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2005年3月の27件の記事

2005/03/30

だるま宰相

私が中学生時代に2.26事件について教えてくれた社会科教師「和田」先生はこんな逸話を話してくれました。「高橋是清は暗殺される前に風呂に入っていた。青年将校たちは裸の是清を見て『大臣、その格好では死に際してあまりに情けなのうございます。私のコートを・・・これ着よ。』数秒間の沈黙後に『・・・嘘です(苦笑)』と一言。はぁ~(-_-#)
これ着よさんこと高橋是清は「だるま宰相」と呼ばれ、戦前日本の財政政策に深く関わった方です。今回はこの「高橋是清」を取り上げてみたいと思います。
高橋是清は1854年に江戸に生まれました。幼少時代に仙台藩士高橋是忠の養子になります。その後、ヘボン塾(現在の明治学院大学)で学び海外へ留学します。実はこの時ある理由から奴隷として売られてしまうのですが、運良く帰国することができたようです。
帰国後、官僚として手腕を発揮し特許局の初代局長に就任、日本の特許制度を整えます。そして一時退官しペルーに渡って実業家の道を歩もうとしますが詐欺まがいのトラブルに遭い鉱山経営に失敗、帰国します。
再び帰国した後には日本銀行副総裁、総裁を務めます。この時期の是清の活躍は目覚しく、日露戦争における戦時外債公募の際にはロンドン留学時の人脈をフルに活用し資金調達に成功します。
1913年には第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任、ここに日本一の大蔵大臣と後世に伝わる高橋是清伝説がはじまります。また大蔵大臣就任に伴い立憲政友会に入党しました。そして日本初の政党内閣(正確には隈板内閣が最初だがここで言う内閣は軍部大臣と外務大臣以外すべて衆議院第一党所属議員による内閣)の原敬内閣に大蔵大臣として入閣、財政政策の手腕を発揮しました。特にシベリア出兵時の金塊事件で分捕った砂金の処理に暗躍したことでも知られています。原が東京駅で暗殺されると、第20代内閣総理大臣に就任します。「だるま宰相」の誕生です。しかし政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解してしまいました。その後高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退します。ところが1927年に発生した金融恐慌(「伊東巳代治」記事参考)の時に首相の田中義一に請われ再び蔵相に就任します。そして高校の教科書に出てくる支払猶予措置(モラトリアム)を発令し、沈静化させることに成功しました。この後も三度蔵相に就任し、日本を襲った世界恐慌からも金輸出再禁止などの政策を実施し脱却させました。
しかし、モラトリアムや金輸出再禁止などにより日本中で貧富の差が激しくなり農村部では欠食児童を出すなどのひどい現状が浮き彫りになります。やがて高橋蔵相や政党政治に対する庶民からの反感が噴出、それを憂いた青年将校らは「昭和維新」の名の下に2.26事件を起こし、彼を「これ着よ!」と暗殺するのでした。

daruma-takahashi「だるま宰相」こと高橋是清。金融恐慌時に彼や井上準之助の財政政策によって貧富差が拡大します。反面で蔵相としての是清の手腕が日本をアジアの大国にする原動力となり、その政策はあくまで国益に沿ったものだったのです。しかし戦後、アメリカ占領政府は日本における貧富の差の拡大の根源となり、是清が見過ごしてきた寄生地主制を改善するため、戦前の政策と全く逆とも言える農地改革に着手するのです。

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2005/03/29

伊東巳代治

「伊東巳代治」この名前を聞いて「あ~あの人ね。」と答えられる方は相当歴史通な方です。私もこの人物については三谷幸喜さんの脚本で大津事件(ロシア皇太子暗殺未遂事件)をテーマにした舞台「その場しのぎの男たち」を観てはじめて知りました。実はこの伊東巳代治は日本の近代国家形成の過程に大変寄与された方で明治憲法制定にも深く関わっていてみたいです。今回はこの伊東巳代治について取り上げてみたいと思います。
伊東巳代治はペリー来航4年後の1857年に長崎町年寄の子に生まれます。時は開国か攘夷かの激動の時代です。伊東の少年時代は激動の時代だったと言えるでしょう。その後英語を学んだ伊東は上京し明治政府の工部省に出仕します。この時伊藤博文の目に留まり彼のブレーン官僚として活躍するようになります。そして明治憲法制定前に伊藤博文は渡欧し憲法調査をおこないますが、そこに伊東も随行しています。帰国後に伊東は井上毅や金子堅太郎とともに大日本帝国憲法制定に際しての草案起草にあたります。
明治憲法制定後は貴族院議員を経て枢密顧問官になり「憲法の番人」としてその存在感を示しました。また「東京日日新聞」(現毎日新聞)の社長として政府擁護の論調をとります。
伊東は晩年も枢密院顧問をつづけ自ら主張する(軍事力を背景にした)積極外交を政府に展開させようとします。これは高校の教科書に出てくる話なので知っている方も多いと思いますが1927年、金融恐慌により「鈴木商店」(第一次大戦によってもたらされた大戦景気で急成長を遂げた総合商社)が倒産します。この鈴木商店に多額の貸付をおこない破綻寸前に陥った「台湾銀行」(植民地台湾における中央銀行発券銀行)を救済する目的で当時の若槻礼次郎内閣は緊急勅令により、日銀からの特別融資で台湾銀行を救済しようとしますが伊東巳代治が顧問を務める枢密院に否決され救済に失敗、若槻内閣は責任をとって総辞職します。この話の裏には若槻内閣が進める協調外交(中国に対して武力的対立を避け、内政不干渉の態度をとる外交。幣原喜重郎外相が推進したので幣原外交ともいう。)によって蒋介石の北伐に何ら対策を講じないことに伊東が激怒し、若槻内閣を潰すために勅令を否決した事実があったのです。
こうしてみると、伊東はとても有能な官僚でありましたが、彼が日本軍国主義の下地とも言える憲法を草案し、協調外交を否定して帝国主義を推進したことで明治政府の崩壊を招いたと考えてしまいます。一概には言えないですけどね。

