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2005/03/24

孝明天皇暗殺説

koumeitennou今、「幕末維新史もう一つの読み方」という本を読んでいるのですが、その本のなかで孝明天皇が毒殺されたのではないかという気になる記述があるのです。

孝明天皇の経歴。
121代の天皇。仁孝天皇の第4皇子。1846年(弘化3)に皇位につく。内治外交の多難な時期で難問題が続発した。天皇は一貫して攘夷を主張し,1858年(安政5),幕府が日米修好通商条約に調印するや天皇はこれに反対して2度にわたって譲位を表明したが,結局思い留まり,幕府へ攘夷を促した。一方,安藤信正の公武合体論を容れて,皇妹和宮の将軍家茂への降嫁に同意し,尊攘派を刺激した。1862年(文久2)から翌年にかけての尊攘運動の高まりと1863年(文久3)8月の大和行幸を機とする討幕挙兵の計画に苦慮し,8月18日の政変で朝廷内の尊攘派を抑えた。また1864年の長州藩の京都出兵を薩摩・会津の兵を用いて斥け(禁門の変),公武合体派の面目を保った。

孝明天皇は大の異人嫌いで攘夷的立場にいましたが、井伊直弼暗殺後は公武合体を容認したり、長州藩による蛤御門の変(長州征伐の記事参照)の際に幕府に対して「長州征伐の勅令」を発し、佐幕的な態度を取っていきます。
そんな孝明天皇の存在は岩倉具視ら倒幕派にとっては厄介な存在、何とかしなければなりません。
そこで倒幕派は孝明天皇を暗殺した・・というのです。しかも天皇の信任厚い徳川慶喜が15代将軍に就任して間もなく崩御しているところを考えると実にタイミングのいい死であった訳です。死因は「天然痘」と発表されてますが、当時の朝廷内は倒幕派が力を持っていたこともあり、いくらでも事実を隠匿することは出来たはずです。
孝明天皇が生きていたら明治維新は達成されなかったかもしれません。

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コメント

こんにちは。
この手の裏話的な話題は興味深いですね。
明治天皇も実は孝明天皇の息子睦仁親王ではなく、南朝の系譜につながる人物を伊藤博文らが擁立した・・・とかいう話も聞いたことがあります。真偽のほどは分かりませんが、歴史を紐解くのは一筋縄ではいかないということなんでしょうね。

ASTRO-KTさん、ようこそ。
明治天皇別人説ですよね。根拠は確か即位前は虚弱体質で臆病で字が下手で女官と遊んでいた天皇が、即位後は相撲で相手を投げ飛ばす程の巨漢で字が上手く乗馬もこなすなんてとても同一人物とは思えないという話だったはず。
何だか事実なら「ぞおっ~」としますよね。

こんにちは。
 孝明天皇毒殺説は、学問の世界ではすでに否定されたものかと存じます。

 孝明が亡くなった慶応2年12月の段階ではまだ「倒幕」は現実の政治課題になっておりませんので、「倒幕派」なるものが孝明を殺すことは何らの現実性はないようです。
 くわしくは以下の論文をご覧下さい。

①原口清「孝明天皇は毒殺されたのか」(『日本近代史の虚像と実像』1巻、大月書店、1990年)

②原口清「孝明天皇と岩倉具視」(『名城商学』39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

 ①では医学的考察により、これまで「不自然」といわれてきた死の様相について、それこそが天然痘の特徴と結論づけられています。

 ②では孝明の死の前後の政治史を詳細に論じられ、上記のように「倒幕派」なるものが当時まだ存在しないこと、岩倉具視が孝明を殺すと「利益」があったというのは幻想にすぎないことなどが論じられています。

 孝明天皇の死に関する議論は、まず疑惑そのものがテーブルに置かれる必要があります。置かれようとすると、すぐさま全面否定のバッシングに遭う命題ですから。
 皇室が自ら孝明天皇の死に関する調査をしようとしたときも、伊藤博文がこれを中止させています。今までの維新史はイコール長州史観ですね。今時この自覚のない研究から得るものはありません。
歴史は可能性として捉えるべきで、それが学ぶ者の誠実さの証であるといえます。
このブログの主宰の人は、単なる歴史の専門通ではなく、見識のある方のようです。
ご活躍を期待します。

