藤ノ木古墳 23年目の真相
もう23年も前のことなので記憶が曖昧なのだが、未盗掘状態の古墳が発見され、日本中が盛り上がっていたのをぼんやりと覚えている。その古墳は『藤ノ木古墳』と呼ばれ、被葬者が身に着けていた副葬品などから身分の高い人物の古墳ではないかとの報道がなされていた。しかし一体誰の古墳で、なぜ1つの石室に2人の人物が埋葬されているのかなどの疑問が未解決のまま10数年の歳月が経ち、近年はキトラ古墳と高松塚古墳の劣化問題に話題が集中したことから私の記憶からは『藤ノ木古墳』の文字は薄れていた。
ところが先日、藤ノ木古墳の被葬者を特定できそうな重要な調査結果が新聞紙上を賑わし、その報道が私の記憶の引き出しから『藤ノ木古墳』の文字を引っ張り出してきた。その新聞報道は次のようなもので、『まさかそこから被葬者を特定してゆくか』と思わせるような興味深い内容である。
金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。
同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製の靴やガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。
石棺内からは、大量のベニバナの花粉を検出。当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)の研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。藤ノ木古墳の石棺には、ベニバナの生花が供花として石棺に納められている可能性があることが分かった。
ドライフラワーが入れられた可能性も残されているが、生花だったとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。
前園教授は考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗(あら)い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬-などの点を列挙。「被葬者は不測の事態で死んだため、古墳や副葬品を急遽(きゅうきよ)作った可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。
11月1日 産経新聞
『なるほど』と頷いてしまう反面、『そんな単純なもんなのかな?』と猜疑心もある。どちらの割合が高いといわれれば肯定したい部分の方が強いかもしれない。副葬品や古墳の形状も大事であるが、このような花粉という植物の特性などから探るって手段もあることに驚かされ、また感心した次第だ。
もし、この記事のように穴穂部皇子が埋葬されているならば、急造りの古墳であったため、外観は粗末に見え盗掘に遭わずに1400年も現状を保つことが出来た可能性も十分に考えられる。科学的視点と歴史学的視点双方から見ても説得力のある調査結果であろう。
そして、被葬者といわれる穴穂部皇子と宅部皇子だが一体どんな人物であったのか?これについても産経新聞に解りやすく掲載されていたので、記事を紹介したい。
藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)から見つかったベニバナの花粉は、石棺に納められた2人の被葬者像をみごとにあぶり出した。蘇我馬子によって殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。穴穂部皇子は仏教導入をめぐり、物部氏の勢力をバックに蘇我氏と覇権争いを演じた人物だ。皇位継承もからんだ血みどろの政争が繰り広げられた6世紀。石棺内に1400年間封印されたベニバナは、悲劇の皇子の運命を切々と物語った。
穴穂部皇子について、日本書紀は暴虐な一面を記す。585年8月、敏達天皇が崩御し、翌年5月に埋葬するまでの儀式「殯(もがり)」の最中に、敏達の后・炊屋(かしきや)姫(のちの推古天皇)に暴行しようとして殯宮に押し入った。敏達の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に阻止されると、これを逆恨みして三輪君を殺害した。
前園実知雄・奈良芸術短大教授が「穴穂部皇子は権力志向が強かった」と推測するように、敏達を継いだ用明天皇が病弱だったことから、物部守屋の後ろ盾のもとでポスト用明を狙った。しかし蘇我馬子が、かつて穴穂部皇子に襲われかけた炊屋姫と組んで、587年6月7日に穴穂部皇子を殺害した。
その様子について日本書紀は「穴穂部皇子の宮を囲み、兵士が高楼(たかどの)に上って皇子の肩を射た。皇子は落下し部屋に逃げ込んだ。兵士は皇子を見つけ出して切り殺した」と生々しく記述。皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も翌日に殺された。翌7月、馬子は聖徳太子らと計って守屋も滅ぼし、ついに蘇我氏独裁体制を築いたのだった。
ついに天皇の座をものにすることはかなわなかった穴穂部皇子。「ポスト用明」には弟・崇峻天皇が587年に即位したが、わずか5年後に馬子によって暗殺された。前園教授は「兄弟そろって馬子に殺害されたのはまさに歴史の皮肉」と語る。
未盗掘で見つかった藤ノ木古墳は、権謀術策の歴史を如実に物語っていた。前園教授は「石棺内は埋葬された状況のままだったからこそ、花粉分析を含めた徹底した調査によって、被葬者像や埋葬時期を絞り込むことができた」と興奮気味に話す。
ただ、これで被葬者が断定されたわけではない。金原正明・奈良教育大准教授は「ベニバナが保存用だとすると夏以外の埋葬の可能性も捨てきれない」と慎重な姿勢をみせる。豪華な副葬品の発見で「金色のファッション」と騒がれた昭和63年の石棺調査から20年。古代史のミステリーが、再び盛り上がりをみせそうだ。
11月1日 産経新聞
この藤ノ木古墳の調査結果を古代史ファンや研究者の方々はどのように捉えて新聞記事を拝見したのであろうか?私のような単なる歴史好きとは違う視点で見られている方も多いと思うので、今後ブログなどで関連する話題を検索し、興味深い記事などを探し、新聞報道だけには捉われない多角的な視点から被葬者について考えてゆきたい。
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コメント
ご訪問ありがとうございます。いろいろな歴史についてご勉強をなさっておられますね。私も歴史が好きで、特に古代史の出来事やエピソードの舞台を訪ね歩いています。
投稿: 梓次郎 | 2008/11/08 13:47
ご訪問ありがとうございます。歴史がお好きなようですね。私も古代史が好きで、いろいろな歴史の出来事やエピソードを訪ね歩いています。
投稿: 梓次郎 | 2008/11/08 13:50
こちらこそご訪問ありがとうございます。
梓次郎さんのブログは地理の案内はしっかりしていて、かつ歴史的背景を丁寧に説明されているので読みやすいです。
今後ともお互いに歴史の素晴らしさを発信してゆきましょう!
投稿: Mr.Misaki | 2008/11/09 00:52