リンクしたサイト「近代日本人の肖像」に伊東巳代治の写真があります。

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蘇我石川麻呂

大化のクーデター(以下クーデター)の際、入鹿殺害の現場大極殿において殺害実行の合図となる「三韓の上表文」を読み上げる役を担っていたのが蘇我石川麻呂。私はこのクーデターになぜ入鹿と同じ姓を持つ人間が関わっていたのか不思議に思い今回調べてみることにしました。
蘇我石川麻呂は蘇我家の支族の子供として生まれました。支族に生まれたゆえに石川麻呂は朝廷内で冷遇されてます。なぜなら当時は蘇我本家(馬子から蝦夷、入鹿と続く系統)の権威は絶大で、例え同じ蘇我一族と言えども朝廷内では下流に甘んじなければならなかったからです。
石川麻呂には娘がいました。その娘の名は「遠智娘」。彼女は中大兄皇子の妃となります。このことがクーデターへの布石となるのです。そして蘇我本家を打倒するためクーデター計画を中大兄皇子らに打ち明けられます。石川麻呂からしてみればこのクーデターが成功し、中大兄皇子が天皇となった場合は「天皇の外戚」となれるかもしれません。石川麻呂は今まで本家から冷遇された恨みと、自らの権力欲のために参加を決意するのです
クーデター当日、「三韓の上表文」を読み上げる役を任された石川麻呂。しかし読み終えたのに入鹿殺害は実行されません。そのことによる極度の緊張のためか震え出し入鹿に怪しまれてしまいます。直後、中大兄皇子が入鹿の元へ走りより剣で斬りつけます。入鹿殺害・・・クーデターは成功しました。
クーデター成功の功績により石川麻呂は右大臣となりました。念願であった権力の中枢へ躍り出たのです。ところが石川麻呂の描いた新政権と現実の政権はかけ離れてました。そこには石川麻呂が望んだ「豪族の連合体」としての政権はなく、法と秩序が支配する律令制を目指した政権だったのです。
クーデターから4年後の649年、異母弟である蘇我日向が突如「石川麻呂に謀反の計画あり!」と密告します。孝徳天皇も「謀反の意志あり。」として身柄確保のため兵を派遣、石川麻呂は難波から大和へ脱出します。そして氏寺である山田寺金堂で自害してしまうのです。何とも儚き末路でした。
石川麻呂の娘で中大兄皇子に嫁いだ遠智娘は、鵜野皇女(のちの持統天皇)を出産。石川麻呂の血を継ぐ者たちは、皮肉にも彼が理想としなかった律令国家形成で大きな役割を果たすこととなるのです。

参考ホームページ 歴史日報

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私の好きな都内の散歩コース

私がまだ公務員で金銭的に余裕があったころ、上野~鶯谷方面に散策へ行ったものです。その散策の時一番最初に向かうのが「東京国立博物館」です。興味がある特別展示が催されてる時や、ただ何となく常設展示が見たい時にここへ寄ります。ここで見た渡辺崋山の「鷹見泉石像」は陰影法による写実的な表情で強烈な印象が残っています。
次に行くのが「旧岩崎邸庭園」。ここへは上野公園から不忍池を散策しながら抜けて行きますが、上野から少し歩くので覚悟してください(笑)
この邸は明治期に三菱財閥総帥岩崎久彌氏の本邸庭園として使用されていたのを復元したものです。ジョサイアコンドル(鹿鳴館も設計)設計の岩崎邸は洋館、和館、撞球室などがあり、当時のセレブの生活を見ることができます。庭に咲く花はとてもかわいく、警備のおじさまが品種について詳しくおしえてくれますよ。
次はそのまま鶯谷方向へ歩き目指すは谷中墓地。ここには多くの著名人のお墓がありますが、とにかく目立っているのが徳川慶喜公のお墓です。敷地はかなり大きく、曾孫の慶朝さんの話だと「二百坪」はあるようです。そして神式の墓らしく墓石代わりに亀の甲羅のような墳丘が二つ置かれています。ですのでお参りする際は柏手を打って頭を下げてください。
そして最後に・・ここは懐が温かい時にしか行けないのですが豆腐料理で有名な「笹の雪」です。この店の歴史は古く、元禄四年に玉屋忠兵衛が上野の宮様(110代後西天皇の親王)のお供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが始まりとされています。(笹の雪HPより)
ここで注文するのは「呉竹の里」コース。とにかく豆腐を使った創作料理がすばらしい。芸術品とっても過言ではありません。
こんな風に上野付近を散策してみると多くの発見ができますよ。

iwasaki-tei旧岩崎庭園。三菱の総帥「岩崎家」のセレブな生活がここでわかる。

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2005/03/28

葛飾北斎と富嶽三十六景

ユネスコによる世界遺産は「人類共通の財産とも言える各国に散在する歴史的な遺跡、地球的な自然を永久に守り続け、後世に継承しよう」という目標の元に1972年第17回ユネスコ総会で「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称「世界遺産条約」)が採択されました。
この世界遺産に登録されても不思議ではないのが我が国の代名詞とも言える山「富士山」です。しかしこの富士山、周知のとおり今もって世界遺産に登録されてません。なぜでしょうか?理由は、「白い川」が原因だそうです。「白い川」とは、富士山の登山者が残す汚物によって造られるいわば「山小屋からの垂れ流し」です。また白い川に限らず、自動販売機の設置や、ゴミの投棄などの環境破壊も原因として挙げられます。このような現代の富士山の惨状はとても残念でなりません。
しかしまだゴミに汚染されず美しかった江戸時代の富士山が葛飾北斎によって描かれてます。有名な「富嶽三十六景」です。6年の歳月をかけて江戸、関東諸州、東海道・・様々な場所から望む富士山の姿と富士山と暮らす人々の景色を描いた名作です。
葛飾北斎は当初役者絵で知られた勝川春章に入門し、役者絵を描いてました。歌舞伎俳優をえがいた役者絵は、江戸時代のブロマイドのようなもので北斎も多くの役者絵を描きました。庶民の求める絵をひたすら描き続けたのです。 北斎が「風景画」を描こうと思ったきっかけは長崎から入ってきた18世紀のオランダの銅版画でした。北斎は西洋の技法を習得するため遠近法の研究に没頭し、立体感を出す為の陰影法も試しています。日本画では、人物に影を描くことはありませんでしたが、その常識を破ったのが北斎でした。そして月日は流れ「富嶽三十六景」を制作する直前、北斎は大病を患ってしまいます。しかし北斎は、脳出血を自ら煎じた薬で克服したと言われ、その病んだ体で富士山という巨大な山に立ち向かっていったのです。そして「富嶽三十六景」は完成していくのです。
近年、アメリカのライフ誌が企画した、この1000年間で偉大な業績をあげた世界の人物 100人の中に、日本人でただ一人北斎が選ばれました。また北斎の死後、西洋の後期印象派の画家たちに北斎の作品は影響を与えたようです。彼の芸術の素晴らしさは日本のみならず、世界からも高い評価を受けています。彼が描いた富士山とは対照的に・・・。
参考ホームページ 美の巨人たち

fugaku36-1富嶽三十六景の一つ「神奈川沖波裏」北斎晩年の名作。


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2005/03/24

孝明天皇暗殺説

koumeitennou今、「幕末維新史もう一つの読み方」という本を読んでいるのですが、その本のなかで孝明天皇が毒殺されたのではないかという気になる記述があるのです。

孝明天皇の経歴。
121代の天皇。仁孝天皇の第4皇子。1846年(弘化3)に皇位につく。内治外交の多難な時期で難問題が続発した。天皇は一貫して攘夷を主張し,1858年(安政5),幕府が日米修好通商条約に調印するや天皇はこれに反対して2度にわたって譲位を表明したが,結局思い留まり,幕府へ攘夷を促した。一方,安藤信正の公武合体論を容れて,皇妹和宮の将軍家茂への降嫁に同意し,尊攘派を刺激した。1862年(文久2)から翌年にかけての尊攘運動の高まりと1863年(文久3)8月の大和行幸を機とする討幕挙兵の計画に苦慮し,8月18日の政変で朝廷内の尊攘派を抑えた。また1864年の長州藩の京都出兵を薩摩・会津の兵を用いて斥け(禁門の変),公武合体派の面目を保った。

