2009/11/22

纏向遺跡と三輪王朝

 戦後、良くも悪くも戦前の歴史観が否定されるようになり、万世一系といわれてきた天皇家に対しても新しい観点から研究されるようになった。そして現在では定説のような感じさえある王朝交代説が生まれる。
 王朝交代説については、Wikipedia等で調べてもらえば分るのだが、簡単に言えば天皇を中心とする皇統は、途中断絶があり、それによって三輪、河内、近江の3つ王朝が交代して現在の天皇の系統に至るというものだ。
 そして昨今は、日本における本格的な統一国家の誕生は、10代天皇の崇神天皇によって統治された三輪王朝からではないかといわれるようになる。記紀に記されたそれ以前の歴史は空想であり、その空想的な描写は、ヤマト王権の統治上必要な記述であったのだろう。
 今回は空想的な話は省略したい。

 さて、纏向遺跡が魏志倭人伝に記された邪馬台国の中心部であったと世間では騒がれているが、それよりも、記紀に記された崇神天皇時代の権力構造が纏向発掘により明らかなになっていることのほうが私としては興味深い。
 纏向にある箸墓古墳の被葬者、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼であるかないかは正直興味がない。ただ、纏向から大規模な建造物の跡が発見されたことは、この倭迹迹日百襲媛命がそこで呪術的な行為をおこなっていた可能性は十分に考えられる。そして、それほどの建造物が建てられた時代が倭迹迹日百襲媛命の時代と重なるのならば、必然的に纏向が三輪王朝の黎明期から最盛期を知る地域となってくる。
 邪馬台国という中国の歴史書だけに目が行ってしまうと見えてこないものが、違った角度で観察してみると、実は記紀の裏付けになっているのがとても面白い。三輪王朝を知るには纏向を知る、そんなことを思う今日この頃である。

 最後に、三輪王朝と纏向の関わりについて産経新聞の記事を紹介したい。

 纒向遺跡中枢域は“水の宮殿” 3方に河川と人工水路

 邪馬台国の最有力候補地である纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった大型建物跡(3世紀前半)の一帯は、河川と人工水路で3方を囲まれていた可能性があることが16日、桜井市教委などの分析で分かった。“水の宮殿”を想起させる構造で、約半世紀後の初期大和政権の大王ともされる崇神天皇の宮の「瑞籬宮(みずかきのみや、水垣宮)」とイメージが一致する。邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿と、初期大和政権の宮の関連性や継続性を示す構造として注目されそうだ。

 桜井市教委の調査によると、大型建物跡が出土した調査地は、周囲より1メートル以上高い「微高地」(東西約150メートル、南北約100メートル)の中心部。市教委は大型建物跡を囲むさくの内部を内郭、微高地の範囲を外郭と想定している。地形や発掘調査から当時、微高地の北辺と南辺に河川が東西に流れていたとみられる。東辺は未調査だが飛鳥時代の古代官道の上ツ道の推定ルートとほぼ一致している。

 西辺は、幅8メートル以上、深さ1・4メートル以上の溝跡が昭和53年の奈良県立橿原考古学研究所の調査で発見されている。底面の土の堆積(たいせき)から、よどんだ水路ではなく、南北の河川とつながっていた可能性が高い。土器などから溝は3世紀前半にあったと考えられ、大型建物跡と同時期だ。これについて香芝市二上山博物館の石野博信館長は「溝は宮殿のある中枢域を水で囲むために人工的に掘ったのではないか」と指摘する。

 卑弥呼の宮殿について魏志倭人伝は「宮室は楼観や城柵を厳かに設け」とあるだけで、水で囲われていたかは不明。だが、初期大和政権の最初の大王ともされる崇神天皇の宮が、古事記では「師木水垣宮(しきみずかきのみや)」、日本書紀も「磯城(しき)瑞籬宮」と表記。宮殿の周囲を瑞(=水)の籬(=垣)が巡っていたことが読み取れる。

