、取扱商品ごとにグループを作らせ、そこへ課税する方式を導入した。
 ところがそのグループは納税するかわりに流通上の独占権を与えろと主張し始め意次はそれを容認した。それこそ田沼賄賂政治の代名詞とも言われている『株仲間』であった。
 ここまでの説明でも理解していただけたと思うが、意次は賄賂を受けるために株仲間を奨励したのではなく、そこから徴税することで財源を確保したかった思惑があったために株仲間を組織させたのである。
 ただ、その後株仲間が既得権の保護を名目に意次に対して賄賂なるものを贈ったかどうかは定かではない。もしかしたら贈っていた可能性もあるだろう。

③通貨の統一
 『江戸の金遣い・大坂銀遣い』
 江戸時代、東西で流通する貨幣が異なっていたためこのような言葉が使われていた。これが国内経済発展の妨げになっており、意次は早急にこの状況を打開しなければならなかった。

※北朝鮮では自国の通貨ウォンの価値がほとんどないために、観光客にドルを要求することがある。このように流通通貨が違うことで経済成長の妨げになっていることを示している悪い例として多くの人々が知るところであろう。意次はこのような経済成長の妨げとなる障害を取り除こうとした。18世紀に生きた意次が現代に生きるキム・ジョンイルよりも格段に優れた政治家であることが分かる政策である。

 そこで意次は経済発展を推進ために通貨の統一を図るのだが、すでに流通している金銀を回収して新たな通貨を生産することは容易ではない。そこで意次は金銀の交換単位を統一することで通貨の流通を円滑にし、さらに『南鐐二朱判』という金の単位を持った銀価を生産(南鐐とは極上の銀の意味)することで全国の通貨を統一しようと画策した。ところが志半ばで失脚し、南鐐二朱判も松平定信の手により生産中止となってしまう。


 このような意次の経済政策が功を奏し、幕府財政は171万7529両という第5代将軍綱吉以来の備蓄金最高値を記録している。 (ウィキペディアより参考)
 田沼意次は賄賂を受取った汚職政治政治家だったかもしれない。しかし清い流れだけで民衆が幸福になるかといえばそれは違う。緊縮財政という名のもとにある宰相が我が日本を格差社会に追い込んだ事実は多くの方の記憶に新しいはず。そう考えると幕府という権威が先導して積極財政を推進し、経済の活性化を促した田沼政治は『負』だけではない『正』の部分も評価されてしかるべきであるし、また評価していただきたい。
 今、この悩める日本の手本となるのはもしかしたら田沼意次という有能なエコノミストの功績かもしれない。

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江戸城無血開城

 大河ドラマ篤姫がついに佳境を迎えようとしている。物語の初回に『江戸の町を戦火から救った一人の女性』と篤姫を紹介していたが、誰もがご存知のように篤姫だけの力で江戸城の無血開城に至った訳ではない。さらに言葉の揚げ足を取るならば、江戸の町を戦火から救ったというのは間違いで、実際旗本衆で組織された『彰義隊』が上野寛永寺に籠って新政府軍の交戦している。あくまでも『江戸城』を戦火から救ったという表現が正しいであろう。
 篤姫自体、当時は大奥で最も権威ある地位にあったので(慶喜が大阪から江戸に戻った際に篤姫に面会を求めていることが、大奥における篤姫の権勢を物語っている。ちなみに和宮は面会を断った。)大奥と江戸城を守るのは義務として抱いていたのであろう。徳川家の姑である以上、争いにより家を断たれることは避けなければならない。
 また新政府軍の主力部隊を率いているのが篤姫と親交のあった西郷隆盛で、慶喜に事後処理を頼まれた勝海舟にとっては篤姫を通じて停戦交渉をおこなうことは極めて合理的だと考えていただろう。なので理屈になってしまうが、江戸城の無血開城を実現させたのは勝海舟とその部下山岡鉄舟の巧みな交渉戦術であり、篤姫は救ったというよりもその交渉に一役買った程度というのが事実である。