孝明天皇は大の異人嫌いで攘夷的立場にいましたが、井伊直弼暗殺後は公武合体を容認したり、長州藩による蛤御門の変(長州征伐の記事参照)の際に幕府に対して「長州征伐の勅令」を発し、佐幕的な態度を取っていきます。
そんな孝明天皇の存在は岩倉具視ら倒幕派にとっては厄介な存在、何とかしなければなりません。
そこで倒幕派は孝明天皇を暗殺した・・というのです。しかも天皇の信任厚い徳川慶喜が15代将軍に就任して間もなく崩御しているところを考えると実にタイミングのいい死であった訳です。死因は「天然痘」と発表されてますが、当時の朝廷内は倒幕派が力を持っていたこともあり、いくらでも事実を隠匿することは出来たはずです。
孝明天皇が生きていたら明治維新は達成されなかったかもしれません。

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2005/03/23

蔦屋重三郎

レンタルCDなどで有名な「TSUTAYA」。この名前の由来は江戸時代の地本問屋「耕書堂」の主人の名前からとったというのは有名な話です。その「耕書堂」の主人、蔦屋重三郎は当時のエンターテーメントの先駆者であり、今でもその生き方に共感を受ける人が多いようです。
今回はこの蔦屋重三郎こと蔦重(つたじゅう)を取り上げていきます。
蔦重が営んでいた地本問屋とは娯楽的な絵本、洒落本、芸の稽古本、歌舞伎のダイジェスト絵本、浮世絵、細見、狂歌絵本など、一般的で軽い本を扱う本屋のこと言います。また出版社としての仕事も兼ねていたので当時の浮世絵師(写楽や喜多川歌麿など)や作家(山東京伝や十返舎一九など)に活躍の場を提供しました。はじめ蔦重は吉原に書店を開き、「吉原細見」(1773年)という店ごとに遊女の名を記した案内書(今の大人の遊びガイドみたいなもの)を出版、販売し世間にその名を轟かせます。その後、洒落本や狂歌本などのヒット作を次々に刊行し、1783年に一流版元の並ぶ日本橋に進出、先に説明したように有名な作家や浮世絵師に活躍の場を提供していきます。
しかし寛政の改革で1791年、山東京伝(さんとうきょうでん)の洒落本・黄表紙が摘発され、蔦重は財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けてしまいます。その後の1794年には写楽の役者絵を出版、その健在ぶりをアピールしますが、1797年に脚気により死去。48年の生涯に幕を閉じました。
まだメディアが発達していない江戸期にあって、これだけの大仕事を成し遂げた蔦重。この人こそまさにエンターテーメント先駆者、先見の明に長けた人物だったと思います。

参考ホームページ 蔦屋耕書堂

syaraku写楽の代表作「大谷鬼次の江戸兵衛。」
写楽はわずか10か月の間に約140点の錦絵を描いて、その後消息を絶った。この写楽の活躍も蔦重なくして語れない。

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高橋由一と花魁

日本近代洋画の祖、高橋由一の代表作「花魁」についてのある逸話について紹介します。
その前に高橋由一の経歴を説明します。
1828年3月20日(文政11年2月5日)佐野藩士の子として江戸の藩邸に生まれました。幼年より日本画を学び、20歳ごろ、オランダの石版画を見て西洋画に魅せられ、1862年(文久2年)幕府の蕃書調所画学局に入所します。1873年(明治6年)天絵楼(のち天絵舎、天絵学舎)を設け、多くの後進を指導しました。 精密で写実的な画風が特徴で、近代日本最初の洋画家として知られています。
参考ホームページ 人名辞典

その逸話ですが、「花魁」のモデルとなった稲本楼の花魁・小稲は由一が描く絵が喜多川歌麿のような浮世絵の美人画で完成すると想像していました。しかし出来上がった画を見て、「私はこんなんじゃないわ・・。」と泣いて嫌がり、由一は「わしは見たままを描いただけじゃ。」と答えたと弟子によって伝えられています。
確かに「花魁」を見ると浮世絵に比べあまりにもリアルすぎて、当時のモデルからしてみれば「うわぁ!最悪・・。」と思うでしょうね(苦笑)

高橋由一の「花魁」(左)と喜多川歌麿の美人画(右)。

oiranutamaro

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2005/03/22

暴れん坊将軍の大リストラ

yoshimune「英雄色を好む」という言葉がありますが、極端に色(といっても権力を象徴する色ですが)を嫌った英雄が日本にいます。それは暴れん坊将軍松平健・・ではなく徳川吉宗です。
彼は「享保の改革」で緊縮財政を実施したのは有名な話です。まずはその緊縮財政を実現するために、春日局からつづく江戸城の伏魔殿「大奥」のリストラに着手したのです。
彼は大奥に対して「選り抜きの美女の名を記したものを提出せよ。」と命じました。当然美貌の女性たちは「将軍のお手つき」になり子を産んで権力を手に出来るかもと期待に胸を弾ませます。そして大奥は美女50人の名簿を提出、これを受け取ると彼は「よし!この者たちを解雇せよ。」と命じたのです。理由は先にも述べたように経費削減のためですが、それ以外に「クビになっても美女なら幾らでももらってくれる者はいる。不器量の女はそうはいかない。だから美女を捨てブスを残す。」理由だったのです。
改革者の吉宗としての評価を後世に伝える逸話ですが、実際吉宗は女性を顔の良し悪しで選ぶ方ではなかったのでこのような改革が出来たとも伝えられています。

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江戸時代の食事

「もし日本の農産物輸入が完全にストップした場合の献立例とは?」今日、こんな興味深いニュースをラジオで聞きましたので紹介します。

『夕食はご飯1杯、焼き芋1本、焼き魚1切れ-。農水省は仮に農産物輸入がストップした場合として、かつての食料不足の時代を思い起こさせる、こんな献立例を作成した。朝、昼も芋中心で、みそ汁は2日に1杯、肉は9日に1食だ。
農水省が新農政の基本計画で盛り込んだ食料自給率の目標45%(カロリーベース、現行40%)を達成しても、今の食生活のレベルを大幅に落とさざるを得ないとしている。輸入が完全に途絶えるという極端なケースを想定、食料自給率の向上の必要性を訴えた格好だ。
ちなみに朝食のメニュー例としては、ご飯1杯、粉吹き芋1皿、ぬか漬け1皿。昼食は焼き芋2本、ふかし芋1個、リンゴ4分の1。
共同通信 3月21日』

なんだか現実味のない話ではありますが、日本はつい150年前まで庶民の食事はほぼ国内の自給によりまかなっていた「鎖国時代」だったのです。この時代の日本人は一体どのような食生活であり、またどんなものを食していたのか調べてみました。
江戸時代の食事は、初期には一日二食でしたが、中期以降には一日三食が一般的になりました。献立の内容は飯と味噌汁、おかずが一品という、いわゆる「一汁一菜」でした。これは町人に限らず、武士も基本的にはかわりませんでした。
また江戸では一日三度、精米したご飯をふんだんに食べられました。しかし、玄米を食べる田舎に比べ、白米が食べる江戸ではビタミンB1が不足するので、脚気にかかる人が多く、「江戸患い」と呼ばれるほどでした。
おかずは一品だけでしたが、行商人が旬の食材を新鮮なうちに売りにくるので、現代の野菜や魚よりもおいしいものが食べられたのです。
このように質素なものではありましたが、素材や栄養については今よりも優れ、鎖国時代の食生活を見習う部分は大いにあると思いました。

uk_edo100_001web初代歌川広重の「日本橋雪晴」。魚河岸が日本橋のたもとの対岸にあり、江戸っ子気質の魚屋で大変な賑わいと活気をみせていた。

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2005/03/18

精力増強のために家康がしたこと

これは以前紹介した「徳川家四百年の内緒話」に書かれていたものです。徳川家康は多くの側室を侍らせて多くの子供を生ませています。この家康の性欲が徳川260年の基盤となったと言っても過言ではないでしょう。
家康は精力を持続させるのにどうやら松前藩に命じて海狗腎(オットセイのオスの生殖器)を献上させ食したようです(笑)
オットセイは1匹のオスで30頭のメスを従える精豪らしく、そこから中国人が精力増強を連想し漢方としたのです。ただ家康はさすがに「あの」形で食した訳ではなく、乾燥させた「あれ」を粉末にした上で食したそうです。
効果のほどはいかに!

