2012/04/15

大山(阿夫利山)登山

先月中旬、大山に登ってきました。
大山は別名阿夫利山(あふりやま)といい、かつては雨乞に霊験のある山として信仰を集めたことからこの名(あめふりやま)で呼ばれていたようです。江戸時代には観光を兼ねた”大山詣で”が人気を博したことは多くの人が知るところでしょう。ちなみに開山は天平勝宝4年(752年)といいますから、今から約1200年も前になります。
大山をご覧になった方はお分かりかと思いますが、山の形がほぼ正三角形です。ゆえに漁師たちにとっては漁場や航路の目印になったと伝えられています。そうした事実からも、庶民から営みのシンボルとして信仰を集めたのかもしれません。
さて登山に話を移しますが、私が登った日は雲一つない快晴で、登山道からは江ノ島や富士山を綺麗に眺めることができました。
Photo_2

伊勢原市側から登ると、途中富士山を眺めることはできないのですが、私が登ったヤビツ峠からの登山道であれば、左手に富士山を眺めながら登ることが可能です。
ヤビツ峠から登り始めると結構急峻なので、健脚でない方にはキツイと思われます。また、私が登った日は登山道にまだ雪が残っていたので、雪解けでぬかるんだ道に足を滑らす危険がありました。この時期の大山登山は足元に気を付けなければなりません。
ヤビツ峠から山頂まで約1時間で踏破できました。素人の私が1時間なのですから、登山に慣れている方であればもっと早くに登頂できるはずです。
この日は山頂から眺める関東平野は実に見事であり、近くは江ノ島や横浜などが一望でき、遠くは横田基地や西武ドームまで望むことができました。現在4月の中旬ですが、今の時期でも十分に景色を楽しむことができるでしょう。気候もだいぶ温かくなりましたし、山登りしようかと考えている方には大山登山はオススメです。

参考
江東区深川江戸資料館 資料館ノート第83号


大きな地図で見る

2012/04/07

ブログ日本史探求を聴く

7年前の3月に始めたこの日本史探求だが、最近では滅多に更新をせず開店休業状態にしてしまっている。
7年に比べ今ではWikipediaが普及し、日本史について調べたいことがあれば容易に検索することが可能となった。ゆえにこのブログを使って日本史の情報発信するモチベーションが私的には下がってしまった。
またトラックバック機能もTwitterが普及したことでなりを潜めてしまった感がある。このブログを開設して間もない頃はニフティでも『トラックバック野郎』なる企画をおこない、トラックバック普及に力を注いでいたようだが、それも今は昔・・・。
ノスタルジーに浸るのはこのあたりでやめにして、ところで最近ネット上で面白いフリーソフトをダウンロードできるようになった。その名は『棒読みちゃん』。この棒読みちゃんを起動して、色々な文章を入力またはペーストするとその文章を棒読みしてくれるのだ。実に面白いソフトである。
ところでこの日本史探求だが、私が7年間頑張ったから記事の数も多く、またその記事一つ一つの文章が長くて読んでいても面倒になる。自分で作成した記事なのに面倒になるとは極めて無責任な話だが、事実だから仕方ない。
そこで棒読みちゃんにこのブログで作成した記事をコピペすると、読むのが面倒な小難しい文章を無機質に読み上げてくれるのだ。
その棒読みちゃんを使って、今日はいくつかの記事を読み上げてもらった。読み上げられる私の記事を聴き、私は何と素晴らしい記事を作成していたのであろうと自分で自分をリスペクトしてしまった。邪馬台国の記事は畿内説を取る理由をしっかりと表現しているし、司馬さんの名作『翔ぶが如く』のストーリーも丁寧にまとめてある。今から4〜5年ぐらい前の自分はこんなにも良い記事を書いていたのかと感動してしまった。
今ではまったくと言ってよいほど更新していない日本史探求だが、棒読みちゃんのおかげで更新だけではない楽しみ方(自己満足)を覚えた気がする。

しかし、開設7年の老舗ブログなのだから、たまには歴史のニュースについての雑感だけでも記事にしてアップしてゆきたいと思う。自分自身で『いい記事書いてるねぇ』と悦に入るためにもね。

そんな訳でブログ日本史探求はこれからも続けていきます。

2011/12/31

平成23年 大晦日

今年、東北・関東大震災で被災された方に対してあらためてお見舞い申し上げます。

年の瀬ですね。

日本にとって苦難の一年であった2011年(平成23年)もあとわずか、ご覧頂いている皆さんはどのように過ごされていますか?