 寺澤薫・橿考研総務企画部長は「纒向遺跡の中枢域は清らかな水が流れる神聖な空間だったと想像でき、瑞籬宮の言葉の意味とも重なる」と話している。

産経新聞 11月16日

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2009/11/18

戦艦三笠

 昨日、横須賀にある三笠公園に行ってきた。
 スペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』が11月29日から放送が始まるのだが、その前に保存されている三笠へ一度行ってみたいたと思っていた。実は、原作の『坂の上の雲』を読み終えるまでは、戦艦三笠などにはまったく興味のなかったというのが正直なところである。
 三笠公園に着くと、眼前に三笠が見えてきた。

 この三笠は、復元されたものである。
 日露戦争後、原因不明の火災によって沈没したのだが、引き上げて修復したという。そして現在まで保存され、この三笠公園で一般に公開されるようになった。

 三笠の艦内に入り、甲板に立つと有名なZ旗が掲げられていることに気づく。

 Z旗とは、四色の信号旗である。信号旗ということはその旗に当然意味が込められているのだが、その意味については多くの方が存じ上げていることであろう。それが以下の有名な一文である。
 「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。」
 ロシアバルチック艦隊が目の前に現れると、兵士の士気を高めるために、この旗が掲げられたという。それにしても実に見事な一文だ。小説『坂の上の雲』の中でも司馬遼太郎さんはこの一文を起草した秋山真之を激賞している。

 次の画像は、『坂の上の雲』でも登場するドイツのツァイス社製双眼鏡である。この双眼鏡は、東郷平八郎自身が実際に使用していたもので、その価格は当時の一般庶民の年収を上回るものであったというから、相当高価は代物だ。このレンズの向こうには、バルチック艦隊の艦影が映し出されていたのだろう。

 戦艦三笠の詳細については、日露戦争関連の各サイトで詳しく述べられているの、今回の記事では省略させてもらった。
 日露戦争に興味のある方は、ぜひこの三笠公園に足を運ばれることをオススメする。

 参考サイト:『Z旗』さま

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2009/11/17

魏志倭人伝に記された建物跡

 纒向遺跡が、邪馬台国の女王卑弥呼の所在した地域だと確定するのは早計であると私はこの記事に記した。しかし、各種メディアの報道は纒向=邪馬台国という論調になりつつある。特に産経新聞などは見出しに『「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し』とまで銘打って記事を書いている。しかし、ここでその類の話を批判しても議論にならず虚しいだけのでやめておきたい。
 なので今回は、先日来報道されている纒向での発掘調査に関する新聞記事を紹介して終わりたい。紹介した新聞記事をご覧の方々が、本当に女王卑弥呼が纒向に存在したと思われかが気になるところだ。

 
 「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡

 邪馬台国畿内説の“本命”である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡の発見は、江戸時代中期の儒学者、新井白石が大和説を提唱して以来続く邪馬台国論争にほのかなゴールをかいま見せる成果となった。魏志倭人伝の解釈や発掘調査、科学力を駆使した研究の積み重ねによって、古代史最大の謎が解き明かされつつある。

 「だんだん決着に近づいてきた」。畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は強調する。

 邪馬台国論争の歴史は古く、新井白石が大和説ののちに九州説を提唱し、国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)も九州説を打ち出すなど本格化。現在は、考古学的なアプローチが中心だ。

 纒向遺跡ではこの20年間、桜井市教委を中心に箸墓古墳(全長280メートル)など最古級の前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった。

 所在地論争の最大の決め手は卑弥呼が中国・魏から授かった金印の出土とされるが、丹念な調査が邪馬台国の実像をあぶり出しつつある。白石館長は「長年の研究の蓄積によって『九州説は無理だろう』という考古学研究者が大半を占めるようになった」と指摘し、「全容解明へ文化庁や県が調査に乗り出すなど態勢づくりが必要だ」と話した。

11月11日 産経新聞

 奈良・纒向遺跡 卑弥呼の祭祀空間か 3世紀最大級建物跡

 巨大な宮殿にこもり、卑弥呼(ひみこ)は一人、神の声を聞いたのか--邪馬台国論争の舞台、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で見つかった3世紀最大級の大型建物。一帯が王権の中枢部で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性が出てきた。古代史最大の謎とされる邪馬台国と卑弥呼の姿が、発掘の成果から浮かび上がってきた。