LIFE-dc00075オットセイの精力を家康は自身の精力増強に役立てようとしたらしい。実際に御三家の初代藩主たちは家康晩年の子供たちな訳だからその精力には敬服。

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柳沢吉保

yanagisawaもうすぐ桜の開花の季節ですが、枝垂桜で有名な日本庭園の「六義園」はこの季節になると多くの見物客で賑わいます。そしてこの六義園は五代将軍の徳川綱吉の側用人として有名な柳沢吉保が自ら設計し、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を創り上げたそうです。この柳沢吉保ですが、政治家としての評価が芳しくありません。以前取り上げた田沼意次と一緒で「権力者に媚びて私腹を肥やし、政を意のままにする。」というような評価を受けています。側用人という性質上このイメージはどうしてもつきまとうものですが、吉保はどうだったのでしょう。
吉保は1658年(万治元年)に生まれ、幼少時代から当時館林藩の当主だった綱吉に小姓として仕え、その後綱吉の信頼を得て小姓番頭に進みました。そして綱吉が五代将軍になるとともに幕府へ入るのです。
吉保の幕府での最初の仕事は「御小納戸役」、要は小姓として将軍を世話する役でした。しかし綱吉を将軍へ推挙した堀田正俊が殺害され綱吉はアドバイザー兼後ろ盾を失います。そんな綱吉はやがて英明な吉保を寵愛し、七万二千石を与え大老格とするのです。なぜ綱吉がそれほどに吉保を寵愛したかは、互いに好学心に富む点でも共通していた点や、またかねてより老中政治に不満をいだいていたことが挙げられます。将軍権力の奪還をねらっていた綱吉が、側用人政治をすすめるうえで、吉保を重宝したのは自然の成り行きだったのかもしれません。ところで川越の藩主だった吉保の治政はどうだったのでしょうか?
吉保は上富・中富・下富など三村の開拓を行ない、多福寺・多聞寺などの禅寺を創建しました。三富新田の開拓は、彼のやった代表的な民政ですが、世にいう迎合的な奸臣とは異なる誠実な一面が、これらの治政からうかがわれます。
参考書籍
「日本名城紀行2 南関東・東海」(小学館刊)
将軍と側用人の政治」(講談社現代新書刊)

JPN13-dc00032六義園。吉保はここへ綱吉を招いて幾度となく酒宴を催した。



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2005/03/17

薩摩藩が維新を成し遂げる力を持った理由

関ヶ原の合戦で西軍につき、外様大名として冷飯を食わされることになった薩摩藩。なぜこの77万石の外様の藩が、天領を含め400万石の徳川家と幕末互角に渡り合い、雄藩としてキャスティングボードを握ることができたのか?今回は薩摩藩が雄藩と呼ばれるまでに成長し明治維新を迎える過程について述べていこうとおもいます。
まずそこまでに至る段階として4つのステップがあったと思います。その4つのステップとは次のとおりです。
調所広郷の改革(薩摩藩の天保改革)
調所広郷は15歳の時島津重豪に用いられ、使番、町奉行を経て家老になった人物です。
調所広郷が家老になる以前、薩摩藩の8代藩主島津重豪(しげひで)は娘の茂姫を近衛家養女にし、11代将軍家斉の夫人としました(後の広大院)。重豪は将軍の岳父として、また島津家は御台所の実家として権勢を誇りました。しかしその際の婚礼費用や藩主自身が海外文化に興味を示して数々の近代化政策を実施したため藩財政は逼迫、藩債(借金)は120万両余に達し、そして文政時代にはついに借金は500万両に膨れ上がったのです。こうした状況から抜け出すために調所は次のような財政政策をおこないました。
藩債の250年賦償還(要は「今まで借りた金は250年かけて返します。でも無利子ですからね。」ということ)、琉球を通しての清との密貿易、奄美大島など三島の砂糖の専売制強化、国産品の改良・増産などを次々と実行します。改革が巧を奏し、16年後の弘化元年(1844)3月には目標であった50万両の備蓄を達成します。しかし嘉永元年(1848)、調所は江戸藩邸で急死、幕府に露見した密貿易の責任をとっての服毒自殺との説があります。
斉彬の就任と富国強兵策
嘉永4年(1851)、11代藩主に就いた島津斉彬は薩摩藩の近代化を目指す富国強兵策を実施しました。鉄製砲鋳造のための反射炉や溶鉱炉・ガラス製造(薩摩切子)所等を整備し、これらの設備を集成館と称したのです。また紡績事業の振興・洋式船の建造など最先端事業の数々に着手しました。
薩英戦争
生麦事件(島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を殺傷した事件)に端を発したこの戦争は暴風雨の中、英国艦隊と薩摩の陸上砲台の間で激しい砲戦が展開されました。鹿児島城下北部が焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けました。この戦争以後、薩英はお互いの評価を改め、親密感が生まれました。薩摩藩は、外国船をいたずらに攻撃したり、異人斬りなどの「小攘夷」の愚を知り、開国による富国強兵をおこない、外国に劣らない武力を備える必要性を悟ったのです。またイギリス公使パークスは、幕府にかわって薩摩などの雄藩が連合政権を作ることを期待し、薩摩や長州を密かに支援するようになります。
薩長同盟
開国による富国強兵と倒幕をめざすという点で、長州藩の方針は薩摩藩と同じでした。しかし、薩長両藩の間には、強い敵対意識がありました、特に8月18日の政変と禁門の変によって、薩摩から手痛い打撃を受けていた長州側には、それが強く残っていたのです。
その両者を結びつけたのが、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎の活躍でした。
その当時、米英仏蘭の四国は幕長戦争を予想して、内戦への厳正中立を申し合せていました。つまり、紛争当時国である長州への武器弾薬の販売は、禁止されていたのです。
倒幕のために、新鋭の兵器を整備したい長州にとって、これは悩みの種でした。
そこで龍馬は、長州が薩摩藩の名義でイギリス商人グラバーから武器弾薬を購入する道を開き、慶応元年から発足させた亀山社中の組織を使って、物資の海上輪送を引き受けたのです。こうして、長州藩は薩摩藩名義で、4300挺のミニエー銃、3000挺のゲベール銃といった新式兵器を、大量に自国内に運び入れることに成功しました。
そして慶応2年1月21日、坂本龍馬と中岡慎太郎の斡旋で、京都の薩摩藩邸において、両藩首悩の秘密会談が持たれます。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、長州からは木戸貫治(孝允)らが出席し、証人として坂本龍馬が立ち会う中で、6ヵ条からなる薩長連合の密約が交わされたのです。
その六ヵ条は、幕長開戦、非開戦、長州勝利、長州敗北などのケースを想定し、それぞれの場合に薩摩がどう対応するかを決めたものでした。そして、両藩は誠意を以て協力すると結んだのです。