私は自宅で一年の疲れを癒しております。午後からはスーパー銭湯にでも行こうかと。

短い記事でしたが、それでは皆さまよいお年を。

2011/02/12

今まで読んだ司馬遼太郎作品

 司馬さんの小説をはじめて読んだのはそう遠い昔の話ではない。3年前、夏の終わりに「最後の将軍」を読んだのが最初であった。
 最後の将軍はタイトルどおり徳川慶喜を描いた作品で、司馬さんの作品にしてはめずらしく一冊でおさまっている作品である。エッセイ「街道をゆく」の中で司馬さんは「最後の将軍は私が若いころに書いた作品で云々。」と述べているので、この作品は初期の頃の作品であろう(とはいっても「龍馬がゆく」よりは後の作品であるようだ。)。
 4~5年前までは歴史小説をさげすみ、学術的な新書系の本を馬鹿の一つ覚えのように読んでいた私は、司馬さんの作品にふれて大きなインパクトを受けた。目から鱗とでもいうのだろうか。新書系の書籍では偉人の功績を「何某は、どういうことをこのような時期にした。」というような文字の断片でしか表記していないのだが(学者が記すのだから当然と言えば当然である。)、司馬さんの作品に登場する歴史上の人物は作品の中で一個の人格を持ち、生きいきとしている。歴史上の人物が人格をもって描かれているのだ。私の歴史小説に対する偏見は司馬さんによって解氷された。
 とはいっても、やはり歴史小説である。史実という部分では装飾がなされ、小説をあたかも史実であるような受け取り方は危険である。司馬さんを心酔する人たちは「司馬史観」というものを持っている。そして私も司馬史観を支持する一人である。しかし、その司馬史観を絶対的な歴史観としてとらえてしまうと、大局的な視野で歴史がみれなくなる。であるから、史観そのものは個々が持っていてもよいが、その史観を盾にして対局的にある史観を論破しようという考え方はやめた方がいいし、私はしないようにしている。それをしてしまうと史実が見えてこないからだ。史実は多くの論証が複合的に重なり形成されると私は信じている。

 話が司馬さんの小説から逸れてしまったが、最後の将軍は私がはじめて読んだ作品であることは先にも述べた。弁舌において比類なき才を持つ慶喜を見事に描いた作品である。しかし、自身の理論にこだわりすぎるあまり、最後は賊になることをおそれ(水戸学の影響か)謹慎してしまう。徳川慶喜を性格的な部分で焦点をあて、それを見事に描写したのがこの作品といえるだろう。
 最後の将軍の次は、長編小説「翔ぶが如く」を読破し、そして「坂の上の雲」、さらには「菜の花の沖」と司馬作品でも長編のものを読破していった。
 以下、読んだ作品を読んだ順番に記してみたい。()内は主人公

・最後の将軍(徳川慶喜)
・翔ぶが如く(西郷隆盛・大久保利通)
・坂の上の雲(秋山真之・秋山好古・正岡子規・明治国家)
・菜の花の沖(高田屋嘉兵衛)
・花神(大村益次郎)
・殉死(乃木希典)
・覇王の家(徳川家康)
・豊臣家の人々(秀吉の親族や養子たちの短編小説集)
・世に棲む日日 第3巻まで(吉田松陰・高杉晋作)
・幕末(幕末に生きた暗殺者たちの短編小説集)
・酔って候(山内容堂 他3作品の短編小説集)
・竜馬がゆく 第7巻のみ(坂本龍馬)
・歳月 上巻途中(江藤新平)