 さて、江戸城の無血開城について話を進めてゆきたい。
 鳥羽・伏見での戦いの最中に江戸へ戻ってきた慶喜は、自らが賊軍の首魁という汚名を着せられること恐れてすべてを勝海舟に委ねて、寛永寺に謹慎してしまった。余談ではあるが、司馬遼太郎氏の著書『最後の将軍』では、彼の出自である水戸藩では勤皇思想が強いため、前藩主・斉昭の息子である慶喜自身も強い尊王思想家であった。よって慶喜が『賊』になることは、彼の人生において最も屈辱であったと綴っている。そんな慶喜の心理を考えると『逃げ帰った』と世間では言われているが、錦の御旗が掲げられてしまった以上抵抗することは出来ないという彼なりの倫理が働いた結果だったのであろう。
 こうして謹慎した慶喜に代わり、徳川幕府暫定指導者となった勝は、無益な争いを避けるために親交のある西郷と交渉する戦略を思い付いた。それに勝には薩摩と交渉する上で有利になるものを2つ持っていた。一つは薩摩藩出身の天璋院篤姫、もう一つは自らが江戸でかくまっていた薩摩藩士益満休之助の存在である。
 まず、天璋院には江戸へ進軍してくる西郷へ和睦を促す文を書いてもらった。内容は
 

『今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます』(その時歴史が動いた 2007年4月25日放送分より)

 というもので、徳川家の存続を西郷に対し切に願っている。もちろん篤姫の輿入れの際に責任を担った西郷には心揺れ動くものがあったであろう。
 さらに勝は薩摩藩士益満休之助を案内役にし、信頼できる部下の山岡鉄舟を西郷隆盛の元に送り、駿府において交渉に臨むのであった。ここである事実が西郷の心証を良くした。死んでいると思っていた益満休之助が生きていたことである。これは勝海舟という男が信頼に値すると認識させた瞬間でもあった。
 西郷は鉄舟との交渉で無血開城に際し、次のような条件を付した。
①江戸城を官軍に明け渡すこと。
②江戸城中の者を向島に移すこと。
③幕府所有の軍艦を渡すこと。
④武装解除し兵器を官軍に引き渡すこと。
⑤慶喜を備前藩お預けとすること。

 ところが義を重んじる山岡鉄舟にとっては主君慶喜に対して『備前藩お預けとすること。』されることだけは納得できず、この条項の撤廃を強く西郷に求め、それを認めさせた。
 後日、江戸に赴いた西郷が薩摩藩邸において勝海舟と会談し、江戸城無血開城が決定するのであった。

 徳川家を守るという勝海舟、天璋院、山岡鉄舟の3人のぶれない共同認識が西郷の気持ちを動かし、無血開城につながった。そして江戸が日本の中心東京となったのは、この3人の尽力があったからこそだと思えてならない。

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日本史探求を振り返る 8

 1年ちょっと前の話だがブログ『縄文と古代文明を探求しよう!』の管理人であるtanoさんが、この日本史探求をご自身のブログ内で紹介して下さった。ありがたいことに、歴史好きレベルの私がが片手間で更新しているような当ブログを誉めて下さって正直嬉しく、またこのブログを続けてゆく原動力にもなった。
 ところで、以前私はこの記事で『継体天皇は一体何者なのか?それは私の次回までの宿題』と記していたにも関わらず、2年半以上も『宿題』を放置したままでいる。
 そもそも継体天皇とは謎多き大王である。先代の武烈天皇に後継が存在しなかったことから豪族大伴氏の願いにより皇位に就いたといわれている人物であり、血筋は応神天皇の皇孫と伝えられている。しかし日本書紀が伝えているこの内容に懐疑的な研究者も多々おり、継体天皇は王朝交代によって即位したと見解を持つ人も多い。私自身も継体が平和的な王位継承によって即位したことについては懐疑的であった。そしてなぜ継体天皇は傀儡ではなく、権威ある天皇として存在することが出来たのかについても疑問を抱いていた。
 その継体天皇について、先ほど紹介した『縄文と古代文明を探求しよう!』においてとても分かりやすい記事がアップされている。その記事は以前私も一読したことがある黒岩重吾氏の『古代史の真相』を基に独自の視点も交えながら『謎の継体天皇と当時のヤマト王権をとりまく状況』について詳しく説明されており、継体天皇の存在を知る上で非常に参考となるものである。
 この記事を読むと、当時は天皇といっても豪族の上に立つ権力にシンボルであり、その存在こそが豪族をまとめる力になっていたことが理解出来る。なぜ継体天皇が大伴氏ら豪族に擁立されたのかを読めば進めてゆけば見えてくるはずだ。