これらを見てみると、江戸後期に財政改革に成功し富国強兵の道を歩み、外国との戦闘の中で開国の必要性を実感したこと(長州藩も薩摩と同じく村田清風の財政改革から四国連合艦隊との戦闘を経て薩長同盟につながる)がこの両藩が幕末に雄藩と呼ばれ、明治維新に成功した要因となったのでしょう。また薩摩には大久保や西郷といった有能な人材がいたことも幸いしてると思います。
参考ホームページ なるほど!幕末

sakurajima磯庭園から眺める桜島。ここで明治維新への血脈が生まれた。


nariakira英明名高い島津斉彬公。調所広郷が蓄えた財を惜しみなく富国強兵政策につぎ込み、薩摩藩を幕末最大の雄藩に伸し上げた。また彼が登用した西郷隆盛(吉之助)がのちに明治維新の立役者となる。

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2005/03/16

伊能忠敬と日本地図

keicyu「いや~よくここまで測量したもんだ・・・。」
これは私が一昨年の冬、東京国立博物館の「伊能忠敬と日本図展」で彼の日本地図を見た時の感想です。
彼が日本地図を作成するために測量をはじめたのは50歳の時、当時は人生50年と言われた時代ですから相当な覚悟ではじめたんだと思います。そして幕府天文方の高橋至時(シーボルト事件で獄死するあの高橋景保の父親)に師事し天文学を修め、寛政12年(1800年)、奥州道中と蝦夷地東南沿岸の測量に成功します。以後文化11年(1814年)まで沿岸中心に全国を測量しましたが実測に基づく日本全図を作図中の文政元年(1818年)に73歳で死去。まさに日本全図に執念をかけた晩年と言えるでしょう。
千葉県佐原市の「伊能忠敬記念館」には、彼に関する様々な史料が展示されているそうです。興味のある方はぜひ足を運んでみてください。また「現存する伊能図」というサイトで彼が測量、作成した地図を見ることができます。

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慶喜公の曾孫

yoshinobu徳川家の末裔の方は私の知るかぎり(徳川宗家と田安家)肩書きや身分は一流企業の役員や皇族などですが「徳川慶喜家」のご当主、徳川慶朝さんは何とフリーのカメラマンだそうです。旧華族の家柄でカメラマンになるとは余程カメラが好きだったのでしょう。ただ慶喜公も維新後の隠居生活の中、カメラをこよなく愛し、数多くの写真を残しているのですから血筋なのかもしれません。(慶喜公は写真愛好家の雑誌「華影」が主催したコンテストで二等に入選、しかも選者はあの黒田清輝なのだから当時としてはかなりの腕前だったかも?!)
この慶朝さん、「徳川慶喜家にようこそ」(文集文庫刊)という本を書かれており、著書では慶喜公が維新後にどのような生活を送ったか、またその子孫たちはどうなったのか、など詳しく書かれています。
そんな執筆活動以外にも慶朝さんはコーヒーの研究家としても活動し、慶喜公が1867年に飲んだとされるコーヒーを焙煎し再現。「将軍珈琲」(某テレビ番組でおすぎさんがとても美味しいと絶賛)として販売しています。
最後に慶朝さんのインタビューをアップしました。著書に近い内容を話されていますので興味がある方はご覧ください。
歴史的な発見!慶喜公が撮影した写真
江戸から明治-幕末の将軍-
水戸黄門と私の人生観
徳川慶喜 将軍珈琲の秘密

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騎馬民族による征服王朝

周知の事実ですが3世紀後半から4世紀中ごろにかけて、日本(倭国)に関して記述された文献、石碑などは全くありません。要は魏志倭人伝から高句麗好太王碑までは空白の130年と言えるでしょう。その間日本(大和朝廷)がどのような過程で権力の統一を成し遂げて行ったのかはその年代の残された遺産などから検証するしかありません。それに関して、かつて江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝」説を唱えています。

「騎馬民族征服王朝」説とは・・・
「古墳時代前期と後期とでは、「突然変異的な変化」がみられることに着目。とりわけ副葬品の変化に注目し、前期は鏡・玉・剣さらに車輪石・鍬形石など宝器的・象徴的・呪術的なものであり弥生時代と本質的には変わっていない、しかし後期になると生活・戦闘など実用的なものに変わるのだといわれ、食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類などに変わっているといいます。
江上氏は、こうした「突然変異的な変化」は「その社会それ自身の内部的な発展によって生み出されるものでは決してなく、別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象。」と考えられたようです。

確かに魏志倭人伝によれば卑弥呼は呪術をもって30ヶ国余りを支配したとありますが、高句麗好太王碑には当時、朝鮮半島で百済の同盟国だった倭国の軍が、南侵してきた高句麗軍と交戦したとあり、わずか130年の間に同じ民族の支配形態が呪術から武力へ変わるのも疑問に思います。
この謎を解き明かすには、この空白の期間を埋める何か決定的な発見があることを待つしかないでしょう。

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2005/03/14

「徳川家四百年の内緒話」

徳川家には、まず将軍家、そして家康の息子の義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)を藩祖とする「御三家」と、吉宗の息子の田安宗武、一橋宗尹、孫の清水重好が興した「後三卿」があり、将軍家に世嗣がない場合に将軍職を継げるのは「御三家、吉宗以降は御三卿出身のみ」と限定されていました。その御三卿の一つ田安(徳川)家の現在の当主である徳川宗英氏の著書徳川四百年の内緒話(文集文庫刊)が去年の発売され、私も先日買って読んでみました。
著書の内容は歴代の徳川将軍の数々の逸話(スキャンダルも)を宗英氏が客観的に説明し、かなり見ごたえのある作品となっています。特に5代将軍綱吉の話は傑作で、保護した野良犬のエサ代に年間百億かけたとか、カラスを島流し(綱吉の頭に糞を落としたカラスを役人に命じて捕まえて、殺したいが「生類憐れみの令」があるので殺せず、新島に島流しされたが、新島で放されるとすぐに江戸の方へ飛び立った・・(笑))したなど現代では思わず笑ってしまう話が書かれてます。
この本、かなりおススメです。

697kenpel5とても動物、特に自分の干支である犬に優しかった徳川綱吉。今彼が生きていれば動物愛護の先駆者として活躍していた事でしょう。

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徳川家の末裔

江戸開府400年目を迎えた去年、徳川宗家18代当主徳川常孝さん(日本郵船株式会社 前副社長。現在、日本郵船株式会社 顧問)が「江戸を語る」をテーマに話されている映像を見つけましたので紹介します。
徳川家は明治維新後公爵家として存続し、16代当主徳川家達は貴族院議長をつとめ、大正10年にはワシントン軍縮会議に全権として出席しています。また大正3年に山本権兵衛首相がシーメンス事件(ドイツの造船会社シーメンス社からの収賄事件)の責任を取って辞任したあと、組閣の内命が降りましたが固辞した話は有名です。そんな徳川家の現在の当主が常孝さんで徳川の人間の立場から江戸時代や先祖について語っています。
江戸幕府の国際意識
鎖国政策 家康の思惑
徳川家とは?
知られざる将軍の一日
18代から見た徳川家康とは?
水戸黄門の諸国行脚は?