 こんなところだな。幕末ものが圧倒的に多いのが私の嗜好なのかもしれない。有名な作品「関ヶ原」や「播磨灘物語」は読んではいない。

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2011/02/11

司馬遼太郎 肥前の妖怪

 今、司馬遼太郎の作品「歳月」を読んでいる。この作品は明治初期の司法卿江藤新平の人生を描いた作品だ。ところで江藤の出身藩である佐賀藩だが、幕末期においても尚、藩士に志士活動を許さず、葉隠という保守的な武士道を強要し、時勢を傍観していた。それが原因で維新回天に乗り遅れ、薩摩と長州に維新の主導権を握られてしまう。そのことを口惜しく思う江藤は焦るが、知恵をしぼり肥前佐賀藩の枠を越え自らの裁量で動ける状況をどうにかこうにかつくりつつある。というところまで歳月を読み進めている。
 ”幕末期においても尚、藩士に志士活動を許さず、葉隠という保守的な武士道を強要し、時勢を傍観していた。”
と記したが、これには訳がある。幕末期、佐賀藩の隠居鍋島閑叟が葉隠以外にもこんな思想をもっていたからだ。
 「勤王亡国、佐幕亡国」
 尊王攘夷思想は非現実的であり、国を滅ぼす。また幕府という老朽化した政治機構が続けば帝国主義により侵略をうけ、日本全土が欧米列強の掠奪に遭うのは確実である。だから勤王も佐幕も亡国なのだ。
 と司馬さんは小説「肥前の妖怪」で鍋島閑叟に言わせている。史実において閑叟がそういったたぐいのことを言ったのかは分からないが、事実、佐賀藩が幕末期にとった行動をみるとそういう閑叟の思想によって動いていたとしか考えられない。さらに閑叟はあまりにも天才すぎた。長州の藩主親子のように「そうせい」と言って志士たちを活発に働かせるような軽挙はせず、というよりも、自身の才があまりにも長けているがゆえに志士など肥前にはいらず、自身の思惑によって動けばいいと考えていたのだろう。
 佐賀藩の背骨ともいえる葉隠をこの小説の中で閑叟は世にあわずと批判している。なぜなら葉隠の侍は武士でなく亡霊であるというのだ。要は200年近く前の装備で戦えるのか?それでも武士と呼べるのか?と痛烈に批判しているのだ。であるから近代兵器と近代兵制により戦える武士を育てようと試みた訳である。
 佐賀藩は保守的な土壌であるにもかかわらず、閑叟という天才が独裁者であったことで、装備、兵制、人材は維新回天の時期に最強を誇っていた。最強であるからこそ日和見であったにもかかわらず薩長土”肥”に加わることができたのであろう。
 明治期、肥前出身の英傑たちは薩摩・長州の志士あがりの策謀により淘汰されてしまう。志士活動歴が少ない彼らの不幸であろう。この不幸は天才でありながら、残念なことに武家貴族であった閑叟の日和見によって生じた被害であり、閑叟が戦国気質の大名であったならば佐賀藩士たちは維新回天の主役になれたのかもしれない。
 最後に、思い出したこと。かなり前に私が江藤について記事をアップしているので、よかったら読んで下さい。

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2011/01/25

今は昔

 このブログ”日本史探求”をはじめてもうすぐ6年が経つ。今や昔だ。
 私は日本史好き、というより日本史だけが理解できる学問であって、それ以外のことになると甚だ凡庸である。何を勉強しても身が入らず中途半端で終わってしまう。でも日本史は違う。本能的に興味を持っている学問なのか日本史の話や文章を目にするとワクワクする。
 今や昔と言えば、歴史能力検定の日本史2級に合格したのも6年前の話だ。この時は本当にうれしかった。今まで運転免許証以外の資格はほとんど保有したことがなかったのに、2級の、しかも日本史の2級を取得したのだ。

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 あの時、私は検定に引き続いて日本史の学問を本格的に探求すべきであった。しかし意志の弱い性格なのか実務に活かせないなどと思い、興味のない学問をはじめてしまい今に至る。おかげで今は虚しい気持ちで一杯だ。勉強を続けていればよかった・・・。