牛歩さん、ようこそ日本史探求へ!そしてコメントありがとうございます。
この孝明天皇暗殺説は、その死があまりにも尊攘派にとってタイミング良く崩御されている事から出された説ですが、しかし、それを立証するだけの証拠が現在皆無に等しく、あくまでも憶測の域を出ない話です。
ただ孝明天皇暗殺説が封殺されてきた背景には牛歩さんがおっしゃるように、今までの維新史はイコール長州史観とが見え隠れします。薩摩の西郷と大久保が相次いで死ぬとイニシアティヴを握った長州閥は、カリスマとして明治天皇を頂くことになり、自らの権力の拠所を明治天皇の存在とリンクさせたのです。そして彼らの都合の良い歴史観を通説として流布させたのでしょう。
権力による事実の隠蔽はどこの国にもあることですが、それにより歴史の真実が解明出来なくなったことは非常に残念です。
最後に私は大して見識のある人間ではありませんよ(苦笑)ただ歴史の真実が知りたい、そんな思いからこのブログを運営しています。
牛歩さん、今後も忌憚のないご意見をよろしくお願いいたします。

 真実を知ろうとする姿勢が、何より見識だと思います。
権威ある学者でも、ことさら定説を振りかざすときは、案外言わせているのはその人の立場だったり、面子だったりするわけです。
 孝明天皇の毒殺説は、最近は話に必ず添えられるようになりましたね。自由に言えるようになったのは、以前とは隔世の感があります。ただ、その証拠は一切ないという文言もセットに書かれているようです。
 現在は状況証拠しかないという状態で、説の真贋をはかるのは、その情報の出所だと考えます。書かれているものは、宮中筋から、おるいは典医の日誌の記録からというものが大半ですが、私が初めてその説を知ったのは、実は本からではないのです。
 今から二十年以上前になりますが、地元の古い江戸時代から続く老舗の菓子店の老店主から、曽祖父から聞いた話だが、と前置きして聞かされたのが、孝明天皇毒殺の話だったのです。松平容保公の側付きの家来だった侍が、その菓子店の当時の店主に直接語ったというものです。話を聞いたときは本当に驚きました。地元の郷土史家でさえ、そんなことを言う人はいませんでしたから。
 ちなみに地元とは、会津若松です。この話は会津ゆえに伝えられた口伝といえるでしょうか。ですから、情報源が他所とは違うので、私は孝明天皇の毒殺の事実に確信を持っているのです。後は証拠だけです。不遜なようですが、真実を追究する身には、証拠がないという文言は、何の妨げの力にならないのです。

牛歩さん、コメントありがとうございます。
確かに真実を知りたいと言う気持ちは大切だと思います。そして定説を疑い、それを覆したいと言う好奇心から幾つもの新しい発見がなされてきた訳で、そう考えると探求の根底には「好奇心」が存在しているのでしょう。それがなければ始まりも継続もない訳ですから。
ところでその老舗菓子店店主の話、驚きです。以前にも触れましたが、我々が通説だと思っている歴史観は新政府によって流布されたものであって本当のところは闇に葬られた可能性があります。しかし会津と言う敗者の側の証言にも耳を傾けてみると、通説を覆す新しい真実が発見できるような気もします。
今回は貴重なお話ありがとうございました。

 「定説を疑う好奇心」を表明していただき、ありがとうございます。
 ご承知のとおり、会津は敗軍であり、ながく賊軍とされましたから、文献と称する公文書には、ほとんど会津の証言は記録されなかったわけです。ですから口伝なのです。
 
 孝明天皇毒殺という、維新の根幹を揺るがす最重要事項を、文献に記述がないからと、証拠なしとする学者に言いますが、もっぱら文献を研究上の証拠とするなら、その探究心にもかかわらず、時の政権の立場で定説を構築してしまうという宿命を自覚しているでしょうか。言うまでもなく定説とは、時の政権下で公刊され認められた解説書なのですから、少なくとも公刊されない私文書からも証拠たるものを見出していただきたい。その際もし敗者側の歴史観に学ぶという姿勢が持てるなら、旧来の資料からも新たな歴史発見が可能となるでしょう。