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聖なるラインの被葬者たち

最近7~8世紀の古墳の研究調査が進んでますよね。先月の奈良新聞に高松塚古墳の被葬者について興味深い記事があったので紹介します。

明日香村平田の高松塚古墳(七世紀末―八世紀初め)で行われた約30年ぶりの発掘調査は、墳丘の規模や形など、ベールに包まれていた同古墳の姿を浮き彫りにした。被葬者への手がかりが増えたことで「墓の主」をめぐる論議は新たな方向性を見い出せるのだろうか。一方、「石室環境の悪化原因を突き止める」という主目的については決め手がなく、文化庁は新たな課題を背負うことになったといえそうだ。
【はがされたベール】
「有名な高松塚古墳が、実は大きさも形も分かっていなかった。それを確定できた意義は大きい」。調査を担当した奈良文化財研究所の松村恵司室長はそう話した。
同古墳の発掘は昭和47年。壁画を一刻も早く保護するため、県立橿原考古学研究所は調査開始から1カ月で打ち切りを決断、無二の遺産を文化庁に引き渡した。
このため、墳丘の十分な調査が行われず、「16―18メートルの円墳」と考えられてきた。形についても天皇墓を示す八角形の可能性が残されていた。
今回の調査は、これらのベールをすべて取り払った。墳丘すその排水溝(幅2.5メートル)が見つかったことで直径23メートルの円墳と確定。盛り土の最下層で出土した須恵器から、築造時期も七世紀末―八世紀初めと裏付けられた。
【新資料得た被葬者論】
松村室長は築造時期を藤原宮期(694―710年)に絞れるとみている。天武天皇の皇子たちが藤原宮の中軸線上に葬られたとする「聖なるライン」論や副葬されていた海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)の年代観とも矛盾しない。
中国・陝西省の独弧思貞墓で出土した海獣葡萄鏡は高松塚古墳の鏡と特徴が同じで、704年帰国の遣唐使が持ち帰ったとする見方がある。直木孝次郎・大阪市立大名誉教授(日本古代史)は、壁画に描かれた人物の服装などから705年に死んだ忍壁皇子説を唱えてきた。
一方、今回の成果を受けて「弓削皇子説が裏付けられた」と主張するのは菅谷文則・滋賀県立大教授(考古学)。699年に死亡しており、藤原宮期に当てはまる。持統天皇の火葬(703年)以前であることも大きな理由だ。それ以降の皇族は火葬されたとみている。
いずれも天武天皇の皇子だが、八角形説が消滅したことで朝廷の高官も被葬者の可能性が強まる。白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「大刀などの副葬品からみた年代観は奈良時代。被葬者はやはり左大臣・石上麻呂(640―717年)だろう。今回の土器は時期を特定できる資料ではない」と厳しい。平城遷都後、藤原宮の留守司を務めた人物で、死後、従一位を贈られた。
墳丘規模は「兄弟古墳」といわれるキトラ古墳(直径約14メートル)との間に10メートル近い差が生じることになった。菅谷教授は「石室はほぼ同じ大きさで、サイズの違う服を着ているようなもの。それがどういう意味を持つのか十分検討する必要がある。大化薄葬令(646年)との関係も考えられるのではないか」と指摘している。

奈良新聞 2月28日

藤原京の中軸線上(聖なるライン)に点在する古墳の被葬者は天武天皇の皇子たち、前回のキトラ古墳の記事でもこの「聖なるライン」の被葬者について話しましたが、今回も同じく高松塚古墳の被葬者が天武天皇の皇子である可能性を示唆する新聞記事の内容です。
学説では「皇子説」と「朝廷高官説」と分かれているようですね。被葬者論争も邪馬台国論争同様に決定的な根拠がないため結論を導き出すに至らないものとなっていますが、またそこが古代史のロマン・・いいですよね。

takamatutuka被葬者の調査とともに壁画の保存も研究者の課題になっているようです。

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キトラ古墳の被葬者について

また「Yahoo!ニュース」からの記事でキトラ古墳の被葬者についてのものがあったので載せてみました。

奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室で出土した頭骨の破片約100点と歯23点を鑑定した結果、被葬者は50歳代の男性の可能性が高くなったと、文化庁が10日、発表した。
骨太で歯も大きく、大柄な人物だったとみられる。被葬者の特定に直接結びつく手がかりとして注目される。
鑑定したのは、片山一道・京都大教授(自然人類学)。年齢は、歯のすり減り具合などから50~60歳、性別は骨の特徴から男性と判断された。昨年の鑑定では「40~70歳で性別不明」との中間報告を得ていた。
これまで被葬者候補に挙がっていた天武天皇の皇子・高市(たけち)皇子は40歳代前半、右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)は60歳代後半で死んだとされており、被葬者論争に影響を与えるとみられる。

読売新聞 3月10日

キトラ古墳の被葬者については色々な説が出ていましたね。私が以前見た本には百済からの渡来人であるような説を唱えてありました。まあ古墳の規模や装飾からするとおそらく7世紀後半に死んだ人物が被葬者でありそうな気がします。最近では壁画の保存に苦慮しているなど話題が多い古墳です。ちなみにキトラ古墳について奈良新聞に詳しい説明が載っていたので紹介します。

【キトラ古墳】
明日香村にある終末期古墳で直径約14メートルの小型円墳。約1キロ北の高松塚古墳で極彩色壁画が発見されたのを機に、1983年から調査が始まり、朱雀など四神図と獣頭人身の十二支図、天文図などを確認した。今年1月に本格的な調査が再開。石室内部を発掘し、被葬者とみられる人骨や木棺金具、副葬品のこはく玉や大刀飾りが見つかった。被葬者は、天武天皇の皇子や渡来系豪族など諸説ある。
高松塚古墳よりひと回り小さい。昭和58年以降、計4回の撮影調査が行われた。藤原宮の中軸線を延ばした「聖なるライン」に乗るとする研究者もいる。

「聖なるライン」・・。これは天武天皇の皇子たちが藤原京の中軸線上に埋葬されることから名づけられたものです。そうすると被葬者は高市皇子の可能性がありますね。高市皇子は確か壬申の乱で先鋒を務めた方、しかし皇子たちの中では年長であるにもかかわらず、母の身分が低いため皇太子にはなれずに亡くなったそうです。その高市皇子がキトラの被葬者・・なんだかワクワクします。