 相沢忠洋という人がいた。岩宿の発見で有名な方である。夜学の小学校が最終学歴である彼は、行商をしながら遺跡の発掘を続け、ついに岩宿の発見をする。
「考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。目的の手段として行商をしている」
 彼はそういって志を捨てなかった。この言葉はまさに言霊であるが、実際の
生活は苦しかったであろう。でも好きな学問に全身全霊を傾けた彼を天は見捨てなかったのだ。志のある者の頭上には眩いばかりの運気が輝いている。相沢忠洋の生きざまは私にそれを教えてくれているようだ。

 相沢氏のように、私も志をもって生きてみたい。彼と私を比べるのは大変におこがましいことかもしれないが、運命が許してくれるのならば歴史を学び、その知識を活かし、幾つかの発見をしてみたい。
 三十路も半ばを過ぎた私だが、今はこのようなことを思って日々を生きている。今や昔、されど昔は今につながっている、そう信じたい。

 参考HP 相澤忠洋記念館

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2010/11/27

¨華¨について

 司馬遼太郎さんの書籍を読んでいて気づいたことがある。中華の¨華¨が彼ら曰わく唯一の文明という意味であり、その¨華¨の外にある日本や西欧などは蛮夷であるというのだ。ゆえに”華”と称する彼らには外交という概念がない。彼らにとって外交とは朝貢であり、冊封でしかないのだ。
 14世紀末に成立した李氏朝鮮はそれを積極的に受け入れ、¨華¨の枝に徹してきた。さらに言えば、中華思想を体現することにより従属姿勢を示したと言える。
 昨今、私たち日本人は中国や北朝鮮の態度を見るにつけ憤りを感じている。確かに私たちの価値観からすれば彼らは排他的であり、利己的でもある。しかし、260年もの間国を閉じていたにもかかわらず、ひとたび維新が成ると文明開花の名のもとに西欧文明をふんだんに取り入れて世界の舞台に躍り出た私たちの価値観から彼らを理解しようとするのは非常に難しい。
 別に彼らが悪く、我々が正義だと言うのではない。大局的にみれば歩んできた歴史が違い過ぎるのだ。
 ¨華¨を唯一の文明とする彼らは儒教を国教化することで、その考え方がより固陋になってゆく。朝鮮も然り。合理主義でもある西欧文明とそれを受け入れた日本は彼らにとって蛮夷であることは先にも触れたが、その蛮夷が国際社会で正義を示そうとすれば彼らは自らの儒教思想を虚飾し、固陋なまでに正当化する。¨華¨は時代の流れが変化しようとも¨華¨でなければならないのだ。
 私たちが感情論で北朝鮮や中国をみようとすれば本質はみえてこない。まずは歴史を知り、そこから大局的に彼らをとらえようとしなければ、問題の解決は難しくなるだけだ。
 中華思想を今も標榜する中国とその枝に咲いた虚飾の華北朝鮮が目の前の現実として存在してることを私たちは認識すべきであろう。李氏朝鮮や中華帝国は日本人的価値観で判断すれば厄介な隣人であるが、先人たちは彼らと渡り合った訳で、先人の足跡を範として難題を解決してほしい。

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参考書籍 この国のかたち三 司馬遼太郎

2010/11/12

御巣鷹の尾根

 先月下旬、学生時代の友人と共に御巣鷹の尾根に登ってきた。
 ”あの”御巣鷹の尾根である。
 1985年8月12日、日本航空123便羽田発伊丹行きが30分近く迷走の末、御巣鷹の尾根に墜落した。墜落により落命した方の数は520人、大量輸送時代に起きた悲劇である。
 墜落から一夜明け、テレビのブラウン管には原形をとどめていない123便の姿が映し出されていた。当時11歳だった私だが、その姿はいまだに残像として脳裏から離れることはない。
 墜落原因は後部圧力隔壁破損による尾翼の欠損と油圧系統の切断により操縦不能に陥ったためだと言われている。