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、女王・卑弥呼が戦乱の倭国を治めるため、「鬼道(きどう)を行い、人々をひきつけた」とある。鬼道は、祖霊や神の言葉を聞く祭祀(さいし)と考えられている。卑弥呼は人々に姿を見せず、兵士や柵で厳重に守られた宮室(宮殿)などで祭祀を行い、政治を補佐する男弟(だんてい)に命令を伝えたとされる。

 辰巳和弘・同志社大学教授(古代学)は「大型建物は、政事あるいは祭事の『マツリゴト』が行われた場所」と指摘。西側には、祭祀に使う水をくんだとみられる「辻土坑(つじどこう)」という遺構があるほか、近くに纒向石塚古墳などの前方後円墳があることに注目。「『葬』『祭』『政』と当時重要な3要素がそろった。邪馬台国を認識させる大きな根拠だ」とみる。

 また、中国から北極星を信仰する考えが入った飛鳥時代や奈良時代には、建物を南北を軸として配置するようになるが、纒向は東西を軸にした配置。千田稔・奈良県立図書情報館長(歴史地理学)は「当時の人々が太陽の動きを重視し、最も重要な施設の配置に表現した」と話す。さらに、「卑弥呼」は「日の御子(みこ)」という意味だったとみられることに注目。「太陽の動きを取り入れた纒向は、卑弥呼の宮殿と考えるにふさわしい。そこで中国から贈られた鏡を使って儀式をしていたのだろう」と考える。
 
 ◇九州説研究者 大和説に慎重
 纒向遺跡の今回の成果について、邪馬台国九州説を主張してきた研究者らは、一定の評価をしながらも影響はないとみており、所在地を巡る論争が終息することはなさそうだ。

 発表に先立つ今月1日、吉野ケ里遺跡で、特別記念フォーラム「なぜ邪馬台国は九州か」が開かれた。高島忠平・佐賀女子短期大学長や作家の中山千夏さんら6人のゲストは全員が九州説。「纒向は発掘途上で、ぼんやりと見えてきたかという程度」「魏志倭人伝の記述では九州しかありえない」などの意見が出され、集まった約300人から何度も大きな拍手が起きた。

 高島さんは、建物が同一直線上で南北対称となるよう配置されていることについて「大きな発見だ」と評価する。しかし、「全体的な発掘調査が行われていない。大型建物の性格は、(未発掘の)他の遺構と比較して考えるべきで、今の段階では判断できない。大和説は決定的になっていない」と慎重だ。

 また、吉野ケ里遺跡を有力候補地と考える七田忠昭・佐賀県教委参事は「邪馬台国や卑弥呼の議論は、すべて魏志倭人伝の記述から始まっており、それらを発掘成果と照らし合わせることが大切」と強調。魏志倭人伝では、卑弥呼の宮殿を「宮室・楼閣・城柵」としているが、七田さんは「この『3点セット』は、吉野ケ里の北内郭にそろっている。今回の発掘成果をもってしても、纒向にこれらがそろったわけではない」としている。
11月10日 毎日新聞


NHKニュース 11月10日

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2009/11/16

小説『世に棲む日日(一)~(二)』

 狂。
 平和な世の中に生きる私たちがこの一字を目にするとき、恐ろしい、もしくは不快なイメージでとらえるだろう。常軌を逸した何かがその一字には秘められている。
 しかし、動乱の時代においては、狂という気運が時代を一変させる力となることを私たちは歴史の中で無意識に知っている。それは平将門の戦乱しかり、織田信長の天下布武しかりだ。そして何と言っても極めつけは幕末の尊皇攘夷という思想ではないだろうか。
 司馬遼太郎は、小説『世に棲む日日』において、この狂に目覚め狂に殉じた人物を描いている。
 吉田松陰と高杉晋作、彼らは『狂』という情念を加熱させて明治維新への原動力に変化させた。この二人の生きざまを描いたのが『世に棲む日日』である。