『日本史探求を振り返る』は今回で最後です。今後も出来るだけ幅広い日本の歴史を探求してゆく所存ですので、よろしくお願いします。

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藤ノ木古墳 23年目の真相

 もう23年も前のことなので記憶が曖昧なのだが、未盗掘状態の古墳が発見され、日本中が盛り上がっていたのをぼんやりと覚えている。その古墳は『藤ノ木古墳』と呼ばれ、被葬者が身に着けていた副葬品などから身分の高い人物の古墳ではないかとの報道がなされていた。しかし一体誰の古墳で、なぜ1つの石室に2人の人物が埋葬されているのかなどの疑問が未解決のまま10数年の歳月が経ち、近年はキトラ古墳と高松塚古墳の劣化問題に話題が集中したことから私の記憶からは『藤ノ木古墳』の文字は薄れていた。
 ところが先日、藤ノ木古墳の被葬者を特定できそうな重要な調査結果が新聞紙上を賑わし、その報道が私の記憶の引き出しから『藤ノ木古墳』の文字を引っ張り出してきた。その新聞報道は次のようなもので、『まさかそこから被葬者を特定してゆくか』と思わせるような興味深い内容である。

  金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。

 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。

 石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。藤ノ木古墳の石棺には、ベニバナの生花が供花として石棺に納められている可能性があることが分かった。

 ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。

 前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗(あら)い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬-などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきよ)作った可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。
 11月1日 産経新聞

 『なるほど』と頷いてしまう反面、『そんな単純なもんなのかな?』と猜疑心もある。どちらの割合が高いといわれれば肯定したい部分の方が強いかもしれない。副葬品や古墳の形状も大事であるが、このような花粉という植物の特性などから探るって手段もあることに驚かされ、また感心した次第だ。
 もし、この記事のように穴穂部皇子が埋葬されているならば、急造りの古墳であったため、外観は粗末に見え盗掘に遭わずに1400年も現状を保つことが出来た可能性も十分に考えられる。科学的視点と歴史学的視点双方から見ても説得力のある調査結果であろう。
 そして、被葬者といわれる穴穂部皇子と宅部皇子だが一体どんな人物であったのか?これについても産経新聞に解りやすく掲載されていたので、記事を紹介したい。

藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)から見つかったベニバナの花粉は、石棺に納められた2人の被葬者像をみごとにあぶり出した。蘇我馬子によって殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。穴穂部皇子は仏教導入をめぐり、物部氏の勢力をバックに蘇我氏と覇権争いを演じた人物だ。皇位継承もからんだ血みどろの政争が繰り広げられた6世紀。石棺内に1400年間封印されたベニバナは、悲劇の皇子の運命を切々と物語った。

 穴穂部皇子について、日本書紀は暴虐な一面を記す。585年8月、敏達天皇が崩御し、翌年5月に埋葬するまでの儀式「殯(もがり)」の最中に、敏達の后・炊屋(かしきや)姫(のちの推古天皇)に暴行しようとして殯宮に押し入った。敏達の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に阻止されると、これを逆恨みして三輪君を殺害した。