 話を登山に戻したい。
 登山に備え、前日の夜から麓の上野村に宿泊した。宿は事故当時、朝日新聞の記者たちが前線基地としたI旅館である。
 I旅館で一泊し、翌朝9時過ぎに尾根に向かった。車では御巣鷹の尾根まで残り数百メートルの地点までゆける。ただそこから先は急峻を登らなければならない。
 30代の男が二人して息を上げながら急峻を登ること30分、目の前に墓標が現れた。さらに登ると墓標の本数が増えてゆく。尾根が墓標に覆われている感じがした。悲しい光景であった。
 急峻を登りきり視界が開けると『招魂の碑』が見えてきた。ここで空の安全を祈願し手を合わせる。更に登ると高浜機長、佐々木副操縦士、福田機関士の墓石が見えてきた。操縦不能の123便をどうにか羽田に着陸させようとした3人の墓石である。
 彼らを誰が責められようか。操縦不能の機を30分も飛行させたことは神業と言っても過言ではない。
 佐々木副操縦士は享年39歳、今の私と3歳しか違わない。佐々木さんの墓石の前で手を合わせる。その時私の目には熱いものがこみあげた。佐々木さんの苦闘をこのボイスレコーダーで聞いているから、それをここで思い出してしまった・・・。
 この尾根には番人がいた。番人は私たちが何を聞きたいかを察しているかのようで、色々と教えてくれた。そして123便が飛んできた方向を指でさし、私たちに尾根に激突した123便の顛末を話してくれた。番人も事故の翌朝にここへ駆けつけたのだろうか?今となっては知る由もない。
御巣鷹の尾根

 この登山で唯一撮影したのが上の画像である。
 123便が画像の方角からこの尾根に向かってきた。その時速は260ノットというから新幹線よりもさらに早い速度である。
 260ノットで尾根に激突した直後に123便の後部だけは折れ、山腹をすべり落ちたという。
生存者の証言では激突直後に数十人の乗客が生存していた。救出作業が事故から2〜3時間後におこなれていれば生存者は4人以上であったはずだ。機体後部から発見されたある女性の遺族は、遺体が綺麗であり、おそらくは事故後数時間は生きていたと思うので救出が翌朝になったことが悔やまれてならないとコメントしている。

 御巣鷹の尾根をあとにする時、私の友人は言葉少なくなっていた。そして
『俺たち、この山に登ってよかったのかな・・・。』
と呟いた。
 ブラウン管を通じてだが、リアルタイムで事故を知る私と友人には衝撃的な登山であった。

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2010/11/03

奈良へ (石舞台古墳)

 石舞台古墳は飛鳥時代の実力者・蘇我馬子の墓所と言われている。実際に古墳を目の当たりにし、実力者の墓所という威容に満ちたものを感じた。

Photo
 上の画像が石舞台古墳。この大きな石の下に石室(空洞)が存在している。

 ちなみに、この石舞台古墳は”伝”蘇我馬子の墓所というだけで、実際には誰が埋葬されていたのかは明らかでない。もし、この古墳が馬子の墓所ではなく下級貴族のものと判明したら、私は『威容に満ちた』などと表現しただろうか?馬子の墓所という先入意識がそう思わせるのではないだろうか?
 など理屈っぽく考えてしまう。余談までに。

 石室内は真夏(その日は梅雨明け間もない酷暑であった)にもかかわらず風通しがよく、快適な室温が保たれており、そこが遺骸を安置する場所として造られたことが分かる。
 遥か1400年前もいにしえに造られた古墳だが、石室内の快適さによって当時の人々の英知を感じることができた。

Photo_2

Photo_3
 上2枚の画像は石舞台古墳石室入口と石室内部。何十トンもの石が積まれており、造る時は命がけであったと想像してしまう。

 最後に産経新聞にこの石舞台古墳について読みやすいコラムがあったので、紹介して終わりにしたい。以下産経新聞より引用。

 

◎桜の石舞台古墳 馬子が夢見た桃源郷?
 
