2009/06/28

日露開戦を考える

 マイケル・ジャクソンが死んだ。死因は薬物の多量摂取と伝えられている。
 私は彼を見るたびに、コンプレックスという言葉が頭を過ぎる。特に人種というコンプレックスをだ。
 アメリカは多くの人種が存在する国であるのはいうまでもない。しかし、十数年前までは白人優位の社会であり、黒人の大統領が誕生するなど考えられなかった国であった。
 アメリカに暮らすマイケルは、私たちが考えるよりも濃厚に人種の壁というものを痛感していたに違いない。彼がスターダムに伸し上がれば上がるほど、その考えは強くなったであろう。それを彼の変化する外見が物語っている。
 白人は、有色人種に対して自制心が働かない。おそらくはマイケルに対してもそうであり、私たち日本人に対してもそうだ。

 話を1853年に移す。この年、アメリカのペリーが来航し日本は西洋を肌で感じるようになった。当初はそれが忌まわしく映り、やがて攘夷というエネルギーに変化する。
 攘夷が無謀であることを知った日本は、明治維新を経て文明開化の道を歩む。文明は西洋から齎され、文明の進化は帝国主義への道を進むことであった。また、その道を歩まなければ、極東の小国である日本は西洋列強に侵食されていただろう。
 帝国主義による膨張は、日本が生存するための手段であり、そこに悪意は存在しなかった。しかし、西洋列強はそれを成り上がりと見た。西洋列強にとって日本の成り上がりは悪であり、それが観念として固定されていった。
 日清戦争により中国での利権を得た日本へ、ロシアを中心とする列強は躊躇うことなく容喙した。前述した彼らの固定観念がそれを正義としたのだ。
 ロシアは彼らの正義である南下運動を推進すべく、日本への軍事的抑圧を強める。それは日本にとって存続の危機であった。この南下運動を抑えるにはロシアと戦うしかない。日本は帝国主義を推し進めるためではなく、国を守るためにロシアと戦った。

 と、今まで記したことはマイケルの思考と無関係ではない。マイケルと日露戦争時の日本を同一視するのは少々無理があるとは思うが、当時の日本人の思考は西洋列強の観念に抵抗するものであり、それは極端とは言い難いほどに無垢で正しい抵抗であった。
 故司馬遼太郎氏は、小説『坂の上の雲』にこう記している。

 

 それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英知と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本ではなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交政略はたとえおなじでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたげてきた黄色人種たちの小僧憎さというものは、白人国家の側からみなければわからないものである。
 1945年8月6日、広島に原爆が投下された。もし日本と同じ条件の国がヨーロッパにあったとして、そして原爆投下がアメリカの戦略にとって必要であったとしてもなお、ヨーロッパの白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう。
 国家間における人種問題的課題は、平時ではさほどに露出しない。しかし戦時というぎりぎりの政治心理の場になると、アジアに対してならやってもいいのではないかという、そういう自制心がゆるむということにおいて顔を出している。
 1945年8月8日、ソ連は日本との不可侵条約をふみにじって満州へ大軍を殺到させた。条約履行という点においてソ連はロシア的体質とでもいいたくなるほどに平然とやぶる。しかしかといってここまで容赦会釈ないやぶり方というものは、やはり相手がアジア人の国であるということにおいて倫理的良心をわずかしか感じずにすむというところがあるのではないか。

 司馬氏がこう記したように、日本がおかれた立場を考えると、日露開戦は回避することは不可能であり、日本にとっては選択の余地がなかったであろう。
 戦後史観によって日露戦争は侵略戦争であると定義されているが、白色人種による人種差別的思考が日本を追い込んだことを、私たちは知るべきである。

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2009/06/20

司馬遼太郎さんの作品に学ぶ

 私は、司馬遼太郎さんの作品に出会えたことを幸せに感じている。そう、目から鱗が落ちるとでもいうべきだろうか。
 歴史は人間が築く。その人間に身分などなく、熱意と才能が歴史を動かすことを司馬さんの作品を通じて学ぶことが出来た。

 江戸時代末期の人物である高田屋嘉兵衛を描いた『菜の花の沖』では、国家間の紛争は”友情”で解決できることを私たちに伝えた。
 難解な問題でも、熱意を持つことで解決できるのだと司馬さんは読み手に伝えているのだろう。

 『花神』では、日本初の蒸気機関設計に携わった宇和島の堤燈張り嘉蔵(かぞう)を高く評価した。
 嘉蔵の才能を埋もれさせた江戸封建社会体制を批判した上で、人間が持っている何かしらの才能を社会全体で掘り起こすことの重要性を訴えている。

 徳川家康とその家臣団を描いた『覇王の家』では、現代人には地味で陰湿なイメージの家康を”模倣の天才”と評価し、模倣であっても組織の運営に有効なものは積極的に取り入れることの重要性を説いている。