 前園実知雄・奈良芸術短大教授が「穴穂部皇子は権力志向が強かった」と推測するように、敏達を継いだ用明天皇が病弱だったことから、物部守屋の後ろ盾のもとでポスト用明を狙った。しかし蘇我馬子が、かつて穴穂部皇子に襲われかけた炊屋姫と組んで、587年6月7日に穴穂部皇子を殺害した。

 その様子について日本書紀は「穴穂部皇子の宮を囲み、兵士が高楼(たかどの)に上って皇子の肩を射た。皇子は落下し部屋に逃げ込んだ。兵士は皇子を見つけ出して切り殺した」と生々しく記述。皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も翌日に殺された。翌7月、馬子は聖徳太子らと計って守屋も滅ぼし、ついに蘇我氏独裁体制を築いたのだった。

 ついに天皇の座をものにすることはかなわなかった穴穂部皇子。「ポスト用明」には弟・崇峻天皇が587年に即位したが、わずか5年後に馬子によって暗殺された。前園教授は「兄弟そろって馬子に殺害されたのはまさに歴史の皮肉」と語る。

 未盗掘で見つかった藤ノ木古墳は、権謀術策の歴史を如実に物語っていた。前園教授は「石棺内は埋葬された状況のままだったからこそ、花粉分析を含めた徹底した調査によって、被葬者像や埋葬時期を絞り込むことができた」と興奮気味に話す。

 ただ、これで被葬者が断定されたわけではない。金原正明・奈良教育大准教授は「ベニバナが保存用だとすると夏以外の埋葬の可能性も捨てきれない」と慎重な姿勢をみせる。豪華な副葬品の発見で「金色のファッション」と騒がれた昭和63年の石棺調査から20年。古代史のミステリーが、再び盛り上がりをみせそうだ。
 11月1日 産経新聞

 この藤ノ木古墳の調査結果を古代史ファンや研究者の方々はどのように捉えて新聞記事を拝見したのであろうか?私のような単なる歴史好きとは違う視点で見られている方も多いと思うので、今後ブログなどで関連する話題を検索し、興味深い記事などを探し、新聞報道だけには捉われない多角的な視点から被葬者について考えてゆきたい。

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日本史探求を振り返る 7

 前回のキトラ古墳の話題の中で『長屋王』という人名を出したので、彼についてもう一度どのような人物であったのかを見てゆきたいと思う。(※もう一度というのは以前この記事で取り上げているからです。)
 長屋王について語る時に必ず出てくる話題は彼の邸宅跡についての話。確か1985年に、奈良市内に出店予定のそごうデパート建設現場から『長屋親王』と記された木管が出土した。『長屋親王』とは・・・奈良時代初期の最高権力者にして権力闘争の末に非業の最後を遂げた長屋王のことである。そして木簡の内容からその地が彼の邸宅跡であることが証明された瞬間だった。
 調査の結果、邸宅の規模は甲子園球場の1.5倍で邸内には鶴や馬が飼われていたことが木簡の記述により明らかになる。まさに栄華を極めた最高実力者の夢の跡であった。
 長屋王は684年、天武天皇の第一皇子である高市皇子(前回の記事でキトラ古墳の埋葬者である可能性を示唆した人物)の第一子として生まれた。ところで『王』の称号は天皇の子または兄弟姉妹に対して用いられる敬称である。天武天皇の孫である長屋王には『王』と呼ばれる資格はない。にもかかわらず王と呼ばれていたことを考えると、彼が当時どれほどの権勢を誇っていたのかをうかがい知ることが出来る。また、高市皇子が天武天皇からの信任が厚く、かつ有能な人物であったことがその子である長屋王に『王』たる資質があると周知させたとも考えられる。
 長屋王は709年に宮内卿となり、710年に式部卿、718年に大納言と議政官として国政を動かす地位を次々と歴任してゆく。まさに全力で権力への階段を駆け上る勢いである。
 720年、大宝律令の策定に関わった権力者・藤原不比等が死去すると、その権力は長屋王に集中することになった。そして手初めに世に知られる『百万町歩開墾計画』を実施に移すのである。(※現在の研究では、租税に苦しむ農民に対してさらに開墾計画を課したこと自体無謀な計画であったと論じられている。)
 しかし権力闘争に強くても所詮は貴族。庶民感覚が理解できないでは政策が自体好転することなどなく、結局は『三世一身法』を出すに至り、大化のクーデター以来続いていた『公地公民』体制の崩壊を招くのであった。
 その後も政治の中心で権力を欲しいがままにしてきた長屋王であったが、抵抗勢力である藤原四子が長屋王を陥れる計略を練り、そして実行に移す日が訪れる。
 729年2月10日、夜の闇に包まれた長屋王邸を宮廷の軍隊が囲み、その軍隊の指揮を執るのは政敵・藤原四子で不比等の三男である「宇合」であった。長屋王にかけられた嫌疑は、呪術で聖武天皇を呪ったというもの。身に覚えがなくとも宮廷からの軍隊から圧力に屈した長屋王は邸宅で自殺。絶頂から転落し、かつ自ら命を絶つという悲運の最期であった。