 司馬さんは、思想というものと吉田松陰の関係について作品の中でこのように述べている。

 思想とは本来、人間が考えだした最大の虚構ー大うそーであろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはじき出すように日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を理論化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。これをほどの思想家は、日本歴史の中で二人といない。

 江戸時代末期、吉田松陰が唱える尊王や国家論は狂気そのものであった。江戸幕藩体制が250年近く続き、松陰の思想がこの国の既成概念から逸脱したものにとらえられた。
 しかしその狂気の思想がペリー来航以降、厳然たる国家観としてとらえられ、それが尊皇攘夷という倒幕運動のエネルギーにまで醸成されてゆく。そして高杉晋作が、松陰の虚構を体現してゆく実践者となる。

 『世に棲む日日』の1巻と2巻では、吉田松陰の思想家への道程と、さらには高杉晋作がその思想の実践者になる前の葛藤を描いている。平和な時代に生まれていたら狂人と呼ばれさげすまれていたであろう松陰と、同じく上士高杉家の御曹司として藩の良吏として一生を終えたはずの晋作。2人の人物像を、幕末の時代背景とさらには彼らの交友関係を織り交ぜながら見事に描き出している。

 3巻以降は、晋作が長州藩における尊皇攘夷の牽引者としての活躍を描いているのだが、それについては読了してからあらためて記事にしたい。
 その時に、尊皇攘夷という狂気の思想が、維新への原動力と醸成されてゆく過程を、この作品(司馬史観)を通じて考えてみたいと思う。

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2009/10/21

保守からみた司馬史観

 司馬史観。
 司馬遼太郎さんの歴史考察はこう呼ばれている。私自身もこのブログで再三司馬史観を記事にしている訳だが、最近この司馬史観に関して保守系知識人から異論が出ているようだ。
 その話の前に少々私が司馬史観をどう思っているのかを述べさせてはしい。
 司馬史観は歴史学ではなく、あくまでも司馬遼太郎という一個人の思想であり、実際には司馬『私』観と呼ぶ方が正しいであろう。
 しかし、司馬遼太郎さんが国民作家としての地位を築いたがゆえに司馬史観が歴史学上の事実のような捉え方をする向きがある。
 私は、司馬史観を人生の教科書と捉えて読み、そして学んでいる。要は歴史を通じた道徳の教本として司馬作品を読んでいるのだ。
 その中にも私が司馬史観に異論を唱えたいものもある。例えば乃木希典愚将論や、勝海舟を開明的幕臣と捉える考えなどだ。
 乃木希典は確かに旅順攻略に苦戦した。さらには白襷隊という愚行としかいいようのない部隊を編成して無駄な肉弾戦を実施した。
 反面、乃木の統帥力に目を向けると、彼の司令の下に無垢なまでに従順であった部下が、乃木を信じて旅順で戦ったし、旅順艦隊を攻撃するために、正面攻撃と併用して港に砲撃を仕掛けている。
 私は、乃木が下地を作っていたからこそ、児玉源太郎の作戦が203高地を陥落させることに成功したと思う。司馬さんのいうような愚将であるとは思わない。
 勝海舟のことだが、司馬さんは彼を非常に高く評価している。果たしてそうだろうか。
 勝は幕府の海軍力の強化や、江戸城無血開城には尽力した。しかしそれだけで終わってしまい、西郷隆盛のような時勢を操るほどの力量は持ち合わせていない。私から言わせれば勝海舟ごときは単なるネゴシ好きなオッサンだろう。

 話を本題に移したい。
 保守系知識人が司馬史観を問題にしているのは『明るい明治』と『暗黒の昭和』という描き方についてだ。
 司馬史観を歴史学として捉えた場合、それは確かに極端な対比であり、保守系知識人の方々にとっては面白くない。しかし、くどいようだが、司馬史観は司馬私観であり、歴史学ではなく小説である。そこを保守系知識人の方には考慮してもらいたい。
 また、司馬さん自身がいわれているように、司馬さんは戦前の事象の否定のために18歳の自身に向けて小説を書いている。それを考えた場合、必然的に明治の肯定と昭和の否定で結ばれるは仕方ないことだろう。