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蘇我氏滅亡前後の建物跡発見

奈良県明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡から、7世紀前半~同後半の建物跡7棟が見つかった。同遺跡では昨年3月、推古朝の最高権力者、蘇我馬子(?~626年)の邸宅跡とみられる建物跡を確認。9日発表した村教委は「うち4棟は馬子の死後の7世紀中ごろのもので、蘇我氏滅亡の前後。誰が利用したか興味深い」としている。
馬子の邸宅は、大化の改新(645年)で蘇我氏本家が滅んだ後、天皇家に没収されて「嶋(しまの)宮」となり、7世紀後半には皇太子・草壁皇子が住んだ。今回の建物跡は、その間の空白を埋める資料となりそう。
調査地は、馬子の墓とされる「石舞台古墳」(7世紀前半)の西側。昨年見つかった大型建物跡の南北計520平方メートルを発掘したところ柱穴が見つかり、うち4棟が、過去に近くで確認された7世紀中ごろのさく跡と方位が合っており、同時期と判断した。最大で東西9メートル以上、南北約6メートルで、邸宅の中心とされる大型建物を上回るものはなかった。あとの1棟は7世紀前半、2棟は7世紀後半とみられる。
日本書紀には、大化の改新の際、中大兄皇子(天智天皇)が馬子の邸宅近くに建てた宮殿で中臣鎌足と入鹿(いるか)殺害を謀議した--との記述があり、この地域に皇極天皇の母や舒明天皇の母などが拠点を構えたとの説も。村教委は「これらの記録と対応する可能性もあり、さらに周辺地域を調査する」と話している。
和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)は「(4棟の建物は)7世紀前半の大型建物のすぐそばで見つかっており、同時期に一体となって使用されたか、馬子の息子・蝦夷(えみし)や孫・入鹿の時代に増築されたものと考えたい」と話している。
毎日新聞 3月10日

これは「Yahoo!ニュース」から抜粋したもので前回の記事と同じく「日本書紀」の記述の裏づけになりそうな興味深い発見です。
蘇我馬子については世間的にヒールのイメージがありますが実は聖徳太子の行った数々の改革うしろからサポートしていた可能性もあり、まだまだ研究の余地がある人物ではないでしょうか。
欽明朝~皇極朝の蘇我氏隆盛の時代の記紀の記述には「大化の改新」の正当性を主張するがあまり幾らか脚色された部分もあるのは仕方ないことです。しかし今後古代史の研究調査が進み、蘇我氏が再評価されることを期待して止みません。

isibutai石舞台古墳。蘇我馬子の墓と言われ、今回発見された邸跡付近に位置しています。

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「日本書紀」信憑性の裏づけなるか

飛鳥時代の宮殿跡が重なる飛鳥京跡(奈良県明日香村)で、7世紀後半の内裏にあった中心建物、正殿の全容が明らかになった。8日発表した県立橿原考古学研究所によると、東西23.5メートル、南北12.4メートルと大規模で、日本書紀に天武天皇が宴を催したと記される「内安殿(うちのあんどの)」と「向小殿(むかいのこどの)」にあてる説などが浮上。律令国家形成期の天皇の私的空間の実態に迫る資料となる。
斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656~667)とそれを再利用した天武、持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672~694)の建物とみられる。西にも形の違う建物がある左右非対称の特異な構造で、橿考研は「中国の宮殿は左右対称が原則。日本古来の伝統を残しているのでは」としている。
1324年前、天武天皇らが酒宴を楽しんだまさにその場所が、私たちの目の前に--。「共に置酒して、楽を賜う」と日本書紀に記された奈良県明日香村の飛鳥京跡が全容を現した。壬申の乱(672年)に勝利し、律令国家建設にまい進した天武天皇が、日本最古の法律制定などさまざまな施策を実行に移した古代史のメーン舞台、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)。その私的空間で、どのようなドラマが繰り広げられたのか--。
今回確認された正殿と東の建物、さらに塀で区切られた南に大型建物があり、これらが日本書紀の記述とどう対応するか検討することが可能になったことが、今回の大きな成果だ。

毎日新聞 3月9日

3・10の朝刊でこの記事を読んだとき「日本書紀」の信憑性が裏づけられるのでは?と、とっさに思ってしまいました。私が中学生の時の歴史の先生はやや左寄りの方で古代史の話になるとさも「古事記」や「日本書紀」がデタラメのものであるかのように生徒に話し私もそう信じていました。
しかし30を越え考えに多少の円熟味が増したことで「デタラメなものの中に古代史の謎を解く重要な記述があったり、また真実があったりするはずだ。」そう考えるようになりました。
確かに記紀に関して言えば大和朝廷を正当化するための史書と言う概念が広まっていますが、それ以外にも忘れられている歴史を発見できる史書であると言えるのではないでしょうか。

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華岡青洲

seisyu先日、私の彼女が「今、テレビで華岡青洲の妻見てるんだ。」と言うので「華岡青洲?誰?」とつい聞いてしまいました(苦笑)日本で始めて全身麻酔による乳癌摘出手術をされた方なんですね。しかも1805年に!そんな有名な方を自称「歴史好き」の私が知らなかったのは不覚だったので今ここで青洲先生がどのような方だったのか紹介しましょう。

1760年(宝暦10年)10月23日 今の那賀町平山に生まれました。
その後1782年に、京都での3年間の遊学の後、帰郷し父の後をついで開業しました。
当時の外科治療には大きな問題がありました。麻酔がないために、患者は激しい痛みに耐えねばならず、そのために死に至ることも多かったのです。青洲は、患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え麻酔薬の開発を始めました。
研究に研究を重ね長い苦心の末に、青洲は曼陀羅華(まんだらげ)の花を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見しました。
動物を使った実験を重ねることによって、麻酔薬の完成まであと一歩というところまでこぎつけましたが、最後の人体実験を目の前にして行き詰まっていた時、苦悩する青洲に母・於継と妻・加恵が自ら進んで実験台になることを申し出たのです。こうして数回にわたる人体実験の結果、加恵の失明という事態を招いたものの、ついに全身麻酔薬「通仙散」が完成しました。以後、青洲は、没するまでの約30年間に様々な手術を行い、当時不治の病といわれた乳がん手術だけでも153例にも及びました。
また、乳がん手術の成功後、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が、平山に殺到しました。青洲は、門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けて、千人以上の門下生を育てました。
そして1835年(天保6年)10月2日、青洲は76年の生涯を閉じました
那賀町役場HPより

驚いたのは当時の外科手術は麻酔なしおこなわれその痛みのせいで死んでしまう!なんて事があったんだね・・。確かにそのような時代に全身麻酔を開発し、実用化させた実績は現在ならノーベル医学賞受賞間違いなしって話だな。しかもこの青洲先生、紀州の殿様の主治医になってほしいとお願いされても「私は町民を診るのが役目だから主治医になったらそれが出来ない。」とこんなおいしい話を断ってんですよね。使命感の強い方ですな。

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白河の清き?に魚も住みかねて、もとの濁り?の田沼恋しき

tanuma-okitsugu日本の歴史を学んだことがある人は「田沼意次」=「賄賂政治家」と言うイメージを少なからずとも持っているはずです。しかしそのイメージは田沼に対して殺意さえ抱いていたとされる後の老中松平定信とその周辺の保守派によってつくり出された嘘である可能性が高いのです。なぜなら田沼=悪のイメージをつくることで寛政の改革の正当性を誇示したかったからでしょう。また定信の個人的憎しみも影響しているはずです。
田沼意次の行ってきた幕政改革を見てみると徳川幕府260年の歴史で一番斬新であり他に比べても急進的な政策ばかり。彼は賄賂政治家ではなく有能なエコノミストであったのです。彼は旧来の年貢中心の財政に限界を感じ、商品経済に目をつけて重商主義による経済政策へ転換させたのです。その経済政策とは株仲間を奨励し公認料(運上や冥加)を徴収して物価の安定と財源を確保したり、銅や朝鮮人参を専売制とすることで同じく安定した財源を確保し幕府財政の立て直しを図ることでした。また仙台藩の医師、工藤平助が著した「赤蝦夷風説考」に影響を受け、ロシア南下政策に対応するため最上徳内を蝦夷地に派遣し調査を開始させました。
株仲間(同業者組織)や専売などと言うと今の世の中でも談合のようなイメージを持つ人は多いと思いますが田沼意次は賄賂目的ではなく、破綻寸前だった財政を立て直すための手段としてこのような制度をつくったと私は信じています。このような事実から21世紀は田沼意次を賄賂政治家ではなくエコノミストとして再評価する必要があるでしょう。