 話し出すと切がないので、この辺りでやめておくが、司馬さんの作品は人間が人間であることの意義と、歴史の中の人間ではなく、人間が築いた歴史ということを伝えている。
 歴史を観るときに、断片的な事実(資料)に拠ることは決して否定しないし、それはそれで重要だと思う。ただ、歴史の中にはその過程を歩み、またはその歩む道を切り拓いた人間がいたことを私たちは忘れてはならないだろう。

 ちなみに、週刊『司馬遼太郎』という書籍がある。
 司馬さんが歴史の中から人間を掘り起こす作業を、司馬さんの関係者の視点から観てゆく内容で、司馬遼太郎ファンの方なら一読される価値はあるはずだ。
 また週刊『司馬遼太郎』では司馬作品の舞台となった土地も取材しているが、『菜の花の沖』の舞台になったペトロハブロフスクの写真はとても美しく、その画は今でも脳裏の残っている。

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2009/06/17

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』

 現在手元にある『街道をゆく』シリーズは、私が中学生であった20年前に叔父から頂いたものである。
 自身でいうのもおこがましいが、中学時代の私は歴史科目を得意としていた。いや歴史”だけは”と表現したほうが正しいかもしれない。
 そんな私に叔父が、『街道をゆく』を読み歴史に関して造詣を深めてもらいたいと、シリーズ25冊を贈ってくれた。しかし当時の私にはあまりにも難しい内容であり、結局は読まずじまいで書棚に18年もの間眠ることになる。
 ところが一昨年前のある日、訳あって職が無い時期だった私は特にやることもなかったので、書棚の『街道をゆく』を手に取り読み始めた。幸いにして中学生の時よりも歴史に関する知識は向上しており、当時のように難渋することはなく、無作為に取り出した1冊を、そう時間をかけずに読み終えた。
 出版されたのが30年以上前の作品でありながら、その内容には新鮮さがあり、歴史と風土の関連性など細かく突き詰めていて、実に素晴らしい作品であった。

 さて、その『街道をゆく』に話を移したい。
 今回読んだのは『街道をゆく2 韓のくに紀行』であった。この作品は、司馬氏が南鮮(新羅・百済・加羅)を旅し、そこでの風景を歴史とリンクして随想しているものである。
 司馬氏がこの作品の中でしきりに持ち出す思想が『朱子学』であった。朱子学は朝鮮民族にとっては国教ともいえる思想そであり、現在においてもその思考や風習に大きな影響を与えている。
 朝鮮の歩んだ歴史や、朝鮮民族の行動原理など観る場合、この朱子学を抜きにしては語れない。端的に言えば、朱子学の根源には忠孝という考え方があり、子は親を敬う精神を何よりも大事にする。また”家族”の結びつきも日本人のそれより強く、10親等までの婚姻は近親婚という概念すらあるという。
 李氏朝鮮は、その朱子学を統治上の基盤として民族に徹底させた。前述した親と子の概念を君主と民衆に定義し、家族を国家と定義したのだ。ゆえに現在でも朝鮮民族はあらゆる場面で観念的な表情を見せる。
 観念的であることは私自身決して悪いことではないと思うし、愛国心を育むためには、観念というものが必要であろう。しかし観念は進歩を阻み、その性格を固陋なものにしてしまう。ゆえに朝鮮民族は日本の統治下に置かれたり、または現在の北朝鮮のような恫喝一辺倒の状態を捨てることができない。
 司馬氏はこの著書の中で、怨念が観念となり、観念が正義となると述べている。殊、朝鮮民族にはその傾向が強く、日本人に対する現在の彼らが見せる表情はまさにそれではないだろうか。

 今まで、朝鮮民族の固陋さを”負”という部分で述べてきた。しかし彼らにも”正”の部分はもちろんある。特に彼らが私たちに伝えた多くの文化は、現在の日本においてどれだけ民族性の形成のに役立ったことであろうか。特に彼らが伝えた仏教に関しては、日本人の原理ともいえる”和を以って尊ぶとなす”にどれほど貢献したか計り知れない。
 また、白村江の戦いの後、日本に移住した百済人亡命者たちの貢献は今さら語る必要もないであろう。

 この『韓のくに紀行』を通じて、朝鮮民族の性格や、日本との関係の多くを知ることができた。”目から鱗が落ちる”とは、このことを言うのかもしれない。

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『逆説の日本史』と邪馬台国の話

 先日、井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』を読み終えたのだが、その内容には少々疑問を感じた。
 井沢氏は作家であり、歴史学者よりも推論という観点では優れていると思う。しかし、井沢氏の悪いところは『資料至上主義者』と氏がいう学者たちを愚物のように卑下し、その卑下した部分から自身の推論の正当性を誇示しようとするところだ。
 2~5世紀にかけての日本には文字による資料がなく、資料と呼べるのは隣国の中国王朝の史書や好太王碑文といった類のものしかない。であるならば、重要になってくるものは、やはりそれらの資料や発掘調査による発見だろう。そのことは『資料至上主義者』の学者だけでなく、私のような無知な一般人でも思うところである。
 ただ、井沢氏やその他作家の方が古代史について推論を述べることは決して悪いことではない。私のように凡庸な人間と違い、多くの知識と高い推察力を持ち合わせている作家の方々の知恵をお借りることは、古代史の発展にもプラスになる。もしかしたら作家の中からシュリーマンのような人物が日本に現れて、邪馬台国の所在地を発見するかもしれない。