 春の宵に桜が美しい石舞台古墳。飛鳥はいま、一年で最も華やかな季節を迎えている。

 自分の墓が観光名所になったとしたら…。複雑な気分かもしれない。どーんと無防備に存在感を示す巨石は、かつて棺を収めていた石室の上部だ。下には大空間が広がり、最も大きい天井石は推定77トンというから、墓の主の強大な権力が伺える。築造年代(7世紀前半)などからも、飛鳥時代の権力者、蘇我馬子の墓とされている。

 「発掘調査で築造のために破壊された群集墳が西側に確認されました。そんなことができる人物は限られる。さらに近年、北東の丘陵で大きな柱穴や小型の建物跡も見つかり、『日本書紀』の記述にも合う。全体からみて馬子の墓といっていい」と和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授。

 4代の天皇に仕えた大臣(おおおみ)、馬子は間違いなく大物政治家だが、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺した悪役イメージが定着している。一方で、積極的に仏教を招来した庇護(ひご)者との評価も。

 おもしろい話を聞いた。『日本書紀』に馬子は桜ならぬ「桃原墓(ももはらのはか)」に葬られたと記されている。なんと古墳近く、馬子邸があったとみられる島庄遺跡の池跡から多数の桃の種が出土した。しかも、花を観賞したケモモではなく食用の桃という。道教で桃は不老不死の果実とされ、日本でも邪気を払う力があると信じられた。「池の周辺に桃を植えたのは道教の神仙思想に基づくのでは」と和田名誉教授。

 馬子が夢見たのは桃源郷? 飛鳥には、想像をかきたてられる不思議な力が満ちている。

 産経新聞 平成22年4月4日

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2009/12/23

浮世絵の魅力

 東京国立博物館に行ってきた。
 2年前の”大徳川展”以来になるだろうか、久しぶりの上野である。

 私には『世界中の名画を観尽くしたい』という公僕時代の友人がいる。彼にオススメの作品があるかどうかわからないが、国立博物館にゆけば日本を代表する名画数点は展示されているだろうと思い、彼を伴って国立博物館に向かった。
 途中、友人が見たことがないという西郷隆盛像や彰義隊墓所を案内しながら博物館へ向かう。天気は快晴、穏やかな陽気で、公園散策に打ってつけの日である。
 国立博物館に入場し、時代別に展示されている歴史的芸術品を観て回りながら江戸時代の展示コーナーにたどり着くと、浮世絵の前に多くの人々が群がっていた。近づいてみると展示解説ボランティアの方による、無料浮世絵解説がおこなわれているではないか。ラッキー、というべきか私はその人ごみのなかに加わり解説されている学芸員の方の声に耳を傾けた。
 ・・・ところが友人がいない。どこに行ったのか?
 彼を見つけた。コーナー中央のソファーにもたれ掛かっている。後で聞いたのだが博物館へ向かう前に相当歩いたために疲れてしまったという。もったない。

 私は浮世絵というものが好きでも嫌いでもない。特に美意識という高尚な視点で浮世絵を観たことはなく、漠然と江戸時代の絵画として眺めていた。眺めていたという表現に誤謬はない。本当に眺めていただけなのだ。
 ところが、そんな私でも学芸員の方の解説を聞きながら浮世絵を観て回ると、不思議と浮世絵の情景が輝いてくる。実に面白い。 
 ある浮世絵は、描かれている人々の目線の先が違う。なぜ目線の先が違うのであろうかと考えた時、人々の背後には凧が描かれていることに気づく。そこから連想するに人々はそれぞれ高く上がった凧や、落ちかけた凧に目線を送っていることが想像できる。と学芸員の方がおっしゃっていた。
 江戸後期にオランダからもたらされた遠近法による作風も、何気に数点の浮世絵の中に観ることができる。それら作品の絵師は遠近法を意識して描いたのか、または無意識にその技を駆使したのかは私にはわからない。事実、浮世絵にその技法が用いられていることは、私の意識にはなかった浮世絵における写実性というものを感じさせてくれた。

 その他、浮世絵に関する詳細なことは専門的なサイトに任せたいが、最後にいいたいことは、どのような絵画にも見所はあるということだ。
 関心のある方は、ぜひ国立博物館に足を運んで頂きたい。


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«纏向遺跡と三輪王朝

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