 最後になるが、保守系知識人の方が司馬遼太郎は攘夷を無謀な思想と断じていると語られているが、それには異論を述べたい。司馬さんは攘夷を変革のエネルギーとして描いている。それは小説『花神』を読んで頂ければわかるはずだ。

 と司馬史観について述べさせてもらったが、これだけ司馬遼太郎という人物が死後13年を経ているにもかかわらず、多大な影響力を持っていることに、私は驚きを感じた次第でる。
 まだ司馬さんの小説を読まれてない方には、ぜひ一読されることをおすすめしたい。

 チャンネル桜 富岡幸一郎氏の「司馬史観に異議あり」動画。
 保守系知識人からみた司馬史観として大変参考になる動画である。

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2009/10/14

吉田松陰という人

 私が公僕であった時代の同僚が、このブログを読んで『ジャジーさ、疲れてるみたいだな。』とありがたいような、迷惑なようなメールを送ってきた。
 この同僚、実は職場で優秀な男であるにもかかわらず、その稀有な性格からか公僕らしからぬ言動が多い。おそらくは余程の天才か、余程の変人か、どちらかなのだろう。
 この同僚と同じような性質の人物が幕末の日本に存在した。吉田松陰である。
 私は現在、司馬遼太郎さんの¨世に棲む日々¨を読んでいる途中なのだが、この作品(1巻)の主人公が吉田松陰だ。
 作中の松陰は、平素君子人であるのだが、ある事象を目のあたりにすると行動が飛躍する。飛躍するというか彼が育った環境を鑑みれば辻褄(つじつま)が合う。
彼の師は玉木文之進、司馬さんの幾つかの作品に登場する長州の教育者である。
 文之進の教育は
『私より公をまず考えて行動しろ。』
というものである。また多分に陽明学の影響が強いので、言行一致を旨としているのであろう。その教育姿勢は、吉田松陰や乃木希典に受け継がれ、日本人的精神の基礎となった、と言えば大袈裟かもしれないが、今に至っても彼の思想や倫理観を美的なものと捉える人は多いはずだ。
 そんな訳で世に棲む日々を読んで、吉田松陰という人に迫ろうとしているジャジーです。
 内容はいずれまた記事をアップしたい。

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2009/10/07

小説『豊臣家の人々』つづき

 PCでの入力は目が疲れるので、携帯からの投稿にした。
 では前回からのつづきで、話題は淀君(茶々)から。

 ¨秀吉の夢¨であり¨砂上の楼閣¨でもあった豊臣政権だが、関ヶ原の戦いにより瓦解、徳川家康に政権運営を掠奪されてしまう。
 時勢の流れに敏感である戦国の猛者どもは、家康に対して従属してゆくが、なぜだか淀君は時勢を理解していない。関ヶ原の戦いを単なる派閥抗争と考えていた節すらある。
 そこには淀君の生い立ちが関係しているのであろう。
 豊臣家の人々に描かれている他の人物は、自身が卑賤の出自であることを認識し、その事実と新興貴族豊臣家のメンバーとして振る舞わなければならない葛藤が人生の足枷のようになっていた。しかし淀君は違う。生まれながらの武家貴族であり、ゆえに彼女にはパワーバランスがない。彼女にはきらびやかな世界で自身をどう魅せるかが生への執着であったのだ。
 司馬さんはこの作品でそこまでは触れていないが、淀君の未練がましい最期を描いた時点で、それを暗に表現していたことは間違いないはずだ。もし、淀君が豊臣秀吉の側女ではなく、羽柴秀吉時代からの連れ合いであったならば、大阪の陣という愚行に及ばなかったであろう。いや、関ヶ原前夜に尾張派と近江派を和解せしめて、家康による尾張派懐柔策を打ち砕いていたかもしれない。
 司馬さんの描く淀君は、武家貴族としての気位が高く、神輿に乗りやすく、その割にはパワーバランスを理解できない愚鈍な人物であった。それは元々淀君に対して歴史的評価をしない私にとってはある意味痛快な話であったし、淀君の性格も司馬さんが描くようなものであったと想像してしまう。先入観と思い込みとはこんなものである。