 もし、長屋王が藤原氏を含む集団指導体制をとっていたならば、天皇を中心とする政治体制は堅持され、藤原氏の絶頂時代は訪れなかったであろう。しかし8世紀当時に『集団指導体制』という概念など希薄あり、この事態(長屋王謀殺)を避けることは極めて難しかったといわざろえない。
 結局長屋王は藤原氏躍進の踏み台になってしまったのかもしれない。

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日本史探求を振り返る 6

 かつて、こんな記事を載せたことがある。

 黒岩重吾氏の『邪馬台国九州説概要』
 

 2003年に亡くなられた故黒岩重吾氏は生前に卑弥呼亡きあとの邪馬台国、そしてヤマト政権成立過程において次のような仮説を立てています。
まず。邪馬台国について。
 「そもそも邪馬台国は九州の部族連合国家であり、260年代に東遷して『ヤマト王権』になった。宋女トヨが西晋へ朝貢していることは邪馬台国が、中国から冊封された事実に他ならない。」
 トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していたと言うです。なぜ東遷したのかについての説明はされていない(確認していない)のですが、部族連合国家である邪馬台国が統治していく上でより内陸に本拠を置く方が得策と考えたか、もしくは(ここからは私の推論)北九州にあっては朝鮮からの襲来に遭う恐れがあったとか・・・。とりあえず、邪馬台国系ヤマト王権から異なる系統のヤマト王権(三輪王朝などの系統からヤマト王権は始まったと言われていますが、今回この件には触れないでおきます。)へ権力が移る過程で何が起きたのかを考えていきたいと思います。
 更に黒岩氏はこう続けます。
 「邪馬台国が東遷したのち、朝鮮から渡来してきた集団の影響で、九州勢力が再び勢いづいたと推測する。そして4世紀後半、その九州の勢力が東へ移動し、ヤマト王権の皇女と九州勢力の長が婚姻関係で結ばれた。その長こそが、応神・仁徳王朝の始祖王ではないのだろうか。そして反抗した旧畿内勢力(ヤマト王権守旧派)を制圧し、応神・仁徳王朝が成立した。」
 ここでも、ヤマト王権がなぜ九州勢力と婚姻関係を結んだかは明記されていないですが、おそらく九州勢力の主導権を握っている朝鮮系の強大な武力を背景に、婚姻を迫ったとも考えられます。そして婚姻により正当な統治者である口実を得た九州勢力は反対勢力を武力で制圧していったのでしょう。この時期が江上波夫氏の言う副葬品が変化した時期だと考えられます。
 この黒岩氏の仮説を参考に、私の推測をまとめてみると

