だるま宰相
私が中学生時代に2.26事件について教えてくれた社会科教師「和田」先生はこんな逸話を話してくれました。「高橋是清は暗殺される前に風呂に入っていた。青年将校たちは裸の是清を見て『大臣、その格好では死に際してあまりに情けなのうございます。私のコートを・・・これ着よ。』数秒間の沈黙後に『・・・嘘です(苦笑)』と一言。はぁ~(-_-#)
これ着よさんこと高橋是清は「だるま宰相」と呼ばれ、戦前日本の財政政策に深く関わった方です。今回はこの「高橋是清」を取り上げてみたいと思います。
高橋是清は1854年に江戸に生まれました。幼少時代に仙台藩士高橋是忠の養子になります。その後、ヘボン塾(現在の明治学院大学)で学び海外へ留学します。実はこの時ある理由から奴隷として売られてしまうのですが、運良く帰国することができたようです。
帰国後、官僚として手腕を発揮し特許局の初代局長に就任、日本の特許制度を整えます。そして一時退官しペルーに渡って実業家の道を歩もうとしますが詐欺まがいのトラブルに遭い鉱山経営に失敗、帰国します。
再び帰国した後には日本銀行副総裁、総裁を務めます。この時期の是清の活躍は目覚しく、日露戦争における戦時外債公募の際にはロンドン留学時の人脈をフルに活用し資金調達に成功します。
1913年には第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任、ここに日本一の大蔵大臣と後世に伝わる高橋是清伝説がはじまります。また大蔵大臣就任に伴い立憲政友会に入党しました。そして日本初の政党内閣(正確には隈板内閣が最初だがここで言う内閣は軍部大臣と外務大臣以外すべて衆議院第一党所属議員による内閣)の原敬内閣に大蔵大臣として入閣、財政政策の手腕を発揮しました。特にシベリア出兵時の金塊事件で分捕った砂金の処理に暗躍したことでも知られています。原が東京駅で暗殺されると、第20代内閣総理大臣に就任します。「だるま宰相」の誕生です。しかし政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解してしまいました。その後高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退します。ところが1927年に発生した金融恐慌(「伊東巳代治」記事参考)の時に首相の田中義一に請われ再び蔵相に就任します。そして高校の教科書に出てくる支払猶予措置(モラトリアム)を発令し、沈静化させることに成功しました。この後も三度蔵相に就任し、日本を襲った世界恐慌からも金輸出再禁止などの政策を実施し脱却させました。
しかし、モラトリアムや金輸出再禁止などにより日本中で貧富の差が激しくなり農村部では欠食児童を出すなどのひどい現状が浮き彫りになります。やがて高橋蔵相や政党政治に対する庶民からの反感が噴出、それを憂いた青年将校らは「昭和維新」の名の下に2.26事件を起こし、彼を「これ着よ!」と暗殺するのでした。
「だるま宰相」こと高橋是清。金融恐慌時に彼や井上準之助の財政政策によって貧富差が拡大します。反面で蔵相としての是清の手腕が日本をアジアの大国にする原動力となり、その政策はあくまで国益に沿ったものだったのです。しかし戦後、アメリカ占領政府は日本における貧富の差の拡大の根源となり、是清が見過ごしてきた寄生地主制を改善するため、戦前の政策と全く逆とも言える農地改革に着手するのです。
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