 そういう観点から、文献によらない情報をも資料とすると、出所こそが重要な問題になります。孝明天皇の毒殺説の主説は、岩倉具視の実妹の堀川紀子(もとこ)が孝明天皇に毒を盛ったという具体的なものです。ではその出所はどこなのでしょう。そのようなことを書き記した一次資料は見当たりません。やはり巷間のうわさなのです。ならばその中でより具体的な口伝に学ぶことは、非科学的な試みとはいえないのではないでしょうか。
 今回の書き込みでお知らせしたものは、その出所を具体的に明かすものです。以下の文をご覧になり、なろうことなら今後の推論の資としていただきたく思います。
 
 私がこの耳で聞き、記憶している内容は次のものです。当時会津藩主松平容保公の側付だった侍が和菓子店の当主に直接語ったことだといいます。
 孝明天皇が疱瘡の病と発表されてから、松平容保公は、日々宮中に参内し天皇のご容態をうかがっていました。問題の12月25日、容保を呼べという主命があり、急ぎご在所に駆けつけると、すでに主上は口のきけない状態で、震える手で紙に書付をし、その後息絶えたというものです。そのとき紙に書かれていたのが、堀川紀子の名で、急ぎ探させたが、すでに出奔した後だったということです。

 どのような状況で堀川紀子という元女官の名が出たのか、うわさでも今まで伝えられていないのではないでしょうか。しかしこれは、うわさでも、説でもなく、口伝です。しかも出所はこの会津です。これをどうとらえるかは、歴史を探求する人の資質と、インスピレーションにかかっています。
 つまりその人の次元が決定するということです。次元が違えばすぐ近くにいても真の情報は伝わりません。情報とは文字通り、情を通わせ、情に報いるから情報というのであって、それはインターネットの時代でも同じです。要するにいつの時代も歴史の真実を見出す力とは、研究者の人間性なのです。
 いろいろと生意気を言いましたが、これで終わります。ありがとうございました。

一牛さん、この口伝とても興味深く拝見しました。
歴史を多角的に探求するならば、当然この証言も検証に値するものだと思います。なぜなら現在信憑性が再検討されている「記紀」も元々は口承をまとめたものだからです。
戦前の皇国史観を否定することが戦後の古代史研究のアイデンテティであったような気がします。しかし最近の関係遺跡の調査などでそれが決して間違いではないと考えられるようになりました。そして賊軍の汚名を着せられた会津藩の口伝も、この記紀と同じように検証する必要があると思います。
一牛さん、私は祖母が福島出身で、そして保科正之の生き方に感銘受けた人間です。そのような理由から会津には非常にシンパシーを持っています。どうぞ今後も会津の側に立った主張をお待ちしております。

 明治天皇別人説は重要なテーマです。泉涌寺をご存じですか。
 泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊?(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
 明治天皇はすぐに、いわゆる廃仏毀釈をだし、以後、神道を復活して、泉涌寺は不要になりました。(国家神道成立)(一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3)の大教宣布など神道国教・祭礼一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊など指す。)
 明治天皇より、北朝より南朝に代わったと理解することも可能です。明示維新は南朝革命ともいわれる所以です。 このときに、水戸家は中川宮(後に、くにのみや)そして、香淳皇后(こうじゅんこうごう、名:良子(ながこ)、旧名:久邇宮 良子女王(くにのみや ながこじょおう)。1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后で、第125代天皇明仁の母。父は久邇宮邦彦(くによし)王、母は薩摩藩十二代・公爵 島津忠義の七女・俔子(ちかこ)。 久邇宮初代・朝彦親王の孫娘にあたる。初の皇族首相・東久邇宮稔彦王は叔父。)に繋がります。島津家には適当な玉がなく、毛利家に大室某がいたというわけです。突然、神道中心主義になったわけではなく、水戸学は南朝学=神道といっても良い内容です。国学もしかりです。
 ですから、会津藩は勤王でしたが、北朝天皇側だったのかもしれません。伊達、南部は南朝側ですので、奥羽列藩同盟はすぐに瓦解したのも理解できるのではありませんか。
 論旨の一定しない事を述べてすいません。


368からすさん、コメントありがとうございます。
明治天皇別人説と南北朝の争いが繋がっている話、非常に興味深く拝見いたしました。
廃仏毀釈に南朝復活の背景が見受けられるのも納得します。そして奥羽列藩同盟瓦解の背景にも南北朝対立を示されたあたりもその遺恨を感じ取ることが出来ます。
こう考えてみると歴史は必ず繋がっている、そんな気がしてなりません。

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