 邪馬台国は元々九州に存在したが、統治上の何らかの理由から近畿へ東遷することになった。そして邪馬台国をベースとする「ヤマト王権」が成立、これが4世紀後半まで続く。やがて九州に朝鮮人の勢力が渡来し、旧来の九州勢力に加わったことで勢いを増し、東へ進む。そして強大な武力を背景にヤマト王権と婚姻関係を結び、応神・仁徳王朝の始祖王と考えられる人物が、新たな系統を組むヤマト王権を確立した。

 今、冷静に黒岩氏の説を考察してみると、幾つかの疑問点を見出すことが出来る。
 まずは
 『トヨが西晋へ朝貢した時点で邪馬台国はすでに畿内へ東遷していた』
 という箇所。
 3世紀の後半、近畿には纏向(まきむく)遺跡に代表されるように、大規模なクニの存在を示す史跡が多く発見されている。ということはそれだけ大規模なクニの連合体が近畿には存在していたのだ。
 黒岩氏が唱える九州にあった邪馬台国が東遷して『ヤマト王権』になるためには、邪馬台国そのものが大規模な軍事力と生産力を有していなければ説明がつかない。それを著書において根拠を示さずにただ『東遷した』と片付けるのは、些か稚拙な考えではないかと今の私は思っている。(当時は無垢に多くの知識人の主張を消化してきたのだが、現在はかなりひねくれているので、黒岩氏の主張の矛盾点を探ってしまうのである。)
 また、4世紀に朝鮮に在った集団が九州の勢力と結びついて東遷した邪馬台国を脅かしたと推測しているが、4世紀後半に倭国(おそらくはヤマト王権)が高句麗の広開土王率いる高句麗と交戦したという記録が残っている。朝鮮半島の、しかも当時最強であった高句麗と交戦出来うるヤマト王権が、九州の勢力に脅かされるものであろうか?私は4世紀には既に統一国家が存在し、黒岩氏の主張するような国内での内紛は考えられないと推測する。
 そして、邪馬台国は九州に存在したのではなく、近畿に存在した連合体であり、その発展形がヤマト王権であると推測しているのである。
 
 今は亡き黒岩重吾氏の説にケチをつけるようになってしまったが、黒岩氏のような方々が多くの主張してくれるからこそ、邪馬台国論争が盛り上がるであって、決して黒岩氏のすべてが間違えだとは言わない。
 また、この時期の文献が非常に少ないからこそ、知識人の見解や、調査研究の成果が必要であり、それを否定する気はまったくない。
 邪馬台国論争、今後もどんどん盛り上がってほしいものである。

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日本史探求を振り返る 5

 この日本史探求ではネタにつまると必ずといってよいほど新聞記事を引用し、それに対して私の拙い論評を載せてきた。なのでカテゴリーの『ニュース』をクリックすると他のカテゴリーに比して多くの記事が抽出されることに気づかされるであろう。
 言い訳をさせてもらうが、このブログというツールはそもそも新聞記事等に掲載されたニュースやサイトなどのURLを寸評つきで紹介することがメインであったといわれている。(※ウィキペディアより)
 ということは私自身『日本史探求』において新聞記事を紹介しながらあれこれ論評していること自体ブロガーとしては正当な行為なのかもしれない。と勝手に自己の正当性を主張しているが、結論としては新聞記事の紹介・論評であってもご覧頂いている方々に分かりやすく、そして批評に値する記事を提供できていればベストかなと思っている。
 長い言い訳であったが、では本題へ。
 私が新聞記事を紹介する際に記事を検索するのは決まって
『Yahoo!ニュース』
 であり、そこには多くの記事が紹介されている。そして驚くことに歴史関連の記事は毎日新聞のものが圧倒的に多い。『毎日新聞歴史頑張るな。』と関心していたのだが、この事件以来毎日新聞には失望した。せっかく考古学記事を丁寧に掲載していただけに残念で仕方がない。
 随分と前説が長くなったが、そんな毎日の記事を紹介してゆく中で私が最も興味を抱いたのは『聖なるライン』についてだ。聖なるラインとは
 