 駄文を長々と綴ったが、結局私が言いたいことは、資料も発掘も重要視しなければならないということである。特に発掘調査による数々の発見は、文字以上にその時代の背景を教えてくれる資料になる。
 箸墓古墳にしても、纏向石塚古墳にしても、そこから発掘された物が3世紀に近畿地方が大規模な政治連合を形成していたこと証明してくれた。その政治連合が”九州の邪馬台国”に滅ぼされることは考え難いのでないかと私個人としては思っている。ただ、近畿説を支持する私の潜在意識がそう導いているのかもしれないが、昨今の発見は近畿説への強力な補強材料になるであろう。

 最後に、その補強材料になるかもしれない発見についての新聞記事を紹介して今回の記事は終わりにしたい。

 

 桜井茶臼山古墳では、銅鏡の破片153個も出土した。昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40~50枚を副葬したとの見方も浮上。国内最多の40枚が出土した平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、福岡県前原市)を上回る可能性も出てきた。

 鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数センチ大に割れていた。60年前の調査では、邪馬台国の女王・卑弥呼に対し、中国から下賜(かし)されたともいわれる三角縁神獣鏡などが見つかっており、同研究所は鏡の種類の特定などを進める。

 古墳出土の銅鏡は、大和政権の大王が、大陸の王朝から下賜されたものを国内の地方首長らに配布して服属を誓わせたとの説や、鏡の光によって被葬者の魂を邪悪なものから守るための「葬具」といわれるなど、謎の多い副葬品。同古墳の鏡は、大和政権の権力構造を考える上でも重要なカギを握るとみられる。

 産経新聞 6月12日

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2009/06/06

小説『覇王の家』

 模倣に模倣を重ねて『覇王の家』を築き上げた徳川家康。
 彼がどのような手法で盤石な政権基盤を築き上げたかを、独特の司馬史観で考察したのが、この『覇王の家』という作品だ。

 物語の前半、駿河で人質生活を送る家康は、今川家の軍師である太原雪斎からこんな言葉を聞く。
 

独創や創意、頓知などを世間の者は知恵というがそういう知恵は刃物のように危険で、やがては我が身が満身になり、我が身を滅ぼす。

 さらにつづけて
 
そこへゆくと、物まなびの心得ある者は、古今東西のよき例をまねるゆえ、一つの癖に陥らない。それには何がよいかというと、よいものを選ぶ心をつねに用意しておかねばならず、そういう心を持しているためには、おのれの才に執着があってはならぬ。おのれの才がたかが知れたものと観じきってしまえば、無限に外の知恵というものが入ってくる。その中で最良のものを選ぶだけの仕事で済む。

 この雪斎の言葉を、家康が実際に聞いたかは分からない。また、家康がそれを意識的におこなったのかも今になっては知る由もない。ただ、徳川幕府がのちに『庄屋仕立て』と表現されるように、模倣による運営を基礎としていたことを、その事実が物語っている。

 また、家康自身が武田信玄の築いた軍制や、その統治方法を模倣することで、秀吉に対抗しうる勢力になったことをこの作品から知ることも出来た。

 自らを抽象化し、そして法人として生きた徳川家康。『覇王の家』は、家康の歩んだ軌跡と彼の人心掌握の術を知ることができる良作である。

 人心掌握と言えば、当時の徳川家臣団は郷土意識に根付いた強固な集団であった半面、徳川家(家康)の存在を自身らの利益代表者と観ていた。
 利益代表者である家康が、彼らの意思に反してその利益を反故にしてしまう、または利益を共有することをしないときは、彼らは利己のために裏切る可能性があった。
 例えば、家康の腹心である酒井忠次は自身を面罵し、いつしか陥れようする徳川信康を嫌悪していた。そのため、自身の保身と利益の確保のために、信長に対して何の申し開きもせず、その瑕疵を信長へ滔々と述べてしまい、ついには信康を自刃に追い込んでしまったのだ。これは忠次の利益を害する信康を、その利益と保身のために殺したと言っても過言ではない。しかし、当時の家康は忠次を責めることなく、責めるどころか後々まで重用するのであった。
 この事実は、家康が個人的な感情に左右されず、一個の機関として抽象的に観じきっていたことを物語っている。また、こうしなければ家康が三河家臣団を統率することは不可能であったのであろう。
 家康の人心掌握術とは、このように自身を抽象化し合理的な判断におこなうことで、彼らの利益を損じないように気を配ることであった。それが家康の人心掌握の核となっていたはずだ。
 家康は、戦国時代の覇王と呼ぶに相応しくない人物かもしれないが、戦国時代を堰武させることは家康でなければ不可能だったのかもしれない。そんな事を”覇王の家”を読みながらふと思った次第である。

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