 この豊臣家の人々中で司馬さんは多くの場でお話されている¨自己認識¨について歴史小説家らしい描写をされていた。現代に生きる日本人は、どうも生き方が抽象的であり、自己の肥大化もしくは自己卑下し過ぎでいるような気がする。もっとよく自己認識し、今の自身に何ができるのかを考えれば現代社会に窒息しなくて済むのではないだろうか。
 歴史を知ることで、今の生き方を知る。豊臣家の人々を読み終えての私の感想である。

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小説『豊臣家の人々』

 今回の記事も私の話から始めてしまうが、最近電車での通勤が多く、その上乗車時間が長い。さらに慣れない土地での仕事は非常にストレスも溜まりやすく、帰宅時にはグッタリしている状況だ。
 そんな中、前回の記事でも話したように、せめて通勤・帰宅時に楽しみでもあればと思い、司馬さんの作品を読むことにした。それがタイトルの『豊臣家の人々』である。
 豊臣家の人々は転職前に読み続けていたものを、再び読みだしたもので、読み進めてゆくうちに2ヶ月前に読んでいた内容が思い出されてゆき、さらには私が”豊臣家の人々”を俯瞰しているような感覚になるほど熟読したので、わずか3日の日数だけで読み終えてしまった。読書のスピードが遅い私にとって、約300ページ近くを通勤・帰宅・就寝前の3日で読み終えるということは、その内容がそれだけ魅力的なものだということが言える。
 何だか司馬さんの作品のように回りくどい始まりになってしまったが、そろそろ本題に移りたい。

 『露と落ち露と消えぬるわが身かな浪花のことは夢のまた夢』

 豊臣秀吉の有名な辞世の句である。最後の”浪花のことは夢のまた夢”という部分を読むと、秀吉自身が本能寺の変以降そのものを”夢”と認識していたことが理解できる。司馬さんはこの”夢”の主宰者秀吉を取り巻く人物を、この作品で見事な人間描写を駆使して描いている。さらに言えば、彼らの栄華の部分ではなく、陰鬱な部分を濃厚に描いている。それこそが、秀吉の”夢”に翻弄された”豊臣家の人々”であり、司馬さんが読み手に伝えたかった部分ではないだろうか。(少なくとも私はそう感じ取った。)
 そんな中で、秀吉の正妻寧々と異母弟の秀長に関しては、自己を認識した有能な人物として描き、逆に異母妹の旭に関しては新興貴族”豊臣家”の被害者として描いている。
 豊臣政権尾張派の母堂として君臨し、時勢の流れを巧みに読み取る寧々、その寧々が事実上の主宰である尾張派と、茶々を担いで政権実務を握っている近江派の調整役を任されている秀長の憂鬱、さらには秀吉の権謀の道具として不幸な人生を歩む旭、作品の中で独特の司馬史観が彼らに息吹を与えている。見事だ。