藤原京の中軸線から南へ直線を引いていくと、その直線上に多くの古墳が点在し、その直線上の古墳に埋葬されているのは天武天皇の皇子たちである。そのような理由から『聖なる』と呼ばれている。

 というものだ。
 その聖なるライン上にある古墳でも、いまだに被葬者がハッキリしていないのがキトラ古墳である。過去に何度もキトラの被葬者に関する記事を掲載してきたが、自分なりに『この人が被葬者ではないか。』と考えている人物が天武天皇の第一皇子である『高市皇子』、あの長屋王の父である。 
 高市皇子の可能性を示す根拠を挙げるとすると
 
 1.キトラ古墳の石室が造られた時期は調査の結果7世紀後半だと考えられる。
 2.石室の装飾から考察するとかなり身分の高い人物が埋葬されているはず。
 3.天武天皇の皇子たちの古墳が点在する『聖なるライン』上に存在する。
 4.キトラから発見された頭蓋骨の一部を分析したところ被葬者の年齢は、歯のすり減り具合などから50歳前半から60歳前半で、性別は骨の特徴から男性である。
 
 などである。
 この被葬者の件に関しては未だ確定されていないので、断定は出来なのだが、多くの研究結果が
 『被葬者は高市皇子』
 と伝えているように聞こえてくる。
 4に関しては高市皇子の死亡年齢は40代前半であると言われているのだが、当時の平均寿命なのを勘案すると老化の進行については現在の50から60代と見て問題はないと思われる。

 このように、キトラ古墳1つ見ても古代史は多くの謎につつまれているが、最新の研究技術がその謎を解明してくれることに期待したいものだ。

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日本史探求を振り返る 4

 11月から『まぼろしの邪馬台国』が上映されているが、内容は邪馬台国論争云々ではなく、まぼろしの邪馬台国を求め旅をする宮崎康平氏夫妻の夫婦愛をメインに描いた作品だという。劇場に足を運んで観ようとまでは思わないが、いずれDVDがレンタルされた時には観てみようかなとは思っている。
 そんな話題の邪馬台国であるが、この日本史探求でも幾度となく邪馬台国に関する話を取り上げてきた。最近では箸墓(はしはか)古墳から大規模な周濠が発見され、邪馬台国論争が再び盛り上がってきたことと、それに関する持論を少しばかり紹介した。
 私自身、邪馬台国近畿説を支持しており、3年前のこの記事でも私の持論を紹介している。
 なぜ近畿なのか?
 と問われると正直確信があって近畿説を支持しているとは言えない。ただ九州に邪馬台国が存在したとすると、近畿を拠点とするヤマト王権が成立する過程で相当大規模な遠征がおこなわれなければ統一国家(この表現が正しいかは微妙であるが)をわずか1世紀程度で成立させるのは不可能ではないだろうか?しかも邪馬台国に近くには争いを繰り広げていた狗奴国(くなこく)が存在し、そのような状況下で東へ大規模な遠征をおこない、わずか100年足らずの間に邪馬台国が統一国家を築き上げるのは難しいような気もするのだが・・・。あっ、今までの話はあくまでも『邪馬台国=ヤマト王権』という過程であり、もしかしたら『邪馬台国≠ヤマト王権』の可能性も否定できなので、私の推論の域を出ていないことだけはお伝えしておきたい。
 ところで、以前邪馬台国近畿説を支持する私の推論を載せたのだが、今回も簡単にここで紹介しようと思う。

 まず、本質的な疑問で卑弥呼とは一体何者なのか?
 魏志倭人伝には倭国大乱の後、『倭の有力者の話し合いで、女王に推された』とある。そして卑弥呼の人物像について

鬼道を使い、祭事に携わる人物で、背丈が高く道理を良く理解している。夫婿はいないが年下の男がいて、国の統治を補佐している。 卑弥呼が女王になつてから、側女を千人置き、直接面会出来る人は限られている。 ただ男子一人が、食事の時お言葉を戴くためにお側に参上している。