60a松平定信。田安宗武の7男で徳川吉宗の孫。実兄が早世したため本来なら田安家を相続するはずだったがすでに白河松平家に養子に出されていたためそれは叶わずに終わる。田安家は将軍継承権があり有能な定信を畏れていた同じ御三卿の一橋治済や意次の妨害により定信は相続できなかったとも言われ、その事が後の意次失脚や尊号一件につながる原因となったと伝えられている。

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吉田松陰クロフネでアメリカ渡航計画

186f383d日本の歴史を学んだことがある人であれば吉田松蔭の名前を松下村塾とセットで覚えたはずです。なにせ松下村塾からは後の明治維新や明治政府で中核的役割を果たす多くの人物を輩出しているわけですから。しかしある計画が成功していたらこの松下村塾も明治維新もなかったかもしれないのです。それは「吉田松蔭アメリカ渡航計画」です。
ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が江戸湾沖に来港したとき吉田松蔭は自ら海に出て黒船に乗り込み「私をアメリカまで連れて行ってくれ!」と嘆願したのです…。しかし結果は訳の分からない日本人(吉田松蔭は奇人としても有名)を乗船させることは出来ないとして拒否。松蔭は法を破った罪として牢につながれ後に長州を帰ることになります。その後松蔭は幕府による開国政策を批判し攘夷論を展開、松下村塾を開きます。松陰は安政の大獄によって処刑されてしまいますが、その門弟たちはのちに蛤御門の変から長州戦争そして明治維新を達成させる逸材として活躍するのです。
もし吉田松蔭がアメリカに渡っていたら日本に明治維新はなく中国の清のように半植民地化されていたのかもしれません…。まあ歴史に「たられば」は禁句ですけどね(笑)

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熊本城とその歴史

昨年の10月姉夫婦が住む熊本へ行ったついでに熊本城へ立ち寄り、何枚か写真を撮ってきたので紹介しながら熊本城とその歴史について触れてみたいと思います。
熊本城と言えば「加藤清正」と連想される方は少なくないはずです。彼が関が原の合戦の戦功により肥後54万石の大名となった後の慶長12(1607)年に熊本城は落成しました。豊臣恩顧の大名でもある清正はこの城を築くことによって、豊臣家に対して臣従を強要する家康を牽制する目的があったと思われます。がしかし慶長16(1611)年に清正は突然の死去、その世嗣の忠広は「江戸で生まれた母子を無断で国元へ送った。」と言う理由だけで改易されてしまい、出羽庄内1万石へ減封されてしまいます。その後この肥後の国に転封されて来たにはのは、細川護煕元総理のご先祖でもある細川忠利です。そしてこの細川家が幕末の廃藩置県まで肥後を統治することになります。細川家が肥後を統治していた時代については世間一般的にあまりよく知られていませんが、細川家第6代当主重賢は中興の祖として多くの藩政改革(宝暦の改革)に着手しました。中でも藩校時習館を設立して人材を育成し、また身分が高くなくても有能な人材(堀平太佐衛門など)を登用して藩政の建て直しを図った事は有名です。
そんな肥後の歴史を見つめ続けてきた熊本城でしたが、明治10年の西南戦争で宇土櫓以外はほとんど焼失。そのまま戦後を迎えましたが、現在は多くの有志により復元工事が進んでいるそうです。

_032加藤清正像。賤ヶ岳の七本槍の一人として武勇を馳せ、秀吉の朝鮮出兵では中心的役割を果たした。関ヶ原の戦いで東軍につき、戦功として肥後54万石を賜った。その後慶長12(1607)年熊本城を築城する。

_034熊本城天守閣。江戸期に存在した天守閣は西南戦争で焼失したため、現在の天守閣は昭和35年に再建されたもの。

_036宇土櫓。関ヶ原の戦いで処刑された小西行長の居城・宇土城を移築したとの説もあり、それが呼び名の由来ともなっている。

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2005/03/13

保科正之

masayuki-hoshina歴史が好きな方でもこの「保科正之」と言う名前を聞いてピンとこられる方は少ないと思います。保科正之は徳川幕府第2代将軍徳川秀忠の四男にあたり、3代将軍徳川家光の異母弟だった人物です。
「日本史もっと知りた~い」(現「日本史探求」)記念すべき第1回目は、この保科正之について取り上げていこうと思います。
兄である3代将軍家光と、同じく兄の駿河大納言忠長が秀忠正室お江与の方の子供であったのに対して、正之はお静という将軍家に出仕していた女中の子供でありました。そんな事から秀忠はお江与に正之の存在を知られるのを畏れ、秘密裏のうちに正之を高遠3万石保科家へと養子に出してしまいます。そんな不遇の少年時代を送った正之が、中央政治の表舞台に現れてくるのは秀忠の死後、家光が3代将軍として権勢揮う時代になってからです。家光の弟忠長はとても野心家で、父に対して大阪城をくれと言ったり、殺生禁断の駿河浅間神社においてそこに棲む猿(当時は神獣とされていた)を猿狩りにおいて1200匹をも捕殺したりと次第に奇行が目立つようになりました。この忠長を将軍家光は改易の上謹慎させ、父秀忠が死ぬと間もなく切腹させます。このように心の許せる親類が周囲いなかった家光ですが、実はもう一人の異母弟保科正之がいる事に気付き、数少ない身内として重用するようになります。忠長のように野心を持たない正之はやがて家光の死の間際に遺子家綱(第4代将軍)の後見職を命じられるのです。
後見職として手腕を振るう正之については中公新書「保科正之言行録 仁心無私の政治家」(中村彰彦著)に詳しく書かれています。
ところで幕末、戊辰戦争において最後まで抵抗を見せたのは将軍家でもなく、徳川御三家でもなく、会津松平家であったのはご存知でしょうか?そしてその会津松平家こそが保科正之を藩祖とする会津藩なのです。戊辰戦争の最後まで抵抗を見せた会津藩のスピリットを知る重要な資料として会津藩家訓があります。その会津松平家家訓第1条には「徳川将軍家については一心に忠義に励むべきで、しかも他の諸藩と同じ忠義で満足していてはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような藩主が現れたならば、そんなのは我が子孫ではないから、決して従ってはならない。」と断じ、幕府(将軍)に対して絶対の忠誠を謳っているのです。この家訓が幕末、会津藩が京都守護職を仰せつかり、戊辰戦争では最後の最後まで板垣退助率いる官軍と戦い抜くだけの精神を維持させたのでしょう。
幕藩政治確立から崩壊のすべての過程でキャスティングボードを握ってきた会津藩。そこには必ず正之の持つ精神が血脈として子々孫々に受け継がれたことを感じさせています。
この保科正之の生涯については追々記事にしていこうと思っています。

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