 とここまで記してたが、何だか疲れてしまったので、続きは気が向いたら更新したい。ご容赦のほどを。

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2009/09/18

仕事帰りの電車で読んだ本

 私の話だが先月の下旬に転職し、営業の仕事を就いた。営業といってもメーカーにおいて小売店さまへ売り込みをするルート営業であり、保険屋さんのような個別訪問の営業ではない。ただ、移動が多く、起床時間が不規則になるため、今まで夜更けまで仕事し、翌朝8時前後に目覚めていた私にはかなりこたえる。疲労も蓄積しているのか、眼底出血までおこしている状態だ。
 あまり仕事の愚痴を長々といっても仕方ないので、この辺でやめておくが、要は私がいいたいのは仕事が忙しいので日本史に触れる機会がほとんどなくなってしまったことだ。
 梅雨の時期までは、頻繁にブログを更新したり、司馬さんの作品を紹介したりと日本史に触れる機会が多かった。しかし、転職前後からこのブログも更新しなくなり、歴史の”れ”の字も頭をよぎらなくなった。
 ストレスが溜まっていて日々考えることは仕事のことばかり。これではいけないと思ったので、今夜は帰りの電車の中で久しぶりに司馬さんの著作を熟読することにした。その作品は『豊臣家の人々』だ。
 『豊臣家の人々』は秀吉が一代で築き上げた豊臣家の中で生きた人物を、独特の司馬史観により描いている名作である。今夜は秀吉の妻おね(高台院)の章と、弟小一郎(秀長)の章を前半部分だけ読んできた。
 司馬さんの描く豊臣家の人々は作品の中で確実に生きている。茶々や石田三成などの近江派を疎ましく思うおねや、私怨で三成ら近江派を打倒したい加藤清正など、その時代々々での人間関係やしがらみ、そして新興貴族の豊臣家に翻弄される秀吉の近親者たち。この作品はこれらの人物の性格的描写を見事に描き出しているのだ。
 この記事では作品の内容を詳しく記さないが、司馬さんが新興貴族の豊臣家をどう考察し、その一族の”家”に翻弄される人々の姿をご覧になりたい方には、この作品はオススメの一冊でる。多くの人にぜひ読んでもらいたい。
 最後も私の話になるが、仕事が終わって疲労困憊していた状態でも、司馬さんの作品を読み始めたら疲れそっちのけで熟読してしまった。私のストレス解消法は日本史、特に司馬さんの小説を読むことなのかもしれない。

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2009/08/15

日本版ボートマッチ

 以前、このブログに多くのコメントを寄せて下さった”ASTRO-KT”さんから教えて頂いたツール”日本版ボートマッチ”をご紹介したい。
 現在、読売新聞のインターネットサイトYOMIURI ONLINEでは、有権者の投票行動の基準となる”総選挙2009 日本版ボートマッチ”を提供している。ボートマッチは、30問近い設問に答え、その回答がどの政党と近いのかを判定するものである。私も投票行動の指針とするために先ほどやってみた。
 最も政策が一致した政党は”国民新党”で一致が18、不一致が14という結果であった。ちなみに、最も政策が一致しない政党は”公明党”で、一致が8、不一致が24である。

 私が国民新党との一致が多いのは、必然的な結果かもしれない。4年前の郵政解散では小泉劇場を批判して、郵政民営化反対の候補者を支持したのだから。詳しくはこちら
 郵政公社を民営化することは仕方ないにしても、急激な民営化は利用者の困惑を生むだけだと私は考えていた。しかも、郵貯や簡保の残高が、市場原理主義者や外資系金融機関に流れることも危惧していた。そうした考えから早急な郵政民営化には反対したのである。
 公明党と不一致が多いというのも当然の結果であろう。私はこの国が好きだし、坂の上の雲を目指して必死に走った近代日本人に尊敬の念を抱いている。公明党は支持母体の創価学会が、戦前の日本の覇権主義を全面否定している訳で、歴史認識が私とまったく違う。(日本は帝国主義的な道を歩まなければ、19世紀以降生きてゆけなかったし、ロシアの南下運動に侵食されていたと私自身は考えている。)
 政策も、都合の良い部分だけ自民党に容喙する程度の政党を、支持する気にはなれない。

 現在の日本の政治は”二大政党制”の様相を呈しており、マイノリティーの意見が軽んじられてしまう傾向にある。私の考え方は、真の民主主義とはマイノリティーの意見も汲み上げることができるシステムであると思う。小選挙区比例代表並立制の導入により、その傾向が顕著になってしまった。
 二大政党制は、政権交代が可能なシステムとして評価はできる。しかし前述したように、マイノリティーの意見を封殺してしまう弊害もあるのだ。

 政治について駄文を長々とつづってきたが、このページをご覧の皆様も、インターネットの掲示板などに煽動されることなく、自身の意思で一票を投じてほしい。私も8/30は意思を示しに行く予定だ。

 賢明な有権者の皆さん、選挙に行きましょう。

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