と伝えている。
 卑弥呼が鬼道を使うとあるが、これは中国の皇帝から貰った鏡を使った祭事のことだとも考えられる。当時の倭国では鏡は貴重品かつ霊的な力があるものと信じられていたため、権力者のステータスシンボルとして祭事に使用されていたはずだ。卑弥呼は鏡を利用した祭事を通じて他の有力者たちに神秘性を植え付け、その神秘性を背景に倭国を支配をていた可能性がある。話が飛躍してしまうが、記紀に登場する皇祖神「天照大神」はこの卑弥呼の存在が由来したの可能性も十分考えられる
 今までの話の流れではヤマト王権の系譜を辿っていくと卑弥呼に辿り着くことになるが、卑弥呼の系譜がヤマト政権を樹立したかと言う話になると、それは別の話ではないかと考えている。魏志倭人伝には、卑弥呼の死後に男性が王になると再び争いが起ったと記述されている。その後一時的に壹興と言う女王が登場し、争いは収まったようだが、私の憶測だとこの壹興と言う女王が死んだのちにまたしても大きな争いが起き、その勝者がヤマト政権を樹立したと推測している。その勝者こそがヤマト王権の大王として登場する人物ではないかと考えているのだ。
 私の推測のまとめは

①ヤマト政権のベースとなるのが邪馬台国であり、それが畿内に存在した。
②そこを統治したのは「天照大神」のモデルとなった卑弥呼であり、その統治に中国の権威と鬼道と言う神秘性を利用した。
③卑弥呼の死後、王の座を争い有力者同士の戦いが起こり、のちに大王と呼ばれる有力者が勝ち残った。そして邪馬台国をベースにしたヤマト政権を樹立した。

 素人的な視点ではあるが、私が近畿説を支持するのは以上のような考えがあるためである。

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人間の弱さと自己認識の必要性について

 司馬遼太郎は小説『坂の上の雲』で次のように述べている。

『生まれつき勇敢なものというのは、一種の変人に過ぎず、その点人間は平凡であるからこそやはり戦場に立てば恐怖が起こるであろう。そういう自然のおびえを押さえつけて悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけである。この義務感こそ人間が動物とは異なる高貴な点だ。』

 義務感が高貴であるとの表現は非常に興味深い。ここでいう『おびえ』は人間の本能であり『義務感』とはおそらく人間の理性のことを指しているのだろう。
 私たちは『おびえ』という言葉を蔑むことが多々ある。しかしそれは人間の本能であり、自己を認識する上で最も重要な要素ではないだろうか。 『おびえ』があるからこそそれを打開する知略が生まれ、打開すれば自信となる。 だからこそ人間は必然的に『義務感』に執着するのだ。ただそこには自己を認識する必要性が生じてくる。義務を遂行するために必要である自己の力を冷静に判断しなければ単なる暴走と化してしまう。
 私が常に『自己認識』こそ人間生活の根源と意識しているのは、このような司馬文学における表現に拠るところが大きい。

自信が過信であってはならない。
おびえが卑屈であってはならない。

 私は司馬遼太郎がそう言っている気がする。
 例えば、過信が己の力を認識することを希薄とし、イデオロギーや感情だけで無計画かつ無責任な行動を誘発させる。
 また、卑屈が自己否定につながり、才能を発揮する機会を失わせている。
 この例えを最も体現しているのが、前者が日露戦争後からポツダム宣言受諾までの日本国家であり、後者は現在の日本国家であろう。

 国家と人間の生き方を比較するのは少々無理があると思うが、歴史に学ぶことで今が見えてくる。そして自己認識の重要性が分かるはずだ。

 司馬文学に学ぶところは多い。

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